6月18日(土)
喫茶店の表には「純喫茶 白馬」と書いた看板が出ていた。玄関のドアを開けると、カランカランと鐘の音がした。薄暗い店内は思っていた以上に広くて、五つのテーブル席とL字型のカウンター席があった。テーブル席は縦に並んでいて、玄関に近いほうの二つだけ硬い椅子がおいてあり、奥三つには臙脂色のソファーが並べてあった。先客は一人だけで、60台くらいのネクタイ姿のおじさんが一番奥のソファーに座ってナポリタンを食べている。亀と僕は、いちばん玄関寄りのソファー席に座ることにした。亀がソファーに座れるのかどうかちょっと心配だったが、カウンターの止まり木によじ登るのは、ソファーに座るよりも難しそうに思った。どうやってソファーに座るのだろうと黙ってみていると、
「早く上にあげろよ」と亀が言った。
「『あげろ』って、ソファーの上に君を持ち上げるという意味?」
「そんなのあたりまえだろう」
少し怒ったような声だった。仕方がないので、僕は亀の甲羅の両端を持ち上げて、ソファーの上に置いた。亀の甲羅というものは、あなたが想像するよりもおそらくずっと柔らかい。
向かい合わせで席に着くと、鐘の音を聞いた店のおばさんが、水を入れたコップとおしぼりを持って注文を取りに来た。おばさんもまた、亀に驚く様子は無かった。ただ、おばさんは僕と亀の様子をみると、テーブルに水を置いた後で店の奥に戻り、見たことも無いような長いストローを亀の前に置いた。僕はカフェオレを頼み、亀はレモンスカッシュを頼んだ。こんなに小さい体で炭酸飲料を飲んだら、全身が痺れてしまわないのだろうか。
おしぼりで手を拭いて、紙袋から長いストローをとりだした。そして、片端を亀の前に置かれた水の中に入れて、もう一方の端はテーブルの縁まで伸ばしてあげた。ストローには所々に節がついていて、形を自在に変えられるようになっていた。
亀は亀っぽい仕草でゆっくりうなずいた後で(今思えば、あれは僕に対する謝意の表れだった)、水を一口飲んだ。そして、勝手に話しを始めた。
「小学生の頃にね、家に知らない女が乗り込んできたことがあるんだ」
「日曜日の昼飯が終わったくらいの時間でね、親父は居間でテレビを見ていて、お袋は台所で洗い物をしていた。俺と妹はマンガを読んでいた。そうしたらさ、知らない女が突然家に来たんだ。何となく嫌な雰囲気だなあと思っていたら、お袋が俺と妹のところに来て『二階に上がってなさい』って言うんだ。二階でマンガを読もうにも、下の様子が気になって仕方がないからさ、妹と二人で階段の上の小さな踊り場から、下の会話に聞き耳を立てていたんだ。最初のうちは静かに話をしていたようで、何を話しているのかまったく分からなかった。でも、だんだん声が大きくなってきてね、そのうちに、女が一方的に何かをまくしたてる声が聞こえ始めた。そして、ときどき間が空くんだ。間は間だから、誰の声も聞こえない。でも、その間は、お袋が女に何かを質問しているんだろうと思った」
店のおばさんが、カフェオレとレモンスカッシュを運んできた。銀色のお盆にのっかったレモンスカッシュは、運動会のリレーで使うバトンのような円筒形のグラスに入っていた。細かい炭酸の粒が、グラスの内壁や底から液面に向かってぐらぐらと上昇していた。
亀は昔は人間だったのだろうか。
「親父さんはどうしてたの」
レモンスカッシュに、長いストローを入れながら聞いた。
「親父はおそらくずっと黙ったままだったと思う」
亀はそういってから、ストローでレモンスカッシュを一口飲んだ。亀の小さい体に炭酸が駆け巡り、体が一瞬固った。両方の目を瞑り、そして目を開けた。両方の目は潤んでいた。砂浜のアカウミガメは産卵で涙を流すが、港をうろつくミドリガメはレモンスカッシュを飲んで泣く。
「小一時間程話が続いた後で、女が帰りそうな気配になった。女を見送るためにお袋だけが玄関に出てきた。見送った後で、お袋が二階に上がってきそうだったから、俺と妹はあわてて子供部屋に戻って、マンガを読むふりをした。すぐに階段を上がる足音がして、お袋が子供部屋の襖を開けた。俺と妹は、不自然に大人しくマンガを読んでいた。お袋は特別普段と変わらない様子に見えた。お袋は部屋の中に入ってきて俺と妹の前に座った。そして、俺に向かって『お父さんと将棋指して上げなさい』と言った」
店の奥のほうから煙草のにおいが漂ってきた。おじさんがナポリタンを食べ終えたのだろう。おじさんが食べていたナポリタンは、オレンジ色のスパゲッティーの中に玉ねぎと角切りのハムがたっぷりと混じり、鮮やかな緑色の輪切りピーマンが上に散らしてあった。
「お袋に『将棋を指せ』なんて言われたのは初めてだった。俺は言われるとおりに将棋板を持って親父のところに行き、将棋に誘った。今と同じような夏が始まりそうな季節で、親父は白い半そでの肌着と、ステテコ姿だった。親父は体が小さく痩せていて、少し禿げていた。決していい男ではないが、子供の俺から見てもどこか可愛らしいところがあった。二人の間に将棋板を置いて、俺は全速力で駒を並べ始めた。親父は駒を並べるのが早くて、俺はそれまで親父より先に駒を並べ終えたことが無かった。駒を並べ終えると親父は、毎回決まって『先に並べ終えたほうが勝つと決まっているんだ』と言った。悔しいことに、実際俺は一度も親父に将棋で勝ったことが無かった。だから、俺は親父に勝つために、最大限のスピードで将棋の駒を並べ始めた。
駒をできるだけ速く並べ終えようと思ったら、相手が駒を並べるスピードを気にしていてはいけない。とにかく自分が駒を並べることに集中するのだ。俺は自分にそう言い聞かせて、王様、桂馬、香車、金、銀、飛車、角と順調に並べていった。そして、あとは歩を5、6個並べれば終わりというところで、俺は初めて親父の駒の並べ具合を見た。親父はいつもだったらとっくに並べ終えているはずなのに、今日はまだ半分も並べ終えていなかった。不思議に思って親父の様子を見ると、親父はうつむいて泣いていた。少し驚いたが、これ以上のチャンスは無いと思ったので、俺はとりあえず、残りの自分の歩を急いで置き終えた。親父はその後、気を取り直した様子で駒を並べ終え、それから俺たちは将棋を指した。どっちが勝ったかは覚えていない。覚えていないということは、おそらく俺が負けたんだろうと思う」
亀の前のレモンスカッシュはいつの間にか無くなっていた。
「仕事があるからそろそろ行かないと行けないんだ」
「仕事は何をしているんだよ」
「医者だよ。今日は病院のミーティングがあるんだ。ミーティングは鼻毛にパーマがかかるくらい長いんだ」
「面白いのか」
「仕事だからね」
「そうか。今日は俺がご馳走するよ」
そういって、亀はソファーから飛び降りた。木の床に着地すると、「ペタン」という音が店内に響いた。亀は勘定を払わずにそのまま店を出て行ってしまった。店のおばさんの方を見ると、おばさんはナポリタンのおじさんと話をしていたが、僕の視線に気づいて、こちらに向かって小さく微笑んだ。そしてまた会話に戻った。
外に出ると陽はまだ高かった。時計を見ると、午後4時を少し回ったくらいだった。亀は交差点のほうへ向かって歩いていった。僕は、地下鉄に乗って大学に戻った。電車の窓からは大阪ドームが見えて、貧乏くさく銀色に光っていた。