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2005年5月 アーカイブ

2005年5月11日

突然の訃報(たいていそうだけど)

5月3日(火)

朝起きて食パンを食べて大学へ行った。研究室には誰もいなかった。カギを開けて部屋の中に入り、ホワイトボードの「佐藤」の行に接着した赤いマグネットを「帰宅」から「在室」へ変える。

荷物を置いてから細胞培養室へ行き、CO2インキュベーターから96ウェルプレートを取り出して、ちいさなウェルの一個一個に試薬を10μℓずつ加えていると電話がぴろぴろ鳴った。電話は教授からで、前教授の母親が死んだという。

そのまま流れに飲み込まれて訃報の文面を作成し、医局員と同窓会員にメールとFAXを流した。前同窓会長○○先生のご母堂が逝去されました。ここに謹んでお悔やみを申し上げますとともにお知らせいたします。なお通夜、葬儀は下記のごとく執り行われます。
知らせを受けた人は皆、ご母堂がいままで生きていたことに驚いていた。

結局予定の実験は行えないまま、午後1時になったので空港へ向かった。空港に着くと北が待っていた。チェックインはすでに済ませてくれているので、荷物をJALのカウンターに預けてから短いエスカレーターを登り、ボディーチェックを受けた。黄金週間だというのに身体検査場の前に行列はできていない。

飛行機に乗るまで20分ほど時間がある。妊娠六ヶ月の北婦人の具合や天気の話をしながら搭乗口に向かい、売店でさばの棒ずしと生ビールを買った。僕は突然の訃報騒ぎで昼飯を食べ損ねていた。

滑走路に面した売店のカウンター席に二人で腰掛けて昼飯を食べる。奥のほうの席では若者が牛丼をすすりこみ、女の子がサンドイッチを食べながらビールを飲んでいた。僕を待っている間にラーメンを食べたという北はコーヒーを飲んでいる。よかったらひとつどうだとすすめると、北は棒ずしを一個だけ食べた。棒ずしはその名のとおり棒状になっており、ご飯とそれに密着しているしめ鯖の周りを昆布がぐるぐる取り囲んでいる。そして、その周りにはさらにサランラップが巻いてある。それなりにうまいが、食べにくいのと手が臭くなるのが難点だった。

「最近はいそがしいですか」

「最初は暇だったんだけどね。こまごまとした仕事が増えてきた。以前は小児科の骨髄標本を見るのだけが仕事だったんだ。一週間のうちに臨床検査部に提出される小児科の骨髄標本の数なんて知れてるから、標本を見る以外は、タバコを吸ってコーヒーばっかり飲んでた。でも、4月から病院の総合外来をすることになって少し忙しくなった。新しく作られた外来なんだけど、専任の医者がいるわけじゃないから、臨床検査部でやることになったんだ。うちの教授は若くて赴任したばかりで、おまけに気も弱いから面倒な仕事はすぐにおしつけられるんだ。さらに今の時期は、学生の講義や実習の相手もある」

北と僕は大学の同級生で、同じ医局で卒後研修を受けた。それぞれ大学と関連病院を行ったり来たりしていたが、二人とも大学にいた卒後4年目の春にK教授が肝臓癌で死んだ。K教授が死んだ翌年、僕は関西の大学に移ることになった。北は大学に残った。

北には肝臓に持病がある。北は病棟勤務に追われるうちに自分の肝臓が悪くなり、今から2年前に、丁度ポストが開いていた臨床検査部へ移動した。K教授も元々は北と同じ肝臓の病気を持っていた。

機内へ移動のアナウンスがあったので、棒ずしで生臭くなった手をトイレで洗った後、僕たちは那覇行きの飛行機に乗った。

2005年5月19日

宮古島な日々

5月4日

6時に目が覚めたので本を読んでいた。20分ほどで北も目を覚ました。朝はあまり強くない男だと記憶していたのだが、海に来て興奮しているのだろうか。

顔を洗ってから一階のレストランに朝食を摂りに行った。朝食はバイキング形式になっており、豊富な品数の料理がたっぷり用意されていた。朝だというのにゴーヤチャンプルーまでおいてある。蓋にシーサーの絵が描いてあるカップの納豆もある。地物かどうかは不明だったが、オレンジやパイナップル、グレープフルーツといった果物がうまかった。

部屋で一休みしてからレンタカー屋に行き、カーナビつきの三菱コルトを借りて海に向かった。パチンコ屋や消費者金融店が並ぶ町の中心部を抜けると、風景はすぐにサトウキビとたばこ畑だらけになる。20分ほど車を走らせると吉野海岸に到着した。

高台の駐車場に車を停めて500円払い、浜辺に続く急な坂道をシャトルワゴンにのって降りていく。曲がりくねった道を降りていく途中では、ところどころで砂浜と海が見える。海は海岸線のすぐ近くまで珊瑚礁が迫っており、砂浜と沖に挟まれた一体が翡翠色に光っていた。

午前中の比較的早い時間だったこともあり、砂浜にはまだそれほど多くの人は出ていなかった。空には薄い雲がかかっているが日差しはすでに強い。ビーチパラソルの下に荷物を置き、早速海に入るという北を送り出して、僕は本を読みながら荷物番をすることにした。詩人が率いる一派はようやく一仕事始めそうな様子だった。

北の海遊びは素潜り専門だった。正確にいうと潜りもしない。シュノーケルを使うのも面倒らしく、彼はただ大きな水中眼鏡を顔につけて海の中を泳ぎまわっている。この男は一生スキューバーダイビングなんてしないだろう。この男は自分が好きなことしかしない。周囲の人間がいくら薦めても、自分でやりたいと思ったことしかしない。周りの人間が、スパゲッティーにはカルボナーラもペペロンチーノも明太子スパゲッティーもあってどれもうまいから一度食べてみろといっても、北は頑なに「スパゲッティーはナポリタン」と決めている男なのだ。

30分ほど経つと海から北が戻ってきた。全身から水を滴らせながら、綺麗だから一度海に入ってこいという。断る理由もないので、北が履いていた海中スニーカー-彼は2年前に石垣島の海で正体不明の水中生物に足の裏を刺されて以来、海中スニーカーを愛用していた-を借り、同じく水中眼鏡を借りて海に入った。

海の水は思っていたよりもずっと温かかった。水を掻き分けながら5メートル程歩いて顔を沈めてみると、海底の白い砂の間に珊瑚がまばらに存在しており、その周りを魚が泳いでいる。さらに沖のほうまで泳いでいくと次第に珊瑚の塊は大きくなる。大きくなった珊瑚は、末梢の枝とでもいう部分がうねうねと動いている。その動きは動物よりも人任せだが波に揺られる海草よりは能動的である。ゆっくりと動く珊瑚の周りには濃い青色をした小さな魚が数匹の群れを作っている。

沖に行くにしたがって珊瑚の塊は大きくなる。大きな珊瑚の塊は色や形の異なる小さな珊瑚の複合体になっていて、それぞれの珊瑚がそれぞれのリズムで動いている。大きな珊瑚複合体はさまざまな律動を内在している。珊瑚複合体の間の深い溝にはクマノミやベラ、エンゼルフィッシュ、鯛に似た白くて大きな魚などがいた。

しばらく泳いでから浜辺に上がると、北は煙草を吸いながら本を読んでいた。

「きれいだっただろう」

「うん。きれいだった。来て良かったよ」

海岸には簡易トイレのほかには売店も自動販売機もなかった。僕たちは食べ物も飲み物も用意していなかったので、駐車場で買ったペットボトルのお茶と水だけで夕方まで過ごした。結局最後まであまり人は増えなかった。

ホテルまで帰る途中で、東平安名崎に立ち寄った。ここは宮古島の最東端に位置した岬で、観光名所になっている。細い道を岬の先端に向かって車を走らせると、岬の先端から500メートルくらいのところに駐車場があった。午後5時を過ぎていたのだが、50台ほどの駐車スペースの半分以上が車で埋まっていた。

車を停めて岬の先端までの道を歩くと、遊歩道の入り口に人力車の人夫姿をした男が、客寄せに三線を引きながら『島唄』とか『涙そうそう』などを歌っていた。理由はわからないが少し腹がたった。昼ごはんを食べていなかったからかもしれない。

岬の先端の灯台までの道を歩くと、道の周りには風にさらされた短い草の上に白いテッポウユリが咲いていた。北は遊歩道のすぐ脇に咲いていた、赤くて小さな花に興味を持ったようで、デジタルカメラでその花を撮っていた。

ホテルに戻り、風呂に入ってから夕食を摂った。一日外で遊んでいたためか、疲れていたので、この日はホテルのレストランでステーキを食べた。ビールの小瓶が一本700円もした。

5月3日

飛行機は満席だった。第○内科の新教授に、講師のN先生が持ち上がったこと、第○外科の教授選の行方、我々二人が所属していた医局の様子など、北から大学の近況を聞いているうちに、飛行機は那覇に到着した。外は曇り空で小雨が降っていた。飛行機の出口から建物につづく短い通路がじっとりと蒸し暑かった。

JALのターミナルから長い廊下を歩き、ANAのターミナルに向かう。廊下の二つの曲がり角には免税店があり、店の入り口には「国内線唯一の免税店です。沖縄から出発されるお客様のみお買い物ができます」という大きな看板がかかっていた。沖縄観光の振興策として、免税店の開設許可が出たのは沖縄サミットが開かれた頃だったろうか。

ANAのターミナルにはほとんど人影がなかった。接続カウンターで搭乗手続をしてから、売店でオリオン生ビールを買った。日があるうちはほとんど酒をのまない北もめずらしくビールを買った。宮古島への接続便の出発までには1時間ほどの待ち時間があった。眺めの良い場所を選んでビールを飲み始めると、すぐに北はビールを持って喫煙ルームに行った。窓ガラスの手前に設置された大きなテレビでは、どこかの民放が尼崎の列車事故の特集をやっていた。光熱費を節約しているのか、搭乗口付近の広い待合スペースは冷房の効きが悪い。久しぶりに口にしたオリオンビールは味が薄いように感じた。

連休に沖縄に行こうと言い出したのは北だった。3月の初め頃に、珍しく電話をかけてきて、北は連休に島に旅行しようと言った。毎年夏休みになると、北は病理医をしている北夫人と一緒に、南の島に旅行をしていた。石垣島、宮古島、西表島、久米島、屋久島、奄美大島など行き先は色々だった。今回は、妊娠中で一緒に旅行ができない夫人の代わりに僕を誘ったようだった。ゆっくり夏休みに行かないのかと尋ねると、夫人の出産予定が9月なので、さすがに夏休みはおとなしくしているつもりなのだと言った。

通路を挟んで両側2席ずつの小さな飛行機に乗ると、観光客に混じって、大きな目鼻、長い睫毛の沖縄特有の顔をした人たちが目に付いた。連休を利用して宮古に帰省する人たちなのだろうか。飛行機は40分ほどで宮古に着陸した。滑走路をとろとろ進む飛行機の窓から、オレンジ色の屋根瓦をのせた美しい宮古空港の建物が見えた。空には少し雲がかかっていたが雨は降っておらず、夕焼けが島全体の空気を薄い黄色に染めていた。

飛行機を降りてから伊丹で預けた荷物を受け取り、タクシーで「ホテルアトーレエメラルド」に向かった。空港を出ると周りには大きな建物はひとつもみあたらず、サトウキビを植えた畑が一面に広がっている。日はさらに落ちて、島の空気は暗い紫色に変わった。

車が走り出すと、北は外の景色に目をやりながら、よしという感じで手拍子を打った。北は久しぶりの南の島に興奮していた。北は、楽しいことが近づくと小さく手拍子を打つ癖がある。北は、学生時代と同じように、音がしないほどに小さくて両指だけをあわせるような手拍子を打った。

「運転手さん、吉野海岸と新城海岸ていうところが海がきれいで魚がたくさんいると聞いたんですが、やっぱりその辺りがいいんですかね。二つのうちどちらがいいとかあるんですか」

「まあ、この島だったらその辺が綺麗でしょうね。吉野海岸の方がすこし綺麗かな。ただ、あそこは駐車場で500円お金を取られるよ。そして、駐車場が高台にあるから、海岸まで相当な距離を歩かなくちゃいけない」

その後も北は、海のことや売店やトイレについていくつかの質問をした。競馬以外の活動にこれほど積極的な北をみるのは久しぶりだった。

「昔は島の周りどこに行っても魚がうようよいたんだけどね。釣りをしようとしても、餌なしでいくらでもつれたよ。今はもうだいぶ減ったけどね」

「やっぱり、ここは魚料理がうまいんですか」

僕は初めて運転手に質問した。

「いや、この辺はたんぱくですよ。魚はやっぱり北海道の方がうまいですよ」

「運転手さん、北海道に行ったりするんですか」

「女房が北海道の出でね、韓国の人だったけど。娘が今も3人札幌に住んでいるんですよ」

「ほう。どちらでお知り合いになったんですか」

「東京で働いているときにね、知り合ったんですよ。上の息子は那覇で働いてます。下のは千葉で学校に行ってます」

「じゃあ、今は奥さんと二人ですか」

「いえ、離婚しました」

「ほう。そうですか」

「この前、一番下の娘がここに遊びに来ましたよ」

運転手の身の上話を一通り聞いたところで車はホテルに着いた。ホテルは空港から車で10分ほどのところにあり、伊良部島との連絡船が発着する平良港の隣にあった。いつの間にか外はほぼ真っ暗になっていた。

チェックインを終えて部屋に荷物を置き、町に夕食を食べに行った。北は数年前に一度宮古に来ていたので、彼が町までの案内役を引き受けてくれた。

案内役を引き受けたはいいが、北は町までの道を覚えていなかった。「たしかこっちだったような気がする」という北の言葉を信じて、明かりの少ない宮古の道を歩いていくと、町の明かりはどんどん少なくなっていった。北は、運転免許を持っておらず、当然運転もしないので、道を覚えるのが苦手だった。

海と民家以外は何もなさそうだというところまで歩いた後で来た道を引き返し、車の流れから類推して、なんとか繁華街までたどり着いた。小さい島では迷い方もたかが知れている。

一本道の繁華街を端から端まで歩いた後、ビルの2階にある「ちゅらんみ」という店に入った。「ちゅらんみ」とはどうやら「美味」という意味らしい。

ビール、ラフテーという豚の角煮、もずく、ソーメンチャンプルーなどを頼んで食べた。泡盛も飲んだ。もずくが新鮮でうまい。

もずくというものは、外見上は新鮮かどうかまったくわからない。というよりも、「もずく」という食べ物に「鮮度」という概念があるのかさえも僕は知らなかったわけなのだが、一口食べてみると、この店のもずくは明らかに新鮮だった。そしてうまかった。沖縄はもずくが名物であるということを僕は初めて知った。

ラフテーもうまかった。やわらかい豚肉を噛むと口の中にほんのりと味噌の香りが漂うラフテー。

酒はあまり飲まなかった。北がオリオン生ビールを一杯。僕が二杯。そして、ふたりで泡盛を1合。

大酒のみだった北は、数年前からあまり酒を飲まなくなった。肝臓のことを考えていることもあるのだろうが、節制して飲まないという感じでもない。僕には北が、酒や酔うことにあまり関心を持たなくなったように見える。脱力して、少しだけつまらなそうに、北は酒と向き合っていた。北は酒に何も期待していないようだった。

2005年5月20日

「なるほど」って、いい答えだな

5月6日(金)

6時に起きて顔を洗い、北をホテルに残して空港へ。

5月5日(木)

7時過ぎに朝食を食べてからチェックアウトを済ませ、レンタカーに荷物を乗せて海へ向かった。午後5時の飛行機で宮古島を離れる予定になっていたので、3時頃まではゆっくりする時間があった。太陽には今日も薄い雲がかかっている。今日は吉野海岸の北にある新城海岸へ行った。

小さな駐車場に車を停めて30メートルも歩くと、そこにはもう砂浜が広がっている。売店でビーチパラソルの貸し出しを頼んだら、全身がかりんとうのように日焼けした背の低い男が砂浜にビーチパラソルを立ててくれた。

「男三人で来たの」

「いや、二人で来た」

「これは?」

かりんとう男はパラソルの根元に砂をかけながら小指を立てた。

「おいてきた」

北が答えた。

「天気が良くてよかったね。沖縄の天気予報は当たらないでしょう。梅雨入りするとたいてい晴れるんだ」

天気予報では、沖縄地方は2日前に入梅していた。

「今度は彼女と来てね」

かりんとうは仕事を終えて去っていった。

砂浜には僕たちを含めて3つくらいのグループしか見当たらなかった。前日と同じように、北は海に入り、僕は本を読み始めた。

反乱軍と詩人の仲間たちの戦いは、腹ふり党と猿の戦いのように悲しかった。嘘が現実になり、現実が嘘になる。現実も嘘もたくさんの命を奪っていく。

しばらくして今度は僕が海に入った。この海岸の珊瑚はあまり動いていなかった。

僕は前日と同じように砂浜で本を読み、暑くなると海に入ってきれいなベラを観察した。

「俺さあ、表現を止めようと思うんだ」

研修医の頃、仕事の帰りに寄った居酒屋で、北はセブンスターに火を付けながらそう言った。

「結局ね、俺が頭の中で想像する、興奮するほど美しい出来事とか景色とかね、そういうものをさ、形にできないんだ。どうしたって表現することができない。何度も試したんだ。でもね、実際に書いたものと、頭の中の美しいイメージの間にはどうやっても埋まらない距離がある。その距離というか乖離を目の前に突きつけられるとさ、とてつもなく腹が立ってくるんだ」

何の脈絡もない断筆宣言だった。

「絵を描いてるのか」

「いや、絵とか詩とか、形式を限っての話ではなくて、表現そのものの問題なんだ」

周りの研修医が、鎖骨下静脈穿刺の上達や抗癌剤の名前を覚えることに夢中になっているときに、北は一人でこんなことを考えていた。

気がつくと、北が書かざる筆を折ってから7年がたっている。

「表現にはまだもどらないんですか」

砂浜でひと休みしているときに、僕は北に聞いてみた。

「オリジナルのものなんて思い浮かばないよ。無理だね」

「オリジナリティーなんて関係ないでしょ」

「北、いくつになった?」

「35だ」

「おれは33だ。恥ずかしいな」

「関係ないでしょ」

北は砂浜の砂を握ったり投げたりしていた。

「高校3年の冬にさ、夜中に勉強してたんだよ。2階の自分の部屋で。そしたらね、窓に『ごん、ごん』て何かが当たる音がするんだ。なんだろうと思って窓をあけたらさ、玄関の前に親父がいた。親父が俺の部屋の窓に向かって雪球を投げてたんだ。親父は一人じゃなくて飲み屋の女と一緒だった。鍵がなくて家に入れなかったらしいんだな。外は真っ暗で、ものすごく寒くて、道路にはたくさん雪が積もっていた。仕方がないから階段をおりて、玄関を開けてやった。親父は完全によっぱらっていて、飲み屋の女と一緒に家の中に入ってきた。そして、『この女が受験勉強に励んでいるお前をどうしても激励したいっていうから連れてきた』っていうんだ。20台前半くらいの若い女でさ、すっげー迷惑そうな顔をしててさ、どう考えても親父に無理やりつれてこられたんだ。それでもその女は『勉強がんばってください』なんて言っちゃってさ。そして、その後すぐに帰った」

「やさしい親父さんだな」

「いや、優しいというよりね、親父は息子とどういう風に関わったらいいのかわからない風だったね。親父は小さい頃に父親を亡くしているんだ。だから、父と子の関係というのがいまいちよくわかっていないみたいだった」

「なるほど」

「推測だけどね」

昼過ぎまで浜辺で過ごした後、風呂とレストランがあるという近くのゴルフ場でシャワーを浴び、レストランで昼飯を食べた。北はとんかつ定食を頼み、僕は宮古そばにした。ビールも一杯飲んだ。

ひと休みしてから市街地へ戻り、レンタカーを返して空港に向かった。

夕方の飛行機に乗って那覇へ行き、さらに飛行機を乗り継いで福岡へ。

那覇-伊丹便が満席だったので、今日は福岡に泊まり、明日早朝の飛行機で大阪に戻ることになっていた。

飛行機の乗り継ぎに少し時間がかかったので、福岡に着くと夜の9時半を回っていた。本の中で反乱軍に制圧された福岡の街に入るのは、少しだけ怖い気がした。当然だが北は何とも思っていなかっただろう。

空港から姪浜行きの地下鉄に乗り、「博多東急イン」へ向かう。チェックインの後で部屋に荷物を置き、ホテルの人に教えてもらった屋台で、おでんと博多ラーメンを食べた。ビールと、焼酎のお湯割を飲んだ。

「最近、体の具合はどうなんだよ」

「比較的落ち着いてるよ。病棟で働いていた頃よりも仕事の負担も減ったしね」

「数値も落ち着いてるのか」

「うん。ウイルス消えたんだ」

北は、2年前に顆粒球除去とインターフェロン療法を組み合わせた治療を受けていて、現在はその後の経過観察中である。その治療は、一ヶ月にわたり関西の病院に入院して行われた。北はこの入院をきっかけにして、自分が大学病院で第一線の臨床医として働くことをやめた。

「そうか。それは良かったな」

「肝臓の繊維化が進んでいたから、治療効果はあまり期待できないと思っていたんだけど、幸いなことに今のところはうまくいってるんだ」

「そうか」

結局、その晩も北は生ビール一杯しか飲まなかった。

学生時代にアパートでスコッチをラッパ飲みしていた男とは思えなかったが、北は変わった。

相変わらずスパゲッティーはナポリタンしか食べないが、北は変化したのである。

部屋に戻って、シャワーを浴びて寝た。明日の飛行機は7時30分出発だ。

2005年5月26日

会議は短く

5月25日(水)

天保山の診療所で丸一日外来診療をする。普段、僕の担当は水曜日の午後だけなのだが、午前中に外来をしているI先生から交代を頼まれたのである。

外来はそれほど忙しくなかったので、患者さんを診る合間に、大学のN先生に教えてもらった戸田山和久の『科学哲学の冒険』(NHKブックス)を読みすすめた。

科学的実在論をめぐる議論についてわかりやすく丁寧に書かれている。対話形式になっていて、内容に入り込みやすい印象を受けた。まえがきにも書いてあるが、本書は科学哲学の入門書であり、科学哲学を専門としている筆者が、この分野となじみの薄い人たち(特に高校生や大学1,2年生)にその面白さを伝えることを目的としている。

科学的実在論と、社会構成主義および反実在論との間に起こっている論争について記述してある第5章を特に興味を持って読んだ。反実在論に対して必ずしも旗色が良いとはいえない科学的実在論を「なんとか擁護したい」という筆者の姿勢がすがすがしい。潔く、粘り強く、そして頭の良い先生だ。


夕方から大学へ行き、培養細胞の培地交換をしてから病棟のミーティングに出席する。来月から短期間だが大学病院の病棟で医者をすることになっているので、その準備のためである。

ミーティングは午後6時から始まり、終わったのが午後9時30分過ぎ。無意味に長い。研修医のプレゼンテーションが冗長なのが特に気になった。

症例のミーティングは、問題点を明確にして、診療方針の決定に必要な情報(症状や検査結果)を共有し、その時点で議論可能な事項について議論をするということが重要である。

方針決定に必要な情報が不足している段階で「あーでもないこーでもない」と議論するのは、あまり意味がない。

2005年5月31日

きばったらあかんよ(て、ぼくも言われました)

5月30日(月)

朝から外来診療。

活動的な週末を過ごしたため、さすがに疲れが残っている。

外来の途中で、循環器科のS先生から汎血球減少症の87歳のおばあさんについて紹介を受けた。急速に赤血球、白血球、血小板の減少が進んでおり、特に血小板数の低下が著しい。

血小板は5万/μlを切ると出血の危険が増し、2万/μlを切ると特に危険だと言われている。おばあさんの本日の血小板数は1万/μl。

急速な血小板減少は、緩やかに進行するものよりもさらに出血の危険が増す。ここでいう「出血」とは、手をすりむいて血が出るとか、そういうことではなくて、脳出血や消化管の大量出血など生命を左右する可能性のある出血のことである。

汎血球減少症の原因には様々なものがある。急激に進行する汎血球減少症の原因としてまず考えられるのは薬剤性である。

その可能性はすでにS先生によって考えられており、1週間ほど前にめぼしい薬は投与が中止されていた。

しかしその後も血球減少が進行している。薬剤性の場合は、起因薬剤の投与を中止することで速やかに血球数が回復するので、薬剤性は原因として考えにくいかもしれない。

汎血球減少症は、一部の急性白血病で認められることがある。骨髄検査の施行が必要だったが、どうしてもおばあさんの同意が得られなかった。それほど体に負担がかかる検査ではないのだが、どうしても嫌だという。

代替手段として、検査室で末梢血の塗抹標本を作製してもらい、白血病細胞の有無を顕微鏡で確認した。幸いなことに、末梢血に白血病細胞の出現は認められなかった。

末梢血の標本を見ただけでは骨髄で白血病細胞が増えている可能性を完全に否定できるわけではないが、急性白血病の発症時には末梢血に白血病細胞が出現する場合がほとんどなので、その可能性はかなり弱まったと言える。

まずは、当面の出血を回避するために、血液センターに血小板輸血を依頼する。内服を続けていた残り数種類の薬も中止してもらった。

5月29日(日)

下川正謡会大会で『橋弁慶』の独吟をする。

「ぜったいにきばったらあかんよ」

と、下川先生から出番前最後のアドバイスを頂戴した。

緊張はあまりしていないつもりだったのだが、謡い出しの声が低くなってしまい冷や汗をかく。できはともかくとして、終わってほっとしました。

いろいろな方が見に来てくださり、お見舞いの品をくださいました。皆様どうもありがとうございました。

来年はお仕舞もすることになると思うのだけど、それはさすがに緊張するだろうなあ。

5月28日(土)

全日本合気道演武大会へ。緊張気味に1分30秒の演武をした。演武会終了後は、多田塾の同門の皆様と楽しくお話をさせていただく。

合気道新聞には『呼吸投げ』と『赤手空拳』という二つのコラムが掲載されていました。

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