ボミのリブート

8月27日
 コロナウィルス以前、私には毎週のように集まる密度の濃いグループがあった。すごく仲の良いミートアップのグループで、当たり前のように毎週飲み、騒ぎ、お互いの家を行き来し、週末はパーティやブッククラブ、映画鑑賞などのイベントを頻繁に企画する気心の知れた仲間たちだった。だけど3月にウィスコンシン州がロックダウンに入ってから、もちろん私たちはこれまでのように簡単には会うことができなくなった。あらゆるイベント、活動という活動がキャンセルになったので、ミートアップに限らず、人々は"今ある関係性の中でバーチャルでしか人と会うことができない"という特殊な期間を過ごすことになったからである。
 だから私もその頃は、このグループ内のさらに小さなグループで、頻繁にオンラインチャットをするようになった。凍結された世界の中で、私たちは毎週、同じメンバーで顔を合わせ、他愛無い話をし、以前とは違った形の、密度の濃い時間を持つようになった。とりわけ仕事をしてない主婦の私にとって、週に一度のこのオンラインチャットは唯一の社交の場所でもあり、これまで以上にこのグループの集まりを大切に感じるようになってもいた。

 6月に入り、やっとロックダウンが解除されると、世界はまた動き出したかのように思えた。6月と言えばウィスコンシン州はもう夏である。春をすっ飛ばし、いつの間にか始まったマディソンの短い夏をすこしでも長く味わおうと、私たちはふたたび弾けたように、少人数の決まったメンバーで屋外で頻繁に集まるようになった。
 だけど以前とは違い、こうした飲み会に新規のメンバーが加わることはなかったし、定期的に集まるメンバーの中には、コロナウィルスを危惧してイレギュラーなメンバーを呼びたがらない人も出てきた。そうすると、今度はこの固定されたメンバーという距離の近さと規模の小ささから、時々グループ内で小さな揉め事が起こるようになった。

 仲が良く、密度が濃くなったゆえの軋轢かとも思いながらも、一度揉めると少しも妥協しない友人たちの態度に、私はだんだん疲れを感じるようにもなった。だけど他に特別親しくしたり、これほどの頻度で会うグループも私にはなかった。ただでさえロックダウンが解除されてから、あからさまに感染者数がうなぎ上りのアメリカである。ビジネスが再びオープンになったからとは言え、今所属するグループ以外の人と会うことはどうしてもリスクが高く、新しい友人を見つけるということ自体が難しい時期でもあった。

「イッツ タイム トゥ エンド ザ リレーションシップ」

 静かに、私のこの最近の人間関係の悩みに耳を傾けていた韓国人のボミは、私が話し終わると同時に間髪入れずにそう言った。
 何を悩んでいるの?と言わんばかりの口調で、ボミはあっさりと、そしてキッパリと、そういうややこしい思いをするなら、それはもうその関係性の終わりの時なのだ、と主張した。数ヶ月ぶりに近所の公園でボミの子供と私の子供を遊ばせていた時のことだった。
「だけど今、新しい友達を作るのってとても大変だよ」
 私がそう反論すると、ボミは「そんなことない」とにこやかに言った。
「だって私は最近たくさん新しい友達ができたよ」と。
「どうやって?」
 そう驚いて尋ねる私に、ボミは「キム・ミギョンのReboot(リブート)」という言葉を教えてくれた。

『キム・ミギョンのReboot(リブート)』

 それは"コロナ以後の世界で私たちはどう生きるか"と言うことをテーマに、最近韓国で発売された本のタイトルだった。ボミによると、それはコロナ以後の世界を生きるにあたって個人の仕事や成長について書かれた本であり、英語で「再起動」を意味するRebootという言葉を使いながら、著者であるキム・ミギョンは"オンライン・コンタクト"(韓国では略して"オンタクト"と言うらしい。その名の通り、オンラインでの繋がりのこと)、あるいはもっとSNSを活用していくべきだとする"デジタル・トランスフォーメーション"、そして個人個人が上下関係にならない形の社会を目指す"インディペンデント・ワーカー"と言ったいくつかのキーワードを提唱し、個人個人が"消費者"ではなく"ナレッジ・メーカー"(knowledge maker)になることの重要性を説いた本なのだという。

「自分では苦しいとは気づいていなかった...」
 さらにボミはそう言って、数ヶ月前にこの本を読むまでは、自分がリアルな世界で生きづらさを抱えていたことを自覚していなかったのだと言った。だけど、キム・ミギョンの本を読み、彼女の理論に基づいてSNSを積極的に利用することで、ボミは今や毎週のようにオンラインで勉強会やミーティング、はたまたプレゼンテーションまでするグループや仲間を持つようになったのだ言う。

「それは、友達なの?」
 私がそう聞くと、ボミはノーと言った。「あの人たちのプライベートを私は知らないし、彼らも私のプライベートは知らないからね」と。
「だけど、それで良いのよ」

 ボミによると、韓国の教会で出会う人たちは「チャーチ・メイト」、公園で子供同士を遊ばせる時に会う人々は「プレイグループ・メイト」であり、大切なのは自分の興味や役割ごとに関係性を分散させることなのだと言う。ましてや、コロナウィルスをきっかけに、より多くの人々がzoomやSNSを使うようになった時代である。今こそ、私たちは軽やかに、しなやかに、その広いデジタルの海で新しい形のチームワークを見出す時なのだという。

「それで、一番簡単なのはInstagramよ」と、ボミは教えてくれた。彼女はInstagramのハッシュタグで"self development"や"Reboot"といったキーワードをたぐり、彼女の興味とマッチする同志を探し出して、勉強会を呼びかけたのだと言う。
「合わなければ、また新しくそこで探せば良いからね」
 ボミはそう付け加えた。実際、彼女は現在毎週集まっているとあるグループのメンバーとの会話がストレスに感じることがあったようで、「このグループはもう終了しようと思っているの」とクールに言った。

 数ヶ月前、「セイコは友達が多くて羨ましい」と寂しそうに言ったボミの姿が私の脳裏をよぎらないこともなかったけれど、今の彼女は古い関係性の中で思い悩む私とは対照的に、なんだかたくましくパワーアップしたかのようだった。もちろん、それがベストな関係性なのかどうかについては、私には分からなかった。だけどこの日、幸せそうにキム・ミギョンのRebootについて語るボミは、コロナウィルスをきっかけとして確実に、新しい何かに向かって自身を再起動させたようにも見えたのだった。

新たなはじまり

8月6日
 新学期が9月から始まるアメリカでは、夏休み期間の6月から9月にかけてが引越しシーズンである。とりわけ月末には大量の引越しトラックがそこら中を走り回り、道路の脇では不要になった家具が大小様々にゴロゴロと捨て置かれるので、この時期にはそうやって捨てられたそれらの家具を今度はせっせと自分たちの家へ持ち帰ろうとする新規入居者たちの姿を見かけることもよくあった。
 かくゆう私たちも、2年前のこの引っ越しシーズンにマディソンに戻ってきた新参者たちだった。2年前、私たちが居を構えたのは、先の滞在時に暮らした時と同じ地区にある古いアパートであり、アジア人が多く住み、バスの便もよい "シェボイガンアヴェニュー"と呼ばれる地区だった。ここに立ち並ぶアパートはどれも一様に古めかしかったけれど、この辺りに住む人たちは誰もが立地の良いこのシェボイガンアヴェニューを愛しているようだったし、少なくとも私はこの長閑なシェボイガンが大好きだった。ダウンタウンからは少し離れているものの、アパートのすぐ裏には広々とした公園があり、近くにはショッピングモールがあり、そして何よりもこのアメリカ生活で1番最初に覚えた単語である"シェボイガンアヴェニュー"という言葉の響きが好きだったのである。
 だけどそんな思い入れのあるシェボイガンアヴェニューで迎える待ちに待った五度目の夏、私たちはついにこの地区を離れることに決めた。私のこれまでの人生で、いつも節目節目に呪いのようについてまわる"引越し"であった。

 数えればこれが結婚して8度目、人生では13度目となる"引っ越し"だった。ただ今回は2年前のように国を跨ぐわけではなく、引っ越し先はシェボイガンアヴェニューからたった1キロほどしか離れていない場所である。これまでの引越しの経験値と、その引っ越しのたびに少なくなっていった荷物の量を鑑みれば、アメリカでの引越しとはいえ業者の世話になどなる必要はなかった。トラック一台借りれればあとは自分たちで十分である。しかもそのトラックが引越しの前日に突然何の連絡もなく一方的にキャンセルされてしまったとしても、私たちはもはやそんなことで動じるような器でもなくなっていた。
 速やかに全ての家具をシェボイガンアベニューのアパートの駐車場に移動させ、オーナーにトラックが突然キャンセルされたことで何日か駐車場に荷物を置かせて欲しいとお願いすると、そこから粛々と自分たちの車を使って荷物を運び込むことになった。何度も車でシェボイガンアヴェニューと新しいアパートを往復し、同時に荷物を片っ端からほどき、段ボールを捨て、子供にご飯を食べさせ、ついでに突然トラックをキャンセルした上に電話もメールも無視を決め込んだ悪徳業者への低い評価をネット上で書き込むと、夕方にはほぼ全てが完了するという手際の良さである。それから「引越し祝いに」と、寿司の出前も注文し、私たちはあっという間に晴れてアイスクリームショップと小さな公共図書館に隣接した新しいアパートでの新しい2年間のスタートを切ることができたのだった。

 ところで、シェボイガンアヴェニューでのこの2年間は、かえすがえす惨めな2年間だった。もちろん楽しいこともあったけれど、やはり思い返すと極貧であるということの不安と苦しみの思いが優っていた。
 2年前、白井くんの大学のTAの給料と貯金だけでやっていこうと決めてマディソンに戻った時、この2年間を生き抜くことは離れ業のように無謀なことのように見えたが、事実、目の前にはクリアしなければならない課題がいくつもあって、そのための生活は全て、金銭的にあまりにもギリギリだった。フードパントリーに足繁く通い、教会の無料のご飯を家族で食べ、バスカードを隣に住む学生にねだり、血を売りたいと思う時もあった。無料でご飯を食べられるイベントだと思って出向いたら、マシュマロしか出てこなかった時もあった。「若い頃の苦労は買ってでも」という言葉を信じてやってみたものの、やっぱり心が荒んだような気がすることもあった。ここには書けない無茶なことをした日もいっぱいあった。

 だから結局のところ、この2年間の経験から私が身をもって学んだことといえば、「お金はないよりあった方がいいな」という身も蓋もない現実だった。先行きのわからないまま貯金を切り崩す生活はやはり、居心地の良いものとは言えなかったからである。それから自分自身のちっぽけな虚栄心、煩悩や欲望と戦い抜くことは想像以上に過酷なことでもあり、私はひたすらに、この2年が無事に過ぎゆくことだけを祈っていた。もちろん、たくさんの素晴らしい出来事もあったけれど、だけどどうしても、手放しで「お金がなくても幸せだ」という高みには至らなかったのである。たった一つ、「この二年間をやり遂げたい」という初期の強い思いだけが私たちの全てだった。

 引越しの日、不要になったダイニングテーブルと椅子を道に捨て置くと、数時間ほどでそれらはシェボイガンアヴェニューの誰かの家に引き取られたようだった。2年前に近所のパニカから譲ってもらった破れたソファもこの機会に一緒に捨てた。これからは自分達が気に入ったソファを買うくらいには余裕のある暮らしが望めるようになるのである。2年間、家族3人、貯めてきた貯金総額の半分を失った。だけどこの日をもってこの不安定な生活は終わったのである。夢を抱き、想定していた乗り越えるべき課題の全てをクリアし、荒波を乗り越え、溺れそうになりながらやっと、私達はこの日、なんとか無事に岸へとたどり着いたのだった。

BLM

6月22日
 先月のメモリアルデー(5月25日)にミネアポリスで起こったジョージ・フロイドに関する一連の事件をはじめて目にした時、私はすぐにこれは大変なことが起こってしまったと感じた。8分間、無残にも無抵抗の人間が警察によって殺されていく映像は、ミネアポリスに住んでいなくても、あるいは黒人でなかったとしても、人として私の心を深く傷つけるのには十分だったし、時間を追うごとにこの不条理に対する人々の怒りが拡散され、ミネアポリスの街が最終的に"文字通り炎上"したときには、私はそれによって(世界中で暴動が激化する以前は)ある種、ジョージ・フロイドの死が浮かばれたような、多くの人がこの当たり前の怒りに立ち上がったことにまだどこか救いを見たような気がしたものだった。
 
 というのも、この出来事が起こる前からずっと、私はアメリカ人というのは差別や偏見に対してとても注意深く、日本人と比較にならないくらいその意識やモラルが高いとも思っていた。日本でよく聞く「女性だからこうしなければいけない」あるいは「男性はこうあるべき」といった発言は、むしろこちらでは差別的だと驚かれることが多かったし、アメリカでは年齢や外見で人を判断しないように、就職活動の際に写真を添付することや生年月日を問うことを禁じていたからである。
 一度「日本で缶ビールをそのまま飲もうとしたら、その場にいた男性に女の子なんだからコップを使いなさいと怒られたことがある」と話したときも、その場にいたアメリカ人が全員「なぜ?」と眉をひそめたことがあった。また「姦しい」という漢字について、その構成が「女が三人で'うるさい'」のだと説明した時も、友人のトレイスは「面白いね」と言いながらも、「もちろんその成り立ちの意味自体が必ずしも正しいとは限らないけれど」と言い添えることを忘れなかった。「女だからうるさい」というロジックは、彼にとっては「同意できるものではない」という意思表示だったのである。
「なぜ、女性好みの味(あるいは男性好みの味)というものが日本にはあるのか?それは性差別ではないのか?」あるいは「なぜ日本で生まれ育ったのに外国人だと言われる人たちがいるのか?」...。
 日本で疑問に思うことのなかった発言や言動が、ときにこちらでは差別的だと言われることがあるたびに、私はいつも自分がいかに差別や偏見というものに対して注意深く生きてこなかったかを思い知るとともに、アメリカ人の意識の高さに驚くことが多かったのである。

 だから、ジョージ・フロイドの事件が起こったとき、そしてその後、燃えさかるミネアポリスの街を、あるいはマディソンのダウンタウンで起きたデモや暴動を目にしたとき、真っ先に私の頭を過ぎったのは、「これが日本だったらどうだっただろうか?」ということだった。日本だったら、同じくらい多くの人々がマイノリティーのためにここまで立ち上がることがあっただろうか?と。

 メモリアルデーから三日と経たずに、ミネアポリスで、アメリカ全土で、そしてマディソンで、多くの人が怒りをあらわに抗議に立ち上がった。「コロナウィルスなんだからデモをするな」と大々的に言う人はいなかった。そんなことを気にかける発言をできるような雰囲気ではなかった。
 こうした出来事があった後、一度、友人のアレックスが「アメリカでは警察は白人を守るためものだ」と教えてくれたことがあった。彼は白人だったけれど、高校生の頃、黒人の友人と夜間、警察官に呼び止められ「お前はこのニガーと友達なのか?気を付けろよ、お前もトラブルに巻き込まれるぞ」と注意を受けたことがあったのだという。
「黒人は夜は出歩けないよ」
 アレックスはそう教えてくれた。「もし夜、家の周りに黒人が立っていたら、それだけで誰かが必ず通報するからね」と。

 そしてそれは事実だった。あの日以降、拡散される情報の多くが、黒人差別の実態を生々しく伝えていたし、これはもう誤魔化しようのないアメリカという国のもう一つの真実のようだった。だけど一方で、同じくらい、多くの人々がジョージ・フロイドのために、正義のために立ち上がったことも疑う余地のない事実だった。
 マディソンのメインストリートでも夜間暴動が起こった。多くの店やショーウィンドウが破壊され、すぐに通り中の店という店にベニヤ板がバリケードのように張られるようになった。『この店のオーナーはマイノリティです』と免罪符のように張り紙を貼って暴動を免れようとしている店もあった。しかし、そうした暴動は批判的な世論の高まりとともにすぐに終息に向かった。そしてそのかわり、バリケードとして店中に張られていた板という板にたくさんの美しいペインティングが施されるようになった。もちろん、それらは全てBLM(Black Lives Matter)に関連したアートだった。

 街を歩けばそこら中で、BLM、I can't breatheの文字を、あるいはジョージ・フロイドのポートレイトを見かけるようになった。「変わらなければいけない」「Silence is violence (沈黙は暴力)」...。どこを歩いていてもこうした言葉が道に溢れ、人々の心を捕らえた。もちろん、ある意味ではそれは"落書き"に違いなかった。でも誰もそれに対して怪訝な顔などしなかった。多くの人が正義のために、アメリカに住むマイノリティのために団結し、祈っていた。だけど、日本だったらどうだっただろうか?
 初夏のメインストリートに咲き乱れるBLMのアートを眺めながら、私の心はふと、遠く離れた祖国へと向かわずにはいられなかった。

変わりゆく世界

5月18日

 先月末にひと月延長されたウィスコンシン州の外出規制命令が"違法"であると州の最高裁判所が判決を下したのは、ロックダウンの終わりまで残り二週間となった今月13日のことだった。世界的にも話題となったこのウィスコンシン州の異例の判決は、とどのつまり、この日をもって先月末から続けられていたロックダウンが突如として、事実上"無効"となったことを意味していた。
 もともと共和党の強い同州は、つい二ヶ月ほど前にも州の選挙投票日を延長しないという驚きの決断をし、コロナウィルス猛威のピーク時に人々が投票所へ集まらざるを得ない事態を引き起こした特殊な州として悪目立ちしたばかりだったが、今度という今度も、州知事の「外出規制延長」の命令が最高裁判所によって退けられ、その混乱の中で一部の地区でその日中にバーになだれ込んだ人々が近距離で酒を飲み交わす映像が大きく報道されてしまう結果となった。
 ある番組ではウィスコンシン州は冬が厳しいことから、「あそこは冬に毎年二ヶ月は自主的に自然の(雪による)ロックダウンをしてるところだから、彼らの気持ちは分からなくもない」と皮肉たっぷりのジョークを飛ばしつつ、もちろん今後懸念されるであろうウィルスの第二波についての厳しい意見を言い添えることを忘れなかった。

 だけど確かに、私たちはこの早すぎるロックダウン解除への不安以上に、やはり二ヶ月のロックダウンが終わるということへの喜びに浮き足立っていることも隠しようのない事実だった。もう五月半ばである。いつしか大学も春のセメスターがファイナルを迎えて終わり、学生たちはすでに長い夏休みに突入していた...。たった二ヶ月。されど二ヶ月、であった。

 ところで私はこのロックダウンの二ヶ月間、仲良くしているグループの友人達とのビデオチャットだけは毎週欠かさず企画するように心がけていた。でなければ、人とのつながりの無い日常生活がどんどん希薄化していくような気がしていたからだったが、もともとホームスクーリング(家庭内学習)という形で自宅で教育を受けてきたデクレンという大学生は、「今回のことで、僕には友人との関わりがあまり必要ないのだということが改めて分かりました」と、オンライン授業に切り替わったロックダウン下での生活が「さほど苦ではなかった」と言って私を驚かせたこともあった。オンラインに切り替わり、日中家で作業をすることのモチベーション維持に多くの人が苦闘する中、デクレンは一人で自宅学習することに慣れているタフな青年だったのである。

 だけどコロナウィルスの影響で全ての教育がオンラインに切り替わったことは、ウィスコンシン大学を主体とした学園都市・マディソンに住む私にとっては大いに着目すべきことでもあった。ある州ではオンラインに切り替わったことで、授業料の返済を学生側が大学に求めた例もあったし、ウィスコンシン大学はコロナウィルスの始まりと共に大学関係者トップ何人かの給料削減を発表、シカゴ大学はコロナ以前に検討していた授業料の値上げの見送りを発表していた。 
 オンラインになったことで、多くの学生たちがアパートを引き払い、母国へ、地元へと帰って行った。「授業によっては、オンラインなら意味がないし、YouTubeでもっと良い授業が見ることができる」という意見を耳にすることもよくあった。大学でスペイン語の授業を受講していた友人も「全然面白くないから、秋もオンラインなら絶対に受講しない」とはっきりと私に言ったことがあった。

 それから大学中で、学期末テストのカンニングが当たり前のように横行したことも特筆すべきことの一つだった。オンラインでの試験で、誰がどういう形で試験を受けているか分からないのだから、どの試験も"カンニング天国"というわけである。
 私の友人の一人は、たまたま彼女の「日本語」の期末テスト時間中に私が企画していたビデオチャットに乱入すると、そこでチャットをしていた私を含む日本人三名に自身の日本語のテストを回答させるというとんでもない暴挙に出た強者だった。「宿題」だと偽る彼女に乗せられて、日本人三人で日本語の期末テストを手伝った後、それが期末試験だったと気づいた私に向かって彼女はあっけらかんとこう言ったものだった。「どんなcheating(カンニング)を選ぶかは個人の選択だと思う」。「大丈夫、セイコはpunishment (罰)ないから」...。

 思えば、たった二ヶ月だったけれど、確かにたくさんのことが大学を巡って変わったようだった。最近では、閑散としたキャンパスに若い学生達ではなく、デリバリー用のロボット達を頻繁に見かけるようになった。これは去年の秋から大学内で導入された「アプリ一つでフードデリバリーをするロボット」だったが、コロナウィルス発生とともに、彼らの活躍ぶりはいよいよ勢いを増したように思われた。土日を問わずあちらこちらで忙しそうに働くロボット達を見て、ある時、地元メディアは「彼らは今やキャンパス内の大切なフロントライン労働者だ」と伝えて賞賛していた。
 たった二ヶ月、されど二ヶ月の出来事だった。
 

ロックダウンの世界

4月29日。
 平和な街マディソンも、コロナウィルスによるロックダウンから、はや一カ月が経とうとしていた。もちろん、世界中のほとんどの街と同様、ウィスコンシン州はこのロックダウンのあとひと月の延長を発表し、必要不可欠な外出以外の自粛を人々に求めたが、これまたあらゆる他の都市同様、マディソンでもこのロックダウン延長日には、その決定を不服とし、「リオープン」を目指す人々による抗議デモが巻き起こっていた。
 このひと月の自宅隔離生活をなんとか耐えた多くの人の関心は今や、日々のウィルス感染者数、あるいは死者数の伸び率よりもむしろ、いつ経済が再稼働するのか?いつになれば元の生活に戻れるのか?という強い「終息」への期待へと移行しており、私もまた、昨日と区別のつかない日常の中で、長いトンネルの出口を探しているようだった。
 
 ところでロックダウンになってからのひと月、行くべき場所を失った私はというと、ここのところウィスコンシン大学の所有する樹木園に頻繁に通うようになっていた。広大な敷地を誇るこの樹木園には、様々な散歩コースや空き地があり、湖があり、森があり、それでいて人と接触する機会がほとんどない穴場だったので、私は雨の日以外はいつも、午後になると息子を連れてこの樹木園を訪れるようになった。ロックダウンが始まってすぐにこの森では殺人事件があったりもしたが、それでもその次の日の午後にはまた、私は樹木園に出向いていた。毎日、子供と森を散策し、枯れ木を拾い、移ろいゆく季節が目に見える形で果樹園に咲き乱れるのを観察するのがいつしか日課になっていた。
 そして夜になると、いつも一時間ほど自宅付近をランニングをするのもまた私のルーティンの一つだった。道ゆく人との距離感に注意しながら、夕陽の見える湖の近くまで走り、森の中を抜け、近所の公園を私は一人、ひたすら毎日黙々と走った。友人の住むアパートの近くに差し掛かる時にはいつも、ひょっこり友人が出てこないものかと想像を膨らませたりもしたけれど、結局そんなことは一度たりとも起こらなかった。
 それからこのひと月、信じられないほど長い時間眠るようにもなった。日中、買い出しと樹木園に行く以外、暇さえあれば、私は子供の目を盗んでうつらうつらと船を漕いだ。朝も昼も夕方も、こんなに眠れるのかと言うほど、ちょっとした時間があれば眠り、起きている時は樹木園でぼんやりし、ご飯を食べ、ランニングに出かける前には必ずお昼寝をした。時々友人達とビデオチャットをすることがあったので、その直前に世の中の動きをチェックすることはあったけれど、私はもうなんだか世界の果てに来たような、あまりにも多くの時間を眠り、夢と現実の区別のつかない世界に生きているような、そんなライフスタイルになりさがっていた。
あるいは、「これはもうコロナウィルスに感染しているからこれだけ眠いのではないか?」という妄想に取り憑かれる日もあった。だけど、それでも陽が沈むころ、むっくりと昼寝から起きだし、張り切ってランニングに出かけられるほどに私は健康だった。
 そして走りながら、いつも過去のことを考えていた。ロックダウンに入り、帰国を余儀なくされてしまった友人達。彼らと春になったらお花見に行こうと約束をした日々。カラオケ、バーベキューの計画、そしてその全てが幻となったこの一ヶ月。戻ってこないユーティン。公開されなかった映画。毎週集まっていた友人。美しいテラス。行きつけのバー...。頭の中をぐるぐるとよぎるのは、そうした過去の亡霊たちだった。

 もちろん、スラヴォイ・ジジェクが言うように、私たちは「誰もがおなじ船に乗り合わせていた」。誰もが人との接触を避け、マスクを着用し、手袋をつけていたし、スーパーに買い出しにいけば、6フィートの距離を保ちながら大量のまとめ買いをしていた。カートというカートは全て消毒されて、レジはプラスチックの壁でそれぞれ仕切られていた。人々は向こう側に人を見つけると、そそくさと道を変えるか、一旦立ち止まって安全にやり過ごすかのどちらかで、私も密かに、人とのすれ違い様には息を止めることさえあった。
 だけどこんな風に接触のない世界というのは、なんと味気ないことだろうか...。
 日々、引き起こされる謎の睡魔に身を委ねながら、私はただ、ロックダウンの世界をそんな風に感じながら生きていた。制限された距離の中で、その大切さに気付かされることは大いに意味のあることではあった。だけど一方でそれはただ、私にとって、夢か過去にしか行くことのできない、終わりのような世界の様相を呈していたのである。

怒り

3月26日

 WHOによるパンデミック宣言からちょうど二週間目の3月25日。ここ、アメリカウィスコンシン州ではトニー・エヴァース州知事による『Safer-at-home(家でなるべく安全に)』という自粛の発令の日を迎えていた。  
 前日の3月24日、州知事は「明日発表される『Safer-at-home』はシカゴのあるイリノイ州などの厳格な外出禁止命令ではない」と住民に伝えてはいたものの、刻一刻と変わりゆく感染拡大のニュースの影響からか、結局、その次の日の朝8時より施行されることとなったルールでは、"生活に欠かせない活動以外のビジネス"は全て閉鎖、公私を問わずいかなる人数の集まりも禁止、自宅滞在命令に従わない場合は250ドルの罰金(散歩やランニングは可)といった厳しい内容が盛り込まれており、それは結局のところ、ウィスコンシン州が今後一か月にわたり、事実上のロックダウンに入ることを意味していた。
 3月25日、アメリカが中国を抜いてコロナウィルス感染者数ナンバーワンに躍り出た前日のことである。

 だけど私にとって、このロックダウンの発令はさほど大きな意味を持たなかった。この発令のもう一週間以上も前から、ウィスコンシン大学は出入り禁止となっていたし、カフェやバー、シアターなど人の集まる場所の営業も禁止、意識の高いマディソンの友人達は発令が出る前から「ステイ・アト・ホーム」と言ってすでに誰も会ってはくれなくなり、「なぜ州知事はロックダウン宣言をしないのか?」という声さえ上がって「遊ぼう」などと言える雰囲気ではなくなっていたからである。だからすぐに、私たちはパンデミック宣言のあとずっと、「家から出ないことが自分たちに出来る最善のことなのだ」という認識を当たり前のように受け入れて過ごし、定期的に会う友人達とはSNSなどのツールを使ってバーチャルで会うようになっていた。

 もちろん、そんな生活は楽しいものではなかった。だけどアメリカの感染拡大の速度はあまりにも速く目を見張るものがあったので、私はいつしか日々上昇していく様々な数字を毎日追うことに一日の多くの時間を費やすようになった。たくさんのニュースに一喜一憂し、焦りや不安を感じながらも、こうして情報を集めることこそがパワーだという使命感に駆られるようになってもいた。あまりにも突然、長時間インターネットの記事を睨むようになったので、頭痛と肩こりに悩まされるようにもなった。だけどそうやって必死でかき集めた有力な情報はすぐに友人達にシェアするべきだとも思って居た。それが今、私が家に居て、個人でこの世界的危機と戦える最善の手段だと思っていたのである。

「セイコ、いい加減にしろ」
 とつぜん、名指しでそう怒鳴られたのは、会えなくなった仲の良い友人数名とグループチャットをしていた時のことだった。そのうちの一人が、突然、コロナウィルスの話の最中、私一人に怒りを向けてきたのである。
「お前は、人の気持ちを全然考えていない」と。グループチャットにコロナウィルスに関する情報の投稿をすることで、気分を害する人が居る。暗い話は聞きたくないのだ、と言うのである...。
 私は必死で今、情報を持つことがどれほど大切なのかを説明しようとした。助け合うこと、シェアすることがどれほど大きな力となり、人々の意識や行動につながるのか...。だけど彼は聞く耳を持たなかった。ただただ「セイコ、いい加減にしろ、人の気持ちを考えろ」と言って怒るのである。
 ショックと驚きを受けたまま、私はその日のグループチャットを切らざるを得なかった。どう考えても彼の言うことは一方的で、矛盾や腑に落ちない点が多かったが、それよりもそもそも私はこういった「攻撃」に慣れていなかったのである。良かれと思って発していた自分の中の精一杯のパワーが、突然「他者の怒り」として跳ね返ってくることは、世間ではよくあることなのかもしれなかったが、こんなことは初めての経験だった。そしてそんな風に一方的にぶつけられた「他者の怒り」のパワーをうまくかわせるほどに、私は経験豊富ではなかったのである
 だから電話を切った後しばらく、私は一人、暗い気持ちを抱えて考え込んでしまった。なぜ、温厚な友人があれほど私に対して怒りをあらわにしなければいけなかったのか。なぜ、コロナウィルスについて考えることをストップしたいと言うのか...?

 だけどコロナウィルス蔓延に伴い、もう一つ、人々の間にゆるやかに「怒り」が浸透していっていることも、無視することの出来ない大きな事実でもあった。それは内側から私たちを支配する、目に見えないもう一つの力であり、目に見える形で他人を傷つける発動力だった。
 世界中が、アメリカが、今、凄い勢いで危機に瀕していた。マディソンでもたくさんのビジネスがストップした。そのせいで地元のローカル誌はすぐに休刊となった。たくさんの企業が潰れかかっているとの報道があったし、富裕層はすでに自分たちでは外に買い物に行かないのだという噂を聞いた。(彼らは貧困層に買いに行かせるのである。) 混乱のさなかに、銃の売れ行きが伸びているとの報道も目にした。アジア人に対する風当たりが強くなった事例も聞いた。ウィスコンシン大学で大構内に「ウィルスは中国から来た。チャイニーズ・ウィルス!」と壁に落書きがあったと報道されたのはつい昨日のことだった。
「僕は今、強い怒りを感じている」
 そう語ったのは、私の所属するミートアップのオーガナイザーであるフィリピン人の友人だった。
「僕はとても怒っている。ウィルスに、政治に、全ての一連の出来事に...」
 それは、外出禁止令が発令される少し前のことだった。

 だけど今、そうした人々の怒りは、これからどこに向かって投げられようとしているのだろうか?今日、思いがけず向けられた他人からの怒りにさいなまされながら、私はそんなことを考えていた。日々生み出される怒りは今後、いったいどこに放たれるのだろうか?と。

3月13日

 隣に住む中国人のユーティンが戻ってこなかった。
「二月中旬には戻ってくるから」と言って祖国に帰省していったユーティンを、アパートの廊下で笑顔で見送ったのは今年の初め、一月初旬の事だった。それから二か月、ユーティンはいまだにマディソンに、私の隣の部屋に戻ってきている気配はなかった。隣に住んでいるのだからいつでも会えると思っていたので、私は彼女の連絡先を何一つ知らなかった。(私は彼女の名前のスペルすら知らなかった)。だからいつも「ユーティンはいつ戻ってくるだろうか?」と駐車場に停めてある彼女の車に目をやっては、彼女の帰りを待ちわびていたけれど、結局いつまでも持ち主の帰らぬ彼女の車は、いつしかその車体の表面に白っぽい埃が積もっていくようになった。
 なぜユーティンはいつまでたっても中国から戻って来ないのだろうか?三月に入ってから漠然と私の心に立ち現れるようになったこの小さな疑問は、だけど今になってはっきりと、その答えを日々のニュースから推測することが出来るようになっていった。
 
 アメリカでの十二番目のケースとして、ここマディソンでコロナウィルスの最初の感染者が出たのは先月二月五日のことだった。だけどそのころ、マディソンに住む人々はそれほどこの騒ぎに注意を払っているようには見えなかった。中国や日本、その他の国々で日々拡大していく感染情報を友人達と話題にする機会はあれど、それはいつまでも遠い異国の出来事の域を出なかったのである。友人達と集まれば、私はハンドシェイクの代わりに足や腕を使った「ウーハン・シェイク」や「エルボー・バム」についてふざけ合い、トイレットペーパーが無くなる日に備えて日本製のウォシュレットを買えばいいのだと言う友人の冗談に笑い、誰かが持ち寄ったコロナビールを飲んではケラケラと笑っているだけだった。
 ウィスコンシン大学に通う韓国人のハノルはコロナウィルスの流行に先立ち、彼女の韓国人の友人がクラスで咳をしたことでコロナウィルスに関係した「差別」を受けた話や、見知らぬ白人女性から「あなたの国の北京(中国ではなく北京!)は大丈夫?」という意味の分からないぶしつけな質問を公共の場所でされたという話をしたが、私たちはそんなハノルの話に、「マディソンでそんなことが起こるなんて信じられない」と驚きながら「だけどそんなケースは稀なことだろう」と結論付けただけだった。私にとってマディソンはいつだって平和な街だったし、それはいつ何が起ころうと永遠に変わらないと思っていたのだった。
 
 だから、それは、あまりにも唐突だった。
 WHOがパンデミック宣言をした三月十一日、その日中に近所のコストコやターゲットからトイレットペーパーがあっという間に消えたとき、私は軽いめまいを覚えていた。うろうろとトイレットペーパーを探す私の目の前には、トイレットペーパーの代わりにキッチンペーパーを購入する人々がレジに並び、それは遠く離れた日本でほん少し前に起ったと聞き知っていた馬鹿馬鹿しい集団心理の焼き直しだったからである。ウィスコンシン大学はこの日、すぐさま少なくとも四月十日までは人が集まるレクチャーをウェブ上に切り替えると発表すると、学生寮も閉鎖、全てのイベントをキャンセルすることを決定した。マスクや消毒液はもちろん少し前から手に入らなくなっていたのだと、私は遅ればせながらこの日初めて知ることになった。自分のためではなく、日本に住む家族のために購入しようと何年かぶりに良いことを(悠長に、)思い付いた矢先の出来事だった。
 また、人気ポッドキャスターで有名なジョー・ローガンはこの日、看板番組「ジョー・ローガン・エクスペリエンス」で公衆衛生学の専門家マイケル・オスターホルムをゲストに招くと、このパンデミックに対する専門的かつ分かりやすい番組を展開し、このポッドキャストが一時YouTube上のトレンドランキング三位に浮上して人々の注目を集めた。夜になるとトランプ大統領はヨーロッパからアメリカへの緊急渡航規制を発表したので、この夜、あと数日に迫っていた全米の春休みがある一部の人々にとって辛く味気ないものになった瞬間でもあった。
 そうして、そうこうしているうちに、もちろん次の日は食料品がスーパーからごっそりと消えた。友人は、アメリカで大量のレイオフが発生しているという記事をフェイスブックでシェアしていたし、その記事によれば多くのアメリカ人が今日はどこかで職を失いつつあるようだった。パンデミック宣言が発表されたわずか二日間の出来事だった。
 韓国人のママ友であるボミは、この日最も厳しい面もちで「アジア人と関わらないことが一番!」と私ににこやかにアドバイスをした。
「だって、ウィルスはアジアから来たからね。」
 ボミは大真面目にそう付け加えた。「セイコ、気を付けなさい」と。
 私はショックでひっくり返りそうになった。彼女のような教育熱心で教養のある女性が、このパンデミック宣言の混乱の中、私のことを、そして彼女自身のことを"アジア人"だと認識できなくなってしまったことは悲しむべき出来事だったからである。
 全ては、遠く日本で起った一連の騒動の、およそひと月遅れの出来事だった。

1月27日
 
 アメリカ人のデーヴィッドは、いわゆる"オタク"だった。私はデーヴィッドと"ミートアップ"というインターネット上で共通の趣味を持つ人達が集う交流会を通じて知り合いになったが、彼はいつも日本の電子辞書を懐刀のように大切に持ち歩き、時に、グループで集まっていてもゲームの攻略本を一人黙々と英訳しているような、ちょっとミステリアスで、「結構変わった人」だった。
 だから、と言ってはなんだけれど、私はずっとそんなデーヴィッドが少し苦手だった。ちょっとダミ声だったし、黙っているかと思えば話し出すと止まらなくなることもあって、そしてやっぱりどこからどう見ても"オタク"だったからだ。それから一度、デーヴィッドが風邪をひいてマスクをつけてミートアップの交流会に来たときがあった。私はただでさえマスクをつけるアメリカ人が珍しくて興味津々だったのだが、デーヴィッドはさらに話すたびにマスクをいちいちせわしなく口から離したり触ったりしており、そのことで私はずっと笑いをこらえていた。だけどどういった神様の悪戯か、この時そんなデーヴィッドが勢いよく話しだそうとした瞬間、彼のかけていた眼鏡がマスクに絡まり、眼鏡が吹き飛びそうになるという奇跡のようなことがあった。
 それはほんの一瞬の出来事だった。もちろん、誰もそんなことを気に留めてなどいなかった。静かに皆で話している空間だったので、このちょっとしたデーヴィッドの動きはほんのすこしだけ人々の視線を集めたりもしたけれど、真面目なミートアップの集まりである。ふっと一瞬会話は途切れたものの、誰もがまた静かに会話を再開した。そんなことは誰にとっても「消しゴムが床に落ちた」程度の些細な出来事だったのである。ただ一人、そのデーヴィッドの慌てふためく姿を見て、ガスが爆発したかのように吹き出した私を除いては...。
 というわけで、私はそれ以来しばらくデーヴィッドとはそのグループ内で心の距離を取るようにしていた。私がデーヴィッドを笑ったことはすごく失礼な行為だったし、デーヴィッドも明らかに気を悪くしたのが分かったからだった。

だけどそんなある日のことである。珍しくそのデーヴィッドがミートアップのグループチャットで飲み会を呼びかける投稿をしたことがあった。このグループ内のチャットではいつも、様々な飲み会やイベントが呼びかけられるのだが、デーヴィッドが自ら招集をかけたのは初めてのことで、それはなんだかとても特別なことのように思えた。デーヴィッドはいつも、自分から積極的に集団を扇動するというタイプではなかったからである。
 私はさっそくこの夜、飲み会に顔を出してみることにした。ただ、折悪しくこの日は激しく雪の降る夜だったので、顔を出してみると集まっていたのはごく少人数だった。だけどそんな少人数の集まりの中で、デーヴィッドはいつになく快活で饒舌にふるまっていた。いつものミートアップの集まりでは口数少なく一人で座っていることの多々あるデーヴィッドだったけれど、この日はプライベートなことを、とりわけ自分自身のことを多く語った。彼は現在、ウィスコンシン大学で解剖学を学んでおり、以前は病院で働いた経験もあったが、ゆくゆくは再び病院で働きたいこと。また採血の仕方や効率よくリストカットする方法。日本語はあくまで趣味で勉強しているのだが、日本語の勉強が楽しくて仕方がないこと。日本にまたすぐ行きたいし、目標は同じミートアップに在籍しているピーターという翻訳家のおじさんであること。デーヴィッドはそんなことをとめどなく、とりとめもなく語ってくれた。

「どうして日本語の勉強がそんなに好きなの?」
 私はそんな上機嫌なデーヴィッドにそう尋ねた。ただでさえ解剖学の勉強が大変で、資格の勉強もしないといけないと語っている彼が、なぜそこまで同時に日本語の勉強に熱心に取り組むのか、私にはとても不思議だった。だいたい日本語を勉強したからといって、その後デーヴィッドが将来的にその日本語のスキルを彼の仕事上のキャリアに活かせるとは思えなかったのである。
「あー、それはね、日本語で話してる自分が好きだから」
 デーヴィッドは日本語でぺらぺらとそう答えた。
「僕は普段、英語で話していると全然話さないんだ。すごく静かなんだ...。だけど、日本語を話しているときだけ、僕は"ソーシャル"になるんだ。なんでか分からないけど、とても"ソーシャル"になるんだ。別人になれる。だから日本語を話すのが好きなんだよ」

「...面白いね」
 どこかでそれを聞いていた誰かがポツリと言った。
「マディソンは好き?」
 私はまたデーヴィッドに尋ねた。
「マディソンでの暮らしは辛いことが多かった。だから好きじゃなかった。友達も二人しか居ない。その二人ももうマディソンには居ない。だけどこのグループの集まりは好き」
 デーヴィッドはまたあっけらかんと、結構重いことを日本語で、早口でぺらぺらと言った。だけど彼はいつになく嬉しそうだった。実は、この次の日が彼の誕生日だったのである。そのことを、デーヴィッドは私がお店についてすぐに照れ臭そうに打ち明けた。「僕が今日は奢るからね」と。
「明日誕生日なら私が奢った方がいいんじゃないの?」
 そう驚いている私に向かってデーヴィッドは静かに首を横にふった。
「誰かを幸せにする方が幸せになるから、僕が奢るんだ」

 12時を過ぎるのを待って、私達はデーヴィッドに「おめでとう」と伝えた。誰かの大切な日に集まっているという事実と、この日「なぜいつも呼びかけないデーヴィッドがグループの招集をかけたのか」という秘密の答えを共有していたことが、その場に居合わせた人たちに不思議な連帯感を感じさせ、暖かい気持ちにしているようだった。
 外ではしんしんと雪が降り積もっていた。デーヴィッドは日本のサラリーマンが持っているような鞄から最近買ったという日本の漫画を得意気に取り出すと、無邪気に見せびらかしていた。彼はやっぱりオタクだった。だけどもはや私にとって、とっつきにくい苦手な人物ではなかった。この日、デーヴィッドは日本語を話すときだけソーシャルになる、勉強熱心な友人の一人として、私の目には新たな姿で映っていたのだった。

イルカ

12月24日
 ここのところ、イルカについて考えている。
 きっかけは、カナダのイルカに関するドキュメンタリーを、友人のアレックスに紹介されて観たことだった。カナダのある入り江に迷い込んだ一匹のイルカを巡り、市民団体と政府による攻防を描いたそのドキュメンタリーは、イルカと言う生き物が知的で友好的、そして感情を持った人間と同じ生き物であるという前提とともに、人間の残忍さや無理解をあぶり出しつつ、最後はイルカの死をまるで家族の死のように悼む人々が流す多量の涙の映像によって美しく締めくくられていた。そんなドキュメンタリーを上映しながら、アレックスは終始映画の中のイルカの可愛さに悶え、人間の残忍さに激怒し、かと思えば、最後はイルカの死に悲しみにくれるという百面相を見せ、私もなんとか彼の手前、最初はカナダの市民団体と政府との攻防に色々と映画への共感を示すことができたが、終盤の重々しいイルカの(人間による)葬式が始まったあたりで、ついに堪えきれずに吹き出したしまったのだった。
 
 一度吹き出してしまうとすぐには止めることが出来ず、私はアレックスの冷ややかな視線を痛いくらいに感じながらも、ただ心の底から「ソーリー」と言いながら、へらへら笑うことしか出来なかった。そうでなくても私は反捕鯨映画『ザ・コーブ』にも爆笑してしまうという非常識で無慈悲な人間だった。ベジタリアンの友人が「動物たちには感情があるんだ」と言えば、またクスクスと笑って友情を失いかけたことも多々あるような薄情な人間である。
 だけど一方のアレックスはというと、"元ベジタリアン"という肩書を持つ、私とは全くの真逆の人間だった。彼は環境問題のために部屋のエアコンは常になるべく使わないよう心掛けていたし、室内温度15度でこの極寒のマディソンの冬を乗り切ることを最終目標としていた(だから、彼の家はいつも寒かった)。お気に入りのクリームにミンクの油が使われていると気付けば「知らなかったんだ...もう二度と買わない...」と言ってしょげた上に、「そのクリームのメーカーを教えて欲しい」と言う非情な私に向かって「教えたら絶対買うだろうから教えない!」と憤り、蚊に刺されても絶対に蚊を殺さないと発言する、そんな心優しい人間だったのである。
 
「ごめんね、私はなんというか...どうしても、動物にシンパシーを感じることが出来ない人間でして...」
 まき散らしてしまった笑いを回収すべく、この気まずい雰囲気をなんとか取り繕おうと私がそう言うと、アレックスはうつむきながら「別にいいよ」と言った。
「君が悪いんじゃない。ただ、君は知らないだけなんだから...」と。

 しかし確かに、部屋には再び気まずい雰囲気が立ち込めていた。自分の薄情さを何とか挽回しようと焦りつつ、だけど同時に私の脳裏には、その重苦しい空気は少し前にも体験したのではないかという既視感がよぎっていた...。そう、確か、少し前にもどこかの飲みの席で、アレックスとこうした問題を巡って、シリアスな雰囲気になったことがあったのである...。

"なぜ、肉を食べてはいけないと思うのか?"
"なぜ、捕鯨してはいけないのか?"
 あの時も私とアレックスは、とあるバーで飲みながらベジタリアンを巡ってそんな風に話し込み、私は初めて、彼から『種差別』という言葉を教えてもらったことがあったのだった

 種差別...それはすなわち、倫理学者ピーター・シンガーによって提唱されたヒト以外の生物への差別を意味する言葉であり、アレックスは「動物だから食べてもいい」という私の血も涙もない意見に対して真向からこの『種差別』という言葉を突きつけて反論したのだった。
 そしてあの時も、アレックスはその後「別にいいよ」と私に言った。
「君は彼らが感情的な生き物だって知らないだけだから」と。
 そして彼はこう続けたのだった。

「捕鯨は伝統だって言う人も居る。だけどその伝統が間違っている時だってある。アフリカでは2000年近くもの間、女性器切除の風習があり、麻酔無しの手術によって感染症や激しい痛みや後遺症、さらには死ぬケースがあった。この非人道的な行為によって実に多くのアフリカ女性が苦しんでいたけれど、それもまた長く行われていた風習であり文化と主張する人達が居た。そして彼らはそれが間違っていると知らなかった。...もちろんアメリカだってそう。少し前まで黒人を殺しても何の問題はなかった。黒人は人間だとみなされていなかった。だけど今、それらが間違っていたのだと世界が気付いた。彼らは知らなかっただけ。そういった認識は時間をかけて、少しずつ変わっていっていくものなんだ」...。

 この日もまた、イルカのドキュメンタリー映像を消す作業をしながら、アレックスは「別にいいよ」と悲しそうに言った。「それでも君をリスペクトしてることに変わりないから」と。
 バツの悪い空気の中で、私はもう笑わなかった。名誉挽回のために何を言ったらいいのかも分からなかったし、これは私にとって再び『種差別』について考えるチャンスかもしれないと思っていた。黒人が人間として扱われていなかった時代についても考えてみた。とすると、いつかイルカの大統領が生まれる日も来るのだろうか...。
 そんなことを考えながら半信半疑、私はこれまでの自分の認識が間違っていたのかもしれないという申し訳なさを感じ始めていた。アレックスは「君はただ、彼らが感情的だって知らないだけだから」と言う。そう、私はもしかすると、アレックスの言うように、まだイルカについて(あるいは動物たちについて)、何も知らないのかもしれない。私はそう思い始めていた。

11月24日
 コロラドなどのいくつかの州を別にすれば、マリファナは今もアメリカの多くの州で使用を禁止されており、ここウィスコンシン州マディソンでも違法ドラッグの一つだった。だけど私の知る限り、アメリカ人の友人の多くがマリファナに関してとてもカジュアルだったし、その使用に難色を示す人でさえも「マリファナは煙草に比べると(中毒性が低いので)さほど危険ではない」と言うのを何度か聞いたことがあった。好きか嫌いかは別として、あるいは違法であるかどうかは別として、「ドラッグを使用したことがあるか?」と質問すると、たいていの友人達は「使用したことがある」と当たり前のように答えたし、夜のバーなどで飲んでいるとふと、どこからともなくマリファナの強い匂いが漂ってくることはマディソンであっても稀なことではなかった。
 だから、私がマリファナやその他のドラッグに興味を持ったのはごく自然な成り行きで、多くの友人達がそんな私に独自のドラッグとの関わりについて語ることにいささかも躊躇することはなく、「マディソンでもどこでも手に入るから、使いたかったら使わせてあげるよ」とのオファーを受けることさえあった。

 中でもテリーという男の子は、ドラッグにちょっと詳しい友人の一人だった。彼はワシントン州に住んでいたことがあり(ワシントン州ではマリファナは合法である)、そのころはほぼ毎日マリファナを眠る前にたしなむのが日課だったそうだが、そんな彼の実姉は昨今全米でブームを巻き起こしつつあるCBDオイルのビジネスに今年になって着手したという筋金入りだった。ちなみに、CBDというのはマリファナの成分に含まれるカンナビジオールという成分のことであり、不眠症や免疫システム、ホルモンバランスを整える効果があることから、2014年にコロラド州がマリファナの合法化に踏み切ったのをきっかけにして注目されるようになり、今ではオイル、コスメ、レストランやカフェのメニューでその名前を頻繁に見かけることがあった。
 だからマリファナには心身ともにリラックスする効果があるのだと言って違法ドラッグに対して肯定的な意見を述べるテリーは、ドラッグが全て危険であるわけではないと、あるときその高い医療的効果について教えてくれたことがあった。とりわけ数年前、テリーはひどいうつ病に悩まされていた時期があり、そんな折に南米のペルーで経験したという強烈な幻覚剤"アワヤスカ"による神秘体験は、その地獄のような日々から彼を救い出し、「これまでのクソみたいな人生を一変させた」のだと彼は語った。
 もちろんこの"アワヤスカ体験"はテリーに限ったことではなく、南米で古代よりシャーマンなどによって使われているアワヤスカをはじめとするさまざまなサイケデリックなドラッグが、その高い医療的効果の側面を期待され、うつ病やてんかんなどに苦しむ人の希望となって、世界中の人々を魅了しているのは有名な話だった。だけどこれまで全くドラッグ文化に精通してこなかった私としては、テリーの言うように、そうしたある種のドラッグを通じてその後心穏やかに、再び自分と世界を愛するようになるというポジティブな逸話などは目から鱗の落ちる話ばかりであって、だから私はこのごろ、いったいドラッグとは何者なのだろうかと考えるようになっていたのだった。

 そんなある日のことだった。
「くそ!あいつらコカインでもやってたんじゃないか?」
と、友人のアレックスが悪態をついたのは、とある飲み会の帰り道でのことだった。
「どうだろう、コカインをやっていたのかな。匂いはしなかったけど...でもやってた可能性はあるな...」
 そう答えたのは、これまたドラッグに少しだけ詳しいイーサンという青年である。イーサンもアレックスも、その日、初めて知り合いになったエドとマノというカップルが、その飲みの席で突如ハイテンションになったことについて話していた。
 エドというのは、かつてホームレスをしていたという壮絶なキャリアを持つ若い男の子で、マノはそんなエドを誇らしげに見つめる一見すると普通の、可愛らしい女の子だった。二人とも最初こそとても好感の持てる若者達だったのだが、夜も更け、お酒が進んでいくうちに、マノはトイレから戻る度にどんどん陽気になり、どちらかというとその陽気さは煩わしさを伴って、時々冗談ながらも挑発的に近距離で汚い言葉を吐いたり、妙な踊りを踊るようになっていった。その一方、エドはマノとは逆で動きが鈍く、ふんぞり返ってよく分からないことを淡々と喋り、一人でくだを巻いてはビールを煽るようになっていたのだった。

 「ドラッグをやったらあんな風になるの?」
 この夜、ハイとダウンになったマノとエドの言動を振り返りながら私がそう尋ねると、イーサンは少しだけ考えて、「人によるけど、その可能性は高いね」と言った。「もちろん、酒に酔っていただけかもしれないけど...」と。
 だけど、アレックスもイーサンも、そして私でさえも、その日のあのカップルの常軌を逸したテンションに心穏やかではなく、アレックスは帰る道すがら、やっぱり「あの子はトイレで薬をやったに違いない」と何度も言った。
 とりわけマノのテンションの高さは、私達のテンションから圧倒的にずれていたし、私も思い返すと何度かマノに至近距離で「ファッキン・ナンバーワン!」と叫ばれることがあった。もちろんマノもエドもいい人で、陽気だった。だけどその笑顔の中にはどこか私達を怯えさせる狂気をはらんでいて、その二人が放つ圧倒的な高揚感は何か別のところで生み出されているもののようだった。
 もちろんそれがドラッグだったのかどうかは、誰にも分からなかった。二人はただ単純に酔っぱらっていただけかもしれなかった。だけど大切なことは、そこに私たちを置き去りにする圧倒的な違和感があったということであり、そしてその違和感こそがアレックスやイーサンに「ドラッグを使用したのではないか?」と言わしめたことだったのである。

 近年、アメリカではゆるやかにドラッグへの認識が変わりつつあるようだった。そしてその流れはここマディソンでも時々感じることが出来た。ネガティブな意見もあれば、ポジティブな意見もあった。テリーのように治療として必要とするケースも数えられないほどあった。CBDブームや合法化へ向けての活動もさかんに行われていたし、治療や神秘体験といったキーワードを通じて、私自身のドラッグへの認識も少なからず日本に居たときに比べると変化したように感じることもよくあった。
 だけどこの日、エドとマノのテンションに違和感を覚えながら、私はこの違和感こそが、ドラッグに注意深くあらねばならない所以なのではないかと思っていた。手放しで得られる高揚感や多幸感に現実の鏡を照らし合わせるとき、私達の中に一抹の不信感が芽生えたのだとしたら、それは決して見過ごしてはいけないものであり、それこそがドラッグの怖さなのだと、改めて私はそう感じていたのだった。