隙間の空いた車

12月26日

 初めての自動車事故は、金曜日の夜、家族で近所に新しくできた"ポーティロス"という人気のシカゴ系ホットドックのチェーン店を食べに行った帰りに起こった。「さあ美味しかった、帰ろう」と、私たちは大満足で、駐車場の道沿いを出口に向かって、走らせていたところを、突然、ガーン!と、もうこれ以上ないくらいしっかりと、見知らぬ車に突っ込まれたのである。折りあしく、師走の嫌な雨が降る寒い日だった。
 ガーン!
 左から白井くんが運転する運転席に突っ込んできた車は、ガーンと当たった後、さっと後退りをすると、ためらいながらも再びハンドルを切り走り出したので、私たちは急いでクラクションを鳴らした。黒のホンダ。当て逃げしようとしたその車は、私たちの車よりもずっとずっと新しくて高そうな車だったけれど、クラクションを鳴らされて中から出てきたのはエキゾチックな面持ちをしたアニス・クレシュニクというほんの21歳の、若い学生だった。
「お金払うから行っていい?逃げないよ、僕はそんなロクデナシじゃない、ほら、僕の免許証。ね、これで逃げも隠れもできないから。僕はそんなロクデナシじゃないよ」
 グッチの免許ケースから免許証を出して、ろくでもない喋り方をするこの若い男を制しながら、私と白井くんはどうしていいかわからなかった。だけどどう考えても私たちは被害者だった。私たちは駐車場内の道沿いをゆっくり走っていて、突然左側から相手が突っ込んできたのだ。相手の進む先に道はなかったし彼も「お金払うから」と非を認めている。
 だけどまず、呼んでも警察は来なかった。「怪我人がいないなら、もういいから、あんたたちでなんとかしなさい」とのことである。仕方がないので、このロクデモナイ男と双方の車を検証してみる。
 
 私たちのただでさえ壊れそうなオンボロ車は、衝突によって左側の運転席のドアに大きな凹みができ、それによって完全にドアが閉まらなくなっていた。アニスの車は車のヘッドライトの鼻先に傷がついているだけだったが、それをみるとアニスは「僕も修理しないとな...、あ、気にしないで」とぼそっと言った。(誰が気にするか。)そしてひとまず、私たちはお互いの連絡先を交換し、壊れた車の写真を撮り、お互いのナンバー、保険証を控えて保険会社に委ねることにした。別れ際、「ちゃんと支払われるよ。大丈夫、僕たちの車は治るよ」とアニスはペラペラと言った。もちろん、私たちもそう思っていた。こっちに全く非はないのだから(少なくとも私たちはそう思っている)車の修理費は保険会社かこの男によって賄われるだろう、と。
 だけど、蓋を開けてみると、保険会社はストップサインなどの標識のない駐車場での出来事ということ、目撃者のいないことなどを挙げて、私たちの衝突はお互いに非があるということにすると、そういった場合の「衝突保険」に加入していない私たちの車への修理代は賄われないのだと早々に結論づけた。二度目の、「後は自分たちでなんとかしてください」状態である。しかもちゃっかりこの衝突保険に加入していたアニスは、例のかすり傷の修理費が出るのだという。すぐさまアニスに連絡を取るが、「僕はもう保険会社と話はついたからもう連絡して来ないで」と手のひらを返したような態度である。
 
 どうすることもできなかった。そしてこの時になってやっと、私たちはここアメリカでの保険会社の対応のアンフェアさや、事故に遭っても修理代を支払われなかったというたくさんの事例を聞き知ることになった。中には被害者であっても結局全額自費で修理した上、次の年は保険代が値上がりしたという話もあった。当て逃げされてナンバープレートを控えたとしても相手が保険に入ってないから自分でどうにかして欲しいと警察に言われたケースもあった。
 そしてそう考えてみると、こちらでは信じられないくらいボコボコの汚い車を見かけることが時々あったことに思い当たった。ドアが凹み、車体に傷がついているのはまだ可愛いもので、窓ガラスがなかったり、サイドミラーをガムテープで補強していたり、ガラスの代わりにゴミ袋を張って、その端っこが風でなびいていたりして、とにかくボコボコでみすぼらしいのである。そういう車を見かけるたびに私は「どうして修理をしないのだろう」と思っていたが、まさか自分たちの車が同じ運命を辿ることになるとは夢にも思っていなかった。

『あなたが私たちの車に衝突したせいでドアが閉まりません。そこから寒い風が入ってきます。私の息子はそんな車にこの冬乗り続けなければいけません。修理ができなかったら、息子が寒い思いをします。そのことを考えてください』
 
 なすすべもなく私はアニスにそうメールをした。と、すぐさまアニスから電話がかかってきた。
「YO, あんたたちは衝突保険に入ってないから保険会社から修理代を出してもらえないんだよ。僕が悪いんじゃない。僕は車を停めようとしてたから、これは僕のせいじゃない。でももちろんあんたたちのせいでもない。誰のせいでもない。僕はロクデナシじゃない。良い人間だ。あんたたちが良い人間だっていうのも知ってる。だけどあんたたちは衝突保険に入ってなかった。」
 アニスはとにかく、自分が悪い人間じゃないということを強調し、なぜか私たちのこともすごく良い人間だと高く評価したが、こっちとしてはそんなことよりも修理代を得られないことに納得がいかなかった。
「あなたがドアを壊したせいで車の隙間から寒気が入ってきます。息子のことを考えてくれませんか?」
 私がそういうと、アニスは「半額なら支払う」と言った。
「全額払ってくれませんか?」
「Hey, 聞いて、これは僕のせいじゃない。あんたたちは衝突保険に入っていなかった。でも僕はロクデナシじゃない。僕の両親も移民だ。僕は今日、あんたの息子に自分の姿を重ねた。もし両親が同じような状況になって、僕があんたたちの息子だったらって。だから僕は半額払うよ。あんたたちの息子に寒い思いをさせたくないから。僕の両親もヨーロッパからやってきた外国人だ。だから僕は良い人だ。あんたたちが良い人だってこともよく知っている。これがアメリカ人ならこうは行かない。電話もメールもブロックして、半額だって払わないで終わりだ。でも僕はそんなアメリカ人とは違う。悪い人間じゃない。だけど半分だけしか払えない。オーケー?ねえ、今年はそんなに寒い年じゃないって知ってる?」

 アニスは何度も電話口で「自分はアメリカ人ではない」と言った。アメリカで生まれたけど、ヨーロッパ移民だ、と。「アメリカ人とは違う、だから自分はとても良い人間だ」と。そして私たちのような外国人がいかに異国で頑張って暮らしているかも両親の姿を見てきたから知っている、と言い、それは不思議なことに私の心に妙に突き刺さった。
「僕は今こうしてあんたたちと話をしている。僕はメールを無視することも、電話番号をブロックすることもできた。でも僕はそんなロクデナシじゃない。」
 終いにはアニスが「あんたたちが本当に頑張ってることは知ってる。あんたたちは本当に良い人間だ」と言うたびに私は心に何かぐっとくるようになっていた。そして電話を切る頃には私はアニスに「ありがとう」などとお礼を言って、半額でも払ってくれると言ってるアニスは本当に良い奴だなと思うようになった。確かにきっと、アメリカ人ならこうは行かなかっただろう。メールしたって返事はなかっただろうし、電話だってつながらなかっただろう。ドアは直らず、一円たりとも支払われないのが落ちだろう...。苦労してきた両親を見て育ったから、アニスはまあ、悪い人ではないのだろう...。
 
 だけどアニスはやっぱりロクデモナイ男だった。
 そんな感動の電話の後、一週間も経たないうちに、「学費を払ったりしないといけないから、払える余裕がない」と彼は再び電話をしてきたからだ。申し訳なさそうに。そしてやっぱりアニスは自分が悪い人間じゃないと言った。自分は心の底から払いたいと思っている、と。だけど払えないのだ、と。そして誰も悪くないと言った。まあ、そうだろう。アニスはアメリカ人じゃないのだからとてもいい奴だし、アニスの理論から言うと、私たちも外国人だから「めっちゃ頑張っている良い人間」なのだ。そして、だからこそ、「誰も悪くない」のである。
 だけどそれなら責めるべきは一体誰だったのだろうか?
 極寒のマディソンで、隙間の空いた車を走らせながら、私はどうしても納得がいかなかった。だけどそんな車は私だけではなさそうだった。見渡せばここでは、今日も同じようなアンフェアな顛末の末、たくさんの車がボコボコのまま行き交っていたからである。