ミサンガ

1月16日

 韓国人のヘジンはマディソンのカレッジに通う二十歳の女の子だった。私はこの夏、共通の知り合いを通じて彼女と友達になり、夏の間、この若い学生のヘジンと、それからパナマから来た若い学生の友人たちとグループになって、よくつるんでいた。パナマから来た他の友人たちは、パナマ政府のプログラムで私がかつて通っていたマディソンの語学学校に夏の間だけ語学の勉強に来ていた留学生たちだった。ヘジンもパナマ人の子たちも二十代前半の若者たちだったけれど、私は陽気な彼女たちが好きで彼女たちを誘っていろんな場所に遊びに出かけた。ヘジンもパナマ人の子たちもお酒が入るとよく踊り、私のスマートフォンにはこの夏、たくさん彼女たちの写真が収められていた。

 十二月の半ば、いよいよパナマの子たちのプログラムが終了し、彼女たちが帰国する日が差し迫ると、私はいっそう多くの時間を一緒に過ごし、忙しいヘジンも学業の合間を縫って合流し、よく遊んだ。
 帰国直前の最後の週末には、私たちはたくさんハグをして別れを惜しんだ。そしていつか日本で、あるいはパナマで、と再会を何度も何度も約束し合った。パナマ人のアシェリーは「友情の証に」と言って色違いのミサンガを買いたがり、私たちは色違いのお揃いのミサンガをつけることとなった。ミサンガのつけ方が分からなかった私に、アシェリーは直接ミサンガをつけてくれた。生まれて初めてつけるミサンガだったが、三十七歳の私にとってはかなり甘酸っぱいミサンガだった。そしてまだ帰国まで数日残っているので、もう一度だけ最後に会おうと私たちは約束して別れ、結局この日が私たちの最後の日となった。

 この二日後、私たちはコロナウィルスに感染していたことが発覚したからである。
 ヘジンたちと最後の週末を楽しんだ次の日から四十度近くの熱が出たので、私はすぐにPCR検査を受けに行った。結果は陽性。時を同じくしてパナマ人のケイラも陽性だった。ケイラは数日後にパナマに戻る予定だったが、フライトは即時にキャンセルされた。もちろんヘジンも感染していた。彼女もまたその数日後に家族でクリスマスをフロリダで過ごす予定だったが、全て白紙となった。ケイラのホストファミリーも感染していた。
 折あしく、私はその頃、五歳になる息子の誕生日会を盛大に執り行っていた。パーティには息子のクラスメートや友達をたくさん招待し、私はケーキを切り分け、子供たちに、ママ友たちに配ると、マスクも付けずにベタベタとたくさんハグをした。その結果、五歳のエミリーと一歳になるその妹が感染した。一番仲の良いエフゲニアというロシア人のママ友も感染し、その家族も感染した。ついでに白井くんも感染した。

 というわけで、ホリデーシーズンの一番忙しい時期に、私とその周りの人たちはバタバタとドミノ倒しのように隔離生活に入っていった。そしてその頃のマディソンは、いやアメリカは、これから2022年を迎えると言うよりは、2020年に戻るのではないかというほどコロナウィルスの感染者がどこの州も軒並み上昇していた。PCR検査の会場はホリデーシーズンの旅行のために検査する人と、実際に感染した人たちでごった返し、どこのドライブスルーにも長蛇の列ができていた。薬局では自宅で出来るウィルスの簡易検査キットが品薄となり、先を見越してストックを持っている家庭から横流ししてもらったり、「どこぞの薬局にいましがたストックがあるのを見かけた」というママ友たちからの内輪の連絡によって薬局まで買いに走るような事態だった。少し前までは、オミクロンはフロリダかどこかで発見されたかもしれない...というニュースだったが、気づけばマディソンのそこらじゅうでオミクロンが発見されているようだった。
 だけど、いくら感染者と接触しても全く感染しない人たちもいた。五歳の私の息子はどんなに感染者と接触しようとも最後まで感染しなかったし、ミサンガをつけてくれたアシェリーも、「ヘジン、ケイラ、私」というトリプル感染者に一日中揉まれながら、その感染を免れた強者だった。ブラジル人のルアーナも感染したエフゲニアと私に挟まれてマスクなしに何度もハグをしたにも関わらず感染しなかった。大きな声では言えないけれど、症状がほとんどないからおそらくは感染しているだろうけど検査に行かない、という人もいた。

 症状も千差万別だった。ケイラは感染者でありながら、無症状でピンピンしていたし、ヘジンは眩暈と倦怠感を訴えて十日間の隔離期間を終えてもなおなかなかPCR検査が陰性にならず、誰よりもずっと長く隔離生活を送っていた。ママ友のエフゲニアはずっと嗅覚がおかしいといって味覚障害を訴えていたが、隔離生活を終えると元に戻ったようだった。(後で知ったことだが、エフゲニアは反ワクチン派で、先のワクチンを一度も受けていなかった。)
 私はというと、最初の一日は四十度近くの熱がでたが、その後はしつこい咳とひどい倦怠感、凄まじい眠気が一週間ほど続いただけで、あとは結構元気だった。
 だけど体の症状というよりも、私はどちらかというとコロナウィルスに感染したことそのものに対する精神的ショックの方が大きかった。一旦自分の健康に対する過信が崩れると、症状がある間は、この世間を悩ますウィルスに一体自分がどれほど耐えられるのだろうか?という恐怖が沸き起こったし、同じように感染した友人たちの安否も心配だった。それから白井くんだけがずっとコロナウィルスを私が運んできたことをぷりぷりと根に持って怒っていたので、それも悲しかった。だからとにかく、私は隔離期間、これでもかというほどよく眠った。おそらくはウィルスのせいなのだろうが、この期間私はいくらでも眠れた。そしてその間とても多くの夢を見たし、なぜかそれは幸せな夢が多かった...。
 隔離生活が無事に終わると、世の中は2022年に突入していた。これほどオミクロンが蔓延している中でも、今ではもう世の中はロックダウンなどしなかったし、どこの学校も新学期は二日間だけオンラインで行ったものの、結局その後はすぐに対面の授業が解禁となった。一度だけジムでマスクをつけていない若い女の子に突っかかるおばさんを見かけたけれど、少し郊外に行けば、これほど感染者が出ているにもかかわらず、室内で誰もマスクをつけていないことがよくあった。2年前、ロックダウンの際に「うちはマスクなんてつけなくても良いよ」とマディソンのとあるカフェが「マスクフリー」を謳い、そのせいで数ヶ月後に閉店に追い込まれたことがあったが、そんなことは今ではもう嘘みたいだった。
 感染報告義務があったので、陽性反応が出た五日前までに遡って接触した人たちに報告し謝罪すると、ママ友のロータスは「謝らないで。怒ってないんだから。」と言った。
「パーティはすごく楽しかったんだから。どうしようもないでしょ?それとも私に人生を生きるなって言うの?」
 
 幸い、私の周りで重症化した感染者は一人もいなかった。ケイラは隔離生活最終日に無事にパナマに帰国していったし、ヘジンは冬休みのほとんどを隔離で過ごしたが、来週から対面の授業が始まるのだと言って「そろそろ彼氏が欲しい」と恥ずかしそうに言った。白井くんもなんとかまた研究に専念できるようになり機嫌が直ったようだった。日常は新しく、だけど変わらず進んでいるようだった。

 これが、2021年の年末から2022年の始まりにかけて、私と私の周りで起こったコロナウィルスにまつわる出来事だった。