変わりゆく世界

5月18日

 先月末にひと月延長されたウィスコンシン州の外出規制命令が"違法"であると州の最高裁判所が判決を下したのは、ロックダウンの終わりまで残り二週間となった今月13日のことだった。世界的にも話題となったこのウィスコンシン州の異例の判決は、とどのつまり、この日をもって先月末から続けられていたロックダウンが突如として、事実上"無効"となったことを意味していた。
 もともと共和党の強い同州は、つい二ヶ月ほど前にも州の選挙投票日を延長しないという驚きの決断をし、コロナウィルス猛威のピーク時に人々が投票所へ集まらざるを得ない事態を引き起こした特殊な州として悪目立ちしたばかりだったが、今度という今度も、州知事の「外出規制延長」の命令が最高裁判所によって退けられ、その混乱の中で一部の地区でその日中にバーになだれ込んだ人々が近距離で酒を飲み交わす映像が大きく報道されてしまう結果となった。
 ある番組ではウィスコンシン州は冬が厳しいことから、「あそこは冬に毎年二ヶ月は自主的に自然の(雪による)ロックダウンをしてるところだから、彼らの気持ちは分からなくもない」と皮肉たっぷりのジョークを飛ばしつつ、もちろん今後懸念されるであろうウィルスの第二波についての厳しい意見を言い添えることを忘れなかった。

 だけど確かに、私たちはこの早すぎるロックダウン解除への不安以上に、やはり二ヶ月のロックダウンが終わるということへの喜びに浮き足立っていることも隠しようのない事実だった。もう五月半ばである。いつしか大学も春のセメスターがファイナルを迎えて終わり、学生たちはすでに長い夏休みに突入していた...。たった二ヶ月。されど二ヶ月、であった。

 ところで私はこのロックダウンの二ヶ月間、仲良くしているグループの友人達とのビデオチャットだけは毎週欠かさず企画するように心がけていた。でなければ、人とのつながりの無い日常生活がどんどん希薄化していくような気がしていたからだったが、もともとホームスクーリング(家庭内学習)という形で自宅で教育を受けてきたデクレンという大学生は、「今回のことで、僕には友人との関わりがあまり必要ないのだということが改めて分かりました」と、オンライン授業に切り替わったロックダウン下での生活が「さほど苦ではなかった」と言って私を驚かせたこともあった。オンラインに切り替わり、日中家で作業をすることのモチベーション維持に多くの人が苦闘する中、デクレンは一人で自宅学習することに慣れているタフな青年だったのである。

 だけどコロナウィルスの影響で全ての教育がオンラインに切り替わったことは、ウィスコンシン大学を主体とした学園都市・マディソンに住む私にとっては大いに着目すべきことでもあった。ある州ではオンラインに切り替わったことで、授業料の返済を学生側が大学に求めた例もあったし、ウィスコンシン大学はコロナウィルスの始まりと共に大学関係者トップ何人かの給料削減を発表、シカゴ大学はコロナ以前に検討していた授業料の値上げの見送りを発表していた。 
 オンラインになったことで、多くの学生たちがアパートを引き払い、母国へ、地元へと帰って行った。「授業によっては、オンラインなら意味がないし、YouTubeでもっと良い授業が見ることができる」という意見を耳にすることもよくあった。大学でスペイン語の授業を受講していた友人も「全然面白くないから、秋もオンラインなら絶対に受講しない」とはっきりと私に言ったことがあった。

 それから大学中で、学期末テストのカンニングが当たり前のように横行したことも特筆すべきことの一つだった。オンラインでの試験で、誰がどういう形で試験を受けているか分からないのだから、どの試験も"カンニング天国"というわけである。
 私の友人の一人は、たまたま彼女の「日本語」の期末テスト時間中に私が企画していたビデオチャットに乱入すると、そこでチャットをしていた私を含む日本人三名に自身の日本語のテストを回答させるというとんでもない暴挙に出た強者だった。「宿題」だと偽る彼女に乗せられて、日本人三人で日本語の期末テストを手伝った後、それが期末試験だったと気づいた私に向かって彼女はあっけらかんとこう言ったものだった。「どんなcheating(カンニング)を選ぶかは個人の選択だと思う」。「大丈夫、セイコはpunishment (罰)ないから」...。

 思えば、たった二ヶ月だったけれど、確かにたくさんのことが大学を巡って変わったようだった。最近では、閑散としたキャンパスに若い学生達ではなく、デリバリー用のロボット達を頻繁に見かけるようになった。これは去年の秋から大学内で導入された「アプリ一つでフードデリバリーをするロボット」だったが、コロナウィルス発生とともに、彼らの活躍ぶりはいよいよ勢いを増したように思われた。土日を問わずあちらこちらで忙しそうに働くロボット達を見て、ある時、地元メディアは「彼らは今やキャンパス内の大切なフロントライン労働者だ」と伝えて賞賛していた。
 たった二ヶ月、されど二ヶ月の出来事だった。
 

ロックダウンの世界

4月29日。
 平和な街マディソンも、コロナウィルスによるロックダウンから、はや一カ月が経とうとしていた。もちろん、世界中のほとんどの街と同様、ウィスコンシン州はこのロックダウンのあとひと月の延長を発表し、必要不可欠な外出以外の自粛を人々に求めたが、これまたあらゆる他の都市同様、マディソンでもこのロックダウン延長日には、その決定を不服とし、「リオープン」を目指す人々による抗議デモが巻き起こっていた。
 このひと月の自宅隔離生活をなんとか耐えた多くの人の関心は今や、日々のウィルス感染者数、あるいは死者数の伸び率よりもむしろ、いつ経済が再稼働するのか?いつになれば元の生活に戻れるのか?という強い「終息」への期待へと移行しており、私もまた、昨日と区別のつかない日常の中で、長いトンネルの出口を探しているようだった。
 
 ところでロックダウンになってからのひと月、行くべき場所を失った私はというと、ここのところウィスコンシン大学の所有する樹木園に頻繁に通うようになっていた。広大な敷地を誇るこの樹木園には、様々な散歩コースや空き地があり、湖があり、森があり、それでいて人と接触する機会がほとんどない穴場だったので、私は雨の日以外はいつも、午後になると息子を連れてこの樹木園を訪れるようになった。ロックダウンが始まってすぐにこの森では殺人事件があったりもしたが、それでもその次の日の午後にはまた、私は樹木園に出向いていた。毎日、子供と森を散策し、枯れ木を拾い、移ろいゆく季節が目に見える形で果樹園に咲き乱れるのを観察するのがいつしか日課になっていた。
 そして夜になると、いつも一時間ほど自宅付近をランニングをするのもまた私のルーティンの一つだった。道ゆく人との距離感に注意しながら、夕陽の見える湖の近くまで走り、森の中を抜け、近所の公園を私は一人、ひたすら毎日黙々と走った。友人の住むアパートの近くに差し掛かる時にはいつも、ひょっこり友人が出てこないものかと想像を膨らませたりもしたけれど、結局そんなことは一度たりとも起こらなかった。
 それからこのひと月、信じられないほど長い時間眠るようにもなった。日中、買い出しと樹木園に行く以外、暇さえあれば、私は子供の目を盗んでうつらうつらと船を漕いだ。朝も昼も夕方も、こんなに眠れるのかと言うほど、ちょっとした時間があれば眠り、起きている時は樹木園でぼんやりし、ご飯を食べ、ランニングに出かける前には必ずお昼寝をした。時々友人達とビデオチャットをすることがあったので、その直前に世の中の動きをチェックすることはあったけれど、私はもうなんだか世界の果てに来たような、あまりにも多くの時間を眠り、夢と現実の区別のつかない世界に生きているような、そんなライフスタイルになりさがっていた。
あるいは、「これはもうコロナウィルスに感染しているからこれだけ眠いのではないか?」という妄想に取り憑かれる日もあった。だけど、それでも陽が沈むころ、むっくりと昼寝から起きだし、張り切ってランニングに出かけられるほどに私は健康だった。
 そして走りながら、いつも過去のことを考えていた。ロックダウンに入り、帰国を余儀なくされてしまった友人達。彼らと春になったらお花見に行こうと約束をした日々。カラオケ、バーベキューの計画、そしてその全てが幻となったこの一ヶ月。戻ってこないユーティン。公開されなかった映画。毎週集まっていた友人。美しいテラス。行きつけのバー...。頭の中をぐるぐるとよぎるのは、そうした過去の亡霊たちだった。

 もちろん、スラヴォイ・ジジェクが言うように、私たちは「誰もがおなじ船に乗り合わせていた」。誰もが人との接触を避け、マスクを着用し、手袋をつけていたし、スーパーに買い出しにいけば、6フィートの距離を保ちながら大量のまとめ買いをしていた。カートというカートは全て消毒されて、レジはプラスチックの壁でそれぞれ仕切られていた。人々は向こう側に人を見つけると、そそくさと道を変えるか、一旦立ち止まって安全にやり過ごすかのどちらかで、私も密かに、人とのすれ違い様には息を止めることさえあった。
 だけどこんな風に接触のない世界というのは、なんと味気ないことだろうか...。
 日々、引き起こされる謎の睡魔に身を委ねながら、私はただ、ロックダウンの世界をそんな風に感じながら生きていた。制限された距離の中で、その大切さに気付かされることは大いに意味のあることではあった。だけど一方でそれはただ、私にとって、夢か過去にしか行くことのできない、終わりのような世界の様相を呈していたのである。

怒り

3月26日

 WHOによるパンデミック宣言からちょうど二週間目の3月25日。ここ、アメリカウィスコンシン州ではトニー・エヴァース州知事による『Safer-at-home(家でなるべく安全に)』という自粛の発令の日を迎えていた。  
 前日の3月24日、州知事は「明日発表される『Safer-at-home』はシカゴのあるイリノイ州などの厳格な外出禁止命令ではない」と住民に伝えてはいたものの、刻一刻と変わりゆく感染拡大のニュースの影響からか、結局、その次の日の朝8時より施行されることとなったルールでは、"生活に欠かせない活動以外のビジネス"は全て閉鎖、公私を問わずいかなる人数の集まりも禁止、自宅滞在命令に従わない場合は250ドルの罰金(散歩やランニングは可)といった厳しい内容が盛り込まれており、それは結局のところ、ウィスコンシン州が今後一か月にわたり、事実上のロックダウンに入ることを意味していた。
 3月25日、アメリカが中国を抜いてコロナウィルス感染者数ナンバーワンに躍り出た前日のことである。

 だけど私にとって、このロックダウンの発令はさほど大きな意味を持たなかった。この発令のもう一週間以上も前から、ウィスコンシン大学は出入り禁止となっていたし、カフェやバー、シアターなど人の集まる場所の営業も禁止、意識の高いマディソンの友人達は発令が出る前から「ステイ・アト・ホーム」と言ってすでに誰も会ってはくれなくなり、「なぜ州知事はロックダウン宣言をしないのか?」という声さえ上がって「遊ぼう」などと言える雰囲気ではなくなっていたからである。だからすぐに、私たちはパンデミック宣言のあとずっと、「家から出ないことが自分たちに出来る最善のことなのだ」という認識を当たり前のように受け入れて過ごし、定期的に会う友人達とはSNSなどのツールを使ってバーチャルで会うようになっていた。

 もちろん、そんな生活は楽しいものではなかった。だけどアメリカの感染拡大の速度はあまりにも速く目を見張るものがあったので、私はいつしか日々上昇していく様々な数字を毎日追うことに一日の多くの時間を費やすようになった。たくさんのニュースに一喜一憂し、焦りや不安を感じながらも、こうして情報を集めることこそがパワーだという使命感に駆られるようになってもいた。あまりにも突然、長時間インターネットの記事を睨むようになったので、頭痛と肩こりに悩まされるようにもなった。だけどそうやって必死でかき集めた有力な情報はすぐに友人達にシェアするべきだとも思って居た。それが今、私が家に居て、個人でこの世界的危機と戦える最善の手段だと思っていたのである。

「セイコ、いい加減にしろ」
 とつぜん、名指しでそう怒鳴られたのは、会えなくなった仲の良い友人数名とグループチャットをしていた時のことだった。そのうちの一人が、突然、コロナウィルスの話の最中、私一人に怒りを向けてきたのである。
「お前は、人の気持ちを全然考えていない」と。グループチャットにコロナウィルスに関する情報の投稿をすることで、気分を害する人が居る。暗い話は聞きたくないのだ、と言うのである...。
 私は必死で今、情報を持つことがどれほど大切なのかを説明しようとした。助け合うこと、シェアすることがどれほど大きな力となり、人々の意識や行動につながるのか...。だけど彼は聞く耳を持たなかった。ただただ「セイコ、いい加減にしろ、人の気持ちを考えろ」と言って怒るのである。
 ショックと驚きを受けたまま、私はその日のグループチャットを切らざるを得なかった。どう考えても彼の言うことは一方的で、矛盾や腑に落ちない点が多かったが、それよりもそもそも私はこういった「攻撃」に慣れていなかったのである。良かれと思って発していた自分の中の精一杯のパワーが、突然「他者の怒り」として跳ね返ってくることは、世間ではよくあることなのかもしれなかったが、こんなことは初めての経験だった。そしてそんな風に一方的にぶつけられた「他者の怒り」のパワーをうまくかわせるほどに、私は経験豊富ではなかったのである
 だから電話を切った後しばらく、私は一人、暗い気持ちを抱えて考え込んでしまった。なぜ、温厚な友人があれほど私に対して怒りをあらわにしなければいけなかったのか。なぜ、コロナウィルスについて考えることをストップしたいと言うのか...?

 だけどコロナウィルス蔓延に伴い、もう一つ、人々の間にゆるやかに「怒り」が浸透していっていることも、無視することの出来ない大きな事実でもあった。それは内側から私たちを支配する、目に見えないもう一つの力であり、目に見える形で他人を傷つける発動力だった。
 世界中が、アメリカが、今、凄い勢いで危機に瀕していた。マディソンでもたくさんのビジネスがストップした。そのせいで地元のローカル誌はすぐに休刊となった。たくさんの企業が潰れかかっているとの報道があったし、富裕層はすでに自分たちでは外に買い物に行かないのだという噂を聞いた。(彼らは貧困層に買いに行かせるのである。) 混乱のさなかに、銃の売れ行きが伸びているとの報道も目にした。アジア人に対する風当たりが強くなった事例も聞いた。ウィスコンシン大学で大構内に「ウィルスは中国から来た。チャイニーズ・ウィルス!」と壁に落書きがあったと報道されたのはつい昨日のことだった。
「僕は今、強い怒りを感じている」
 そう語ったのは、私の所属するミートアップのオーガナイザーであるフィリピン人の友人だった。
「僕はとても怒っている。ウィルスに、政治に、全ての一連の出来事に...」
 それは、外出禁止令が発令される少し前のことだった。

 だけど今、そうした人々の怒りは、これからどこに向かって投げられようとしているのだろうか?今日、思いがけず向けられた他人からの怒りにさいなまされながら、私はそんなことを考えていた。日々生み出される怒りは今後、いったいどこに放たれるのだろうか?と。

3月13日

 隣に住む中国人のユーティンが戻ってこなかった。
「二月中旬には戻ってくるから」と言って祖国に帰省していったユーティンを、アパートの廊下で笑顔で見送ったのは今年の初め、一月初旬の事だった。それから二か月、ユーティンはいまだにマディソンに、私の隣の部屋に戻ってきている気配はなかった。隣に住んでいるのだからいつでも会えると思っていたので、私は彼女の連絡先を何一つ知らなかった。(私は彼女の名前のスペルすら知らなかった)。だからいつも「ユーティンはいつ戻ってくるだろうか?」と駐車場に停めてある彼女の車に目をやっては、彼女の帰りを待ちわびていたけれど、結局いつまでも持ち主の帰らぬ彼女の車は、いつしかその車体の表面に白っぽい埃が積もっていくようになった。
 なぜユーティンはいつまでたっても中国から戻って来ないのだろうか?三月に入ってから漠然と私の心に立ち現れるようになったこの小さな疑問は、だけど今になってはっきりと、その答えを日々のニュースから推測することが出来るようになっていった。
 
 アメリカでの十二番目のケースとして、ここマディソンでコロナウィルスの最初の感染者が出たのは先月二月五日のことだった。だけどそのころ、マディソンに住む人々はそれほどこの騒ぎに注意を払っているようには見えなかった。中国や日本、その他の国々で日々拡大していく感染情報を友人達と話題にする機会はあれど、それはいつまでも遠い異国の出来事の域を出なかったのである。友人達と集まれば、私はハンドシェイクの代わりに足や腕を使った「ウーハン・シェイク」や「エルボー・バム」についてふざけ合い、トイレットペーパーが無くなる日に備えて日本製のウォシュレットを買えばいいのだと言う友人の冗談に笑い、誰かが持ち寄ったコロナビールを飲んではケラケラと笑っているだけだった。
 ウィスコンシン大学に通う韓国人のハノルはコロナウィルスの流行に先立ち、彼女の韓国人の友人がクラスで咳をしたことでコロナウィルスに関係した「差別」を受けた話や、見知らぬ白人女性から「あなたの国の北京(中国ではなく北京!)は大丈夫?」という意味の分からないぶしつけな質問を公共の場所でされたという話をしたが、私たちはそんなハノルの話に、「マディソンでそんなことが起こるなんて信じられない」と驚きながら「だけどそんなケースは稀なことだろう」と結論付けただけだった。私にとってマディソンはいつだって平和な街だったし、それはいつ何が起ころうと永遠に変わらないと思っていたのだった。
 
 だから、それは、あまりにも唐突だった。
 WHOがパンデミック宣言をした三月十一日、その日中に近所のコストコやターゲットからトイレットペーパーがあっという間に消えたとき、私は軽いめまいを覚えていた。うろうろとトイレットペーパーを探す私の目の前には、トイレットペーパーの代わりにキッチンペーパーを購入する人々がレジに並び、それは遠く離れた日本でほん少し前に起ったと聞き知っていた馬鹿馬鹿しい集団心理の焼き直しだったからである。ウィスコンシン大学はこの日、すぐさま少なくとも四月十日までは人が集まるレクチャーをウェブ上に切り替えると発表すると、学生寮も閉鎖、全てのイベントをキャンセルすることを決定した。マスクや消毒液はもちろん少し前から手に入らなくなっていたのだと、私は遅ればせながらこの日初めて知ることになった。自分のためではなく、日本に住む家族のために購入しようと何年かぶりに良いことを(悠長に、)思い付いた矢先の出来事だった。
 また、人気ポッドキャスターで有名なジョー・ローガンはこの日、看板番組「ジョー・ローガン・エクスペリエンス」で公衆衛生学の専門家マイケル・オスターホルムをゲストに招くと、このパンデミックに対する専門的かつ分かりやすい番組を展開し、このポッドキャストが一時YouTube上のトレンドランキング三位に浮上して人々の注目を集めた。夜になるとトランプ大統領はヨーロッパからアメリカへの緊急渡航規制を発表したので、この夜、あと数日に迫っていた全米の春休みがある一部の人々にとって辛く味気ないものになった瞬間でもあった。
 そうして、そうこうしているうちに、もちろん次の日は食料品がスーパーからごっそりと消えた。友人は、アメリカで大量のレイオフが発生しているという記事をフェイスブックでシェアしていたし、その記事によれば多くのアメリカ人が今日はどこかで職を失いつつあるようだった。パンデミック宣言が発表されたわずか二日間の出来事だった。
 韓国人のママ友であるボミは、この日最も厳しい面もちで「アジア人と関わらないことが一番!」と私ににこやかにアドバイスをした。
「だって、ウィルスはアジアから来たからね。」
 ボミは大真面目にそう付け加えた。「セイコ、気を付けなさい」と。
 私はショックでひっくり返りそうになった。彼女のような教育熱心で教養のある女性が、このパンデミック宣言の混乱の中、私のことを、そして彼女自身のことを"アジア人"だと認識できなくなってしまったことは悲しむべき出来事だったからである。
 全ては、遠く日本で起った一連の騒動の、およそひと月遅れの出来事だった。

1月27日
 
 アメリカ人のデーヴィッドは、いわゆる"オタク"だった。私はデーヴィッドと"ミートアップ"というインターネット上で共通の趣味を持つ人達が集う交流会を通じて知り合いになったが、彼はいつも日本の電子辞書を懐刀のように大切に持ち歩き、時に、グループで集まっていてもゲームの攻略本を一人黙々と英訳しているような、ちょっとミステリアスで、「結構変わった人」だった。
 だから、と言ってはなんだけれど、私はずっとそんなデーヴィッドが少し苦手だった。ちょっとダミ声だったし、黙っているかと思えば話し出すと止まらなくなることもあって、そしてやっぱりどこからどう見ても"オタク"だったからだ。それから一度、デーヴィッドが風邪をひいてマスクをつけてミートアップの交流会に来たときがあった。私はただでさえマスクをつけるアメリカ人が珍しくて興味津々だったのだが、デーヴィッドはさらに話すたびにマスクをいちいちせわしなく口から離したり触ったりしており、そのことで私はずっと笑いをこらえていた。だけどどういった神様の悪戯か、この時そんなデーヴィッドが勢いよく話しだそうとした瞬間、彼のかけていた眼鏡がマスクに絡まり、眼鏡が吹き飛びそうになるという奇跡のようなことがあった。
 それはほんの一瞬の出来事だった。もちろん、誰もそんなことを気に留めてなどいなかった。静かに皆で話している空間だったので、このちょっとしたデーヴィッドの動きはほんのすこしだけ人々の視線を集めたりもしたけれど、真面目なミートアップの集まりである。ふっと一瞬会話は途切れたものの、誰もがまた静かに会話を再開した。そんなことは誰にとっても「消しゴムが床に落ちた」程度の些細な出来事だったのである。ただ一人、そのデーヴィッドの慌てふためく姿を見て、ガスが爆発したかのように吹き出した私を除いては...。
 というわけで、私はそれ以来しばらくデーヴィッドとはそのグループ内で心の距離を取るようにしていた。私がデーヴィッドを笑ったことはすごく失礼な行為だったし、デーヴィッドも明らかに気を悪くしたのが分かったからだった。

だけどそんなある日のことである。珍しくそのデーヴィッドがミートアップのグループチャットで飲み会を呼びかける投稿をしたことがあった。このグループ内のチャットではいつも、様々な飲み会やイベントが呼びかけられるのだが、デーヴィッドが自ら招集をかけたのは初めてのことで、それはなんだかとても特別なことのように思えた。デーヴィッドはいつも、自分から積極的に集団を扇動するというタイプではなかったからである。
 私はさっそくこの夜、飲み会に顔を出してみることにした。ただ、折悪しくこの日は激しく雪の降る夜だったので、顔を出してみると集まっていたのはごく少人数だった。だけどそんな少人数の集まりの中で、デーヴィッドはいつになく快活で饒舌にふるまっていた。いつものミートアップの集まりでは口数少なく一人で座っていることの多々あるデーヴィッドだったけれど、この日はプライベートなことを、とりわけ自分自身のことを多く語った。彼は現在、ウィスコンシン大学で解剖学を学んでおり、以前は病院で働いた経験もあったが、ゆくゆくは再び病院で働きたいこと。また採血の仕方や効率よくリストカットする方法。日本語はあくまで趣味で勉強しているのだが、日本語の勉強が楽しくて仕方がないこと。日本にまたすぐ行きたいし、目標は同じミートアップに在籍しているピーターという翻訳家のおじさんであること。デーヴィッドはそんなことをとめどなく、とりとめもなく語ってくれた。

「どうして日本語の勉強がそんなに好きなの?」
 私はそんな上機嫌なデーヴィッドにそう尋ねた。ただでさえ解剖学の勉強が大変で、資格の勉強もしないといけないと語っている彼が、なぜそこまで同時に日本語の勉強に熱心に取り組むのか、私にはとても不思議だった。だいたい日本語を勉強したからといって、その後デーヴィッドが将来的にその日本語のスキルを彼の仕事上のキャリアに活かせるとは思えなかったのである。
「あー、それはね、日本語で話してる自分が好きだから」
 デーヴィッドは日本語でぺらぺらとそう答えた。
「僕は普段、英語で話していると全然話さないんだ。すごく静かなんだ...。だけど、日本語を話しているときだけ、僕は"ソーシャル"になるんだ。なんでか分からないけど、とても"ソーシャル"になるんだ。別人になれる。だから日本語を話すのが好きなんだよ」

「...面白いね」
 どこかでそれを聞いていた誰かがポツリと言った。
「マディソンは好き?」
 私はまたデーヴィッドに尋ねた。
「マディソンでの暮らしは辛いことが多かった。だから好きじゃなかった。友達も二人しか居ない。その二人ももうマディソンには居ない。だけどこのグループの集まりは好き」
 デーヴィッドはまたあっけらかんと、結構重いことを日本語で、早口でぺらぺらと言った。だけど彼はいつになく嬉しそうだった。実は、この次の日が彼の誕生日だったのである。そのことを、デーヴィッドは私がお店についてすぐに照れ臭そうに打ち明けた。「僕が今日は奢るからね」と。
「明日誕生日なら私が奢った方がいいんじゃないの?」
 そう驚いている私に向かってデーヴィッドは静かに首を横にふった。
「誰かを幸せにする方が幸せになるから、僕が奢るんだ」

 12時を過ぎるのを待って、私達はデーヴィッドに「おめでとう」と伝えた。誰かの大切な日に集まっているという事実と、この日「なぜいつも呼びかけないデーヴィッドがグループの招集をかけたのか」という秘密の答えを共有していたことが、その場に居合わせた人たちに不思議な連帯感を感じさせ、暖かい気持ちにしているようだった。
 外ではしんしんと雪が降り積もっていた。デーヴィッドは日本のサラリーマンが持っているような鞄から最近買ったという日本の漫画を得意気に取り出すと、無邪気に見せびらかしていた。彼はやっぱりオタクだった。だけどもはや私にとって、とっつきにくい苦手な人物ではなかった。この日、デーヴィッドは日本語を話すときだけソーシャルになる、勉強熱心な友人の一人として、私の目には新たな姿で映っていたのだった。

イルカ

12月24日
 ここのところ、イルカについて考えている。
 きっかけは、カナダのイルカに関するドキュメンタリーを、友人のアレックスに紹介されて観たことだった。カナダのある入り江に迷い込んだ一匹のイルカを巡り、市民団体と政府による攻防を描いたそのドキュメンタリーは、イルカと言う生き物が知的で友好的、そして感情を持った人間と同じ生き物であるという前提とともに、人間の残忍さや無理解をあぶり出しつつ、最後はイルカの死をまるで家族の死のように悼む人々が流す多量の涙の映像によって美しく締めくくられていた。そんなドキュメンタリーを上映しながら、アレックスは終始映画の中のイルカの可愛さに悶え、人間の残忍さに激怒し、かと思えば、最後はイルカの死に悲しみにくれるという百面相を見せ、私もなんとか彼の手前、最初はカナダの市民団体と政府との攻防に色々と映画への共感を示すことができたが、終盤の重々しいイルカの(人間による)葬式が始まったあたりで、ついに堪えきれずに吹き出したしまったのだった。
 
 一度吹き出してしまうとすぐには止めることが出来ず、私はアレックスの冷ややかな視線を痛いくらいに感じながらも、ただ心の底から「ソーリー」と言いながら、へらへら笑うことしか出来なかった。そうでなくても私は反捕鯨映画『ザ・コーブ』にも爆笑してしまうという非常識で無慈悲な人間だった。ベジタリアンの友人が「動物たちには感情があるんだ」と言えば、またクスクスと笑って友情を失いかけたことも多々あるような薄情な人間である。
 だけど一方のアレックスはというと、"元ベジタリアン"という肩書を持つ、私とは全くの真逆の人間だった。彼は環境問題のために部屋のエアコンは常になるべく使わないよう心掛けていたし、室内温度15度でこの極寒のマディソンの冬を乗り切ることを最終目標としていた(だから、彼の家はいつも寒かった)。お気に入りのクリームにミンクの油が使われていると気付けば「知らなかったんだ...もう二度と買わない...」と言ってしょげた上に、「そのクリームのメーカーを教えて欲しい」と言う非情な私に向かって「教えたら絶対買うだろうから教えない!」と憤り、蚊に刺されても絶対に蚊を殺さないと発言する、そんな心優しい人間だったのである。
 
「ごめんね、私はなんというか...どうしても、動物にシンパシーを感じることが出来ない人間でして...」
 まき散らしてしまった笑いを回収すべく、この気まずい雰囲気をなんとか取り繕おうと私がそう言うと、アレックスはうつむきながら「別にいいよ」と言った。
「君が悪いんじゃない。ただ、君は知らないだけなんだから...」と。

 しかし確かに、部屋には再び気まずい雰囲気が立ち込めていた。自分の薄情さを何とか挽回しようと焦りつつ、だけど同時に私の脳裏には、その重苦しい空気は少し前にも体験したのではないかという既視感がよぎっていた...。そう、確か、少し前にもどこかの飲みの席で、アレックスとこうした問題を巡って、シリアスな雰囲気になったことがあったのである...。

"なぜ、肉を食べてはいけないと思うのか?"
"なぜ、捕鯨してはいけないのか?"
 あの時も私とアレックスは、とあるバーで飲みながらベジタリアンを巡ってそんな風に話し込み、私は初めて、彼から『種差別』という言葉を教えてもらったことがあったのだった

 種差別...それはすなわち、倫理学者ピーター・シンガーによって提唱されたヒト以外の生物への差別を意味する言葉であり、アレックスは「動物だから食べてもいい」という私の血も涙もない意見に対して真向からこの『種差別』という言葉を突きつけて反論したのだった。
 そしてあの時も、アレックスはその後「別にいいよ」と私に言った。
「君は彼らが感情的な生き物だって知らないだけだから」と。
 そして彼はこう続けたのだった。

「捕鯨は伝統だって言う人も居る。だけどその伝統が間違っている時だってある。アフリカでは2000年近くもの間、女性器切除の風習があり、麻酔無しの手術によって感染症や激しい痛みや後遺症、さらには死ぬケースがあった。この非人道的な行為によって実に多くのアフリカ女性が苦しんでいたけれど、それもまた長く行われていた風習であり文化と主張する人達が居た。そして彼らはそれが間違っていると知らなかった。...もちろんアメリカだってそう。少し前まで黒人を殺しても何の問題はなかった。黒人は人間だとみなされていなかった。だけど今、それらが間違っていたのだと世界が気付いた。彼らは知らなかっただけ。そういった認識は時間をかけて、少しずつ変わっていっていくものなんだ」...。

 この日もまた、イルカのドキュメンタリー映像を消す作業をしながら、アレックスは「別にいいよ」と悲しそうに言った。「それでも君をリスペクトしてることに変わりないから」と。
 バツの悪い空気の中で、私はもう笑わなかった。名誉挽回のために何を言ったらいいのかも分からなかったし、これは私にとって再び『種差別』について考えるチャンスかもしれないと思っていた。黒人が人間として扱われていなかった時代についても考えてみた。とすると、いつかイルカの大統領が生まれる日も来るのだろうか...。
 そんなことを考えながら半信半疑、私はこれまでの自分の認識が間違っていたのかもしれないという申し訳なさを感じ始めていた。アレックスは「君はただ、彼らが感情的だって知らないだけだから」と言う。そう、私はもしかすると、アレックスの言うように、まだイルカについて(あるいは動物たちについて)、何も知らないのかもしれない。私はそう思い始めていた。

11月24日
 コロラドなどのいくつかの州を別にすれば、マリファナは今もアメリカの多くの州で使用を禁止されており、ここウィスコンシン州マディソンでも違法ドラッグの一つだった。だけど私の知る限り、アメリカ人の友人の多くがマリファナに関してとてもカジュアルだったし、その使用に難色を示す人でさえも「マリファナは煙草に比べると(中毒性が低いので)さほど危険ではない」と言うのを何度か聞いたことがあった。好きか嫌いかは別として、あるいは違法であるかどうかは別として、「ドラッグを使用したことがあるか?」と質問すると、たいていの友人達は「使用したことがある」と当たり前のように答えたし、夜のバーなどで飲んでいるとふと、どこからともなくマリファナの強い匂いが漂ってくることはマディソンであっても稀なことではなかった。
 だから、私がマリファナやその他のドラッグに興味を持ったのはごく自然な成り行きで、多くの友人達がそんな私に独自のドラッグとの関わりについて語ることにいささかも躊躇することはなく、「マディソンでもどこでも手に入るから、使いたかったら使わせてあげるよ」とのオファーを受けることさえあった。

 中でもテリーという男の子は、ドラッグにちょっと詳しい友人の一人だった。彼はワシントン州に住んでいたことがあり(ワシントン州ではマリファナは合法である)、そのころはほぼ毎日マリファナを眠る前にたしなむのが日課だったそうだが、そんな彼の実姉は昨今全米でブームを巻き起こしつつあるCBDオイルのビジネスに今年になって着手したという筋金入りだった。ちなみに、CBDというのはマリファナの成分に含まれるカンナビジオールという成分のことであり、不眠症や免疫システム、ホルモンバランスを整える効果があることから、2014年にコロラド州がマリファナの合法化に踏み切ったのをきっかけにして注目されるようになり、今ではオイル、コスメ、レストランやカフェのメニューでその名前を頻繁に見かけることがあった。
 だからマリファナには心身ともにリラックスする効果があるのだと言って違法ドラッグに対して肯定的な意見を述べるテリーは、ドラッグが全て危険であるわけではないと、あるときその高い医療的効果について教えてくれたことがあった。とりわけ数年前、テリーはひどいうつ病に悩まされていた時期があり、そんな折に南米のペルーで経験したという強烈な幻覚剤"アワヤスカ"による神秘体験は、その地獄のような日々から彼を救い出し、「これまでのクソみたいな人生を一変させた」のだと彼は語った。
 もちろんこの"アワヤスカ体験"はテリーに限ったことではなく、南米で古代よりシャーマンなどによって使われているアワヤスカをはじめとするさまざまなサイケデリックなドラッグが、その高い医療的効果の側面を期待され、うつ病やてんかんなどに苦しむ人の希望となって、世界中の人々を魅了しているのは有名な話だった。だけどこれまで全くドラッグ文化に精通してこなかった私としては、テリーの言うように、そうしたある種のドラッグを通じてその後心穏やかに、再び自分と世界を愛するようになるというポジティブな逸話などは目から鱗の落ちる話ばかりであって、だから私はこのごろ、いったいドラッグとは何者なのだろうかと考えるようになっていたのだった。

 そんなある日のことだった。
「くそ!あいつらコカインでもやってたんじゃないか?」
と、友人のアレックスが悪態をついたのは、とある飲み会の帰り道でのことだった。
「どうだろう、コカインをやっていたのかな。匂いはしなかったけど...でもやってた可能性はあるな...」
 そう答えたのは、これまたドラッグに少しだけ詳しいイーサンという青年である。イーサンもアレックスも、その日、初めて知り合いになったエドとマノというカップルが、その飲みの席で突如ハイテンションになったことについて話していた。
 エドというのは、かつてホームレスをしていたという壮絶なキャリアを持つ若い男の子で、マノはそんなエドを誇らしげに見つめる一見すると普通の、可愛らしい女の子だった。二人とも最初こそとても好感の持てる若者達だったのだが、夜も更け、お酒が進んでいくうちに、マノはトイレから戻る度にどんどん陽気になり、どちらかというとその陽気さは煩わしさを伴って、時々冗談ながらも挑発的に近距離で汚い言葉を吐いたり、妙な踊りを踊るようになっていった。その一方、エドはマノとは逆で動きが鈍く、ふんぞり返ってよく分からないことを淡々と喋り、一人でくだを巻いてはビールを煽るようになっていたのだった。

 「ドラッグをやったらあんな風になるの?」
 この夜、ハイとダウンになったマノとエドの言動を振り返りながら私がそう尋ねると、イーサンは少しだけ考えて、「人によるけど、その可能性は高いね」と言った。「もちろん、酒に酔っていただけかもしれないけど...」と。
 だけど、アレックスもイーサンも、そして私でさえも、その日のあのカップルの常軌を逸したテンションに心穏やかではなく、アレックスは帰る道すがら、やっぱり「あの子はトイレで薬をやったに違いない」と何度も言った。
 とりわけマノのテンションの高さは、私達のテンションから圧倒的にずれていたし、私も思い返すと何度かマノに至近距離で「ファッキン・ナンバーワン!」と叫ばれることがあった。もちろんマノもエドもいい人で、陽気だった。だけどその笑顔の中にはどこか私達を怯えさせる狂気をはらんでいて、その二人が放つ圧倒的な高揚感は何か別のところで生み出されているもののようだった。
 もちろんそれがドラッグだったのかどうかは、誰にも分からなかった。二人はただ単純に酔っぱらっていただけかもしれなかった。だけど大切なことは、そこに私たちを置き去りにする圧倒的な違和感があったということであり、そしてその違和感こそがアレックスやイーサンに「ドラッグを使用したのではないか?」と言わしめたことだったのである。

 近年、アメリカではゆるやかにドラッグへの認識が変わりつつあるようだった。そしてその流れはここマディソンでも時々感じることが出来た。ネガティブな意見もあれば、ポジティブな意見もあった。テリーのように治療として必要とするケースも数えられないほどあった。CBDブームや合法化へ向けての活動もさかんに行われていたし、治療や神秘体験といったキーワードを通じて、私自身のドラッグへの認識も少なからず日本に居たときに比べると変化したように感じることもよくあった。
 だけどこの日、エドとマノのテンションに違和感を覚えながら、私はこの違和感こそが、ドラッグに注意深くあらねばならない所以なのではないかと思っていた。手放しで得られる高揚感や多幸感に現実の鏡を照らし合わせるとき、私達の中に一抹の不信感が芽生えたのだとしたら、それは決して見過ごしてはいけないものであり、それこそがドラッグの怖さなのだと、改めて私はそう感じていたのだった。

10月12日

「日本はテクノロジーも経済もすごく進んでいる国なのに、どうしてセクシャリティーやマイノリティの対する差別や偏見に関してはこんなにも遅れてるの?」

 アンソニーがそんな風に私に尋ねたのは、とあるバーで気心の知れた人達と飲んでいた時のことだった。日本に精通しているアンソニーは、日本語を織り交ぜながら丁寧に話してくれる優しい人だったけれど、実は彼がこの質問に至る少し前、私達の間にはちょっとした論争めいたことが起っていた。
 事の発端は、一軒前の酒場でアンソニーが日本語のある差別用語を使ったことがきっかけだった。もちろん彼は冗談のつもりだった。アンソニーはそれをとてもカジュアルに笑顔でその場に居た特定の人に向かって使ったのだが、私はたちまち驚いて、制止するかのように彼の腕を掴んでしまったのである。
 腕を掴まれてアンソニーもびっくりしていたが、その場に居た他の人は誰も気にしてはいなかった。アメリカの、アメリカ人ばかりの場所だったのだから、彼らは誰もそんなレアな言葉の意味など分かってはいなかった。言葉は発せられた瞬間に笑いに包まれて掻き消えて行くだけのはずだったのである...。
 だけど私はそれを捨ててはおけなかった。それは、ある人々を指し示す日本の差別用語であり、飲み屋で笑いながら冗談で使える言葉ではなかった。とりわけアンソニーにはたくさんの日本人の友人が居るようだったし、彼はよく日本にも遊びに行く人だったから、私はその場で誰にも聞こえないよう声を潜め、「ノー。絶対に使ってはいけない」とアンソニーに真剣に注意したのだった。

「なんで?」
 アンソニーはすぐにそんな私に明らかに不服な態度を示した。
「それはすごく悪い言葉だから」
 私がそう答えると
「悪い言葉なんかじゃないよ。僕はこの言葉の人達のことを良く知っているし、この言葉で呼ばれる日本の友達も何人もいるけれど、彼らは全然悪い人なんかじゃない。この言葉を使ってはいけないと言うのなら、他にどんな言葉を使えばいいの?」
 と言って食い下がった。そして結局、この問題はその後私とアンソニーの間で、二軒目の酒場まで持ち越しとなったのだった。
 
 私が注意したかったポイントは、その言葉の差別が明らかに残っている今、大人数で集っている場所、あるいは公共の場所でカジュアルに、しかも特定の人を呼ぶ手段として使うことの暴力性と、危険性の高さだった。だけど、ことをややこしくしたのは、私が「使ってはいけない」と禁止をすることによって、アンソニーが私の中に日本人特有の「寝た子を起こすな」的な保守性を見出そうとする点だった。その上つたない英語力とあいまって、私達は話せば話すほどに、何かが食い違っていき、そしてついには、「日本人はどうして大っぴらに下ネタは話すのに、こういう大切な問題を話し合うなと言うのか?」とアンソニーは言い出したのだった。

 それは恐ろしく時間のかかる議論だった。
「とにかくああいう場所で言う言葉ではない」
「あんたは日本の文化、よく知らないから...」
 夜も更け、つい酔っぱらった頭と面倒くささに負け、私がそう言い放ったが最後、アンソニーは声高に「話し合わないから差別や偏見がいつまでもなくならないのだ」と厳しく私を攻撃し、「議論を避ける日本人」というレッテルを貼ろうとした。
「例えば数十年前までは、アメリカでもゲイは差別の対象だった。誰もそれについて口にしたがらなかったし、ゲイだと知られることで暴力さえ受けることが普通にあった。」
 ゲイの問題まで引っ張り出すと、アンソニーは人々がその問題を避けることで偏見というものは助長されるのだと論を展開した。
「だけどアメリカ社会はこの数十年で劇的に変わった」
 アンソニーはそう続けた。
 アメリカも数十年前までは日本と同じように性的マイノリティへの厳しい差別や偏見がはびこっていた。ゲイと名乗ることで殺される危険さえある社会だった。だけどここ数年アメリカ社会は目覚ましく、驚くべき変化を遂げた。なぜか?人々がそれについて話し合ったからだ、と。
 日本のテクノロジーは素晴らしい。経済も、世界的に目を見張るものがある。だけど一方で日本はマイノリティに対する差別や偏見が人々の意識において、あまりにも先進国の中で遅れ過ぎている。何故そういったものがなくならないのか?それは人々がその問題についてあまりにも知らないから。日本人はあまりにも話し合わない。もっとオープンに、もっと深く、カジュアルに彼らについて理解すれば、自分たちと彼らの間に何も違いはないとすぐに気付くはずだ。

「日本人は自分たちが特別だと思ってるでしょ?」
 アンソニーは言った。
「日本人は皆、日本には四季があるって自慢する。津波がある。島国だ。鎖国してたって言う。だけど、僕たちは何も違わない。アメリカだって四季はある。保守的な人はいっぱいいる。誰だって変わるのは怖いし、ずっと戦い続けてきた。たくさん話し合って、気付いていけば人々は変わる。話し合わないから、いつまでたっても何も変わらないんだよ」
そして彼は「日本を愛しているけど、日本人のそういうところにはうんざりする」と締めくくるのだった。

 もちろん、アンソニーが言わんとしていることは理解できたし、異論はなかった。それに、最終的にはアンソニーだって、私が公の場で誰かをその言葉を使って名指しするという行為に難色を示したのだということを深く理解し、反省すらしてくれたが、振り返って見ると結局、私達はこの夜何度も戻るべき地点を見失って、終わらない議論をこねくり回していたようにも思えた。
 私達は二人とも、同じように差別や偏見はいけないことだと分かっていたし、当たり前のように無くなってほしいと願っていたけれど、話せば話すほどにいつまでも、言葉が持つ歴史性や背景、網の目のように張り巡らされたコードやステレオタイプに足を取られてぶつかり合い、やり直さなければならなかった。話し合うべきなのか?言葉を慎むべきなのか?日本人だからなのか?アメリカ人だからなのか?夜のとばりが落ちる中、私はお酒の入った鈍い頭の中で、何度もそのことを考えなければならなかったし、話はいくつにも枝分かれして広がっていき、終着点はいつまでも零れ落ちていくようだった。たくさんの矛盾と恐ろしいくらいの言葉のトリックがあった。話せば話すほどに、問題が増えていると思う瞬間があった。
 だけどこの夜、私はふと、アンソニーから突きつけられたものこそ痛いくらい大切な、現実のややこしさなのではないかとも思い至っていた。無謀なほど愚直な議論の果てではあったけれど、私があの夜見たものは、差別や偏見といった概念そのものではなくて、むしろ二人の人間(とりわけ言葉や文化の違う人間)が理解し、話し合うということの「うっとうしいほどの難しさと大切さ」だったように思ったのだった。

ボミ2

9月19日。
 昨今、近所に住む韓国人のボミとの関係は、すこぶる良好だった。ボミとの昨年から始まった子供を預け合う試みはこの夏の間も変わらず続いていたし、特にルールを決めたわけではないけれど、私達は極力お互いが望む時間を相手のために提供するように心掛けたので、ボミが「この日のこの時間に子供を預かって欲しい」と言えば、私は自分の予定を変更してボミの息子を預かるようにし、ボミもまた私が要求した日時を断ることがなかった。その上ボミと私は週に二度会っていたにもかかわらず、お互いに干渉し合うことも、気を使い合うこともなかったので、彼女は思っていた以上に私にとって今や「付き合いやすい」友人の一人になっていた。
 ボミが自身の自由時間に何をしているのかは知る由もなかったけれど、九月に入ってからの私はというと、再び新しく始まったイタリア映画の授業に週一で通う目的で息子をボミに預けることにしていた。
 授業が終わり、息子を迎えに行くとボミは時々「授業どうだった?」と私に声をかけ、「イタリア映画ってコミュニストのこと勉強するの?」と言っては、「コミュニストとキリスト教は分かり合えないんだよね」と相変わらずの政治談議に持ち込むこともあったが、基本的に私達は玄関口であっさり挨拶を交わし、そのままそそくさと子供を連れて帰る関係だった。

 ボミがあまりにも付き合いやすいので、私はときどき、「それは彼女がキリスト教徒であることと関係があるのだろうか?」と思うことがあった。その他の大勢の韓国人と同様に、ボミは相変わらず首からロザリオをかけ、週末は教会に行き、自分の息子にキリスト教の勉強をさせる熱心なクリスチャンだったし、同じように仲良くしている近所に住む韓国人のセオンもまた、夫婦そろってクリスチャンだったからだ。その上セオンは一緒にファーマーズマーケットに出かけた際、低所得者向けに配られていた自身の金券をその場に居たホームレスの女性に迷わず分け与えるという行動で、私を密かに感動させた人でもあった。だから、こんな風に親しくしている友人たちが自分とは全く違う哲学や信仰の中で生き、それを彼女たちの善良な振る舞いの中に見出す度に、私はその得体のしれない大きな力の存在に思いを馳せることがあった。

「セイコのために聖書を買ったの」
 そうボミから何の前触れもなく真新しい聖書を手渡されたのは、昨今の変わらぬ彼女との良好な関係を改めて喜ばしく思いつつ、こんな風にセオンやボミの持つ信仰心というものに思いを巡らせていた矢先のことだった。
「聖書って、高いのよ。でもまあ、それは気にしないで!」
 ボミは何だかこちらが気にしてしまうようなことを言うと、初心者はとりあえず、ヨハネによる福音書3:16を読むのがいいのだと言って、驚いている私にそのページを開いてみせた。ボミの提案では、私がまず聖書を読み、次の週、彼女がその箇所を解説するのが良いのだそうだ。
「後で読むべき個所を詳しくメールで送るから、質問があればそれも考えおいて」
 そう言うと、ボミは本当にその日の夜には私が読むべき個所をメールで送ってきた。そして次の週に会えば、聖書を読んだかどうかを尋ね、読んでないと正直に答えた私にどう読めばいいのかをまた解説した。さらにその次の週、彼女は私を教会に誘った...。

 いったいボミに何が起こったのか、私はすぐには理解できなかった。だけどその話をセオンにすると、セオンは困ったように笑いながらも「たぶん、ボミはセイコにクリスチャンになって欲しいんだと思う」と(私が薄々感じていたことを)きっぱりと口にした。
「どうやって神を信じるようになったの?」
 ボミによる突然の宗教勧誘に困り果てながら、私はセオンにそう尋ねた。
 セオンは結婚するまではクリスチャンではなかったそうだが、クリスチャンの夫と一緒になった今では、自宅のWi-Fiのパスワードは「ジーザスクライスト」に設定している信者だった。ボミのように家族がもともとクリスチャンという環境で育ったわけではないセオンが、いったい結婚後にどのように信仰心を持てるようになったのか、私はそこに自分の活路を見出そうとしたのである。

 うーん、とセオンは少しだけ考えると、穏やかに、「子供が出来たから...」と笑顔で答えた。
 というのも、結婚してからずっと、実は不妊に悩んでいたという彼女は、アメリカに来てからも誰にもその悩みを打ち明けることが出来なかったのだそうだ。だけど二年ほど前のことだった。夫婦でカリフォルニア旅行に行くことになった際、セオンはその旅行の直前、マディソンで通っていた教会の友人から「カリフォルニアでの子作り」を強く勧められたことがあったのだと言う。それまで誰にも不妊の悩みを語ることのなかったセオンは、この友人からの突然の申し出に驚いたそうだが、さらにその友人は、「セオンが旅行先で子作りをするなら、私はセオンのために祈る」とまで(いささか不躾にも思えるが...)発言したのだという。

「その晩、私達はすごく疲れていて、私も主人も体中がかゆかったの」
 セオンはカリフォルニアでの夜のことをそう回想した。
 その日はとてもじゃないけれど、子作りとしては良いコンディションではなかったのだとセオンは言った。それもセオンだけではなくセオンの夫もなぜかとても体中がかゆかったという。だけどセオンはその時、友人の「セオンのために祈る」という言葉を思い出した。そして謎の発疹に悩まされながらも子作りをする決意をし、そんな奇怪な夜に、彼女は待ち望んでいた子供を授かるという奇跡を体験したのだった。
「で、その発疹はなんだったの?」
 私が尋ねると、セオンは笑いながら「分からない」と言った。「虫さされかもしれない」...。だけど、その"謎の発疹"と"子供を授かった"という二つの忘れがたい経験が"友人がセオンのために神に祈った"というもう一つの宗教的概念と結びついたとき、それらが全て「奇跡体験」という言葉へと昇華され、結果的に彼女の中に生きた信仰心として生まれ変わったのだという。
 なるほど...。
 私は得心した。確かにセオンの話を聞いていると、腑に落ちない点は多かった。だけどそのちぐはぐな何かがすべて「奇跡」という言葉へ回収された時、そこに純粋で無垢な力が生まれるのだろう...。

 だけどいったいこの先、私のような人間が彼女たちのように信仰心を持つことが可能だろうか?私はセオンの話を聞いてもなお、限りなく不安だった。それにボミの期待に応えられなかった場合、私達の関係はどうなってしまうのだろう...。そう思うと私はただ、この秋緩やかに始まろうとしているバイブルスタディの勉強そのものに若干の胸騒ぎを感じずにはいられなかったのである。

8月9日
 
 マディソンからおよそ20キロ、ヴェローナという町にエピックと呼ばれる電子医療記録のソフトウェアを扱う企業が存在する。日本ではあまり知られてないが、1979年に女性のCEOによって誕生したこのエピック社は、現在は9000人の従業員を持ち、年間27億ドルの収益を出すというウィスコンシンが世界に誇る大規模な優良企業である。また、その企業成績もさることながら、会社がヴェローナに保有する広大なキャンパスは、もはやヴェローナの町全体を覆い尽くす存在感で異彩を放っており、その建物群は、かのディズニーランドと同じデザイナーによってデザインされた巨大なテーマ―パークのような様相を呈しているのである。
 だから、タイ人のパニカはよく自己紹介をするときに「夫はエピックで働いています」と言うことを忘れなかった。もちろん彼女はその言葉がどのような効果をもたらすか知っていたし、実際「エピックに勤めている」と聞けば、私だって今では身を乗り出して「あのエピック?」と聞き返すだろうと思うのである。そしてもちろん、エピックは誰もが羨む素晴らしい会社だった。パニカの夫のトニはいつも、会えばエピックの福利厚生の充実ぶりを語ってくれたし、彼の案内で初めてヴェローナにある会社見学に訪れた時は、これが会社なのか?と目を疑うほど、様々な仕掛けのある遊び心満載の建物に時間を忘れてカメラのシャッターを切ったものだった。広すぎて一日では周りきれないエピックの建物には、不思議の国のアリスやハリーポッター、インディージョーンズにオズの魔法使いをコンセプトとして作られたものがあり、アリスの落ちたラビットホールや逆さまに置かれたテーブル、ドラゴンの居る会議室など、数えきれないほどのエンターテイメントに溢れていた。メリーゴーランドや天国の滑り台のあるオフィスで働くなんて、なんて楽しい毎日なんだろう。私がそう言うと、トニは「いろいろ煮詰まったら気分転換になるよね」と言って笑った。

 そんな超有名なエピック社だが、実はもう一つ面白いことに、現在ある一人の日本人画家に会社のスタジオを提供していたのである。それは、日本でもその名を聞けば繊細で緻密かつスケールの大きなその画風を目に浮かべる人も少なくない有名画家、池田学さんだった。彼は2011年に文化庁芸術家在外研修員としてバンクーバーに滞在していたが、その後巡り巡ってウィスコンシン大学マディソン校にあるチェーゼン美術館でスタジオを借りて創作活動を続けていた。だけど昨年、そのチェーゼン美術館での契約期間満了ののちに、このエピック社に声をかけられ、引き続き彼はウィスコンシン州で絵を描き続けていたのである。彼のそのミクロからマクロへ、そしてまたミクロへと豊かに表情を変える独特の画法は世界的にも高く評価されており、医療記録ソフトウェアという一見堅そうに思える会社でありながら、エピックはエンターテイメントや芸術へのサポートの一環としてこの日本人画家、池田学さんと新規の契約を結んでいたのである。

 そんな池田さんに、私が初めて会う機会を得たのは、先月、7月中旬のことだった。内田樹先生の門下生である囲碁棋士・中野康宏九段がウィスコンシン大学を訪れるので、どこか観光にお連れしようと思った際、ウィスコンシンにせっかく来たのだからエピックを楽しんでもらうのが面白いのではないかと思ったことがきっかけだった。私はこれまで直接的に画家・池田学さんとの面識はなかったが、彼の奥さまとは会う機会があったのでさっそくスタジオ見学したい旨をお伝えした。すると忙しいさなかだったにもかかわらず、池田氏はスタジオ見学の時間外での申し出に快く応じてくれるとのこと、さらにはエピックで昼食を共にするという贅沢な提案までしてくれたのだった。

 7月17日。初めてお会いする池田学さんは、意外にも想像していたような気難しい芸術家ではなく、もっと気さくで温厚で、それでいて職人のようなどっしりとした佇まいと謙虚さに溢れるなんとも言えない好人物だった。事前に池田さんの作品を美術館に観に行き、NHKのドキュメンタリーをチェックするなどしてすっかりファンになっていた私は、その気さくさをいいことに、中野九段の付き添いという立場も忘れ、やれ「文化庁の面接の時はスーツを着て行きましたか?」だの「細いペンで描く手法を選んで後悔したことありますか?」だのと矢継ぎ早に池田氏を質問攻めにしてしまい、これまた温厚な中野九段から「池田さんがご飯食べられないじゃないですか」と軽く注意を受ける始末だった。
 だけど、池田さんはそんな私の質問のひとつひとつに信じられないほど丁寧に答えてくれた。私が「何年もかけて一つの作品に関わるとき、辞めたくなることはないですか?」と聞くと、池田氏は「いやあ、思いませんね。描くのは昔から好きですから」と真面目に、そして何でもないように答えた。
「スーツ?文化庁の面接の時、着たっけな?忘れたなあ...」
「影響を受けた画家?...居ませんねぇ...」
 そんなやりとりをしながら、私は自分がインタビュアーには向いていないことを自覚せずにはいられなかった。結局ここぞとばかりに池田氏の作風の特徴である気の遠くなるような緻密な作業のこと、あるいは画家としての人生論のようなものを暴こうと次から次へと質問をしたが、そんなことよりもなによりも、池田氏は中野九段と男親としての子育ての話や、マディソンで食べるべき美味しいものといったありふれた話題に一番嬉々として語っていたからである。

 だけどそんなこともありながら、この訪問は本当に素晴らしいひと時となった。この日、昼食を終えると、中野九段が日本から持参した津軽三味線を披露することになり、私は再び、贅沢な時間を迎えたからである。
 その午後、囲碁プレーヤー中野九段の手さばきによって、津軽三味線の音がなんとも言えない躍動感を持って、エピック傘下の町ヴェローナで響き渡った。ウィスコンシン州では珍しく湿気の多い、ねっとりとした暑い午後だった。だけど池田氏も奥さまも、興味深そうにじっと、食い入るように演奏に耳を傾けていた。考えてみたら、私達は不思議な因果で時を同じくしてウィスコンシン州に集まった日本人達だった。そしてそんな私達の血肉に、あるいはDNAに、この日、中野九段の演奏する津軽三味線の音色は熱く、私たちの心を奥の奥まで震えさせたような気がしたのである。