3月3日。2月から3月にかけて、マディソンの気候は思わせぶりである。昨日唐突に芝生の雪をすべて溶かしたかと思うと、次の日の朝にはまたそこら一面に白い雪を降らせることがあるからである。春を待ちわびる人々の気持ちをもてあそびながら、マディソンはゆっくりと凍てつくような冬から遠ざかろうとする。けれどそれはまだ長い冬のトンネルの出口ではなく、あくまでも気まぐれに私たちの心をかき乱す一進一退の春への攻防なのである。

 私はというと、そんなマディソンの気候に呼応するかのように、産後の体力は回復したりしなかったりを繰り返していた。手伝いに来てくれた母が一月末に帰国したあと、二月から私の本当の育児はスタートしたのだが、火曜日と木曜日の朝に相変わらずカプレイ教授の授業を聴講に行っていると、それだけですぐに動けなくなり、熱が出て寝込んでしまっていたのである。三時間おきの授乳と家事だけで精一杯だったのだが、それでも調子のいい日は頑張って外に出るようにし、友人に二時間ほど会ったりもした。が、その次の日に決まって熱が出て動けなくなった。出産前からずっと自分に課している読書や映画鑑賞のノルマも思うようにこなせない。産前にランナーとして鍛え上げていた足腰の筋肉がすべて失われ、一キロ走るのもやっとの体になっていたこともショックだった。すべての体力が出産でゼロになり、それを一にするための入り口がなかなか見つからない。可愛いわが子との愛おしい日々と引き換えに、私は何か大きな、自分自身の生命力の一部分をどこかに置いてきてしまったのだと考えずにはいられなかった。

 それでもようやく最近、雪解けの日が増えてくるのと同様に、ジムでトレーニングしたり、語学学校に顔を出したりすることが出来るようになってきた。家事も読書も映画鑑賞も、授乳の合間にやるコツを掴んできた。少しずつ日常が戻ってくると、今度は出産するまで気付かなかったことが見えてくるようになった。広いトイレや段差のないバリアフリーの道のありがたさを感じるようになったし、乳飲み子を抱えているということに対する周りの暖かさも冷たさも、自分が知らなかった世界が急速に見えてきたのである。それと同時に、私を取り巻く交友関係の在り方も様相を変えることがあった。子供を持つという人生の選択に対して、すべての友人が祝福してくれているとは限らなかったからである。「母親にならない」ということと「母親になれない」ということの大きな隔たりについて私は少しも考えたことがなかったので、子供の話題をすることで同世代の友人を知らず知らずのうちに傷つけているということも、これまで考えたこともなかった。だから、たかだか産後二か月でこれまで築いてきた友情があっけなく幕を閉じたり、心無い言葉を浴びせられたりすることがあるほど、『出産』というイベントが女性の生き方において、これほど繊細な問題だったのだということも、私は恥ずかしながら自分が出産するまで知らなかった。
 
 そんなことがあったせいで、私は最近ベス先生の『養子縁組』の話をよく思い出していた。日本では「養子を持つ」ことはほとんど人生の選択にはあがらないが、アメリカでは人生の選択の一つである。実際、ベス先生は二人の中国人と一人のルーマニア人の養女を育てていて、授業でもよくその話をする。そしていつも決まって「子供が出来ないことをずっと嘆いていたが、今は子供ができなかったことを良かったと思っている。そのおかげで今の子供たちに出会えたからだ。」と幸せそうに話を締めくくるのである。私は養子という文化になじみがなかったので、「子供たちは差別を受けたりしないのか?」とぶしつけな質問をベスにしたことがあったが、ベスは少し気を悪くしつつも「ない」と答え、アメリカは養子を持つ人が沢山いるのだと教えてくれた。

 また、夏に取ったネイサンの授業でもこんなことがあった。その日ネイサンは家の絵を描くように生徒に指示を出した。私たちは不思議に思いつつ、ノートにおのおの似たようなサザエさんのエンディングに出てくるような家の絵を描いた。ネイサンは生徒たちが描いた家の絵を満足そうに眺めながら、次にその家に住む家族の絵を描くように言った。またしても私たちは不思議に思いながら、父親、母親、そして子供の簡単な絵を各自ノートに描いた。ネイサンも白い紙に家と家族の絵を描いた。ネイサンが描いた家族は四人家族だった。大人が二人に子供が二人…だけど、ネイサンの描いた家族は私たち生徒が当たり前のように描いた四人家族とは少し違っていた。親である大人は二人ともスカートを履いていたのである。ネイサンは、家族の形は一つだけではない。物の見方は一つではないと私たちに教えながら、女同士、男同士の夫婦もあるし、今は彼らも子供を持つことだってできるだろ?と言うのである。

 あの夏の授業を思い出しながら私はいま、だけどそれはアメリカだから成立するのだと、思わずにはいられなかった。日本にはそんな多種多様な文化はなかなか成立しないし、だからこそ『出産』にまつわる様々な犯罪、閉塞感が日本には蔓延しているように思われるのだ。「赤ちゃんポストに捨てるくらいなら俺にくれよって思う。」と、あるゲイの男の子は私に言った。彼は結婚したいし子供が欲しいのだそうだ。だけど日本人である彼にはそのすべてが難しいことなのである。だから、日本では『出産』という言葉はある人々にとっては喜びだけではなく、苦しみの感情をもたらす言葉ですらあるのである。もしアメリカのように「養子」という選択が当たり前のように、自由にそこにあったなら、救われる人も沢山いるのではないだろうかと、そんなことを考えた春の日である。

1月18日。12月28日に出産して、12月30日に退院したせいか、私は産後すぐ、いわゆる「産褥期」というものがピンと来なかった。出産時に少し手術をしたので、その際に処方された痛み止めがとても強い薬だったというのも一因してか、どこか「産後ハイ」のような状態だったようで、しかもアメリカは退院した翌朝に再び病院に検診を受けに行かなくてはいけなかったためじっくり休んでいる暇がなく、日本でよく聞く「産後は絶対安静にしなくてはいけない」と言われている「産褥期」というものそのものを意識できぬまま、私は日本から「産褥期のケア」のために渡米してきてくれた母親の言うことも聞かずに産後一週間で、何度も外出を繰り返した。が、その後、ぱったりと携帯のメールも開けることが出来ないほどの疲労を感じて床に伏し、一日中泥のように眠り、「これがいわゆる産褥期か。」とぼんやりと思ったりしたのが産後二週間目のことだった。

そもそもアメリカは出産して2日で退院する。しかもその2日間の入院期間はずっと生まれてすぐの新生児と一緒に過ごし、休む暇もなく母乳のトレーニングや新生児の検診など、入れ代わり立ち代わりナースが来てとても目まぐるしい。もともと入院期間が短いというのは知っていたので、私はアメリカには日本でよく聞く「産褥期」という概念そのものがないのだと勝手に思っていたが、漏れ聞くところによると単純にアメリカは「医療費が恐ろしく高い」という事情があって、日本のようにゆっくりと入院することが出来ないのだそうだ。だからアメリカでも「産後は安静にすべき」という考え方はあるそうだが、私はその話を聞くまで、「アメリカ人は単純にタフな民族なのだろう」と思っていた。入院食だってピザやチーズバーガーで、日本人だと乳腺が詰まりそうだと心配しそうなものだが、アメリカではそれが当たり前なのだ。日本人は繊細だから、育児書にはやれ根野菜を食べないといけないだの、とにかく起き上がってはいけないだの書いてあるけれど、アメリカ人が出来ているのなら、本当は「産褥期」なんて都市伝説のようなものなのではないだろうか。私は「産後ハイ」の頭の中で、そんなことすら考えていた。が、もちろんそれは間違いだと、産後二週目にして、寤寐の境に私は思い知った。

ということで、産後二週間から三週目にかけて、私の「産褥期」はピークだったが、三週目を過ぎた頃、少し回復してきた私はまたムクムクと「動きたい」気持ちに突き動かされ、今月中旬から始まったカプレイ教授の「ドキュメンタリー映画学」の初回授業に出るべく、二時間ほど可愛いわが子を白井君と母親に託して大学へ赴いたのである。

カプレイ教授に会うのは年末の12月22日、前のセメスターの最終日以来、一か月ぶりである。前回「フィルム学」を聴講し、最後に挨拶に行くと、カプレイ教授は「いつでもまた来ていいよ。」と私に言ってくれた。「次のセメスターも来たいのですが、出産があるのでどうなるか分からないのです。」と私が言うと、カプレイ教授は「信じられない」というように驚いて、私のお腹をまじまじと見た。(臨月ですら、私はほとんど妊婦だと気づかれないほどお腹が小さかったのである。)「でも必ずまた会いに来ます」と言ってカプレイ教授と固く握手をして別れ、その一週間後に出産し、その三週間後の今日、再び私はカプレイ教授の授業に現れた、というわけである。(わざわざこんなにすぐに授業に復帰するとは、自分でもすさまじい執念のように感じる。)きっと私はまだ少し産後ハイなのだろう。だけど、やはり少し無理をしてこの初回に聴講に行けたのは私にとって嬉しい時間だった。

「やあ、戻ってきたね。」カプレイ教授は学生でもない私ににこやかに微笑んでくれた。出産したと報告すると、やはりカプレイ教授は「信じられない」というように驚いて、面白そうに私のお腹をちらっと見た。カプレイ教授の著書を持っていたので、サインをしてもらうと、カプレイ教授も嬉しそうに「For Seiko!」と書いてくれた。「For Seiko! a wonderful cinefile! Vince K.」そう書いて本を手渡しながら、カプレイ教授は「cinefileって言葉知ってる?フランス語なんだけど。」と私に尋ねた。「映画が好きな…」私は言い淀んだ。すると、カプレイ教授は笑いながらこう言ったのである。「映画を愛する人!つまり、君の事だよ!セイコ!」

1月16日。「明日の夕方19時に入院して、明後日か、遅くともその次の日までには出産する運びになります。」と担当医である女医のシュミール先生に言われたのは、妊娠39週に差し掛かろうとしている昨年の12月26日のことだった。当初の出産予定日は1月2日。日本だと考えられないが、三日ほど前に受診した「超音波検診」で胎児が小さいと診断され、胎盤機能が低下しているかもしれないというリスク回避のため、早めに産んでしまおうという処置だったのである。(アメリカは訴訟などの問題も大きく関係しているのかもしれない。)そもそもアメリカサイズから見て「小さい」という診断だったので、日本だと標準の大きさ(2600グラム)だったのだが、郷に入っては郷に従えである。その日、大慌てで家に帰ると、私と白井君は入院に向けて炊飯器六合分のおにぎりを握り、図書館で『キングギドラVSゴジラ』のDVDを借りて促進剤が効くまでの暇つぶしにしようと画策し、「見納め」と言ってはマディソンの美しく凍った湖の上をツルツルと歩いて写真撮影しに行き…今思うとあまりにも悠長に、そして楽観的に出産の備えをしていた。

そもそもアメリカで出産をすることのメリットとして私が考えていたのは、子供が「二重国籍」になることと、もう一つは「無痛分娩」で出産できるという点だった。計画分娩や帝王切開が主流だというタイ出身のプンに「日本では自然分娩が普通」だと言うと「なぜわざわざ痛い思いを?」ととても驚かれたことがあり、台湾人のジエルからも「帝王切開にしないのか?」と聞かれたこともあって、私の中でずっとぼんやりと「麻酔がある今の世で、わざわざ痛い思いをして出産するなんて文明に反しているかもしれない」というような思いが芽生えていた。担当医のシュミール先生も「麻酔は使っていいのよね?」と念を押してくれたし、私の出産に対する心構えはすこぶる余裕だった。目下の心配事は入院食。事前に出産する病院(アメリカは検診と出産当日の病院が異なる。)の見学ツアーに行った際、ピザやハンバーガーと言ったまるでファミレスのような入院時のメニュー表を見せられて、「これはいけない」と大きな危機感を感じた私は、事前におにぎりや大根の煮物、シチューや栄養ドリンクの準備だけは怠らなかった。(結果的にこれは大正解だった。)あとは、陣痛の合間にいつ『キングギドラVSゴジラ』を鑑賞しようか?などと白井君と相談し、白井君は「あわよくば大河ドラマの『真田丸』も観たい」と言って笑って夜は更けていった。

 ところが、である。12月27日の19時に入院した私は、翌28日の朝10時に出産するという思いがけないスピード出産となり、そのせいで『キングギドラVSゴジラ』も『真田丸』ももちろん鑑賞している暇などなく、夜中の3時に陣痛が始まると、その鈍い痛みはいよいよ夜明けとともに大きくなり、私はひたすら記憶がほとんど無くなるほどに苦しんだのである。あまりの痛さのため、私はすぐに「エピドゥラル、プリーズ(麻酔してください)」と叫んだが、ナースたちは「まだ担当の先生が到着してないから麻酔は打てないのよ」と涼しげに答えて、「まだ生まれないだろう」と言って相手にしてくれなかった。こんなに痛いのに、まだ噂に聞く無痛分娩にならないのだろうか?キングギドラかゴジラにでもなりそうなほど「痛い、痛い」と日本語で叫ぶ私の背中をひたすらさする白井君。「エピドゥラル、エピドゥラル、プリーズ!」私がしつこく麻酔をしてくれ、と叫んでいると、ついにナースが「あら、もう子宮口が開き始めている」と動いてくれたのが朝の8時である。やっと痛みから解放される、と安堵したのもつかの間、「担当医のシュミール先生が到着してないから、麻酔はまだ打てない」と再び言われると、シュミール先生を待つこと一時間。(一年くらい待ったような長い時間だった。)そしてやっとのことで到着し、病室に入ってきたシュミール先生は、開口一番「もう麻酔を打っている暇はないのでこのまま行きましょう」と言い放ち、私は予想してなかったまさかの「自然分娩」で12月27日朝10時、アメリカはウィスコンシン州マディソンの病院で小さな男の子を出産したのだった。

それにしても痛かった。この喜ばしい出産という人生の大きな出来事の中で、恨み言を一つ言わせてもらうとすれば、この朝、病室に遅れて現れて「麻酔無し」の決断をしたシュミール先生が、実は花柄の上下のドレスに白衣を羽織って現れ、その実メイクばっちりという今までで見た中で一番美しい姿をしていた、という点である。先生がもし、ノーメイクで、着の身着のままで病院に駆けつけてくれていたら、私はもしかしたら無痛分娩で出産出来ていたのではないか、と、私はつい思わずにはいられないのである。

好奇心旺盛なダラル

 12月23日。「サウジアラビアでは、結婚するまえにSEXはしないの。」すっかり降り積もった州議事堂の雪景色をバックに、スターバックスで席に着くなりサウジアラビア人のダラルは唐突にそう言った。「アメリカも厳しいキリスト教信仰者の間では結婚するまえにSEXはしないそうよ。ベスがこないだそう言ったの。」ベスというのは、旦那さんが教会の牧師か司祭か何かをしている語学学校のベテランの女の先生のことだ。彼女はとても厳しい先生でも有名だが、いかにも教会に携わる彼女が言いそうなことだなと私は思ったりもする。「日本はどう?」とダラルが聞くので、私は少し考えてから「日本はそんなことないよ。結婚前も結婚後も…例えば不倫なんかもよくあるよ。」と答えてみた。するとダラルは「本当に?!」と叫んで両手で口をおさえた。ダラルにとってはカルチャーショックだったようだ。「まあ、基本的には許されてないけどね。」と私は付け加える。

 この美しい昼下がりの女子トークに、ダラルがなぜこんな話題を選んだのか分からなかったけれど、「ベス先生」と聞いて私はふいに前のセッション、ベスが「ネットのポルノ閲覧」について凄まじいほど個人的な嫌悪感を露呈したことを思い出していた。授業中、彼女の娘のネット閲覧履歴に「ポルノ画像」が含まれていて驚嘆したというエピソードを披露したベス先生は、少し異常と思われるほど、「ポルノが」「ポルノが」と「ポルノ否定」をしていたので、私はつい「ポルノを閲覧することってそんなに悪いことですか?」と反旗を翻し、火に油を注いでしまったことがあったのだ。ベス先生は予想以上に怒りの矛先を私に向け、「あなたのそのお腹の子供がポルノを見るようになったらどうするの?」と私に尋ねた。私は「別にいいんじゃないの。」と答えたけれど、保守的で敬虔なキリスト教徒のベス先生には理解できなかったようで、このときは、ベス先生との間に分かり合えない大きな溝がぽっかりと空くのが見えた瞬間だった。

 当たり前のことだけど改めて、信仰する宗教のレベル、国やカルチャーごとによって『性のあり方』もとても違うのだなと私は考える。もちろんサウジアラビアでは同性愛は許されていないので、ダラルはアメリカに永住しているサウジアラビア人の男がほとんどゲイなのだということを、声を潜めて教えてくれた。祖国で認められることのない彼らは、アメリカに渡り、アメリカで同性婚をし、祖国を捨ててアメリカに移住している人ばかりなのだそうだ。(だから、マディソンに永住しているサウジアラビア人はゲイが多いのよ。とダラルは私に耳打ちする。)そう言われると確かにアメリカではゲイをよく見かけることがある。そのせいか分からないが、こちらに来てから何人かのティーン達があっさりと私にカミングアウトすることもあったし、語学学校の先生やスタッフの一人がゲイであるということも生徒やスタッフの間では暗黙の了解である。

 だけどそういう同性愛への寛容さの一方で、アメリカ人というのは不倫やセックスレスなどによって、驚くほど簡単に離婚する一面があるのも事実である。知り合いのアメリカ人の両親があまりにも多く離婚しているせいで、長年連れ添った熟年夫婦を見るとつい感動を覚えてしまうくらい、こちらの離婚率は高い。日本とは違い、こちらでは「夫婦」であるということが「性的な結びつき」によって強く結ばれていることが絶対的な条件なので、日本のようにセックスレスでも不倫されても離婚に至らない、などということは考えられないのだそうだ。それに、日本のように「ちょっと角を曲がればいかがわしい通り」というものもマディソンでは全く見かけることがない。もちろん噂ではそういう場所もあるとは聞くけれど、町中でけばけばしい無料ティッシュも配ってもないし、そもそもラブホテルや風俗店なども見たことがない。徹底的に町や人々の思想から表向き「いかがわしさ」というものが排除されているクリーンな印象を受けるのである。

 昼間からダラルがSEX、SEXと連呼するので、私はだいぶ恥ずかしかったが、ダラルはアメリカや日本の「性」のあり方に興味津々だった。もしかするとダラルはサウジアラビア人の女性の中ではとても特異なタイプなのかもしれない。だけど、彼女のそういう何事にも好奇心旺盛な姿勢は、保守的で厳格なキリスト教徒のベス先生よりも何倍も柔軟で寛容さに富んでいるように私には思えたし、ダラルの話や興味の対象はいつもとても面白かった。スターバックスを後にし、力強いハグをしてダラルと別れた私は、白銀に染まったマディソンの町を滑らないように慎重に歩いてバス停へと急いだ。まだまだ妊婦だとばれることがないほど私のお腹は小さい。だけどしばらくはこんな楽しくて刺激的なランチもお預けである。真っ白な州議事堂の雪景色を見てバスを待ちながら私はふと、次にダラルに会う時は私もダラルと同じく母親なのだなぁと思ったのである。

それぞれの住環境

 12月16日。日本人留学生のユウト君から、先月のサンクスギビングの動画が送られてきた。毎年11月末にあるサンクスギビングはアメリカの大切なホリデーの一つで、家族で集まってターキーを食べるなどして過ごすのだが、家庭によっては食後の団欒として余興のようなものをすることがあるそうで、その時の記念の動画を送ってくれたのである。ユウト君が参加したホストファミリーの余興の動画は歌の披露だったが、それはただ歌を披露するのではなく、ちょっとした小芝居も組み込まれていた。それはサンクスギビングの晩餐後、バンドマンであるホストファザーがギターを片手に一族の前で歌を披露するところから始まる。けれどなぜかその日、ホストファザーはいつもの調子が出ない。ホストマザーが助けに入るもなぜかうまくいかず、場は白けた雰囲気になる。そんな二人を見かねた留学生のユウト君が「オーケー」と立ち上がり、ビートルズのhere there and everywhereを歌い上げる。という筋書きなのである。サンクスギビングの一週間ほど前から、学校の宿題の合間に歌や小芝居の練習をしなければならないと焦っているユウト君の姿をみて、私は密かに、「そんなことをさせられるホームステイ先は嫌だ」と思ったものだが、まだ19歳の彼は割と楽しんでこなしていたので、すっかり感心してしまった。そうでなくても、ユウト君のホストファミリーは日ごろからユウト君に「今日は先生に質問を一つすること。」などと課題を出したり、予定のない週末にはクッキー作りを手伝わせたりしていたので、私だったら耐えられずにホスト先を変えてしまいそうなものだと思っていたのである。

 実際、ホームステイ先との相性が合わないといったトラブルというのは、語学留学に来ている生徒の間ではよく聞く話である。先々週、カンバセーションアワーに参加していた韓国人のジャイアンという女の子は、「最近どう?」というジェシー先生の社交辞令的な第一声に対して、「私の部屋のエアコンだけが動かないの。」と言って泣きだしたからである。「大丈夫?」と周りが心配していると、ホストファミリーはとてもケチで、“シャワーは5分以内で浴びる”などを含む27個のルールが定められていると言って彼女はノンストップで不満をぶちまけた。その上、ホストファザーが車で送ってあげるというから車に乗ると、後で15ドル請求されたそうで、ジャイアンは自分がこんな目に遭っていることを韓国に居る母親が知ったらと思うと涙が出るのだそうだ。カンバセーション開始早々の事態に困惑しながらも、ジェシー先生は優しくティッシュを差し出して、「どう?皆、何か彼女に言ってあげられるいい解決案はあるかしら?」と、本日のカンバセーションのお題にして私たちに話を振ったが、その日集まった数名の生徒たちによって絞り出された解決策はたった一つだった。「ホームステイ先を変えること。」

 ジャイアン(それにしても面白い名前)の話も確かにひどい例だったけれど、留学生たちの話を聞いていると、ホームステイ先というのは本当に当たりはずれがあるように思われる。飼っている犬がうるさい、とか、家の子供たちが反抗期、食事中によく夫婦喧嘩が勃発する、というのはまだましな方で、ホストマザー一人だけの家庭だと思っていたら、実は地下に「知り合いの乞食(!)」を住まわせており、人目を避けて夜な夜な乞食が台所に出没していたという話や、毎週金曜日の夕食はカリカリのベーコンとフレンチトーストだけで、もう二度とフレンチトーストは見たくなくなったという話、猫が直前までお尻をつけて座っていたお皿に気にせず料理を盛られた話、食後は指先で料理の皿を嘗め回す家族の話、いつもトイレを流すことのない家だったので、来る日も来る日もホストファミリーの大便小便を流していた話など、多岐にわたる。とりわけ、大便小便を流さないホストファミリーの逸話は他の2,3人の留学生から聞いたことがあったので、私の中ではちょっとしたマディソンの七不思議の一つだった。

 もちろん、ホームステイをすることで、サンクスギビングなどのアメリカの伝統的な家庭を体験出来たり、ネイティブの人の英語に常に触れる機会があるというのは、私のように個人でアパートに住むよりも楽しそうで羨ましく思うことはあるけれど、ホストファミリーとのトラブルの多くは、潔癖性な日本人留学生から漏れ聞く話が多かったので、私は、これはこれで良かったかなとも思う。とりわけ、ここマディソンでのアパートは、私が結婚してからこれまで暮らしてきた五つのアパートの中で一番広くて快適である。マディソンのアパートにはどこもたいていジムとプールが付いていて、私のアパートにもジムとプール、サウナとちょっとした集会場のようなものがあって、その上卓球台や屋外バーベキューもある。寒い土地ならではのセントラルヒーティングのため、冬でも常にアパート内は暖かいし、アパートの前には広々とした芝生の公園が広がっていて、リスやウサギが走っている。歌を歌わされることもなく、大便小便を流さないホストファミリーも居ないので、気楽なものである。

 だけど、そんな私がちょっと住んでみたかったな、と思うのは、ウィスコンシン大学が経営している特殊な寮の話である。ダウンタウンに住む学生達のほとんどがシェアハウスや寮に住んでいるのだが、そのうちの一つに、語学向上用の寮があるという話を聞いたからである。私のカンバセーションパートナーだったパラヴァノフ君の彼女が、その「フランス語専用」の寮に住んでいたそうだが、その寮に住む寮生たちは、フランス語しか話してはいけないルールなのだそうだ。そういった語学向上用の寮は他の言語もあり、パラヴァノフ君は日本語専用の寮に入りたいと私に語っていた。しかもそういった寮ではその言語専用のTAも少し安めの金額で一緒に住んでいるので、月に何度かは勉強会のようなものも開かれているのだそうだ。勉強熱心な学生の町、マディソンならではのなんとも素敵な住宅事情だなぁと私は思うのである。

12月4日。リピートしていた語学学校の『発音』の授業が今日で終わった。来週から臨月に入るからである。トム先生のこの授業は二度目だったので、重複する部分などもありながらも、私はこの授業で発音にまつわるあれこれを沢山学ぶことが出来た。どの言語にしても発音の問題は生きた言語を習得する上では避けては通れない問題で、とても奥が深いと私は思う。授業ではアメリカ人が単語を本当はどのように発音しているか、そしてそれが表記通りでは決してないこと、音の強弱の癖のようなもの、それから7,8割の確率で「単語の意味が分からなくても発音だけはできるようになるルール」、またアメリカ人が好む「くだけた言い方」など、とてもユニークな内容をゲームなどを通じて楽しく学んだ。トムは「こんなこと君たちの祖国では学ばないだろう?」と得意気に教えてくれ、そして何よりも私たち生徒の、それぞれがそれぞれの母語にとらわれた発音の問題によって四苦八苦する姿を露呈したとき、授業中、誰よりも一番嬉しそうに笑った。

とりわけ、音域の狭い日本語を持つ日本人の私にとって、学ぶべき発音のルールは沢山あった。日本人はLとRの区別が出来ない。大半の生徒はThを発音するとき、舌をかむことが出来ない。スペイン語を母語とする生徒たちはYのサウンドをJで発音してしまう。私たちが住むマディソンは、「Medicine(薬)」ではない。それから、私が一番苦手だったのは、『Syllable(音節)』の問題である。このSyllableとは、英語話者が単語の中で一つの音として感じる単位を表していて、例えば「That」は日本語では「ザ・ッ・ト」と三音節で表されるのに対し、英語では一音節と数えられるルールのことである。「Chocolate(チョコレート)」は日本語では「チョ・コ・レ・エ・ト」と五音節であるのに対し、英語は「チョッ・コリ」という二音節の音になるのである。だから、Syllableのクイズゲームをするとき、私は授業をリピートしているにも関わらず、いつもワークパートナーにぼろ負けし、トムにからかわれていた。

だけど面白いのは、この授業を通じて、私は英語話者たちにとっても「日本語」のこのフラットな発音が難しいのだということを発見したことだった。私はこのSyllableの問題を逆手に取って、トムにPerfumeの「チョコレートディスコ」という曲を紹介した。この曲は「チョコレートディスコ」とリフレインする部分で、「チョ・コ・レ・エ・ト」の五音節を使って拍を取る曲だからである。だから、二音節でしかチョコレートを発音できないアメリカ人達は、この曲を決して正しく歌うことが出来ないのである。トムにこの曲を紹介すると、トムはこの異国のポピュラーソングを聴きながら、「日本の曲は本当にクレイジーだ!」と嬉しそうに笑った。また、トムは日本の車のNISSANのことを、いつも「兄さん」と発音した。「兄さんではない、『ニ・ッ・サ・ン』だ!四音節だ。」と私が指摘すると、トムは「セイコは大人しい生徒だったのに、いつからそんなことを言うようになったんだ?」と悲しそうな顔をした。(まあ、一年も居たら口が立つようになるのは仕方ない。)

こうした発見は、現在聴講に行っているウィスコンシン大学のフィルム学の授業でもあった。前学期で私が正規の聴講生ですらない聴講生として座っていることを許可してくれたカプレイ教授の授業である。エジソンの発明から始まって、1960年代までの世界のフィルム学の歴史を紐解きながら、毎週さまざまな映画におけるジャンルを扱うこの授業で、先週はついに日本が世界に誇る「ジャパニーズ・アートシネマ」の回を迎え、カプレイ教授は、聴講生ですらない私にこの日何度も授業中、意見を求め、話しかけてくれたのだが、そのほとんどが「これ、日本語でどう言うの?これ、発音あってる?」というものだったからである。「黒澤明の『蜘蛛の巣城』は日本語で何て言うの?」とカプレイ教授は私に聞き、それがマクベスを題材にした映画であるということから、「英題より邦題の発音の方がマクベスに近いねぇ。」などと呟いたりした。そして「トーホー(東宝)は黒澤明の映画の会社だからこの発音には自信があるんだ」と私に笑いかけてくれた。だけど私はその時、細心の注意を払ってカプレイ教授が意味せんとする日本語の発音に耳を澄ませていた。というのも昔、カプレイ教授と話をした際、私はこの日本語の発音の問題で大失敗をしたことがあるからである。

その日、教授は日本の「ベンシ」にとても興味があると私に言って「知っているか?」と聞いてきた。私は、教授がまた発音を間違えていると早合点し、咄嗟に「武士!武士!サムライ!」と叫んで、刀を抜く武士のモノマネをしてみせた。カプレイ教授は驚いて、「もう一度発音してくれ!」と叫び、私は「武士、武士」と刀を携えたジェスチャーのままでもう一度単語を繰り返した。「ほお…」とカプレイ教授は目を細め、「やっぱり本場の発音はぜんぜん違うな…。」と呟いた。が、実は「ベンシ」というのは、サイレントムービーが日本を席巻した際に日本で登場した映画を盛り上げる「語り部」として一時期活躍していた「活動弁士」のことだったのである。教授とのちぐはぐなやり取りのすぐ後にそのことが判明し、私は、教授が発音を間違えているものだと思い込んだこと、無駄に武士のモノマネをしたことから、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたというわけである。もうそんな間違いをしてはいけないと思ったのである。
『発音』というのは習っても習わなくても、私には本当に難しい問題だった。だけど一方で、こうして日本語の発音と英語の発音が分かり合えない遠い立ち位置にあるからこそ、トム先生は楽しそうに授業中生徒の間違いを大笑いして指摘するし、私はカプレイ教授の授業で初めて、ウィスコンシン大学の正規の学生たちの前で日本語の発音を披露し、自尊心がくすぐられるような、とても誇り高い気持ちになれたのである。

アハメはアハメ

 11月15日。「今回の大統領選は歴史的なものになる。」というのは、選挙前からよく聞くセリフだった。ヒラリーになれば、史上初の女性大統領の誕生で、トランプになれば史上稀に見るクレイジーな大統領の誕生、という意味だ。私の住むマディソンは学園都市ならではのリベラルな人が多く、ヒラリー支持者が圧倒的多数を占めていたけれど、一歩マディソンを離れれば、そこは全く違うファーマー達の住む世界に囲まれた「陸の孤島」なのだと先生たちはかねてから危機感を募らせていた。そしてその言葉の通り、あの夜ヒラリーの敗北にとどめを刺した州であるウィスコンシン州は、マディソンとミルウォーキーなどの数少ない都市部を除いてはトランプ支持という形で結末を迎えたのである。

 そんな「歴史的選挙」が過ぎ去り、選挙前からずっと停滞していたどこかそわそわした空気からも解放され、語学学校にも何も変わらない日常が戻ってきた。以前からトランプ当選の折にはカナダ移住を表明していたベス先生もトム先生も、もちろん移住などすることはなく、以前と変わらず語学学校で教鞭を取っている。私もフリーのカンバセーションアワーに参加したり大学の授業に聴講に行ったりする日常であるが、だけど何かの折にはふと政治の話になったりするのが興味深かったりする。アメリカ人の彼氏のいるタイ人のパニカは、お茶をした際、今は5年間のビザがあるけれど今後どうなるか分からないと不安を漏らしてみせたし、先週帰国したコロンビア人のフェリペは、「トランプのせいでマディソンに行くのは今後、もっともハードになるだろう。」と、本気か冗談か分からない、ませた内容のメールをわざわざ送ってきた。

先日行われたカンバセーションアワーでは、トルコ人の女の子と韓国人の女の子、そして白人のジェシー先生と私の四人で行われたが、すぐに話題はアメリカのトランプの話、韓国のパク・クネ大統領の話、そして少し前のトルコのクーデターの話になったりした。韓国人の女の子は、長い時間をかけてまず「パク・クネが嫌い」だということ、「こんなことになって恥ずかしい」ということ、「パク・クネの父親が大量の人を殺した」ということをとても中身の薄い英語で熱弁した。とりわけ、「恥ずかしい、恥ずかしい」と終始大げさに言っていたので、ジェシー先生は「うちだってトランプになって恥ずかしいわよ。」と言ってフォローしていた。トルコ人の女の子は、クーデターのことはよく知らないと言いながら、つたない英語で何やら人が大量に殺された話をしていたが、気付いたら私以外の全員が、自分の国の「酷さ自慢」になって迷走していた。韓国人の女の子はとにかく大げさで、「うちはナチスみたいなものよ。」とまで言っていたが、「だけど私の友人でアメリカの軍人に入りたがっていた男の子が居たんだけれど、トランプになったせいでもう入りたくなくなったって言ってたわ。」とアメリカを軽くディスることを忘れなかった。

だけど、その時「ナチスみたいなものよ。」と軽く言った韓国人の女の子のセリフに、私はふと既視感を禁じ得なかった。どこで聞いたのだろう。そう思うとふいに「ダラルだ」と思い当たった。サウジアラビア人のダラルが、先月「うちは北朝鮮と同じなの。」と言ったセリフと、韓国人の女の子のセリフがオーバーラップしたのである。それは中国人が祖国でフェイスブックを禁止されているという話になった時にダラルが「うちだって」と言った時のセリフだった。新しい王政になってから、サウジアラビアではフェイスブックもスカイプもメッセンジャーも禁止されてしまい、ダラルはまだ禁止を受けていないアプリを駆使して祖国の家族とコンタクトを取っているのだと言った。私が「でも何故わざわざフェイスブックとか禁止する必要があるの?」と聞くと、側で聞いていたベス先生が「政府が人々をコントロールするためでしょう」と憤然と言った。だけどそんなことを規制することで、いったい人々の何をコントロールできるのだろう?私には疑問だった。

実際、先週中国へ帰国したビッキーは、帰国前日、私にメッセンジャーから最後のメールを送ってきて、「WeChat」というアプリをダウンロードしてくれ、と頼んだ。「何それ?」と私が聞くと、中国で使える中国人達にとっての唯一のコミュニケーションアプリだという。「中国人なら全員がやってるわよ。」とビッキーは言うと、私に丁寧に使い方をメールでレクチャーしてくれた。「中国ではツイッターもフェイスブックもインスタグラムもメッセンジャーもラインもスカイプも使えないから。」とビッキーは言った。「WeChatは安全よ。」とビッキーが言うので、「e-mailは使えるの?」と私が聞くと「使える。」とビッキーは言った。だけどビッキーのことが大好きなので、私はすぐにWeChatというアプリをダウンロードして使えるようにしたのだが、すると登録した直後にダラルからWeChatの追加の申請が来たので何だか私は笑ってしまった。これまで私はWeChatなんて知らなかったのだが、禁止されれば禁止されるほどに、中国人達もサウジアラビア人達も、抜け道を探して躍起になってコミュニケーションアプリをダウンロードしているのだと思うと面白かったからだ。人をコントロールするというのは、とても皮肉なことなのだなと私は考えずにはいられなかったのである。

ところで、もう一つ面白かったのは、WeChatをダウンロードした後、今度はサウジアラビア人のアハメからフェイスブックを通じてあるアプリのダウンロード依頼がたまたま来たことである。また知らないコミュニケーションアプリなのだろうか?と思った私は、依頼されるままにその聞いたこともないアプリをダウンロードしたが、開けてみるとただの「出会い系」アプリでとてもびっくりした。しかもそれはとてもよく出来ていて、出会いを求めて登録している人全員の位置情報が瞬時に分かり、その人たちの人気順位や顔写真も観放題なのである。アハメはこんなものを使っているのか…と思ってびっくりしていると、ダウンロードして30分も経たないうちに「●●さんがあなたに興味を持っています。会いますか?」という案内通知が届いたので、私は大急ぎでアプリを削除した。全く、アハメは何を考えているのか…。「歴史的選挙」を終えてもなお、アハメは大金持ちの能天気なアハメのままだったのである。

ESLクライシス

11月7日。語学学校の“スチューデントラウンジ”にジェンガという積み木のゲームが置かれていた。このラウンジのスペースはもともと生徒たちが食事をしたりくつろいだりできる地下にある広いスペースで、居心地のいいソファがいくつかと、テーブル、他にもお菓子やジュースの自動販売機、電子レンジも置かれているのだが、ゲームが置かれているのは初めてだった。見ると「毎週金曜日の昼休みはゲームの時間!来てね!」とテーブルごとに黄色い紙で作った案内が置かれている。今期から始まった生徒のための新しい試みなのだろう。それだけではない。見るとラウンジの自動販売機はすっきりとして新しいものに変わっていた。すごいなあと私は思う。

そもそも私の通っている語学学校はとても評判のいい学校である。先生たちや授業の質も去ることながら、授業以外にも毎月沢山のイベントを企画するスタッフが駐在していて、季節ごとにハイキングや野球観戦、サイクリング、シカゴ旅行、遊園地やペインティングといった多岐にわたるイベントを週末や放課後に企画しては生徒たちを連れ出してくれる。他にも、取っている授業以外で「フリーカンバセーションアワー」や「ライティングセンター」といった無料のクラスも毎日開かれており、暇な人はそういったフリーのクラスにいくらでも参加できるし、コンピューター室の印刷機も使い放題である。学校の寮に住んでいる人は、毎週金曜日の夜にもスタッフの部屋でフリーカンバセーションアワーやパーティに参加できるし、一番の強みは、この語学学校の卒業証明書でマディソンにあるいくつかのカレッジの入学することが出来るという点でもある。

それにもかかわらず、である。今、生徒たちの間でまことしやかに懸念されているのが、この語学学校が危機に瀕しているのではないか?という事案である。私がそのことに気付いたのは先月の終わり頃だった。次のセッションで開講される授業の案内の紙に、いくつか消えたクラスがあったのである。スチューデントラウンジはなんとなくいつもひっそりしているし、聞くところによると『ビジネス&コミュニケーション』というクラスでは、「どうしたらもっと生徒がうちの学校に入学するようになるのか?」というお題について生徒たちにそれぞれ考えさせて、最終的にこの学校の管理者の部屋で生徒たちにプレゼンまでさせたそうだ。また、いつも駐在しているスタッフの部屋が最近暗いのは、生徒を集めるべく世界中にリクルーティングに行っているからだと言う。

先月末、授業でベス先生にそのことを聞いてみると、ベスはあっさり「確かに生徒数は今すごく減っている」と認めた。だけどそれはうちの語学学校に限ったことではなく、世界中で起こっていることで、マディソンにあるもう一つの語学学校では今や生徒数がたったの四人なのだそうだ。他にもウィスコンシン大学が開いているESLのクラスも今期の生徒は一人きりだと言う。「なぜ?」と私が聞くと、ベスはサウジアラビア人のダラルを見て、「あなたの国のせいよ。」と冗談めかして言った。どうやら去年サウジアラビアの国王が世代交代したせいで、これまで大量のサウジアラビア人が留学出来ていた制度が廃止になってしまい、そのせいでこれまで主要な顧客だったサウジアラビア人の生徒が激減してしまったのである。幸いダラルはまだ廃止になっていない留学制度を利用しているので残っているが、彼女だってその新しい王政の煽りを受けて自身の収入も半減したと主張した。ベスは頷いて、「それから中国人も減った。」と、今度は中国人のビッキーに目配せをした。「そうなの?」と私がビッキーに聞くと、ビッキーは頷く。なんでも、最近では中国全体でアメリカ人のネイティブの先生を公立の学校に呼んで授業をする方針が主流になりつつあるので、わざわざ語学留学だけのためにはアメリカに来る生徒が居なくなっているのだそうだ。そうでなくても世界中にESLはある。アメリカのドルは高いし、ウィスコンシン州のような知名度の低い場所に来る人もとても少ないのだそうだ。

 気付いてしまうと、私はなんだかすっかりこの大好きな語学学校を心もとなく感じてしまった。そしてそう思うと、毎セッションの終わりごとに生徒たちに配られるクラスアンケートの「評価」も、どこか先生たちがいつも以上にナーバスになっているように感じられたりもしたのである。トム先生は最終日、このアンケートの内容を読み上げて「この質問は使ったテキストについての評価だね。うーん、僕はこのテキストはとてもいいテキストだと思うね。」とわざわざ説明していたし、ベスは「先生についてどう思いますか?」という質問欄に関して、「毎度のアンケートでうんざりしてると思いますが、私を辞めさせたいと思っているなら、この質問は絶好のチャンスでしょう。」などと皮肉なことを言った。ジム先生に至っては、アンケート記入の時間に隣の教室に待機すると言ってクラスを出て行ったそうだが、生徒の目撃情報によると、彼は待機している間ずっと両手をぎゅっと握って教室で一人ウロウロと心配そうに歩き回っていたのだそうだ…。もちろんこのアンケートで酷評されて辞めさせられた先生は居る。非正規雇用として雇われている先生たちは、自分が受け持つクラスを次のセッションで持てるかどうかは、セッション開始日の二日前に知らされる。そこで初めて、いくつのクラスが開講されるか知り、それによってその月の給料が決まるのである。生徒の縮小に伴い、クラスが減少している今、このアンケートは先生たちの死活問題なのである。

 先月の終わり、セッションの終わりにベス先生は一人ひとりの生徒に「次はどの授業を取るのか?」と聞いて回っていた。そして一人ひとりに自分の授業をもう一度取ることを丁寧に勧めていた。もちろん私にも「あなたが書きたいと思うことを書いていいのよ。」と言ってもう一度ライティングの授業をリピートしてはどうか?と提案した。トム先生の『発音』の授業に至っては、最終日にトムは「次のクラスは生まれ変わる」と驚きの宣伝を怠らなかった。事実、このクラスはクラス縮小のために消えた他の『スラング』というクラスと合併した新しい授業内容になるそうだ。『発音』のクラスを終えたばかりの私たちが、再度この授業を来月から取っても損はないのだとトムは強調した。「単語テストはある?」と私が聞くと、あまりにも苦しそうな長考の後、「5問だけだ!たったの5問だけやるかもしれない。」とトムは言って生徒の顔色を窺った。結局、私はトムの言葉を信頼して、もう一度その新しく生まれ変わるという『発音』の授業を受講することに決めたけれど、必死に「自分の授業をリピートせよ」とリクルーティングする先生たちを目の当たりにして、「英語を外国人に教える」という仕事を誇りにし、毎日を楽しみ輝いていると思われた先生たちが、思いがけず直面しつつある時代の世知辛さについて胸を痛めずにはいられなかった。とりわけ日の短くなってきたマディソンは、今月から誰もが忌み嫌う冬の季節の幕開けである。誰もが春を待ち遠しく思う極寒の世界の始まりである。ひっそりとした“スチューデントラウンジ”にポツンと置かれたピカピカのジェンガの山を見て、私は日々生き残りをかけて模索しているESLの実情を、少しだけ悲しく思ったのである。

ダラルの恋

 10月14日。ずっと仲良くしていた台湾人のジエルが一年間の語学留学を終えて台湾にいよいよ帰国することになり、サウジアラビア人のダラルが、急きょ続けざまに私を誘ってディナーやお茶会を提案した。友情を重んじるダラルは授業をサボってまでジエルのために時間を作ることにし、お茶に行く前にそのことを丁寧にジム先生に断りに行った。「ジエルが最後だから授業には出られません」とダラルがきっぱり言うとジム先生はぽかんとして「今日の成績はゼロになるけどいいの?」と聞いたそうだが、ダラルは憤慨して「いいです!ジエルが最後なんだから!」と言って教室を出てきたそうだ。そしてダラルは自分の車に私とジエルを乗せると、あらかじめ決めていた台湾カフェ(ジエルは台湾に帰るのに。)へと私たちを連れ出した。

 学校で仲良しの二人とはいえ、外でゆっくりと話したことはなかったので、私は今までダラルがサウジアラビアの大学の教授だということを、こうしてしっぽりお茶をするまで知らなかった。それにダラルがPhDを取得するための難しい奨学金を得ているということも知らなかったし、それは他のサウジアラビア人のティーンの奨学金とは違った種類の奨学金で、月に2500ドルが得られるもの、一年半は語学学校で過ごせるものなのだということを初めて知った。だから、実はこの夏、サウジアラビアの政権が変わったことでこれまでサウジアラビア人のティーン達が大量に留学できていた奨学金制度がすべて打ち切りになり、のらりくらりと語学留学に来ていた彼らが夏の間にこぞって帰国してしまったのに対して、彼女は今期もマディソンに残って引き続き勉強が出来ているのだそうだ。その上彼女には月々、大学教授としての給料1500ドルが入ってくる。シングルマザーで大学教授で息子二人を育てながら勉学にいそしんでいるのだというダラルの知られざる身の上話に、私もジエルもとても興味津々に聞き入っていた。

 ダラルの話は、結婚話にも飛び火し、ダラルの子供たちの父親であり前の夫である人は、彼女の従兄弟なのだそうだ。そしてサウジアラビアでは、結婚をするとき親族全員にお伺いを立て、家族全員の了解が得られなければ結婚できないのだとダラルは教えてくれた。だけど、そこはサウジアラビア人である。たいてい結婚に反対するとき「辞めた方がいい」とは思っていても、そんな否定的なことは決して口にしない。ただ、「分からない。私には何も言えない。」と言えば、それは直ちに「結婚反対」の意思表明となり、その結婚は破談になるのだそうだ。「離婚したら女の人も再婚出来るの?」と私が聞くと、「何十回でも出来るわよ。」とダラルは言う。そして「私、再婚したいのよ。」と言って豪快に笑うと、実はアメリカに居る間に二人の男の人に告白をされたのだと打ち明けた。

 私とジエルが色めきたったのは言うまでもない。そして、ダラル自身、珍しくその浅黒いエキゾチックな頬をほんのり紅く染めながら、一人はイラン人で今乗っている車をダラルに譲った人で、もう一人は黒人のアメリカ人のムスリムなのだと言った。二人とも美人のダラルの事を好きになったそうだが、ダラルは親戚が反対するのは分かっているから、どちらとも結婚することは出来ないと伝えたと言う。サウジアラビア人以外の国の人と結婚するなら、アメリカ人の白人かヨーロッパ人の白人のムスリムでなければ必ず反対されるとダラルは言う。ジエルが試しに「黄色人種は?」と聞くと「ノー」とダラルは即座に言う。「こっちに居るサウジアラビア人の男の人はどう?」と私が聞くと、「一人、バツイチで子持ちの男の人がいるけど…」とダラルは言った。「友達よ。」そう言うと、ダラルは携帯に入っている一つの画像を私とジエルに見せてくれた。

見ると、ヒジャブを身に着けたエキゾチックで目元の涼し気な男性が写っていた。どうやらこの人がそのバツイチのサウジアラビア人のようだ。「ハンサムなんじゃない?この人」と私が言うと、「ハンサムだと思う」とダラルは言い、「ただの友達」だともう一度強調してから「彼は娘が居るからいろいろしてあげたくて、私は買い物とか手伝ってあげているだけなの。」とポツリと言った。聞いてもないのに「私は愛してないわよ。」とまでダラルが言うので、試しに「この人がダラルに告白したらどうするの?」と私が聞くと、ダラルははにかみながら「結婚する。」と迷うことなく言ったのである。

 「だけど、私は愛してない。だって、分かるでしょう?私たちの国では女の人からそんなことは言えないし、思うこともないの。もちろんこの人が結婚しようって言ったらするけど、私からは何も言わないし、思うこともないの。」私とジエルが顔を見合わせていると、「私は愛してないし、ただの友達。」とダラルがまた言った。「だってこの人は、いつも自分の娘のことばかり考えているんだもの。電話してもメールしても娘のことをいつも考えているもの…。でも、ただ私は手伝ってあげたいからイスタンブールマーケットに一緒に行ったりしてあげるの。夫婦以外の男の人と歩くのは誰が見てるかわからないから、私たちは夫婦のフリをして、手をつないでイスタンブールマーケットに行くの。ただそれだけ。」私もジエルもそれ以上、何も言わなかった。日本ではそれを『恋』と呼ぶことがあるのだけれど、ダラルはきっとそれを認めないだろう。台湾人のジエルの送別会だったのだけど、その日は思いがけずダラルの、サウジアラビアの恋愛事情を聞くお茶会となった。

初めて銃を撃った日

 10月9日。「アメリカに居るのなら、鹿狩りをするのもいいよ。この時期、僕もよく行くんだ。」と、タイ人のパニカのボーイフレンドのトニが言った。トニはアメリカ人だ。それを横で聞いていた同じくタイ人のプンの旦那さんでアメリカ人のケビンも、ビールを飲みながら「そうだ、アメリカと言えば銃だからね。なんなら一つ自分の銃を買ったらいいよ。」と冗談めかして私に言った。私が驚いていると、トニも笑いながら、「そうだ、買うといいよ。アメリカに居る間にしか出来ないんだから。簡単だよ。」と言って、ガールフレンドのパニカにウィンクしながら、「君もやりたかったらいつでも教えてあげるよ。本当に。」と甘く囁いた。なるほど。と、私は思う。日本で銃を撃つ機会なんてそうそう無いだろう。

 今まで深く考えたことはなかったけど、ここは銃社会だ。その日のそんなちょっとした会話で「銃」というものになんとなく心惹かれた私は、さっそく次の日、毎年秋に家族で鹿狩りを楽しんでいるトム先生に「どこで鹿狩りが出来ますか?」と質問をしてみた。トム先生は一瞬きょとんとしてみせ、おもむろに「まず最初に、」と言った。「君は銃を持ってるの?」私が首を横に振ると、「次に、」とトムが続ける。「鹿狩り用の特別なスーツを持ってる?」「ノー」と、私。「それから鹿狩りのライセンスが必要。あと、鹿狩りの出来る公園を所有している知り合いを持つか、そういう公園を探さないといけない。幸い僕にはその知り合いがいるから毎年行くんだ。これらの条件をクリアしたら行けるよ。」と言った。そんなに条件があるなんてトニは言ってなかったぞ、と私は思いながら、少しがっかりしていると、そんな私を見ながら「真面目な話。」とトムは言った。「鹿狩りほどつまんないものはないぜ。」というのも、鹿狩りというのは、明け方の寒い時間から出かけて何時間もただ鹿を待つだけだからだそうだ。その果てに、たった5分、獲物をしとめるたった5分のエキサイトする時間があるのだという。時に、獲物を追い込むこともあるけれど、鹿狩りというのは基本的に長時間、無言でじっとしているという男のゲームなのだ。「だから、銃を撃ちたいだけなら、シューティングセンターに行けばいいよ。」

 というわけで私は週末、秋の気配を感じる行楽日和に、マディソンの家から車で一時間少し、マディソンとミルウォーキーの間に位置する“マックミラースポーツセンター”へ朝から訪れる運びになったのである。気持ちの良い秋晴れの日である。シューティングセンターを目指す車の車窓からは、アライグマのラスカルの舞台であるウィスコンシンらしく、美しい川や湿地帯、牧場やトウモロコシ畑というのどかな風景が次から次へと流れては消えていった。併せて、道の悪いガタガタの高速道路には、数メートルおきに車につぶされたリスの死骸も転がっており、ときどき狸や鹿といった大物の死骸が倒れているのも目にした。それらの流れていく死骸を横目で見ながら私は、鹿狩りなんて簡単にやりたいとトムに言ってはみたけれど、よく考えるとトムは仕留めた鹿を家に持って帰って食べるなりなんなりするのだろうなと思い至り、私には到底できる業ではなかったのだなと、鹿狩りそのものへの諦観を強くした。

 ともあれ、野外のシューティングセンターは大盛況だった。私たちのような初心者はほとんどおらず、集う人々はおのおのの自慢の銃を持参しており、ちょっとしたゴルフの打ちっぱなしのような感覚で撃ちまくっているのである。すでにそこら中で銃声が鳴り響いている。本物の銃声を聞くのも初めての私は最初、すっかり縮み上がってしまった。だけどここまで来たのだからと受付に行くと、銃を持参していないということで、センターから銃を借りて使い方をスタッフに簡単に教わることが出来た。銃を借りるにしても簡単なサインとドライバーズライセンスを預けるだけで事足りるのだから、改めて銃を持つことに対するハードルの低さに私たちは驚いた。一番簡単な銃の使い方を10分ほどで解説してもらうと、そのまますぐに実践である。「一番大切なポイントは何か分かる?」とスタッフの人が私たちに質問をする。「的をよく見ること?」と白井君が言うと、「違う」と彼は即座に言った。「一番大切なのは、銃口を人に向けないことだ。」

 結論から言うと、シューティングは怖かったけれど、楽しかった。50発分の弾丸を買ったものの、私も白井君も二人で30発撃てばもう満足で残りの銃弾を持ってそそくさと引き上げたのだが、弾さえ購入し続ければ、何度でも撃ちっぱなしで遊ぶことが出来た。耳栓をして透明の眼鏡をして、的に向かって撃つだけのことである。すべてのブースがいかつい大人の男たちで占領されていて、それぞれがそれぞれ撃ちたい銃を撃ちたいスタイルで撃っていた。私はブースに入って初めて撃った時、頬を殴られるような衝撃が走るのを感じた。どーんという銃声とその重い衝撃、そして危険なものを持っているということへの恐怖がいっぺんに体の中に沸き起こり、アドレナリンが出るのを感じた。だけど一方で背徳感や危険なものへの密かな憧れ、あるいは闘争心のようなものも解放されたのも事実である。だから私は初めて、銃というものの魔物性を知ったような気がしたし、また撃ちに来てもいいなと言う感想さえ持ったのである。不思議な体験だった。