8月28日
2ヶ月前にアメリカから帰国し、ホームであるはずの日本で始まった暮らしは、強烈なカルチャーショックの連続だった。なにしろこの四年、日本に一度も帰国せずにアメリカの田舎町にいたのだから、まずそこらじゅうに日本人が居るということに戸惑ってしまう。それから、未だに誰もがマスクをしているということ、当たり前だけど日本語が飛び交っていること、そして誰もがムキムキでカジュアルなアメリカ人に比べると華奢で礼儀正しくエレガントなことに、いちいち驚かされるのだ。
日本(日本人)は四年前からこうだったのだろうか?何度もそう私は白井くんに聞いた。でもたぶんそうだったのだろう。四年分のアメリカ漬けの暮らしは確実に私の何かを変えていたようで、だから例えばそれはペーパーワークの多さや現金でしか支払いの出来ない場面に遭遇すると、いちいち辟易するという反応によって日常で顕在化されるのだった。
毎朝、保育園の連絡帳にシャチハタでハンコを押さなければならない時、私はよくマディソンで槍玉に上がった日本の「ハンコ文化」についての会話を思い出すことがあった。もちろん、勤め始めた会社でもハンコは必須だった。だからこの四年間、一度もハンコを使うこともなく、また四年前、ダンボールのどこにハンコをしまったのかわからない私は、まず東急ハンズまでシャチハタを買いにいく事になった。ずらりと並んだハンココーナーを前にして、そこに表示されていた1300円という値段の高さにひっくり返りそうになったのは私があまりにもその意味から遠く離れていたせいだろう。
職場に復帰した白井くんは、予想通り、平日は帰宅時間がとても遅かった。
息子は家の近くを流れる川をふざけて「汚い湖」と呼んで笑っていたが、学校から持ち帰った七夕の短冊には「ウィスコンシンに行きたい」と書いてあった。私は仕事を始めて一週間目で上司に口答えしたので、さっそく呼び出されて一時間ほど説教を食うことがあった。いろんなことが突如として変わり、それらがあまりにも違いすぎていて、私の心は時々、込み上げてくる複雑な思いと戦わなければならなかった。それは郷愁とか悲しみといったセンチメンタルな感情ではなく、なんというか、漠然とした生きることそのものへの困難のようだった。
そんなある夕方のことだった。私はこの日、暗い気持ちを抱えて、息子と二人で荒川の土手を歩いていた。心の中がもやもやしていて、どうしても夕焼けが見たくなったのである。夕暮れ時、少し開けた川の土手に出ると、そこにはいつかマディソンで見たような、ピンク色に染まった美しい空が広がっていた。
と、突然息子が歓喜の声を上げた。見ると、そこに息子と同じくらいの男の子が私たちと同じように母親と歩いていたのだが、面白いことに、その男の子は私の息子と全く同じデザインのズボンを履いていたのである。
二人はすぐに打ち解けて駆け出した。ウズベキスタン人だった。
「ウズベキスタン語と日本語が話せます。だけどウズベキスタン語の方が上手です」
ヒジャブを纏った母親は、私にそう片言で話した。聞くと、その男の子はウズベキスタンで生まれたらしく、だから日本語は私の息子のそれと同じくらいのレベルだったのである。同い年で、同じようにバイリンガルで、同じズボンを履いているウズベキスタン人とアメリカ生まれの男の子。だけど二人の共通言語は日本語なので、二人とも頑張ってカタコトの日本語を話しながら遊んでいるのが、なんだか面白かった。
「日本はどうですか?」
サウダットという名のその母親に私が聞くと、「大変ですね」と彼女は寂しそうに笑った。日本で仕事をしている彼女の旦那さんは、週に二日ほどは朝まで働いているのだと言う。
「アメリカはどうですか?」
サウダットが私に聞いたので、私は「いい面と悪い面があるよ」と言ったが、それを聞くと彼女は分かったような分からないような顔をしてこくんと頷いた。
「ウズベキスタンに帰りたいですか?」
私は聞いた。
「はい、帰りたいです。でも難しいです」
サウダットは言った。
「アメリカに帰りたいですか?」
サウダットが私にそう尋ねた。
「はい。帰りたいです」
はい、帰りたいです。
とても反射的な言葉だった。考えるよりも先に、あまりにも自然に、あっさりと自分の口から飛び出してきたので、それはまるで自分の言葉ではないかのように耳に響いたが、飛び出した言葉のあまりの重さに、胸が押し潰されそうにもなった。
「でも、難しいです」
少し間を置いてそう付け足すと、サウダットはそんな私を見て何かを感じたのか、ふふふと静かに笑った。
ふと見ると、同じパンツを履いた二人の男の子がまだ夢中になって一緒に遊んでいた。二人は時折、互いの理解出来ない言葉で叫んだりもしていた。その後ろに、荒川と東京のシンボルであるスカイツリーが見えた。それからその上にはいつかマディソンで見たような、ピンク色の美しい夕暮れの空が広がっていた。
7月21日
七年前の七月、私は生まれて初めて、アメリカ合衆国、ウィスコンシン州はマディソンという小さな街に、夫である白井くんと二人で降り立った。何の準備もしてなかったので、着いてすぐに私はマディソンにある語学学校で必死に英語の勉強を始めた。それから子供も産まれ、二年後、私たちは予定通り日本に戻った。だけどその後ワケあって再びマディソンに舞い戻ると、今度は四年間という月日をこの美しい田舎町で暮らすことになり、気づけば何の因果か三十一歳から三十八歳のうち六年間という歳月を、私はここウィスコンシン州マディソンで過ごすこととなった。
一度目の滞在とは打って変わり、二度目のマディソンでの生活は極貧から始まったので、血を売ろうとしたり、フードパントリーに通ってボランティアとして働いてみたりと、無茶苦茶なことが多かった。その上雪道をスリップして車を壊したことも、パンクしたまま車を走らせたり、はたまた警察に呼び止められたりと、怖い出来事も少なくなかった。高速道路でパニック発作を起こしたこともあった。パンデミックという未曾有の事態が起こり、さよならも言えずに会えなくなった人たちがいた。英語が上達するにつれ、友人たちと揉めることもあったし、ブラックライブズマター、マスクやワクチンを巡る攻防の折には、アメリカという社会が直面しつつある大きな分断を肌で感じることがあった。
だけどどれだけハードな時を過ごそうと、この六年間、私のマディソンを愛する気持ちは一度も変わることがなかった。どれだけ辛い出来事が起ころうとも、私の目に映るマディソンは変わらず美しかったし、点在する湖を眺めれば、くよくよと悩んでいることがバカバカしく思えることがよくあった。
モネの油絵のような湖の水面は、どんな時でも穏やかに光り輝いて、そこにいる人々の心を癒しているようだったし、冬になれば真っ白に凍りつくことも幻想的だった。湖が凍らない時はよくアヒルが泳いでいた。名前も知らない不思議な鳥が囀っていた。そして夏になるとそこらじゅうに蛍が飛び交って、やっぱり私たちの心を明るく照らすのだった。
人との関わりもまた、私がマディソンを愛する理由の一つだった。
ブラジル人のママ友のルアーナは、私を日本に帰国させないよう、白井くんと別れてアメリカ人と再婚することを最後まで強く勧めた(彼女はウィスコンシン州でゲイの結婚が認められていることから、自分が既婚でなければ結婚したのに...と何度も言った)。中国人のメンディは最後の日、「自分はこれからどうやって生きたらいいのか?」と言って泣きながら別れを惜しんでくれた。ロシア人のエフゲニアも、私が最後に手紙を書いて渡すと、「こういうのは大嫌いだからやめて欲しい」と言って怒ると、やっぱり唇を歪めて泣いた。私も泣いた。
夏になると街のあちこちでよく無料のライブイベントが催され、人々はテラスで夜更けまで飲み集っていた。秋になれば誰もがフットボールに熱狂し、冬になれば湖はスケートリンク場になった。大学のキャンパスは多くの若者たちが行き交い、大学のキャラクターであるアナグマのバッキーは街のアイドルだった。そして春、学校の学期が終われば...、それは別れの季節だった。
目を瞑れば今も、私はありありと、その光景を一つ一つ思い浮かべることができる。ダウンタウン、街のシンボルである真っ白な州議事堂、その奥にあるフランク・ロイド・ライトによって設計されたモノナテラス...。たくさんの思い出が「マディソン」という言葉のなかに詰まっていた。
だけど、私にとっての「ウィスコンシン州マディソン」は、この地理上の、海をはるか遠く越えたアメリカ大陸だけに位置しているものだけではなかった。というのも、ここ長屋での『ウィスコンシン渾身日記』という場所もまた、ある意味では私のもう一つの六年間のマディソン生活だったからである。
辛い時、苦しい時、あるいは楽しい時も、私の心を鼓舞したのは何よりも、恩師である内田樹先生にいただいたこのブログという「場所」であり、それは仕事もなく何の目的もなくアメリカに駐在することになった主婦である私にとって、大きな心の拠り所だった。
今でも、先生があの時「日記を書いたら?」とお声がけくださったことは、私の人生において最も大きな幸運だったと思わずにはいられない。ここでの六年間なしに、私のマディソン生活は決して語り得ることはなかっただろう。
先生がそこにいて、私のマディソンでのあれこれを聞いてくださっていたことで、私はこんなにもマディソンでの生活を愛することができたからである。
6月13日をもって、残念ながら私たちのマディソンでの暮らしは終わった。
日本帰国。新天地は東京である。
4月13日
「お金持ちの、セレブリティのスキャンダルに、私は今それほど興味がないの」
オスカーの授賞式でのウィル・スミスの平手打ちについて持ち出した時、ママ友のエフゲニアはいつになく神妙に私にそう答えた。彼女の三十六歳のお誕生日のお祝いに、二人で飲みに出かけた夜のことだった。
エフゲニアはアメリカ人の旦那さんと結婚してマディソンに暮らすロシア人だった。幼い頃、母親の仕事の関係でウクライナに数年間暮らしたことがあり、ロシアにもウクライナにも彼女にはたくさんの友達がいた。1ヶ月半前、最初にロシアがウクライナ侵攻を始めた時、エフゲニアはまだ元気そうに「ニュース見た?」と私に声をかけてきたものだった。その頃、職場に持参するサラダにいつも「ロシアンサラダ」と書いていたエフゲニアは「今日は実はロシアンって書かなかったのよ」という冗談を言って笑うほどの余裕があった。だけどそれ以来、楽観的に捉えていた戦争が長引くにつれ、エフゲニアはソーシャルメディアの活動をパッタリとしなくなり、彼女はここひと月半ほどウクライナのことで頭がいっぱいのようだった。
ロシアに残した彼女の母親やロシアに対する制裁の影響を私が心配すると、エフゲニアはいつも「ロシアのことは心配いらない」とキッパリと答えた。もちろん海外の会社に勤務していたロシア人の友人は失業し、海外にそのほとんどを頼っていた医薬品などの輸入が滞り、日本の製品を買おうとした友人がその品物を買うことが出来なくなるなど、ロシアを取り巻く情勢が厳しく変わっているのは確かだったが、彼女にとってそんなことはウィル・スミスの平手打ちと同様に大した話ではなく、その心はいつも、彼女がかつて幼少期を過ごし、同じスラブ民族である友人が多く住むウクライナにあるようだった。
「だけど、この戦争は避けられなかったのよ」
諦めたように情勢を見守りながらそう話すエフゲニアは、「プーチンが何を考えているのか分からない」とため息をついた。そしていつもこう言うのだった。「これはプーチンの戦争なのだ」と。
ところが興味深いことに、中国は吉林省に戻った朝鮮族のフミンさんの心境はエフゲニアとは真逆の様相を呈し、その心はウクライナではなくロシアにあった。
「私はロシアを応援しています。悪いのはアメリカです」
久しぶりに電話をした時、フミンさんは電話口でそうあっけらかんと言うと、今、中国ではロシアを応援するためにロシア製品が飛ぶように売れているのだと教えてくれた。その上フミンさんはプーチンのことを「セクシー」だとも表現した。中国の女たちはみんなプーチンが好きで、悪いのは全てアメリカなのだ、と。
「中国の報道とアメリカや日本での報道は真逆みたいだね」
私がそう答えると、フミンさんはふふふ、と笑って「そうでしょう」と言った。
「それから私は韓国も嫌いです」
付け加えるようにフミンさんがそう言ったので、私はまた驚いてしまった。フミンさんといえば、中国に住む朝鮮族である。彼女が育った中国の吉林省延吉は朝鮮族の多く住む地区であり、結婚式にもチマチョゴリを着るほどに彼女は自分のアイデンティティは中国というよりは韓国にあるといつも話していたからだ。
「何かあったんですか?」
私がそう聞くと、フミンさんは先の北京オリンピックがきっかけだと言った。なんでもオリンピックの開会式では中国に住む多様な民族のコスチュームが紹介されたそうだが、その中で吉林省の人たちがチマチョゴリを着て出演したことに韓国のメディアが苦言を呈したのだと言う。
「元々、私たちは戦争で逃げられなかった朝鮮族なんです。たくさんの朝鮮族が国に戻ることができましたが、私たちは逃げられなくて吉林省に残ったんです」
フミンさんはいつになく感情的にそう言った。歴史的な背景を考えれば当たり前のことだとわかるのに、韓国のメディアは「中国人がチマチョゴリを着た」と悪意ある報道をし、そのことがフミンさんにとって韓国を嫌いになるきっかけになったのだと言う。
「私たちは朝鮮族なんだから、チマチョゴリを着て何が悪いんですか?」
久しぶりのフミンさんとの長電話でそんな話を聞きながら、だけどふと、私はやはり、スラブ民族に、ウクライナに思いを寄せるエフゲニアのことを考えずにはいられなかった。
アメリカでは、いや、マディソンでは最近、あちらこちらでウクライナの国旗を見かけることがあった。そしてエフゲニアはよく出かけ先で見つけたそんなウクライナの国旗の写真を携帯に収めていた。ブラジル人のルアナの家の玄関にも、小さなウクライナの国旗が先月くらいから吊るされるようになった。近くのスーパーでもウクライナを支援する寄付金を求められることがよくあった。
住む場所が違うと言うことは、耳にする言葉、目にする情景、手にする情報が変わるということだった。そして国境という当たり前のようにそこにある線引きによって引き裂かれた時、私たちの心はいともたやすく悪意にも好意にも変わり、元々一つであったものでさえ、思いもかけないほど遠くへと引き離されてしまうようだった。
もちろん、エフゲニアもフミンさんも、マディソンで出会ったかけがいのない友人に変わりはなかった。だけど今、そんな友人たちを取り巻く全く別の環境の変化を感じながら、私はそんな世界のあり様を興味深いと思うよりはむしろ、残酷だと思わずにはいられなかったのである。
4月4日
「エヴァンジェリカルの人とは真に友達にはなれない」とは、多くの人から受けた助言だったけれど、結局私はずるずるとキリスト教福音派・エヴァンジェリカルの宣教師であるマットとジョーダンと不思議な友人関係を続けていた。マットもジョーダンも優しかったし、時々神について話し出すことがあったとしても、それが世間が騒ぐほどに彼らとの友情関係を直ちに辞めなければいけないという理由にはならなかったからだ。
マディソンで出会う以前、マットとジョーダンは2020年3月まで中国の重慶で宣教活動をしていた。そもそも中国では宣教活動そのものが禁止されているので、彼らの活動は秘密裏に行われていたが、ある時は彼らの部屋で盗聴器を発見することがあったり、ある時は一人一人の時間をバラバラに設定して会合に集まるという工夫がなされたりと骨の折れることが多かったという。だけどその反面、そんな重慶での彼らの滞在時期が一番信者の伸び率が高かったそうで、その頃のエヴァンジェリカルの中国でのグループは水面化で急速に花開いたのだとマットは懐かしそうに語った。
だけど2020年3月といえばパンデミックの始まりだった。3月、ちょうど休暇を取って他の宣教師の仲間とタイへ旅行に出ていた二人は、思いがけず旅先で中国への再入国が不可能となってしまい、そのままどこにも動くことができなくなってしまった。中国でのアパートの家賃を払い続けたまま、彼らは何ヶ月もタイに留まり中国に戻る日を待っていたが、そのうち中国に戻ることは諦めるようにとの指示が出されると、彼らは全ての荷物を中国に残したまま泣く泣くアメリカに舞い戻り、ウィスコンシン州マディソンに集められたのだった。
2020年秋、私がそんなマットとジョーダンに出会った頃、彼らはマディソンでせっせと日本語を勉強をしていた。中国での活動再開が不可能となった今、彼らの次なる宣教活動の地は「日本」との天啓を受けたからである。だけどもちろんコロナ禍のもとすぐに日本に渡航できるわけもなく、二人はその後実に長い間、マディソンで根気よく、日本のビザ申請の許可が降りるのを待つ事となったのだった。
ところで中国で活動していたので、二人はもちろん中国が大好きだった。特にマットは中国で過ごした期間が長かったので、「日本よりも中国が好き」だと臆面もなく私に言ったが、それは普段中国に対するネガティブな意見を聞くことの多い私の耳には新鮮に聞こえた。
「中国人は本当にフレンドリーで楽しいんだよ」
マットがそう語るたびに、私はまた数ヶ月前に中国に旅立ったカイルと言う友人のことを思い出すことがあった。カイルは大学時代、アラビア語を勉強していたが、それは9.11があったからだとかつて私に語ったことがあった。あの頃、アメリカではイスラム教徒への風当たりが強く、いろいろなバイアスが渦巻いていたというが、そんな風潮をきっかけにしてカイルはアラビア語を勉強することに決めたのだと言う。
「僕は自分の目で、耳で、真実が知りたいだけなんだ」
カイルは私にいつもそう語った。そしてだからこそ、今度は中国に行くのだと言って、実際に中国へ旅立ってしまった。カイルを冒険に導くものはいつも、アメリカ社会の中に蔓延る偏見に起因しているようだったし、私はどちらかと言うと、そうやって社会の中に浸透してしまっている目に見えないバイアスや物の見方にあえて疑問を持ち、立ち向かおうとする友人に惹かれる傾向があった。なぜなら、そうやって様々な無意識のバイアスをきちんと把握することそのものが、実際にはとても難しいものだ言うことを自分自身についても思うことが多々あったからだ。
ところで、今年の三月に入り、エヴァンジェリカルのマットとジョーダンはついに日本滞在のビザ取得がうまく運び、私よりも一足先にマディソンを去ることになった。一年半の待機の末の、活動再開である。二人とも嬉しそうに「次は日本で会おう」と言った。
最後の日、マットは私にやっぱり聖書をくれた。そして丁寧に「ここの箇所を読んだらいいよ」と言って、読んで欲しい場所に栞を挟んでくれた。
「一年半もビザの申請を待っていて、本当に長かったね」と私が言うと、まあね、と彼は答えた。それから、「だけどそれで良かったんだよ」と言うと、おもむろにそばにあった紙に小さな時計と大きな時計を描いたのだった。
「ほら、これが僕の時計、そしてこっちが神さまの時計」
小さな時計はマットの中にあった'マット時間'で、大きな時計は'神さまの時間'なのだとマットは説明した。マットはずっとすぐにでも日本に行きたいとばっかり思っていた。だからマディソンで出国の日を待つ日々は辛いと思うことがあった。だけどそれは神さまの時計とは食い違っていたからで、今のタイミングで行くべきだと言うことに気づいてなかったからなのだと言う。
「だから僕は小さな時計で考えてたから知らなかったけど、神さまはこの大きな時計で見てたから、全部知ってたんだよ。」
マットはそう言った。そしてにっこり微笑むと、「だからこそ僕はセイコと友達になれたし、マディソンでいい思い出がたくさん出来たんだよ」と言ったのだった。
たくさんの人が私に、エヴァンジェリカルの人とは付き合うなと忠告した。私自身、宗教に興味があるわけではないので、このまま友達で居ても良いものかと悩むこともあった。だけどそれでも今、マットが教えてくれた大きな時計と小さな時計の話を私は心から面白いと思った。そんな風に世界を「神様」の視点から見るということ、あるいはそうやって全く違う世界を生きている人たちがいるということを垣間見ることは、私にとってそこまで悪いことではないと気づくことができたからである。
1月27日
言うまでもなく、マディソンの冬は極寒である。だから、夏の終わりと共に人々の関心は日々の気候の変動へと移行し高まりを見せる。ここでは一年を通して本当によく天気の話をするし、去年、一昨年、あるいはもっと前の冬を引き合いに出して、その違いについて持論を展開したりもする。そして秋が深まると、人々は一年のうちの半分ほどを占めるであろう冬が、いったい今年はどのような形相を見せるのだろうかと不安そうに眉を顰めるのだった。
もちろんその答えはその年の冬を越してみないとまるっきり分からなかった。10月半ばに初雪が降りその後春先までダラダラと雪の降る年もあれば、12月を過ぎてもうんともすんとも寒くならず、「おかしい、異常気象だ」と騒いでいるうちに突如、爆発的に大雪が降り続く年もあった。マイナス三十度を下回る極寒の年もあれば、ただただ雪深い年もあった。4月になってもまだ雪が降った年、寒すぎて学校が休校になる年もあった。そして私たちはそういう年ごとに違う冬の特徴をよくよく記憶に刻み込んでもいたので、誰もが「いついつの冬は寒かったね」「そうだね。でもその前の年はそんなに寒くなかったよね...」などという会話をして過去の冬を分かち合っては頷き合うのだった。
だけど、寒さというのは慣れてしまえばそれほど私たちにとって大きな問題ではなかった。建物の中に入れば半袖で過ごす人も少なくなかったし、車さえ持っていれば(外で長時間過ごす予定さえなければ)、スノーブーツやらスノーパンツなど必要なく、普段は手袋さえ持ち歩くことはなかった。だいたい一旦寒さの深い底を知ってしまうと、私たちはその基準に沿って衣替えをするようになるので、マイナス一度くらいだと私はハーフの薄いダウンジャケットで十分だった。マイナスにならない日には、外で半袖短パンの人を見かけるくらいである。そういう日はママ友たちだって薄いニット一枚で子供を迎えに来て、「今日は暖かいわね」などと微笑み合っている。マイナス十度だと「寒い」、マイナス十五度以下から「かなり寒い」というのが、こちらの感覚のようだった。
では極寒の何が一番私たちを悩ますのかというと、それは寒さそのものではなく、降り積もる真っ白な雪たちだった。雪が降ればそれが凍り道が滑りやすくなるので、あちらこちらで自動車事故が起こった。もちろん自動車だけではなく、歩いていて歩道で転倒することもあった。数年前、凍った路上に足を取られ、顔面を強打、歯を何本も折る大怪我をした友人もいた。そしてだからこそ、雪が降り始めると必ず路上という路上に凍結防止剤が撒かれ、どこもかしこも凍結防止剤と雪に埋め尽くされるようになるのだった。すると今度はそれが靴にこびりついて靴が汚くなるし、その靴で帰宅すれば家の中が泥だらけになった。路面の雪だって最初は美しい姿を見せるものの、日を追うごとに車の排気ガスによって黒く煤けてくるので、それがまた車やら靴に付いて、車は中も外も汚くなってしまう。凍結防止剤に含まれる塩化ナトリウムは金属を溶かすので、洗車を怠った車はその後、すべからく錆びて古くなるのも悩みの種だった。
毎年一人か二人、凍った湖に落ちて死ぬこともあった。まだ凍り切っていない部分を誤って歩く人がいるからである。用事もなく、極寒の中、湖の上を歩いていて落っこちてしまうのである...だけどそれでもなお、凍った湖に行くと必ず誰かがその上を歩いていた。時々氷上で釣りをしている人も見かけた。自転車に乗って氷の上を向こう岸まで渡ろうとしている人も居た。小さい湖はスケートリンク場になり、週末には多くの人が集まって、アイススケートをしていた。そして白い息を吐きながら、人々は遊び、ホットチョコレートを飲むのだった。
雪の降らない年がないように、マディソンの湖が凍らない年もなかった。気温が下がるにつれ、湖は少しずつシャーベット状になり、幾つもの平べったい氷塊が浮かぶようになる。そしてある日、何もない、完全に真っ白なだだっ広い雪の地面に変わるのである。神秘的な光景だった。
常夏のパナマから来たアシェリーは、そんなマディソンの冬に畏敬の念を抱いていた。人生で一度も雪を見たことがなければ、分厚いコートなど着たことのない彼女だったので、私はそんなアシェリーにぜひ雪を見てほしいとずっと思っていた。だけど今年は12月の半ばになってもちっとも寒くならず、多くの人が暖冬だ、暖冬だと口にしていた。でもそれは私たちの感覚からそう思えることで、パナマ人のアシェリーからしたら11月頃からもう十分、耐え難く寒かったらしく、ある時外を歩いていると、突然「オーマイガー!」と彼女は叫び出したことがあった。
「痛い!」
アシェリーは飛び跳ねながらそう言うと、手袋をはめていない剥き出しの両手を擦り合わせて走り出した。痛い痛いと言って泣き出しそうになりながら手をどうにか上着の中に突っ込むと、避難できる場所を探して走り出したのである。
私は大笑いしたが、アシェリーは辛そうだった。彼女は寒いことがこんなに痛いことなのだということを、知らなかったのである。
だけど結局、マディソンはアシェリーがパナマに戻る日まで暖冬のまま、一度も雪を降らせなかった。12月の終わりになりアシェリーがマディソンを去ると、やっと初雪が舞った。まるでアシェリーがパナマに帰るのを待っていたかのように降り出したので、私はその日のことをとてもよく覚えていた。その上ちょうど私はコロナウィルスに感染していて辛い隔離期間の真っ最中だったので、それも記憶に残る要因だった。
その夜、ふと夜中に目が覚めて窓の外を見ると、一面が真っ白な世界に変わっていた。暗闇の中、しんしんと降り積もる雪と、忙しそうな除雪機の走り回る気配だけが不気味な存在感を放ち、すぐに、痛い痛いと寒がったアシェリーのことが心に浮かんだ。それからアシェリーはもうマディソンにはいないし、彼女はまだ雪を知らないのだなと思うと「ああ、この雪をアシェリーに見せてあげたかったな」という思いが強く込み上げて来た。コロナウィルスに感染したパナマ人のケイラはアシェリーと同じ飛行機で帰国できなかったので、この初雪を、人生初めての雪を見ることができたのだが、そのことを考えると、それはそれでなんだかおかしかった。
常夏の国から来た友人たち、アシェリー、ケイラ、コロナウィルス、そして初雪...。
マディソンに暮らすということはそういうことだった。マディソンでの記憶はいつも、その年に起こったことと、それがどのような冬だったかということが密接に、分かち難くつながっていたからである。
1月16日
韓国人のヘジンはマディソンのカレッジに通う二十歳の女の子だった。私はこの夏、共通の知り合いを通じて彼女と友達になり、夏の間、この若い学生のヘジンと、それからパナマから来た若い学生の友人たちとグループになって、よくつるんでいた。パナマから来た他の友人たちは、パナマ政府のプログラムで私がかつて通っていたマディソンの語学学校に夏の間だけ語学の勉強に来ていた留学生たちだった。ヘジンもパナマ人の子たちも二十代前半の若者たちだったけれど、私は陽気な彼女たちが好きで彼女たちを誘っていろんな場所に遊びに出かけた。ヘジンもパナマ人の子たちもお酒が入るとよく踊り、私のスマートフォンにはこの夏、たくさん彼女たちの写真が収められていた。
十二月の半ば、いよいよパナマの子たちのプログラムが終了し、彼女たちが帰国する日が差し迫ると、私はいっそう多くの時間を一緒に過ごし、忙しいヘジンも学業の合間を縫って合流し、よく遊んだ。
帰国直前の最後の週末には、私たちはたくさんハグをして別れを惜しんだ。そしていつか日本で、あるいはパナマで、と再会を何度も何度も約束し合った。パナマ人のアシェリーは「友情の証に」と言って色違いのミサンガを買いたがり、私たちは色違いのお揃いのミサンガをつけることとなった。ミサンガのつけ方が分からなかった私に、アシェリーは直接ミサンガをつけてくれた。生まれて初めてつけるミサンガだったが、三十七歳の私にとってはかなり甘酸っぱいミサンガだった。そしてまだ帰国まで数日残っているので、もう一度だけ最後に会おうと私たちは約束して別れ、結局この日が私たちの最後の日となった。
この二日後、私たちはコロナウィルスに感染していたことが発覚したからである。
ヘジンたちと最後の週末を楽しんだ次の日から四十度近くの熱が出たので、私はすぐにPCR検査を受けに行った。結果は陽性。時を同じくしてパナマ人のケイラも陽性だった。ケイラは数日後にパナマに戻る予定だったが、フライトは即時にキャンセルされた。もちろんヘジンも感染していた。彼女もまたその数日後に家族でクリスマスをフロリダで過ごす予定だったが、全て白紙となった。ケイラのホストファミリーも感染していた。
折あしく、私はその頃、五歳になる息子の誕生日会を盛大に執り行っていた。パーティには息子のクラスメートや友達をたくさん招待し、私はケーキを切り分け、子供たちに、ママ友たちに配ると、マスクも付けずにベタベタとたくさんハグをした。その結果、五歳のエミリーと一歳になるその妹が感染した。一番仲の良いエフゲニアというロシア人のママ友も感染し、その家族も感染した。ついでに白井くんも感染した。
というわけで、ホリデーシーズンの一番忙しい時期に、私とその周りの人たちはバタバタとドミノ倒しのように隔離生活に入っていった。そしてその頃のマディソンは、いやアメリカは、これから2022年を迎えると言うよりは、2020年に戻るのではないかというほどコロナウィルスの感染者がどこの州も軒並み上昇していた。PCR検査の会場はホリデーシーズンの旅行のために検査する人と、実際に感染した人たちでごった返し、どこのドライブスルーにも長蛇の列ができていた。薬局では自宅で出来るウィルスの簡易検査キットが品薄となり、先を見越してストックを持っている家庭から横流ししてもらったり、「どこぞの薬局にいましがたストックがあるのを見かけた」というママ友たちからの内輪の連絡によって薬局まで買いに走るような事態だった。少し前までは、オミクロンはフロリダかどこかで発見されたかもしれない...というニュースだったが、気づけばマディソンのそこらじゅうでオミクロンが発見されているようだった。
だけど、いくら感染者と接触しても全く感染しない人たちもいた。五歳の私の息子はどんなに感染者と接触しようとも最後まで感染しなかったし、ミサンガをつけてくれたアシェリーも、「ヘジン、ケイラ、私」というトリプル感染者に一日中揉まれながら、その感染を免れた強者だった。ブラジル人のルアーナも感染したエフゲニアと私に挟まれてマスクなしに何度もハグをしたにも関わらず感染しなかった。大きな声では言えないけれど、症状がほとんどないからおそらくは感染しているだろうけど検査に行かない、という人もいた。
症状も千差万別だった。ケイラは感染者でありながら、無症状でピンピンしていたし、ヘジンは眩暈と倦怠感を訴えて十日間の隔離期間を終えてもなおなかなかPCR検査が陰性にならず、誰よりもずっと長く隔離生活を送っていた。ママ友のエフゲニアはずっと嗅覚がおかしいといって味覚障害を訴えていたが、隔離生活を終えると元に戻ったようだった。(後で知ったことだが、エフゲニアは反ワクチン派で、先のワクチンを一度も受けていなかった。)
私はというと、最初の一日は四十度近くの熱がでたが、その後はしつこい咳とひどい倦怠感、凄まじい眠気が一週間ほど続いただけで、あとは結構元気だった。
だけど体の症状というよりも、私はどちらかというとコロナウィルスに感染したことそのものに対する精神的ショックの方が大きかった。一旦自分の健康に対する過信が崩れると、症状がある間は、この世間を悩ますウィルスに一体自分がどれほど耐えられるのだろうか?という恐怖が沸き起こったし、同じように感染した友人たちの安否も心配だった。それから白井くんだけがずっとコロナウィルスを私が運んできたことをぷりぷりと根に持って怒っていたので、それも悲しかった。だからとにかく、私は隔離期間、これでもかというほどよく眠った。おそらくはウィルスのせいなのだろうが、この期間私はいくらでも眠れた。そしてその間とても多くの夢を見たし、なぜかそれは幸せな夢が多かった...。
隔離生活が無事に終わると、世の中は2022年に突入していた。これほどオミクロンが蔓延している中でも、今ではもう世の中はロックダウンなどしなかったし、どこの学校も新学期は二日間だけオンラインで行ったものの、結局その後はすぐに対面の授業が解禁となった。一度だけジムでマスクをつけていない若い女の子に突っかかるおばさんを見かけたけれど、少し郊外に行けば、これほど感染者が出ているにもかかわらず、室内で誰もマスクをつけていないことがよくあった。2年前、ロックダウンの際に「うちはマスクなんてつけなくても良いよ」とマディソンのとあるカフェが「マスクフリー」を謳い、そのせいで数ヶ月後に閉店に追い込まれたことがあったが、そんなことは今ではもう嘘みたいだった。
感染報告義務があったので、陽性反応が出た五日前までに遡って接触した人たちに報告し謝罪すると、ママ友のロータスは「謝らないで。怒ってないんだから。」と言った。
「パーティはすごく楽しかったんだから。どうしようもないでしょ?それとも私に人生を生きるなって言うの?」
幸い、私の周りで重症化した感染者は一人もいなかった。ケイラは隔離生活最終日に無事にパナマに帰国していったし、ヘジンは冬休みのほとんどを隔離で過ごしたが、来週から対面の授業が始まるのだと言って「そろそろ彼氏が欲しい」と恥ずかしそうに言った。白井くんもなんとかまた研究に専念できるようになり機嫌が直ったようだった。日常は新しく、だけど変わらず進んでいるようだった。
これが、2021年の年末から2022年の始まりにかけて、私と私の周りで起こったコロナウィルスにまつわる出来事だった。
12月26日
初めての自動車事故は、金曜日の夜、家族で近所に新しくできた"ポーティロス"という人気のシカゴ系ホットドックのチェーン店を食べに行った帰りに起こった。「さあ美味しかった、帰ろう」と、私たちは大満足で、駐車場の道沿いを出口に向かって、走らせていたところを、突然、ガーン!と、もうこれ以上ないくらいしっかりと、見知らぬ車に突っ込まれたのである。折りあしく、師走の嫌な雨が降る寒い日だった。
ガーン!
左から白井くんが運転する運転席に突っ込んできた車は、ガーンと当たった後、さっと後退りをすると、ためらいながらも再びハンドルを切り走り出したので、私たちは急いでクラクションを鳴らした。黒のホンダ。当て逃げしようとしたその車は、私たちの車よりもずっとずっと新しくて高そうな車だったけれど、クラクションを鳴らされて中から出てきたのはエキゾチックな面持ちをしたアニス・クレシュニクというほんの21歳の、若い学生だった。
「お金払うから行っていい?逃げないよ、僕はそんなロクデナシじゃない、ほら、僕の免許証。ね、これで逃げも隠れもできないから。僕はそんなロクデナシじゃないよ」
グッチの免許ケースから免許証を出して、ろくでもない喋り方をするこの若い男を制しながら、私と白井くんはどうしていいかわからなかった。だけどどう考えても私たちは被害者だった。私たちは駐車場内の道沿いをゆっくり走っていて、突然左側から相手が突っ込んできたのだ。相手の進む先に道はなかったし彼も「お金払うから」と非を認めている。
だけどまず、呼んでも警察は来なかった。「怪我人がいないなら、もういいから、あんたたちでなんとかしなさい」とのことである。仕方がないので、このロクデモナイ男と双方の車を検証してみる。
私たちのただでさえ壊れそうなオンボロ車は、衝突によって左側の運転席のドアに大きな凹みができ、それによって完全にドアが閉まらなくなっていた。アニスの車は車のヘッドライトの鼻先に傷がついているだけだったが、それをみるとアニスは「僕も修理しないとな...、あ、気にしないで」とぼそっと言った。(誰が気にするか。)そしてひとまず、私たちはお互いの連絡先を交換し、壊れた車の写真を撮り、お互いのナンバー、保険証を控えて保険会社に委ねることにした。別れ際、「ちゃんと支払われるよ。大丈夫、僕たちの車は治るよ」とアニスはペラペラと言った。もちろん、私たちもそう思っていた。こっちに全く非はないのだから(少なくとも私たちはそう思っている)車の修理費は保険会社かこの男によって賄われるだろう、と。
だけど、蓋を開けてみると、保険会社はストップサインなどの標識のない駐車場での出来事ということ、目撃者のいないことなどを挙げて、私たちの衝突はお互いに非があるということにすると、そういった場合の「衝突保険」に加入していない私たちの車への修理代は賄われないのだと早々に結論づけた。二度目の、「後は自分たちでなんとかしてください」状態である。しかもちゃっかりこの衝突保険に加入していたアニスは、例のかすり傷の修理費が出るのだという。すぐさまアニスに連絡を取るが、「僕はもう保険会社と話はついたからもう連絡して来ないで」と手のひらを返したような態度である。
どうすることもできなかった。そしてこの時になってやっと、私たちはここアメリカでの保険会社の対応のアンフェアさや、事故に遭っても修理代を支払われなかったというたくさんの事例を聞き知ることになった。中には被害者であっても結局全額自費で修理した上、次の年は保険代が値上がりしたという話もあった。当て逃げされてナンバープレートを控えたとしても相手が保険に入ってないから自分でどうにかして欲しいと警察に言われたケースもあった。
そしてそう考えてみると、こちらでは信じられないくらいボコボコの汚い車を見かけることが時々あったことに思い当たった。ドアが凹み、車体に傷がついているのはまだ可愛いもので、窓ガラスがなかったり、サイドミラーをガムテープで補強していたり、ガラスの代わりにゴミ袋を張って、その端っこが風でなびいていたりして、とにかくボコボコでみすぼらしいのである。そういう車を見かけるたびに私は「どうして修理をしないのだろう」と思っていたが、まさか自分たちの車が同じ運命を辿ることになるとは夢にも思っていなかった。
『あなたが私たちの車に衝突したせいでドアが閉まりません。そこから寒い風が入ってきます。私の息子はそんな車にこの冬乗り続けなければいけません。修理ができなかったら、息子が寒い思いをします。そのことを考えてください』
なすすべもなく私はアニスにそうメールをした。と、すぐさまアニスから電話がかかってきた。
「YO, あんたたちは衝突保険に入ってないから保険会社から修理代を出してもらえないんだよ。僕が悪いんじゃない。僕は車を停めようとしてたから、これは僕のせいじゃない。でももちろんあんたたちのせいでもない。誰のせいでもない。僕はロクデナシじゃない。良い人間だ。あんたたちが良い人間だっていうのも知ってる。だけどあんたたちは衝突保険に入ってなかった。」
アニスはとにかく、自分が悪い人間じゃないということを強調し、なぜか私たちのこともすごく良い人間だと高く評価したが、こっちとしてはそんなことよりも修理代を得られないことに納得がいかなかった。
「あなたがドアを壊したせいで車の隙間から寒気が入ってきます。息子のことを考えてくれませんか?」
私がそういうと、アニスは「半額なら支払う」と言った。
「全額払ってくれませんか?」
「Hey, 聞いて、これは僕のせいじゃない。あんたたちは衝突保険に入っていなかった。でも僕はロクデナシじゃない。僕の両親も移民だ。僕は今日、あんたの息子に自分の姿を重ねた。もし両親が同じような状況になって、僕があんたたちの息子だったらって。だから僕は半額払うよ。あんたたちの息子に寒い思いをさせたくないから。僕の両親もヨーロッパからやってきた外国人だ。だから僕は良い人だ。あんたたちが良い人だってこともよく知っている。これがアメリカ人ならこうは行かない。電話もメールもブロックして、半額だって払わないで終わりだ。でも僕はそんなアメリカ人とは違う。悪い人間じゃない。だけど半分だけしか払えない。オーケー?ねえ、今年はそんなに寒い年じゃないって知ってる?」
アニスは何度も電話口で「自分はアメリカ人ではない」と言った。アメリカで生まれたけど、ヨーロッパ移民だ、と。「アメリカ人とは違う、だから自分はとても良い人間だ」と。そして私たちのような外国人がいかに異国で頑張って暮らしているかも両親の姿を見てきたから知っている、と言い、それは不思議なことに私の心に妙に突き刺さった。
「僕は今こうしてあんたたちと話をしている。僕はメールを無視することも、電話番号をブロックすることもできた。でも僕はそんなロクデナシじゃない。」
終いにはアニスが「あんたたちが本当に頑張ってることは知ってる。あんたたちは本当に良い人間だ」と言うたびに私は心に何かぐっとくるようになっていた。そして電話を切る頃には私はアニスに「ありがとう」などとお礼を言って、半額でも払ってくれると言ってるアニスは本当に良い奴だなと思うようになった。確かにきっと、アメリカ人ならこうは行かなかっただろう。メールしたって返事はなかっただろうし、電話だってつながらなかっただろう。ドアは直らず、一円たりとも支払われないのが落ちだろう...。苦労してきた両親を見て育ったから、アニスはまあ、悪い人ではないのだろう...。
だけどアニスはやっぱりロクデモナイ男だった。
そんな感動の電話の後、一週間も経たないうちに、「学費を払ったりしないといけないから、払える余裕がない」と彼は再び電話をしてきたからだ。申し訳なさそうに。そしてやっぱりアニスは自分が悪い人間じゃないと言った。自分は心の底から払いたいと思っている、と。だけど払えないのだ、と。そして誰も悪くないと言った。まあ、そうだろう。アニスはアメリカ人じゃないのだからとてもいい奴だし、アニスの理論から言うと、私たちも外国人だから「めっちゃ頑張っている良い人間」なのだ。そして、だからこそ、「誰も悪くない」のである。
だけどそれなら責めるべきは一体誰だったのだろうか?
極寒のマディソンで、隙間の空いた車を走らせながら、私はどうしても納得がいかなかった。だけどそんな車は私だけではなさそうだった。見渡せばここでは、今日も同じようなアンフェアな顛末の末、たくさんの車がボコボコのまま行き交っていたからである。
12月2日
アメリカに5年以上暮らしていて、振り返ると、実にいろんなことが出来るようになった。
マディソンに来た当初は一人で病院も行くこともできなかった私だったけれど、今ではどこまでも一人で出かけられるし、運転だってできる。映画やカフェはもちろんのこと、なんなら一人で飲みに行くこともできるし、外国人の友人を集めて自分だけのグループを作り、はたまたそういう友達と英語で大喧嘩した日もあった。どうしてもテラスのライブミュージックに行きたくて、一人でライブミュージックを聴きながらテラスで踊っていた夜もあれば、ジムや映画館で顔見知りになった人とそのまま他愛ない話をして友達になるのも今では朝飯前だった。だから、日を追うごとに私はなんというか、ここアメリカでどんどん強く、逞しく、図太くなったようにも思うのだが、だけどそんな風に積み重ねてきた日々を振り返った時、私はふと、アメリカ人の女の子の友人を作ることの難しさに思いを馳せることがあった。
というのも、これまで私にはアメリカ人の女の友達が一人もできなかったからだ。5年もマディソンに暮らしながら、友人のほとんどはロシアやブラジル、韓国や中国といった私のような外国人か、あるいはアメリカ人の男の子だけだった。何度か、同じミートアップのグループの女の子と仲良くなろうと試みたこともあったけれど、なぜかそれは友達と言えるような関係に収まることがなかった。遊びに出かけたことのある白人の女友達も、結局それはエヴァンジェリカルのジョーダンのような宗教勧誘、あるいはその人自身が敬虔なキリスト教信者であり「異国の人を助ける」という名目の枠の中での交流で終わってしまっただけだった。
一体、どうしてこれほどまでに普通の白人女性の友人を作ることが難しいのだろうか?ある日、ブラジル人の友人であるルアーナにこの話をすると、もう20年以上もアメリカに暮らす彼女もまた、いわゆるWASPと呼ばれる白人の女友達は一人しかおらず、だから白人の女友達を探すのはだいぶ昔に諦めたのだと語ったことがあった。彼女に言わせると、アメリカの中西部の女性というのはあまり外国人に目を向けないのだそうだ。
確かに、学園都市とはいえ、私たちは棲み分けされた世界に住んでいた。街を歩いていると実にたくさんのバックグラウンドを持つ人種とすれ違うことができるが、その全ての人種の人々と関わり合いになれるのかというと、それは違っていた。だから生まれも育ちもアメリカである中国人のヘンリーは、逆に生粋の中国人の友人を持つ機会がほとんどない男の子で、いつも中国人の友達が欲しいと嘆いていたりもする。人口の割合で考えると中国人の友達を作るのは簡単なように思えたが、アメリカ社会で育ったヘンリーにとっては難しいらしく、しばしば彼は私から中国人の友達を分けてもらおうとしていた。
実際、私だって異国の友達をわざわざ作らなくても生活に困ることはなかった。人と交流するのが好きだからこれまで積極的に友達を作ってきたけれど、そういうことが特に好きというわけでなければあえて友達(しかも外国人)など作らなくても生きていくことができたし、夫の白井くんだってもうずっとこちらで学生だったが、彼に友達がいるのかどうか、かなり怪しいものだった。
だからもし、ルアーナの言うように中西部の女性というものがあまり外の文化に目を向けないタイプなのだとすれば、彼女たちが得難い存在だと言うのも頷ける気がした。そもそもアメリカ人と言うのは往々にして個人主義が染み渡っていてベタベタした関係を好まなかったし、職場やクラスでの人間付き合いを避ける傾向にあるので、よほど他の文化に興味を持つか、語学学校にでも行っていない限り、他の国の友人を見つけること自体必要だとは思わないのかもしれない。
「それにアメリカ人の女っていうのは、君たち日本人が想定するよりも、はるかにボッシー(威張ってる)なんだよ」
アジア人女性が大好きで、中国人の彼女を持つ友人のカイルはそんなことを私に言ったこともあった。カイルは天井を指差しながら、アメリカ人の女性のことを「君たちよりも、もっともっと、ボッシー」と表現したが、そもそもアメリカ人女性の友達を持ったことがないので、私には彼女達がどれほどボッシーなのかどうかすらわからなかった。何人かいるアメリカ人の男友達だって、ボッシーとは言わないけれど時々すごく扱いにくくて、時に、都合が悪くなるとパッとカジュアルに、しなやかに消えていったりしたので、アメリカ人の女の子ももしかしたらもっと付き合いにくくて我儘なのかもしれないと、勝手に想像したりもする。それにこれまで住んできたアパートの女性オーナーたちもかなり男まさりで話しかけるのが憚られるような怖い印象を受けることが多かったので、ボッシーといえばボッシーだったのかも知れない...と。
だけど、私が友達になりたいと思っているのは、そういう男のように進化したボッシーなアメリカ人女性ではなくて、普通の、当たり前のようにその辺を歩いている可愛い白人の女の子たちだった。
夏になるとマディソンのダウンタウンの芝生のあちこちでは、真っ白な肌をさらけ出したそういう女の子たちが芝生に寝そべって楽しそうに日向ぼっこをしている姿をしょっちゅう見かけた。人魚のように眩しい女の子もいれば、二度見してしまうほど太っている子もいた。それから冬になればバーで、彼女たちはやっぱりおへそなんかを出して可愛らしくビールを飲んで騒いでいたりする。こんなに白人の女の子はそこらじゅうにいるのに、どうして私は彼女たちの一人とも友達になれないのだろう?一体、彼女たちはどこに潜んでいるのだろうか?
私は街でそういうアメリカ人の女の子を見かけるたびに、その他の男の子同様、どうしたら彼女たちとお近づきになれるのだろうかと考えていた。
だけど積み重ねた歳月は虚しく、5年もできなかったから、今後ももう私にそうした友達ができる見込みはなさそうだった。おそらく彼女たちとは縁がないのだろう。そう諦めながら、私は今日もこの幻の人魚のようなアメリカ人の女の子たちにただ思いを馳せていたのである。
10月10日
友人のジョーダンとマットはエヴァンジェリカルの宣教師だった。
エヴァンジェリカルというのは、全米のプロテスタントの中でも最大の信者を誇るキリスト教福音派のことであり、傾向としては聖書を重んじ、人工中絶やLGBTあるいは進化論に反対し、保守的、かつトランプ支持者で有名な宗派のことだが、エヴァンジェリカルにはそこからさらに派生してカルト化した団体があったり、子供たちを洗脳する宗教キャンプを描いたドキュメンタリー「ジーザス・キャンプ」がエヴァンジェリカルの一部の宗派であることもあり、人によってはその名前を聞いただけで顔を顰める人も少なくはなかった。
友人のラビも「エヴァンジェリカル達はクレイジーだから絶対に友達になりたくない」と言ったことがあったし、私の所属するグループにそのエヴァンジェリカルであるジョーダンとマットが現れた時には、リーダーであるデニスはすぐに二人を締め出そうとしたこともあった。二人はエヴァンジェリカルの信者であっただけでなく、さらに悪いことに「宣教師」でもあったので、付き合いが始まる以前に、多くの人から敬遠されてしまったのである。
だけど、私はジョーダンもマットも友達として決して嫌いではなかった。出会ってすぐに、お茶に行こう、話をしよう、日本語を教えて欲しいと何度も呼び出され、その度に最終的には「神の御加護が...」と言い出すのはちょっと悩ましかったが、私にとって彼らは「かなり優しい人」たちだったからだ。その上彼らにはエヴァンジェリカルの大きなネットワークという強みもあったので、私は困ったことがあればよくジョーダンに助けてもらうようにしていた。チリ人の友人がルームメイトを探していた時も、ジョーダンに「なんとかできない?」と聞くとすぐに彼女は何人かの友人を紹介してくれたし、車が牽引されて立ち往生した夜もジョーダンは速やかに対応して私を助けてくれたことがあった。そして私が感謝の言葉を口にすると、ジョーダンはいつも「もちろん」と笑って、こう言うのだった。
「神はいつだって私の友人を愛しているから」
だから私は時々、このジョーダンとダウンタウンのイベントに出かけたり、美術館に行ったりしてつるんでいた。私がパニック発作を起こしてからは、彼女は特に私の体を心配し、何かとそのことで声をかけてくれたりもしたので、私はそんな彼女の優しさに感動すらしたこともあった。神を信じるか信じないかという部分では私とジョーダンには絶対的に超えられない壁があったけれど、私はそれとは別に、確かに彼女との友情を信じ、そのことに感謝するようになっていたのである。
そんなある日のことだった。一緒に近くの美術館に行った帰り、カフェでお茶をしていた際にジョーダンがふと、パニック発作の原因を探るべく、感情に関するアクティビティをしてみないか?と私に提案したことがあった。なんでもそれはあるテキストに基づいたアクティビティで、自分の抑え込んでしまっている感情について深く理解するためのメソッドなのだという。これがパニック発作の治療につながるかわからないけれど、自分の中にある深い感情について理解すれば次に同じことが起こった時に対処することができるはずだから、とジョーダンは言った。
私はちょうどその頃、結局セラピストを見つけることに失敗し治療に行くことを諦めていた。その後、予期不安や小さな発作はあったけれど、時間が経ち、今ではそうした予兆を自分の力で封じ込めることが出来るようにはなっていたし、無理に医者を探す必要もないと思い始めていたからである。
「一回だけやってみて、嫌だったら辞めたらいいから」
そんな私にジョーダンは、優しくそう声をかけてくれた。
迷いながら、だけど一方で私は彼女が私の内面にある問題解決の手助けをしてくれるのかもしれないという期待を捨てきれず、彼女の言う「感情のアクティビティ」をやってみることにした。心配して提案してくれるジョーダンの気持ちに応えたい、という気持ちも芽生えていた。
さてその日から一週間後、私たちは、ダウンタウンのカフェで落ち合い、ジョーダンが持参したメソッドに基づいて「感情のアクティビティ」をすることになった。『感情のラベリング』という、内面の感情を書き出す作業をし、それについてお互いに説明するのである。思った以上に繊細なワークショップだったが、お互いになんとか自分たちの中にある感情について説明し終えることができた。内面に深く向き合う作業だったので、私は少しだけ泣いてしまったりもした。するとジョーダンはそんな私の肩をさすりながら、おもむろに神について話をし始めた。
神と良好な関係があれば、どんな苦しい出来事も乗り越えられる。世界は将来、神が王として地球に戻ってくる日がくるが、神との関係が構築されていない人たちはその楽園に呼ばれない。世界中で災害が起こるのは、神との関係性がうまく行ってないからだ。自分は一人でも多くの友人に同じ楽園に来てほしいと望んでいる。そして彼女は分かりやすく神が戻ってくる日の楽園の絵をノートに書いてくれた。
「どう思う?」
驚いている私にジョーダンはそう意見を求めた。
私はしどろもどろになりながら、「地震や津波といった自然災害が、人間と神様との関係が良くないことによって発生していると言うのは知らなかった...」と、かろうじて思ったままの意見を述べた。
「それに、誰もがそうやって神様の存在を信じて神様と良好な関係を結べたら、世界はもっと平和で生きやすくなるんじゃないかな...」
私がそう言いおわると、ジョーダンは大きく頷いて嬉しそうに笑った。
「どんなにいい人であれエヴァンジェリカルの人たちと普通の友情関係を結ぶのはとても難しいよ!」
友人のクリスはこの私の話を聞いて、間髪入れずにそう教えてくれた。彼はかつてエヴァンジェリカルのガールフレンドがいたそうだが、結局、彼自身がエヴァンジェリカルになれないことに憤った彼女によって終わりを迎えたのだという。そういえばジョーダンも、エヴァンジェリカルの信者ではない彼氏と、三年に渡る交際の後、自ら終わりにすることにしたと私に誇らしげに教えてくれたことがあった。
語学学校のトム先生は「もうエヴァンジェリカルと付き合うんじゃない」と私に釘を刺した。「彼らの答えはいつだって一つしかないんだから」
トム先生は言った。
「それは...RELIGION(宗教)!」
全く、悲しい出来事だった。言うまでもなく、今後、私とジョーダンの友情はどうなるのだろうという新しい不安が私の中に生まれつつあったし、結局、私のパニック発作と神様との良好な結びつきの因果関係は曖昧なままだった。大体ジョーダンが言うように神様が王様として君臨する日まで私自身が長生きするとも思えなかった。
だけど一方で、私がジョーダンに言ったことは、嘘ではなかった。ジョーダンは本当に優しい女の子だったから、ジョーダンのように人に尽くし、親切に振る舞うことのできる人が一人でも多くなれば世界はもっと素晴らしくなるだろうと言うのは真実だった。私は神様を信じることはできないし、クリスの言うように私たちが普通の友情関係を結ぶことはできないのかもしれないけれど、だけど少なくとも、私は確かに、ジョーダン中にある美しい何かの存在は信じることができる気がしたからである。
9月9日
9月入り、アメリカ中の学校が新学期を迎える季節が始まっていた。今期はウィスコンシン大学をはじめ、マディソンのほとんどの学校がオンラインではなく対面での授業になっていたので、室内でのマスク着用の義務はあれど、キャンパスが立ち並ぶダウンタウン周辺はどこも喪が開けたような、学生たちの清々しい活気に満ち満ちていた。
私の息子も4Kというキンダーガーデンの一つ前段階の教育プログラムが始まったので、晴れて今月から週4日のスクールライフが始まることとなったが、前学期まで同じプレスクールに通っていた仲良しのクラスメートのザイアとは離れ離れになってしまった。というのも、息子の4Kというプログラムは4歳から5歳までの子供を対象としたキンダーガーデンの前教育を受けるもので、子供をこの4Kのプログラム入れるかどうかは家庭によってさまざまだったからである。
「ザイアにはまだ4Kは早いし、私はまだ彼女には楽しく遊ぶことだけを学んで欲しいから...」
母親であるルアーナにそう言われた時、私はそうした選択肢があるということ自体をとても面白く感じたものだったが、考えてみれば、パンデミックの最中、学校が始まっていてもあえてプレスクールにも4Kにも入れずにホームスクーリングに切り替える家庭が多かったので、そういう部分からもアメリカの教育に対する柔軟さや自由さというものが深く映し出されているように思えたことがあった。
ところでホームスクーリングといえば、ウィスコンシン大学に通う友人のデクレンも、大学に入るまで一度も学校に通わず両親によるホームスクーリングで育ってきた男の子だった。獣医である両親の英才教育の成果か、デクレンは人よりも2年早く大学に入学して、コンピュータサイエンスと日本語を勉強する秀才だった。もちろんデクレンのようなホームスクーリング育ちに対して「社交性がない」と風当たりの強い声を聞くこともあったが、同級生よりも早く、多くを学んだデクレンに言わせると、「学校で学ぶことはほとんどなかった」のだという。
だけど実際、アメリカでは州や住む地区によって教育の格差があまりにもひどいという話はよく聞いたし、そうした教育制度そのものに疑問をもち、合理的にホームスクーリングに切り替えるというのは結構よくあることのようだった。また、他にも宗教上の理由からホームスクーリングを選択する家庭も多くあった。州によってはいまだに公立学校で天地創造説を子供達に教えているのだという話をまことしやかに聞いたこともあったし、南北戦争を習わない地域、あるいは進化論を子供に教えないで欲しいと訴える親など...聞いていると日本では考えられないような教育の多様性がアメリカには普通にはびこっていたので、その中で、一人一人が何をどう選んでいくのか、というのは日本に比べるともっと広く、深く、個人の自由な判断に委ねられているようだった。
例えば、アメリカ海軍として日本に滞在していた経験のあるカイルは、自身の家庭環境に問題があり14歳の時にアメリカ軍に入隊することを決意したのだと語ったことがあった。
家を早く出たかったし、どうしても大学で勉強をしたかったカイルは、アメリカ軍で四年働いた後、大学の全学費免除という報酬に加えて、家賃補助などの手当をもらいながら誰に頼ることもなく、自身の力で悠々自適な大学生活を送っていた。海軍での4年間の経験はとても辛かったとも言ったが、今、その4年によって彼自身が自ら掴み取った修学という報酬は、何物にも代えられない資産のようだった。
同じようにイーサンという友人もまた、軍にしばらく従事した経験のあるアメリカ人だった。彼はアラスカでの数年の駐在を終え、カイルと同様に学費免除などの恩恵を受けられる資格を持ってマディソンに戻ってきた。だけどイーサンは「大学に行きたい」「勉強したい」と言いながらも、いつ会っても引越し業者などのアルバイトをしてあくせく働いていた。
「イーサンはいつになったらカイルのように大学生になるのだろう?」
私はいつも泥だらけの服で現れる彼を不思議に思っていたが、そうこうしている間にコロナウィルスが始まり、早々にレイオフの煽りを受けたイーサンは結局、さよならも言わずにマディソンを去ってしまった。彼には間違いなく学費免除で修学する資格があるはずだった。だけど噂によると、実はイーサンは何をどう学べばいいのか全くわからなかったようだった。それまでほとんど教育を受けたことのなかったイーサンは、結局大学に入る手続きさえどうしたらよいのかわからず、いつまでもぐずぐずと資格だけを保有したまま、学びのチャンスを先送りにしていたのである。
「アメリカは自由という名前のもとに、一人一人が背負うリスクが高いように思う...」
かつてアメリカ人のマイケルはそんなことを語ったことがあったが、確かに、教育一つをとっても、その多様性の中で、勝ち続けられない人々が背負うリスクを思うと、システムから離れて自由な海で泳ぐということは結構タフなことのように思えた。デクレンのように両親がきちんとホームスクーリングで教育を施してくれる家庭であったり、カイルのように早熟で賢ければ問題はないのだろう。だけど、そうでなかった場合はどうだろうか?
「アメリカは今、さまざまな面で大きく分断しはじめている」とは、パンデミックが始まって以来よく聞くセリフだったが、この勢いを増す格差の広がりの根底には、アメリカの「自由である」ということの深い闇が見え隠れするような気がしたのだった。