12月2日
アメリカに5年以上暮らしていて、振り返ると、実にいろんなことが出来るようになった。
マディソンに来た当初は一人で病院も行くこともできなかった私だったけれど、今ではどこまでも一人で出かけられるし、運転だってできる。映画やカフェはもちろんのこと、なんなら一人で飲みに行くこともできるし、外国人の友人を集めて自分だけのグループを作り、はたまたそういう友達と英語で大喧嘩した日もあった。どうしてもテラスのライブミュージックに行きたくて、一人でライブミュージックを聴きながらテラスで踊っていた夜もあれば、ジムや映画館で顔見知りになった人とそのまま他愛ない話をして友達になるのも今では朝飯前だった。だから、日を追うごとに私はなんというか、ここアメリカでどんどん強く、逞しく、図太くなったようにも思うのだが、だけどそんな風に積み重ねてきた日々を振り返った時、私はふと、アメリカ人の女の子の友人を作ることの難しさに思いを馳せることがあった。
というのも、これまで私にはアメリカ人の女の友達が一人もできなかったからだ。5年もマディソンに暮らしながら、友人のほとんどはロシアやブラジル、韓国や中国といった私のような外国人か、あるいはアメリカ人の男の子だけだった。何度か、同じミートアップのグループの女の子と仲良くなろうと試みたこともあったけれど、なぜかそれは友達と言えるような関係に収まることがなかった。遊びに出かけたことのある白人の女友達も、結局それはエヴァンジェリカルのジョーダンのような宗教勧誘、あるいはその人自身が敬虔なキリスト教信者であり「異国の人を助ける」という名目の枠の中での交流で終わってしまっただけだった。
一体、どうしてこれほどまでに普通の白人女性の友人を作ることが難しいのだろうか?ある日、ブラジル人の友人であるルアーナにこの話をすると、もう20年以上もアメリカに暮らす彼女もまた、いわゆるWASPと呼ばれる白人の女友達は一人しかおらず、だから白人の女友達を探すのはだいぶ昔に諦めたのだと語ったことがあった。彼女に言わせると、アメリカの中西部の女性というのはあまり外国人に目を向けないのだそうだ。
確かに、学園都市とはいえ、私たちは棲み分けされた世界に住んでいた。街を歩いていると実にたくさんのバックグラウンドを持つ人種とすれ違うことができるが、その全ての人種の人々と関わり合いになれるのかというと、それは違っていた。だから生まれも育ちもアメリカである中国人のヘンリーは、逆に生粋の中国人の友人を持つ機会がほとんどない男の子で、いつも中国人の友達が欲しいと嘆いていたりもする。人口の割合で考えると中国人の友達を作るのは簡単なように思えたが、アメリカ社会で育ったヘンリーにとっては難しいらしく、しばしば彼は私から中国人の友達を分けてもらおうとしていた。
実際、私だって異国の友達をわざわざ作らなくても生活に困ることはなかった。人と交流するのが好きだからこれまで積極的に友達を作ってきたけれど、そういうことが特に好きというわけでなければあえて友達(しかも外国人)など作らなくても生きていくことができたし、夫の白井くんだってもうずっとこちらで学生だったが、彼に友達がいるのかどうか、かなり怪しいものだった。
だからもし、ルアーナの言うように中西部の女性というものがあまり外の文化に目を向けないタイプなのだとすれば、彼女たちが得難い存在だと言うのも頷ける気がした。そもそもアメリカ人と言うのは往々にして個人主義が染み渡っていてベタベタした関係を好まなかったし、職場やクラスでの人間付き合いを避ける傾向にあるので、よほど他の文化に興味を持つか、語学学校にでも行っていない限り、他の国の友人を見つけること自体必要だとは思わないのかもしれない。
「それにアメリカ人の女っていうのは、君たち日本人が想定するよりも、はるかにボッシー(威張ってる)なんだよ」
アジア人女性が大好きで、中国人の彼女を持つ友人のカイルはそんなことを私に言ったこともあった。カイルは天井を指差しながら、アメリカ人の女性のことを「君たちよりも、もっともっと、ボッシー」と表現したが、そもそもアメリカ人女性の友達を持ったことがないので、私には彼女達がどれほどボッシーなのかどうかすらわからなかった。何人かいるアメリカ人の男友達だって、ボッシーとは言わないけれど時々すごく扱いにくくて、時に、都合が悪くなるとパッとカジュアルに、しなやかに消えていったりしたので、アメリカ人の女の子ももしかしたらもっと付き合いにくくて我儘なのかもしれないと、勝手に想像したりもする。それにこれまで住んできたアパートの女性オーナーたちもかなり男まさりで話しかけるのが憚られるような怖い印象を受けることが多かったので、ボッシーといえばボッシーだったのかも知れない...と。
だけど、私が友達になりたいと思っているのは、そういう男のように進化したボッシーなアメリカ人女性ではなくて、普通の、当たり前のようにその辺を歩いている可愛い白人の女の子たちだった。
夏になるとマディソンのダウンタウンの芝生のあちこちでは、真っ白な肌をさらけ出したそういう女の子たちが芝生に寝そべって楽しそうに日向ぼっこをしている姿をしょっちゅう見かけた。人魚のように眩しい女の子もいれば、二度見してしまうほど太っている子もいた。それから冬になればバーで、彼女たちはやっぱりおへそなんかを出して可愛らしくビールを飲んで騒いでいたりする。こんなに白人の女の子はそこらじゅうにいるのに、どうして私は彼女たちの一人とも友達になれないのだろう?一体、彼女たちはどこに潜んでいるのだろうか?
私は街でそういうアメリカ人の女の子を見かけるたびに、その他の男の子同様、どうしたら彼女たちとお近づきになれるのだろうかと考えていた。
だけど積み重ねた歳月は虚しく、5年もできなかったから、今後ももう私にそうした友達ができる見込みはなさそうだった。おそらく彼女たちとは縁がないのだろう。そう諦めながら、私は今日もこの幻の人魚のようなアメリカ人の女の子たちにただ思いを馳せていたのである。
10月10日
友人のジョーダンとマットはエヴァンジェリカルの宣教師だった。
エヴァンジェリカルというのは、全米のプロテスタントの中でも最大の信者を誇るキリスト教福音派のことであり、傾向としては聖書を重んじ、人工中絶やLGBTあるいは進化論に反対し、保守的、かつトランプ支持者で有名な宗派のことだが、エヴァンジェリカルにはそこからさらに派生してカルト化した団体があったり、子供たちを洗脳する宗教キャンプを描いたドキュメンタリー「ジーザス・キャンプ」がエヴァンジェリカルの一部の宗派であることもあり、人によってはその名前を聞いただけで顔を顰める人も少なくはなかった。
友人のラビも「エヴァンジェリカル達はクレイジーだから絶対に友達になりたくない」と言ったことがあったし、私の所属するグループにそのエヴァンジェリカルであるジョーダンとマットが現れた時には、リーダーであるデニスはすぐに二人を締め出そうとしたこともあった。二人はエヴァンジェリカルの信者であっただけでなく、さらに悪いことに「宣教師」でもあったので、付き合いが始まる以前に、多くの人から敬遠されてしまったのである。
だけど、私はジョーダンもマットも友達として決して嫌いではなかった。出会ってすぐに、お茶に行こう、話をしよう、日本語を教えて欲しいと何度も呼び出され、その度に最終的には「神の御加護が...」と言い出すのはちょっと悩ましかったが、私にとって彼らは「かなり優しい人」たちだったからだ。その上彼らにはエヴァンジェリカルの大きなネットワークという強みもあったので、私は困ったことがあればよくジョーダンに助けてもらうようにしていた。チリ人の友人がルームメイトを探していた時も、ジョーダンに「なんとかできない?」と聞くとすぐに彼女は何人かの友人を紹介してくれたし、車が牽引されて立ち往生した夜もジョーダンは速やかに対応して私を助けてくれたことがあった。そして私が感謝の言葉を口にすると、ジョーダンはいつも「もちろん」と笑って、こう言うのだった。
「神はいつだって私の友人を愛しているから」
だから私は時々、このジョーダンとダウンタウンのイベントに出かけたり、美術館に行ったりしてつるんでいた。私がパニック発作を起こしてからは、彼女は特に私の体を心配し、何かとそのことで声をかけてくれたりもしたので、私はそんな彼女の優しさに感動すらしたこともあった。神を信じるか信じないかという部分では私とジョーダンには絶対的に超えられない壁があったけれど、私はそれとは別に、確かに彼女との友情を信じ、そのことに感謝するようになっていたのである。
そんなある日のことだった。一緒に近くの美術館に行った帰り、カフェでお茶をしていた際にジョーダンがふと、パニック発作の原因を探るべく、感情に関するアクティビティをしてみないか?と私に提案したことがあった。なんでもそれはあるテキストに基づいたアクティビティで、自分の抑え込んでしまっている感情について深く理解するためのメソッドなのだという。これがパニック発作の治療につながるかわからないけれど、自分の中にある深い感情について理解すれば次に同じことが起こった時に対処することができるはずだから、とジョーダンは言った。
私はちょうどその頃、結局セラピストを見つけることに失敗し治療に行くことを諦めていた。その後、予期不安や小さな発作はあったけれど、時間が経ち、今ではそうした予兆を自分の力で封じ込めることが出来るようにはなっていたし、無理に医者を探す必要もないと思い始めていたからである。
「一回だけやってみて、嫌だったら辞めたらいいから」
そんな私にジョーダンは、優しくそう声をかけてくれた。
迷いながら、だけど一方で私は彼女が私の内面にある問題解決の手助けをしてくれるのかもしれないという期待を捨てきれず、彼女の言う「感情のアクティビティ」をやってみることにした。心配して提案してくれるジョーダンの気持ちに応えたい、という気持ちも芽生えていた。
さてその日から一週間後、私たちは、ダウンタウンのカフェで落ち合い、ジョーダンが持参したメソッドに基づいて「感情のアクティビティ」をすることになった。『感情のラベリング』という、内面の感情を書き出す作業をし、それについてお互いに説明するのである。思った以上に繊細なワークショップだったが、お互いになんとか自分たちの中にある感情について説明し終えることができた。内面に深く向き合う作業だったので、私は少しだけ泣いてしまったりもした。するとジョーダンはそんな私の肩をさすりながら、おもむろに神について話をし始めた。
神と良好な関係があれば、どんな苦しい出来事も乗り越えられる。世界は将来、神が王として地球に戻ってくる日がくるが、神との関係が構築されていない人たちはその楽園に呼ばれない。世界中で災害が起こるのは、神との関係性がうまく行ってないからだ。自分は一人でも多くの友人に同じ楽園に来てほしいと望んでいる。そして彼女は分かりやすく神が戻ってくる日の楽園の絵をノートに書いてくれた。
「どう思う?」
驚いている私にジョーダンはそう意見を求めた。
私はしどろもどろになりながら、「地震や津波といった自然災害が、人間と神様との関係が良くないことによって発生していると言うのは知らなかった...」と、かろうじて思ったままの意見を述べた。
「それに、誰もがそうやって神様の存在を信じて神様と良好な関係を結べたら、世界はもっと平和で生きやすくなるんじゃないかな...」
私がそう言いおわると、ジョーダンは大きく頷いて嬉しそうに笑った。
「どんなにいい人であれエヴァンジェリカルの人たちと普通の友情関係を結ぶのはとても難しいよ!」
友人のクリスはこの私の話を聞いて、間髪入れずにそう教えてくれた。彼はかつてエヴァンジェリカルのガールフレンドがいたそうだが、結局、彼自身がエヴァンジェリカルになれないことに憤った彼女によって終わりを迎えたのだという。そういえばジョーダンも、エヴァンジェリカルの信者ではない彼氏と、三年に渡る交際の後、自ら終わりにすることにしたと私に誇らしげに教えてくれたことがあった。
語学学校のトム先生は「もうエヴァンジェリカルと付き合うんじゃない」と私に釘を刺した。「彼らの答えはいつだって一つしかないんだから」
トム先生は言った。
「それは...RELIGION(宗教)!」
全く、悲しい出来事だった。言うまでもなく、今後、私とジョーダンの友情はどうなるのだろうという新しい不安が私の中に生まれつつあったし、結局、私のパニック発作と神様との良好な結びつきの因果関係は曖昧なままだった。大体ジョーダンが言うように神様が王様として君臨する日まで私自身が長生きするとも思えなかった。
だけど一方で、私がジョーダンに言ったことは、嘘ではなかった。ジョーダンは本当に優しい女の子だったから、ジョーダンのように人に尽くし、親切に振る舞うことのできる人が一人でも多くなれば世界はもっと素晴らしくなるだろうと言うのは真実だった。私は神様を信じることはできないし、クリスの言うように私たちが普通の友情関係を結ぶことはできないのかもしれないけれど、だけど少なくとも、私は確かに、ジョーダン中にある美しい何かの存在は信じることができる気がしたからである。
9月9日
9月入り、アメリカ中の学校が新学期を迎える季節が始まっていた。今期はウィスコンシン大学をはじめ、マディソンのほとんどの学校がオンラインではなく対面での授業になっていたので、室内でのマスク着用の義務はあれど、キャンパスが立ち並ぶダウンタウン周辺はどこも喪が開けたような、学生たちの清々しい活気に満ち満ちていた。
私の息子も4Kというキンダーガーデンの一つ前段階の教育プログラムが始まったので、晴れて今月から週4日のスクールライフが始まることとなったが、前学期まで同じプレスクールに通っていた仲良しのクラスメートのザイアとは離れ離れになってしまった。というのも、息子の4Kというプログラムは4歳から5歳までの子供を対象としたキンダーガーデンの前教育を受けるもので、子供をこの4Kのプログラム入れるかどうかは家庭によってさまざまだったからである。
「ザイアにはまだ4Kは早いし、私はまだ彼女には楽しく遊ぶことだけを学んで欲しいから...」
母親であるルアーナにそう言われた時、私はそうした選択肢があるということ自体をとても面白く感じたものだったが、考えてみれば、パンデミックの最中、学校が始まっていてもあえてプレスクールにも4Kにも入れずにホームスクーリングに切り替える家庭が多かったので、そういう部分からもアメリカの教育に対する柔軟さや自由さというものが深く映し出されているように思えたことがあった。
ところでホームスクーリングといえば、ウィスコンシン大学に通う友人のデクレンも、大学に入るまで一度も学校に通わず両親によるホームスクーリングで育ってきた男の子だった。獣医である両親の英才教育の成果か、デクレンは人よりも2年早く大学に入学して、コンピュータサイエンスと日本語を勉強する秀才だった。もちろんデクレンのようなホームスクーリング育ちに対して「社交性がない」と風当たりの強い声を聞くこともあったが、同級生よりも早く、多くを学んだデクレンに言わせると、「学校で学ぶことはほとんどなかった」のだという。
だけど実際、アメリカでは州や住む地区によって教育の格差があまりにもひどいという話はよく聞いたし、そうした教育制度そのものに疑問をもち、合理的にホームスクーリングに切り替えるというのは結構よくあることのようだった。また、他にも宗教上の理由からホームスクーリングを選択する家庭も多くあった。州によってはいまだに公立学校で天地創造説を子供達に教えているのだという話をまことしやかに聞いたこともあったし、南北戦争を習わない地域、あるいは進化論を子供に教えないで欲しいと訴える親など...聞いていると日本では考えられないような教育の多様性がアメリカには普通にはびこっていたので、その中で、一人一人が何をどう選んでいくのか、というのは日本に比べるともっと広く、深く、個人の自由な判断に委ねられているようだった。
例えば、アメリカ海軍として日本に滞在していた経験のあるカイルは、自身の家庭環境に問題があり14歳の時にアメリカ軍に入隊することを決意したのだと語ったことがあった。
家を早く出たかったし、どうしても大学で勉強をしたかったカイルは、アメリカ軍で四年働いた後、大学の全学費免除という報酬に加えて、家賃補助などの手当をもらいながら誰に頼ることもなく、自身の力で悠々自適な大学生活を送っていた。海軍での4年間の経験はとても辛かったとも言ったが、今、その4年によって彼自身が自ら掴み取った修学という報酬は、何物にも代えられない資産のようだった。
同じようにイーサンという友人もまた、軍にしばらく従事した経験のあるアメリカ人だった。彼はアラスカでの数年の駐在を終え、カイルと同様に学費免除などの恩恵を受けられる資格を持ってマディソンに戻ってきた。だけどイーサンは「大学に行きたい」「勉強したい」と言いながらも、いつ会っても引越し業者などのアルバイトをしてあくせく働いていた。
「イーサンはいつになったらカイルのように大学生になるのだろう?」
私はいつも泥だらけの服で現れる彼を不思議に思っていたが、そうこうしている間にコロナウィルスが始まり、早々にレイオフの煽りを受けたイーサンは結局、さよならも言わずにマディソンを去ってしまった。彼には間違いなく学費免除で修学する資格があるはずだった。だけど噂によると、実はイーサンは何をどう学べばいいのか全くわからなかったようだった。それまでほとんど教育を受けたことのなかったイーサンは、結局大学に入る手続きさえどうしたらよいのかわからず、いつまでもぐずぐずと資格だけを保有したまま、学びのチャンスを先送りにしていたのである。
「アメリカは自由という名前のもとに、一人一人が背負うリスクが高いように思う...」
かつてアメリカ人のマイケルはそんなことを語ったことがあったが、確かに、教育一つをとっても、その多様性の中で、勝ち続けられない人々が背負うリスクを思うと、システムから離れて自由な海で泳ぐということは結構タフなことのように思えた。デクレンのように両親がきちんとホームスクーリングで教育を施してくれる家庭であったり、カイルのように早熟で賢ければ問題はないのだろう。だけど、そうでなかった場合はどうだろうか?
「アメリカは今、さまざまな面で大きく分断しはじめている」とは、パンデミックが始まって以来よく聞くセリフだったが、この勢いを増す格差の広がりの根底には、アメリカの「自由である」ということの深い闇が見え隠れするような気がしたのだった。
8月29日
私の知る限り、アメリカ人というのは風邪を引いたくらいでは病院に行くことなどしない民族だった。18歳のアメリカ人学生のウィルはもう4年ほど病院に行った記憶はなかったし、ジェレミーもマイケルもこれまで定期検診以外に病院に行ったことなどないと嘯いたことがあった。「健康だから」「ほっといたら治るから...」彼らは口を揃えてそう言うと、逆になんでそんなに日本人は病院に行きたがるのかと不思議がった。
だけどその一方で、アメリカ人というのは、驚くほどカジュアルに、そしてマメに精神科に雪崩れ込む民族でもあった。やれ夫婦間で揉め事が起こればカップルカウンセリングへ、やれ恋人と別れればセラピーへ、日々のメンタルの健康に関しては異常なまでにケアを要し、人にもよくセラピーに行くことを勧めた。私も「食欲がない」と言えば、すぐさま「セラピーに行くといいよ」と勧められたことがあった。「彼らはプロだから、話を聞いてもらうだけでも全然違うよ」と...。
とはいえ問題なのはカウンセリングというものが、「じゃあちょっと行ってみようかな」と思い立ってすぐに行けるものではないという点だった。平時でさえこれほどまでに人気のカウンセリング業界である。コロナウィルスで鬱が増加しているこのご時世に、精神科の病院というのはどこも予約でいっぱいだった。
かくいう私も、2020年ロックダウンの最中にカウンセリングを予約しようとしたことがあった。だけど案の定、予約は3ヶ月先まで空きがないと言われ、3ヶ月待った末にやっと医師からzoomでのカウンセリングのお誘いが来たことがあったが、その頃になると私はもうすっかり鬱っぽいのを通り越して元気に友人たちと遊んでいたので、「もう元気になったみたいなので大丈夫です」と言って予約をキャンセルしたことがあった。
もちろん私の場合は症状が軽かったので、予約が取れようと取れまいと大した問題はなかった。3ヶ月の間に少し休めば回復するほどだった。だけど深刻な場合だと予約が取れない間に症状が重症化し、緊急搬送されて入院するまでの事態になったというケースも聞いたことがあった。「緊急搬送になれば、すぐに医者に会えるよ」とは冗談混じりに言われたことがあったが、ここではあながち冗談ではなさそうだった。
さて、ある日のことだった。真っ昼間、家まで車で15分のよく知った高速道路を一人で走っていた時の出来事である。
ちょっと疲れていたので、ぼんやりした頭の中で私はいろんなことを考えていた。過去の出来事。楽しかったこと、辛かったこと、あるいは郷愁めいたこと...。
はっとした時には、心臓がすごい勢いで動き出していて、目の前が暗くなるような、気が遠くなるような恐ろしい違和感に襲われて、手が震え出した。高速道路なので車を停車できないという考えが、その恐怖を助長させ、とたんに呼吸が浅くなった。アクセルを踏んでいる足がコントロール不能なほど上下にブルブルと震え出し、とにかく意識を保たなくてはいけないという思いで、気づくと「大丈夫、怖くない、大丈夫、よく知っている道、もうすぐ家」と声に出して叫んでいた。言葉を発し、呼吸を整えることに集中し、なんとか高速道路を降りることができた私はやっとの思いで家に辿り着いたが、想像もしていないショックに打ちのめされていた。生まれて初めて経験する、パニック発作だった。
それは全く、予想もしないクレイジーな出来事だった。ウィスコンシン州は運転時の血中アルコール濃度数の基準が緩いので、大抵の人は飲酒運転でも車を走らせていたが、私は一滴もお酒を飲んでいなかった。パニック発作のトリガーになりそうなこととして、過去に大雪の降った日、スリップして後続車に正面衝突しそうになったという経験もないことはなかったが、それは3年以上も前の出来事だった。カーブを曲がりきれずに縁石に乗り上げて車の修理費20万円を要して白井くんにこっぴどく叱られたのは2年前だっただろうか...。しかしいずれも今回のパニック発作とはあまり関係ないように思えたし、遠い過去の出来事だった。
そしてもちろん、私は次の日の朝から何時間もかけて病院を探し、予想通り新規の患者を受け入れてはくれる病院を一つも見つけることが出来なかった。まず主治医からの紹介状が必要だと何件かの病院から門前払いを食ったので、私はとりあえず精神科ではなく婦人科の主治医の予約を取ることにした。主治医の紹介状の後、予約段階に入っても精神科の予約が取れるのは数ヶ月先だろうとも言われた。
パニック発作を起こした後に発症するという予期不安という症状も出始めていたが、それに加えて治療の予約が取れる前にまたも症状が良くなってしまうのではないかという、なんだか良くわからない不安もあった。こんなことなら過去に予約が取れた時にきちんと精神科の主治医を捕まえておけばよかったと、後悔もした。そしてそれでもなお、私は毎日運転をしなくてはいけなかった。
予期不安が起こった際には目に見えるものを声に出して言うことが良いとどこかで読んだが、マディソンは道によっては木しかない場合もあった。だけど大雪が降ろうが、竜巻警報が起ころうが、そんなことはもろともせずにこれまでハンドルを握ってきた私である。強い気持ちで自分をそう鼓舞しながら、私は今メンタルケアの治療の扉が開かれる日を、ひたすらに、待っているのだった。
6月23日
5年以上マディソンに暮らしていると、結局どこに暮らすのが一番いいのか、分からなくなることがあった。こちらでの暮らしが長くなればなるほどに、身に起こることは楽しいことばかりではなかったし、英語が上達すればするほどに、日本語への郷愁は強くなり、そうすると孤独感に苛まれる時があったからだ。もちろん、あいかわらず私にとって湖に囲まれたマディソンでの長閑な暮らしは天国のようだったし、いつまでも暮らしていたいと思う気持ちは大きかった。あるいはマディソンから車で少し離れた郊外の小さな田舎街などに立ち寄ったときなどは、ほとんど機能していないような小さなメインストリートや数件の酒場、しかしながら完璧な美しい川べりとにこやかな人々で満ち足りた田園風景を前に、一体ここ以上の場所を人は知る必要があるのだろうか?と、生まれながらにこの土地に振り分けられた人々の運命を羨ましく思ったものだった。
だけどこんな田舎は嫌で、もっと都会に行きたいという声を聞くこともあった。カリフォルニア育ちのカイルにとって、マディソンは退屈そのものだった。もうマディソンはいい。もっと違う世界を見たい。そう言ってカイルは今後、中国にESLの教師として移住することを計画していた。トランプ政権の折にアメリカそのものに嫌気が差したと言って、南米はエクアドルのクエンカへ移住していった家族もいた。クエンカは治安もよく、物価も安く、ご飯も美味しい夢のような土地で、ちかごろリタイア後などに移住を夢見る欧米人に人気の土地なのだそうだ。あるいは、韓国人のセオンはマディソンは大好きだったが、彼女はやっぱり将来は韓国に戻って暮らしたいと私にいつも言った。セオンにとって韓国は家族もいるし仕事もある、自分の帰るべき場所なのだった。
だから、私はここのところ、頻繁に自分の祖国はどこで、どこに生涯住みたいか?という質問を友人にすることがあった。
例えばインド生まれのインド人のラビは、より良い教育を求めて会計士である両親によって家族でアメリカに移民してきた移民二世だった。母語であるタミル語は祖母との交流だけのために使っているので、理解はできるがほとんど話せない。自分の祖国がどこかと問われると、「もちろんアメリカ」だとラビは言った。それを聞いて同じくメキシコ移民のアレックスもまた、「自分の祖国もアメリカだ」とラビに同意した。まだ不法移民の規制の緩かった時代に10人の兄弟たちと家族丸ごと移住してきたアレックスは、家族でメキシコ料理のレストランを営みながら、アメリカで教育を受け、現在はマディソンの警察でプログラマーとして働いていた。彼にとって英語は他ならぬ母語でありアメリカは祖国だった。英語を話せない祖母や両親と話すときはスペイン語で話し、時に彼らのために通訳となり、家で食べるメキシコ料理やメキシコの文化を愛しつつ、しかし「ここ(アメリカ)にはより良い教育、よりより生活がある」ときっぱりと言った。
一方で14歳からアメリカで暮らし始めたブラジル人のママ友ルアーナは「もうずっとどこが自分の祖国なのか分からない」と私に言ったことがあった。彼女はこれまでにポルトガル語ではなく英語で本を書いて出版していた。アメリカの大学を卒業し、アメリカで本を出版し、結婚し、2人の子供を出産し、働いていた。休暇の際には家族でブラジルに戻ることもあるけれど、彼女はあまりにも人生の長い時間をアメリカで過ごしていた。もうブラジルは彼女にとって祖国ではなかった。かと言ってアメリカが祖国かと聞かれると、それも違うのである。
ジムのサウナで仲良くなった女性も、夫に連れられてアメリカに移民してきたアフガニスタン人だった。彼女の家族の大半はドイツに移民しており、夫の家族がアメリカに移民していた。アフガニスタンや離れ離れになった家族が恋しかった。だけど今、彼女の3人の子供たちは全員ウィスコンシン大学を卒業し、立派に独り立ちしたアメリカ人だった。彼女はいつだって祖国の料理を作るし、息子たちはそれが大好きなのだそうだ。そしてメキシコ人のアレックスやインド人のラビと同じく、「ここにはより良い教育と生活がある」のだと言って笑った。
日本にいずれ帰ると言うと「羨ましい」と言われることもよくあった。アメリカ人のジェレミーは日本が大好きで、日本に行くためだけに仕事を二つ掛け持ちし、身を粉にして働いていた。東京に行きたい、日本人なりたい、日本語を話せるようになりたい...、マディソンのような楽園でそう言われるたびに、私はつくづく人間の欲望のベクトルというのは面白いな、と思うのだった。
「だけど日本の国籍が一番でしょう?」
フィリピン人のデニスは、国籍の話をするとき、必ず私にそう言ったものだった。日本人はどこに移住しても絶対に日本国籍を捨てない。日本国籍を持つのは本当に難しい...と。実際、日本で働き、息子を日本で出産した中国人のウェイも、息子ともども日本人にはなれなかったと不満を漏らしたことがあった。だから結局、彼女はアメリカで働いてアメリカ人になったのだそうだ。
「だから」
と、ウェイは言った。
「私の息子は'バナナ'なのよ」
バナナとは、外見は黄色人種のアジア人でありながら、そのアイデンティティが欧米であるという隠喩だった。
そういえばここのところ、私の4歳になる息子も家でよく英語を話すようになり、ウェイのいうところのバナナになりつつあった。アメリカで生まれた息子は、思えばその短い人生のほとんどをアメリカで過ごしていた。もちろん日本人でもあったが、今では日本語よりも英語の理解の方がまさっていた。
アメリカ人であること、日本人であることとは一体なんだろうか?息子が見せるその完璧なまでにアメリカナイズされたリアクションを見るたびに、私はふと、そう不思議な気持ちになるのだった。
4月15日
ワクチンをめぐる戦いが加速していた。
ウィスコンシン州はついに4月5日をもって、16歳以上の誰もがワクチンを打てるようになり、屋外でのマスク着用の義務や集まりに対する人数制限の規制が取り外されるなど、4月に入ってからの変化はめまぐるしかった。友人のデニスもここにきて12月に打ったアストラゼネカのトライアルワクチンがプラシーボだったことが判明し、4月5日からのワクチン接種開始とともに慌ててマディソンでの予約を取った一人だったが、パトリシアはマディソンではなく、車で1時間ほどの郊外での予約を取った。というのも、誰もがワクチンを打てるとはいえ4月5日を待ってワクチンの予約サイトを開けてみるとマディソンでのワクチン枠はどこもいっぱいで、なかなか予約を取るのが困難な状況が続いたからだ。
私と白井くんもまた、パトリシアや多くの人と同様に車で2時間ほどの郊外での予約を取ったが、その日を待たずしてすぐにまたマディソンでの予約枠が増えたという情報が入り、なんとかマディソンでの接種に変更するなど、私たちは刻一刻と変わるワクチン情報に翻弄されているようだった。
何を打たれるか?ということも多くの人の関心の一つだった。4月14日まで、アメリカで打てるワクチンはモデルナ、ファイザー、ジョンソンアンドジョンソンの三種類だったので、私は密かにジョンソンアンドジョンソンは嫌だと思っていたが、ワクチン接種日の前日に全米でのジョンソンアンドジョンソンの使用が停止されたので選択肢はモデルナかファイザーの二択となった。だけど例えば、ワクチン反対派のマイケルなどは、ジョンソンアンドジョンソンなら一発だけで済むという理由からジョンソンアンドジョンソンを好んで打っていた。
もちろん、副作用のこともよく話題に登った。ニュースなどでよく耳にするひどい副作用ではないにしても、割と多くの知人が「副作用を経験した」と個人的に報告してきたので、私はその都度恐怖を感じることがあった。とりわけデニスはワクチン接種後、時系列で2時間おきに自身が感じた副作用二日分をメールで送ってきて周囲の人々を震撼させたが、考えてみたらアストラゼネカのプラシーボを打った後も、その副作用を二日分、デニスは時系列でFacebookに投稿していたので、彼の数時間おきの「発熱」やら「だるさ」の記録には少々疑わしいものがあった...。
だけど、手放しにワクチンを礼賛する人々のいる傍ら、時にワクチンへの恐怖から私の心は最近「反ワクチン派」の声を強くとらえることも少なくなかった。もちろん中には、ワクチンにマイクロチップが埋め込まれていて多くの人を殺す計画がビル・ゲイツ界隈で数年前から進められていたのだという過激な陰謀論もあった。あるいは「ユルい反ワクチン派」のマイケルのように、コロナウィルスは研究所で作られたもので、パンデミックそのものが計画(プラン)された「プランデミック(Plandemic)」であり「恐怖」こそが人々をコントロールしやすくする材料になるのだとして、ワクチンを打つことで人々をコントロールするべきでないと言う軽い説もあった。健康であればコロナウィルスでは死なない。ワクチンの方がリスクが高いと訴える人たちもいた。
だけど基本的にはそうした声は「デマ」であり「大衆を間違った情報に導くもの」だとみなされ、FacebookやInstagram、YouTubeなどのメインストリームからあっけなく抹消され、アカウント停止を余儀なくされることがあった。そして面白いことには、そうやってメインストリームから抹消された投稿、あるいはドキュメンタリー映画などには、「真実を抹消しようとする陰謀と戦う正義」という謳い文句が勲章のように加わるので、逆に彼らの説に強い真実味を持たせることがあった。
反ワクチン派で知られる元大統領の甥で弁護士のロバート・ケネディ・ジュニアのInstagramのアカウントも2月に抹消されたものの一つで、彼はヒーローのようだった。クリスピークリームは3月末に、ワクチン接種者は2021年中、毎日無料でドーナツをひとつ食べられるサービスを開始すると発表し、このワクチン接種への甘い誘惑がますます反ワクチン派の怒りに油を注いだのは言うまでもなかった。また、クリスピークリームだけではなくさまざまな企業が人々のワクチン接種を推進するためにさまざまなサービスを発表し、極め付けにニューヨークでクオモ知事が推進した「ワクチンパスポート」には多くの反ワクチン派がSNS上で激昂し、政府の圧力を糾弾していた。
もちろん、私はビル・ゲイツによる陰謀論や、政府による人類大量虐殺論を信じているわけではなかったし、ワクチンを打つべきなのか、打たざるべきなのか?と言うのは、結局のところよくわからなかった。でも、打ちたくない人々を「あいつはトランプ派か厳格なキリスト教徒だ」と揶揄したり、クレイジーだとバカにすることには疑問が残ったし、「打たない」という選択はもう少し柔軟に尊重され、準備されてもいいのではないかと思うときもあり、これに関して白井くんと時々内輪で揉めたりもした。
とはいえ、そんなすったもんだの2021年4月15日、私たちは結局、ファイザーの1回目のワクチンをマディソンの病院で無事打ち終えることとなった。錯綜する情報の中で、ワクチン派でも反ワクチン派でもない私たちがたどり着いた結論は他でもなく、「とりあえず打っといたら安心かもしれない」という、心の平和だったからである。
3月19日
「生きてる...」
それは行きつけのスーパーでローウェルの姿を見つけた瞬間、安堵の気持ちと共に率直に私の中に浮かんだ言葉だった。一年以上ぶりの再会だった。最後に話をしたのがいつだったのかすら思い出せない。ローウェルがいつも座っていたスーパーのカフェは一年以上も閉鎖されたきりだったし、何より彼女は大学の教授職をリタイアした老人だったので、パンデミックの始まりとともに、私たちが会えなくなったのは当然のことだった。
ウィスコンシン大学の音楽学部の教授をしていたローウェルは、リタイア後私が毎日通うスーパーのカフェでいつもコーヒーを飲んだり朝食を食べたりして時間を潰しながら、定期的に興味のある大学の授業を聴講したり海外の学会に顔を出したり、あるいはガーデニングをして余生を過ごす気ままなおばあちゃんだった。特別仲が良かったわけではないけれど、いつしか顔見知りになった私たちは会えばお互いに聴講していた大学の講義について立ち話をするほどには仲良しだったので、パンデミックが始まってからはカフェの前を通るたびに彼女のことを思わない日はなかった。
「ワクチンを接種したんですね!?」
ローウェルを見つけた私が興奮気味にそう声をかけると、彼女はマスク越しに私を捉え、嬉しそうに頷きながら「あなたも受けるでしょ?」と言った。
「たぶん...夏には!」
私はそう答えた。
そう、おそらく夏までには...。
それは限りなく可能性の高い希望だった。今、ウィスコンシン州では五月になればほぼ誰もがワクチンを接種できるようになると言われている。そうでなくても私の周りでは、ここのところワクチン接種者の数が目を見張るほど増えていて、近所のドラッグストアからは「完全にワクチン接種者である」と言うことへのガイドライン("ワクチン接種から二週間経っていないと接種者として認められない"などの規定)のメールが届くほどだった。
医療従事者、あるいはローウェルのように65歳以上ではなくてもワクチンを受けるケースもかなり増えていた。例えば私が参加しているミートアップのグループリーダーであるデニスは、昨年の11月にアストラゼネカが募集したワクチンのトライアルに応募すると、12月と1月の二度に渡って一番乗りでワクチン接種を済ませた友人の一人だった。同じグループの友人であるカイルは、過去5年に亘りアメリカ海軍で働いていたというキャリアから優先的にワクチンを受けることができたし、ウィスコンシン大学に通うラビは両親が地元の教会でボランティアをしていた関係から、地元の病院で最近コネワクチンを接種した一人だった。ここのところ、インスタグラムやFacebookではワクチン接種済みの証明書をストーリーズに載せては「グッバイ、コロナウィルス」と書いている人をちらほら見かけており、息子の通う公文でも夏までにはズームではなく教室での指導が再開されると噂されていた。
3月に入るとマディソンのあるデーン郡は正式に屋外での集会人数の制限を500人まで認めることを発表し、それはすなわち、夏に町中で行われるあらゆるイベントが再び戻ってくることを意味していた。
サマータイムの始まりとともに、私の参加するグループも正式にインドアでの集まりを再開していた。集まったメンバーの何人かがすでにワクチン接種者でもあったので、活動再開初日は「これは誰の食べ残し?」「あ、それはワクチン接種者の食べ残しだから食べても大丈夫だよ!」などという冗談がテーブルの上を爽快に転がったりもした。
もちろん食べてない間はみんなずっとマスクをしていた。だけどグループのリーダーとして、デニスはもうずっとロックダウンが始まる前からグループの集まりを厳しく禁止していたし、夏の間も彼は屋外の集まりしか正式に認めず、大きなサニタイザーを持ち歩いてはメンバーの手という手に吹きかけていたので、このインドアでの集まりの再開の意味はあまりにも大きいように思われた。
「セイコが帰国するまであと15ヶ月しか残されていないのだから、これからはもっと、可能な限り多くの時間をみんなで一緒に過ごさないといけない」
久しぶりのグループ活動再開の喜びに興奮しながら、デニスはこともなく私にそう言ったので私は思わず泣きそうになった。
彼はもう大きなサニタイザーのスプレーを持ち歩いてはいなかった。確実に夜が明けようとしている気配があった。季節は春。マディソンが世界中で一番美しく花開く、短い夏が始まろうとしていた。
2月16日
友人のパトリシアは多趣味だった。乗馬にスキー、スケート、ピアノにバイオリン、太鼓に映画鑑賞、編み物と、それからドイツ語、フランス語、イタリア語にスペイン語、中国語と日本語を少々勉強するというマルチだった。月に一度か二度、オンラインのブッククラブにも参加しており、今は「ジェーン・エア」やら「罪と罰」やらを忙しそうに読みつつ、自身ではアートディスカッションのコミュニティも立ち上げて、月に一度、ズームを使った絵画のグループディスカッションに私を誘ってくれたりもした。その上私が最近コロナウィルスの影響で元気がないことも心配し、やれ「コーヒーを飲みに行こう」「美味しいものを食べに行こう」と私のためにさまざまなプランを立てては連れ出してくれた。
加えて先月の初めから、パトリシアは陶芸のクラスにも参加するようになった。もちろん彼女は私にも陶芸を始めるようにとメールをくれた。だけどノロマな私が申し込みをする頃にはそのクラスはすでに定員オーバーになり申し込みすることができなかった。特にすごくしたいと思ったわけではなかったけれどクラスに入れなかったことを少しだけ残念に思った私は、しばらくそのサイトを眺めながらなんとなく定員にまだ達していない"織物"のクラスに目が止まった。よく分からないけれど、機織りを使って、テーブルクロスやらブックカバーやら何やらを週一回、四ヶ月のレッスンで作れるようになるようである。履修料は130ドル。望めば機織りを自宅に持ち帰って夜な夜な家で自主練習をすることも可能なようだ。これもパトリシアと出会った縁による何かの導きだろう。ズームのクラスを取るよりもソーシャルディスタンスを取りつつも対人で行われるこの機織りのクラスが魅力的に思えた私は、マディソンで機織りができるようになるのもいいかもしれないと思い、陶芸クラスの代わりにこの謎のクラスを申し込むことにした。
「申込者が定員に達しなかったので、クラスはキャンセルされました」
クラスが不人気のために開講されないというこの案内のメールが届いたころ、私がすっかり機織りに対する熱を上げていて、このごろ「来週から機織りをするのだ」と周囲に漏らしては、自分が一体ちゃんと先生の指導通り織ることができるのか、どんな物を作るのが良いのか、などとあれこれ考えていたところだった。こんなに機織りのことを考えるだけ気持ちが上向きになったことに自分でもびっくりしたが、結局この「機織りのクラス」が突如自分の人生から消えたことにも少なからずショックを受けずにはいられなかった。
「残念だったわね。でもなにか他のことを始めたらいいわよ」
パトリシアは私を慰めながら、他の趣味を見つけるべきだと強く主張した。何か新しいものに挑戦すると、脳みその違う部分、違う回路が活性化され、とても体に良いのだという。また新しいことを始めることで、今までの趣味にも影響を与えて相乗効果が生まれることもあるのだとパトリシアは語った。友人のテリーもこのところ新しく油絵に挑戦し始めたところだった。彼もパトリシア同様多趣味であったが、特に絵を描いていると何時間も集中して楽しいと言い、私に今まで取り組んだことのない「完全に新しい何か」を始めるようにアドバイスをくれたところだった。
だから、私は色々と考えた結果、機織りではなく"デジタルペインティング"を始めることにした。始めたと言っても教室に通うわけではない。マディソンも英語も何も関係ない。自宅でひたすら空いた時間に黙々とiPadとApple Pencilを使って一人で絵を描くだけである。が、これが思いがけず楽しく、一つ、二つと絵を仕上げていくと、どんどんアイデアが湧き上がり、絵を描かない日がないほどのめり込んでいった。
「Instagramを駆使するのよ!今はinstagramの時代なのよ!」
そのうちかつて私にコロナ禍を生き抜く手段として熱くそう語ったボミの言葉が脳内で蘇り、その言葉に従うように、今度は私はInstagramの新しいアカウントを立ち上げて、仕上げた絵を公開するようになった。絵を描き始めて一週間もすると、毎日ひどい頭痛と肩こりに悩まされるようになった。絵に集中してやっぱりご飯を食べ忘れるので、体重が再びみるみる落ちてしまった。だけど、パトリシアの言うように脳みその今まで全く使わない部分が活性化されているような気分と達成感があり、心の中は不思議とずっと爽快だった。
Instagramを始めて二週間目には、アートキュレーターと名乗る女性から「あなたのような類い稀な才能を探していた。オンラインでの集まりに参加しないか?」というメールが届いた。もちろんスパムだったが、軽い躁状態の私は、半ばそのメールを信じ、友人の二人にそのメールを査定してもらい「胡散臭い」と言う二人からのダブルチェックをもらうまで、「もしかしたら私はすごい絵の才能があるのかもしれない」と心の中で密かに打ち震え、その後その自尊心をいたずらにくすぐられた羞恥心から傷つき、メールの送信者を軽く憎んだりもした。やつれ果てた私の顔をみて、「なぜそこまで...」と白井くんは首をかしげた。来る日も来る日も奇妙な絵をアップするので、「狂気を感じる」と言う友人もいた。Instagramのフォロワー二千人を26ドルで買わないか?と持ちかけられたこともあった。そしてやっぱり、体重は減る一方だった。
だけど取り憑かれたように絵を描き始めて三週間ほどした頃、私の元に友人のカイルから突然一通のメールが届いた。
「君の絵、素敵だよ。僕のブログに使っていい?」
メールには日本語でそう書かれていた。カイルもまた、パトリシアやテリーのようにたくさんの趣味を持つウィスコンシン大学のアメリカ人の学生だった。日本語、アラブ語、中国語、ギターにカリグラフィーにキックボクシング、銃収集が少しと、哲学の勉強...そして彼はブロガーでもあった。そのカイルの最新のブログの記事に、私の絵を使いたいと言うのである。もちろん一も二もなく快諾し、その後すぐに私の描いた「魂」と言う題の絵が、カイルの「死」に対する哲学的な記事のブログに添えられてネット上に上がった。
とても不思議な光景だった。
「魂」は、私が絵を描き始めたことで気持ちが明るくなってきた頃、人間の内面の美しさを表現したくて描いた花と心臓の絵だった。その自分のために描いた絵が、カイルの彼自身の「死」に対する思想の文章に添えられることで、今度はまた違った意味を帯び、広がりを得たよう見えたのである。
そこにはちょうどパトリシアが言うように、脳みその違う回路を使ったことで、また違う部分が活性化されたような、絵と文章が響き合ったような、不思議な輝きと奥行きがあった。あるいはそれはパトリシアがいて、機織りのクラスが無ければ到達しなかった偶然の産物のような、生命の神秘のような喜びがあり、私はしばらく何度も、そのページを見つめていたのだった。
1月13日
日本人留学生のアヤナちゃんの帰国が迫っていた。二十歳のアヤナちゃんはまだ世界がコロナウィルスのコの字も知らなかった頃に半年間、私がかつて通っていた語学学校に通っていた若い日本人学生だった。彼女はその後一度は日本に帰国したが、やはりもう一度マディソンで語学の勉強をしたいと思い、再び、パンデミックが始まる直前に二度目の語学留学を開始し、この度コロナウィルス終息の目処の立たぬ中、一年の留学期間を終えて日本に戻る予定となっていた。
「あんまり何も変わらなかったですよ」
自分で染めたと言うエメラルドグリーンと金髪のグラデーションの髪の毛を時々かき上げながら、一度目の留学とパンデミック後の二度目留学の違いについて尋ねた私に、アヤナちゃんはあっけらかんとそう答えた。
「あ、でも私、コロナウィルスになっちゃいましたけど」
そう言って、アヤナちゃんは一枚の集合写真を携帯電話で見せながら、「この二人が遊んで、次の日にこの二人が遊びに行って、そしたらこの二人が飲みに行って...」と、丁寧に去年留学生用の寮内で起こったクラスターの感染経路を私に教えてくれた。それから初めてタトゥーを入れた、と嬉しそうに言うと、アメリカでの留学生活はとても楽しかったと笑みをこぼすのだった。
すごいなあ...
一回り以上も下の女の子の留学体験を聴きながら、私はつい、羨望の言葉を漏らしてしまった。何を隠そう、私もずっとアヤナちゃんのように、髪の毛を派手に染めたり、タトゥーを入れてみたいと思い続けてきた36歳である。でも踏み切れなかったのは、私の中にはもうずっと日本的な固定観念や古い価値観が染み付いているからだった。
「だから日本って嫌なんですよね」
私の話を聞いてアヤナちゃんは顔をしかめた。
ところで、海外留学の経験中に思い切ってタトゥーを入れた若い女の子を私はもう一人知っていた。あるいは自分の性的マイノリティを留学先でオープンにする子、飲酒を禁じられた祖国の宗教的タブーを犯す子、ドラッグを試す子...良くも悪くも、私が時折目にするそうした若い留学生たちの振り切れた行動には、若さゆえにそれまでの価値観を易々と飛び越える柔軟性と、新しい文化を吸収しようとする強い探究心に溢れていて、私の目にはいつも眩しく映ることがあった。こと、ものの価値観が外見に現れると言う意味では、彼らの外見的変化は歳をとってから海外に赴任などで来た人たちよりも遥かに顕著だったし、そうした若者たちが既存の価値観をあっけなく打ち破る行動の多くが、祖国では難しくてもアメリカと言う場所でなら受け入れてもらえるのだ言う空気感に後押しされているようにも思えた。
中国人の友人のメンディも、アメリカでの五年以上に渡る滞在を経て僅かながら外見的変化を遂げた友人の一人だった。彼女は明らかにアメリカに来てから自分は太ったのだと言ったが、自分はそれいいと思っているし、もうすこし太ってもいいとさえ思っていると言ったことがあった。アメリカの女性が体格の大きな人が多いのも要因だったが、肌を焼き、女性も男性のように筋肉質に鍛え抜くと言う美意識を持つ人々を見ているうちに、中国にいた頃の自分はすこし痩せ過ぎで貧相だったと思うようになったと言った。
かくいう私もまた、エメラルドグリーンの髪の毛こそまだ手に入れてはなかったものの、当初マディソンに来た頃「受け入れ難い」と感じていたアメリカ人学生たちの"レギンス一枚履き"のスタイルというものを取り入れた人間でもあった。足の形のみならず、お尻の形までくっきりと出るレギンス一枚だけというファッションは、何年か前に白井くんと一緒に「なんとみっともない...」と酷評したはずだったのだが、今では嬉々としてなんの抵抗も感じずに履くようになっていたのである。
レギンスだけではない。鼻の両穴の真ん中に施すセプタムというピアスをしている若者が多いことにも、昔は仰天して「牛のようだ」と陰口を叩いたものだったけれど、セプタムもノストリル(片方の鼻の穴にするピアス)も最近はなんだか可愛いし、かっこいいと心から思えるようにもなっていた。
もちろん、アメリカ人の女の子たちが腕毛をボーボーに生やしていることも、私にとってはもう驚くことではなかった。なんなら、「女の子だから毛を処理しなくてはいけないというのはおかしい」という主義のもと、脇毛を剃らないクールな女の子たちを見かけることもあった。日本人の彼氏がいる韓国人の女の子が一度、その彼氏に腕の毛を剃って欲しいと言われたことに対して激怒していたことがあったが、私はそういうことをお願いする日本人の男の子の気持ちもわかりつつ、今ではそれに腹を立てる韓国人の女の子の気持ちも分かるようになっていた。
脇毛も腕毛もタトゥーもレギンスも、ド派手なヘアスタイルだって、アメリカでは社会的にマイナスとされる要因には何一つならないのである。
かくしてこの四年以上のアメリカ滞在は、私を"お尻の形が丸見えでみっともないと思っていたレギンススタイルを履いて闊歩する"という形で変化させていた。あともう少し滞在すれば、私もタトゥーを施して髪の毛を染め、見事な脇毛を生やすようになるだろうか?アヤナちゃんのエメラルドグリーンの髪の毛を見ながら、私はそんなことを考えていた。
11月25日
すっかりコロナ鬱になってしまった。
きっかけは全くわからなかった。ソーシャルディスタンシングが推奨される昨今の状況の中、それでも私にはずっと定期的に会う友人たちやグループがあったし、そんな仲間とは工夫しながら週に二回以上はお茶をしたり飲みに行ったりと忙しく、また平日はジムで毎日ランニングと水泳を欠かさず、心身ともに健康だったからだ。(少なくとも、私は健康だと信じていた。)
だけど10月が終わり、ああ本格的にまた冬が始まるな、と思い始めたころ、ふと気づくとご飯が食べられなくなっていた。「食べたい」という欲求が湧きおこらないので、食べ忘れるのである。それからずっと下痢が続き、涙もろくなった。悲しいことがあったわけではないのに、朝から止めどなく涙がこぼれ落ちるのである。友人と会う直前まで車の中で泣き、時々、そうやって人に会う時間さえも楽しいのか楽しくないのか、わからなくなる時があった。そして少しでも何か気になることがあると心臓が鉛のように重くなるか、早鐘のように打つこともあった。自然と体重は減り、頬はこけ、目には大きなクマができ、私は見るからにみすぼらしくみじめな形相になり、疲れ切っていった。
もちろん、マディソンで働いているわけでもない、学生でもない私が、「疲れた」などというのはおこがましいことだった。だけどこの半年以上、パンデミックによって、様々な面で私の日常も変化を遂げていた。ずっと変わらずに会える友人もいたけれど、コロナウィルスで会えなくなった友人たちも少なからず居て、それはとても悲しいことだった。
引越し業者として働いていたイーサンは不景気の煽りを受けて失業し、さよならも言わずにマディソンを去っていったし、大好きだった韓国人の友人のセオンもほとんど家から出ないといって、会う機会がなくなってしまった。11月になるとコロナウィルス第三波の勢いを受け、グループのリーダーであるデニスも飲み会を春まで自粛すると宣言し、メールだけのやりとりとなった。他にも何人かの友人たちがインドアでの集まりを自粛するようになった。ダウンタウンのメインストリートでは、思い出の詰まったバーやカフェが一軒、さらに一軒と、当たり前のように幕をおろし、顔見知りだったバーのおじさんがどこへ行ってしまったのかなどと、私には知るよしもなかった。大好きな映画館で友人と映画を観たのも、ジムでサウナを使ったのも、もうずいぶん昔の出来事だった。
それなのに事態は良くなるどころかますます悪くなる一方で、マディソンは、いやアメリカは、今やパンデミックが始まって以来の最悪の感染者数を叩き出していた。シカゴのあるイリノイ州は違う州からの来訪者を再び制限するようになり、感染者数の多いウィスコンシン州からはシカゴ市内へ遊びに行くことができなくなった。子供の通っているプレスクールでは生徒の中に感染者が出たと連絡があり、一週間学校が閉鎖された。友人の勤務先では60人以上が解雇された。通っているスポーツジムもたくさんのクラスが再びキャンセルになり、ジムの託児所の利用時間も大幅に削減されるようになった。
もちろん、こうした一連の出来事と私の心の不調が、一体どうやって結びつくのかは、わからなかった。全てをパンデミックのせいにすることもできたし、そうではないところに原因があるのかもしれなかった。単純にマディソンの日照時間の関係で、セロトニンが足りなくなっただけの話かもしれなかった。
ただ、私は悲しかった。
『3月いっぱいは閉まります。元気で居てねマディソン』
これは3月中旬のロックダウンの折、ダウンタウンにあるマジェスティック劇場という古い劇場のビルボードに並んでいた言葉だった。それからときどき、そこには『愛は憎しみに勝る』や『投票に行ってね』など、世の動向に照らして人々を励ますメッセージが入れ替わり登場し、私はそれを見上げるのが好きだった。劇場が生きていて、私たちに語りかけてくれているような、希望が湧いてくるような気分になれたからだ。
だけど今日、閑散とした通りで見上げたビルボードには、たったひと言こう書かれていた。
『くたばれ2020』
暗転していく状況の中でたくさんのイレギュラーなことが起こり、あらゆるものが変わってしまった。そしてそれでもなお、巡る季節は冬へ、マディソンは厳しい極寒へと突入しようとしていたのだった。