ボミ

2月24日。
 「あなたはLGBTについてどう思う?」
 初めてボミに出会った時、ボミは私にそう尋ねた。マディソンに戻ってすぐの夏の出来事だった。
 図書館で私と同じように息子を遊ばせていたボミは、ロザリオを首から下げたアジア人のママだった。私はその頃、韓国人にクリスチャンが多いという事実に興味を持っていたので、彼女の胸元に光るロザリオを指しながら「クリスチャン?韓国人?」と声をかけたのがきっかけだった。

 もちろんボミは韓国人で、とりわけ敬虔なクリスチャンだった。その上、後から分かったことだが、彼女は大変な"社会派"で、アジアを中心とした世界の政治情勢や歴史をとめどなく、(やや左気味に)語る癖があった。だから、何気なく話しかけたロザリオから一転、いつしかボミとの話題はLGBTへとすり替わり、彼女はそれが"聖書に認められていない"にも関わらず『ここマディソンが寛容な姿勢を取っていること』、『学校教育の中で子供たちにLGBTを受け入れるように教えること』などの不満を漏らし始めたのだった。
 ボミは私が相槌を打っても打たなくてもお構いなしで、ひたすら「LGBTを否定するわけではないが、国が子供に教育すべきではない」「LGBTは聖書に書かれていない」という際どい話を繰り返したのち、ついに「あなたはどう思ってるの?日本はどうなの?」と言って、私を凍りつかせた。そうでなくてもボミは滔々と「LGBTというのはもともとその人自身の内面にある罪によって背負わされたものなのだ」などと16世紀の宗教裁判か何かかと思うような発言をして、私をびっくり仰天させたばかりだった。だから話が一区切りついた彼女から「あなたの意見を率直に教えて」と真っすぐに問われると、私はもちろん自分の率直な意見を言う勇気など無く、ただ必死に"英語がうまく話せなくてもどかしい人の演技"をするしか思いつかなかったのだった。

 そんな苦い夏の思い出から半年、しかしボミと私のつながりは不思議と切れることはなく、今年に入ってからは、私たちは頻繁にお互いの家を行き来する間柄になっていた。
 というのも、私は一月から始まったウィスコンシン大学の春学期で、『イタリア映画』の授業に聴講に行くことに決め、授業の間、息子をどこかに預ける必要があったからである。託児所を利用するほどのお金のない私は、近所に住む韓国人のママ友のセオンと相談し、彼女の娘をうちで預かる代わりに、イタリア映画の授業の日にはセオンの家で私の息子を預かってもらうという相互扶助の取り組みを始めた。だけどこの試みはセオンの子供がまだ小さかったこともあり、最初の数回であっけなく破たんすると、その代わりと言ってセオンから紹介されたのが、近所に住むこの社会派のボミだったのである。
「ごめんね、セイコ。でもボミが子供を預け合うことに興味を持っている」とセオンに言われながら、しかし、私は一抹の不安を覚えないわけではなかった。"ボミ"と聞くとどうしても図書館で凍りついたあの夏の日を思い出してしまうからである。

 だけど背に腹はかえられなかった。すでに聴講の許可を得た『イタリア映画』の授業は始まっていたし、何よりこの授業はすごく面白かった。ムッソリーニのファシスト政権下で花開いた"ファシスト映画"から戦後の黄金期"イタリアン・ネオレアリズモ"、そして後のピンク・ネオレアリズモ...、他に類を見ないイタリアの映画史について学ぶことは、いつしか私の一番の楽しみとなっていて、どうしても授業に出続けたかったのである。

 そういうわけで、私は思いがけず今年に入ってからボミと週に何度もお互いの家を行き来するようになったのだが、意外なことに、ボミとのこの関係は思っていた以上にうまくいった。私の息子はすぐにボミに懐いたし、彼女の家にはたくさんのオモチャがあって、息子同士は喧嘩こそすれ、別れ際には名残惜しそうに手を振り合う仲になり、二人でいつも走り回っていたからである。
 ただひとつ、ボミはやっぱり社会派で、時折見せるその一面だけが難点と言えば難点だった。例えばあるとき、息子を迎えに行くと、ボミから「"マンマ"って韓国語でご飯って意味なのよ」と言われた私が、マンマは日本語でもご飯という意味だと応えると、ボミは「ああ」と言って、「colonization(植民地)」と呟くのだった。つまり、それはきっと日本の植民地化時代の名残だろうと言うのである。かと思うと、彼女は突如「韓国人は"中国派"か"日本派"に二分されることがあるんだけど、私は"日本派"なの。前までは"中国派"だったんだけど、それはそう学校で教育されたからなのよ」と言って、私が帰り支度をしている隣りで、今の中国のあり方を批判することもあった。
 またある時はこうだった。それはボミが韓国人にキムという苗字が多いのはキムという苗字がもともと身分の高い苗字だったからなのだと教えてくれた時のことだった。なんでも韓国併合以前、朝鮮には厳しい階級社会がはびこっていたのだそうだ。だけど日本による植民地化によりそれが崩壊すると、それまで苗字を持たない下級身分の人々が苗字を持つようになり、そうした彼らの多くが身分の高い苗字であるキムを名乗るようになったので、キム姓は多くなったのだと言う。    
「だから、笑い話なんだけど、キム姓はもともとすごく身分が高いか、すごく低いかのどちらかなのよ」
 そう言いながらボミは笑うと、ついでに彼女は「だけど、植民地化が悪いとは私は思っていないのよ」と言って、また私をドキリとさせるのだった。
 ボミの意見では、日本による植民地化があったからこそ、階級社会は崩壊したのだから、結果的には日本がしたことは悪くないのだと言う。
 「韓国併合以前の朝鮮が良い国だったかどうかって考えると、私は決してそのままで良かったとは思ってないのよ...」
ボミはそう言い、そして私はその後30分ほどいとまを告げる機会を逃し、ボミによるアジアを中心とした世界の政治談義について聞くことになるのだった。

2月4日。
 マディソンで過ごす三度目の冬は、穏やかに、異例の暖冬から始まったように思われた。この冬、マディソンの町はクリスマスを過ぎてもほとんど気温が下がることがなく、記憶に残っていた極寒の、凍てつくような白銀の世界はなかなか姿を見せることはなかった。大晦日の夜に一度雪が降り始め、新年の始まりと共に町中を白く染めた日はあったものの、年が明けてからは再び気温は上向きになったので、今年は誰もが「暖かすぎる」と首を傾げたものだった。
点在する湖は人々がスケートを楽しむほどにはなかなか凍らず、語学学校では放課後のアクティビティとして予定されていた「湖でのスケート遊び」が先延ばしにされて、引率のトム先生を毎週のようにヤキモキさせていた。マイケル先生は人一倍地球温暖化を懸念する心配性だったので、私が遊びに行くといつも緊迫した表情で「こんなに暖かいのはあり得ない...」とため息をついては、いよいよ地球温暖化は深刻化しているのだと語っていた。そしてそんなマイケル先生にいつも「心配しすぎじゃないですか?」と言いつつも、私もまた、この冬の湖が凍らないマディソンというのがなんだか冬らしくなく、物足りなさを感じていたのだった。

 だけど1月も終わりに近づいていた頃だった。ようやく、人々の期待を一身に背負ったかのように雪が降り始め、するとその日を境にあっという間にマディソンに本格的な冬が到来した。気温はぐんぐんと下がり、すぐに道路という道路に除雪車がせわしなく走り回るようになった。外にあるものは例外なく真っ白な雪に覆われ、家々の屋根やアパートの窓からは大小さまざまなつららがそこここにピカピカと肩を並べるようになった。もちろん湖という湖は完璧なまでに凍りついたし、町中が厳しい極寒の表情を見せるようになると、マディソンはついに、"例年の気温"を通り越して、マイナス三十度を下回るという私が今までの人生で経験したこともないような超極寒へと到達したのだった。
 
それは一月があと数日で終わろうとしている水曜日だった。南極や北極をしのぐ寒さにまで達すると、マディソン中の学校が前日から休校を発表し、公共機関も休むという異例の事態が起こった。道行くバスは何故か無料運賃での運行をしていたが、マディソン警察は「悪いことをするには寒すぎる」と言って「犯罪者たちよ、今日は家に居て、Netflixを見るなりマディソン地域犯罪防止サイトを読むなりしてください」という茶目っ気たっぷりのアナウンスをして話題になった。SNSでは「命の危険のある寒さ」に対して、責任感の強い面々が次々と役に立ちそうなリンクを引っ張ってきてはシェアしていたが、タイ人のパニカはなぜかトニと半袖で極寒の中に出る様子を撮影すると、「悪くないぜ!」と浮かれた投稿をしていた。
 またこの寒さを利用して、屋外で瞬時にアイスクリーム作りをする強者も居た。材料を入れたものを外で軽くシェイクするだけで、あっという間に自家製アイスクリームが出来るのである。屋外でお湯を撒いて「お湯花火」を作る遊びもこの短期間で大流行し、マディソンのいたるところでお湯を撒いて嬉しそうに叫んでいる人々を見かけることがあった。私も試しに撒いてみたところ、コップから飛び出したお湯は一瞬にして氷の粒となって空気中に拡散され、キラキラと光りながら見る人の目を楽しませてくれた。
そうして数日間、突然の超極寒にまつわるイレギュラーなことがいっぺんにマディソン中に沸き起こってしまうと、再び、気温は上昇を見せはじめ、降り積もった雪を溶かし、また何事もなかったかのように穏やかな冬が舞い戻ってきたように思われた。苦労して道のわきに積み上げた雪もあっという間に低くなり、真っ白だった雪は車の排気ガスで汚く煤けると、あちこちで雨上がりのような水たまりを作りながら隠れていた地面を露わにした。学校は再開し、外に出ても寒さで頬が痛むということが無くなった。誰もが戦々恐々とした非常時が過ぎ去って、街は静かにいつもの日常が戻ってきたようだった。

だけど一方で、あの爆発的な寒さで水道管が破裂したというケースもいくつかあった。私が利用している近所のスーパーも水道管の破裂のために二日ほど閉店していたし、iPhoneが寒さでシャットダウンしてしまった人もいた。車が壊れたという話もよく聞いた。私の乗っている車もあの寒波の日からどうも調子がおかしくなってしまい、修理に行くと「悪い所がありすぎるから来週に来い」と言われる始末だった。大流行していた「雪花火」はBoiling water challengeと称してネット上でも話題になったが、そうしたチャレンジのせいでうまく蒸発しなかったお湯を浴びて火傷を負いそうになった人が続出したというニュースもあり、寒波が及ぼした影響は楽しいことばかりではなかった。
この寒波を誰よりも喜んだだろうと思われたマイケル先生だって、喜ぶどころか、『温暖化によって極端に寒かったり極端に暑かったりする異常現象が起こっている』という記事をSNS上でわざわざシェアしては、「あの寒さは温暖化によるものだから、皆この記事をよく読むように」とますます地球温暖化への危機感を募らせたようだった(結局、暖かくても寒くてもマイケル先生はいつも温暖化を心配するのである)。

私はというと、一度だけ、超極寒の折にアパートの裏にあるゲレンデのようになった公園を一人で歩いてみたことがあったが、結局降り積もった雪に足を取られ、数分で引き返すという情けない結果に終わった。すねの少し下まで積もった雪をかき分けて行くと、真っ白な雪に囲まれて、聞こえてくるのはザクザクという自分の足音と息遣いだけだった。足をうまく抜くことが出来ずに一度だけ転び、時々むき出しになった皮膚がひどく痛んだ。だけど不思議と「寒い」とは感じなかった。ただそれは、立っているだけで自分の生命力がそがれていくような、そんな厳しい世界だった。

1月16日
 「今日、ダイソンの掃除機が届くから、開けても僕が帰るまであまり触らないように」
 白井君がそう言い残したのは年が明けてすぐのことだった。使えば使うほどにゴミが噴出するようになった掃除機を思い切って捨てる決意をしたのが年末のことで、少々値は張るが、私達は思い切ってクリスマスプレゼントや何やかやと称し、ついに今年、夏から使っていた壊れた掃除機を捨て去り、ダイソンのそれに新調することを決断した。250ドルのダイソンの掃除機は、今の私たちにとっては決して安い買い物ではなかった。だけど渡米してからずっと節約生活を頑張ってきたし、何よりも今の掃除機では日常生活の衛生面が心配される。ポンコツになった掃除機に加え、ホリデーシーズンの雰囲気もあいまって、私たちは清水の舞台から飛び降りるかのごとく、ちょっとした贅沢としてダイソンの掃除機を購入したのである。
その上、掃除そのものをこよなく愛する白井君である。彼は今日と言う日を誰よりも心待ちにして、この日は朝から私にダイソンの到着予定時刻について言及すると、いつになく幸せそうに家を出て行ったのだった。
 
 だけど、思い返すと、だいぶ前から不穏な動きはあった。というのも、何度か私達のアパートでは、『ここにドロボウがいる!』という張り紙を目にすることがあり、様々な盗難被害に対する住民からのメモ書きがエレベーターやエントランスで見かけることがあったからである。同じ階に住むローラという白人の中年女性も、洗濯場に置きっぱなしにしていた洗濯物を盗まれたことがあり、「あの下着、洗わないといけないのに!」と嘆いている姿を見たことがあった。マンションのオーナー自らが『この建物には泥棒が居る。荷物にはくれぐれも気を付けて!』というメモ書きを張っていたこともあり、彼女は「このマンションだけの問題ではない。これはマディソン中で起こっていることよ」と言いながら、荷物や宅配便の置き引き被害が頻発していることを教えてくれたこともあった。だからその日の夕方、帰宅早々に掃除機を探す白井君の目が焦りを帯び、やがて怒りに揺れるのを見たとき、私は心待ちにしていた夢のダイソンの掃除機が何者かによって盗まれたのだと確信せずにはいられなかった。

 腹立たしいのは、配送業者であるUPSが配送を完了したと報告したまさにその時間帯に、私がアパートの部屋に居たという点だった。つまりUPSはドアベルさえ鳴らさず、アメリカで一般的とされている『置き配』と言うドアの前に荷物を置きっぱなしにするという方法で荷物を届けたのである。それもアパートの入り口、誰でも侵入可能な場所に、である。

 「我々はそれを"ポーチ・パイレーツ"(玄関盗賊)と呼ぶ」
 怒り狂う私に向かって語学学校のトム先生はそう教えてくれた。マディソンだけではない。それは今、アメリカ中で問題になっている『置き配』を狙った犯罪の呼称であり、クリスマスやお正月にかけてのホリデーシーズンは特にそのポーチ・パイレーツが頻繁に暗躍するのだという。そしてそう言われると、最近、ウィスコンシン大学の大学内にアマゾンのピックアップセンターが出来ていたのを発見したことに私は思い当たった。マンションのオーナーにも、「盗難被害に遭わないためにも、自ら業者に荷物を受け取りに行く方法がいい」と勧められたこともあったし、語学学校の先生たちは荷物の受け取りは全て自宅ではなくオフィスに設定していると言った。
 
『親愛なる泥棒さま。
1月4日にあなたが盗んだ私たちの荷物を340号室に戻してください。有り難うございます!』
 
掃除機が盗まれた翌日、私は「少しは話の分かる人かもしれない」という限りなくゼロに近い希望を捨てきれずに、しばらくの間上記のポーチ・パイレーツ宛てのメモをアパートの玄関に大きく張り出していた(マイケル先生は、「わお!そんなメモを張ったのに掃除機が戻らなかったことに僕は心の底から驚いちゃうね!わははっ...!」と私をからかった)。だけど、そのメモを張った翌日には、『1月3日に配送された私の荷物、返してください。ありがとう!』という新たな被害のメモが私の泥棒宛ての手紙の横に大きく張り出されており、これで連日のようにポーチ・パイレーツが私達のアパートに出没しているのだということが判明したのだった。

気が付くと、2019年という新しい年を迎えてからここ、アパートのフロアにはどの部屋のドアにも『荷物を配送する場合は、ここに置きっぱなしにしないでください!さもなくば盗まれます』という手書きの注意書きが張られるようになった。アパート中の誰もがポーチ・パイレーツの存在に神経をとがらせていたし、もちろん心待ちにしていた掃除という楽しみを奪われた白井君の怒りもしばらくは収まらなかった。
何よりも極貧の私達がポーチ・パイレーツの被害に遭うとは、悲劇以外の何物でもなかった。二年前、さほど貧しくはなかった頃にもマディソンで10ドルの車上荒らしに遭ったことがあったが、このときは「きっと10ドルでも欲しい貧しい人がとっていったのだ」と同情さえし、「鍵をかけ忘れた自分たちも悪い」などと穏やかに泣き寝入りしたものだったが、この貧しいさなかに250ドルのダイソン掃除機が盗まれたとなると、警察への被害届まで出す事態となった(ただ警察にメールしただけだが...)。

そうして今、悪名高いポーチ・パイレーツの被害に遭った大きな悲しみの中で私の脳裏によぎるのは、黒澤明によるフィルム・ノワールの傑作『野良犬』の一場面だった。映画『野良犬』は戦後の日本、誰もが貧しい中で復員兵として帰還した二人の登場人物が盗難被害に遭い、それを機に一人は自暴自棄になり犯罪に手を染めて没落、もう一人はその経験から刑事に転身する、というコントラストを描いた作品である。刑事となった三船敏郎扮する村上は、劇中、「思い返すとあの復員時の盗難被害が自分の人生の分岐点であった」としみじみ語る有名なシーンがある。盗難被害にあった時に貧しさの中で心荒む自分を踏みとどまれたことが、自分と犯罪を隔てる人生の大きな分かれ道であったと、村上は語るが、私は今、大いにその言葉が体に沁みわたるのを感じていたのだった。

「来週の水曜日にダイソンから新しいものが届くから」
『野良犬』に思いを馳せている私に向かって、白井君は、ダイソンが来週には新品の掃除機を無料で再発送する返事をくれた、と教えてくれた。被害から五日ほど経った頃である。「諦めて新しいものを買おう」と早々に提案した私とは違い、「自分たちには何の落ち度もない」と固く信じ、毎日UPSやダイソン、警察などに連絡を取ってしぶとく頑張った白井君の勝利だった。もちろんダイソンの迅速かつ丁寧な対応にも私達は心から感謝していた。

憎きポーチ・パイレーツ!!!だけどともあれ、私達は新年早々『野良犬』で言うところのダークサイドへの転落を、こうしてなんとか踏みとどまるに至ったのだった。

年の瀬に

12月29日。
 始まってしまうと、フードパントリーでのボランティアの仕事は想像したよりもはるかに簡単な仕事だった。なぜなら私が奉仕する木曜日のパントリーは、シニア向けの配給日だったため、他の配給日とは少しだけやり方が違い、配給物資の集められた倉庫が開放されるようになっていたからである。だから、普段はスタッフが一人ひとりとコミュニケーションを取りながら物資を手渡して行く仕事のはずが、木曜日のパントリーでは、シニアの受給者たちが勝手気ままに倉庫に入って必要な物資を取っていくようなルールになっており、他の曜日に比べると仕事量が圧倒的に少なかったのである。
 そんなフードパントリーで私が一緒に働くことになったのは、バーブというコミュニティセンターの近くに住むボランティアの老婦人と、インターンとして働いている学生のアレックスという若い男の子だった。だけど老人たちは時間になったらぞろぞろと倉庫に入ってきては自分たちでせっせと物資を取っていくので、この小さな倉庫にスタッフ三人はいささか多いようにも思えた。幸か不幸か、アレックスは若いのに働き者だったし、彼は一度に何人もの老人とコミュニケーションを取って精力的に活躍したので、英語のあまり話せない新人の私が出来たことと言えば、狭い通路の中で縦横無尽に歩き回る老人たちをひたすら華麗によけることと、アジア人を珍しがる老人たちに「セイコです。日本人です」と何度か名乗ったことくらいだった。
 
バーブという老婦人のスタッフはもう半年もこのシニアのパントリーでボランティアをしており、出入りする老人たちのことを熟知していた。だから彼女は時折私に「あの人は糖尿病よ」とか「あの人はいつも帰り際にサインするから、帰るときは注意して」と耳打ちしては、コーヒーをすすりながら注意深く受給者たちを観察していた。ただ、バーブはピーナッツバターの数に関して少しうるさく、初日だけでピーナッツバターの数が減っていることに四度も怒りをあらわにし、「泥棒がいる」とまで言う過激な面があった。
 そんな厳しいバーブのこともフォローしながら、学生のアレックスはアジア人の十歳も年上の私にとても気を使ってくれる優しい青年だった。彼はいつも私が聞き取りやすいようゆっくりと話してくれ、バーブが早口で何か言う度に「今の分かった?」と確認しては、「つまり、バーブは三人子供がいるんだけど、三人目は女の子だと思って居たのに、男の子だったんだよ」と、再度分かりやすい英語にかみ砕いて話した。それからバーブがピーナッツバターを独り占めした犯人について言及すれば「誰かが多く取ってしまうと、もっと多く必要とする家族向けのパントリーの日に、その家族に渡らないということが起るんだよ」とバーブの言ったこと以上の説明をし、ついでに「ところでチキンとビーフの違いは分かる?」と私に尋ねるのだった(分からないように見えたのだろうか...)。
 だけどこのバーブの「ピーナッツバター問題」は、初日のうちに、いつの間にか「肉問題」へと発展しており、あるスタッフから「一人一つと決められている肉を二つ以上鞄にしのばせた人物を見た」と言うタレこみによって、急きょバーブ、アレックス、タレこみスタッフによる緊急会議が物々しく開催され、それは初日の私にとってちょっとスリリングな時間でもあった。

「次回からは受給者たちが何を取ったか確認するという方策に変わったよ」
アレックスは緊急会議中に「どうせアレックスが後から教えてくれるだろう」と思ってぼんやりしていた私に、やっぱりきちんとかみ砕いて報告するのを怠らなかった。そして「誰かが独り占めしたら違う曜日でもっと物資を必要とする家族に行き届かなくなるんだよ」と、「ピーナッツバター問題」の時にも聞いたような内容を再び説明すると、いかに一人でも多くの恵まれない人に限られた物資を平等に分け与えることが大切かということを私に教えてくれたのだった。

「聞いたわよ!フードパントリーの仕事、すごくよくやってくれてるんだってね!!」

シンシアというコミュニティセンターのスタッフからそう声をかけられたのは、そんな初日から二週間ほど経った頃、年末のイレギュラーなパントリー受給日に受給者として出向いたときのことだった。もともとシンシアに「ボランティアで働きたい」と相談し、「自分を変えたい」だの「挑戦したい」だのと恥ずかしいことを言った私だったのだが、初日は基本的に老人をよけているだけだった上に、二回目は車のパンクが原因で新人のくせに大幅に遅刻して仕事に行った私である。まだ二回しか働いていないとはいえ、どう考えても役に立ってないと思われたのに、シンシアから「よく頑張ってくれてありがとう」と言われると、私は思わず恥ずかしさで顔を赤らめずにはいられなかった。
「自分なりに頑張ってます!」
すっかり舞い上がりながら、私はまたついつい張り切ったことを口走っていた。すると満足そうに頷きながら、シンシアは「そういえば日本語を教えてよ。ハンバーガーって日本語でなんて言うの?」と言った。もともとシンシアは父親が日本に仕事で住んでおり、私に日本語を教えて欲しいと言ったことがあったのである。
少し考えながら、私はそんな彼女に向かって「HA・N・BA・A・GA・A」と言った。するとすかさずシンシアは「一緒じゃん!」と、お腹を抱えて笑った。
「じゃあバイバイは?」
「BA・I・BA・I」
わざと私がそう教えると、シンシアはやっぱりすごく面白がって「それも一緒かい!」と呵々大笑した。あまりにもシンシアが笑ってくれるので、私がついでに「トマトはTO・MA・TO」と、配給物資のトマト缶を指さしながら調子に乗って言い添えると、シンシアは「文化というのは混ざっていくとは知っていたけど、文化の融合がここまで進んでるとは思わなかったわ!」ととても楽しそうに言った。

そんなシンシアと笑顔で別れると、私はセンターを出て、両手いっぱいの配給物資を持って車に乗り込んだ。コミュニティセンターから私の家までは車で十分ほどの距離である。今年、マディソンは12月末とは思えないほど暖かかった。来月になればもう少し寒くなるのだろうか?そんなことを考えていると、いつの間にか来年こそはもう少しボランティアで役に立てるようになろうという考えが沸き起こっていた。それはごく自然な思いだった。それからふと、シンプルに、私はあのコミュニティセンターがとても好きだと思ったのだった。

二足の草鞋

12月10日
 11月に入り、マディソンもいよいよ極寒の季節を迎えようとしていた頃、ちょっとした出来事があった。後から思うと、それは自分自身が「貧困生活」を送っているという恥ずかしさからくる嫉妬に起因するようなことだったのかもしれないが、それでもそれは人間関係のズレや居心地の悪さが付きまとい、なんとなく心のささくれとなって自分の心の中に沈殿するような出来事だった。例えばそれは、自分自身を査定された場合に、「身の回り品」や「パートナーの収入」でしか評価されないとなると、どう考えても、私は人より分が悪いという事実による、いたたまれなさや悔しさのようなものだったのである。

 そんなちょっとしたことがあった11月のある日の夕方のことだった。くさくさしていた私の目に、ふと「ボランティア」の文字が飛び込んできたことがあった。週に二度ほど訪れるコミュニティセンターで、何やら「ボランティア」を募集していると書いてあるのである。
 ボランティア...。

 私はビザの関係上、就労することが出来なかった。そのためアメリカで血を売ることもできない呪われた身分だった。だけど、お金を稼ぐことは出来なくても、働くことは出来るのではないか...。これまでの人生でボランティアに参加したことなど無かったけれど、何故だかこの日、私は途方もなくこの「ボランティア」の文字に心惹かれ、道が開けたような、晴れ晴れしい気持ちになるのを感じていた。自分の価値を底上げしたかったからか、それとも人との比較によって沸き起こってしまったさもしい気持ちをかき消したかったのか、どちらか分からないけれど、私はこうしてその日、天啓を受けたかのごとく、すぐにコミュニティセンターのボランティアについて問い合わせをするに至ったのだった。

 それは週に二度ほど出入りしているコミュニティセンターだった。家から車で南へ十分ほどの距離にあるそこへ、私は毎週、恵まれない人に配給される様々な物資を取りに足繁く通っていた。また、金曜日には子供のために無料で児童館のようなものが開放されるので、そこも利用しており、そのうちにスタッフとはいつの間にか顔見知りになって、あるときはそのスタッフから息子に大量の古くなった衣類をプレゼントされるということもあり、かなり居心地の良いコミュニティセンターだったのである。
 
「ボランティアに興味があります」
 私はさっそく物資を受け取りに行った帰り、顔見知りのスタッフに問い合わせてみた。するとすぐに近くに居たシンシアという黒人女性を紹介され、シンシアからウェブ上でエントリーするようにと教えられた。
 どんなボランティアをするのか分からなかったけれど、私はおそらくこのコミュニティセンターで行われるシニア向けの「炊き出し」の配膳や調理のボランティアだろうと想像し、その日中にウェブ上でのエントリーを完了させた。シンシアや顔見知りのスタッフには「どうにか社会にコミットしたい」やら「今の自分を変えたい」などと熱いことを言ってボランティアに対する熱意も口頭で伝えた。あとはシンシアからの連絡を待つだけである。

 ところが、エントリーしたものの、待てど暮らせどシンシアからは一向に返事が来ることがなかった。二週間ほど待った後、しびれを切らしてシンシアに再度問い合わせると、シンシアは「モリーという女性から連絡があるはずだ」と言う。それからさらに一週間、私は我慢強くモリーからの連絡を待ったが、やはりモリーからも連絡はないのである。シンシアにもう一度問い合わせると、今度は「ビッキーから連絡がある」と言う。だけど、やっぱりビッキーからは一向に連絡は来ない。
 
 ああ、そうだ...これがアメリカ式仕事術なのだ...。私はここで初めて、アパートのオーナーがこの夏、いつまでたってもアパートのインターフォンの設定をしてくれなかったことを思い出していた。彼女はいつも「今日の午後する」と言って、したためしがなかった(結局、インターフォンの設定は二か月以上もかかった)。シンシアだって「今日の午後、確認してメールする」と言って、一度もメールをくれたことがなかった。保険会社への電話も全然つながらないとぼやいていた友達も居た。「フードシェア」というシステムを利用するために担当者へメールを送った時も、四度目のメールでやっと返事が来たことがあった。日本では考えられないが、とにかく、アメリカでは何度も何度も根気強く問い合わせをしなければ、物事が動かないことが頻繁にあったのである。
 そうして、「ボランティアをしよう」と思いついたあの11月の日から、無駄にひと月が経とうとしていた。12月に入り、もしかして自分はボランティアも出来ない身分だったのか?と、底知れない疑心暗鬼と自信喪失に日々さいなまれるようになっていた頃である。さすがに「何度もボランティアの問い合わせをするアジア人」と認識されたのか、シンシアでもモリーでもビッキーでもないスタッフからやっと、「あなたのペーパーワーク、通過しました」とのメールが私のもとに届けられたのだった。

「来週の木曜日から、フードパントリーで一緒に働きましょう」
 メールにはそう書かれてあった。
 "フードパントリー"
 それは、私にはとても馴染みのある言葉だった。というのも、「フードパントリー」こそが、火曜日の夜に私自身が足繁く通っている「物資配給」の制度の正式名称だったからである。とすると、それは私が思い描いていたような、老人に食事を配膳したり調理したりする「給食のおばさん」のような仕事ではないということを意味していた。むしろ、「フードパントリー」のスタッフを見ていると、食品に関する語彙力や、受給者との高いコミュニケーションスキルが必要とされるようなちょっと難しそうな仕事だった。

「ボランティアというのは、フードパントリーのことですか?」
 とんちんかんなメールを返すと、すぐに「イエス」、と困惑気味の返事が返ってきた。確かに、よくよく応募したページを見ると、ボランティアはフードパントリーのスタッフと書かれてある。だけど、私はもともと火曜日の需給日に毎週出没しているフードパントリーのヘビーユーザーである。となると、図らずも私は、火曜日には物資を受け取りに行くパントリーユーザーであり、翻って木曜日には、物資を分け与えるスタッフ側になる、という訳の分からないことが起るわけである。

 白井君はボランティアが決まったと報告する私に、「良かったね」と顔をほころばせながら、だけど不思議そうにこう尋ねた。
「それがずっとやりたかった仕事なんだね?」
 そう聞かれると、この一か月、「アメリカ人は仕事が遅い!」とぼやきながら、何度も何度もコミュニティセンターのスタッフにボランティアの問い合わせをしていた自分の姿が蘇ってくる。あれだけアメリカ人をせっついて手に入れた仕事である。今更、「思っていた給食のおばさんみたいな仕事じゃなかったので辞めます」とは言えるはずはないのである...。

 かくして私は、火曜日には、恵まれない"フードパントリーユーザー"として物資を受け取りに行き、木曜日には物資の受け渡し側に回ってスタッフとして奉仕するという二足の草鞋を履きこなしながら、生まれて初めて「ボランティア」という職を、ここマディソンで手に入れたのだった。

11月24日。
 カンバセーションパートナーになったアメリカ人のニコールには、クロエという二歳になる娘が居た。ニコールは父親の仕事の関係で幼少期を日本で過ごした経験があり、娘のクロエがいつも大事そうに持っているトトロのぬいぐるみを使って「オハヨウゴザマス」と日本語を交えた歌を歌う親日家だった。そんなニコールと私は少し前にひょんなことから知り合いになったのだが、ちょうどクロエが私の息子と同じくらいの月齢であることから、私の方からニコールにカンバセーションパートナーになってくれないか?と、持ち掛けたのが私達の関係の始まりだった。英語は使わないとすぐに話せなくなってしまう。だけどニコールなら、うちで子供同士を遊ばせながらフレキシブルにパートナーを組むことが出来る。ニコールは仕事をしているのでその合間、月に一、二回ほどで良い。出会ってすぐにもかかわらず私がそう提案すると、彼女はすぐに快く引き受けてくれ、私は新しい形でニコールとカンバセーションパートナーを組むことになったのである。
 そうしてパートナーとなったニコールは、実はキリスト教の教会で週に何度かバイブルのクラスを担当している聖職者だった。旦那さんも同じように教会で働いているという彼女は、大学時代に社会正義という分野を専攻していたため、アメリカが抱える社会問題や差別、貧困などの問題にとても詳しく精通しており、彼女と話しをするのはとても刺激的だったのだが、さらに私の興味を引いたのが、彼女の娘のクロエはどこからどう見ても黒人だということだった。ニコールが白人なので、私はずっとクロエの父親が黒人なのだろうと思っていたのだが、ある日、会話の中でニコールが「この子の産みの母親が...」と言ったことで、私はようやくクロエが養子(アダプティッド・チャイルド)であることを理解したのだった。

 日本では出会うことはなかったが、養子(しかも肌の色が違う子供)を持つ人に出会うのは語学学校のベス先生に続き、ニコールが二人目だった。ニコールの場合は、自分が子供を産むことができないと分かった時点で養子を迎え入れることを考えていたそうだが、数ある養子縁組のタイプの中でもニコールの場合は、違う州に住む白人の母親から依頼を受けて引き取ったのだと彼女は教えてくれた(ちなみに、クロエが黒人なのは父親が白人と黒人のハーフだからだそうだ)。
 ニコールは、自分とクロエの産みの母親との関係は"非常にオープン"なのだと言いながら、近年、アメリカでかなり深刻な問題になっているオピオイドという麻薬系鎮痛剤の依存症について知っているか?と私に尋ねた。もちろん私はそんな薬物依存症については知らなかったが、このオピオイドは去年トランプ大統領が非常事態宣言を行うほど、アメリカでは社会問題になっていると、ニコールは丁寧に教えてくれ、クロエの母親も同様にオピオイド依存症患者であり、子供を育てることが出来ない状態だったのだと私に言った。
 ところで、こうした薬物依存症の母親にはすぐに行政が介入することがあった。だからクロエは生まれてすぐに、行政の手によって母方の親戚に養子に出されることになったのだという。しかし、このように半ば強制的に親戚の家に養子に出されるとなると、ことは一筋縄ではいかないことがあり、クロエの母親もまたこのような形でわが子が親戚の手に渡ることを潔しとしなかった。クロエの母親は、なんらかの理由で、クロエを親戚の家に養子に出したくはなかったのである。そうなると母親が取った最後の手段は、子供を親戚に取り上げられる前に、自ら養子に出してしまうという方法であり、クロエの母親は膨大な登録リストの中からアダプト先としてニコール夫婦を選び出し、ある日、ニコールのもとにエージェントから連絡が入ったのだった。
「もちろん、そのことに関しては、私たち夫婦は何度も話し合ったわ」
 数ある養子縁組のシステムの中で、選出されて子供を引き取ることになったニコール夫婦も、もともと養子が欲しかったとはいえ考えなくてはいけないことが山ほどあったとニコールは語った。だいたいクロエはクォーターとはいえ、見るからに黒人だった。社会正義について人一倍詳しいニコールである。「クロエのことは心配していない」と言いながらも、彼女はアメリカにおける社会問題の現実をよく知っていた。悩みながら、だけどニコールは何度も夫と話し合った末、ついにクロエをアダプトすることにしたのである。

 私よりもいくらか若いニコールのこのいささかシリアスな人生の選択の話を聞きながら、私は即座に「すごいね」などと感想を述べることが出来なかった。もちろん養子を持つことのアメリカでのシステムはいろんな意味で素晴らしいことだと思いつつ、馴染がない分、自分の中ですんなり飲み下せるテーマではなかったし、自分が養子を持てる立場だったとしてそうした決断を下せるのかどうか自信がなかったのである。

 だけどそんなニコールとシリアスなカンバセーションをしながら、私はふと、ある母親の事を思い出していた。
その母親とは週に一度行くコミュニティセンターで出会ったのだが、ちょっとしたきっかけで話しをしていた時のことだった。彼女はとても屈託なくフレンドリーで、私たちは初めて話をするにも関わらず楽しく歓談していたが、実はそんな彼女にはアリスという重度の障がいを持つ娘が居た。しかも彼女の携帯電話にはひっきりなしにこのアリスに関するセラピーから電話がかかってくるので、私たちは何度も会話を中断しなくてはならないほどだった。だけどそんな切れ切れの会話を続けていた時、その母親は突然何でもないことのように、ふいに私に「養子を持ちたい」と話し出したのである。

 私が驚いたのは言うまでもなかった。三歳になるアリスはいまだに一人で歩くこともできずに私達の足元に寝そべっていたし、そうでなくてもアリスの上にはもう一人息子が居て、彼女は既に二児の母親だったのである。ただでさえ養子を貰うのには莫大な費用がかかるし、二人も子供が居て、しかも一人は障がいを抱えているというのに、なぜ三人目の養子を欲しいと思うのだろうか。私は咄嗟に「へぇ」と分かったように頷いてみせたものの、このときほどこのアリスの母親に驚き、共感出来なかったことはなかったのである。

 だけど今、こうして身近にニコールの話を聞いていると、私はもしかすると彼女たちの「子供を育てる」という概念そのものが、私が思い描いていたものとで大きく異なるのかもしれない、と思うようになっていた。
 アメリカでは子供は十八歳を過ぎると家を出るのが慣例である。もう一人前なのだから自分ことは自分でするように育てられ、子供たちは社会に解き放たれる。日本のように家や血縁関係、あるいは同居などのしがらみが少ないので、彼らは「跡継ぎ」という形で養子を望むことはほとんどなかった(むしろ彼らは「跡継ぎ」という日本の概念に驚いて見せたくらいである)。
 だから、育てられる人、育てられない人がいる多様性の中で、彼らはただ個人のエゴが一切介入しない、全く別の次元で「子供を社会の中に送り出す手伝い」という子育てに従事しているように思えたのである。

「たいてい養子をもらう家庭は裕福だから、そう言う意味でも親元を離れて養子に出されることは良いことだと思うよ」
アメリカ人のトニはそう私に言ったことがあった。
 もちろん、そうなるまでにはニコールのようにたくさん悩みながら取り組む人も居る。だけどそれは今、「社会奉仕」とか「慈善活動」とか、そういう薄っぺらい言葉に変えるにはあまりにも大きな愛の活動に私には感じられた。そしてだからこそ、ニコールやアリスの母親のように、並々ならぬ決意で生まれ落ちた命を引き受けようとする人達の居る世界と居ない世界の在り方について、強く考えさせられたのである。

血を売りたい

11月4日
 それは二週間ほど前の出来事だった。ダウンタウンでハロウィンのイベントがあったので、そのついでに語学学校へ遊びに行った時のことである。
私はこの頃ずっと気になっていたアメリカ人の血液型に対する無頓着ぶりを引き合いに、フロントデスクで働くタイ人のプンとお喋りに興じていた。日本では血液型を知っていることは当たり前のことだったし、それによって性格診断を信じている人が多かったが、アメリカではほとんどの人が自分の血液型を知らなかったからである。だから、この日もプンが自分の血液型を「忘れた」と言い、アメリカ人のマイケル先生も「知らない」と答える度に笑い、スタッフのエミリーが、「自分はO型だったはずだ」と答えると驚いたりしていた。(ただ、エミリーは日本で働いたことがあり、その時に日本の書類に記載する必要があったために、アマゾンの血液型判定キットを10ドルで購入して自分で調べたのだという。)
だから、アメリカ人のほとんどが自身の血液型を把握していないことが興味深かったし、実際、私もマディソン生まれの息子の血液型を未だに知らずにいた。子供が生まれた時に血液型を聞くと、ドクターからは「輸血が必要なときは、その直前に血液型を調べるから心配しなくていいのよ」と言われ、「それ以外に、今この子の血液型を知りたい特別な理由があるのか?」と不思議そうに聞かれたので、そう言われるとさすがに「性格診断のため」と答える勇気がなく、私はそのままずるずると子供の血液型を知らずにこの二年近くを過ごしていたのだった。
 
そんな話で盛り上がっていた時のことである。たまたまアハメが通りかかり(アハメには本当に良く会う)、何を盛り上がっているのだ?と聞くので、私はさっそく「自分の血液型を知っているか?」とアハメにも尋ねてみた。すると、意外にもアハメは自信たっぷりに「もちろん、僕はO型だよ」と即答して周囲を驚かせた。
 「なんで知ってるの?」
 私が尋ねると、アハメは「大事だから」と当たり前のように答える。
 「もしもの時のために知っておくのはとても大切なことじゃないの?」
そう至極真っ当なことを言うと、「僕はよく献血に行くんだ。プラズマとかね」とアハメは言った。
 「プラズマ...」
私はアハメが何を言ったのか分からなかったが、エミリーは「それ、時間かかるやつでしょ?」と聞く。するとアハメは頷きながら、「だけどお金がもらえるし、人の役に立つし...」と続けたのだった。
 「お金?」
 私が叫ぶと、二人はそんな私を振り返りながら、「献血するとお金がもらえるんだよ」とさらに私を驚かせ、アハメは「でも僕はお金はもらわないよ!人の役に立ちたいだけだから」と、うそぶいたのだった。
 
 プラズマ、献血、お金...。
私はその日、家に飛んで帰ると、さっそくこの三つのキーワードをもとに、アメリカでは今も民間血液銀行(プラズマセンター)で成分献血をすることで20ドルから40ドルの現金を受け取ることが出来、しかもその成分献血は普通の献血とは違いプラズマという血漿を採取して血液を戻すため、二日ほどで再び献血をすることが可能である、という衝撃の事実を知ることになったのだった。報酬は地域によって異なるが、ウィスコンシン州は40ドルとも書かれている。一回40ドルで週二回血を抜くことが出来るとすれば、週に80ドル。ともすれば、一か月で320ドルの副収入を得ることが出来る計算になる...。
はやる気持ちを抑えながら、気が付くと、私は家から一番近いマディソンのプラズマセンターに電話をかけていた。電話口では聞き取りにくい英語を話す男の人が、「プラズマセンターでの献血には予約は必要ないこと」、「初回は検査をするので二時間ほど時間がかかること」などを手短に教えてくれたので、私はドキドキしながら、「必要なものはありますか?」と、聞いた。
すると、そんな私に対し、電話口の男の人は快活にこう答えたのだった。
「免許証を持って来ればいいよ!」

これが二週間前の出来事である。
かくして、この日から私の売血へ向けての、自動車免許取得の猛勉強が幕を開け、その二週間後の金曜日に筆記試験をパスして仮免許を取得するに至ったのだから、私のこの売血にかける思いは並々ならぬものがあったとしか言いようがない。そもそも、こんなに早くに免許の勉強をする予定ではなかった。白井君に何度せっつかれても、国際免許証の有効期限が一年間あるのを良いことに、春になってから始めようなどと呑気なことを考えていた私である。
だけど月に320ドルの副収入が夢物語ではないとなると、話は違うのである。この二週間、私は毎晩、売血が出来た暁には電車が好きな息子にブリオのオモチャを買ってあげるのだと白井君に熱く語り、何か欲しいものがあると、頭をよぎるのは「売血」の二文字だった。アハメではないけれど、「人の役に立ってお金がもらえる」のだったら、これがよく聞く"ウィンウィン"の関係ではないのか。アメリカンドリームではないだろうか...。

そんなことを考えながら久しぶりに驚異的に勉強をし、晴れて仮免許を取得した次の日のことである。
土曜日、そのピカピカの仮免許をひっさげて意気揚々と訪れたプラズマセンターで、私はそもそも自分がソーシャルセキュリティ―ナンバーを持っていないので、『そのナンバーの記載のない免許証を持参しても意味がない』という根本的な事実を知るに至った。とどのつまり、私という人間はそもそも「就労できないビザの関係上、売血もできない身分」だということを、今更ながらこのプラズマセンターで知ったというわけである。
ものの三分で門前払いを食らいながら、私は出来たばかりの仮免許を持ったまま、ショックで呆然とせずにはいられなかった。思い描いていた夢の売血業への道が閉ざされたという現実を、しばらく受け入れられずにいたのだった。

10月20日
齢七十を過ぎた今でも、デービッド・ボードウェルは現役さながら、世界中で活躍を続ける映画理論家だった。長年ウィスコンシン大学で教鞭を取ってきた彼は、コミュニケーションアーツという学部の映画学の分野に大きく貢献した人物でもあり、現在もウィスコンシン大学の映画学の授業では、ボードウェルの本が教科書として扱われることがよくあった。去年までコミュニケーションアーツで学部長を務め、前回の滞在で私に聴講の許しをくれていたカプレイ教授もまた、かつてはそのボードウェルの生徒だった人物である。
だから、私がいつもマディソンに戻ってきて良かったと思うことは、このウィスコンシン大学の「映画を学ぶ」ことへの素晴らしい環境だった。カプレイ教授はもう退官していたけれど、カプレイ教授の紹介で私は相変わらず、週に二日、九月から始まった映画学の講義へ聴講に出かけていたし、公共図書館にあるお宝のような映画のDVDを借りてきて観ることにも日々忙しかった。
大学内にある映画館ではやっぱり毎週あらゆる映画が無料上映されていて、中には全米公開直前のものや公開後一週間しか経っていないような新作映画まで、誰でも無料で観ることが出来た。日本だと単館の小さな映画館での上映を待つか、DVDを買って観るしかない、あるいは観ること自体が不可能なものなども、ここマディソンに居る限りいくらでも無料で観る機会があったので、映画が好きな私にとって、マディソンはこの上ないパラダイスだったのである。

だけどその一方で、現在子育て中の身としては、そんな大好きな映画に費やす時間を捻出することが大変な仕事であるのも事実だった。講義に行くために子供を預けるとなると、朝からそのための準備に神経をとがらせることもあり、授業では毎週課題映画があるので、それを図書館で事前に借りてきて夜な夜な家で鑑賞することもなかなかハードなことだった。
秋から新しく聴講に行くようになった講義は、ベン・シンガー教授というカプレイ教授よりはいくらか若い、素晴らしい先生だったのだが、カプレイ教授の時のような小規模な授業ではなかったので、私は日々の疲れとあいまって、なんとなくこの授業への不満を抱えてしまうことも少なくなかった。その上幼い息子は、預ける度に大泣きして私の首にしがみついてくるので、その姿を毎週見るのも辛く、「ここまで大変な思いをして映画を学ぶ必要があるのだろうか?」という問いがゆっくりと頭をもたげてくることがあり、そうなると、映画を観ること自体が苦しいという思いに変わって、ついにはしばらく映画を観たくもない、授業も行きたくないという気になり、子供を預けるところまで行ったのにバスに乗らなかったということが一度だけ起こったのだった。

「せっかく聴講の機会を得た授業をむざむざ棒に振ってしまい、いい聴講生ではなくなってしまったかもしれない...」一度の挫折とはいえ、そんな風なことがあると、あとはもうなんだかやさぐれながら九月が終わり、悶々としながら日々を送っていたのだが、そんな十月初旬のある日、私は久しぶりにお世話になったカプレイ教授から、一通のメールを受け取ったのだった。

それは、その次の週に大学で行われるシンポジウムに参加するので、その日に時間があればお茶でも飲まないか?というカプレイ教授からの嬉しいお誘いのメールだった。もちろん私は小躍りしながら指定された日にコーヒーショップへと出向いたが、嬉しいことはそれだけにとどまらなかった。というのも、カプレイ教授はそうして一年三か月ぶりに再会した私に会うなり、「コミュニケーションアーツの仲間で月に二、三度行われる映画のシンポジウムに参加したらいい」という、素敵な提案をしてくれたからである。
「確か、来週はデービッド・ボードウェルの回だったはずだよ!」
そう言うと、カプレイ教授はまた、そのシンポジウムのメーリングリストに私を加えてもいいとまで言ってくれたので、私はすっかり有頂天になり、次の週、またいそいそとウィスコンシン大学のコミュニケーションアーツの学部へと赴くと、そこで生まれて初めて、この世界的に有名な映画理論家であるデービッド・ボードウェルの講義を聞くという機会を得たのだった。

素晴らしい講義だった。『ジオメトリーとしての映画』と表されたそれは、多角的な語り口で書かれたフォークナーなどの「文学作品」と照らし合わせ、そうした文学を原作として作られた映画が、どのような表現方法で多角的な構造として表現されているか、ということを目まぐるしく検証していくとてもスリリングな内容であり、またその面白さもさることながら、私は初めて体験するボードウェルの、その膨大な知識量と発想力、それからあふれ出るエネルギーにただただ圧倒され続けていたからである。
いったい、この人のこのパワーはどこから来るのだろうか?
「ボードウェルは退官して何年も経つのに、本を出版し続けているんだよ」そうカプレイ教授は言ったが、その言葉の通り、ボードウェルはとてつもなく精力的だった。彼はあらゆる映画、あらゆる文学を網羅していたし、その体中からほとばしる映画への情熱は熱く、若々しく、そして眩しかったので、私はその眩しい光に照らされて、思わず自分の存在の小ささが浮き彫りになるような感覚を覚えずにはいられなかった。会場に居る誰もが、ボードウェルの発表に関心を寄せているのが分かったし、それほどまでに、ボードウェルは圧倒的な知的存在感を放っていたのである。

「ボードウェルはいつも新しいものを次々に発表するんだよ」
講義が終わり、カプレイ教授は無邪気にそう言ったが、私はなんだか分からない焦燥感に駆られながら、先月末に自分が一度でも「映画を学ぶ」ことへの意欲を失っていたことを恥じ、反省せずにはいられなかった。
「面白かったです。でも、私はもっともっと勉強しないといけないと思いました...」
私がそう言うと、カプレイ教授は面白そうに私を振り返って笑った。
会場の前の方では、せわしなくボードウェルが知人たちと盛り上がっているのが見えた。とても楽しそうだった。だけどそんな心地よい興奮の残る会場をあとにしながら、私はこの日、自分の中で消えかかっていた映画への情熱が再び、静かに舞い戻ってくるのを感じていたのだった。

10月8日 
「あれ!来たんだね」
アハメが私を呼びとめた。ダリア・ムガヘッドというイスラム教徒の女性研究者による無料講演会の会場でのことである。ダリア・ムガヘッドは、ISPUというワシントンにある研究機構の研究者で、中東のイスラム教世界やアメリカにおけるイスラム教徒(アメリカンムスリム)などを中心に幅広いリサーチをし、オバマ大統領時には大統領のアドバイザーを務めたり、講義無料配信サイトTEDで講演したりと、近年目覚ましい活躍をしている女性著名人である。ウィスコンシン大学では時々こうした面白そうな無料の講義が行われるのだが、私はひょんなことからこのイスラム社会についての講義に興味を惹かれ、先週末の日曜日、午後に一人でその講義の行われる会場に来ていたのである。
中東社会やイスラム教に詳しいわけではなく、ただ面白そうだし英語の勉強になると思って紛れ込んだのだが、やはり会場には大勢のアラブ人と少しの白人がいるだけで、アジア人はほとんど来ていなかった。なんとなく「部外者感」のある中で、ヒジャブをまとった美しいアラブ人女性たちに促されるままに受付を済ませると、思いがけずコーランに関する分厚い本を無料でもらい、それからクッキーやらコーヒーやらのサービスを受けたので、私はなんだかすっかり嬉しくなって会場の中をウキウキと歩き回っていたのだが、そんな時にアハメが私を呼びとめたのである。
「一人で来たの?」とアハメが言うので、私はそうだと頷くと、アハメは従兄弟と来たのだと言って、ちらりと後ろを振り返った。見ると、アハメの斜め後ろにとびきり可愛い顔の男の子がニコニコとこちらを見て座っていた。アハメが彼の隣に座ったらいい、と勧めてくれたので、言われるままに私はアハメの真後ろの、その美しい男の子の隣に腰を据えた。会場の前から三番目のど真ん中である。しかも後から気付いたが、最前列に座るダリア・ムガヘッドの父親の二つ後ろの席だった。その上、アハメはちょうどその父親と話しに来ていたダリア・ムガヘッドを指さして「彼女だよ」と言って振り返ると、私をそのままダリア・ムガヘッドに紹介し、講義前の忙しい彼女とのツーショット写真まで撮ってくれたのだった。
私は舞い上がってしまい「ダリア・ムガヘッドと知り合いなの?」と勢いよくアハメに聞いたが、アハメは「知らない」とあっさりと答えた。そして「彼女はとても有名な人なんだよ。僕はもう何度も彼女の講義には行っているよ」と得意気に言うと、「あ、彼女の父親とは知り合いだよ」と付け加えたので、私は少しだけ安心した。なんでも、ダリア・ムガヘッドの父親はウィスコンシン大学の教授だそうで、アハメはマディソンにあるモスクで彼と知り合いになったのだと言う。それから講義が始まると、アハメはすぐさま自身の携帯電話を取り出し、そのまま講義を録音し始め、ときおり映し出されるパネルの写真を熱心に撮り始めたのだから、私はその勤勉ぶりにも驚かされてしまった。ただでさえアハメは宿題に追われる学生生活を送っているのに、休日にわざわざ従兄弟を連れて講演会に来て、記録までしているのである。
「分からないことがあれば、なんでも従兄弟に聞いたらいい」ともアハメは言ってくれたので、私はダリア・ムガヘッドが登場する前に壇上に上がった人のことについて、何度か隣に座るアハメの従兄弟に質問したのだが、彼はそんな私の質問にすべて、申し訳なさそうにはにかみながら「知らない」と答えると、とびきりチャーミングに笑った。

そうして始まった講義は、基本的にはアメリカに住むイスラム教徒たちに関する彼女が行った膨大なリサーチからはじき出されたアメリカンムスリムへの「差別」や「偏見」に対する訴えのようなものがメインだった。私はこの講義で初めて「イスラモフォビア」という言葉を知ったのだが、それはイスラム教徒が危険だと思い込んだ「イスラム恐怖症」のことを意味し、そうしたイスラモフォビアが暴力を産むのだとダリア・ムガヘッドは強調した。
「イスラム教徒を名乗ってテロを起こした人を本当にイスラム教徒だったと思うか?」あるいは「キリスト教徒を名乗ってテロを起こした人を本当にキリスト教徒だと思うか?」という二つのアンケート調査では、圧倒的にイスラム教徒を名乗って起こしたテロを「本当にイスラム教徒だと思う」と答えた人が多いという結果もパネルに映し出されたし、ヒジャブを付ける女性への偏見に対して、ムスリム女性たちの意識調査のデータをもとに、彼女たちは決して強制されてヒジャブを付けているわけではなく、信仰心とアイデンティティからヒジャブを付けるのだと、自身のヒジャブを手で整えながらダリア・ムガヘッドは結論付けた。
「イスラム教徒たちは決して危険ではない」そんな当たり前のようなことを、さまざまなデータや調査、彼らを取り巻く環境のリサーチなどを通じて言葉に置き換えて行くダリア・ムガヘッドをアハメの背中越しに見ながら、私は昔、「マディソンではそんなに差別を受けないけれど、フロリダに行ったときはすごく差別をされたわよ」とサウジアラビア人のダラルが言っていたのを思い出していた。

ダリア・ムガヘッドの白熱した講義が終わり、その後は質疑応答の時間に移った。可愛い中学生くらいのアラブ人の男の子がダリア・ムガヘッドに「神様は男の人ですか?女の人ですか?」と聞く微笑ましいシーンもあったのだが、私はそろそろ帰らなくてはいけなかったのでアハメとその従兄弟に挨拶をすると、そっと会場を後にした。
会場の外に出ると、エントランスには色とりどりのヒジャブをつけた美しい女性たちが輪になってお喋りをしていた。そんな華やかな女性たちを追い越しながら、ふと、私はアハメももしかしたら差別や偏見にさらされて、祖国では感じることのない嫌な思いをしたことがあるのかもしれないのだな、と考えていた。ダイヤモンドと金の会社を経営する家の子供であり、何不自由なく天真爛漫に育った大金持ちのアハメだが、祖国を出さえしなければ味わうことのなかった思いもたくさん経験しているのかもしれない...。いつも優しくてご機嫌なアハメのことを思いながら、私はこの日、人一倍熱心に講義に耳を傾けているアハメの真面目な後ろ姿が、目に焼き付いて離れなかったのだった。

Amazonが殺した

9月14日 
母になったパニカは、日がな一日、家に子供とこもりっきりのようだった。パニカのアパートは私のアパートの三軒ほど隣りだったので、パニカは私がマディソンに戻ってから、よく遊びに来いと誘ってくれた。私の息子が遊びに行けば、パニカの娘のリアーナが喜ぶのだと言う。そして実際、私もパニカの家に出向くのはたいした仕事ではなかったので、私たちはよくパニカの家で子供たちを遊ばせていた。それにパニカの家には膨大な数のオモチャがあったので、私の息子もそこで遊べるのを楽しみにしていたのである。
だけどたくさんの高そうなオモチャに囲まれながら、最初に再会した時、パニカは「毎日とくに何もしていない」と眠たそうに私に語った。毎日リアーナとオモチャで遊びながら、パニカはトニが夕方に会社から戻ってくるのを待つ毎日なのだと言った。
「このマンションのエレベーター、止まってたけど知ってる?」と私が聞いたときも、パニカは「知らない」と答えた。一日中外に出ないので、アパートのエレベーターにすらパニカは乗らないのである。買い物はトニが帰ってきたら車で行ってくれるし、週末になれば家族でやれ湖だの公園だのに出かけて、それをSNSにいつもアップするのがパニカの楽しみの一つだった。そうでなくてもトニは高給取りである。パニカは家で一人、リアーナを育てて時々家庭菜園をしていれば何もする必要はなかった。トニと三人で穏やかな日々を送りながら、だけどパニカは確実に大きな幸せを手に入れたようだった。

「そういえばベビザラスは潰れたよね?」
オモチャに飛びつく息子を横目で見ながら、あるとき、私はそうパニカに聞いた。するとパニカは「そうね」と答えながら、「そういえば、あともう少しで潰れるおもちゃ屋さんがあるの知ってる?」と逆に私に質問をした。なんでも、その店は今閉店セール中なのだそうだ。それからおもむろに、部屋に置いてあるリアーナの食事用のハイチェアを指さすと、パニカは「これも、もう潰れた他のお店の閉店セールで買ったのよ」と得意気に言った。「何もかもすごく安いのよ」と。
だけど私は、パニカがそのハイチェアを廉価で手に入れたことよりも、マディソン中のおもちゃ屋さんがこの一年三か月で軒並み潰れていることにびっくりしていた。そもそもベビザラスが潰れたことにも人知れずショックを受けていた身である。
「じゃあ、オモチャはどこで買ったらいいの?」
そう叫ぶ私を見ながら、パニカはきょとんとして、大丈夫よ、とばかりにこう言った。
「アマゾン...」

そんなやりとりがあった後のことである。私は家から車で十分ほどの距離にあるウェスト・タウン・モールというショッピングモールに、家族で出かけたことがあった。ウェスト・タウン・モールは、マディソン最大級のショッピングモールで、今は亡きベビザラスも出店していたモールである。特に他に行くところがないので、私は昔から買い物といえばこのウェスト・タウン・モールに来るのが決まりとなっていた。何か買う時はいつもここに来たし、よく人に出くわすこともあった。土日などは特に賑やかなマディソン随一のショッピングモールである。ベビザラスはもう無いけれど、モールの中には他のおもちゃ屋さんもあったし、スーパーも本屋さんもアップル・ストアもある。だから、私たちは久しぶりにこのモールに出かけてみたのである。

ウェスト・タウン・モールに着くと、思った通りベビザラスはなかった。だけど、そこにあったはずのもう一つのおもちゃ屋さんも消えていた。
「確かここがオモチャ屋さんだったような...」
記憶をたどりながらふと振り返ると、シアーズという大手の小売店が不気味に真っ暗なのが私たちの目に飛び込んできた。モールを少し歩くと、今度はいつも甘い匂いがしていたはずのチョコレートの匂いがしてこない。ゴディバがいつまでたっても見えてこないのである。それからゴディバの近くにあったはずのスターバックス母体の紅茶専門店ティバーナも静かに死んでいた。その奥にあったはずのもう一つの大手小売店であるボストンストアズの入り口は、無情にシャッターが下りているのが見える。あったはずのJ.crewやアップル・ストアは泥船となったモールを見限ったのか、すでに撤退したようだった。
私たちはそんなスコスコになったモールをあっという間に通り抜けると、また同じ道を引き返した。よく見るとすれ違う人の量もまばらである。今度はもうはっきりと、私たちはウェスト・タウン・モールに何が起こっているのかを理解することが出来た。開いている店といえばだいたいがセールをしていて、もはや今後どうなるのか予測できそうなものだったからである。そうでなくても、私たちは最近、ダウンタウンの州議事堂の近くにあったオシャレなおもちゃ屋さんが潰れていたことに、ショックを受けたばかりである。
 
「アマゾン...」と、当たり前のように言ったパニカの声が聞こえてくるようだった。そういえば、パニカはいつ遊びに行っても、リビングにあるパソコンでネットショッピングをしていた。リアーナのオモチャだけではない。パニカが開いたままにしていたページには、ワンピースなどの服が見えている時もあった。だからパニカは、一日中家には居たものの、お買い物だけは楽しんでいたのである。
でもそんなショッピングのなんと味気ないことだろう...。私たちは、休日に訪れる場所が消えつつあることの寂しさを感じながら、今まさに巨大な廃墟と化そうとしているウェスト・タウン・モールを後にしたのだった。