イルカ

12月24日
 ここのところ、イルカについて考えている。
 きっかけは、カナダのイルカに関するドキュメンタリーを、友人のアレックスに紹介されて観たことだった。カナダのある入り江に迷い込んだ一匹のイルカを巡り、市民団体と政府による攻防を描いたそのドキュメンタリーは、イルカと言う生き物が知的で友好的、そして感情を持った人間と同じ生き物であるという前提とともに、人間の残忍さや無理解をあぶり出しつつ、最後はイルカの死をまるで家族の死のように悼む人々が流す多量の涙の映像によって美しく締めくくられていた。そんなドキュメンタリーを上映しながら、アレックスは終始映画の中のイルカの可愛さに悶え、人間の残忍さに激怒し、かと思えば、最後はイルカの死に悲しみにくれるという百面相を見せ、私もなんとか彼の手前、最初はカナダの市民団体と政府との攻防に色々と映画への共感を示すことができたが、終盤の重々しいイルカの(人間による)葬式が始まったあたりで、ついに堪えきれずに吹き出したしまったのだった。
 
 一度吹き出してしまうとすぐには止めることが出来ず、私はアレックスの冷ややかな視線を痛いくらいに感じながらも、ただ心の底から「ソーリー」と言いながら、へらへら笑うことしか出来なかった。そうでなくても私は反捕鯨映画『ザ・コーブ』にも爆笑してしまうという非常識で無慈悲な人間だった。ベジタリアンの友人が「動物たちには感情があるんだ」と言えば、またクスクスと笑って友情を失いかけたことも多々あるような薄情な人間である。
 だけど一方のアレックスはというと、"元ベジタリアン"という肩書を持つ、私とは全くの真逆の人間だった。彼は環境問題のために部屋のエアコンは常になるべく使わないよう心掛けていたし、室内温度15度でこの極寒のマディソンの冬を乗り切ることを最終目標としていた(だから、彼の家はいつも寒かった)。お気に入りのクリームにミンクの油が使われていると気付けば「知らなかったんだ...もう二度と買わない...」と言ってしょげた上に、「そのクリームのメーカーを教えて欲しい」と言う非情な私に向かって「教えたら絶対買うだろうから教えない!」と憤り、蚊に刺されても絶対に蚊を殺さないと発言する、そんな心優しい人間だったのである。
 
「ごめんね、私はなんというか...どうしても、動物にシンパシーを感じることが出来ない人間でして...」
 まき散らしてしまった笑いを回収すべく、この気まずい雰囲気をなんとか取り繕おうと私がそう言うと、アレックスはうつむきながら「別にいいよ」と言った。
「君が悪いんじゃない。ただ、君は知らないだけなんだから...」と。

 しかし確かに、部屋には再び気まずい雰囲気が立ち込めていた。自分の薄情さを何とか挽回しようと焦りつつ、だけど同時に私の脳裏には、その重苦しい空気は少し前にも体験したのではないかという既視感がよぎっていた...。そう、確か、少し前にもどこかの飲みの席で、アレックスとこうした問題を巡って、シリアスな雰囲気になったことがあったのである...。

"なぜ、肉を食べてはいけないと思うのか?"
"なぜ、捕鯨してはいけないのか?"
 あの時も私とアレックスは、とあるバーで飲みながらベジタリアンを巡ってそんな風に話し込み、私は初めて、彼から『種差別』という言葉を教えてもらったことがあったのだった

 種差別...それはすなわち、倫理学者ピーター・シンガーによって提唱されたヒト以外の生物への差別を意味する言葉であり、アレックスは「動物だから食べてもいい」という私の血も涙もない意見に対して真向からこの『種差別』という言葉を突きつけて反論したのだった。
 そしてあの時も、アレックスはその後「別にいいよ」と私に言った。
「君は彼らが感情的な生き物だって知らないだけだから」と。
 そして彼はこう続けたのだった。

「捕鯨は伝統だって言う人も居る。だけどその伝統が間違っている時だってある。アフリカでは2000年近くもの間、女性器切除の風習があり、麻酔無しの手術によって感染症や激しい痛みや後遺症、さらには死ぬケースがあった。この非人道的な行為によって実に多くのアフリカ女性が苦しんでいたけれど、それもまた長く行われていた風習であり文化と主張する人達が居た。そして彼らはそれが間違っていると知らなかった。...もちろんアメリカだってそう。少し前まで黒人を殺しても何の問題はなかった。黒人は人間だとみなされていなかった。だけど今、それらが間違っていたのだと世界が気付いた。彼らは知らなかっただけ。そういった認識は時間をかけて、少しずつ変わっていっていくものなんだ」...。

 この日もまた、イルカのドキュメンタリー映像を消す作業をしながら、アレックスは「別にいいよ」と悲しそうに言った。「それでも君をリスペクトしてることに変わりないから」と。
 バツの悪い空気の中で、私はもう笑わなかった。名誉挽回のために何を言ったらいいのかも分からなかったし、これは私にとって再び『種差別』について考えるチャンスかもしれないと思っていた。黒人が人間として扱われていなかった時代についても考えてみた。とすると、いつかイルカの大統領が生まれる日も来るのだろうか...。
 そんなことを考えながら半信半疑、私はこれまでの自分の認識が間違っていたのかもしれないという申し訳なさを感じ始めていた。アレックスは「君はただ、彼らが感情的だって知らないだけだから」と言う。そう、私はもしかすると、アレックスの言うように、まだイルカについて(あるいは動物たちについて)、何も知らないのかもしれない。私はそう思い始めていた。

11月24日
 コロラドなどのいくつかの州を別にすれば、マリファナは今もアメリカの多くの州で使用を禁止されており、ここウィスコンシン州マディソンでも違法ドラッグの一つだった。だけど私の知る限り、アメリカ人の友人の多くがマリファナに関してとてもカジュアルだったし、その使用に難色を示す人でさえも「マリファナは煙草に比べると(中毒性が低いので)さほど危険ではない」と言うのを何度か聞いたことがあった。好きか嫌いかは別として、あるいは違法であるかどうかは別として、「ドラッグを使用したことがあるか?」と質問すると、たいていの友人達は「使用したことがある」と当たり前のように答えたし、夜のバーなどで飲んでいるとふと、どこからともなくマリファナの強い匂いが漂ってくることはマディソンであっても稀なことではなかった。
 だから、私がマリファナやその他のドラッグに興味を持ったのはごく自然な成り行きで、多くの友人達がそんな私に独自のドラッグとの関わりについて語ることにいささかも躊躇することはなく、「マディソンでもどこでも手に入るから、使いたかったら使わせてあげるよ」とのオファーを受けることさえあった。

 中でもテリーという男の子は、ドラッグにちょっと詳しい友人の一人だった。彼はワシントン州に住んでいたことがあり(ワシントン州ではマリファナは合法である)、そのころはほぼ毎日マリファナを眠る前にたしなむのが日課だったそうだが、そんな彼の実姉は昨今全米でブームを巻き起こしつつあるCBDオイルのビジネスに今年になって着手したという筋金入りだった。ちなみに、CBDというのはマリファナの成分に含まれるカンナビジオールという成分のことであり、不眠症や免疫システム、ホルモンバランスを整える効果があることから、2014年にコロラド州がマリファナの合法化に踏み切ったのをきっかけにして注目されるようになり、今ではオイル、コスメ、レストランやカフェのメニューでその名前を頻繁に見かけることがあった。
 だからマリファナには心身ともにリラックスする効果があるのだと言って違法ドラッグに対して肯定的な意見を述べるテリーは、ドラッグが全て危険であるわけではないと、あるときその高い医療的効果について教えてくれたことがあった。とりわけ数年前、テリーはひどいうつ病に悩まされていた時期があり、そんな折に南米のペルーで経験したという強烈な幻覚剤"アワヤスカ"による神秘体験は、その地獄のような日々から彼を救い出し、「これまでのクソみたいな人生を一変させた」のだと彼は語った。
 もちろんこの"アワヤスカ体験"はテリーに限ったことではなく、南米で古代よりシャーマンなどによって使われているアワヤスカをはじめとするさまざまなサイケデリックなドラッグが、その高い医療的効果の側面を期待され、うつ病やてんかんなどに苦しむ人の希望となって、世界中の人々を魅了しているのは有名な話だった。だけどこれまで全くドラッグ文化に精通してこなかった私としては、テリーの言うように、そうしたある種のドラッグを通じてその後心穏やかに、再び自分と世界を愛するようになるというポジティブな逸話などは目から鱗の落ちる話ばかりであって、だから私はこのごろ、いったいドラッグとは何者なのだろうかと考えるようになっていたのだった。

 そんなある日のことだった。
「くそ!あいつらコカインでもやってたんじゃないか?」
と、友人のアレックスが悪態をついたのは、とある飲み会の帰り道でのことだった。
「どうだろう、コカインをやっていたのかな。匂いはしなかったけど...でもやってた可能性はあるな...」
 そう答えたのは、これまたドラッグに少しだけ詳しいイーサンという青年である。イーサンもアレックスも、その日、初めて知り合いになったエドとマノというカップルが、その飲みの席で突如ハイテンションになったことについて話していた。
 エドというのは、かつてホームレスをしていたという壮絶なキャリアを持つ若い男の子で、マノはそんなエドを誇らしげに見つめる一見すると普通の、可愛らしい女の子だった。二人とも最初こそとても好感の持てる若者達だったのだが、夜も更け、お酒が進んでいくうちに、マノはトイレから戻る度にどんどん陽気になり、どちらかというとその陽気さは煩わしさを伴って、時々冗談ながらも挑発的に近距離で汚い言葉を吐いたり、妙な踊りを踊るようになっていった。その一方、エドはマノとは逆で動きが鈍く、ふんぞり返ってよく分からないことを淡々と喋り、一人でくだを巻いてはビールを煽るようになっていたのだった。

 「ドラッグをやったらあんな風になるの?」
 この夜、ハイとダウンになったマノとエドの言動を振り返りながら私がそう尋ねると、イーサンは少しだけ考えて、「人によるけど、その可能性は高いね」と言った。「もちろん、酒に酔っていただけかもしれないけど...」と。
 だけど、アレックスもイーサンも、そして私でさえも、その日のあのカップルの常軌を逸したテンションに心穏やかではなく、アレックスは帰る道すがら、やっぱり「あの子はトイレで薬をやったに違いない」と何度も言った。
 とりわけマノのテンションの高さは、私達のテンションから圧倒的にずれていたし、私も思い返すと何度かマノに至近距離で「ファッキン・ナンバーワン!」と叫ばれることがあった。もちろんマノもエドもいい人で、陽気だった。だけどその笑顔の中にはどこか私達を怯えさせる狂気をはらんでいて、その二人が放つ圧倒的な高揚感は何か別のところで生み出されているもののようだった。
 もちろんそれがドラッグだったのかどうかは、誰にも分からなかった。二人はただ単純に酔っぱらっていただけかもしれなかった。だけど大切なことは、そこに私たちを置き去りにする圧倒的な違和感があったということであり、そしてその違和感こそがアレックスやイーサンに「ドラッグを使用したのではないか?」と言わしめたことだったのである。

 近年、アメリカではゆるやかにドラッグへの認識が変わりつつあるようだった。そしてその流れはここマディソンでも時々感じることが出来た。ネガティブな意見もあれば、ポジティブな意見もあった。テリーのように治療として必要とするケースも数えられないほどあった。CBDブームや合法化へ向けての活動もさかんに行われていたし、治療や神秘体験といったキーワードを通じて、私自身のドラッグへの認識も少なからず日本に居たときに比べると変化したように感じることもよくあった。
 だけどこの日、エドとマノのテンションに違和感を覚えながら、私はこの違和感こそが、ドラッグに注意深くあらねばならない所以なのではないかと思っていた。手放しで得られる高揚感や多幸感に現実の鏡を照らし合わせるとき、私達の中に一抹の不信感が芽生えたのだとしたら、それは決して見過ごしてはいけないものであり、それこそがドラッグの怖さなのだと、改めて私はそう感じていたのだった。

10月12日

「日本はテクノロジーも経済もすごく進んでいる国なのに、どうしてセクシャリティーやマイノリティの対する差別や偏見に関してはこんなにも遅れてるの?」

 アンソニーがそんな風に私に尋ねたのは、とあるバーで気心の知れた人達と飲んでいた時のことだった。日本に精通しているアンソニーは、日本語を織り交ぜながら丁寧に話してくれる優しい人だったけれど、実は彼がこの質問に至る少し前、私達の間にはちょっとした論争めいたことが起っていた。
 事の発端は、一軒前の酒場でアンソニーが日本語のある差別用語を使ったことがきっかけだった。もちろん彼は冗談のつもりだった。アンソニーはそれをとてもカジュアルに笑顔でその場に居た特定の人に向かって使ったのだが、私はたちまち驚いて、制止するかのように彼の腕を掴んでしまったのである。
 腕を掴まれてアンソニーもびっくりしていたが、その場に居た他の人は誰も気にしてはいなかった。アメリカの、アメリカ人ばかりの場所だったのだから、彼らは誰もそんなレアな言葉の意味など分かってはいなかった。言葉は発せられた瞬間に笑いに包まれて掻き消えて行くだけのはずだったのである...。
 だけど私はそれを捨ててはおけなかった。それは、ある人々を指し示す日本の差別用語であり、飲み屋で笑いながら冗談で使える言葉ではなかった。とりわけアンソニーにはたくさんの日本人の友人が居るようだったし、彼はよく日本にも遊びに行く人だったから、私はその場で誰にも聞こえないよう声を潜め、「ノー。絶対に使ってはいけない」とアンソニーに真剣に注意したのだった。

「なんで?」
 アンソニーはすぐにそんな私に明らかに不服な態度を示した。
「それはすごく悪い言葉だから」
 私がそう答えると
「悪い言葉なんかじゃないよ。僕はこの言葉の人達のことを良く知っているし、この言葉で呼ばれる日本の友達も何人もいるけれど、彼らは全然悪い人なんかじゃない。この言葉を使ってはいけないと言うのなら、他にどんな言葉を使えばいいの?」
 と言って食い下がった。そして結局、この問題はその後私とアンソニーの間で、二軒目の酒場まで持ち越しとなったのだった。
 
 私が注意したかったポイントは、その言葉の差別が明らかに残っている今、大人数で集っている場所、あるいは公共の場所でカジュアルに、しかも特定の人を呼ぶ手段として使うことの暴力性と、危険性の高さだった。だけど、ことをややこしくしたのは、私が「使ってはいけない」と禁止をすることによって、アンソニーが私の中に日本人特有の「寝た子を起こすな」的な保守性を見出そうとする点だった。その上つたない英語力とあいまって、私達は話せば話すほどに、何かが食い違っていき、そしてついには、「日本人はどうして大っぴらに下ネタは話すのに、こういう大切な問題を話し合うなと言うのか?」とアンソニーは言い出したのだった。

 それは恐ろしく時間のかかる議論だった。
「とにかくああいう場所で言う言葉ではない」
「あんたは日本の文化、よく知らないから...」
 夜も更け、つい酔っぱらった頭と面倒くささに負け、私がそう言い放ったが最後、アンソニーは声高に「話し合わないから差別や偏見がいつまでもなくならないのだ」と厳しく私を攻撃し、「議論を避ける日本人」というレッテルを貼ろうとした。
「例えば数十年前までは、アメリカでもゲイは差別の対象だった。誰もそれについて口にしたがらなかったし、ゲイだと知られることで暴力さえ受けることが普通にあった。」
 ゲイの問題まで引っ張り出すと、アンソニーは人々がその問題を避けることで偏見というものは助長されるのだと論を展開した。
「だけどアメリカ社会はこの数十年で劇的に変わった」
 アンソニーはそう続けた。
 アメリカも数十年前までは日本と同じように性的マイノリティへの厳しい差別や偏見がはびこっていた。ゲイと名乗ることで殺される危険さえある社会だった。だけどここ数年アメリカ社会は目覚ましく、驚くべき変化を遂げた。なぜか?人々がそれについて話し合ったからだ、と。
 日本のテクノロジーは素晴らしい。経済も、世界的に目を見張るものがある。だけど一方で日本はマイノリティに対する差別や偏見が人々の意識において、あまりにも先進国の中で遅れ過ぎている。何故そういったものがなくならないのか?それは人々がその問題についてあまりにも知らないから。日本人はあまりにも話し合わない。もっとオープンに、もっと深く、カジュアルに彼らについて理解すれば、自分たちと彼らの間に何も違いはないとすぐに気付くはずだ。

「日本人は自分たちが特別だと思ってるでしょ?」
 アンソニーは言った。
「日本人は皆、日本には四季があるって自慢する。津波がある。島国だ。鎖国してたって言う。だけど、僕たちは何も違わない。アメリカだって四季はある。保守的な人はいっぱいいる。誰だって変わるのは怖いし、ずっと戦い続けてきた。たくさん話し合って、気付いていけば人々は変わる。話し合わないから、いつまでたっても何も変わらないんだよ」
そして彼は「日本を愛しているけど、日本人のそういうところにはうんざりする」と締めくくるのだった。

 もちろん、アンソニーが言わんとしていることは理解できたし、異論はなかった。それに、最終的にはアンソニーだって、私が公の場で誰かをその言葉を使って名指しするという行為に難色を示したのだということを深く理解し、反省すらしてくれたが、振り返って見ると結局、私達はこの夜何度も戻るべき地点を見失って、終わらない議論をこねくり回していたようにも思えた。
 私達は二人とも、同じように差別や偏見はいけないことだと分かっていたし、当たり前のように無くなってほしいと願っていたけれど、話せば話すほどにいつまでも、言葉が持つ歴史性や背景、網の目のように張り巡らされたコードやステレオタイプに足を取られてぶつかり合い、やり直さなければならなかった。話し合うべきなのか?言葉を慎むべきなのか?日本人だからなのか?アメリカ人だからなのか?夜のとばりが落ちる中、私はお酒の入った鈍い頭の中で、何度もそのことを考えなければならなかったし、話はいくつにも枝分かれして広がっていき、終着点はいつまでも零れ落ちていくようだった。たくさんの矛盾と恐ろしいくらいの言葉のトリックがあった。話せば話すほどに、問題が増えていると思う瞬間があった。
 だけどこの夜、私はふと、アンソニーから突きつけられたものこそ痛いくらい大切な、現実のややこしさなのではないかとも思い至っていた。無謀なほど愚直な議論の果てではあったけれど、私があの夜見たものは、差別や偏見といった概念そのものではなくて、むしろ二人の人間(とりわけ言葉や文化の違う人間)が理解し、話し合うということの「うっとうしいほどの難しさと大切さ」だったように思ったのだった。

ボミ2

9月19日。
 昨今、近所に住む韓国人のボミとの関係は、すこぶる良好だった。ボミとの昨年から始まった子供を預け合う試みはこの夏の間も変わらず続いていたし、特にルールを決めたわけではないけれど、私達は極力お互いが望む時間を相手のために提供するように心掛けたので、ボミが「この日のこの時間に子供を預かって欲しい」と言えば、私は自分の予定を変更してボミの息子を預かるようにし、ボミもまた私が要求した日時を断ることがなかった。その上ボミと私は週に二度会っていたにもかかわらず、お互いに干渉し合うことも、気を使い合うこともなかったので、彼女は思っていた以上に私にとって今や「付き合いやすい」友人の一人になっていた。
 ボミが自身の自由時間に何をしているのかは知る由もなかったけれど、九月に入ってからの私はというと、再び新しく始まったイタリア映画の授業に週一で通う目的で息子をボミに預けることにしていた。
 授業が終わり、息子を迎えに行くとボミは時々「授業どうだった?」と私に声をかけ、「イタリア映画ってコミュニストのこと勉強するの?」と言っては、「コミュニストとキリスト教は分かり合えないんだよね」と相変わらずの政治談議に持ち込むこともあったが、基本的に私達は玄関口であっさり挨拶を交わし、そのままそそくさと子供を連れて帰る関係だった。

 ボミがあまりにも付き合いやすいので、私はときどき、「それは彼女がキリスト教徒であることと関係があるのだろうか?」と思うことがあった。その他の大勢の韓国人と同様に、ボミは相変わらず首からロザリオをかけ、週末は教会に行き、自分の息子にキリスト教の勉強をさせる熱心なクリスチャンだったし、同じように仲良くしている近所に住む韓国人のセオンもまた、夫婦そろってクリスチャンだったからだ。その上セオンは一緒にファーマーズマーケットに出かけた際、低所得者向けに配られていた自身の金券をその場に居たホームレスの女性に迷わず分け与えるという行動で、私を密かに感動させた人でもあった。だから、こんな風に親しくしている友人たちが自分とは全く違う哲学や信仰の中で生き、それを彼女たちの善良な振る舞いの中に見出す度に、私はその得体のしれない大きな力の存在に思いを馳せることがあった。

「セイコのために聖書を買ったの」
 そうボミから何の前触れもなく真新しい聖書を手渡されたのは、昨今の変わらぬ彼女との良好な関係を改めて喜ばしく思いつつ、こんな風にセオンやボミの持つ信仰心というものに思いを巡らせていた矢先のことだった。
「聖書って、高いのよ。でもまあ、それは気にしないで!」
 ボミは何だかこちらが気にしてしまうようなことを言うと、初心者はとりあえず、ヨハネによる福音書3:16を読むのがいいのだと言って、驚いている私にそのページを開いてみせた。ボミの提案では、私がまず聖書を読み、次の週、彼女がその箇所を解説するのが良いのだそうだ。
「後で読むべき個所を詳しくメールで送るから、質問があればそれも考えおいて」
 そう言うと、ボミは本当にその日の夜には私が読むべき個所をメールで送ってきた。そして次の週に会えば、聖書を読んだかどうかを尋ね、読んでないと正直に答えた私にどう読めばいいのかをまた解説した。さらにその次の週、彼女は私を教会に誘った...。

 いったいボミに何が起こったのか、私はすぐには理解できなかった。だけどその話をセオンにすると、セオンは困ったように笑いながらも「たぶん、ボミはセイコにクリスチャンになって欲しいんだと思う」と(私が薄々感じていたことを)きっぱりと口にした。
「どうやって神を信じるようになったの?」
 ボミによる突然の宗教勧誘に困り果てながら、私はセオンにそう尋ねた。
 セオンは結婚するまではクリスチャンではなかったそうだが、クリスチャンの夫と一緒になった今では、自宅のWi-Fiのパスワードは「ジーザスクライスト」に設定している信者だった。ボミのように家族がもともとクリスチャンという環境で育ったわけではないセオンが、いったい結婚後にどのように信仰心を持てるようになったのか、私はそこに自分の活路を見出そうとしたのである。

 うーん、とセオンは少しだけ考えると、穏やかに、「子供が出来たから...」と笑顔で答えた。
 というのも、結婚してからずっと、実は不妊に悩んでいたという彼女は、アメリカに来てからも誰にもその悩みを打ち明けることが出来なかったのだそうだ。だけど二年ほど前のことだった。夫婦でカリフォルニア旅行に行くことになった際、セオンはその旅行の直前、マディソンで通っていた教会の友人から「カリフォルニアでの子作り」を強く勧められたことがあったのだと言う。それまで誰にも不妊の悩みを語ることのなかったセオンは、この友人からの突然の申し出に驚いたそうだが、さらにその友人は、「セオンが旅行先で子作りをするなら、私はセオンのために祈る」とまで(いささか不躾にも思えるが...)発言したのだという。

「その晩、私達はすごく疲れていて、私も主人も体中がかゆかったの」
 セオンはカリフォルニアでの夜のことをそう回想した。
 その日はとてもじゃないけれど、子作りとしては良いコンディションではなかったのだとセオンは言った。それもセオンだけではなくセオンの夫もなぜかとても体中がかゆかったという。だけどセオンはその時、友人の「セオンのために祈る」という言葉を思い出した。そして謎の発疹に悩まされながらも子作りをする決意をし、そんな奇怪な夜に、彼女は待ち望んでいた子供を授かるという奇跡を体験したのだった。
「で、その発疹はなんだったの?」
 私が尋ねると、セオンは笑いながら「分からない」と言った。「虫さされかもしれない」...。だけど、その"謎の発疹"と"子供を授かった"という二つの忘れがたい経験が"友人がセオンのために神に祈った"というもう一つの宗教的概念と結びついたとき、それらが全て「奇跡体験」という言葉へと昇華され、結果的に彼女の中に生きた信仰心として生まれ変わったのだという。
 なるほど...。
 私は得心した。確かにセオンの話を聞いていると、腑に落ちない点は多かった。だけどそのちぐはぐな何かがすべて「奇跡」という言葉へ回収された時、そこに純粋で無垢な力が生まれるのだろう...。

 だけどいったいこの先、私のような人間が彼女たちのように信仰心を持つことが可能だろうか?私はセオンの話を聞いてもなお、限りなく不安だった。それにボミの期待に応えられなかった場合、私達の関係はどうなってしまうのだろう...。そう思うと私はただ、この秋緩やかに始まろうとしているバイブルスタディの勉強そのものに若干の胸騒ぎを感じずにはいられなかったのである。

8月9日
 
 マディソンからおよそ20キロ、ヴェローナという町にエピックと呼ばれる電子医療記録のソフトウェアを扱う企業が存在する。日本ではあまり知られてないが、1979年に女性のCEOによって誕生したこのエピック社は、現在は9000人の従業員を持ち、年間27億ドルの収益を出すというウィスコンシンが世界に誇る大規模な優良企業である。また、その企業成績もさることながら、会社がヴェローナに保有する広大なキャンパスは、もはやヴェローナの町全体を覆い尽くす存在感で異彩を放っており、その建物群は、かのディズニーランドと同じデザイナーによってデザインされた巨大なテーマ―パークのような様相を呈しているのである。
 だから、タイ人のパニカはよく自己紹介をするときに「夫はエピックで働いています」と言うことを忘れなかった。もちろん彼女はその言葉がどのような効果をもたらすか知っていたし、実際「エピックに勤めている」と聞けば、私だって今では身を乗り出して「あのエピック?」と聞き返すだろうと思うのである。そしてもちろん、エピックは誰もが羨む素晴らしい会社だった。パニカの夫のトニはいつも、会えばエピックの福利厚生の充実ぶりを語ってくれたし、彼の案内で初めてヴェローナにある会社見学に訪れた時は、これが会社なのか?と目を疑うほど、様々な仕掛けのある遊び心満載の建物に時間を忘れてカメラのシャッターを切ったものだった。広すぎて一日では周りきれないエピックの建物には、不思議の国のアリスやハリーポッター、インディージョーンズにオズの魔法使いをコンセプトとして作られたものがあり、アリスの落ちたラビットホールや逆さまに置かれたテーブル、ドラゴンの居る会議室など、数えきれないほどのエンターテイメントに溢れていた。メリーゴーランドや天国の滑り台のあるオフィスで働くなんて、なんて楽しい毎日なんだろう。私がそう言うと、トニは「いろいろ煮詰まったら気分転換になるよね」と言って笑った。

 そんな超有名なエピック社だが、実はもう一つ面白いことに、現在ある一人の日本人画家に会社のスタジオを提供していたのである。それは、日本でもその名を聞けば繊細で緻密かつスケールの大きなその画風を目に浮かべる人も少なくない有名画家、池田学さんだった。彼は2011年に文化庁芸術家在外研修員としてバンクーバーに滞在していたが、その後巡り巡ってウィスコンシン大学マディソン校にあるチェーゼン美術館でスタジオを借りて創作活動を続けていた。だけど昨年、そのチェーゼン美術館での契約期間満了ののちに、このエピック社に声をかけられ、引き続き彼はウィスコンシン州で絵を描き続けていたのである。彼のそのミクロからマクロへ、そしてまたミクロへと豊かに表情を変える独特の画法は世界的にも高く評価されており、医療記録ソフトウェアという一見堅そうに思える会社でありながら、エピックはエンターテイメントや芸術へのサポートの一環としてこの日本人画家、池田学さんと新規の契約を結んでいたのである。

 そんな池田さんに、私が初めて会う機会を得たのは、先月、7月中旬のことだった。内田樹先生の門下生である囲碁棋士・中野康宏九段がウィスコンシン大学を訪れるので、どこか観光にお連れしようと思った際、ウィスコンシンにせっかく来たのだからエピックを楽しんでもらうのが面白いのではないかと思ったことがきっかけだった。私はこれまで直接的に画家・池田学さんとの面識はなかったが、彼の奥さまとは会う機会があったのでさっそくスタジオ見学したい旨をお伝えした。すると忙しいさなかだったにもかかわらず、池田氏はスタジオ見学の時間外での申し出に快く応じてくれるとのこと、さらにはエピックで昼食を共にするという贅沢な提案までしてくれたのだった。

 7月17日。初めてお会いする池田学さんは、意外にも想像していたような気難しい芸術家ではなく、もっと気さくで温厚で、それでいて職人のようなどっしりとした佇まいと謙虚さに溢れるなんとも言えない好人物だった。事前に池田さんの作品を美術館に観に行き、NHKのドキュメンタリーをチェックするなどしてすっかりファンになっていた私は、その気さくさをいいことに、中野九段の付き添いという立場も忘れ、やれ「文化庁の面接の時はスーツを着て行きましたか?」だの「細いペンで描く手法を選んで後悔したことありますか?」だのと矢継ぎ早に池田氏を質問攻めにしてしまい、これまた温厚な中野九段から「池田さんがご飯食べられないじゃないですか」と軽く注意を受ける始末だった。
 だけど、池田さんはそんな私の質問のひとつひとつに信じられないほど丁寧に答えてくれた。私が「何年もかけて一つの作品に関わるとき、辞めたくなることはないですか?」と聞くと、池田氏は「いやあ、思いませんね。描くのは昔から好きですから」と真面目に、そして何でもないように答えた。
「スーツ?文化庁の面接の時、着たっけな?忘れたなあ...」
「影響を受けた画家?...居ませんねぇ...」
 そんなやりとりをしながら、私は自分がインタビュアーには向いていないことを自覚せずにはいられなかった。結局ここぞとばかりに池田氏の作風の特徴である気の遠くなるような緻密な作業のこと、あるいは画家としての人生論のようなものを暴こうと次から次へと質問をしたが、そんなことよりもなによりも、池田氏は中野九段と男親としての子育ての話や、マディソンで食べるべき美味しいものといったありふれた話題に一番嬉々として語っていたからである。

 だけどそんなこともありながら、この訪問は本当に素晴らしいひと時となった。この日、昼食を終えると、中野九段が日本から持参した津軽三味線を披露することになり、私は再び、贅沢な時間を迎えたからである。
 その午後、囲碁プレーヤー中野九段の手さばきによって、津軽三味線の音がなんとも言えない躍動感を持って、エピック傘下の町ヴェローナで響き渡った。ウィスコンシン州では珍しく湿気の多い、ねっとりとした暑い午後だった。だけど池田氏も奥さまも、興味深そうにじっと、食い入るように演奏に耳を傾けていた。考えてみたら、私達は不思議な因果で時を同じくしてウィスコンシン州に集まった日本人達だった。そしてそんな私達の血肉に、あるいはDNAに、この日、中野九段の演奏する津軽三味線の音色は熱く、私たちの心を奥の奥まで震えさせたような気がしたのである。

地獄のプレリム

8月5日
 考えるだけで心の奥が凍りついてしまうような、その名を口にすることが憚られるほどの「世にも恐ろしい心配事」というものがあるとするならば、マディソンに住むある人々にとって、それは間違いなく「プレリム」という名前を持つのではないだろうかと私は思う。
プレリミナリー・イグザム。
 通称プレリムと呼ばれるこのテストは、アメリカの大学の博士課程で広く行われる知力査定テストのことであり、この試験の目指すところは基本的に、「生徒たちの学力レベル維持」というポジティブな姿勢に違いなかった。だけどこの進級試験に落ちた者たちはすべからく退学を余儀なくされるのだから、この「プレリム」という言葉がどれほど恐ろしく、ある人々にとってネガティブな意味を持つかは想像に難くなかった。

 ウィスコンシン大学に戻り、博士課程一年目を終えたわが夫、白井君にもまた例外なくこのプレリムの洗礼の日が迫っていた。試験のやり方は学部によって異なっていたが、白井君の所属する学部の試験では、合格するチャンスが二度設けられていた(つまり、一度このプレリムに落ちても、もう一度再試験を受けることができた)。また、仮に二度目の試験に落ちたとしても、翌年にもう一度受けるという三度目の「本当のラストチャンス」がないこともなかった。だけど、翌年まで持ち越しにするとなれば、学費免除やTA(ティーチング・アシスタント)としての給与受給が一時的に解除されることになるので、私達家族にとって(あるいは多くの貧困学生にとって)、この翌年持ち越しのラストチャンスは、ほとんど無いに等しかった。試験科目は二科目。チャンスは二回。毎年博士課程に在籍する何人かの学生たちがこの試験に落第し、学部を去った。あるいはアメリカを去った。そしてその後の消息は不明だった...。
 だからと言ってはなんだけれど、マディソンでともに生きる白井君はがむしゃらだった。もし試験に落ちれば、この一年が全て水の泡になるのである。退学し、日本に帰り、少なくなってしまった貯金通帳を眺めてため息をつくしかない人生が待っているのである。36歳、志半ば、胸に抱いたその夢がここで潰えるのかどうかが、このプレリムの合否にかかっていたのである。
 セメスターが終わり、夏休みが始まってからも、白井君はもちろん一日も休まず図書館にこもりきりだった。毎日、私にパソコンを隠すように指示を出し、外部との接触を避け、集中力を高めていた。KindleもiPhoneも隠した。土曜日も、日曜日もなかったし、私たちは時差を使ってほんの少しでもお互いの時間を確保できるように、ずいぶん前から夕食を共にすることを辞めた(そうすることで、白井君が子供とご飯を食べている三十分、私は一日のうちで唯一のリフレッシュタイムを持つことが出来たのである)。この一年間、家族で出かける日は数えるほどしかなかった。もちろん、白井君が「勉強以外で出かける」ということもほとんどなかった。

 だけど悲しいかな、そんな努力もむなしく、六月末に実施された第一回目のプレリムに白井君は落第した。試験の数週間前から彼は眠れなくなり、二科目ある試験のうち、一科目を落としてしまったのである。二十五人いる同級生のうち、十人がこの一度目のプレリムの落第者となった。白井君はどうにか採点ミスを探して教授に連絡を取るなどの粘りを見せたが、落第の判定は覆らなかった。再試験は一か月後の七月末である。
 いよいよ家庭内にも不穏な空気が立ち込み、私の心もなまりのように重い日が増えていった。近所に住むローラから「秋にはパンプキン狩りに行こう」と誘われ、パントリーで働くクリスに「冬になったら孫のおさがりの服をまたあげるわよ」と言われる度に、私は自分がまだ秋以降もマディソンに居るのか分からないのだという不安から、うまく返事をすることが出来なかった。スーパーで塩を買おうとしても、「来月に帰国することになれば、無駄になるのではないか?」と思うと悲しくなることがあった。だけどそれ以上に、誰にも「来月帰国するかもしれない」と明るく打ち明けることが出来ないことも辛いことの一つだった。そんな不安すら、口にすることで現実になってしまうかもしれないと思うと、私はただただ怖かったのである。

 だけど泣いても笑っても運命は迫っていた。白井君はまた、二度目の試験に向けがむしゃらに毎日勉強し、さらには水泳を始めるようになった。食後、自宅のプールで十五分ほど泳ぐことで、驚くほど快眠を得られることを発見したのだと、あるとき彼は嬉しそうに言った(そもそも白井君は金づちだった)。だけどこのまま水泳を続ければ、試験前日に眠れないというあの失態を二度と繰り返さないだろうというわけである。病院で睡眠薬まで処方してもらいながら、白井君は来たる日のために毎晩、勉強したあと自宅のプールでせっせと泳いだ。
 試験前日ももちろん、祈るように白井君は泳いだ。夜が更け始めると処方された睡眠薬を服用したが、それだけでは足りず、市販の液体睡眠薬まで飲んだ。神経質に歩き回って、寝る場所を変えた。私にも「早く寝ろ」と指示を出した。そして結局、白井君はまた一睡もしなかった。決戦の朝、白井君は憔悴しきった顔で「不思議と疲れていない」という謎の言葉を言い残すと、私を不安にしたまま二度目の試験へと赴いていった。驚くべきことに、プールも睡眠薬多種服用も、この恐ろしいプレリムのプレッシャーに打ち勝つことが出来なかったのである。

 だけど今、私がこうして「プレリム」について言及し、その気ちがいじみた試験前夜について語ることが出来るのは、今朝がた、見事、白井君がその合格通知を授受したからに他ならなかった。
 張り詰めていた緊張が解けるのを感じながら、私達は再び、この地に留まることが出来る喜びに沸いた。辛かった。だけど報われたのである。そしてふと、毎晩海パンで家の外に飛び出していった白井君の姿を、私はきっと一生忘れないだろうと思うのだった。

6月24日
 6月に入り、マディソンはここのところすっかり9月までの長い夏休みを迎えていた。今月からマディソン中の学校が学期の終わりを迎え、ありとあらゆるプログラムがいったん終了していたので、この頃勉学から解き放たれた子供たちの周りでは、夏休みの予定に母親たちが頭を悩ます光景を見ることが少なくなかった。
 ウィスコンシン大学もまた、例にもれずキャンパス内は閑散とした雰囲気が漂っていたし、隣りに住む中国人学生のユーティンもさっそく国に帰省してしまったので、今月に入ってからは近所で顔を合わせることもなくなっていた。もちろん、私が通っていたイタリア映画の授業もずいぶん前に感動的なフィナーレを迎えて幕を閉じており、毎週通わせていた息子のPlay and Learnという学習プログラムやダンスのプログラム、託児所利用のプログラムも軒並み終了して、私自身もまた、最近では日の長くなったこの美しいマディソンでの日中の過ごし方に少なからずヤキモキする日々を送っていた。

 そんな夏休みの始まりのある日のことである。私はメンディという中国人の主婦友達とピクニックポイントという湖の見えるハイキングコースを散策することになった。
 メンディは中国から来た私よりいくらか若い、子供の居ない主婦ではあったけれど、彼女の旦那さんがウィスコンシン大学の学生をしているということ、またそのために低所得であるという境遇、そして何より彼女自身が文学や映画をこよなく愛する点など、驚くほど共通点が多かったので、私たちはよく出かけてはいろんなことを語り合ういわゆる"ベストフレンド"だった。
そんなメンディは普段、子育て中の私とは違ってコミュニティカレッジに通う学生だったが、今月から夏休みを迎えた彼女もまた、今やこの長い美しい余暇の過ごし方に苦労する同志でもあった。だから、この日もまた、私達は「じゃ、午後にハイキングしよう」と数日前にメールで取り決めると、いつものようにとりとめのないおしゃべりに興じながら、ピクニックポイントの湖の見える岬を目指し、安上がりで贅沢な午後を過ごすことになった。

 ピクニックポイントを散策するのは私にとってこれが三度目だった。
 だけどメンディはピクニックポイントの近くに住んでいたので、「最近はほとんど毎日ここに来てるかも...」と私に言うと、道端に咲いている花を手際よく摘んで私に手渡してくれた。それから彼女は漢方薬に使える薬草を探し出し、道にカメが現れるとその甲羅をつつき、カエルに驚き、鳥を追いかけては無邪気に笑った。そうして自然豊かなハイキングコースを楽しく15分ほど歩きながら、私達はすぐにマディソンに点在する湖の一つであるメンドータ湖の見える開けた岬へとたどり着いたのだった。

 ピクニックポイントはこの湖の見える岬を終着点として折り返すだけの簡単なコースだった。だから岬の先端に入ると、同じように午後のハイキングを楽しんだ人々が足を止め、入れ代わり立ち代わり思い思いに過ごしているのが見えた。もちろん私とメンディもまたこの湖畔にたどり着くと、眼下に広がる湖の静寂の中で言葉少なに腰をかけ、しばらく水面を流れる雲を見つめたり風の音を聴いたりして涼むことになった。
 終着点から湖を挟んだ対岸に、遠く州議事堂やダウンタウンの街並みが浮かんでいるのが見える。ボートが横切り、水面はゆっくりと光り輝いていた。もうずっと知っているつもりの当たり前の絶景ではあったけれど、私は結局いつものようにこの美しさの前にため息を漏らすと、隣に居るメンディに声を潜めて「綺麗だね」と言わずにはいられなかった。メンディはうなずき、そして私達はポツリポツリと会話をしながら、そこにいる大勢と同様に、ただひたすらメンドータ湖の静かな午後を体中で感じる喜びに浸っていたのだった。

「夏休みに入って、結局自分が毎日何もしていないことに驚いた...」
 突然、湖を見ながら、メンディがポツリと言った。少しだけ、自分自身を恥じているような語り方だった。
 というのも、普段はコミュニティカレッジに通っていて課題やテストに忙殺されていたメンディだったが、こうして学校が終わってぽっかりと時間が出来てしまうと、彼女は結局、休みに入ってからの数週間を何もせずに過ごしていたことに気付いてしまったからだと言う。
 そもそもメンディが普段、コミュニティカレッジに通っていた目的はただ一つだった。いつ卒業して就職するか分からない旦那さんを支えるため、自分自身が将来的にアメリカで仕事を見つけ、お金を稼ぎたいという願望があったからである。
 私と同様に旦那さんが学生をしていて先行きが不安定な彼女は、なんとかして自分も少しでも働けるようになりたいと考えていたので、彼女がコミュニティカレッジで勉強しているのは、大好きな文学でも映画学でもなく、就職に使える統計学だった。 
 だけどそのハードな勉学の期間が一旦終わり、こうして夏休みという時間の中でストップしてしまうと、彼女の中に突如、普段は考えないようにしていた漠然とした将来への不安感と焦燥感が現れ、結局毎日何もできなくなってしまったのだと彼女は言った。
 お金もない、働くこともできない。そして学ぶことの出来ない今、家族は遠く、友人は少なく、それでいて美しく平穏な日々だけが身動きもできずにゆっくりと過ぎ去っていくというのは、ある意味では残酷なことだった。
「ノー・ホープ...」
 メンディは笑いながら、だけど悲しそうに言った。時間が出来てしまうと、つい先のことを考えて不安になって、動けなくなってしまったのだ、と。

 だけどそんなメンディの悩みを聞きながら、私もまた、この頃自分もメンディと同じようなことを考えていたと告白せずにはいられなかった。
 イタリア映画の授業が終わり、様々なプログラムが終了した今、停滞する時間の中で、私もまたメンディ同様に限られた条件の中でしか行動出来ない場所を心もとなく生きている人間だったからである。
 大きな運命に導かれるようにしてやって来たこの美しいマディソンではあったけれど、その実ここは私達にとってどこまでも異国であり、自分自身の意思とは裏腹にたどり着いた世界でもあった。もちろんマディソンは非の打ち所がないほど美しく平穏だったけれど、それでも私達の生活は、先の見えない不安の中で、いつ来るか分からない舟を待っているようなものでもあった。

「私達は似てるね」
 メンディと私はそう言って笑った。
 考え方も、好きなものも、境遇も。そして肌の色も髪の色も...、私達はいつまでも、どこまでも似た者同士のようだった。おまけに身長や体形までよく似ていたので、きっとアメリカ人からすると、私達の区別なんてつかないだろう。
 そんなことを考えながら、私はこの日、メンディと何とか日々のモチベーションを上げるための瞑想方法などを語り、笑い、励まし合っていた。停滞する夏の午後の終わりの中、来し方行く末に思いを馳せながら、私達は二人、メンドータ湖のほとりでそうやっていつまでも座っていたのだった。

春の嵐

5月21日。
 フィミンさんは、中国人でありながら同時に朝鮮人という不思議な中国人だった。私と同じように去年の秋から夫の都合でマディソンに暮らすことになった彼女は、中国の吉林省にある延吉市という朝鮮族が大半を占める土地に生まれ育ったため、そのアイデンティティは中国よりも朝鮮にあるのだと、出会ってすぐに彼女は語った。 
「英語はじぇんじぇん出来ないと言うと、中国人は不思議な顔しますよ」
 そう流暢な日本語で話すフィミンさんは、幼いころから朝鮮学校に通っていたため、日常会話は韓国語、学校では"外国語として"中国語を習得し、高校を卒業ののちは日本の大学へ進学したそうで、これまでの人生で一度も英語を習得する機会がなかったのだと言った。

「どうしたら英語が話せるようになりますか?」
 ある日、日本語も韓国語も中国語も話せるトリリンガルでありながら、アメリカで言葉の壁に苦しむ彼女から語学学校の相談をもちかけられたのが、私たちが仲良くなるきっかけだった。
 日本が大好きだから住むなら日本が良かったと言って、アメリカに来てからは「毎日ノイローゼになりそうだった」と嘆くこの不思議なフィミンさんの相談に乗りながら、しかし私はいつの間にかすっかり彼女のことが大好きになってしまい、日本語で会話をしながらいつも、中国のこと、韓国のこと、日本のことを面白おかしく聞くことがあった。
 とりわけ彼女の出身地である延吉市の話は面白く、北朝鮮に近く位置している故郷で、フィミンさんの親戚は遠い昔に脱北者をかくまったこともあるというなんとも衝撃的な話をしてくれたこともあり、「私達は中国人ではない。朝鮮族だから、彼らを応援してるんです」とフィミンさんは力強く語った。それから延吉市は満州国の一部でもあったため、フィミンさんはクスクスと笑いながら、「おじいさんに聞いた話なんですけど」と前置くと、「鼻歌も日本語じゃないとだめだったらしいですよ!」と言って、ぷーっと笑い転げることもあった。嘘か本当か分からないけれど、フィミンさんに言わせると、『韓国人にクリスチャンが多いのは、浮気っぽい韓国人の男が浮気をして反省して神に祈り、許されて"また浮気を繰り返すため"』だそうで、中国人の女性があまり化粧をしないのは『それだけ自信があるから』だった。フィミンさんがいつもそんなことばかり言っていたので、私達は会うとただひたすらケラケラと笑い合っていたし、私はいつもこのアジアの複雑な歴史的背景中にある、あっけらかんとした明るさを彼女からたくさん学ぶことがあった。

 だけど時々、フィミンさんは、私がコミュニティセンターのボランティアやウィスコンシン大学の授業に聴講に行くと言うと寂しそうにすることがあった。『英語が出来ない』というコンプレックスをどうしても拭えずにいたフィミンさんは、付き合いを続ける中で、私の話を聞きながらしょんぼりとして「いいですね」と力なく笑うことが良くあった。そして「私も働きたい」と言っては悲しそうにすることが少なくなかったので、いつしか私は自分のボランティアの話や大学での聴講の話をフィミンさんにあまり話さないようになった。なぜなら英語が話せなくても、私にとってフィミンさんは十分賢くて魅力的な女性だったし、なるべく彼女にコンプレックスを感じて欲しくないと思ったからだった。そしてそれほどまでに、フィミンさんはいつの間にか私にとって、マディソンで出会ったかけがいのない稀有な友達の一人になっていたのだった。

 そんな大好きなフィミンさんから突然、「離婚することになったから帰国する」と打ち明けられたのは、まだ肌寒い日が続く五月下旬のある日のことだった。昼寝をし始めた子供を車の後部座席に寝かせたまま近所の大型スーパーの駐車場に車を停めると、私はこの日、フィミンさんの突然の帰国話を泣きながら聞くことになった。
「アメリカで終わると思って居なかったけれど、アメリカに来なかったら気付かなかったかもしれない...」
 フィミンさんはそう言うと私と同じように涙を流し、せわしない祖国を離れ、マディソンで生活をする中でこれまで見えなかったものが見えてきた結末だったのだと私に語った。帰国は二日後だという。

 私はすぐにその夜、フィミンさんを思いながら手紙をしたため、ウィスコンシン州の形をしたオーナメントを奮発して購入すると、次の日に餞別としてフィミンさんにプレゼントした。それから残された二日間の時間、私達は可能な限り一緒に過ごすことになった。
 フィミンさんは「中国に戻ったら近所の目もあるのでこれで変装する」と言って、ウィスコンシン大学のご当地キャラであるバッキー君の帽子を買い、それから親戚にお土産用に配るシャツも何枚か買った。時々「アメリカでの生活は辛かったけれど、中国に帰ったらまた戻りたくなるかもしれない...」と寂しそうに言ったが、中国で離婚が成立した暁には、韓国でエステをするのだと、また本気か冗談か分からないことを明るく言うこともあった。そして日本に戻ったらまた勉強したいと今後の展望を語り、もう結婚はこりごりだけど、これから恋愛を楽しみたい、とも言った。
 そしていよいよ別れの時となると、フィミンさんは「泣かないで別れましょう」と言いながら、また車の中で涙を流した。私も寂しくてやるせなかった。同じ時期にアメリカに来た私達だったけれど、マディソンの七か月でフィミンさんが見つけたものが「離婚」という形だったことも、なんだかとても悲しかった。だけどフィミンさんは韓国語も中国語も日本語も話せるのだから、きっと大丈夫。ずっと仲良しで居よう。韓国か中国か日本で必ず再会しよう。私達はそう約束し、最後にハグをして泣きながらフィミンさんのアパートで別れた...。

「セイコさん、やっぱり夫を許すことにしました」
 そんなメールをフィミンさんから受け取ったのは、この忘れがたい最後の別れの挨拶をした、数時間後のことだった。
「ごめんなさい。ありがとうございました」
 メールで平謝りするフィミンさんに、「え?帰国しないの?した方がいいんじゃない?」と、私は返信していた。
帰国しないのであれば、もちろんこれは朗報に違いなかった。今後もフィミンさんと過ごせることは喜ばしいことだったし、二人が離婚しないと決めたのであれば、これほど建設的なことはなかった。だけど一方で、あれほど感傷的に二人で泣いたり笑ったり思い出を作ったことを思うと、なんとなく記憶のバランスが悪いような、どこか狐につままれたような気持ちがして、戸惑わずにはいられなかった。
 だけど、思えばフィミンさんは自分たち朝鮮族の特徴として、「すごく怒るけど、根は優しいんです」と言ったことがあった。「とても怒るけど、それが終われば私達はすごくあっさりしてるんです」と。

 そういうわけでフィミンさんは、帰国のために取った飛行機のチケットを9月に帰国する日へ変更し、シカゴ行きのバスの変更手続きや、親戚のためにデパートで買ったシャツを返品する作業に追われているようだった。韓国でのエステや日本での進学の夢の話は、ひとまずは無しとのことである。
 飛行機のチケット変更代が100ドル、バッキー君の変装用帽子が20ドル、私からフィミンさんへの餞別のオーナメントが10ドルと、それから二人で流した涙が何リットルか...。果たしてこれが、この不思議な朝鮮族フィミンさんの「マディソン離婚騒動」の顛末だった。

学びたい

4月24日。
 
 ランブル教授がイタリア人の若手映画監督レンゾ・カルボネッラ氏に私を紹介したのは、ウィスコンシン大学で開催されたイタリア映画祭でのことだった。
 この週、2017年に公開された『Resina』という映画の監督であるレンゾ・カルボネッラ氏はこの映画祭のためにウィスコンシン大学を訪れていた。だから"イタリア映画"の講義を受け持つランブル教授はこの映画祭のことを何日も前からアナウンスしており、生徒たちに向かって「映画監督と話せるまたとないチャンス」だと言い、「映画祭に来るように」と授業中熱心に語った。「映画を観に来れば必然的に成績を加点する」とまで教授は言ったが、映画祭に嬉々として訪れた私が確認したところ、結局、イタリア映画のクラスメイト達は三分の一も来ていないようだった。

 だけど映画館にはマディソン在住の気鋭の映画マニアたちが集結しており、この美しいアートフィルムの上映とその後のトークイベントは思った以上の盛り上がりを見せた。白熱したイベントの空気に感化され、私も一度だけ監督に質問を投げかけるという大胆な行動に出たが、どうやら発音が悪かったらしく、きょとんとする監督の隣でランブル教授が素早くイタリア語で通訳をするという対応があった。
 そんなランブル教授が私のことをカルボネッラ氏に紹介したのは、このトークイベントがすべて終わった後の出来事だった。席を立つついでにたまたま一つ前の席に知り合いを見つけて話し込んでいた私の横を通りかかったランブル教授が、ふと、足を止めたのである。

「ハイ!」
 ランブル教授はにこやかに私に手をふると、「彼女は日本から来た私のクラスの生徒だ」と前を歩いていた監督に向かって紹介した。
「彼女はミケランジェロ・アントニオーニにとても興味を持っているんだよ」
 先のトークイベントで"影響を受けた映画監督"の一人としてミケランジェロ・アントニオーニの名前をあげていたカルボネッラ監督は、ランブル教授の発言に振り返り、まじまじと私を見た。私はもちろんこの予期せぬ出来事にひどく動揺し、とりあえず「監督の次回作を探しています」というお決まりの言い間違い(本当は「楽しみにしています」と言うつもりだった)を犯した後、監督に握手を求め、ランブル教授に向けて「先週の授業、休講でしたね」と言わなくてもいいようなことを言い放ったのだった。

 そんなとんちんかんな返答をしながらペコペコと頭を下げる謎のアジア人を面白そうに見ながら、ランブル教授は「また授業で」と言って、カルボネッラ氏とにこやかに映画館を去っていき、残された私は恥ずかしさと先ほどのやりとりをやり直したい気持ちでいっぱいだった。だけど同時に、この恥ずかしいながらも嬉しいハプニングは、二年前にソヴィエト映画学の授業の教授であったカプレイ教授が批評家のデイビッド・ボードウェルに私を紹介してくれたシーンの焼き直しであるかのような、どことなく懐かしい既視感を覚えてもいた。

 実際、ランブル教授の"イタリア映画"の授業は、カプレイ教授の"ソヴィエト映画"の授業と様々な点で類似点があった。ソヴィエトにスターリンのもとで花開いたプロパガンダ映画があれば、イタリアにはムッソリーニ政権下のファシスト映画があったし、前者には映画史における最大の発明"ソヴィエト・モンタージュ"が存在する一方、後者には他に類を見ない"イタリアン・ネオレアリズモ"があった。ソヴィエトもイタリアも、それぞれ秀逸な映画界の巨匠たちを数えきれないほど排出していたし、何よりカプレイ教授もランブル教授も、ウィスコンシン大学と何の関係もない私の突然の「聴講のお願い」を快く、無償で受け入れてくれたのだった。

 ただ、前回のカプレイ教授の時と決定的に違っていたのは、私がこのイタリア映画の授業に出るために、子供の預け先を探さなければならないことと、子育ての合間に映画の予習をする時間を捻出することのとてつもない大変さだった。忙しい白井君はほとんど家に居なかったので、授業の時間には誰か他の人を頼るしかなかった。授業開始とともに、セオンという韓国人の友人から「子供を預かることが出来ない」と断られたのでボミを紹介してもらったが、週に二回ある授業のうち、残りの一日の預け先を探すこともなかなか困難なことだった。
 先のセメスターでは快く週二日預かってくれていた近所に住むパニカは、今学期に限って「預かるけどお金を払って欲しい」と言い出したことがあり、私は「お金を払える余裕がない」と言って、代わりにいつでも彼女の娘を預かるから、と必死に懇願したことがあった。結局パニカはしぶしぶ承諾してくれたが、ある意味でこんな風に友人に頭を下げなければならないというのは、心折れる屈辱的な行為でもあった。だけど他に手立てはなかったし、何よりもこのイタリア映画の授業は学べば学ぶほどに深く、遠く、奥行きを増し、私はすっかりその楽しい忙しさに夢中だったのである。
 あるときも、どうしてもランブル教授に尋ねたいことがあり、パニカに15分ほど早く子供を預けて教授のオフィスアワーを訪ねたことがあった。パニカはそんな私の企てにいち早く気付き、「来るのがちょっと早いんじゃないの?」と目を吊り上げたが、それでも息を切らせて私が教授のオフィスに飛び込んだ時には、既にオフィスアワーの時間帯を大幅に過ぎてしまっていた。だけど、申し訳なさそうに入り口で立っている私に、ランブル教授は笑顔で「待っていたよ」と言うと、それから丁寧に、用意していた質問の全てに答えてくれたのだった。

 ところで、この映画祭での恥ずかしいやりとりの後、バスを待ちながら私はふと、「なぜランブル教授が今日私にだけ声をかけてくれたのか?」という問いについて考えを巡らせていた。二年前にも、カプレイ教授の恩恵にあずかったとき、そのことを不思議に感じていたのだが、今ならその答えが分かるような気がしていたのである。

 もちろん、何の脈略もなく突然聴講したいと言ってやってきた厚かましいアジア人が、珍しかったというのが正解なのだろう。だけどそれ以上に思うことは、ただ一つだけ、私には誰よりも「映画を学びたい」という強い情熱があったということだった。情熱と言うと聞こえはいいが、それは言いかえれば、お金も時間もないのに自分の喜びを最優先させるエゴとも呼べるものだった。
 イタリア映画のためなら、パニカにいくら怒られようがなじられようが頑張ることが出来たし、バス代を節約するため、授業に出るときに使うバスカードは隣に住む中国人学生のユーティンに借りることがあった。恥も外聞もなく、その上学生でもないのに授業中も授業後も積極的に質問し発言することも最近では少なくなかった。それほど講義は面白かったし、目の前には多くの学ぶべきものがあった。掴んでおきたいチャンスがあった。そしてそれは二年前の恵まれた環境でははっきりと姿を現すことのなかった私の中にある貪欲な本性でもあり、韓国人のセオンに頼み、ボミの機嫌を取り、パニカに頭を下げたときに見つけた、愚直で、身勝手で、それでいて何物にも代えがたい渇望だったのである。

信仰から遠く離れて

4月11日。
 「これはとてもユニークね」
 カンバセーションパートナーのニコールが、手のひらサイズのカードをしげしげと眺めながら言った。カードの表には白髪の優しげな老人の顔写真がプリントされており、『私の人生をあなたの手の中に』という聖書から引用された言葉が添えられている。裏にはこの老人の経歴とこれまでの人生がコンパクトにまとめられて印字されていた。一見、ちょっと手の込んだ大きめの名刺のようにも思えるが、名刺と決定的に違うのはこの老人がすでに亡くなっており、このカードをその奥さんから受け取ったという点だった。
 
 それはニコールに会う数時間前の出来事だった。私はこの日、中国人の友人フィミンさんに誘われ、ダウンタウンにある教会のインターナショナルランチに参加していた。
 マディソンに限らないのだろうが、あらゆる教会では定期的に様々な無料のイベントが開催され、無料でご飯を食べるついでに英会話が出来たり、友達を見つけたりする機会があった。季節ごとのイベントだけではなく教会主催で毎週英語を勉強できる無料のクラスもあるので、マディソンのアジア系の駐在妻たちの多くがこうした教会の無料クラスに通うことがあり、友人のフィミンさんもまたこの教会のボランティアによるESLクラスの生徒だったので、ある日私をこのランチに誘ってくれたのである。

 教会に着き、ほどなくしてランチが始まると、キャロルという白人の老婦人が私達のいる席についた。各テーブルには必ず一人教会関係者が座り、異国の客人達の奉仕をするのがこうしたイベントの決まりだった。
「あの人、最近旦那さんが死んだんですよ!」
 フィミンさんは日本語がぺらぺらだったので、キャロルの姿をとらえるやいなやすばやく日本語で私にそう耳打ちをしたが、キャロルはそんな私たちに挨拶をするよりも前に、手に持っていた大量の例のカードを一枚ずつ手渡すと、「主人がこの教会に来た頃はここも小さかったんだけど、彼が来て大きくなったのよ」と、物憂げに口を開いた。手渡されたカードの表で朗らかに微笑んでいる白髪の老人こそ、彼女の亡くなった夫であり、この教会の司祭であった人物だったのである。

「アイムソーリーと言えばいいんですよね?」
 英語の苦手なフィミンさんは私に日本語で確認をしてから「アイムソーリー」と恐る恐る言い、それはインターナショナルランチと言うにはなんともしめやかな幕開けとなった。
 私はキャロルも初対面なら、こういうカード(メモリアルカードと言うらしい)を遺族から貰うのも初めての体験だった。知り合いではないからと捨て置くのも気が咎めるので、このカードは大切に鞄にしまい込んで持ち帰ったが、カンバセーションパートナーのニコール曰く「こういうサイズのカードはブックマークに便利」とのことだった。

 ところで、この湿っぽくてユニークなランチタイムの経験を入れると、私がこうした教会の主催する無料食事イベントに参加したのは前回の滞在期間を含めても、五回にも満たなかった。というのも、私はこうしたイベントの最後にある宗教的な儀式(讃美歌を歌ったり聖書の勉強をしたり)が何よりも苦手だったからである。信仰心のかけらもない私にとって、「無料ご飯」や「無料学習」の背後にちらつく「宗教」という圧倒的未知の存在に、どことなく気おくれしてしまうところがあった。

 最近時々参加するようになったESLの無料クラスにも、やはり一週間のうちに何度かバイブルのクラスがあった。もちろん、参加は自由である。必ずそのクラスに出席しなければいけないということではなかった。ただ一度、「これだけ無料ESLのクラスにお世話になっているのだから...」と思い、バイブルのクラスに参加してみたことがあったが、この日のテーマは「科学とキリスト教信仰はどう折り合いを付けるか?」という難しいものだった。そして「この世の全ては神が作ったものなのです」と、普段英語を教えてくれる先生から涼しい顔で教えられるのは、やはり私にとってある種ショックなものでもあった。
 同じ教会のESLクラスに通っているメンディという中国人の友人もまた、こうしたバイブルスタディが苦手な女の子だった。だから彼女は「自分の考えをまだ整理できていないのだけど...」と言った上で、「神という概念は古いんじゃないかな...」と終わってから私にメールを送ってくれたことがあった。今はやっぱり神ではなくて科学の時代なのではないか、と。

 だから、私はこの日のインターナショナルランチの後、このユニークなメモリアルカードを見せるついでに、私が難しいと感じている信仰という概念について率直にニコールに話をしてみた。ニコールは普段、私にほとんどそうした宗教的な話題をすることはないが、実生活では教会で聖書を教える仕事に就いている宗教家である。
「そうね...」
 ニコールは私の話を聞いて少し考えると、「キリスト教信者の多くは科学が嫌いだよね」と言って軽く笑った。だけど彼女の見解では、神と言う存在が私達に"脳を与え"、そこで私達人間は科学というものを通じて世界を理解する方法を得たのだという。
「神の存在を信じてるの?」
 失礼とは思いながらも私がそう尋ねると、ニコールは「信じてるし、キリストの存在も信じてるわよ」と当たり前のように答えた。

 だけど、目に見えない存在を信じるというのは、いったいどういうことなのだろうか?私は疑問だった。
 日本ではキリスト教系の大学に入り、大学時代にはクリスマス礼拝をし、教会で神に愛を誓って結婚した私であったが、結局そうした一連の出来事は信仰心とは無関係に、私にとってはどこまでも「イベント」の域を出ることはなかった。そしてそれは今、マディソンの教会でランチを食べ、讃美歌を歌ったとしても同じことだったのである。

 この日、インターナショナルランチのタダ飯にありついたアジア人達は、親切な信者に導かれてぞろぞろと食後の讃美歌を歌うべく別部屋へと収容されていった。こうしたイベントの最後に必ず目にする光景である。きちんと讃美歌を歌える人などほとんどいなかった。そんな信仰と無信仰の交流の間で、しかし私つい、そのすべてをシュールだと感じてしまうのだった。