12月4日。リピートしていた語学学校の『発音』の授業が今日で終わった。来週から臨月に入るからである。トム先生のこの授業は二度目だったので、重複する部分などもありながらも、私はこの授業で発音にまつわるあれこれを沢山学ぶことが出来た。どの言語にしても発音の問題は生きた言語を習得する上では避けては通れない問題で、とても奥が深いと私は思う。授業ではアメリカ人が単語を本当はどのように発音しているか、そしてそれが表記通りでは決してないこと、音の強弱の癖のようなもの、それから7,8割の確率で「単語の意味が分からなくても発音だけはできるようになるルール」、またアメリカ人が好む「くだけた言い方」など、とてもユニークな内容をゲームなどを通じて楽しく学んだ。トムは「こんなこと君たちの祖国では学ばないだろう?」と得意気に教えてくれ、そして何よりも私たち生徒の、それぞれがそれぞれの母語にとらわれた発音の問題によって四苦八苦する姿を露呈したとき、授業中、誰よりも一番嬉しそうに笑った。

とりわけ、音域の狭い日本語を持つ日本人の私にとって、学ぶべき発音のルールは沢山あった。日本人はLとRの区別が出来ない。大半の生徒はThを発音するとき、舌をかむことが出来ない。スペイン語を母語とする生徒たちはYのサウンドをJで発音してしまう。私たちが住むマディソンは、「Medicine(薬)」ではない。それから、私が一番苦手だったのは、『Syllable(音節)』の問題である。このSyllableとは、英語話者が単語の中で一つの音として感じる単位を表していて、例えば「That」は日本語では「ザ・ッ・ト」と三音節で表されるのに対し、英語では一音節と数えられるルールのことである。「Chocolate(チョコレート)」は日本語では「チョ・コ・レ・エ・ト」と五音節であるのに対し、英語は「チョッ・コリ」という二音節の音になるのである。だから、Syllableのクイズゲームをするとき、私は授業をリピートしているにも関わらず、いつもワークパートナーにぼろ負けし、トムにからかわれていた。

だけど面白いのは、この授業を通じて、私は英語話者たちにとっても「日本語」のこのフラットな発音が難しいのだということを発見したことだった。私はこのSyllableの問題を逆手に取って、トムにPerfumeの「チョコレートディスコ」という曲を紹介した。この曲は「チョコレートディスコ」とリフレインする部分で、「チョ・コ・レ・エ・ト」の五音節を使って拍を取る曲だからである。だから、二音節でしかチョコレートを発音できないアメリカ人達は、この曲を決して正しく歌うことが出来ないのである。トムにこの曲を紹介すると、トムはこの異国のポピュラーソングを聴きながら、「日本の曲は本当にクレイジーだ!」と嬉しそうに笑った。また、トムは日本の車のNISSANのことを、いつも「兄さん」と発音した。「兄さんではない、『ニ・ッ・サ・ン』だ!四音節だ。」と私が指摘すると、トムは「セイコは大人しい生徒だったのに、いつからそんなことを言うようになったんだ?」と悲しそうな顔をした。(まあ、一年も居たら口が立つようになるのは仕方ない。)

こうした発見は、現在聴講に行っているウィスコンシン大学のフィルム学の授業でもあった。前学期で私が正規の聴講生ですらない聴講生として座っていることを許可してくれたカプレイ教授の授業である。エジソンの発明から始まって、1960年代までの世界のフィルム学の歴史を紐解きながら、毎週さまざまな映画におけるジャンルを扱うこの授業で、先週はついに日本が世界に誇る「ジャパニーズ・アートシネマ」の回を迎え、カプレイ教授は、聴講生ですらない私にこの日何度も授業中、意見を求め、話しかけてくれたのだが、そのほとんどが「これ、日本語でどう言うの?これ、発音あってる?」というものだったからである。「黒澤明の『蜘蛛の巣城』は日本語で何て言うの?」とカプレイ教授は私に聞き、それがマクベスを題材にした映画であるということから、「英題より邦題の発音の方がマクベスに近いねぇ。」などと呟いたりした。そして「トーホー(東宝)は黒澤明の映画の会社だからこの発音には自信があるんだ」と私に笑いかけてくれた。だけど私はその時、細心の注意を払ってカプレイ教授が意味せんとする日本語の発音に耳を澄ませていた。というのも昔、カプレイ教授と話をした際、私はこの日本語の発音の問題で大失敗をしたことがあるからである。

その日、教授は日本の「ベンシ」にとても興味があると私に言って「知っているか?」と聞いてきた。私は、教授がまた発音を間違えていると早合点し、咄嗟に「武士!武士!サムライ!」と叫んで、刀を抜く武士のモノマネをしてみせた。カプレイ教授は驚いて、「もう一度発音してくれ!」と叫び、私は「武士、武士」と刀を携えたジェスチャーのままでもう一度単語を繰り返した。「ほお…」とカプレイ教授は目を細め、「やっぱり本場の発音はぜんぜん違うな…。」と呟いた。が、実は「ベンシ」というのは、サイレントムービーが日本を席巻した際に日本で登場した映画を盛り上げる「語り部」として一時期活躍していた「活動弁士」のことだったのである。教授とのちぐはぐなやり取りのすぐ後にそのことが判明し、私は、教授が発音を間違えているものだと思い込んだこと、無駄に武士のモノマネをしたことから、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたというわけである。もうそんな間違いをしてはいけないと思ったのである。
『発音』というのは習っても習わなくても、私には本当に難しい問題だった。だけど一方で、こうして日本語の発音と英語の発音が分かり合えない遠い立ち位置にあるからこそ、トム先生は楽しそうに授業中生徒の間違いを大笑いして指摘するし、私はカプレイ教授の授業で初めて、ウィスコンシン大学の正規の学生たちの前で日本語の発音を披露し、自尊心がくすぐられるような、とても誇り高い気持ちになれたのである。

アハメはアハメ

 11月15日。「今回の大統領選は歴史的なものになる。」というのは、選挙前からよく聞くセリフだった。ヒラリーになれば、史上初の女性大統領の誕生で、トランプになれば史上稀に見るクレイジーな大統領の誕生、という意味だ。私の住むマディソンは学園都市ならではのリベラルな人が多く、ヒラリー支持者が圧倒的多数を占めていたけれど、一歩マディソンを離れれば、そこは全く違うファーマー達の住む世界に囲まれた「陸の孤島」なのだと先生たちはかねてから危機感を募らせていた。そしてその言葉の通り、あの夜ヒラリーの敗北にとどめを刺した州であるウィスコンシン州は、マディソンとミルウォーキーなどの数少ない都市部を除いてはトランプ支持という形で結末を迎えたのである。

 そんな「歴史的選挙」が過ぎ去り、選挙前からずっと停滞していたどこかそわそわした空気からも解放され、語学学校にも何も変わらない日常が戻ってきた。以前からトランプ当選の折にはカナダ移住を表明していたベス先生もトム先生も、もちろん移住などすることはなく、以前と変わらず語学学校で教鞭を取っている。私もフリーのカンバセーションアワーに参加したり大学の授業に聴講に行ったりする日常であるが、だけど何かの折にはふと政治の話になったりするのが興味深かったりする。アメリカ人の彼氏のいるタイ人のパニカは、お茶をした際、今は5年間のビザがあるけれど今後どうなるか分からないと不安を漏らしてみせたし、先週帰国したコロンビア人のフェリペは、「トランプのせいでマディソンに行くのは今後、もっともハードになるだろう。」と、本気か冗談か分からない、ませた内容のメールをわざわざ送ってきた。

先日行われたカンバセーションアワーでは、トルコ人の女の子と韓国人の女の子、そして白人のジェシー先生と私の四人で行われたが、すぐに話題はアメリカのトランプの話、韓国のパク・クネ大統領の話、そして少し前のトルコのクーデターの話になったりした。韓国人の女の子は、長い時間をかけてまず「パク・クネが嫌い」だということ、「こんなことになって恥ずかしい」ということ、「パク・クネの父親が大量の人を殺した」ということをとても中身の薄い英語で熱弁した。とりわけ、「恥ずかしい、恥ずかしい」と終始大げさに言っていたので、ジェシー先生は「うちだってトランプになって恥ずかしいわよ。」と言ってフォローしていた。トルコ人の女の子は、クーデターのことはよく知らないと言いながら、つたない英語で何やら人が大量に殺された話をしていたが、気付いたら私以外の全員が、自分の国の「酷さ自慢」になって迷走していた。韓国人の女の子はとにかく大げさで、「うちはナチスみたいなものよ。」とまで言っていたが、「だけど私の友人でアメリカの軍人に入りたがっていた男の子が居たんだけれど、トランプになったせいでもう入りたくなくなったって言ってたわ。」とアメリカを軽くディスることを忘れなかった。

だけど、その時「ナチスみたいなものよ。」と軽く言った韓国人の女の子のセリフに、私はふと既視感を禁じ得なかった。どこで聞いたのだろう。そう思うとふいに「ダラルだ」と思い当たった。サウジアラビア人のダラルが、先月「うちは北朝鮮と同じなの。」と言ったセリフと、韓国人の女の子のセリフがオーバーラップしたのである。それは中国人が祖国でフェイスブックを禁止されているという話になった時にダラルが「うちだって」と言った時のセリフだった。新しい王政になってから、サウジアラビアではフェイスブックもスカイプもメッセンジャーも禁止されてしまい、ダラルはまだ禁止を受けていないアプリを駆使して祖国の家族とコンタクトを取っているのだと言った。私が「でも何故わざわざフェイスブックとか禁止する必要があるの?」と聞くと、側で聞いていたベス先生が「政府が人々をコントロールするためでしょう」と憤然と言った。だけどそんなことを規制することで、いったい人々の何をコントロールできるのだろう?私には疑問だった。

実際、先週中国へ帰国したビッキーは、帰国前日、私にメッセンジャーから最後のメールを送ってきて、「WeChat」というアプリをダウンロードしてくれ、と頼んだ。「何それ?」と私が聞くと、中国で使える中国人達にとっての唯一のコミュニケーションアプリだという。「中国人なら全員がやってるわよ。」とビッキーは言うと、私に丁寧に使い方をメールでレクチャーしてくれた。「中国ではツイッターもフェイスブックもインスタグラムもメッセンジャーもラインもスカイプも使えないから。」とビッキーは言った。「WeChatは安全よ。」とビッキーが言うので、「e-mailは使えるの?」と私が聞くと「使える。」とビッキーは言った。だけどビッキーのことが大好きなので、私はすぐにWeChatというアプリをダウンロードして使えるようにしたのだが、すると登録した直後にダラルからWeChatの追加の申請が来たので何だか私は笑ってしまった。これまで私はWeChatなんて知らなかったのだが、禁止されれば禁止されるほどに、中国人達もサウジアラビア人達も、抜け道を探して躍起になってコミュニケーションアプリをダウンロードしているのだと思うと面白かったからだ。人をコントロールするというのは、とても皮肉なことなのだなと私は考えずにはいられなかったのである。

ところで、もう一つ面白かったのは、WeChatをダウンロードした後、今度はサウジアラビア人のアハメからフェイスブックを通じてあるアプリのダウンロード依頼がたまたま来たことである。また知らないコミュニケーションアプリなのだろうか?と思った私は、依頼されるままにその聞いたこともないアプリをダウンロードしたが、開けてみるとただの「出会い系」アプリでとてもびっくりした。しかもそれはとてもよく出来ていて、出会いを求めて登録している人全員の位置情報が瞬時に分かり、その人たちの人気順位や顔写真も観放題なのである。アハメはこんなものを使っているのか…と思ってびっくりしていると、ダウンロードして30分も経たないうちに「●●さんがあなたに興味を持っています。会いますか?」という案内通知が届いたので、私は大急ぎでアプリを削除した。全く、アハメは何を考えているのか…。「歴史的選挙」を終えてもなお、アハメは大金持ちの能天気なアハメのままだったのである。

ESLクライシス

11月7日。語学学校の“スチューデントラウンジ”にジェンガという積み木のゲームが置かれていた。このラウンジのスペースはもともと生徒たちが食事をしたりくつろいだりできる地下にある広いスペースで、居心地のいいソファがいくつかと、テーブル、他にもお菓子やジュースの自動販売機、電子レンジも置かれているのだが、ゲームが置かれているのは初めてだった。見ると「毎週金曜日の昼休みはゲームの時間!来てね!」とテーブルごとに黄色い紙で作った案内が置かれている。今期から始まった生徒のための新しい試みなのだろう。それだけではない。見るとラウンジの自動販売機はすっきりとして新しいものに変わっていた。すごいなあと私は思う。

そもそも私の通っている語学学校はとても評判のいい学校である。先生たちや授業の質も去ることながら、授業以外にも毎月沢山のイベントを企画するスタッフが駐在していて、季節ごとにハイキングや野球観戦、サイクリング、シカゴ旅行、遊園地やペインティングといった多岐にわたるイベントを週末や放課後に企画しては生徒たちを連れ出してくれる。他にも、取っている授業以外で「フリーカンバセーションアワー」や「ライティングセンター」といった無料のクラスも毎日開かれており、暇な人はそういったフリーのクラスにいくらでも参加できるし、コンピューター室の印刷機も使い放題である。学校の寮に住んでいる人は、毎週金曜日の夜にもスタッフの部屋でフリーカンバセーションアワーやパーティに参加できるし、一番の強みは、この語学学校の卒業証明書でマディソンにあるいくつかのカレッジの入学することが出来るという点でもある。

それにもかかわらず、である。今、生徒たちの間でまことしやかに懸念されているのが、この語学学校が危機に瀕しているのではないか?という事案である。私がそのことに気付いたのは先月の終わり頃だった。次のセッションで開講される授業の案内の紙に、いくつか消えたクラスがあったのである。スチューデントラウンジはなんとなくいつもひっそりしているし、聞くところによると『ビジネス&コミュニケーション』というクラスでは、「どうしたらもっと生徒がうちの学校に入学するようになるのか?」というお題について生徒たちにそれぞれ考えさせて、最終的にこの学校の管理者の部屋で生徒たちにプレゼンまでさせたそうだ。また、いつも駐在しているスタッフの部屋が最近暗いのは、生徒を集めるべく世界中にリクルーティングに行っているからだと言う。

先月末、授業でベス先生にそのことを聞いてみると、ベスはあっさり「確かに生徒数は今すごく減っている」と認めた。だけどそれはうちの語学学校に限ったことではなく、世界中で起こっていることで、マディソンにあるもう一つの語学学校では今や生徒数がたったの四人なのだそうだ。他にもウィスコンシン大学が開いているESLのクラスも今期の生徒は一人きりだと言う。「なぜ?」と私が聞くと、ベスはサウジアラビア人のダラルを見て、「あなたの国のせいよ。」と冗談めかして言った。どうやら去年サウジアラビアの国王が世代交代したせいで、これまで大量のサウジアラビア人が留学出来ていた制度が廃止になってしまい、そのせいでこれまで主要な顧客だったサウジアラビア人の生徒が激減してしまったのである。幸いダラルはまだ廃止になっていない留学制度を利用しているので残っているが、彼女だってその新しい王政の煽りを受けて自身の収入も半減したと主張した。ベスは頷いて、「それから中国人も減った。」と、今度は中国人のビッキーに目配せをした。「そうなの?」と私がビッキーに聞くと、ビッキーは頷く。なんでも、最近では中国全体でアメリカ人のネイティブの先生を公立の学校に呼んで授業をする方針が主流になりつつあるので、わざわざ語学留学だけのためにはアメリカに来る生徒が居なくなっているのだそうだ。そうでなくても世界中にESLはある。アメリカのドルは高いし、ウィスコンシン州のような知名度の低い場所に来る人もとても少ないのだそうだ。

 気付いてしまうと、私はなんだかすっかりこの大好きな語学学校を心もとなく感じてしまった。そしてそう思うと、毎セッションの終わりごとに生徒たちに配られるクラスアンケートの「評価」も、どこか先生たちがいつも以上にナーバスになっているように感じられたりもしたのである。トム先生は最終日、このアンケートの内容を読み上げて「この質問は使ったテキストについての評価だね。うーん、僕はこのテキストはとてもいいテキストだと思うね。」とわざわざ説明していたし、ベスは「先生についてどう思いますか?」という質問欄に関して、「毎度のアンケートでうんざりしてると思いますが、私を辞めさせたいと思っているなら、この質問は絶好のチャンスでしょう。」などと皮肉なことを言った。ジム先生に至っては、アンケート記入の時間に隣の教室に待機すると言ってクラスを出て行ったそうだが、生徒の目撃情報によると、彼は待機している間ずっと両手をぎゅっと握って教室で一人ウロウロと心配そうに歩き回っていたのだそうだ…。もちろんこのアンケートで酷評されて辞めさせられた先生は居る。非正規雇用として雇われている先生たちは、自分が受け持つクラスを次のセッションで持てるかどうかは、セッション開始日の二日前に知らされる。そこで初めて、いくつのクラスが開講されるか知り、それによってその月の給料が決まるのである。生徒の縮小に伴い、クラスが減少している今、このアンケートは先生たちの死活問題なのである。

 先月の終わり、セッションの終わりにベス先生は一人ひとりの生徒に「次はどの授業を取るのか?」と聞いて回っていた。そして一人ひとりに自分の授業をもう一度取ることを丁寧に勧めていた。もちろん私にも「あなたが書きたいと思うことを書いていいのよ。」と言ってもう一度ライティングの授業をリピートしてはどうか?と提案した。トム先生の『発音』の授業に至っては、最終日にトムは「次のクラスは生まれ変わる」と驚きの宣伝を怠らなかった。事実、このクラスはクラス縮小のために消えた他の『スラング』というクラスと合併した新しい授業内容になるそうだ。『発音』のクラスを終えたばかりの私たちが、再度この授業を来月から取っても損はないのだとトムは強調した。「単語テストはある?」と私が聞くと、あまりにも苦しそうな長考の後、「5問だけだ!たったの5問だけやるかもしれない。」とトムは言って生徒の顔色を窺った。結局、私はトムの言葉を信頼して、もう一度その新しく生まれ変わるという『発音』の授業を受講することに決めたけれど、必死に「自分の授業をリピートせよ」とリクルーティングする先生たちを目の当たりにして、「英語を外国人に教える」という仕事を誇りにし、毎日を楽しみ輝いていると思われた先生たちが、思いがけず直面しつつある時代の世知辛さについて胸を痛めずにはいられなかった。とりわけ日の短くなってきたマディソンは、今月から誰もが忌み嫌う冬の季節の幕開けである。誰もが春を待ち遠しく思う極寒の世界の始まりである。ひっそりとした“スチューデントラウンジ”にポツンと置かれたピカピカのジェンガの山を見て、私は日々生き残りをかけて模索しているESLの実情を、少しだけ悲しく思ったのである。

ダラルの恋

 10月14日。ずっと仲良くしていた台湾人のジエルが一年間の語学留学を終えて台湾にいよいよ帰国することになり、サウジアラビア人のダラルが、急きょ続けざまに私を誘ってディナーやお茶会を提案した。友情を重んじるダラルは授業をサボってまでジエルのために時間を作ることにし、お茶に行く前にそのことを丁寧にジム先生に断りに行った。「ジエルが最後だから授業には出られません」とダラルがきっぱり言うとジム先生はぽかんとして「今日の成績はゼロになるけどいいの?」と聞いたそうだが、ダラルは憤慨して「いいです!ジエルが最後なんだから!」と言って教室を出てきたそうだ。そしてダラルは自分の車に私とジエルを乗せると、あらかじめ決めていた台湾カフェ(ジエルは台湾に帰るのに。)へと私たちを連れ出した。

 学校で仲良しの二人とはいえ、外でゆっくりと話したことはなかったので、私は今までダラルがサウジアラビアの大学の教授だということを、こうしてしっぽりお茶をするまで知らなかった。それにダラルがPhDを取得するための難しい奨学金を得ているということも知らなかったし、それは他のサウジアラビア人のティーンの奨学金とは違った種類の奨学金で、月に2500ドルが得られるもの、一年半は語学学校で過ごせるものなのだということを初めて知った。だから、実はこの夏、サウジアラビアの政権が変わったことでこれまでサウジアラビア人のティーン達が大量に留学できていた奨学金制度がすべて打ち切りになり、のらりくらりと語学留学に来ていた彼らが夏の間にこぞって帰国してしまったのに対して、彼女は今期もマディソンに残って引き続き勉強が出来ているのだそうだ。その上彼女には月々、大学教授としての給料1500ドルが入ってくる。シングルマザーで大学教授で息子二人を育てながら勉学にいそしんでいるのだというダラルの知られざる身の上話に、私もジエルもとても興味津々に聞き入っていた。

 ダラルの話は、結婚話にも飛び火し、ダラルの子供たちの父親であり前の夫である人は、彼女の従兄弟なのだそうだ。そしてサウジアラビアでは、結婚をするとき親族全員にお伺いを立て、家族全員の了解が得られなければ結婚できないのだとダラルは教えてくれた。だけど、そこはサウジアラビア人である。たいてい結婚に反対するとき「辞めた方がいい」とは思っていても、そんな否定的なことは決して口にしない。ただ、「分からない。私には何も言えない。」と言えば、それは直ちに「結婚反対」の意思表明となり、その結婚は破談になるのだそうだ。「離婚したら女の人も再婚出来るの?」と私が聞くと、「何十回でも出来るわよ。」とダラルは言う。そして「私、再婚したいのよ。」と言って豪快に笑うと、実はアメリカに居る間に二人の男の人に告白をされたのだと打ち明けた。

 私とジエルが色めきたったのは言うまでもない。そして、ダラル自身、珍しくその浅黒いエキゾチックな頬をほんのり紅く染めながら、一人はイラン人で今乗っている車をダラルに譲った人で、もう一人は黒人のアメリカ人のムスリムなのだと言った。二人とも美人のダラルの事を好きになったそうだが、ダラルは親戚が反対するのは分かっているから、どちらとも結婚することは出来ないと伝えたと言う。サウジアラビア人以外の国の人と結婚するなら、アメリカ人の白人かヨーロッパ人の白人のムスリムでなければ必ず反対されるとダラルは言う。ジエルが試しに「黄色人種は?」と聞くと「ノー」とダラルは即座に言う。「こっちに居るサウジアラビア人の男の人はどう?」と私が聞くと、「一人、バツイチで子持ちの男の人がいるけど…」とダラルは言った。「友達よ。」そう言うと、ダラルは携帯に入っている一つの画像を私とジエルに見せてくれた。

見ると、ヒジャブを身に着けたエキゾチックで目元の涼し気な男性が写っていた。どうやらこの人がそのバツイチのサウジアラビア人のようだ。「ハンサムなんじゃない?この人」と私が言うと、「ハンサムだと思う」とダラルは言い、「ただの友達」だともう一度強調してから「彼は娘が居るからいろいろしてあげたくて、私は買い物とか手伝ってあげているだけなの。」とポツリと言った。聞いてもないのに「私は愛してないわよ。」とまでダラルが言うので、試しに「この人がダラルに告白したらどうするの?」と私が聞くと、ダラルははにかみながら「結婚する。」と迷うことなく言ったのである。

 「だけど、私は愛してない。だって、分かるでしょう?私たちの国では女の人からそんなことは言えないし、思うこともないの。もちろんこの人が結婚しようって言ったらするけど、私からは何も言わないし、思うこともないの。」私とジエルが顔を見合わせていると、「私は愛してないし、ただの友達。」とダラルがまた言った。「だってこの人は、いつも自分の娘のことばかり考えているんだもの。電話してもメールしても娘のことをいつも考えているもの…。でも、ただ私は手伝ってあげたいからイスタンブールマーケットに一緒に行ったりしてあげるの。夫婦以外の男の人と歩くのは誰が見てるかわからないから、私たちは夫婦のフリをして、手をつないでイスタンブールマーケットに行くの。ただそれだけ。」私もジエルもそれ以上、何も言わなかった。日本ではそれを『恋』と呼ぶことがあるのだけれど、ダラルはきっとそれを認めないだろう。台湾人のジエルの送別会だったのだけど、その日は思いがけずダラルの、サウジアラビアの恋愛事情を聞くお茶会となった。

初めて銃を撃った日

 10月9日。「アメリカに居るのなら、鹿狩りをするのもいいよ。この時期、僕もよく行くんだ。」と、タイ人のパニカのボーイフレンドのトニが言った。トニはアメリカ人だ。それを横で聞いていた同じくタイ人のプンの旦那さんでアメリカ人のケビンも、ビールを飲みながら「そうだ、アメリカと言えば銃だからね。なんなら一つ自分の銃を買ったらいいよ。」と冗談めかして私に言った。私が驚いていると、トニも笑いながら、「そうだ、買うといいよ。アメリカに居る間にしか出来ないんだから。簡単だよ。」と言って、ガールフレンドのパニカにウィンクしながら、「君もやりたかったらいつでも教えてあげるよ。本当に。」と甘く囁いた。なるほど。と、私は思う。日本で銃を撃つ機会なんてそうそう無いだろう。

 今まで深く考えたことはなかったけど、ここは銃社会だ。その日のそんなちょっとした会話で「銃」というものになんとなく心惹かれた私は、さっそく次の日、毎年秋に家族で鹿狩りを楽しんでいるトム先生に「どこで鹿狩りが出来ますか?」と質問をしてみた。トム先生は一瞬きょとんとしてみせ、おもむろに「まず最初に、」と言った。「君は銃を持ってるの?」私が首を横に振ると、「次に、」とトムが続ける。「鹿狩り用の特別なスーツを持ってる?」「ノー」と、私。「それから鹿狩りのライセンスが必要。あと、鹿狩りの出来る公園を所有している知り合いを持つか、そういう公園を探さないといけない。幸い僕にはその知り合いがいるから毎年行くんだ。これらの条件をクリアしたら行けるよ。」と言った。そんなに条件があるなんてトニは言ってなかったぞ、と私は思いながら、少しがっかりしていると、そんな私を見ながら「真面目な話。」とトムは言った。「鹿狩りほどつまんないものはないぜ。」というのも、鹿狩りというのは、明け方の寒い時間から出かけて何時間もただ鹿を待つだけだからだそうだ。その果てに、たった5分、獲物をしとめるたった5分のエキサイトする時間があるのだという。時に、獲物を追い込むこともあるけれど、鹿狩りというのは基本的に長時間、無言でじっとしているという男のゲームなのだ。「だから、銃を撃ちたいだけなら、シューティングセンターに行けばいいよ。」

 というわけで私は週末、秋の気配を感じる行楽日和に、マディソンの家から車で一時間少し、マディソンとミルウォーキーの間に位置する“マックミラースポーツセンター”へ朝から訪れる運びになったのである。気持ちの良い秋晴れの日である。シューティングセンターを目指す車の車窓からは、アライグマのラスカルの舞台であるウィスコンシンらしく、美しい川や湿地帯、牧場やトウモロコシ畑というのどかな風景が次から次へと流れては消えていった。併せて、道の悪いガタガタの高速道路には、数メートルおきに車につぶされたリスの死骸も転がっており、ときどき狸や鹿といった大物の死骸が倒れているのも目にした。それらの流れていく死骸を横目で見ながら私は、鹿狩りなんて簡単にやりたいとトムに言ってはみたけれど、よく考えるとトムは仕留めた鹿を家に持って帰って食べるなりなんなりするのだろうなと思い至り、私には到底できる業ではなかったのだなと、鹿狩りそのものへの諦観を強くした。

 ともあれ、野外のシューティングセンターは大盛況だった。私たちのような初心者はほとんどおらず、集う人々はおのおのの自慢の銃を持参しており、ちょっとしたゴルフの打ちっぱなしのような感覚で撃ちまくっているのである。すでにそこら中で銃声が鳴り響いている。本物の銃声を聞くのも初めての私は最初、すっかり縮み上がってしまった。だけどここまで来たのだからと受付に行くと、銃を持参していないということで、センターから銃を借りて使い方をスタッフに簡単に教わることが出来た。銃を借りるにしても簡単なサインとドライバーズライセンスを預けるだけで事足りるのだから、改めて銃を持つことに対するハードルの低さに私たちは驚いた。一番簡単な銃の使い方を10分ほどで解説してもらうと、そのまますぐに実践である。「一番大切なポイントは何か分かる?」とスタッフの人が私たちに質問をする。「的をよく見ること?」と白井君が言うと、「違う」と彼は即座に言った。「一番大切なのは、銃口を人に向けないことだ。」

 結論から言うと、シューティングは怖かったけれど、楽しかった。50発分の弾丸を買ったものの、私も白井君も二人で30発撃てばもう満足で残りの銃弾を持ってそそくさと引き上げたのだが、弾さえ購入し続ければ、何度でも撃ちっぱなしで遊ぶことが出来た。耳栓をして透明の眼鏡をして、的に向かって撃つだけのことである。すべてのブースがいかつい大人の男たちで占領されていて、それぞれがそれぞれ撃ちたい銃を撃ちたいスタイルで撃っていた。私はブースに入って初めて撃った時、頬を殴られるような衝撃が走るのを感じた。どーんという銃声とその重い衝撃、そして危険なものを持っているということへの恐怖がいっぺんに体の中に沸き起こり、アドレナリンが出るのを感じた。だけど一方で背徳感や危険なものへの密かな憧れ、あるいは闘争心のようなものも解放されたのも事実である。だから私は初めて、銃というものの魔物性を知ったような気がしたし、また撃ちに来てもいいなと言う感想さえ持ったのである。不思議な体験だった。

 9月29日。「いったいどこに赤ちゃんが居るの?七か月だなんて信じられない。ちょっと立ってみんなにお腹を見せなさい。」ベス先生が朝一の授業で、私を立たせた。「本当に妊娠してるの?鳥の子?猫の子でも入ってるんじゃないの?」みんな笑っている。まあ、確かに妊娠中期も終わりだというのに、私のお腹はあまり目立たない。これでも妊娠前に比べて五キロ太ったのだが、それでも人からは「ベビーはどこにいるの?」とよく冗談を言われる。この語学学校には、私を含めて今、妊婦が三人いるのだが、私以外の二人はどちらもすでに臨月かと思うほど大きなお腹で学校に来ている。が、私はバスに乗っても席を譲られることもなく、自分で「実はね、妊娠してるの!」と言わないと、誰からも相手にされないのが現状なのだ。だから週三日の朝一で上級のグラマーを教えてくれているベス先生はいつも何かと私のお腹にイチャモンをつけてくるのだが、それでもいつも「ベビーは元気?」と言わない日はない。そしてしまいには私のお腹をまじまじと見つめて、「胴が長いんじゃないの?」と言ってくるのだ。

 だけど、私から言わせると、アメリカ人は全員妊婦みたいだ。自分が妊娠しているせいで、街を歩く妊婦がとても気になるようになったのだが、最初の頃は、誰もかれもが妊婦に見えることがあった。70歳くらいの白人のおばあちゃんでさえ、バスケットボール一個分ほど前に突き出たお腹を揺らして歩いているので、何度も振り返って「あの人は、妊婦なのだろうか?妊婦じゃないのだろうか?」と首をひねったものだ。そんなことは妊娠する前は考えもしないことだった。語学学校のフロントデスクで働くタイ人のプンにそう言うと、「アジア人はやっぱりどうしてもそうなるのかもね。」と言って共感してくれたのだが、その後、私がカフェラテを飲んで歩いているところを目撃すると、「だからお腹が大きくならないのよ!」とすごい剣幕で怒った。(ちょっと飲んだだけなのに。)そして「もっと食べろ、食べろ」と言う。プンの提案は「毎日牛乳とチョコレートブラウニーを食べること」だった。特にプンの牛乳信仰は厚く、夫のケビンは毎日牛乳とブラウニーを食べているから、大きくなったのだそうだ。(ケビンはただの巨漢に見えなくもない。)

サウジアラビア人のダラルは、もちろんかいがいしくデーツを私のために持ってきては、「妊婦はだいたい三つは食べるのよ。」と言って机にデーツを三つ、置いて帰る。コロンビア人のフェリペはまだまだ若いティーンの男の子なので、妊娠が発覚してからというもの私に出くわすといつもモジモジして「とにかく、おめでとう…。」と照れ臭そうに言うようになった。しかし、毎回毎回妙に堅苦しくそんなことを言ってモジモジするので、私がそのことを笑ったら「周りに妊娠してる人っていないんだ。」と言い訳をした。(ティーンだから当たり前な気もする。)そして「いや、四人は今まで会ったことはあるけど…。とにかく気を付けて…。」と逃げるようにしてどっかへ行ってしまった。ジュディー先生は、私が皆に「もっと食べろ食べろ」と言われて落ち込んでいるのを見かけると、「病院の先生が大丈夫って言ったのなら、気にしなくていいのよ。」と慰めてくれた。「なんで皆がそう言うのか分かる?」ジュディー先生は言う。「それはね、ジェラス(嫉妬)なのよ!」ジュディー先生のこの慰めは思いがけなかった。先生に言わせると、誰もが細いことを実は妬ましく思っているのだそうだ。優しいジュディー先生…。でも実は彼女は歩行困難なほど太っていたので、私はとっさに返す言葉が見つからなかった。
 
 そんな中、日本人の友人からは、よく「海外で出産することは不安ではない?」と聞かれることがある。それから、「アメリカだったら無痛分娩になるのか?」ということもよく質問される。不安かどうかはさておき、私もアメリカなら無痛分娩以外選択の余地はないと思っていたのだが、アメリカ人と結婚している友人にその話をすると、彼女の旦那さんの妹が最近、カリフォルニアで自然分娩で子供を出産したのだと教えてくれた。もともと“意識が高く”、“健康志向”の強い義妹だったそうだが、今回の自然分娩に対して、彼女は“最先端の医療”だと語ったそうだ。だけどそういえば、イギリスで結婚した私の友人もまた、ここ最近、自宅に簡易プールを作ってそこで無料で水中出産をしていた。私が「何故そんなことを?」と驚いていると、十年以上もイギリスで暮らしている彼女は、「自宅出産も水中出産も割と最近は一般的よ。イギリスの出産事情はとても“進歩”しているからラッキーだったわ。」と私に語ったのである。病院の一室で自然分娩をしたり、自宅で水中出産をすることが、“進歩的”で“最先端”な出産なのだとすると、アマゾンの奥地で出産する原住民たちは、それこそもう最先端中の最先端医療を駆使した出産ということなのだろうか。そんなことを考えながら、私は三か月後の出産を控えつつも、まだまだ身軽に学校へ通う日々である。

9月15日。今月からまたマディソンでの暮らしが始まった。毎日語学学校の授業を受け、火曜日と木曜日に午後からウィスコンシン大学のシネマ学の新しい授業を聴講し、火曜日は夕方からシネマ学の授業の映画上映に参加し、週末はフリーの映画鑑賞に出向くという相変わらずの生活が戻ってきた。妊娠七か月なので、前と全く同じ生活とは言えないけれど、それでも参加できるアクティビティには出来る限り参加し、やれるだけの予定を詰めて、毎日たくさんの荷物を背負って朝からバスでダウンタウンに向かう日々である。

そんな中、今日は以前からカンバセーションパートナーだったロマン・パラヴァノフ青年と二か月ぶりに再会した。これまで私は3人ほどカンバセーションパートナーというボランティアで英語を教えてくれるネイティブスピーカーを持っていたが、他の二人とは前のセメスターが終わるころに契約(口約束)を終了していて、ロマン・パラヴァノフ青年は最後のパートナーだったのである。ウィスコンシン大学で材料工学をメジャーとして専攻し、マイナーとして日本語を勉強していた真面目なロマン君と、私は半年以上前に出会い、それ以来毎週水曜日の夕方に二時間ほど日本語と英語を織り交ぜて「カンバセーション」をしてきた仲である。ロマン君は、ハリーポッターのような可愛い顔をしているが、そのくせ「飛び級」するほど頭が良く、ちょっとした質問にも熱心に答えてくれる最高のパートナーで、一度はThanksとThank youの違いについて小一時間ほど説明してくれた奇特な青年だった。が、そんな彼とも今日でパートナーは解消である。というのも、この秋からロマン君は一年間日本の九州大学への留学が決まっていて、今週末に日本に発つからである。

いつものごとく少し時間に遅れて待ち合わせ場所に来たロマン君は、これまたいつものごとくとても忙しそうで、夏の間も日本語の強化授業を受講し死ぬほど漢字を覚え、父親の仕事を24時間手伝い、毎日とてつもなく忙しかったと優しげな顔で語ってくれたので、私もこの夏は大変な英語のクラスを終えて、ひどいツワリによってパリではそこら中で吐いていた、と報告したりした。それでも目前に迫った留学をとても楽しみにしているロマン君はとても嬉しそうで、今は忙しいけれど、日本の大学がアメリカの大学と比べてあまり勉強しないと聞いているから、これからの一年間はバケーションだと思っていると言ってまた笑った。「きっと日本の大学では時間を持て余すだろうね」と私が言うと、ロマン君は「それでも楽しみだ」と言う。そして、一年後に留学を終えてマディソンに戻ってきたら、今度はその次の夏、東京のインターンシップに応募して日本に再び来日するつもりで、自分のゴールは材料工学を活かせる日本の会社に就職し、半分は日本、半分はアメリカで働けるポジションに就くことだ、と語った。「彼女?彼女はコンピューターサイエンスを専攻していて、将来的にはコンピューターさえあれば自宅でできるような仕事に就くから、そうしたら一緒に日本とアメリカを行ったり来たりできると思うんだ。」

 ああ…と私は心の中で唸る。私がアメリカに来て、こちらの若者が素晴らしいと思うのは、いつもこういう所なのだ。語学学校に通う様々な国のティーン達もそうだが、彼らは自分の明確なゴールをきちんと口にすることが出来るのである。他のカンバセーションパートナーだった女学生のミカエラも、将来的には語学の先生になりたいのだと言って、インターンシップで韓国へ渡っていったし、そのためのステップとしてボランティアで英語を熱心に教えてくれていた。大学院生でゲーマーのジョシュは、日本のゲーム会社で通訳の仕事に就くと言っていたし、語学学校で出会ったわがまま娘のコロンビア人マリアはジャーナリストが自分の夢だと語った。クラス一出来の悪いサウジアラビア人のアハメでさえ「自分は将来医者になる」と言って、コミュニティカレッジでは数学の授業を受けていると言う。(もちろん、アハメが医者になると発表したときは、クラス中が「絶対病気になっちゃだめよ!」と騒いだのだが。)彼らはたかだか二十歳やそこらである。だけどその一方で、私が語学学校で出会った日本人の留学生たちというのは、英語の出来不出来にかかわらず、驚くほど自分自身の将来についてうまく語ることができないという印象が強い。海外の学生たち(特にアメリカ人)が、明白な目標のために今を生きているのに対して、日本人の留学生たちは将来の話になると途端に歯切れが悪く、ぼんやりとしたことしか言わないことが多かったのである。

もちろん私だってそうだ。今期から受講しているライティングの授業で、担任のベス先生は生徒の一人ひとりの英語との向き合い方と、ゴールについて書かせたうえで、授業で発表させた。授業を生徒のニーズに合わせて、何を重点的にやるべきかと先生自身がその方針を生徒に合わせて決めることにしている授業だからだ。「ジャーナリズムを学びたいからTOEFLのスコアを80点以上取りたい」中国人のエレンが言う。サウジアラビア人のダラルもPhDを取る目標について語る。だけど、私はこうだ。「英語を勉強するのが楽しいからこの授業を取りました。もちろんTOEFLやTOIECの良いスコアを取って何か日本で仕事に就けたらいいですけど、いかんせん今妊娠中なので、なかなかテスト勉強は出来ないですしね…。」

ロマン君もミカエラもジョシュもマリアもアハメもエレンも、嬉々として将来を明白に語る。語ることを恐れないし、その目標に向かって日々学んでいる。そんなことを考えていると、「子供が生まれたら見せてね。」とロマン君が私に言った。「うん。ロマン君も気を付けて日本に行って来てね。」私はロマン君に別れの挨拶をした。ロマン君は去りがたそうにしながら、少し寂しそうに微笑んでくれた。だけど、去りゆくロマン君の後ろ姿が私にはなんと眩しく映ったことだろう。それは、こちらに来てから何度も目にした、自分の足で目標に向かって歩き、饒舌に未来を語る海外のたくましい若者の姿だったからだ。

 8月18日。パリに来て、一年ぶりに日本人の美容師さんに髪の毛を切ってもらうことが出来た。ヘアカットの問題は、海外で暮らす日本人にとっては大きな悩みの一つではないかと私は思う。一年前に渡米してからこれまで、私は二度、現地の美容院を恐る恐る訪れたことがあったけれど、どちらも日本の美容室のクオリティに比べたらすこぶる期待外れだったからだ。マディソンで行った一つ目の美容院では、途中からいきなり「スタンドアップ!」の号令がかかり、鏡の前で立たされたままカットされるという驚きの展開を見せたし、二つ目の美容院では、シャンプー台は痛い上に、まだぽたぽたと髪の毛から水が滴る中カットが始まる始末だった。

 「日本の美容院の技術は世界一ですよ。」パリで紹介してもらった日本人の美容師さんにその話をすると、彼はそう言った。「フランス人にとっても、日本人の美容師がわざわざフランスまでカットを学びに来るのが不思議らしいですよ。」個人宅で口コミだけの流しの美容師をしている日本人美容師である通称「ダッツさん」は、日本式の素晴らしいシャンプーを施してくれながらそう教えてくれた。渡欧5年、パリコレなども経験し、最終的に個人でひっそりとサロンを開いている彼は「でも僕は日本でやるよりは、パリで切る方が性に合ってて好きなんですよね。」と語った。ダッツさんにとって、海外で切ることの醍醐味は、「フランス人の個性」に触れることだそうだ。彼らはいつも「自分をよく知っている」とダッツさんは言う。フランス人は自分に一番似合うものを知っているから、流行に流されない。確固とした自己を持っていて、それをちゃんと主張する術を知っているのだそうだ。

 ダッツさんの話を聞きながら、私は「そういえば。」と思い当たる。フランスでは買い物をするとき、私が迷っていると店員がとにかく「こっちがいい」ときっぱりと主張することが多いからだ。アメリカだと、たいていこちらが迷っていると適当なことを言われた後ほっとかれるのが関の山だが、フランスでは「あなたはこっちがいいわよ。」と気持ちがいいほど押し切られることが多い。ほとんど命令口調だが、だけど不思議とそのアドバイスは正しかったりする。また、一度はパン屋さんでクロワッサンを二つ購入しようとしたマダムが、ケースから取り出す店員に「違う、それじゃない。奥から三つめのその隣のクロワッサンを取って。」と細かく指示しているのも聞いたことがあった。私には、そのケースに入っているどのクロワッサンも同じ色と形にしか見えなかったので(おそらく味も一緒だと私には思えた。)、その時もフランス人のこだわりの奥深さに驚嘆したものである。彼女にとっては、ショーケースに並んでいるクロワッサンの一つ一つのも、個性があったのだろう。

 だからこそ、街ですれ違うフランス人の行動にもどこかしら「確固たるもの」があるようにも私には感じられる。知らない人同士が、まるで知り合いであるかのように堂々と自分の意見を言い合ったり、言葉をかけあう瞬間を見ることがあったからだ。今日も、ダッツさんのサロンに行く途中のメトロでちょっとした事件があった。実は、私の乗っていたメトロに、少し頭のおかしい黒人の男の人が、何か怒鳴りながら乗車してきたのである。彼は私が座っている座席とは反対方向へ歩いていき、そこに座っていた小学三年生くらいの白人の男の子に向かってなにやらまくし立てたのである。小学生の男の子からしたら知らない頭のおかしいおじさんである。隣には若くて美しい男の子の母親が座っていた。だけど次の瞬間、最悪なことに、その頭のおかしい黒人が小学生の男の子の頬をパチンと軽くはたいたのだ。私は恐怖で身がすくんだ。見ると、男の子も顔をこわばらせてはいたが、母親は何も聞こえてないふりを決め込み、男の子に何やら毅然とした態度を取るように話しかけていた。黒人の男はなおも何か男の子に向かって話しかけようと試みていた。その時である。見かねて後ろから中年のおじさんが立ち上がったのである。フランス語なので何を話しているのか分からなかったが、彼は黒人とその小学生の間に滑り込むと、男の子を守るように立ち、誰もが注目しているのもお構いなしに黒人に向かって長いこと怒鳴り返した。それを皮切りに、後ろから黒人を責め立てる女性の声も聞こえてきた。まるで絡まれた母子を守る正義のヒーロー達である。

こんな正義のヒーローは日本でも起こり得ることだろうか?もしかするとあり得ることなのかもしれない。だけど私は、こういう公の場所で自分がふと「こうした方がいいのではないか?」と思ったことを、ストレートに信じてふるまうということの難しさについて考えてしまったのである。お客様に自分が「こっちの色の方が似合っていますよ」と強く勧めることも、誰にも理解されないかもしれないけど「このクロワッサンがクロワッサンの中で一番美味しそう」と店員に主張することも、あるいは「子供を守らないといけない」という当たり前のことを行動に移すことも、すべてが私にはとてもじゃないけれどなかなか出来るものではないし、恥ずかしさや自己防衛に駆られて表には現れない感情の一種に思えたのである。だから、こんな風に迷うことなく自分の信じた意見を知らない人にさえ言えるということが、私には「自分」という哲学を持っているフランス人の、フランス文化の、ある種諸刃の剣のような美徳に感じられたのである。

ニッポン症候群

 7月16日。「パリ症候群」という疾患がある。これは、メディアなどで取り上げられるパリや異国での華やかな暮らしに憧れた外国人が、暮らし始めてからその理想と現実のギャップから発症する適応障害の一種のことである。確かにパリに限らず、「理想とする海外生活」にうまく順応できない苦しさというのは誰にでもあることである。実際、全米で最も住みやすい町として名高いマディソンですら、「思っていた場所ではなかった」「日本に帰りたい」と日本人留学生が漏らしているのを聞いたことがあるのだから、華やかな「パリ」という町が持つイメージとのギャップが精神に及ぼす影響は計り知れない。その上、パリジャンは世界一冷たい人種で有名である。10年前、パリに旅行で訪れた際にも、モンサンミッシェルをガイドしてくれた日本人のガイドさんが「パリはパリジャンさえいなければ素晴らしい。」と臆面もなく語ってくれたことがあった。パリはオシャレで美しくて美味しい。だけどそればかりではないのだから、期待と失望のスパイラルというのは起こりうることなのかもしれない。

 事実、私もパリに着いてすぐに掏摸に遭遇した。ある時はピカソ美術館に行く途中、日本に知り合いがいると言って親しげにフランス人が声をかけてきたことがあったが、彼はチケット売り場まで来ると、チケットを買ってきてあげるからお金を出せと言ってきた。(断るとどこかに行ってしまった。)パリから一時間半ほど郊外のプロヴァンに日帰りで遊びに行ったら、「テロで爆弾がしかけられた疑いがある」と言って帰りの駅が封鎖されていたこともあったし、南仏に遊びに行こうと計画していたらニースでテロが起きた。パリ祭のエッフェル塔の見物に行ったら、シートを踏んだだけですごく怒られたこともあった。おまけに、パリはどこもかしこも全く冷房がきいていないし、道端はウンコだらけだ。だから、手放しでアメリカやパリでの「海外暮らし」を礼賛することは危険なのである。

 だけど今日、白井君とパリで人気のラーメン屋さんに足を運んだ時のことである。それは日本人が経営しているレストランで、店内は広々として明るく、ラーメン屋さんというよりは綺麗な食堂という感じだった。お腹が空いていたので、カレーやかつ丼、定食などのメニューがあることに私は心ときめかせていたのだが、ふとこの店がどこかいつもと雰囲気が違うことに気付いて顔を上げた。見ると、店内をあわただしく歩き回る従業員の人たちは誰一人として私語をしておらず、きびきびと接客にまい進している。彼らは常に店内に目を光らせ、どんな合図も見過ごさないように待機し、空いたテーブルは瞬時に磨き、一つとして無駄な動作がない。注文をすれば「少々お待ちくださいませ」と一礼して去っていくし、私がぼんやり空を眺めていると、「もしかしてまだ注文を聞いてなかったでしょうか?」と違う店員が飛んでくることさえあり、しまいには、白井君の足元に店員が落とした伝票を白井君が拾おうとした途端、「私が拾いますのでそのままで!」と駆け寄ってきたのである。一年以上海外の接客に慣れていた私たちは、すっかりその対応に感動し、言葉を失って顔を見合わせてしまった。

 もちろん、こんな接客は日本に居たら日常茶飯事なことかもしれない。だけど、一年以上日本に帰国していない私たちにとって、それは日常茶飯事ではなかった。カリフォルニアの日本人街のレストランでさえこういう日本のクオリティに出会うことはなかったし、そもそも最初から期待をしていないので私たちは失望すらしなかった。もちろん、そういう日本食のレストランにはたいてい、インターンシップで働いていると思われる日本人の従業員がたくさん働いているのだが、彼らだってアメリカ式、パリ式の接客を心がけているのが常である。語学学校のネイサンは、ロシア人の不愛想な接客はアメリカ人にとっては不快感を与えることがあるのだと、カルチャーショックについてビデオを見せてくれたことがあったけれど、日本人からしたらアメリカ人の適当な接客も十分カルチャーショックだと私は思わずにはいられなかった。けどそれは、もともと「ない」ものなのだから、「ある」と主張する方がおかしいのである。郷に入っては郷に従え、である。

だから、そうやって体内時計を合わすかのように、海外の「接客」というものにも適応してきた私たちにとって、今日、パリで出会った「日本の接客」というものは、思いがけず懐かしさと感動を運んできたものだったのである。日本では当たり前のように感じている、「お客様」というポジションが、これほど心地よいランチの時間を提供してくれるのかということに驚きつつ、私は密かにこの感動を、「パリ症候群」ならぬ「ニッポン症候群」と名付けた。それは、遠い異国で思いがけず祖国の美しい精神性に出会い、胸がいっぱいになるという精神疾患のことである。

マディソン~パリ

 7月6日。知っていたことだが、パリジャンはオシャレである。思い返せば、ウィスコンシン州マディソンではすれ違う人のおよそ6割が“ウィスコンシン州産”のTシャツを着ていると言っても過言ではなかった。そもそもマディソンには“バジャーズ”というウィスコンシン大学の有名なアメフトのチームがあり、“バッキー君”という穴熊の人気のご当地キャラクターが存在している。そしてそのご当地グッズのショップがマディソンのメインストリートにはいくつも存在するのだが、マディソンの道行く人々は老若男女問わず、6割以上が必ずバジャーズのトレーナーやTシャツを着て意気揚々と闊歩しているのである。これが、アメフトのハイシーズンともなれば、試合のある日はその率が6割から9割に跳ね上がる。トレードマークの怒り顔の穴熊バッキー君がプリントされたTシャツ、あるいは真っ赤なトレーナーにマディソンやウィスコンシンのマークのほどこされたものを着た嬉しそうな人々が町中に溢れかえるので、赤い服を着ていないのはアジア人か変わり者くらいなものである。語学学校では、ジム先生だって普段からバッキーを着て教鞭を取っているし、感化されやすいティーンたちの何人かも渡米してすぐに購入したであろうバッキーTシャツを着て授業を受けていたりする。もちろん、私だってバッキー君の靴下とバジャーズの毛布を愛用していたし、マディソンに住んでいるとバッキー君を身に着けることは、何と言うことはない「普通のこと」だったのである。

 だけど、そんなバジャーズの世界から花の都パリへ来てしまうと、私たちは嫌でもその違いを目の当たりにしないわけにはいかなかった。美しい街並み、美しいパリジャンたち。パリジャンのスタイルは、私たちが知っているアメリカはマディソンのスタイルとは180度違っていたからである。私はすぐに週末、アニエスベーで服を購入し、シャンゼリーゼ通りで鞄を、白井君は革靴とベルトとシャツを購入した。マディソンでは一度も着ることのなかった類の服や鞄をパリで持つことに抵抗がなかったし、マディソンで着ていたカジュアルな服やバックパックは逆に、パリでは到底使えるとは思えなかったのである。私たちはすっかりパリの洗練された空気に魅了され、早くも嬉々としてその空気に染まろうとしていたし、時にあれほど愛していたバッキーTシャツに疑問を投げては、「そもそもアメリカというのはどうしてああも大ざっぱでコーラとバーガーしかないのか」などと一週間で発言するようにもなっていた。

 そんな昨日のことである。二人でパリ市内を散策し、メトロのエスカレーターに乗っていた時のことである。歩き疲れた私は、前に立っていた白井君に寄りかかるようにしてエスカレーターに立っていた。早くアパートに帰って休みたいと思って少し目をつぶってさえいた。その時である。なぜか分からないが、急に背後で嫌な気配を感じたのである。振り返ると、今まさに、私のショルダーバッグの外側のファスナーがぱっくりと開けられ、見たこともない白人の女の子の小さな顔がその中を覗き込んでいた。少女は、その白く美しい手を私の鞄の中に入れようとしている瞬間だったのである。いつの間にこんなにぴったりと私の背後にくっついていたのだろうか。咄嗟にその外ポケットには携帯電話を二台しか入れてなかったということを頭の中で思い起こし、しかもまだその携帯電話がそのポケットの中に納まっていることを目で確認しながら、急いで私は鞄を少女から引きはがした。見ると少女の後ろに、その少女よりは少し背丈の高い別の少女が、これまたぴったりと下から掏摸の現場を見られないようにカモフラージュのようにして立っているのも目に入った。すっかり混乱しながら私が急いでファスナーを締めると、少女たちは悪びれもせず、悔しそうな顔をしてエスカレーターを降り、階段を逆方向へかけて行ってしまった。背の高い方の少女はiPhoneでもいいから盗めばよかったのにといった雰囲気である。

 「斜め掛けのこういうショルダーを買った方がいいですよ。」パリに到着直後、パキスタン人のマンションのオーナーが私たちにそうアドバイスしてくれた言葉が思い出された。「掏摸がいますから。」そう言って若いオーナーは胸の位置に来るように一番短く調整されたショルダーバックを私たちに示したが、私はそのショルダーバックはパリジャンにしては少しダサくないだろうか、などと感じたものだった。考えてみたら、マディソンの人々は少しダサかったけれど、そんなセカンドバックを大事そうに抱えている人は居なかった。今日は今日で、二人の若い男の掏摸がアジア人女性の荷物を持つふりをして近づいており、フランス人の男性が大声で彼らに警告をしている姿を見た。「アタンシヨン!」フランス人の男性は厳しい口調でアジア人女性に向かって叫んだ。二人の少年はすぐに蜘蛛の子を散らすようにして気まずそうにどこかに消えて行ったが、その図星そうな顔を見れば二人が親切心で女性の荷物を運ぶのを手伝っていたわけではないのだというのは誰の目にも明らかだった。

恐ろしいパリ!そしてオシャレなパリ。同じ海外とはいえ、ここは私たちが一年間過ごした平和で美しいマディソンとは全く違っていた。ここにはスタイリッシュで洗練された人々が居る代わりに、何の見返りもなしに親切にバス代をおごってくれるバスの運転手、ピザを一枚おまけしてくれる店員、カフェで隣に座っている人に自分の荷物を見ていてくれと無邪気に頼む人たちは到底いなさそうだった。代わりに乳飲み子を抱えて一家で物乞いをする難民、むき出しの拳銃に手をかけて警護する警察隊、観光客を狙った掏摸が当たり前のように暗躍する、そんな世界でもあったのである。