« 2005年12月 | メイン | 2006年02月 »

2006年01月 アーカイブ

2006年01月07日

若頭最後の新年祝賀会

1月1日(日)

平成18年元旦。午前10時。
毎年恒例のだんじり前での新年祝賀会である。
段取りは若頭の担当であり、9時50分に行くとすでにだんじり小屋が開けられ、だ
んじり前には、筆頭と会計チームの手によって白布が敷かれたテーブルが並べられ、鏡餅、御年賀と書かれた清酒、スルメなどなどが献じられている。
それから別のテーブルには卓上カセットコンロが3つ並べられ、どデカイおでんの鍋
と胴長の味噌汁の鍋、「若頭」と書かれた4合入りのこれまた大きなステンレス製チ
ロリ数本(これは祭の時、水桶の水を飲むのに使う)に酒が入れられ、湯燗されてい
る。
「おでん、味噌汁、燗酒、て紙に書いて、テキ屋出来るのぉ」と冗談を言いながら、
段ボール箱を上手く使って、コンロの火が風で流れないように風防を作る。

元旦から続々と集まるだんじり野郎たち。
年下からは「おめでとうございます」年上からは「おめでとうさん」という挨拶。
毎年恒例であるが、時折雪が舞った去年や一昨年と思い出して比べると、とても暖かい。
若頭でだんじりを2メートルほど小屋から出す。
雲ひとつない快晴で、だんじりの大屋根破風を見上げると眩しくて目を開けていられ
ない?
定刻の10時を少し過ぎ、今年度の祭礼4団体の長、すなわち世話人から曳行責任
者、
若頭筆頭、拾伍人組々長、青年団々長が前に並び、だんじりに向かって全員が二礼二拍一礼。
そして御神酒の栓が抜かれ、若頭がめいめいに紙コップを配り、御神酒を1センチほど注ぐ。
平成18年度曳行責任者Mさんの短い挨拶の後、乾杯。

今年は暖かいので、みんなビールにおでんという感じで、燗酒はあまり人気がない。
コロの入ったおでんは、こってりと旨い。
剣先のスルメが焼き網で炙られ、アチチアチチと言いながら裂かれて酒のアテにされる。
しかしながら何人の男が集まっているのであろう。100人以上は軽くいるだろう。
だんじり大工の棟梁のKズが遅れて到着。
みんなが周りを囲む。
「今朝、3時半までHシらと飲んじゃあった。ここ7~8年みな年越しは家へかえっ
てないんちゃうか。昨日ももう帰るもう帰るちゅうて、気づいたら3時まわっちゃ
あった」
防寒系の服の面々の中、目立っているのはネクタイスーツ姿のS井。
見ると、だんじり小屋すぐ横にハザードを点滅させたタクシーが停車している。
「正月早々、仕事か。まあ一杯飲んでいけよ」
「アホなこと言わんといてえな」

世話人、若頭、拾伍人組、青年団の順で記念撮影の後、ささーと後かたづけして岸城神社へ参拝。
時刻を見るとちょうど昼前である。
揃って参拝者の列に並び、鳥居をくぐり、手水所で手と口を清める。
賽銭を入れて二礼二拍一礼。
本殿の右前にはテント張りの小さな受付があって「岸城神社御鎮座650年大祭記念事業」と書かれている。
見ると町会長のT谷さんとT中さんがネクタイを締め、受付をしておられる。
「おめでとうございます。ご苦労さんです」と全員で挨拶をすると「今日は、うちの
当番や」とのこと。
多分、宮本町、上町と我が五軒屋町の宮三町で日替わりで受付をしているのであろ
う。
銅板に名前と願い事を書く新年特別奉納と、650年記念事業の奉賛趣意書が配られていて、またその横で菰樽の振舞い酒が行われている。
「皆、一杯飲んでいってや」とうれしいお言葉に甘え、素焼きの皿に注がれた樽酒を
頂く。
その後、わいわいと岸和田城の堀端を歩いて、だんじり祭発祥の三の丸神社に参拝。

ふと若頭も今年で終わりかなと思いながら、いつのまにクルマで来たのだろう前梃子責任者のS三の軽のバンに8人乗って町に帰る。
「まるで免許取り立てのヤンキー集団みたいやなあ」と笑いながら約3分の帰路につ
く。
今年はどんな年になり、その中の祭はどんなものになるのだろうか。

2006年01月17日

だんじりフォーラム前哨戦

1月14日(土)

泉大津で行われる「だんじりフォーラム」=『泉州とだんじり』の打ち合わせで、池上曽根弥生学習館に行ってきた。
このフォーラムは、すでに朝・毎・読各紙にて記事紹介されているが、300年の歴史を誇る泉州のだんじり祭を、その系譜や地域による違い、大工や彫刻仕事、だんじり装飾、祭そのものを運営する組織団体、さらには囃子や半纏法被といったさまざまな視点から読み解き考える、という趣旨である。

フォーラムは1~3月にかけての全6回で、
1 シンポジウム「だんじりの魅力を語る」(1/22)。
2「地車(だんじり)大工が語る匠の技」(2/5)。
3「地車彫刻師が語る匠の技」(2/19)。
4「だんじり祭を盛り上げる囃子・鳴物」(3/5)。
5「だんじり衣装と装飾」(3/19)。
6「祭の1年」(3/26)
であり、わたくし江 弘毅は第1回目(1月22日)のシンポジウムのパネリスト、そして10代後半から20代半ばまで約10年間鳴物をしていた関係で第4回のゲストと、第6回目の「祭の1年」のコーディネーターを仰せつかっている。
これも晶文社から「だんじり本」つまり『岸和田だんじり祭だんじり若頭日記』を去年8月に上梓したことからお呼びがかかり、地車大工棟梁、彫刻師、法被・半纏染色職人、纏制作職人さんといった「その道の第一人者」や、さらに郷土史家やだんじり研究専門家、そして現役の鳴物の奏者といったこれ以上にないだんじり関係者の面々に混じり、参加させていただくことになったのだ。
そこでは摂河泉300台ともいわれる数あるだんじりのなかでも、自他共に認めるF-1的存在の岸和田旧市だんじり祭の平成一五年度若頭筆頭をした経験と、この長屋流「だんじり観」を思い存分語らせていただく所存だ。
と意気込んで、第2回のコーディネーター、第5回のゲストの「だんじり本」でもしばしば登場するだんじり博士・泉田祐志くんと、わが五軒屋町のテーラータカクラで待ち合わせして会場へと向かう。
しばしば書いているが、こういう際のテーラータカクラはいつもありがたい「場」である。
幼稚園頃からの友達の泉田くんは二つ年下でいまなお親交深い。隣の筋海町の現役の若頭であり、昨年筆頭を終えたばかりである。
道すがらの車中では「だんじりちゅうても泉大津とかと、岸和田旧市はちゃうからのお」「こっちは、よその祭なんかあんまり気にせえへんし」とか「岸和田でやったら上から、「何、べっこ(なまいき)なこと言うてんや、おのれらは」て言われるに決まっちゃある。会場が岸和田やないから逆に、気ぃ楽ちゃうんけ」などどF-1パイロットあるいは大リーグ・プレイヤーのプライドもかくやの話をしながら、泉田くんのクルマで雨の中を約30分、泉大津の会場に着く。
着くと同時に入口で、平成4年に岸和田旧市の年番総務をされていて「岸和田だんじり会館」初代館長の松山さんとお会いする。
岸和田旧市のだんじり大先輩である。
「松山さん、こんにちは」とご挨拶。確かテーラータカクラのM人の叔父さんのKちゃんと同級生か何かのはずで、わたし・泉田両名は顔を見知りおき頂いている。
初老の松山さんは今、沼町の町会長をされていて、第1回目のパネリストと5回目のコーディネーターである。

館内に入ると、すでに郷土史家で岸和田市史編纂委員されていた玉谷さんが来られている。
「玉谷さん、ごぶさたしております。宮三町の町会寄り合いではお世話になりました」とご挨拶。
「だんじり本」でもそのことにふれたが、平成一五年度の宮本町、上町、わが五軒屋町の「宮三町」の町会長と世話人会責任者つまりその年の最高責任者である曳行責任者以下、若頭はじめ各団体の「長」が揃うオフィシャル懇親会の際に「宮三町の歴史」のレクチャーをお願いした方で、70歳は越えられているだろう。
長い眉毛が「市井の隠遁賢者風」の御容貌で、第1回目のシンポジウムの司会進行まとめ役である。
その第1回目のシンポジウムは、前出の松山さんと貝塚市の摂河泉文庫資料室長の南川さん、そして泉大津浜八町祭礼委員会前副会長の橋之爪さんと私がパネラーである。
私を除いては、50代後半以上の方々。40代のわたしなど、ここにおいては「洟垂れ小僧」てなもんであろう。
えらいこっちゃ。

打ち合わせ場所の会議室に入る。
お茶が出されている最中に、第4回「だんじり祭を盛り上げる囃子・鳴物」のコーディネーターの「民の謡」代表の篠笛奏者・森田玲くんが、紋付き羽織袴姿で少し遅れてやって来る。
「森田くん、仕事帰りか」
「そうですねん。高槻で教えてましてん(文化庁委嘱 伝統文化こども教室)」とのこと。
着席順の左回りで第1回目のシンポジウムの方々および泉田、森田両君で自己紹介を兼ねてトーク。
もう凄いのなんの、である。
松山さん南川さんは昭和27年の講和条約後の泉州だんじり祭についての「当局の扱い」で、岸和田旧市、熊取だけが10月4日・5日の祭礼日指定を蹴ったこと、昭和30年の「(大喧嘩続出で)荒れた時代」のだんじり祭廃止論と当時の世論形成とマスコミ露出の影響と諸問題、泉大津の橋之爪さんは泉大津だんじり独特の「かち合い」の変貌と警察介入…と高度かつ熱すぎる話が沸騰。
こんにちの岸和田旧市を中心としただんじり祭の注目・興隆は、戦後すぐの先人たちのご努力にあったのだ。
すなわちわたしや泉田博士は「あらかじめ遅れてきた世代」で、森田くんは「さらに遅れてきた世代」なのである。
そのせいか、いつも博学ぶりで聴くものを唸らせる泉田くん、それに続いて偶然席順最後になったわたしの「だんじり現象学」は曇りがちで、あっという間の2時間打ち合わせの後、続いて開かれた小宴会でもいつもの酒量の2分の1にとどまった恐縮ぶりであった。
あかんではないか。「借りてきた猫」とはまさにこのことである。
けれども祭当日は「遣り回し」指揮官であり、岸和田旧市のばりばり現役の若頭の威信にかけても、当日の「ここ一番」においては「気合一発」の「重層的社会においての共ー欲望としてのだんじり祭礼、および第三のコミュニティの場の可能性としてのだんじり寄り合い論」をご披露するつもりである。

2006年01月23日

ラジオとババ酔い

1月21日(土)

午後1時半から月一恒例のNHKラジオ第1放送「かんさい土曜ほっとタイム」の生放送。
レギュラーで出演するようになってちょうど2年になるが、相変わらず台本の棒読みみたいになってしまうところがどうも自分自身にとってはあまり面白くない。
そんな愚痴をこぼすことについては、本当は無効なハズである。
なぜならあらかじめ自分でA4 ペラ2枚の台本を書いているからだ。
けれども書き言葉をそのまま読み上げる、という行為は何だかしっくりこない。
やっぱりその場限り、出たとこ勝負のイタコ状態においての舌先三寸の話(@内田樹)のほうが、喋る方だって楽しいに決まっている。

この日の内容は、北船場とりわけ三休橋筋の「まち歩き」について。
大阪のキタとミナミを繋ぐ御堂筋と堺筋のちょうど真ん中にある南北2キロの三休橋筋の魅力、なのだが、5年ぐらい前から、そのストリートとしての魅力を探りPRし続けている自主活動グループの「三休橋筋愛好会」のかたがたに直接お話をうかがっている。
「三休橋筋愛好会」のS原さんによると、道幅が13メートルのちょうどよい幅のこの通りは「街路樹や歩道が整備されていて気持ちよく歩けます。ヒューマンスケールなストリート」と表現されていた。

大阪の船場は、その昔から南北の道路を「筋」、東西を横切る道を「通」と通称しているが、もともと江戸時代からその東西の通りごとに特徴のある町が形成されてきた。
例えば、北からご紹介すると、金相場会所や俵物会所から発展してきた金融取引の町・北浜。
続いて、鴻池始めとする両替商の屋敷が建ち並び、現在は保険会社やメガバンクの金融機関が集中する今橋。
武田、塩野義、田辺といった薬品会社が軒を連ねる道修町。
かつては夜店で賑わい、都心部では珍しく今も個人商店が建ち並ぶ平野町。
さらに南へ下ると繊維街の本町・南本町。
といったように、南北の筋の三休橋筋を歩くと特徴的なそのルーツと現在がわかる。

また近代建築の宝庫で、これも北からご紹介すると、中央公会堂(辰野片岡建築事務所 1918)、八木通商ビル(辰野金吾 1918)、現在仏料理グランメゾンの『シェワダ』になっている大中証券(辰野片岡建築事務所 1912 )、その南に隣接する浪花協会(ヴォーリズ 1930)、国際連盟を脱退した際のリットン調査団がここで待機したという綿業会館(渡邊節 1931)、大阪農林会館(1930)、原田産業ビル(1928)と盛りだくさんである。
またその中に、適塾はじめ戦災を免れた昔の佇まいを見せる旧家が混じり、新しいビルが建ち並ぶ御堂筋や堺筋とは異なった、船場本来の豊かな表情にふれることができるのも魅力だ。
このところ、そんな旧いビルのフロアや旧家をレストラン、カフェやブティックといった店舗に転用しているところもあって、旧き佳き大阪、に直に触れられるのもうれしいことだ。
といったことを約15分間、駆け足で話す。

遅い昼飯を食べて、いよいよシンポジウム『泉州とだんじり』のレジュメにかかる。
ひとつ前の「長屋ブログ」でも触れたが、わたし以外の諸先輩方は、ほぼだんじりの歴史の話題に終始するだろうから、わたしは祭礼を支える普段からのコミュニケーションの「場」としての「寄り合い」ほかを中心にまとめる。

そうこうしているうちに、冬空が暗くなってくる。
夜7時からは平成18年度五軒屋町若頭の新年会である。
実家に帰って、バッグだけ置き「ほな、新年会行ってくるわ。遅なるし、鍵開けといてなぁ」と世話人の兄に言うと「おれとこも新年会や」と言う。
前の泥除けに「五軒屋町○-× マルエ洋装店」と住所と屋号を白のペンキで書いてあるママチャリに飛び乗り、M人と明智光秀の肖像画がある本徳寺で待ち合わせて、会場の南町の活け魚料理「ヒロ」へ向かう。
2人並んでキコキコと自転車をこいで10分足らず。
ガキの時のまんまである。

若頭顧問および相談役、つまり若頭最年長になった昭和33年生まれのオレら6人は奥の席である。
単身赴任の岡山からKバが帰ってきている。
今年の祭が終わったらオレらの年だけで卒業旅行へ行こう、そのために今月から毎月5千円積み立てようという話がわき上がる。

毎年同じであるが、新年会の司会は次年度つまり平成19年若頭筆頭予定のO崎で、初めの挨拶は今年筆頭をやるT造である。
「みんな、今年1年オレに付いてきてくれ」と男気あふれる言葉である。

乾杯の発声は昨年度筆頭のM人である。
全員のコップにビールが注がれるやいなや、彼はなにも言わず「起立。それではカンパーイ」とだけ言った。
そしていきなり日本酒燗酒にチェンジ。文字通りの「酒呑み」ぶりである。

ことし若頭に上がってきたメンバーは10人あまり。去年の祭で前梃子係コンビとして認定された2名、大工方の1名も上がってきた関係でいつもよりで多い。
オレが筆頭をした同じ年に拾伍人組の組長をしていた、ちょうど10歳下のKタカの顔もあり頼もしい面々である。
鯛と肝たっぷりのカワハギの魚ちりで、最後の雑炊が出てきた時は、すでに下の者からの献杯酒注がれまくりでそれが腹に入らない。
歳か。というても、燗酒はうまいのだが。

新年会がハネると予想通り、M人・M雄・オレの3人はオレの自転車の後ろ荷台にM雄を乗せた2人乗り酔っぱらい運転状態で、そこから駅前に出て「喜平」に行き、偶然にも中町若頭筆頭のT満くんと大手町若頭のY本くんがいてドライブがかかり、いつの間にか一昨年度本町筆頭のワイン商のH出も合流してババ酔いの後、このところミーツ客も増えた町家バー「SISEI」の2階へ上がり込んで飲んでいたのであった。
帰って気が付けば、自転車の後輪タイヤがパンクしていた。

2006年01月27日

だんじりフォーラムでサインしちゃいました

1月22日(土)

快晴の空の下、南海泉大津駅からタクシーで会場の曽根池上弥生学習館に向かう。
午前11時きっかりに到着、出演者控室と書かれた小会議室にはいると、すでに岸和田だんじり会館初代館長の松山さんと、摂河泉文庫資料室長の南川さんが来られていて、話がはずんでいる。
耳を傾けると、熊取地区のだんじりについてであり、もうシンポジウムが始まっているかのようだ。
フォーラム名の『泉州とだんじり』の通り、だんじりは岸和田だけではなく堺、和泉、泉大津、貝塚…と約300台あり、その違いもさまざまである。
それはだんじり本体の構造や形状はもちろん、曳行の仕方、囃子、祭礼を執り行う組織祭礼団体組織…に至るまで違うからして話は尽きないのである。

ぽかぽかと陽当たりのよいコンクリート打ちっ放しの部屋で、みなさんと弁当を頂く。
泉大津市長も挨拶に来られた。
会場の外からは、だんじり囃子が聞こえる。泉大津の出屋敷の青年団だ。
早速、見に行く。
大太鼓、小太鼓と鉦が2丁ある。
岸和田の鉦はいわゆる伏鉦で、凹面の天地の部分を鹿の角の撞木を内側から入れ叩く。
摺るように演奏するから、摺り鉦とも呼ばれる。
泉大津のここのだんじりはその伏鉦にくわえて、お寺の除夜の鐘で見られる釣鐘を思いっきり小さくしたような形状の鐘もプラスされている。

会場は定員180名で、かなりの人が立ち見をしている。
シンポジウムが始まる。
まず一人約20分の「基調講演」である。
コーディネーターの郷土史家・玉谷さんは、だんじりの起源からのお話。 しっかり締まった内容である。
パネリストのトップを切っての南川さんは、摂河泉文庫資料室長というお方らしく、堺から泉南にかけてのだんじり往来や戦後のだんじり廃止論を熱っぽくぶつ。
余談ではあるが、土着系旧泉州人は「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」となり、例えば「かぜひき(風邪ひき)なので、あまい(あまい)ぜんざいがおいしい」が「かでひきなので、あんまいでんだいがおいしい」となってしまう。
南川さんは一言話し出すだけで、「それ」とわかる土着系泉州弁で、加えて機関銃のごとくお話しになるから、お年寄りも混じる地元泉州人の聴衆をぐっととらえる。
昭和25年にある岸和田の老婦人が「拝啓マッカーサーさま」と、ジェーン台風時の被害甚大地・岸和田においてのだんじり窮状を伝えた『GHQ文書』や、レンタルだんじり屋さんが繁盛していたことや雨ざらしで放ったらかしにされてたある地区のだんじりがタダ同然で売られてきたことなど、どこで仕込んできたかの昔話連発で、「ほんまかいな」と大いに笑いを取った。

泉大津の橋之爪さんは泉大津浜八町特有の「かちあい」の今昔、岸和田だんじり会館初代館長の松山さんは、自町の沼町の仕舞太鼓「おしゃしゃん」の由来を語られた。
それは大坂夏之陣の後、摂津高槻藩から岸和田藩へ岡部家が入封の際、年貢軽減の直訴を沼村の庄屋・川崎久左衛門ほかが行い、斬首されたものの、そのかいあって七千石減石になったことから、感謝の気持ちが「おっしゃしゃんのしゃんころべ」すなわち「お庄屋さんの髑髏」という歌詞になったということだ。
わたしは著書『だんじり若頭日記』からの、祭当日のみならず、普段からの「寄り合い」においてのコミュニケーションとそれを支えるかつての「地縁共同体」では決してない「だんじり社会関係」の存在について話した。

その後のシンポジウムはお客さんからの質問連発。
各だんじり専門家に混じり、わたしは「なぜ岸和田型のいわゆる下(しも)だんじりと住吉型に代表される上だんじりが分かれたのか」に『だんじり若頭日記』に記載した泉田説をもって答え、また「大阪天神祭からのルーツ」について、たまたま用意していた与謝野晶子の明治四四年の『住吉祭』の一節と、昭和四年の『大大阪』からの「天神祭船渡御式」(藤里好古)にある元禄三年『帰家日記』のにおいての地車の記載あるをもって初見とする、という記事をご紹介した。

シンポジウム後は、うれしいことにわたしの席にお客さんが列をつくってくれた。
というのも『だんじり若頭日記』にサインを、ということで、わざわざ持参されてきた方に加え、当日だけで受付で「だんじり囃子CD」by『民の謡』と一緒に並べられていたのが17冊売れたとのこと(「民の謡」のスタッフのみなさんお世話かけました。御礼申し上げます)。
180人定員で17冊、ということは10人にお一人が購入されている勘定になる。
みなさんどうもありがとうございました。
下手くそな字のサインはちょっと恥ずかしかったですけれど。

2006年01月28日

若頭の弁明

1月28日(土)

来月初旬に地元・岸和田市市民生活部の市立女性センターから、「岸和田・だんじり・今昔2」というテーマでのシンポジウムに呼ばれている。
11月頃に『だんじり若頭日記』を読まれた担当の市立女性センターのK谷さんから、そのシリーズ2回目のご依頼のご丁寧なお手紙およびメールを頂き、お電話でも数回やりとりをさせてもらった。
はじめに「女性センター」とお聞きして、これは理由もないわたしの全くの悪い偏見
であるが、なんか糾弾とかされそうな感じで「恐いナー、かなんナー」と思った。
このあたりの感覚は、やはり長屋をお借りしている関係か、大家さんの内田先生ゆずりかもしれない。
さらに、この長屋の主・内田先生は11月5日のブログで、

 すべての「だんじり」に女性が乗ることを認めよと訴えた本を書いた人がいて、岸
和田の「だんじり」関係者を代表して、江さんが毎日新聞のインタビューに「岸和田
では女性の参加は想定していません」と答えていた。
http://blog.tatsuru.com/archives/001349.php

という記述があるように、わたしは毎日新聞の記者さんにそう答えていたからだ。
「だんじり関係者を代表して」というのは、別にこのわたしが「代表」だとはこれぽっ
ちも思っていなかったが、記事になってしまったんだから仕方がない。
先週末には大阪・難波であった「なにわ名物研究会」の新年会の席で、だんじりに詳
しい講談師の旭堂小南陵師匠から「わたしは、女性の参加は完全に認めるべきやと思うわ。江くん」と言われていて、ああこの方もあの記事読んではったんや、と思いちょっとぞくっとして、ひょっとすると「みんな」がそう思ってるかもしれないと、ちょっ
とビビっているのも事実だ。

K谷さんはお手紙にて、わたしの『だんじり本』の中で、
「寄り合い等のとき個人の家で、女性の手を煩わせる場面(飲食の接待)が全くない
のに驚きました。いつごろから、このように変わってきたのでしょうか。勉強不足で
すいません」と書かれていたが、わが町の場合「寄り合い」を個人の家でやるという
ことは記憶する限り全くない。
「寄り合い」は「町会館」で、「懇親会や飲み会」は「店」でやる。
そんなシーンは『だんじり若頭日記』に、ひつこいほど出てくる(というより日記ペー
ジはほとんど酒席の話だったかもしれない)。
また、祭の最中や祭の明くる日には、婦人会の方が会館の掃除などをお手伝されるというのはあるにしろ、「寄り合い」が終了すると一番若い者のグループが食べたものや飲み残しからタバコの吸い殻までをてきぱきと片づけ、コップはじめ食器を洗い、灰皿を拭き、栓抜きをしまい…と自分たちでやる。
つまり「女手」をあらかじめ想定している、という事実はない。

とくにうちの町の場合、祭りの中枢である若頭や拾伍人組に関しては、試験曳きと祭本番の3日間は、丸大家具さんの広いガレージをお借りして「詰所」を設置する。
詰所には簡易な座席とテーブルセット約200席を仮設し、ビールやチューハイの業
務用のサーバー、また瓶や缶を冷水で冷やす業務用什器、そして生ビールやチューハイの樽や炭酸ガスのボンベが林立し、鍋料理のセットから調味料、刺身や揚げ物やおでんなどなどのアテ用の食器類に至るまで総動員である。
でかいダンボールに巨大ビニール袋を入れた分別回収のゴミ箱、地面に直に置くスタンド灰皿も毎年のように素早く、自分たちの手だけで「段取り」する。
そして一夜明けると、朝一番から「祭りの後」の抜け殻のようになった体と嗄れてし
まってほとんど出ない声状態で、すべてを片づけゴミをまとめ、コンクリートの地面
を床ブラシで水洗いし、それこそ「ほんまに昨日まで祭あったんか」というぐらいに
するのが「一六日の祭の後片づけ」の伝統であるからだ。
これは各町から代表が出る、年番・若頭連絡協議会・後梃子協議会・千亀利連合青年団の詰所となり、さまざまな町や世代の祭人間でごった返す「祭禮本部」でもしかり。
ここでも見事なまで「女手」は見えない。

岸和田だんじり祭において、「祭りの後」の行儀悪さというのが、もっともタチの悪
い振る舞いだということが、倫理的美意識においてわれわれの体に刻み込まれている。
だんじり祭礼というもんは、その「年に1度の大祭」の間中は、それこそ好き放題走
り放題遣り回し放題飲み食べ放題するのがそうであるが、その後始末を怠ると来年は祭が出来ない。
いくら岸和田祭好き体質とはいえ、だんじりが突っ込んで自分の家の壁が潰され屋根瓦を落とされて、祭が終わってもそれを放置されるのと同様に、食事や宴会の後片づけや掃除を怠ってゴミ箱のような状態なままだと「詰所」として自分のガレージも貸さないだろう。
事実、「祭りの後の」岸和田旧市街地は「なんちゅう量、なんちゅう類」のゴミだらけの街に成り果てて驚くばかりであるが、祭礼関係者およびその街に住む老若男女が、自分たちおよび70万人という観光客や露天商がとっ散らかせたその残骸を朝早くから片づける。
そうでないと、毎年われわれを熱狂させまた多くの観客を魅了する、この日本を代表する岸和田だんじり祭の伝統は、続かなかったのではないか。

K谷さんは岸和田旧市ではなく、春木~久米田地区のだんじりでお育ち方なので、そこのところは微妙に違うのかもしれないが、個人の家で親戚、友人、同僚…(この方たちは祭礼をするものではなく見物人である)を招いて饗応する際を別にして、「男が女をここぞとばかり、こき使う」みたいなことはありません、とここで書き留めて
おきたい。

それよりも、わたしがいま一番考えていることは、だんじり祭というのは、とても言
語的であるということだ。
それはふだん日常の仕事の場や街で交わされている言葉とは次元が違う、岸和田特有の祭言葉に支えられ、それによってだんじりが疾走し、曲がっているということである。
「寄り合い」は「会議」「ミーティング」、「遣り回し」は「コーナリング」と言い換えることは出来ないし「曳き出し」「チョイ取り」といった語句の持つ意味や「いかんかえ」といった怒号とも取られる言い回しは、ほかに代替不可能な言葉であり言
語運用で、さらにその瞬間瞬間で意味が違ってくるということだ。

「だれもが参加出来るだんじり祭」というのは、正しすぎるくらい正しくてとても素
晴らしい考え方である。
だからこそ岸和田のだんじり野郎というのは、一人一人それこそ個性のカタマリみた
いな人間ばかりだということの証左だし、そんな奴がいっぱい出てこない祭は非常に
どんくさくて味気ない。
そして何よりも、そのコミュニケーションそれ自体が面白くて仕方がないからそれを
やっているのである。

K谷さんからの書簡で、
「だんじりはとても言語学的であるということ。ふだん表現の過剰さや不足さがつき
まとう(それを味わい深く思うことが多い)種々のコミュニケーションのなかにいて、
だんじり祭は感覚的な過剰さと言語的な不足さで独特な存在だと感じました」
とあって、さらに、
「中上健次が描くような『路地』(ムラ?)とは明らかに違う、『祭り』でつながっ
ている岸和田の街というものについて」
の問いに答えることは、遣り回し同様大変難儀だと思いますが、10月5日のこの長
屋ブログ「だんじり現象学」http://nagaya.tatsuru.com/kou/archives/001269.html
に続いてちょっとよく考えてみたいと思いますので、どうかお手柔らかにお願いして
御免蒙る次第である。

About 2006年01月

2006年01月にブログ「「日本一だんじりなエディター」江弘毅の甘く危険な日々」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2005年12月です。

次のアーカイブは2006年02月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35