1月22日(土)
快晴の空の下、南海泉大津駅からタクシーで会場の曽根池上弥生学習館に向かう。
午前11時きっかりに到着、出演者控室と書かれた小会議室にはいると、すでに岸和田だんじり会館初代館長の松山さんと、摂河泉文庫資料室長の南川さんが来られていて、話がはずんでいる。
耳を傾けると、熊取地区のだんじりについてであり、もうシンポジウムが始まっているかのようだ。
フォーラム名の『泉州とだんじり』の通り、だんじりは岸和田だけではなく堺、和泉、泉大津、貝塚…と約300台あり、その違いもさまざまである。
それはだんじり本体の構造や形状はもちろん、曳行の仕方、囃子、祭礼を執り行う組織祭礼団体組織…に至るまで違うからして話は尽きないのである。
ぽかぽかと陽当たりのよいコンクリート打ちっ放しの部屋で、みなさんと弁当を頂く。
泉大津市長も挨拶に来られた。
会場の外からは、だんじり囃子が聞こえる。泉大津の出屋敷の青年団だ。
早速、見に行く。
大太鼓、小太鼓と鉦が2丁ある。
岸和田の鉦はいわゆる伏鉦で、凹面の天地の部分を鹿の角の撞木を内側から入れ叩く。
摺るように演奏するから、摺り鉦とも呼ばれる。
泉大津のここのだんじりはその伏鉦にくわえて、お寺の除夜の鐘で見られる釣鐘を思いっきり小さくしたような形状の鐘もプラスされている。
会場は定員180名で、かなりの人が立ち見をしている。
シンポジウムが始まる。
まず一人約20分の「基調講演」である。
コーディネーターの郷土史家・玉谷さんは、だんじりの起源からのお話。 しっかり締まった内容である。
パネリストのトップを切っての南川さんは、摂河泉文庫資料室長というお方らしく、堺から泉南にかけてのだんじり往来や戦後のだんじり廃止論を熱っぽくぶつ。
余談ではあるが、土着系旧泉州人は「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」となり、例えば「かぜひき(風邪ひき)なので、あまい(あまい)ぜんざいがおいしい」が「かでひきなので、あんまいでんだいがおいしい」となってしまう。
南川さんは一言話し出すだけで、「それ」とわかる土着系泉州弁で、加えて機関銃のごとくお話しになるから、お年寄りも混じる地元泉州人の聴衆をぐっととらえる。
昭和25年にある岸和田の老婦人が「拝啓マッカーサーさま」と、ジェーン台風時の被害甚大地・岸和田においてのだんじり窮状を伝えた『GHQ文書』や、レンタルだんじり屋さんが繁盛していたことや雨ざらしで放ったらかしにされてたある地区のだんじりがタダ同然で売られてきたことなど、どこで仕込んできたかの昔話連発で、「ほんまかいな」と大いに笑いを取った。
泉大津の橋之爪さんは泉大津浜八町特有の「かちあい」の今昔、岸和田だんじり会館初代館長の松山さんは、自町の沼町の仕舞太鼓「おしゃしゃん」の由来を語られた。
それは大坂夏之陣の後、摂津高槻藩から岸和田藩へ岡部家が入封の際、年貢軽減の直訴を沼村の庄屋・川崎久左衛門ほかが行い、斬首されたものの、そのかいあって七千石減石になったことから、感謝の気持ちが「おっしゃしゃんのしゃんころべ」すなわち「お庄屋さんの髑髏」という歌詞になったということだ。
わたしは著書『だんじり若頭日記』からの、祭当日のみならず、普段からの「寄り合い」においてのコミュニケーションとそれを支えるかつての「地縁共同体」では決してない「だんじり社会関係」の存在について話した。
その後のシンポジウムはお客さんからの質問連発。
各だんじり専門家に混じり、わたしは「なぜ岸和田型のいわゆる下(しも)だんじりと住吉型に代表される上だんじりが分かれたのか」に『だんじり若頭日記』に記載した泉田説をもって答え、また「大阪天神祭からのルーツ」について、たまたま用意していた与謝野晶子の明治四四年の『住吉祭』の一節と、昭和四年の『大大阪』からの「天神祭船渡御式」(藤里好古)にある元禄三年『帰家日記』のにおいての地車の記載あるをもって初見とする、という記事をご紹介した。
シンポジウム後は、うれしいことにわたしの席にお客さんが列をつくってくれた。
というのも『だんじり若頭日記』にサインを、ということで、わざわざ持参されてきた方に加え、当日だけで受付で「だんじり囃子CD」by『民の謡』と一緒に並べられていたのが17冊売れたとのこと(「民の謡」のスタッフのみなさんお世話かけました。御礼申し上げます)。
180人定員で17冊、ということは10人にお一人が購入されている勘定になる。
みなさんどうもありがとうございました。
下手くそな字のサインはちょっと恥ずかしかったですけれど。