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だんじりフォーラム前哨戦

1月14日(土)

泉大津で行われる「だんじりフォーラム」=『泉州とだんじり』の打ち合わせで、池上曽根弥生学習館に行ってきた。
このフォーラムは、すでに朝・毎・読各紙にて記事紹介されているが、300年の歴史を誇る泉州のだんじり祭を、その系譜や地域による違い、大工や彫刻仕事、だんじり装飾、祭そのものを運営する組織団体、さらには囃子や半纏法被といったさまざまな視点から読み解き考える、という趣旨である。

フォーラムは1~3月にかけての全6回で、
1 シンポジウム「だんじりの魅力を語る」(1/22)。
2「地車(だんじり)大工が語る匠の技」(2/5)。
3「地車彫刻師が語る匠の技」(2/19)。
4「だんじり祭を盛り上げる囃子・鳴物」(3/5)。
5「だんじり衣装と装飾」(3/19)。
6「祭の1年」(3/26)
であり、わたくし江 弘毅は第1回目(1月22日)のシンポジウムのパネリスト、そして10代後半から20代半ばまで約10年間鳴物をしていた関係で第4回のゲストと、第6回目の「祭の1年」のコーディネーターを仰せつかっている。
これも晶文社から「だんじり本」つまり『岸和田だんじり祭だんじり若頭日記』を去年8月に上梓したことからお呼びがかかり、地車大工棟梁、彫刻師、法被・半纏染色職人、纏制作職人さんといった「その道の第一人者」や、さらに郷土史家やだんじり研究専門家、そして現役の鳴物の奏者といったこれ以上にないだんじり関係者の面々に混じり、参加させていただくことになったのだ。
そこでは摂河泉300台ともいわれる数あるだんじりのなかでも、自他共に認めるF-1的存在の岸和田旧市だんじり祭の平成一五年度若頭筆頭をした経験と、この長屋流「だんじり観」を思い存分語らせていただく所存だ。
と意気込んで、第2回のコーディネーター、第5回のゲストの「だんじり本」でもしばしば登場するだんじり博士・泉田祐志くんと、わが五軒屋町のテーラータカクラで待ち合わせして会場へと向かう。
しばしば書いているが、こういう際のテーラータカクラはいつもありがたい「場」である。
幼稚園頃からの友達の泉田くんは二つ年下でいまなお親交深い。隣の筋海町の現役の若頭であり、昨年筆頭を終えたばかりである。
道すがらの車中では「だんじりちゅうても泉大津とかと、岸和田旧市はちゃうからのお」「こっちは、よその祭なんかあんまり気にせえへんし」とか「岸和田でやったら上から、「何、べっこ(なまいき)なこと言うてんや、おのれらは」て言われるに決まっちゃある。会場が岸和田やないから逆に、気ぃ楽ちゃうんけ」などどF-1パイロットあるいは大リーグ・プレイヤーのプライドもかくやの話をしながら、泉田くんのクルマで雨の中を約30分、泉大津の会場に着く。
着くと同時に入口で、平成4年に岸和田旧市の年番総務をされていて「岸和田だんじり会館」初代館長の松山さんとお会いする。
岸和田旧市のだんじり大先輩である。
「松山さん、こんにちは」とご挨拶。確かテーラータカクラのM人の叔父さんのKちゃんと同級生か何かのはずで、わたし・泉田両名は顔を見知りおき頂いている。
初老の松山さんは今、沼町の町会長をされていて、第1回目のパネリストと5回目のコーディネーターである。

館内に入ると、すでに郷土史家で岸和田市史編纂委員されていた玉谷さんが来られている。
「玉谷さん、ごぶさたしております。宮三町の町会寄り合いではお世話になりました」とご挨拶。
「だんじり本」でもそのことにふれたが、平成一五年度の宮本町、上町、わが五軒屋町の「宮三町」の町会長と世話人会責任者つまりその年の最高責任者である曳行責任者以下、若頭はじめ各団体の「長」が揃うオフィシャル懇親会の際に「宮三町の歴史」のレクチャーをお願いした方で、70歳は越えられているだろう。
長い眉毛が「市井の隠遁賢者風」の御容貌で、第1回目のシンポジウムの司会進行まとめ役である。
その第1回目のシンポジウムは、前出の松山さんと貝塚市の摂河泉文庫資料室長の南川さん、そして泉大津浜八町祭礼委員会前副会長の橋之爪さんと私がパネラーである。
私を除いては、50代後半以上の方々。40代のわたしなど、ここにおいては「洟垂れ小僧」てなもんであろう。
えらいこっちゃ。

打ち合わせ場所の会議室に入る。
お茶が出されている最中に、第4回「だんじり祭を盛り上げる囃子・鳴物」のコーディネーターの「民の謡」代表の篠笛奏者・森田玲くんが、紋付き羽織袴姿で少し遅れてやって来る。
「森田くん、仕事帰りか」
「そうですねん。高槻で教えてましてん(文化庁委嘱 伝統文化こども教室)」とのこと。
着席順の左回りで第1回目のシンポジウムの方々および泉田、森田両君で自己紹介を兼ねてトーク。
もう凄いのなんの、である。
松山さん南川さんは昭和27年の講和条約後の泉州だんじり祭についての「当局の扱い」で、岸和田旧市、熊取だけが10月4日・5日の祭礼日指定を蹴ったこと、昭和30年の「(大喧嘩続出で)荒れた時代」のだんじり祭廃止論と当時の世論形成とマスコミ露出の影響と諸問題、泉大津の橋之爪さんは泉大津だんじり独特の「かち合い」の変貌と警察介入…と高度かつ熱すぎる話が沸騰。
こんにちの岸和田旧市を中心としただんじり祭の注目・興隆は、戦後すぐの先人たちのご努力にあったのだ。
すなわちわたしや泉田博士は「あらかじめ遅れてきた世代」で、森田くんは「さらに遅れてきた世代」なのである。
そのせいか、いつも博学ぶりで聴くものを唸らせる泉田くん、それに続いて偶然席順最後になったわたしの「だんじり現象学」は曇りがちで、あっという間の2時間打ち合わせの後、続いて開かれた小宴会でもいつもの酒量の2分の1にとどまった恐縮ぶりであった。
あかんではないか。「借りてきた猫」とはまさにこのことである。
けれども祭当日は「遣り回し」指揮官であり、岸和田旧市のばりばり現役の若頭の威信にかけても、当日の「ここ一番」においては「気合一発」の「重層的社会においての共ー欲望としてのだんじり祭礼、および第三のコミュニティの場の可能性としてのだんじり寄り合い論」をご披露するつもりである。

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2006年01月17日 10:29に投稿されたエントリーのページです。

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