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2004年08月 アーカイブ

2004年08月05日

浪切神社の安全祈願祭

7月18日(日)

「岸和田祭礼安全祈願祭」が浪切神社で行われる。

この祭礼神事は若頭責任者協議会の主催で、昨年はその準備と当日の受付・接待に追われた。

去年のこの日記の4月6日に書いている通り、4月に執り行われていたが、今年からはこれから本格的に祭に突入するという、夏の盛りの7月第3日曜に決まった、と今年の若頭責任者のM雄から聞いている。

本年度の町会連合会の会長、年番長、市長ほか、各町の曳行責任者、若頭責任者、後梃子組長、青年団長の各正副が出席し、玉串を奉納して祭礼の安全を祈願する。この式典に、昨年と一昨年度の各町の若頭責任者が来賓として招かれているのだ。

法被にバッチ、鉢巻を絞め地下足袋をはいた「正装」で自転車に乗り、9時半きっかりに現地に着くと、会場の浪切神社はすでに準備万端で、記帳しようと受付に行く。受付は昨年に引き続き今年も責任者をやっている中之濱町のKで「おい江。M雄、酔うてもて、おまえとこで泊まったてかぁ」。「そうや、むちゃくちゃや」。

そうなんである、昨夜のオレとM雄は結構大変だった。

明日は安全祈願祭で、実家に帰ろうと、夜11時前に岸和田駅に着くやいなやのタイミングで、M雄からケータイが入った。

「今、どこなあ。H(本町若頭責任者)とK(堺町同)と近所で飲んでるんや」とのこと。酒屋のHは幼稚園以来の同級生だしKは本年度若責協の会長だ。断る理由なんてない。「ほな、今から顔出すわ」と近所だけれど初めてのスナックへ行く。

「オマエら明日、早よから段取りちゃうんか」
「そうやその最終打ち合わせやないか」

藤井町の若頭も来ていて、とにかく飲んでいる。オレが来たのでさらに焼酎の水割りをどぼどぼ、という感じで、今年の日程はあーじゃこーじゃ、去年はどーのこーのとあいかわらずの祭話あった後、腹が減ったと近所のうどん屋へと場所を替える。

引き戸をガラリと開けると、うちの町と中北町の年番さんほか諸先輩方がいらっしゃった。これはえらいことになりそうだ。

予想通り「この子らに、ビール10本やって」といきなりだ。40半ばの我々でも彼らにかかると「この子ら」であるのが岸和田というところだ。「えらいすんません」と声を揃えて、差し入れを頂くが、時計を見ると1時である。「こんなようけ、飲まれへんのお」と4人でめくばせしながら、それでも冷やしトマト、めざし…とアテを注文して飲み始める。

「ほな、お先に。あした頼んどくど」「ごちそうさんでした」と諸先輩方が帰ると同時に、今度は平成11年の若頭責任者数人がどやどやと入ってくる。オレの従兄弟の顔もある。

「すんません、これ飲んでください。うちの年番からもろたんですわ」とそのビールがパスされ、一人千円通しの勘定を済まし、ようやく外に出る。

M雄は結構酔っている。おまけにクルマだ。もし飲酒運転で捕まったりしたら、五軒屋町として明朝の祈願祭は洒落にならん、と実家に連れて帰る。

母親が起きてきて、今年のカシラであるM雄は子どものように「あー、えらいすんません。こんな夜中に」と恐縮している。ええからここで寝ろ、とオレが寝るはずだった6畳の部屋に布団を敷いて寝かせる。

兄夫婦とその子ども2人、そして母がいるオレの実家は狭い。母が一人寝ている部屋に、もう一枚布団を敷いてオレは寝ることにして、とにかく朝を迎えたのである。


平成15年度若頭責任者御席と書かれた席は、21町のうちの2町の町名がない。祭の明けに亡くなった大工町のM治さんと、去年春に漁船事故で亡くなった責任者のJ郎の後を継ぎ、今年もその任に当たる中之濱町のKの席だ。

今年は全員が若頭顧問に上がっただんじり男たち。普段は顔を合わさない、祭のみで繋がっている連中が、えびす顔でいる。

2004年08月11日

宮三町の花交換会と岸和田に来るタレント。

7月23日(金)

宮本町、上町、五軒屋町の宮三町の祝儀交換親睦会が夜七時半から、上町の会館で行われる。

今、これを書きながら去年の7月26日のこの日記を読み直しているのだが、会場は去年が宮本町、そして今年上町と三町持ち回りで違えども、本当に見事なほど同じことをやっている。

わが五軒屋町からの出席は、若頭筆頭と会計、顧問(わたしである)そして前梃子係と大工方、後梃子拾五人組の組長と幹部の計一五名である。

南海岸和田駅からほど近い、ローソン前で待ち合わせして、岸城神社に入る一四町で唯一、百姓町の面影色濃く残る上町のぐねぐね曲がった旧道を「こんなとこ、だんじり通ってるんか」「そら、走られへんのお」「休憩ごと町に帰って、また出てくるの大変やろ」とか、がやがや言いながら、上町のだんじり小屋(収納庫)の前でしばし休憩。

「むちゃくちゃおっきい小屋やのお。うちの二倍ある」「そらそうや。この辺、ちょっと前は田んぼばっかりやった」

逆に彼らは一昨年、うちの町に行く時に、一体どんなことを話しながら遠い道のりを歩いたのだろう。

一見、幼稚園のように見える、デカくて立派な建物の前で、上町の若い連中が「ご苦労さんです」「こんばんわ」と出迎えてくれる。

スリッパを勧められ、会場の2階へと通される。一番奥が五軒屋町、真ん中が宮本町、手前が当番町の上町で、向かい合う形で2列ずつの長机が置かれている。

筆頭のM雄と拾五人組の組長が前に置かれている別席に座る。

顧問のオレは五軒屋町席の一番前、背中合わせで宮本町のこれまた顧問となったK野がいる。

乾杯発声は宮本責任者のK本くん。中小高と同じで1年後輩だ。

宴会に入る。 ビールや焼酎がどんどん上町の若い衆の手で注がれ、席を替え話題を替えるが、話は全て祭の話である。

18日の安全祈願祭の後、昨年のカシラたちは昼食会を共にしたが、メンバーはガラリと違えどその同じ話題がまたこの席、つまり宮三町の祝儀交換親睦会で続いている。

それはKさん家についての話である。

18日の安全祈願祭をしていたちょうどその時、Kさん家の次女が テレビのワイドショーかなんかに出演していて「ファッションショーはわたしのだんじり祭です!」とか、パンパカパーンという感じで、「わが心の岸和田だんじり」を熱弁していた(らしい)。

「それやったら、年番長も市長も警察署長も出てる、祈願祭に来んかい」
「あほ、テレビ出るのに忙しいんや。それに浪切神社、言うても知らんやろ」
とか、ここでは(ということは、どこでも)書けないことも含め、ほとんどボロクソだ。

もちろんそのメディアなどは、この安全祈願祭を知る由も興味もないから(取材に来ていた岸和田テレビは別、ご苦労さまです)、そのワイドショーで「今日は岸和田で祭礼安全祈願祭が行われていますね」という通でディープな話題も上がらないし、こちらとしてもテレビであろうが新聞であろうが「そんなもん、どうでもええ」し「おたくら関係あれへん」である。

けれども、Kさんとこの家は伝統的にトラブルの元続きである。

ニュース番組では決してなく、岸和田のだんじりは、当のその祭を特別番組にしたテレビでもよく登場しているが、そのようにここ数年メディアに取り上げられるようになってから、Kさん三姉妹はいつもこの日だけは岸和田に客を連れて帰ってくる。

その客が芸能人とか吉本のタレントとか、そういう人たちで、そんな人らが2階のバルコニーから身を乗り出さんばかりにいて、時にはクラッカーが鳴ったりするから、テレビもそれをフォーカスする。

だんじりは昼間は、ぱーっと走るから、Kさん家なんて藤原紀香が来ようがブッシュが居ようがだれも見ているヒマがない。

けれども提灯に灯を入れてゆっくり歩いて曳行する夜は違う。

なので、Kさんの家の2階からはタレントたちがだんじりに拍手喝采、それに応える(おちょくることも多いが)酒が入った若い衆…、で結構トラブルの原因になる。

結局、一昨年のとある町同士の大喧嘩も、「芸能人なんか相手してんと、はよ行け。後ろ混むやろ」と前の町に言いに行ったことが原因だった。

「A町のなあ、世話人さんが『おまえとこそんなヤツ呼ぶから、若いもんが相手するやろ。せやから、だんじり止まるんや。どないか、せえ』て、ほんまに言うたらしいで」

「2階から芸能人、おヒネリか何か放って、下を通っていたB町の若頭が『こら、おのれは殿さんか。リオのカーニバルちゃうぞ、見せもんちゃうぞ。下りてこい』って、ヤカラ言うた」

20代の若い連中と違い、だんじり玄人の若頭は「今年は誰が来るのか」といった話題に対しては、まったく逆のとらえ方をする。

まあ、この人たちは目立ってナンボやから、しゃあないとして、今年はどうか余計なトラブルはないように切に願うばかりだ。

2004年08月23日

祭前のオレの仕事のスピードはいつにもまして速い!   

岸和田だんじり人間のお盆。

8月18日(水)

盆に入ると、ぐんと祭が近づいてくる。いや、盆が終わると、すぐに祭だ。

お盆は田舎に帰ってゆっくり、というのはもともと地元の人が多い岸和田という街に
はあてはまらないし、地元でよく言われる「盆正月には帰らないが、祭には帰ってく
る」という人も多い。

また、東大阪や八尾や富田林、さらに大阪市内や北河内では、先週から今週にかけては必ずどこか近所で盆踊りが開かれ、櫓から河内音頭や江州音頭が聞こえる頃だが、岸和田旧市では伝統的に盆踊りはやらない。

南北朝時代からの城下町で泉州の中心地である岸和田は、大阪という大都市に近いせいで、比較的外に出ていくの人が少ない街だ。といっても、人口流動が少ないという
ことではない。

とくに九月地車祭礼のわれわれ旧市の場合、名簿を見ても、もともとの町内で住んで
いる人間の割合は正味1割程度。とくに昭和50年代以降、商店街や長屋の並ぶ下町
から、サラリーマンになって新興住宅地へと移り住んだケースが後を絶たない。

けれども、その住所はクルマで数十分ほどのところで、岸和田の山手地区や春木・久
米田、貝塚や和泉市といった近接の住宅地がほとんどで、稀に大阪市内があり、北摂
や阪神間という例は少ない。

これはだんじり祭があるからだ、と断言できる。

本当にまれではあるが東京の大企業に就職したりして地方に住むようになった岸和田
旧市の人間は、祭には家族やお客さんを連れて当日に見に帰ってくるだけで、祭その
ものはやめざるを得ない。本人にとってはきっときびしい選択だし、祭をやっているオレたちにとっては寂しいことだ。

そういうことから飲酒運転がきびしくなったここ数年は、寄り合いの夜は、会館前は自転車で溢れかえるし、神戸に住所があるわたしが「一番遠く」の人間である。

地元で商売をやっているような人は、大阪といえばミナミそれも難波しか知らないし、年寄りになると「用事がない」から、もう十年も大阪に行ったことがないような人も多い。

この街のだんじり人間にとって盆は、なんだかお店や商売をやっている人の年末の慌
ただしさによく似ていてそうだ。

こんな時にしか来ない、北新地の飲み屋のママさんからメールがはいって「13日か
ら17日まで盆休みです。18日から開けてますのでよろしく」なんてお知らせ(DMというよりもダイレクトな販促か、これは)があり、「今年もお祭りが近づいてきましたね、仕事と両立、大変ですががんばってください」なんて書かれているが、もの心がついた時からずっとそんな調子でやってきている。

また「お盆はゆっくり休まれましたか」なんて調子で人から訊かれることが多いが、
そんな時はじゃまくさいので「印刷屋が盆休みで工場が止まるので、その分、制作日
程が短縮されて、逆に忙しいんです」なんて答えるようにしている。

編集部は盆休みで田舎に帰る人や、自宅でゆっくりする人、構わず出社するスタッフ
などさまざまであるが、今年のわたしの場合、14日(土)は、朝から大阪商工会議
所からみの仕事で、船場のど真ん中にある御霊神社の宮司さんに取材。

一緒に同席していただいた権禰宜の方はなんとわが岸城神社の宮司と仲良しとのことで、だんじり祭と岸城神社の一風変わった関係性を説明するなど話がはずむ。秀吉以来の靱(大阪市西区)の地名の由来、靱公園にある楠永神社が御霊神社のルーツであることなどをお聞きして、昼からその原稿をアップ(祭前のオレの仕事のスピードは
いつもに増して速い!)。

編集部にファックスで送られてきた、監修している岸和田地元PR誌の年に1回のだ
んじり特集の校正に目を通し、電話で写真構成やレイアウトについて意見と補足文を
送る。

15日の日曜は墓参りなどを済ませて、家に戻る。昨日の月曜(16日)は色校で出
社。9月1日売り号特集の座談会のページに山のように朱書きを入れる。

「今年は仕事が忙しいから」なんて眠たいことをいってると、絶対に祭はやれないし、当日までに仕事も家の用事も何もかもひっくるめて、しっかりやっておかないと、祭が来ないし出来ない。

今から思い起こしてもそんな感じで、鳴物係をやっていた(盆以降は毎日だんじり囃
子の練習である)17歳の時は受験だったし、青年団の副団長だった年は就職活動も
やってきた。

「どうしてそこまで」なんて感心されるが、要するに慣れである。まして若頭責任者だった去年と比べるとまるで楽勝なのである。

が、今年はカレンダーの日よりが14、15と土・日が盆当日なので、今週末の21日と22日に祭礼の準備や行事が集中する。

今、去年のこの日記を見て対照しているのだが、昨日16日にあった献灯台設置が2
1日、今日17日のツツミ巻きと犬鳴山参拝、そして24日の祭礼啓発大会が22日だ。

台風が来ているようだが、どうか雨など降らないように。

2004年08月25日

「さん」「くん」「ちゃん」呼び名でかわる親しさのグラデーション

8月22日(日)

9時会館集合で祭礼啓発大会へ。出席は21町の町会、世話人、若頭、後梃子、青年団
から各10名あまりと年番。

だんじり小屋でのツツミ巻きも同じ時間にあるから、若頭は2手に別れてそれにあた
る。啓発大会へは顧問・相談役・副責任者と会計が出席。ツツミ巻きは前梃子の管轄
だから、彼らと若手を充てる。昨夜M雄に「明日、M人とツツミやるよって、すまん
けど、ひろきは啓発大会へ筆頭として行ってくれ」といわれている。

啓発大会は10時開会であるが、岸和田の場合、こういう時は必ず15分前に各町が集
合する。中でもうちの五軒屋町は、何でも早め早めである。

会場の浪切ホールへは、ゆっくり歩いても5分そこそこの距離だが、9時集合だ。9
時10分前に会館に着くと、青年団、拾五人組、世話人さんとほぼ揃っていて、10
人出席するはずの若頭がまだパラパラだ。

携帯が鳴る。筆頭のM雄からだ。「みんな揃てるか。頼んどくで」との確認の電話で
ある。「分かってる、ちゃんと揃てる」と言って切り、携帯の時計ディスプレーを見
ると8時55分だ。まだ到着していないメンバーに手分けして携帯を入れる。

自転車で直接会場に来るNくんと従兄のKちゃん以外、全員揃ったところで「そろそ
ろ行きましょか」と曳行責任者に告げる。

見事に提灯が並ぶ、超大型の堺町の献灯台前を通り過ぎ、大北町の献灯台にさしかか
ると設置作業中で、大北の今年の筆頭がいる。彼は1つ下の年齢だ。

「ひろきくん、お早う。こんな早よから、ようけでどこ行くんや」と冗談が飛ぶ。
「岸和田カンカンへ買い出しや」とひとまず笑いを取って、「うちは真面目やからな
あ」と付け加える。

カンカン場の交差点につくと大工町の若頭一行と会う。この町も何でも早い目だ。
「おー、ひっさしのお(スタンダードな大阪弁では「久しぶりやなあ」)。こう、元
気か」
同級生のKから声が飛ぶ。

「おっす、ひろき」
宮本町のUである。Kと同じく小・中と同じ学校の同級生の彼は親戚筋で、彼の妹は
オレの従兄の嫁である。
「あれぇ、K野は」と去年同じく筆頭をしていたK野のことを訊く。
「きょうは塾や。受験勉強や」
「そうか、あいつは今年、高校進学やからなあ」
そういえば、建築士かなにかの資格を取る、と聞いていたK野のことを冗談半分で確
かめる。

とにかく、その5分ぐらいの道すがら、だれかと顔を合わすたびにこんな具合で挨拶
だ。もう20回はしたのだろうか、こんなことはだんじり祭関係の行事ならではで、
よその社会ではほとんど少ない。

ひろき、ひろきくん、ひろきちゃん、こうくん、こうさん…その名前の呼び方も微妙
に違う。

まず、「ひろき」。このファーストネーム呼び捨ては、町内の同い年と年長者の呼び
方である。同時によその町の人間で、とくにクラスメートだった同級生とか、あるい
は親しくしてもらっている年長者もそうで、兄や親戚のおじさんと同様のニュアンス
の言い方だと思っていただければいい。

次に後につける「くん」。これは京都や大阪の一部を除いて、他の街の人にはなかな
か分かりにくいのだが、近しい年少者からの愛称的敬称である。初対面とかあまり近
密でない関係なら必ず「さん」であるが、子どもの時からの親密な年長者にはこの「
くん」という(一種特別な)敬称をつけて呼ぶ。

会社などでは年長者に向かって「くん」は絶対ないが、岸和田ではそういう言い方を
する。

微妙なのは同級からの「こうくん」で、そう呼ばれるとちょっとあらたまった感じが
して「呼び捨てで、エエて(照れニュアンス)」と返したりして、親密度が増すにつ
れ、「こう」と呼び捨てになる。

それとは違ってちょっと微妙なところもあるが、同じような具合に年少者からの「さ
ん」も「くん」に代わってくる。

10時1分前に始まった啓発大会は例年通り、主催者の町会連合会の副会長(今年は
わが五軒屋町のTさんである)の開会の挨拶の後、同会長、来賓紹介、年番長、岸和
田市長、警察署長の挨拶と続く。

今年の啓発大会は、このところ多い熱中症の対策について、徳洲会病院の医師を特別
ゲストとして招き、その対策説明があったのがユニークで、 だんじり祭に即した原
因分析および「責任感の強い、がんばり屋に多い。そんな岸和田の青年は、必ず年長
者の言うことを聞くので、ちょっと休憩せい、というてやってください」とパワーポ
イントを使った岸和田弁丸出しの熱演は感動的ですらあった。

1時間半あまりの啓発大会の帰り際に、中之濱町の同級生Yに顔を合わせる。

お互いの近況報告の後「J郎おれへんから、やっぱりさびしいわ。ほんま」と去年漁
船事故で亡くした筆頭の話になる。

去年のこの日記でも確かふれたはずだが、その2日前にオレと2人で飲んでいたこと
もYは知っていて、そのことを感謝するようにオレに話す。

30年以上も同じ町で祭と共に人生をやってきた幼なじみがもういない事実を、また
やってくる今年の祭で確かめるように言う。

その哀しさと、最後に一緒に飲んだ他町の人間に対しての気遣いに、オレは声を詰ま
らせた。

8月21日(土)

午後6時から献灯台設置。

会計責任者のO崎に、預かったままの代金・提灯5張分5万円を渡さなくてはならな
いので、その前に5時過ぎに会館へ行くことを告げている。

編集部を出て、南海電車に乗ろうとしていると、携帯が鳴る。M人からだ。彼は同級
生で去年の副責任者兼前梃子責任者であり、来年の若頭筆頭が予定されている。

「どこなぁ」
「電車や。あと30分後や」
「今、アジサイ(町内の居酒屋の名前)でいてる。M雄もすぐ来る」
「わかった、すぐ行く」

いつものそんな調子で、難波から特急サザンに乗り、岸和田駅で降りてまっすぐ店へ
。まだ「準備中」の看板が上がってるアジサイに入ると、カウンターの一番奥で手長
蛸とシャコの酢の物で独りで飲んでいる。その光景は、堂々としていてなかなか、い
っぱしのおっさんである。

オレも同じものを注文する。夏の酢の物とビールはうまい。

そうこうしていると今年の筆頭M雄も登場。こうなると1杯では済まない。ボトルを
置いてある世話人のHさんの芋焼酎の一升瓶をシャコをアテに飲み出す。

「すまん、M雄M人に掴まってアジサイで飲んでるから、現場で渡す」とO崎に携帯
を入れ直すが、もう6時10分前だ。

せかすように店を出て昭和大通りの中央商店街入り口の現場へ。すでに大工のYさん
から毎年借りている3段7メートルのタワーが組まれ、だんじり小屋隣のガレージに
直してある鉄骨の献灯台のパーツをおのおのが手分けして運んでる最中だ。商店街の
入り口では会計チームが提灯にビニール製のカバーをかけ、3個口2個口のものを分
け、順番に並べている。

いつもながら段取りがいい。 大工と電器屋、土木建築関係のメンバーがいるうちの
町の献灯台設置仕事は業者などには委託しない。けれども本当に見事である。献灯台
設置の請負仕事というものがあれば、ジャカスカ仕事が来るだろう。

が、この献灯台も来年から、商店街のアーケードが外されるのでまったく違う構造の
献灯台を設計中だ。20数年続いたこの段取りも変わる。

3時間あまりの作業中にはいろんな人がその前を通り、しばし足を止めその作業を見
ていく。

北町の若頭筆頭と副責任者が一杯ひっかけた帰りに自転車で通りかかる。
「提灯の数、どうよ。やっぱり減ったんちゃうん」「そうやのお、不況やからしゃあ
ないわ」「うちは明日、朝からや。クレーン呼ぶから1時間で終わる」とかなんとか
、顔ぶれは違えど毎年同じようなやり取りがある。

今度は中之濱町の若頭幹部一行がやってくる。
「おお、毎度江くん」「毎度。ようけ揃て、どこ行くんや」「これから宮本と、花交
換や」「そうか、毎年なかんばは宮本と花してるんやのお」

顔見知りが通りかかると、そんな感じで祭が来たことを確認し合う。そして各町の献
灯台が設置され御神燈が点灯されると、一気にムードが高まる。今年も祭がやってき
たという認識する瞬間のひとつだ。

そしてこの献灯台設置始め、祭の段取りの後はいつも小宴会がありこれが楽しい。こ
の日は全員、お好み焼き「双月」で。

だいたい同じ年ごとの輪ができ、焼きそばや豚玉を食べ、生ビールをたらふく飲んで
、暑いからとかき氷を食べるものもいて、各小部屋で盛り上がってる。そんなところ
へ、筆頭のM雄が明日の予定メンバーと集合時間を確認しに行く。

あすは午前中からツツミ巻き、祭礼啓発大会、昼から犬鳴山安全祈願参拝と忙しい。

外へ出るともう12時前である。 店もわれわれが出ると同時に閉店する。

2004年08月31日

沼町との花交換

8月26日(木)

沼町との花交換式に出席するために、「ほなすまんけど、先帰らしてもらうわ」と
、仕事を堂々とさぼって午後6時に編集部を出る。

会場は和泉大宮駅近くのとある焼肉店。この懇親会は沼町〜うちの町と当番が年替わ
りで、去年はうちの番で会場が町会館だった。だから十数人もの大人数を店に招いて
くれる沼町に、筆頭のM雄は気を遣っている。

開宴は8時の予定だったが、30分前にすでに両町のメンバーが揃っている。

沼町筆頭の挨拶のあと乾杯発声。沼町の去年の筆頭と同じテーブルで、出てくる肉の
順番がどうの火が強さの調節を…と仲良く焼肉をつつく。

沼町と五軒屋町は、 祭前に花つまり祝儀を交換しているだけでなく、十四日の宵宮
の昼に「だんじりを合わせ」ているのだが、だんじり曳行中のこの段取りが結構大変
である。

去年の場合、パレードが十四日の午前中に変更されたりでとても慌ただしく、数日前
まで若頭同士は「今年は合わさない」ということを決定していたが、世話人からの提
案もあって、急遽合わすことになった。

当日その際、自町で待ってもらっている沼町の浜側にだんじりを据えることあらかじ
め打ち合わせしていて、その通りに着けようとしたが、後梃子がつかえてしまってう
まく寄らなかった。後続のだんじりが来なかったから、結局何回もだんじりを振って
着けることができたが、後梃子の拾五人組に無理をさせることになったし、一切を仕
切っている若頭筆頭としてのオレは、回りから文句が出ないかと、結構焦ったと記憶
している。

それが申し訳なかったということで、今年の沼町はいろいろ気を遣ってくれるらしい
。また今年は、筆頭同士その場でうちわを交換するそうだ。

両町が清酒と祝儀交換する儀式をはさみ、例にもれずたらふく食べ、思いっきり飲ん
で、来年度筆頭のM人によるお開き一本締めのあと、沼町の若頭の面々丁重に礼を言
って一旦解散。あまり体調が良くない一級上で相談役のTさんが、だいぶ酒が回って
いるみたいなので近所まで送っていく。

次は近くの串料理店だ、ほんの10人くらいのカウンターと小上がりだけの店に、両
町の「呑む」面々が入る。ピッチを上げて呑んでいると、中之濱町の若頭筆頭のKが
登場した。

こうなるとみんなは腰が据わってくる。いつもながら、夕方のカンカン場のラストの
時間厳守の問題や許可時間外の曳行をなぜ許されているのかの、熱すぎる主張が連発
だ。

こういう時のKの論理とその迫力は、岸和田無双である。つまり、こちら側にいる時
は頼もしすぎる味方であり、逆の場合は一番うるさい敵になる。そのあたりがすごく
単純で難しいところだ。

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