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2005年07月 アーカイブ

2005年07月02日

反省の六月

6月26日
昨日は、あんなに拙い発表だったのに、多くの人々に指導して頂き、大変得るものが多い、貴重な体験となった。
先週に比べて、発表としては合格であった。
いろいろ理解できていなかった方向に、各分野の研究者からさまざまな知見を得た。
実は、この度の発表のためにいろいろ先行研究や関連研究書を読んでいると、どこかで必ずと言っていいほど、今日の研究会のメンバーの誰かに行き当たる。
それは、引用されたり、実際その論をご本人が書いたものであったりさまざまなかたちではあるが・・・
このような人たちの前で、まだ付け焼き刃程度の理解で発表していいのか?と、昨日の映画用語のことと重なって、かなりびびっていた。
しかし、案ずるより産むが易しというのだろうか。
ほとんど眠れず、発表が始まるまでは、寒気がしていたにもかかわらず、始まってしまえば、楽しくて、交わされる言葉を拾い集めるだけでも、暑くなるほど興奮してくる。
追いつめられた結果、アドレナリンが大放出したのかも知れない。

おかげで、今日は暑くて汗がにじんでいるにもかかわらず、鳥肌が立つという身体が不調を訴えている。
一番顕著なのが、体重が突然落ちることだ。
さすがに、以前のような激やせはしないが、2kgぐらいおちる。
鏡を見ても、顔色が悪いし、どう見ても健康的ではない。
にもかかわらず、「発表があるので忙しい」と何度も言っているのに、母から電話があり「発表終わったのでしょう。どうだった?家にいるのなら、今晩祖母の家に泊まれる?」と、全く一方通行の電話が入る。

昼ご飯に誘われ、トマトをたくさんくれるのはいいが、どうして親は気付かないんだろう。
私があんなにひどい状態に陥った原因の一つを、自分たちもになっている事を。
実際、かなりましになったときに、親子関係が私に破綻をもたらしていることを、親だからこそ苦しんで、あなたを理解しようとした、と発言していた。
でも、それは思い込みだったようやね。
私が、元気になり、向こうが思うような理想的な娘を演じて接していると、言葉を悪くして言えば、つけあがる。
私が、かなりむりをして演じていることに気付かない。
吐き気がしているのに。

なんのために、私が家を出たと思っているのだろう。
どうして、家も出て、家計も別に暮らしているのに、娘のスケジュールを管理し、勝手につごうのいい予定をたてるのだろう。
ぎりぎりまできて、もう気が狂いそうだ。
こんな状態が続くなら、死のうと思った。
もう、昨日の興奮状態もない。
この関係性を脱せないのなら、自ら解消するしかない。
そのためには、もう死んで完全に消滅するしかないと真剣に考えた。

そんなとき、ふと親子関係について触れている本を無意識に手にして、読み始めた。
実は、書いているのが、読み終わった今だから、正確に言うと、親子関係の繰り返す破綻と分析できるのは、順序が逆である。
その本を一気に読んだことで、あああ、私がまたもや追いつめられている事に、関係性を解消するために「死のう」とまで、極論に走った自分の考えに、解釈を与えてもらったのである。
主治医のところに行く代わりに、とりあえず自分で代替物を見つけたといっていい。
その本を読んでいるうちに、最初は、死のうと思ったことに「でも、まてよ。初めてもった学生を裏切るのはいけないから、せめて非常勤が終わってからだなあ」と変な思考になり、最後は、こうして、今の状態をあらためて書くことのできる段階まで、持ち直したのである。

しかし、この本を例えばうちの親に読ませたところで、あの人たちは決して自分たちに反映できないだろう。
何も変わらないのが見えるだけに、絶望。

6月24日
明日の発表準備をしているとき、一番最新の「フィルム・スタディーズ事典」をちょっと参考に照らし合わせた。
またもやかなりショックなことが起きた。
これは、翻訳されたものであるから、日本よりも映画研究がはやく始められた西洋での用語が乗っているので、いろいろと教えられる事があると思って購入した。
自分で思いこんでいる用語が意味合いが違ったものであったなど、発見があった。
しかし、きっとこの作品は、このジャンルや用語に値するだろうと思っていた項目を見ると、全く触れられていない。
事典にあげられるので、後ろの索引で見ても映画作品は代表例として選択されたものであるから、数に限りがある。
それは仕方がないのだが、漸く作品名を見つけて逆引きすると、それが「ゴミ」映画という一言のもとに片づけられていた。
いくらなんでも「ゴミ」というのは、ひどいではないか?
あるいは、 別の作品は「カルト映画」に分類されていた。
それは、決して言い書き方をされていなかった。
じゃあ、私はフィルム・スタディーズをしていますって、言えないの?
確かに、私は大学などの映画研究専攻という体系だったかたちで学んだわけでもなく、対象が映画と言うだけで、我流でここまできた。
しかし、日本ではまだまだ映画研究は「専攻」として看板が上げられるほど定着していない。
社会学とか文学とか、あるいはよくわからない名前の近年できた学部の中で、映画研究が行われているのが実情だからだ。
映画学部なんて、ほとんど見あたらないし、あっても製作を意味するものの方が圧倒的に多い。
だから、自称・日本映画研究なのである。
それにしても、事典にはまいった。
かなり自信を喪失しながら、夜中まで発表準備を続けた。

その裏で、先週裏切り行為をして平謝りしていたはずに友人が、その時約束した事をまたもや平気で破棄し、私の信頼をさらに裏切った。
私は、明日の準備でいっぱいだったし、それはそんな目くじら立てて怒るような重大事でもなかったので、どうでもいいやと思っていたが、それは抑圧に過ぎなかった。
もう、外が白んできているが、眠れないし、発表原稿を書きながら、先ほどから涙が止まらないのだ。
まずい。
やはり、今日は何が何でも主治医のところに行くべきであった。

こういうときに限って、優先順位の判断ができないのだ。
明日は土曜日であるので、事務の方が会場を準備してくれはるのが、今日の午後という話だった。
ビデオやDVDを使用するので、一緒に準備して、予行演習しておこうと思っていた。
ところが、突然の会議でその部屋が夕方まで使用されてしまい、それはそれで最低限のセッティングだけお願いして、主治医のところに行けばよかった。
発表は午後からだから、午前中に試しておけばいいし、その部屋は研究会でよく使用しているので、自分で接続することもできる。
しかし、発表準備をしながらついつい夕方まで一緒に待ってしまったのである。
明日、大丈夫かなあ。

6月20日
昨晩、祖母が、身体の調子が変だと訴えるので、あわてて二階から降りると両足がぱんぱんに浮腫んでいる。
叔父が来てくれていたので、夕食後、叔父が帰るまで、二階で仕事をしていたのだった。
来週の発表準備である。
叔父が呼びに来たので、階下に降りると祖母が「こんなこと今まで一度もない」と、明日病院に行くと意気消沈している。
足を触ると、氷のように冷たい。
なんとなく原因はわかった。
水曜日、木曜日と、祖母は母や叔母など娘たちと白浜に旅行に行っていたのだ。
なんでも有名な旅館に泊まりに行きたかったらしく、水曜日のうちに観光し、木曜日は雨なので朝からずっと麻雀に興じていたらしい。
そこで、ずっと坐っていたのでトイレに立とうとして、足がしびれ転んだらしい。
幸い尻餅をついたので、骨折には至らなかった。
それで、祖母は歩くことや動くことにかなり自信を失っていたらしい。

聞くと、転んだことにより打撲でおしりが痛く、週末もほとんど家で坐りっぱなしで、動くことを自ら牽制するような生活をしていた。
昨日も、昼から暑いので冷房を入れた部屋で、叔父と母と麻雀をしていたことがわかった。
つまり、ここ数日、買い物にも行かず、身体が痛いと言うことであまり動いていない。
祖父がいるときは、祖母は、祖父の世話など家事をしたり、結構動いていた。
それが、ほとんど動かず、しかも冷房で冷えたのだから、完全に冷えによるむくみである。
それを「足がはれている」「なにか内臓が悪いかも」と心配して動揺しているのだから、とにかく暑くてもお風呂にゆっくり入って、身体を温めるように言う。
寝るときは、座布団を入れてあげて、足を少し高くして寝るようにいった。
冷房による冷えと、ほとんどデスク・ワークによる動かない一日で、両足がぱんぱんに浮腫むことは私にとっては日常茶飯事であるので、「私もいつもなりますから」と安心させる。

朝起きると、祖母の浮腫はおさまっていた。
それでも、心細いのか「今日は非常勤に行く日なら、夕食はうちで食べなさい」と言われる。
日文研だと、帰ってくる時間が予測できないが、非常勤だと、とりあえず19時過ぎに帰ってくるということを学んでしまったらしい。
火曜日に能特訓だったりすると、泊まりに来ていたので、そのスケジュールをインプットしたのだろう。
本音は、家で発表準備をしたいのだが、昨晩のこともあるし、今日は医者にいって血液検査もすると意気消沈しているので、気になって「じゃあ、ご馳走になります」と言ってしまった。

それで、夕食を食べに行き、様子を聞くと、今日は浮腫んでいないし、扇風機を出して冷房を止めたので、調子が良いという。
それは良かったと、お話しをしながら御飯を食べ、(といっても食欲が落ちているのであまり食べられない)9時過ぎまで一緒にテレビを見ながら話をして、大叔母に任せて、家に帰った。
夕食時に、盛んに「昨日はなおちゃんが泊まってくれていたから本当に助かった」といわはるので、困った。
本当に心細かったからそう思って言うてくれているのだと思う。
しかも、祖母は私が夕食を食べに行くと、必ず「おかえり」という。
私は「こんばんは」と言っているのだが。
この言葉に私は弱い。
祖父の死がかなり予測できない早さで迎えてしまったので、祖母にはできる限り孝行したいと思っている。
しかし、祖母には会社という場につとめる形態、すなわち朝出て行って、夕方に帰ってくる勤務体系はわかるが、私が家でも仕事をしている、映画を観てがははと笑っているように見えるが、実はそれが仕事の一つであると言うことは、なかなかのみこめない。
映画見るのが仕事って、たしかに端から見ると理解しがたいだろう。
だから、非常勤であれ、ある場所に出かけて、決まった時刻に帰ってきたら仕事が終わりと思うらしい。
それは、おそらくうちの両親にも言える。
だから、遊んでるんじゃないんだって。

泊まりに行くと、どうしても祖母が寝るまで気になるので、二階に籠もって仕事することができないのである。
別に、寝たきりで介護が必要なわけでもないのだから、籠もって仕事をしても構わない。
その通りであるが、私の性格上、結局祖母の家にいると集中できないのである。
つらいところである。

6月18日
はああ。
泣きっ面に蜂。
完全なる悪循環。
はきそうである。

私は、どうも自分で勘違いしていた。
しかも、書くことでリハビリしているのに、その機能を忘れてもいた。
ほんまにあほである。

打ち上げでまわりには慰めてもらったが、昨日の発表はこれまで、大学院に進んで以来、最も出来の悪いものだった。
精神的にまいっていたのは事実であるが、まさかこんなところでこけるなんて。
決して手を抜いていたわけではない。
確かに、着物を着て発表するなど、ちょっとパフォーマンスをしたのが罰当たりだったのかも知れないが、演劇学会の前夜フォーラムなので、私はむしろ「武装」して臨んだつもりだった。
ぎりぎりまで準備をしていたので、余裕のある発表ではないことは認める。
けれども、プライベートを持ちこまずに、ちゃんと準備はできる限りしたつもりである。

昨夜は、領域横断フォーラムという名で、5名の若手(と私もいうてもらっている)研究者による、明治・大正期の芸能に焦点化して、それぞれの分野から演劇と絡めて発表するという企画だった。
お題に「メディア・観客・パフォーマンス」といただいていた。
事前に、2回ほど打ち合わせをして、司会者も立てて、一人15~20分、司会からのコメントと質問を挟んで、順番に発表し、最後フロアから質疑応答というかたちで行った。
17時半から19時45分、2時間以上だが、5名が話すだけでも100分はかかる。
ちなみに、私は「映画学」という領域から演劇との関連を話すことでよんでいただいた。
他のメンツは、音楽学、文化人類学、国文学、そして一人本当に若手のD1の演劇学である。
私も、はっきり言って「映画学」代表とは言い難い。
自称、日本映画研究といっているが、正確に言うと、映画を題材に日本文化研究をしているといった方が、よりそぐわしいと思われるからだ。
他の研究者もおそらく、代表といわれることには、少し戸惑っていた。
いわゆる、○○学を王道として、深く掘り下げているというには、○○学の定義というものがあるのなら、それが大きすぎて引き受けられないからかも知れない。
それはいい。
私はフォーラム直前の打ち合わせで、話の流れからいきなりトップ・バッターとなった。
明治・大正に限定すると、映画は明治後期にフランスで作られ、日本にやってきたメディアである。(私はいろいろ説があるが、リュミエールのシネマトグラフを前提にしている)
映画が演劇という先行ジャンルにどのようにアクセスして、どのように距離を測り、単なる演劇を映すだけのメディアではなくなっていったのかという話を中心にした。
大正時代だと、映画はまだ無声映画で終わってしまう。
新国劇の澤田正二郎が映画出演したのは、大正末である。
映画が音声を得て、20世紀最大のメディアとよばれるようになるのは昭和からであるので、かなり考えた。
その当時で「演劇」(もちろん私が前提にしているのは舞台で演じられるものということは述べている)と決定的に別のメディアとして機能を果たす視点として、「尾上松之助」という日本全国に知れ渡るスターを生み出したことにふれた。
また、舞台を見る観客の視点が席によって左右されるという視線を変えたという、限定された観客の共有する空間的・時間的制限を解放したと、やや大胆というか危険な観客論まで展開してしまった。(正確に言うと、そう簡単に言い切れないし、やはり上映条件によって、共有するものはかなり違うとわかっているからである。)
実は、それは演劇の人に「違う」と突っ込まれることで「演劇」とは何か知りたかったために仕込んだものだった。
他のメンバーは、「井上正夫とアバンギャルド」(ちなみにトップになったので、映画にも出演・監督した「井上正夫」のこともちらっと触れておいた)
無声映画に伴って、和洋合奏というかたちで西洋音楽を普及させようとした試み。
学芸会における「学校劇」における大正期の批判の問題。
ある浄瑠璃のテキスト解読が明治後期に「貞節」から「恋愛」とコードが変わった問題。
という発表の流れで、全員話し終わり、会場に質疑応答を募った。
20時前まで、質問が飛び交った中、私への質問は一つもなかった。
全く無視されてしまった。
私は、大学院に進んだとき、内田先生より教え込まれたことが、「誰も質問しない発表は最低だ」ということであった。
誰も質問しないのは、「誰も理解していない」か「質問するにも値しない」かどっちかだと、初めて連れて行ってもらった阪大(昨日も阪大だった)での学会の時に言われた。
このときは、仏文学会で、興味のある発表があったので聞きに行きたいのと学会発表とはいかなるものかを見に行くために連れて行ってもらった。(自分の発表ではない)。

それを最初にたたき込まれていたので、たとえどんな批判であろうと、自分が話した内容について聞いていた人が反応してくれる事がとりあえず、最低の合格ラインとしてはかってきた。
なので、誰にもいじられなかった昨日は、決定的だった。
大失敗だ。

ここまで書いて、少し落ち着いたが、実は、他にもまた傷つけられる事件が起こっていた。
私の本当に学習しない事の一つに、すぐに人を信じるということがある。
昨日、またもや信頼している人に裏切り行為をされたのである。
その上、極悪非道な娘と言われても仕方がない。
母が「月曜日稽古に行くんだったら、日曜日祖母の家に泊まれるでしょう」と、悪意なく娘のスケジュールを決めてしまったことに、拒否反応が出てしまったのである。
実は、書かずにいて発表の準備のために、抑圧していたのが親子関係だったのだ。
日曜日に、久し振りに用事があって(夏物の着物と扇風機を取りに)実家で夕食を取ったのが、間違いだった。
あの場では、どうしても私の身体が拒否するらしい。
あの時点から私が安定してきたと勘違いしていたバランスがどんどん不安定になっていった。

とはいえ、祖母をないがしろにするつもりは毛頭ない。
日曜日の夕飯は祖母が一人っきりだと聞いて、「父の日」だし両親と祖母と一緒に食事して、そのまま祖母の家に泊まるという案を受け入れた。
とにかく破綻を来さないように、調子を整えなくては。

6月16日
今週に入って、完全に精神的にまいっている。
最近、忙しさとその勢いで主治医のところにいっていないが、かなりやばい。
自分でも、かなり回復したなと思うのが、とにかく倒れないことである。
精神的にまいっている事で、自分の研究を妨げられている状態を、研究することでなんとか克服しようとあがくことがなんとかできることである。
とにかく、明日の発表だけ考えよう。

6月13日
痛い。
私もあまり学習しない方だが、それにしても、どうして同じ方法で、また傷つける人がいるのだろう。
ここのところ、良いことが続いたから、悪いことが起きるのも当然である。
甲野先生がたとえてはった「税金」だと思う。
が、傷が深すぎて、眠れない。

6月11日
今日は、上田能楽堂で下川先生が「天鼓」の能を舞わはるので、見に行く。
さすがプロ。
ひたすら「お見事」と絶賛。
自分の師匠を、絶賛して感動して帰るなんて、おめでたい奴と思われるかも知れないが、本当に感動するのだから仕方がない。

その後、一路京都へ。
個人的に学術指導してもらったわけではないが、たびたびお話しをして頂き、絶妙なたとえ話で、アドバイスをして下さった先生の送別会である。
少しだけだが、お話しをする時間があり、ステキなたとえ話をまたプレゼントして頂いた。
先生の笑顔と一緒に、いただいたたとえ話を忘れずに、心にとめておきます。

6月10日
今日は、祖母の誕生日である。
満で91才である。
ちなみに、来週は母の誕生日である。
もう、祖母にはプレゼントするものを思いつかないので、今晩母が祖母の家に泊まるのと、父が出張ということで、二人と外食して、その飲食代を微々たるものだがプレゼントとして、私が払うことにした。
といっても、家の近所にはそんないいお店がない。
誠に申し訳ないのだが、祖母が行ったことがないというので「居酒屋」ですませてしまった。
「なおちゃんにご馳走してもらった」と祖母に言われると、恐縮してしまった。
どうせなら、本当に「ご馳走」をすべきなのだが、まあ、気持ちの問題ですので、また今度で許して下さい。

泊まってあげたいが、忙しいのでちょっと勘弁して下さい。

6月9日
今日は日文研恒例の「草刈り」と、法人化で名称が変更した「ガーデン・パーティー」である。
これまでは、所属が総研大だったので、草刈りも関係なく、パーディーだけ、気まぐれに出たりして、先生方や職員の方々と交流を図っていた。
今回は、日文研所属になったので、積極的に参加する意志を事前に伝えていた。
とはいえ、連日の貧血や体調の悪さから、同僚に心配してもらい、プロジェクト室の電話番という役目で、草刈り免除してもらった。
申し訳ない。

寒いぐらい冷房をがんがん効かせて、草刈りから戻ってくる同僚に「お疲れ様です」ということしかできなかった。

ガーデン・パーティーでは、普段お話ししたくても、なかなか話す機会を得られない先生方とじっくりお話しをさせて頂いた。
おまけに、発表のためにアドバイスまで頂いた。
失ったと思っていた「特権」はまだまだ有効な環境にいることを実感。
ありがたい。
本当に、ありがたいと思い、今、少し興奮気味で眠れない。

6月8日
しまった。
貧血がひどくなり、とうとう「変体仮名講座」をさぼってしまった。
10時半からなのだが、朝動けずに、家を出るのが遅くなってしまった。
11時半頃に漸く、日文研にたどり着いたが、12時までなので、結果的にさぼったかたちとなった。

ふと気がついたのだが、今年度にはいって、新たな予定がいろいろ立っていく中、「せめて5月29日の初能が終わるまでは、大目に見て下さい」と言い訳しながら、6月以降のお話しであれば、「はいはい、何でも致します」と手帳に書き付けて、過ごしてきた。
「お声をかけて頂くうちが花」と、ほいほいと発表を引き受けていたのが、6月中に2つある。
来週と再来週だ。
確かに、自称専門である「映画」関係で話をするのだが、同じ話ではない。
それは最初から、すなわち4月にお声がかかったときからわかっていたのだが、うかつにもお稽古に専念しすぎて、全然準備ができていないことに気がついた。
仕事も溜まっている。
おまけに、今頃になって、疲れがどっと出ることも考慮に入れていなかった。
どうして、学習しないのだろう。

発表は、漸く研究者を目指してスタートラインに立った私にとって、大事な業績でもあるが、ある意味、それがまずいものであれば、自分で未来への道を閉ざすことにもなりかねない危険をはらんだものでもある。
「学生」という「特権」のあるうちは、「まだ学生だから」ですまされるという「特権性」をあまり感じていなかったが、いまは痛感する。
しかし、ちゃんと生きていくには、「特権」に囲われたままぬくぬくしているわけにはいかない。
自分で引き受けたものは、自分で責任を取らねば。

2005年07月04日

弱り目の七月

7月3日
雨なので、家にいる。
かなり弱っているので、引きこもる。
取りあえず、明日はお泊まり。
その先の対策を講じねば。

今日だけは、一人にしてくれ。
一歩も外に出ず、誰とも会話せず。
自分とも対話したくない。

7月2日
あああ、どないしたらええねん。
月参りをすませ、一度家に帰り、稽古の準備をする。
嫌な予感はしていたが、すぐに連絡があり、「頼みたいことがあるから、一緒にお昼を食べよう」という。
それがまた「お稽古場に持っていって、渡して欲しい」という頼みだったから、どうしても稽古前にあう、逃れられない状況に持ちこまれる。

当然、娘である母にも祖母は頼んでいたらしく、母からも切り出され、つい「もう直接聞きましたから、言われなくてもわかっています」と答える。
実は、朝に坊さんが来てあわただしかったことに紛れて、印をせず、約束せず帰ってきたのである。
さすがに極悪非道になりきれず、昨晩からそして家に帰って、頭を悩ましていた。
予定は未定と言うことで、とりあえず「絶対」という約束で、来週と再来週の月曜の夜に泊まりに行くことにした。
さりげなく書いてくるのを忘れたふりをして「だから、伝えておいて」というと、「他の曜日は?まだわからないの?」と追い立てるように聞いてくる。
あかん、また吐き気してきた。

「考えているけど、こっちかて予定がまだちゃんとたってへんし、ちょっと体調悪いから、逆に心配かけられへんやん」と切り返すと、
「あんた、頬こけてるみたいやけど、痩せた?」ととってつけたように言う。
そこへ父は鬼の首でも取ったかのように、「義理の母」問題を押しつけられている「娘」を理解している「父」として「あまり無理せんでもいいよ」とかのたまう。
基本的に間違っているのはお宅らやん。
と、心の中で吐き捨てつつも、口に出せず、飲み込むだけ。

稽古に行っても、稽古自体が祖母も母も習っているから、話がややこしい。
どうして、いくら近くに住んでいて一緒に稽古しているからって、同じ屋根の下にすんでいるわけでもない「母」の予定を、「祖母」の加減を、「当然知っているモノ」として私に尋ねる人がいるのだろう?
「さあ、忙しくて会っていませんので知りません」というと、一様に「えっ?」と驚いたような反応をするのは何故だろう?
もう「なくなった」とされつつある緊密な家族あるいは近所づきあいを、当然として生きている人たちが私の周りに多いだけか?
それとも、やはり私が狂っていて、世間という社会に参加する事ができない、関係性が作れないと言うことなのだろうか。
後者であるという事にした方が無難やね。

7月1日
まいったなあ。
何のために主治医のところいったんやろう。
お言いつけを守られへんかったら、主治医のところ行く意味あらへん。
もう因果なんやろうか。
業が深いんやろうなあ。
やはり「死」しか解決方法あらへんのかなあ。
でも、それは言うたらあかんしな。

とにかく、2月以上主治医のところに行かず、薬だけだったので、基本的には「来なくていいぐらい調子がよい」と思われていたと思う。
そこへ、また痩せて、ふらふらになってたどり着いたので、主治医も何事かと思ったであろう。
ぼそぼそと話し出し、気付けばぼろぼろ泣いてしまった。
まあ、そのために通っているんだけれどね。

それでも、やはり回復していると思ったのが、薬も増やされず、結構自分での自分に対する分析?が間違っていないことだった。
ただ、実行できるかどうかが己の問題である。
だったら、医者はいらんやんと思うかも知れんが、この自分で自分に与えた解釈が果たしてそれでいいものがどうか、こう思ってこないしたいねんけどええんやろうか?という確認作業が必要なのである。
自信を持って自分でゴーサインが出せない判断状態にあるから。

基本的なことだけれど、自分の底知れない邪悪さや卑劣さを「持っていてもいいよ」と言ってもらえることは、大事なことである。
誰だって世間が「よい」と判断するであろう事は、簡単に言えるし、思い当たる。
どうしようもなく追いつめられるときは、底知れない「邪悪さ」に抗しきれず、それがただ、自分が他と比べて「異常」「狂っている」と思いこむきわどさにあるときである。
元気なとき、健康だと自分で思っているときは「人間は狂っているもんやし」とか平気でいえる。
「誰かて卑劣で邪悪な部分を持っていて当たり前やわ」と笑い飛ばせるときである。

確認作業を終え、少し気分が軽くなった気がして、現金なものでちょっとお腹空いた気持ちにもなった。
さんざん引き延ばしていたので、明日が振り替えで「月参り」と言うこともあり、家で少し休憩して、冷蔵庫に食べ残したものを食べ、10時頃に祖母の家に泊まりに行く。
まだまだリハビリ中なので、最初は挨拶だけして2階に行く。
けれども、やはりまた気になって、10時半頃に居間に行く。
祖母と二人だけになって、ちょっとした沈黙ができた後、祖母から切り出されてしまった。
「どんなに夜遅くなってもいい。朝早く出てしまってもいい。そのために鍵も渡しているから。6月はお能が終わって忙しいかと思っていた。けれども、もう落ち着いたと思うし、お能も終わったから稽古も大変じゃないから、最低週2回ほど泊まりに来て欲しい」
と言うようなことを、ぽつぽつと言われてしまった。
はああ、痛い。
年齢からして、祖母に対して邪険にはできない。
そこから攻められては、落ちるしかない。
とはいえ、私が先立ってもどうしようもないし、きっとそんなことは思いもしていないだろうなあ。
なにか勘違い(お能が終わったから、稽古が忙しくないとか)しているところがあるのでは、とも言えず、「できるだけ調整します」とだけ言うのが精一杯だった。

今日、主治医のところに行けなかったら、きっとこの一言で、また判断能力を失い、私は無理して大体の曜日を設定するなど、すぐに返事していただろう。
そして、そのことによって、さらに追いつめられ、「研究」すらできない状況に落ち込んでいくところだったかも知れない。
ひどい言い方だが、仕方がない。
向こうが望む「孫」と役割を引き受けてしまったら、自分で自分に落とし前をつけなくてはならないのだから。
とりあえず「カレンダー」に泊まりに来られる日を印しておいてくれ、という言葉に「わかりました。後で手帳見て考えます」と先延ばしだけした。

やはり、狂っているのは私か。

6月30日
がーん。
落ち込んだ。
大ショックである。

自分でも、「ちょっと痩せたかなあ」と思っていたが、今日の健康診断にはやられた。
毎年、同じところで計測しているので、過去四年間の記録が受診表に載っている。
身長は変わらない。
問題は、体重である。
昨年は秋に測定した。
その前の年までは5月か6月頃だったと思う。
昨年は一応パートのおばちゃんであっても、収入をわずかながら確保した秋だった。
その前は、おそらく博論の草稿を提出してホッとした後だと思う。
その前年は、1年間の「休学」から復帰した春だった。
そしてそこに記録にある一番古い年は、その前々年、すなわち休学する前、夏に倒れたので、倒れる前の体重である。
ぱっとみると、入学してからあまり変化せず、休学から復帰、倒れた翌年に休学しているから、最低に体重が落ちてどうしようもなくなっていた頃から1年半立って、入学当時よりも3kgほど痩せたとはいえ、最低記録よりも随分戻っている。
昨年と一昨年は、それより1kg弱ほど増えたか増えないかでほぼ一定している。

が、今日の測定は、約4kg(正確に言うと3.8kg)も落ちていたのだ。
ダイエットなんてしておりません。
2kgぐらい痩せたことは感じていたし、家の体重計でもそれに近い数字は見た。
でも、思っていたよりも落ち込んでいてショック。
これが、「ダイエット」しているのなら、「嬉しい」数字だろうが、そんな健康的な痩せ方ではないことを一番痛感している。
この数字はおそらく約1週間で落ちた数字である。
ちなみに、健康なとき、「断食ダイエット」を1週間近くしたことがある。
それでもこんなに体重は落ちない。
どおり、立っているのもつらいぐらい立ちくらみがすると思った。
完全に体力が落ちて、「不健康」になるほど身体さんが「拒否」して、実行手段に出たとしか思えない。
もう一つ、ショックなのは、視力が半分ぐらいに落ちたことである。
体調によるのだろうが、検査機を覗いた瞬間に「あれ、よく見えない」と思った。
眼が痒いようなしばしばしていたのはこの1週間ずっと同じである。
あーあ、他も最悪みたいだし、再検査かなあ。

そういえば、先週ぐらいからいろいろ失態が続き、同僚に「おがわさん、なんか弱ってますね」とか「疲れていますね」とは言われていた。
でも、自分でも鏡を見てやばいなあと思っていたことが、ある規準の数値で証明されてしまうと、辛い。
問診でも「痩せたみたいですが、体調不良とか最近変わったことは?」と聞かれ、「ちょっと、夏ばてでしょうか」と答えると、それでOK。
そんなんでええんかいな。

みんなでランチを食べるときに、もう2週間以上冷蔵庫に置いているリンゴがある。
そして、昨日から手をつけずにいた総菜パンが二つある。
どれもあまり食べたくないが、しなびかけてきたリンゴを先に食べる。
当然、もうパンは食べられない。
同僚たちに「ちゃんと食べないと駄目」と言われる。
わかっているんだけどねえ。

仕事をして、家に遅めに帰る。
さすがに「なんかお腹が空いた」と思い、少し栄養がありそうな食欲をそそりそうなものを夕飯に用意をした。
でも、二口ほど食べただけで、「あかん、もう食べられへん」とギブ・アップ。
食に対して貪欲な私が、これだけ、しかも自分が食べたいと思ったものを身体が受け付けないのは、もう相当まいっている証拠である。
とりあえず、明日は何が何でも主治医のところに行かなくては。

6月29日
かなり、やばいかもしれない。
朝、というより、ほぼ1時間事に目が覚めて、うろうろする。
おそらく異常に暑いせいだと思った。
昨日、夕立が降ったために、湿度が嫌なほど増している。
むしむしして、汗でべとべと。

朝5時前には起きて、ベランダで涼を取る。
くらくらするので、窓の近くのソファに身を横たえると、完全にダウン。
気持ち悪い。
あれ、二日酔い?
そんなに飲んでいない。
でも、汗がじとーっとにじみ出てくる中、足先は冷えて寒気がする。
そのうち、お腹が痛くなり、それがやむと、どんな姿勢にしてもたとえがたい気持ち悪さにとらわれる。
自分がどうして身体を扱えば、どんな体勢にすれば、居心地がよくなるのか?
それが全く見つからない。
そういえば、先週末より微熱が続くが、それは「暑さ」のせいだと思っていた。
今朝も微熱だが、医者にいったとしても、この自分の耐え難き気持ちの悪さ、痛みとも吐き気ともめまいとも、どう表現しようとも、思いつく限りの語彙のどれもがほど遠いこの気持ち悪さ、これを伝えられなくては、いきなり外来で医者にいっても無理だと思った。

家中をのたうち回り、吐くに吐けず、全身がしびれていくのを感じながら、さらにのたうち回る。
9時過ぎに漸く落ち着いて、汗でべたべたの身体をシャワーで流す。
鏡を見てびっくり。
なんか、どうみても痩せている。
体重は少ししか落ちていないのに・・・

気を取り直して、「稽古」に行く。
無心?に稽古をすませ、あう人たちが「痩せた?」と聞かなかったことに安心して「きっと、思い込み」と午後は、お誘い頂いた発表を聞きに行く。
発表者は、なんとなく思っていたが、実は二~三回あったことがある人だった。
ちょっとばかし、きつい質問してしまったかなあ。
おそらく、私の推測だが、今回の発表で扱い、実際に一部を見せて下さった映画『鞍馬天狗』(1942)を、事前に観たことがあるのは、発表者以外私だけかも知れない。
そして、皮肉なことに、発表者よりも私の方が映画「鞍馬天狗」シリーズを観ていたために、「この作品がこれまでのシリーズと違うものである」という主張をやんわり否定したかたちになってしまったのだ。
後で、個人的に思わず謝ってしまいましたが。
だって、ビデオになっているから観ていると思っていたんやもん。
略歴をみると、すでに講師もしているので、ついつい言い過ぎました。反省。
人の発表に質問し、その不完全性や言いたいことがわからないという指摘をするのは本当に簡単だと思い、そして、「もし自分がこの発表をするとしたら」と置き換えると、自分でもやはり私が質問した基本的事項と思っていたことが「できない」のでは、と痛感する。
いやいや、怖いものである。

その後、頼もしい学生さん相手に遊んで、気持ちよく帰ったら、また腑抜けに戻る。
朝から、水分以外、何も口にしていない、つまり食べていないことに気がついた。
本当は食べようと思って、総菜パンも買っていたのだが、目の前においてあるだけで手が出ない。
21時過ぎになって、明日が「健康診断」であることを思い出し、今日一日何も食べず、おそらく明日の朝も何も食べられず、それで血液検査はまずいだろう、となるべくあっさりとして、そして栄養のあるものを食す。
身体が拒否して、お腹が痛い。

もう、これは、薬で「眠る」事で身体をだますしかない。

6月28日
日文研に出勤。
出勤前から、少し気分が悪い。

実は、昨日お昼前に「お腹が空いた」と思って、「久し振りにアレンジ料理なんてしたりして」とイメージと食べたい味を求めて、遊んだ。
いろいろ、味のバリエーションをつけられるように、少しずつ調味町を加えたり、違う組み合わせにしたりして、食べていたのだが、食べ終わる直前に、「あまりにもお腹がいっぱいかも」と思いながら、「でも、一口残すのは」と悪い癖が出て、勢いで食べた。
それが胃にもたれて、夕食はあまり食べられなかった。
正確に言うと、かなり強い胃薬を飲んでも、胃にもたれて解消しなかったのだ。

朝も暑くて、暑くて、水分ばかり求める身体に対し、食は全く落ちてしまった。
お昼御飯も家から持っていったが、先週いや6月に入ってからかな、朝ご飯を食べたくてもどうしても食べられない事が多いので、「お昼はしっかり食べよう」と家からいろいろ持っていく。
にもかかわらず、食べきれなくて、プロジェクト室に一品あるいは一素材ずつ、冷蔵庫に残して帰ってしまう。
冷凍庫にも食べられなかったパンが冷凍されている。
困ったものだ。

今日は以前研究生として日文研に来てはった人が、今京都にいるというので、親しかった元院生たちで、夕食を食べに行くことになっていた。
だから、お昼も控えたい、けれども土曜日に「豆腐」をおいて帰っているし、昨日の実験素材も食べてしまわなくてはならない。
プロジェクト室のメンバーで昼食を囲んで和やかに話している中、半分も食べ終わらないうちに、つっと口を出てしまった。
「あ、しんどい。もう食べるの疲れた」
一人の同僚が「食べるのには体力が結構いる」と賛同してくれたので、「夏ばて」とか「ちょっと疲れて、弱っている」という笑い話ですんだ。
時間をかけて、みんなとの会話で誤魔化してちゃんと全部食べたし。
でも、これって、生物が生きていく基本である「食べる」という行為をすでに放棄している発言とも取れなくはない。
すなわち、ずーっと突き詰めると「死」につながる。
やばい。

飲み会はとても楽しくて、でも、飲み会と言えばあほほど飲んでいる私にしては、話に熱中していたこともあり、飲む量も少なく、おまけに、食べていたのが、ほとんど「つまみ」のたぐい。(例えば、お造りとか、ジュンサイの二杯酢とか、たこわさとか)
家に帰ると、なんとなく小腹が空いているような、でももう一杯のような。

とりあえず、楽しかった。
だから、服薬してぐっすり眠ろう。

6月27日
朝、起きるとひどい貧血。
昨日、かなり持ち直したと思ったのだが、錯覚か?
明後日、母校で「鞍馬天狗」関係の発表があるとお誘い頂いた。
どういう集まりなのかはよく把握していないが、よろしければとご案内下さった方が、「鞍馬天狗」と言われてもあまり知っている人が少ないかも知れないと言うことだったので、きっと、チャンバラ関係かと思った。

いつだったか、といっても比較的最近のことだけれど、「雷蔵の人」「チャンバラの人」として周りにインプットされる、と嘆いていたら、「自分の専門分野で覚えられるなんて、研究者としてはこの上なく光栄な事よ」と逆に諭された。
そうか、そうなのか。
私は「単なる雷蔵ファンあるいは雷蔵マニア」とか「チャンバラおたく」と思われていると悲観していたが、この言葉は大きかった。
単純なので、それから「誇り」としている。

そんなことがあって、今回の「鞍馬天狗」でのお声掛かりというかお誘い。
とりあえず、何かコメントを求められたら、いい加減なことは言えない、と勝手に思いこんで、にわかに、「鞍馬天狗」について、ちょっとお勉強。
もちろん、鞍馬天狗のシリーズは、アラカンを中心に千代之介から雷蔵まで観られるものは観てきた。
けれども、「鞍馬天狗」を特化してみていない。

土曜日の研究会のせいか、博論でシリーズとして特化して観ていた「旗本退屈男」との比較で、自分で面白いと思う視点ができてしまった。
まだ、思いつきだが、これは短くても1本かけそうだ。
そんなことばかり気になって、ちっとも「鞍馬天狗」オンリーに集中できない。

今日は暑いので、少し早めに非常勤に行く。
ぎりぎりに到着して、教室に入って汗だくというのが嫌だったのである。
できるだけ「涼しい顔」をして教室に入りたいという「見栄」である。

それにしても、暑いなあ。
空梅雨というか、まだ6月なんて・・・
夏になったらどないなるんや。

2005年07月15日

気がつけば昼前

7月14日
だんだん気が狂うていくのがわかる。
身体がみしみしと崩壊していく。
バランスがゆっくり崩れだし、傾いてはシーソーのように戻ってゆらゆら。

「本音街」(@町田康)を読み、そのリアルさにぞっとしつつ、己も一瞬「本音街」なるものに行ってみたい。
寝ている気がするだけなのか、眠っているのか、醒めているのか。
依拠する物語を探しながら、空をつかんで、虚。

7月13日
今晩もまたお泊まり。
人が喜んでくれることをすると、自分も実に気持ちがいいものになるはずなのだが、逆転している己は天の邪鬼。
鬼じゃ。

午前中は「変体仮名講座」に出席。
昼は、ラザニアとマリネを食べてもらい、自分でもちゃんと食べました。
手抜きの割には結構いけるやん。
私って天才。
ナルシスト。
午後に、院生の授業に参加。いわゆる聴講っちゅうやつやね。

小雨が降ってきたので、同僚に駅まで送ってもらい、家でしばし呆然。
ちょいっと本を読み、映画を観る。
それから、宿泊セットを担いで祖母の家に。

今日は夕ご飯はいらない、泊まりにいくだけと言うてあったのに、わざわざ私のためにと「シーフード・カルパッチョ」セットなるものが、買うてあった。
好物であるし、生ものであるから今日中に食べなくてはならない。
22時半頃に行って、そのままにしていたが祖母に「なおちゃんのために、なんか買っておいてあるよ」と二度言われ、23時頃、もそもそ食す。
別に、あたったわけではない。
身体が受けつけず、夜中に腹をくだす。

まだ、4時なのに・・・
あれ?2時頃寝ようとしたから・・・

朝なのか、夜なのかよくわからない。
あたたたた。

7月12日
朝出勤すると、同僚に「朝ご飯はシリアルがいいらしい」と突然いわれる。
はあ?
朝のTVで言っていたらしい。
今日は、祖母の家から来たから叱られながら?朝ご飯を少し食べてきた。
心配して言うてもらっているのでありがたいが、今朝はだから食べてきたって3回言うても、しつこく繰り返される。
信頼あらへんな。
だから、ここ2週間ほど、体重も変わってへんし。
単なる夏ばてとストレスやって。

ちなみに、私は小さい頃から牛乳が苦手である。
一時、受けつけずに飲んではもどしていた。
今でも牛乳だけごくごく飲むことはありえない。
珈琲や紅茶と一緒に摂取する。
中学や高校の頃、アメリカに憧れて?、「夏の朝は、シリアルと牛乳」と格好つけて食べようとしたが、結局一箱食べきった覚えがない。
牛乳が苦手なのと、飽きるので、結局途中で湿気てしまう。
毎朝続かない。
なので、丁重に、なんぼ身体によくてもわてにはあいませんわ、とご提案を退ける。

実は、日曜日にあまりにストレスがたまってまいっているので、気分転換にローストビーフを作ってみた。
安い肉だったので固くなってしまった。
食が細くなっているので、食べきれず、お昼にみんなに毒味してもらった。
そりゃ、他人が料理をしてくれて、「不味い」という人はいず、一様に「美味しい」と言ってもらえる。
お世辞でも嬉しく、調子に乗って、明日は手抜きインチキラザニアと簡単マリネもどきを作ると宣言。
自分一人で作っても、食べきれないが、他に食べてくれる人がいると、料理が作れるので、ストレス発散になる。
といいつつ、プラムとおひたししか食べられない自分がいる。
栄養バランスは考えているんやけどな。

7月11日
結局、金曜日から日曜日まで完全に引きこもる。
その間に、映画資料の整理やビデオを見たりなど、あまり体力を消耗しない程度の仕事はしていたが、2日ほどほとんど誰とも喋らず。

今朝も稽古をあきらめて、夕方に行くことにして、最後の授業準備を仕上げる。
蒸し暑くて、ふらふらである。
今日で最後なので、気を引き締めて授業にのぞむ。
皆さんに発表して頂いた題を書き出して、発表者の立場であれ、聞いていた立場であれ、とにかく一言求めるが、ど、どうしたことか、誰も発言してくれない。
仕方がないので、それぞれの発表についてまとめてコメントし、他の発表との関連づけが可能、すなわち的を絞る重要さと、人の発表を聞いて、自分たちの発表とどこかでつながるモティーフができる可能性とを、例に挙げる。
ついでに、さらにつっこんだ質問をそれぞれの発表者に投げかけてみる。
ううん、こちらから問いかけないと、答えてくれないので困惑。

最後は、「映像」を扱っている授業なので、発表では誰も取り上げなかった「ニュース」について触れる。
ジャーナリズムの範疇にはいるといえばそうだが、とにかく現在は、「ある事件」に対して情報を得たいと思って探すのではなく、TV、新聞、インターネットを見れば、そこには写真や動画など溢れる映像が垂れ流しになっている。
一種のメディア・リテラシーというか、溢れすぎている情報から、今度は自分から鵜呑みにせずに、選択してその事件に対して考えてほしいと言い残す。
「フィクション」前提の映画でさえ、あれだけの豊富な視点からの解釈ができるのであるから、「ノンフィクション」と思われる「ニュース」に関しても、同じように発信する側のメッセージがあり、それを自分で解釈できるはずだからだ。

最後に3人ほど質問に来て、それに受け答えするとすっかり遅くなってしまい、あわてて稽古に駆けつける。
家に帰って、準備をして今度は祖母の家に泊まりに行く。

休日に休養したものの、やはりしんどい。

7月8日
昨晩、気分がよくてちょっと調子に乗って食べた。
それが災い。
胃腸がびっくりしたのか、とにかく腹痛がひどく、貧血がひどく、お腹をくだし、トイレから出ると、風景がスローモーションに。
ああああ、ととにかくなんとかソファのところまでたどり着いた途端、失神。
全身の力が抜けていくのだけを身体のどこかで感じながら、音が消えていった。

はっと気がつけば、昼前。
立ち上がろうとすると、すぐに立ちくらみがしてその場にしゃがみ込む。
完全にダウン。
欠勤の連絡を入れる。

それから1日放心状態。
主治医のところに行こうと思いながら、脱力感で外に出ることすらできない。
引き籠もり。

7月7日
七夕。
旧暦なのに、新暦でずらさなかったため、どうしても梅雨にぶつかる。
新暦にして8月にすれば、天の川も見ることが出来るだろうに。
今日も突然の雷と雨。
夕方に止むからいいけれど。

夕方は懇談会にお誘い頂き、少しばかり社交の場を持つ。
みなさん偉い先生方なので、やっと一歩を踏み出そうとしたばかりの弱輩者はひたすら恐縮。
でも、刺激的及びためになるお話しをして頂き、感謝する。
いろいろ頑張らなくては。

7月6日
今朝も御飯を食べないので、叱られる。
とはいえ、食べたくないのだから仕方がない。
あまりに言われるので、「途中でおにぎり食べます」と出かける。
いつもより早い準急に間に合ったので、何気なく乗ると車内放送が。
「淡路で車両故障のため、現在京都線は停止しております」
え?
電車動いてへんの?
なんか、いつもより早い電車に乗ったのは、何かを察知したのか?
十三でとりあえず降りると、丁度電車が動き出したところらしい。
快速急行に乗るものの、結局淡路駅手前で、前の電車が詰まるから、信号待ちの嵐。
ちっとも進まない。
なんとか、いつも乗るバスの次のバスにぎりぎりに間に合う。
おにぎりを買ったものの、電車の中で食べられず、バスでは後輩と一緒になって喋っていたので食べずに出勤。

最近、プロジェクト室でも、「ちゃんと食べなさい」と注意される。
そんなに、体重が減っていってやせ細っている訳じゃないですよ。
健康診断以来、ちょっと増えたり、戻ったりで、あまり変わらないし、ちょっと食が細くなったけれど食べています。

とりあえず持ち歩いていたおにぎりを食べ、「変体仮名講座」へ。
前回休んでいたので、当たる順番が決まっていたらしく、当たる心配はないが同時に地力で読みながら参加する。
途中挿絵の解説や、さまざまな季節の話をして楽しい。

友達が難波に来ているので、一緒に夕食を食べる。
最初は「飲みに行く」と言っていたのに、突然「御飯を食べる」というので、困る。
難波なんて、もうほとんどいけへんさかい。
スイスホテル宿泊だったので、近場でいったことのなかった「難波パークス」に行く。
レストラン街のフロアに上がって、選んでもらう。
見た感じ、おおおっとそそられる店は特にあらへんな。
せやったら、いっそ「千日前いこか」と提案するが、「どこ?」「NGKの方」「NGKに行ってた」と言われて却下。
添乗の仕事できているので、今回は「吉本」ツアーらしい。
こぎれいな韓国料理屋に入る。
鶴橋に限らず、尼も神戸も韓国料理というか在日の方が多いので、わざわざこんなこぎれいな韓国料理屋に行くことはない。
まあまあかなあ。
「ちゃんと食べろ」とここでもいわれる。
だから、マッコリのあてにつまんでるやん。
ご馳走様。
友人も添乗が続いて疲れているらしく、いつもなら夜中まで一緒に飲むのだが、今日はさっさと別れる。

家に帰ると、さすがに連泊の疲れが出て、呆然。
全身にしびれが拡がる。
我が家が一番と言うことか?

7月5日
よく眠られず、なんだか朝からだるい。
祖母に心配をかけたくないと思いながらも、家を出る準備をして居間にいるが、しんどさが隠せない。
祖母が起きてきて、「朝ご飯食べなさい」と言う。
もっともである。
けれども、最近は家でもほとんど朝を食べないから、いきなり食べろと言われても。
祖母と一緒だと、多少無理して食べるのだが、昨日の疲れか祖母も「あとで食べる」と言うので、ますます一人では食べる気がしない。
結局、朝を食べずに出勤。

今日中に提出しなくてはならない書類がある。
けれども、パソコンが使いこなせないので、なかなか出来上がらない。
いらいらしながら、「あああここで書類を断念するかしないかで、すでにふるいにかけられてるんやわ」とぼやきながら、昼過ぎまで四苦八苦。
この前残した豆腐と、熟れすぎたトマトを食べたら、もうお腹一杯。
また冷蔵庫にストック状態。
共有の冷蔵庫のはずなのに、私物化してんな。

体調優れず、あまり遅くならない程度で帰宅。
今日は祖母たちも遅いので、家で仕事をして少し休養。
はあ、面倒だなあと思いながらも、明日はお出かけするので、最低限のものに絞って(すでにノートPCがあるからな)着替えをして、泊まりに行く。
23時前にいったら、祖母はお風呂に入っていた。
今日は、南港へ「アレグリア2」をいとこや叔母がセッティングしてもらい、見に行っていたのである。
「サーカス」というから何かと思ったら「アレグリア」だった。
席もよくて、楽しかったみたいである。
元気に、あちこち出かけられるのはいいことである。
今日は疲れたので、はやく寝るというので、こっちも安心して2階に籠もる。
なんだか、腰痛と腹痛が。

7月4日
ビデオなど見ながら、非常勤の準備。
貧血激しく、プルーンをもらっていたのを思い出し、スプーン一杯口にする。
これを毎日習慣づけて摂取すれば、身体の調子がよくなると義姉がくれたのである。
どうも、こういうものを習慣づけるのは苦手で、いつも忘れてしまう。
以前「プロポリス」(ローヤルゼリー入り)というのも、「身体にいい」と頂いたが、半分ほどで断念。
不味いわけではない、忘れるのだ。
水分なら毎朝飲めるのだが、あの瓶の蓋を開けてスプーンで一杯とろとろのを掬うのが面倒くさいのだ。
しかし、これで少しでも改善するのなら、忘れないように食すか。
昼頃、ちょっと買い物にでも出ようかと近所のスーパーに行く。
なんだか、全然欲しいものがない。
ちょっと野菜など買って、牛乳を購入。
アイスコーヒーとして飲んで、少しでも栄養を簡単に摂取しようという魂胆。

今日は雨か。
雨の中出かけるのは面倒だなあ。
そんなことで休講にできないので、足下が濡れても大丈夫な服装を考える。
雨が降り出すと、ほんまによう降るなあ。
湿度が高いと、空気が薄い。
雨が降ると、頭痛がして、息苦しい。
でも、空梅雨か?と心配されていた頃の暑さに比べると、大分涼しいので助かる。
今日で、学生の発表は終わりだが、最後は質疑応答が結構飛び交って、活気がある。
これでシーンとしていたら、寂しいから。
来週で春学期終了。
はやく夏休みにしてあげたいと思いながらも、「来週は最終討議とまとめ」と最後まで授業をすることを宣言。
お給料頂いているのだから、ちゃんと働きます。

家に帰り、しばし呆然。
水曜も木曜も夕方から予定を入れているので、泊まりに行くとしたら今日と明日。
今日買うた野菜や家にあってそろそろ食べなくてはだめになる素材を袋に詰め、着替えとパソコンなど用意し、祖母宅へ。
いつもは、「そんなに喰われへんって」というほど、何かと冷蔵庫にものが残っているのだが、今日はびっくりするほど何もない。
食欲もないからかまへんけど、ものの見事に何もない。

そうか、今日は朝から西本願寺に祖父ののど仏を納骨に行って、お昼を京都で食べて帰ってきたんやった。
雨の中、京都まで行き、ご馳走を食べ、兄の店にも寄ってきたというのだから、それは疲れて、夕飯は御飯と漬けもんでいいわなあ。
それでも気を遣うてくれて、白ワインとチーズは用意されていた。
もう、十分すぎるぐらい嬉しいです。
食材の一つをさっと調理し、ワインのアテにして頂きました。

2005年07月26日

ひとの話をきいてくれ

7月25日
おかしい。
天神さんやのに「暑く」ない。
大阪が近いので、毎年「天神さんが一番暑い」と育ってきたし、ほんまに暑い。
なのに、暑くない。
気持ち悪いわ。

帰り際に、「カサブランカ」をもらい、嬉しそうにお稽古に行く。
稽古場で、この前の「船弁慶」の写真が出来上がってきているのをみる。
写真にすると、プロが撮っているだけあって「ごっつい立派」に見える。
もう、随分昔のような気がしているが・・・

カサブランカを持って、祖母宅に泊まり。
祖父が花が好きだったので、喜んでもらえるだろうと「こんばんは」と居間に顔を出すと、目に入ったのは、9つも花をつけぼちぼち開こうとしている「月下美人」の二つの鉢だった。
あまりの立派さに、手に持った「カサブランカ」がなんだか寂しい。

でも、「月下美人」は一夜限り。
なんだか、とってもいいタイミングで泊まりに来た。
今も、なんともいえない淡い甘い香りに包まれている。

気のせいか、鉢に虫でもついていたんかもしれないが、むき出した両腕がかぶれている・・・

7月22日
最悪やけれど、同僚に救われる。
今朝、5時のニュースで大阪は28度という。
6時半のニュースで大阪は29度という。
7時頃に、蕎麦をゆでるものの、水道水が生ぬるい。
間の悪いことに、昨晩大叔母が氷の箱を洗っていたらしく、全く氷があらへん。
祖母も、起きてきて食べてものびておいしないやろう、と思いつつ、ずるずる食す。
祖母宅を出たとき、あまりの暑さに「このまま家に帰ろうかな」と思う。

ほんまにそう思ったが、どうしても本日仕上げなくてはならない仕事があったので、ふらふらになって出勤。
ところが、電車とバスが「死ぬほど」寒くて、その後、バス停から10分弱が溶けそうに暑くて、完全に体調を崩す。
プロジェクト室にたどり着いたとき、誰もいないのが救いか?しゃがみこんでしまった。
15分ぐらいうずくまっていて、漸く復帰。

どうみても、怪しいな。
怪しいと言えば、自分である。
あいつぐロンドンのテロ。
リュック姿で、夏にもかかわらず厚めの上着。
それは、電車の冷房対策で上着を着込み、1泊分の荷物とノートPCを持った巨大なリュックを背負ったうちの姿やん。
どないしょう。
そのうち、職務質問されるんちゃうか。

7月21日
今日もお泊まり。
昨晩、美味いワインに釣られて、豊富な実家の冷蔵庫の食材をあさったものだから、朝から腹をくだす。
今日は、雷蔵映画祭に午後から行く予定・・・やった。
着物を着ていくと1000円で観られるので、昨晩、家に帰ってから帯と紗の着物を合わせて、全部用意しておいた。
なのに、帯を締めようとする途端、お腹が痛くなって、あわてて脱ぎ捨てる。
汚い話ですまない。

それからとてもやあらへんけど、着物どころやない。
脂汗流して、トイレとベッドのわずかな距離をふらふらしながら、貧血と腹痛で往復。
最悪や。
遅れて行く旨を勤務先に伝えて、昼前にようよう到着。
バス停からあまりに暑くて、溶けそう。

今日は早く帰るなぞ言うておったが、雷蔵の映画を観るためには14時過ぎに、出なければならない。
もちろん、調子が悪くて着物も着ていない。
そんな日中一番暑い時間帯に、この体調で外に出るなんて、雷蔵にあう前に熱中症で倒れてしまう。
一応、1本は観たことあるし、もう1本はDVDも持っているので、断念。
いまいちの身体をもてあまし、今晩も泊まりなので、18時頃にとっとと帰宅・・・
のはずやってんけど。

今日は、早退して「雷さま」と決めていたのですっかり忘れていたが、中庭で「ビア・パーティー」が開催されていた。
中庭の回廊をこそこそと抜けて、バス停に向かおうとしたところ、お世話になっている先生に声をかけられる。
「いや、会費払っていませんし」と丁重にお断りするが、「後で払えばいい」と誘われ、暑さに「生ビール」に負けて、ついつい乱入。
ありがたいことに、ご高名の先生に紹介頂き、その先生が土曜日に発表しやはる研究会にお誘い頂く。
その後、いろいろな先生方と話して、またもや「食べなさい」と「飲んでいる?」の交互に答え、すっかり遅くなってしまった。

23時前に祖母宅に到着。
明日も早いので、と言うと、「生蕎麦をもらったから、ゆでておいて。半分起きたら食べるから」と言う。
あああ、それは逃げられんな。
まあ、麺の方がつるつる入るかな。

今書きながら、ニュースを見ていた。
世間は夏休みに入ったらしく、子供たちの夏休みの映像が映っている。
シャコをとる(つる?)行事に参加した子供たちを映しているのだが、うまくシャコをつった男の子にインタビュー。
「めっちゃ、嬉しい」と言うておるのだが、その表情がどうみても今にも泣きそうで、嬉しそうには見えない。
かといって、泣きそうだが、そのまま表情が凍り付いたように見える。
別の女の子も、表情が硬いというかないというか・・・
思わずテレビに向かって「お前等、ほんまに嬉しいんかい」と突っ込んだ。
考えると、相手の表情から適切な喜怒哀楽が読み取れないって、コミュニケーション断絶につながるんちゃうん。
寒気するわ。

7月20日
今朝は、いつもより早く出る。
祖母に「早いから」と言うておいたのだが、「その時間に起きる」と言われてしまった。
けれども、一向に起きてくる様子がない。
昨晩、「鍵をかけてでかけましょうか」と相談していたのだが、「起きるから」ということでそのままになっていた。
まあ、ごそごそしていたからなんだかんだと起きるだろうと、そのまま出てしもうたがちょっと心配。

相変わらず大荷物で出勤。
暑い。
午前中に研究会終了。
後かたづけは午後に回して、とりあえずランチ。
祖母宅に泊まると、朝ご飯を食べないと叱られる。
今朝は「うぐいすパン」が用意されていた。
でも、あまりの暑さによう食べられんし、電車の中で食べようかなと思いつつ、半分証拠隠滅も兼ねて、持参したが、お昼も別に用意していたので食べられず。
それでも、一時よりは少し食欲を戻しつつある、と思う。

午後は、仕事。
ちょっと体力のいる仕事。
うろうろしながら、すませたものの、あかん。
やっぱりへたれえやわ。
クセになっている右手首が再び腱鞘炎。

用事があって実家に電話する。
21時過ぎだった。
母と話していると、突然、沈黙。
電波がおかしいのかと「もしもし」と何度も繰り返すと、突然、耳をつんざくような悲鳴。
何?
鼓膜破れそうやん。
こっちは漸く駅に着いてから連絡しているから、歩きながらなのであわてて「どないしたん。もしもし」と聞くと・・・
「あほう。何打たれてんの。点入れられたやん」
あのう、それって人の話聞かんと「阪神戦」見とったんかいな。
すっかり本題忘れて、「もう、ええわ」と言うと「延長戦なんよ」って、知らんがな。
どうも向こうの用事は「こっちによって持っていって欲しいものがある」と言うことなので、逆方向に歩き始めていたのに、実家に行くことに。
着いたときには、阪神が負けたときで、両親ともに(特に父)の機嫌の悪いこと。
こんな環境で育ってんから、阪神ファンは逃れがたいすり込みやな。
おかげさんで実家の冷蔵庫の掃除をしましたが、家帰ったらなんかお腹が痛い。
た、食べ過ぎか?
思わず1985年もののポルトガル白ワインをご相伴預かり、しかも父が「口に合わん」と言い出すので、「こんな美味いのに」と調子に乗って平らげたのがアカンかったんかな。

身体さんにまた怒られるがな。

7月19日
研究会。
夏ばてして、ここのところ会う人に「大丈夫ですか」と言われていたが、今日は「オガワさん、元気そうですね」と言われる。
そりゃあ、「雷蔵」のおかげですよ。
すっかり元気になりました。
いつまで持つやら保証できませんが。

研究会はいつも刺激的。
とても楽しい。
だが、今回はもう一つの楽しみの「懇親会」を辞退したので、一部のメンバーに「なぜ?」と言われてしまう。
いや、「鵜飼」に興味がなくて・・・
すみません。
風情のわからぬ野暮な輩なもので。

明日が早いが、帰りが早かったので祖母宅にお泊まり。
ちょっと、週末騒ぎすぎて、疲れてきたかも。

7月18日
昨日の興奮冷め止まぬまま、今朝は張り切って、JR京都に9時半集合。
ロケ地めぐりを兼ねたバス・ツアーである。
回るのは、三井寺、琵琶湖湖畔でランチ、延暦寺、日吉大社である。
大型バスを借り切ってのツアー。
バスの中も、雷蔵話で大盛り上がり。
実は三井寺と延暦寺は行ったことがなかったので、それも参加の理由だった。
三井寺は謡も稽古していたので、「これがあの鐘か」と一人感動。
カメラもってくるんやった。
携帯で取ってみたが、いまいち。

一応門に集合する時間が決まっているので、マイペースに観光できる。
もちろん団体であるのだから、歩きながらお話ししたりもする。
一つ恥ずかしいことは、お互いを「ハンドル・ネーム」で呼び合うことだ。
ネット上なので、個人情報の問題もあるから、会員は自らお気に入りのハンドル・ネームを希望し、誰も重なっていなかったらそれに決定する。
ほとんどが雷蔵の映画作品における役名である。
あるいは、その相手役とか。
私は、絶対に誰かが使っているだろうと思って、軽い気持ちで「龍之介」とかき込んだ。
「机竜之助」と「月形龍之介」にひっかけたのである。
芥川龍之介もいたなあ。
ところが、意外にもこんなメジャーな役名があっさり受諾され、昨日から今日も1日「龍之介さん」と皆様に呼んで頂くことになった。
かなり、恥ずかしい。

ランチタイムはドイツ料理。
たまたま座った席が、いつも映画館で会う女性と、雷蔵歴の長い人たちばかり。
しかもみんな酒飲みだったので、調子に乗って昼からドイツ・ビールをがばがば飲んで、大騒ぎ。
皆さんが市川雷蔵ファンであることは、自明のことだが、それ以外に、映画自体が大好きと言うことも判明。
雷蔵の映画で盛り上がっていたのが、いつのまにやら「洋画」の話に移り、またその話しについて行ける私もいるものだから、一番うるさいテーブルになってしまった。
年齢はさまざまだが、スターについて語るとき、本当にみんな少女や少年のようにキャーキャーはしゃいでしまう。
それは、ある意味いつまでも若さを保つ幸せの要素のような気がした。
なんの楽しみもなく、熱く語り合う相手もいないより、端から見て「あほちゃうん」と言われようとも、こんなに大笑いし、思い出しては泣き、同じ映画のシーンを共有して、それぞれの思い入れが加えられていく。
そんな幸せはないと思い、「映画」(小説でもテレビでも構わないが)の力と市川雷蔵をはじめ多くの銀幕のスターたちの魅力や力を感じる。

そこから、今度は、延暦寺へ。
バスの中、琵琶湖湖畔でロケをした思い出話を監督より聞く。
残念ながら田中監督は、今回のスポットでロケをしたことはないそうで、全部助監督時代の話である。
俳優は着物を自分で着られるのが当たり前だった時代。
エキストラ200人とかがすぐに集まり、贅沢に映画が製作された時代。
200人に鎧をつける(エキストラなので自分ではできない)だけで、何時間もかかり、それからロケ地に移動して、1日では終わらない大仕事という話など、想像しているだけで楽しそうだ。
当時は道も舗装されていないので、せっかく扮装させても、バスの揺れで鬘がずれるというエピソード。
特に、溝口健二の話が多かった。
まさに時代劇第二黄金期の話である。

延暦寺では、売店のおばちゃんにダマされて?つい「胡麻豆腐」を買うてしまう。
日吉大社が、一番面白かった。
ここは「新・平家物語」で有名なシーンに使用されており、何人もがそのシーンを「台詞」つきで再現してくれるのだ。
ついでに、「江戸へ百七十里」のワンシーンもここだそうで、「鴈次郎が座り込むところ」と教えていただく。
これは、家に帰ったら、映画を見直さないといけないな。
京都に戻る中でも、「一条戻り橋」といえば、ロケ地は違うけれど「大江山酒呑童子」に出てくるところとか、「二条城」を見ながら、数多くの映画作品名があげられる。

あんまりこんな濃いのり(「冬ソナ」ロケ地巡りの韓国ツアーみたいなものね)は・・・、と最初は戸惑っていたが、ロケ地ツアーも楽しいけれど、とにかくそれぞれが持っているその雷蔵や映画についての豊富な情報を交換し、新しい人々との出会いという面が、このオフ会の一番いいところと感じた。
だって「あのシーンね」と再現して騒いだとしても、別に「雷蔵」とそのシーンの相手役になりきりたいという欲望とは違う気がするのだから。
これは、もう麻薬だな。

7月17日
雷蔵忌。
世間は祇園祭という。
嘘です。
たまたま日が重なっただけで、何の関係もありません。
すまない。

朝から上手くいけば5本立て!
はりきって、朝早く起きて、着物を着ようとするが、腹痛が。
1本目をあきらめる。
少し休憩して、と思っていたが、長い休憩になってしまった。
悔しいので自分への言い訳を考える。
何故、そのような面倒くさいことをするのか。
それは、この私が「雷さま」を見逃すなんて、許せないからである。
思いついた。
今日の5本の中で、一番見たいのが、最後の5本目である。
最初の3本はDVDを所持している。
これまで最高1日6本見るという暴挙に出たが、相当の体力を要する。
今の私は夏ばてで、かなり体力が落ちている。
5本目の後、雷蔵ファンの集いで食事会もあるのに、これは体力配分をせな、えらいことになる。
と言うことで、着物を着て、3本目を見に大津へ行くことにしたが、JRがダイヤ変更していたことに気付き、10分ほど遅れることが判明。
その後、2本は京都なので、思い切って、京都の2本だけ行くことに変更。
しかし、着物を着ているので、洋服以上に暑い。

普段、冷房で身体を冷やしているので、家にいるときはよほどでない限り、クーラーをつけないようにしている。
あかん。
限界と、今年初のエアコン使用に踏み切る。
着物は好きなのだが、夏は暑い。
用意をすませ、まだ時間があるので、仕事を済ませようと決意。
明日は朝から1日バス・ツアーに参加するから。
初めての成績をつける。
ドキドキしながら、「なんで」と問いかけられても答えられるように、慎重に評価する。
一段落したら、丁度いい時間。
京都へゴー!

久し振りに「鯉名の銀平」を拝見。
田中徳三監督のご挨拶を拝聴。
これまた久し振りに「濡れ髪剣法」を拝見。

スクリーンで見る雷蔵は一段と良い。
もう惚れ惚れする。
やはり映画館で見るのが一番。
本当にミーハーやわ。
結果的に2本に絞ったが、おかげで体力余裕で、眼が疲労することなくゆっくりと鑑賞でき。
それから、雷蔵を偲ぶ会に初参加。
料理屋さんに行き、田中徳三監督や当時の大映の脇を固めていた俳優さんも参加され、40名近くの大宴会である。
小さなテーブルを6名ずつ囲んでいるので、「初めての参加です」と皆様、先輩諸氏の方々にご挨拶。
私の隣りに座られたご婦人は、雷蔵が活躍していたときからスクリーンで見てはった大先輩。
羨ましい。
いろいろとお話を伺う。

意外なことに、昨年の市川雷蔵映画祭「艶麗」で雷蔵にはまりましたと言う方が何人もいやはる。
「雷蔵歴」というか、いつ頃からファンになったのかという質問が飛び交う中、年数で言うと結構古くからのファンに分類されている自分が怖い。
しかし、見方が違うので、トリビアクイズ状態になると、全然かないません。
今後の研究のために、下心丸出しで田中徳三監督にご挨拶し、名刺を渡して、いつかインタビューしたい旨を申し上げる。
笑って承諾してくれはったが、酒の席の上の事なので、確信はない。

この会でも中心としてファンクラブ設立者の手伝いをしている女性がいはる。
実は、名前は知らないが、ここ10年近い雷蔵映画祭で、彼女とは映画館で良く出会う。
少し言葉を交わすようになっていた人である。
宴たけなわになって、いろいろと状況がわかってくる。
このファンクラブができて、こうして「雷蔵忌」というなのもと、食事会をするのが今年で3回目。
これは、インターネット上で設立されたファンクラブであり、こうして映画祭などで集まるのを、用語通り「オフ会」と称している。
インターネットの力はすごい。
今回参加されている人は、北は仙台から南は九州と、頭が下がる。
ネット上で立ち上げたファンクラブ会長に当たる女性も、普段はロス在住なのだ。
本当に頭が下がります。
以前「雷蔵」と呼び捨てしたら、「雷さま」と呼びなさいと叱られたこともあったが、本当にこの役者の魅力は何だろう。

昨日から、今日の昼過ぎまでくすぶっていた鬱状態がすっとんだ。
これもみな、雷蔵さまのおかげです。
この世を去られて36年。
合掌。

7月16日
京都に映画を見に行くつもりだったが、動けなくなった。
おそらく、暑さのせいだろう。
顔を洗い、服も着替えて、あとは鞄を持って家を出るだけ。
せやけど、玄関まで行くと、お腹が痛くなったり、眩暈がしたりして、部屋に戻る。
これって、完全なる鬱状態の症状。

食欲もなく、汗ばかり滝のようにかくので、ひたすら水分をとり続ける。
気がつけば、外は暗かった。
先週末の引き籠もりを思い出す。
あかん、うっかりすると、ほんまにこのまま出られんようになる。
明日、明後日と予定があるから、今日はこのまま体力蓄えっていうことにしとこ。

7月15日
1時間寝たか。
30分から1時間ごとに目が覚め、暑くて長い夜が明けた。
どうしようもない身体を引きづりつつ、とにかく出勤。
仕事が溜まっているのだが、集中力が落ちすぎて、全然捗らない。

おそらく自律神経がいかれているのだろう。
身体全体がしびれたような、どんな格好をすれば少しでも快適になるのかわからない。
しゃがんでみたり、背筋のばして椅子に坐ってみたり、横たわってみたり、立って歩き回ってみたり・・・
あかん。
気持ち悪い。
自分の身体をもてあます。
ほんまに、身体は正直や。
理性で統制しようとする頭さんの指令に従っているように見えて、こうして身体は確実に抵抗し、警鐘を鳴らす。
それでも、「まだなんとかなるやん」と無理しようとすると、仕事ができない状態に陥れる実力行使にでやはる。
えらい、すんません。
身体さんに謝る。

午後になると、主治医のところに行かないと限界に思えてきた。
いつもは混んでいるので、探りの電話を入れると、今日はすいているという。
あわてて仕事を終わらせて、すごい勢いで直行。
ぎりぎり間に合った。
とにかく、調子がばらばらだが、すべてに絶望しているわけではない。
薬を増やしたくない方針の主治医と話し合い、胃薬だけ増えた。
胃が弱っているので、これ以上夏ばてを、すなわち身体さんを弱らせないため。

さて、気を取り直して連休だ!

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