6月26日
昨日は、あんなに拙い発表だったのに、多くの人々に指導して頂き、大変得るものが多い、貴重な体験となった。
先週に比べて、発表としては合格であった。
いろいろ理解できていなかった方向に、各分野の研究者からさまざまな知見を得た。
実は、この度の発表のためにいろいろ先行研究や関連研究書を読んでいると、どこかで必ずと言っていいほど、今日の研究会のメンバーの誰かに行き当たる。
それは、引用されたり、実際その論をご本人が書いたものであったりさまざまなかたちではあるが・・・
このような人たちの前で、まだ付け焼き刃程度の理解で発表していいのか?と、昨日の映画用語のことと重なって、かなりびびっていた。
しかし、案ずるより産むが易しというのだろうか。
ほとんど眠れず、発表が始まるまでは、寒気がしていたにもかかわらず、始まってしまえば、楽しくて、交わされる言葉を拾い集めるだけでも、暑くなるほど興奮してくる。
追いつめられた結果、アドレナリンが大放出したのかも知れない。
おかげで、今日は暑くて汗がにじんでいるにもかかわらず、鳥肌が立つという身体が不調を訴えている。
一番顕著なのが、体重が突然落ちることだ。
さすがに、以前のような激やせはしないが、2kgぐらいおちる。
鏡を見ても、顔色が悪いし、どう見ても健康的ではない。
にもかかわらず、「発表があるので忙しい」と何度も言っているのに、母から電話があり「発表終わったのでしょう。どうだった?家にいるのなら、今晩祖母の家に泊まれる?」と、全く一方通行の電話が入る。
昼ご飯に誘われ、トマトをたくさんくれるのはいいが、どうして親は気付かないんだろう。
私があんなにひどい状態に陥った原因の一つを、自分たちもになっている事を。
実際、かなりましになったときに、親子関係が私に破綻をもたらしていることを、親だからこそ苦しんで、あなたを理解しようとした、と発言していた。
でも、それは思い込みだったようやね。
私が、元気になり、向こうが思うような理想的な娘を演じて接していると、言葉を悪くして言えば、つけあがる。
私が、かなりむりをして演じていることに気付かない。
吐き気がしているのに。
なんのために、私が家を出たと思っているのだろう。
どうして、家も出て、家計も別に暮らしているのに、娘のスケジュールを管理し、勝手につごうのいい予定をたてるのだろう。
ぎりぎりまできて、もう気が狂いそうだ。
こんな状態が続くなら、死のうと思った。
もう、昨日の興奮状態もない。
この関係性を脱せないのなら、自ら解消するしかない。
そのためには、もう死んで完全に消滅するしかないと真剣に考えた。
そんなとき、ふと親子関係について触れている本を無意識に手にして、読み始めた。
実は、書いているのが、読み終わった今だから、正確に言うと、親子関係の繰り返す破綻と分析できるのは、順序が逆である。
その本を一気に読んだことで、あああ、私がまたもや追いつめられている事に、関係性を解消するために「死のう」とまで、極論に走った自分の考えに、解釈を与えてもらったのである。
主治医のところに行く代わりに、とりあえず自分で代替物を見つけたといっていい。
その本を読んでいるうちに、最初は、死のうと思ったことに「でも、まてよ。初めてもった学生を裏切るのはいけないから、せめて非常勤が終わってからだなあ」と変な思考になり、最後は、こうして、今の状態をあらためて書くことのできる段階まで、持ち直したのである。
しかし、この本を例えばうちの親に読ませたところで、あの人たちは決して自分たちに反映できないだろう。
何も変わらないのが見えるだけに、絶望。
6月24日
明日の発表準備をしているとき、一番最新の「フィルム・スタディーズ事典」をちょっと参考に照らし合わせた。
またもやかなりショックなことが起きた。
これは、翻訳されたものであるから、日本よりも映画研究がはやく始められた西洋での用語が乗っているので、いろいろと教えられる事があると思って購入した。
自分で思いこんでいる用語が意味合いが違ったものであったなど、発見があった。
しかし、きっとこの作品は、このジャンルや用語に値するだろうと思っていた項目を見ると、全く触れられていない。
事典にあげられるので、後ろの索引で見ても映画作品は代表例として選択されたものであるから、数に限りがある。
それは仕方がないのだが、漸く作品名を見つけて逆引きすると、それが「ゴミ」映画という一言のもとに片づけられていた。
いくらなんでも「ゴミ」というのは、ひどいではないか?
あるいは、 別の作品は「カルト映画」に分類されていた。
それは、決して言い書き方をされていなかった。
じゃあ、私はフィルム・スタディーズをしていますって、言えないの?
確かに、私は大学などの映画研究専攻という体系だったかたちで学んだわけでもなく、対象が映画と言うだけで、我流でここまできた。
しかし、日本ではまだまだ映画研究は「専攻」として看板が上げられるほど定着していない。
社会学とか文学とか、あるいはよくわからない名前の近年できた学部の中で、映画研究が行われているのが実情だからだ。
映画学部なんて、ほとんど見あたらないし、あっても製作を意味するものの方が圧倒的に多い。
だから、自称・日本映画研究なのである。
それにしても、事典にはまいった。
かなり自信を喪失しながら、夜中まで発表準備を続けた。
その裏で、先週裏切り行為をして平謝りしていたはずに友人が、その時約束した事をまたもや平気で破棄し、私の信頼をさらに裏切った。
私は、明日の準備でいっぱいだったし、それはそんな目くじら立てて怒るような重大事でもなかったので、どうでもいいやと思っていたが、それは抑圧に過ぎなかった。
もう、外が白んできているが、眠れないし、発表原稿を書きながら、先ほどから涙が止まらないのだ。
まずい。
やはり、今日は何が何でも主治医のところに行くべきであった。
こういうときに限って、優先順位の判断ができないのだ。
明日は土曜日であるので、事務の方が会場を準備してくれはるのが、今日の午後という話だった。
ビデオやDVDを使用するので、一緒に準備して、予行演習しておこうと思っていた。
ところが、突然の会議でその部屋が夕方まで使用されてしまい、それはそれで最低限のセッティングだけお願いして、主治医のところに行けばよかった。
発表は午後からだから、午前中に試しておけばいいし、その部屋は研究会でよく使用しているので、自分で接続することもできる。
しかし、発表準備をしながらついつい夕方まで一緒に待ってしまったのである。
明日、大丈夫かなあ。
6月20日
昨晩、祖母が、身体の調子が変だと訴えるので、あわてて二階から降りると両足がぱんぱんに浮腫んでいる。
叔父が来てくれていたので、夕食後、叔父が帰るまで、二階で仕事をしていたのだった。
来週の発表準備である。
叔父が呼びに来たので、階下に降りると祖母が「こんなこと今まで一度もない」と、明日病院に行くと意気消沈している。
足を触ると、氷のように冷たい。
なんとなく原因はわかった。
水曜日、木曜日と、祖母は母や叔母など娘たちと白浜に旅行に行っていたのだ。
なんでも有名な旅館に泊まりに行きたかったらしく、水曜日のうちに観光し、木曜日は雨なので朝からずっと麻雀に興じていたらしい。
そこで、ずっと坐っていたのでトイレに立とうとして、足がしびれ転んだらしい。
幸い尻餅をついたので、骨折には至らなかった。
それで、祖母は歩くことや動くことにかなり自信を失っていたらしい。
聞くと、転んだことにより打撲でおしりが痛く、週末もほとんど家で坐りっぱなしで、動くことを自ら牽制するような生活をしていた。
昨日も、昼から暑いので冷房を入れた部屋で、叔父と母と麻雀をしていたことがわかった。
つまり、ここ数日、買い物にも行かず、身体が痛いと言うことであまり動いていない。
祖父がいるときは、祖母は、祖父の世話など家事をしたり、結構動いていた。
それが、ほとんど動かず、しかも冷房で冷えたのだから、完全に冷えによるむくみである。
それを「足がはれている」「なにか内臓が悪いかも」と心配して動揺しているのだから、とにかく暑くてもお風呂にゆっくり入って、身体を温めるように言う。
寝るときは、座布団を入れてあげて、足を少し高くして寝るようにいった。
冷房による冷えと、ほとんどデスク・ワークによる動かない一日で、両足がぱんぱんに浮腫むことは私にとっては日常茶飯事であるので、「私もいつもなりますから」と安心させる。
朝起きると、祖母の浮腫はおさまっていた。
それでも、心細いのか「今日は非常勤に行く日なら、夕食はうちで食べなさい」と言われる。
日文研だと、帰ってくる時間が予測できないが、非常勤だと、とりあえず19時過ぎに帰ってくるということを学んでしまったらしい。
火曜日に能特訓だったりすると、泊まりに来ていたので、そのスケジュールをインプットしたのだろう。
本音は、家で発表準備をしたいのだが、昨晩のこともあるし、今日は医者にいって血液検査もすると意気消沈しているので、気になって「じゃあ、ご馳走になります」と言ってしまった。
それで、夕食を食べに行き、様子を聞くと、今日は浮腫んでいないし、扇風機を出して冷房を止めたので、調子が良いという。
それは良かったと、お話しをしながら御飯を食べ、(といっても食欲が落ちているのであまり食べられない)9時過ぎまで一緒にテレビを見ながら話をして、大叔母に任せて、家に帰った。
夕食時に、盛んに「昨日はなおちゃんが泊まってくれていたから本当に助かった」といわはるので、困った。
本当に心細かったからそう思って言うてくれているのだと思う。
しかも、祖母は私が夕食を食べに行くと、必ず「おかえり」という。
私は「こんばんは」と言っているのだが。
この言葉に私は弱い。
祖父の死がかなり予測できない早さで迎えてしまったので、祖母にはできる限り孝行したいと思っている。
しかし、祖母には会社という場につとめる形態、すなわち朝出て行って、夕方に帰ってくる勤務体系はわかるが、私が家でも仕事をしている、映画を観てがははと笑っているように見えるが、実はそれが仕事の一つであると言うことは、なかなかのみこめない。
映画見るのが仕事って、たしかに端から見ると理解しがたいだろう。
だから、非常勤であれ、ある場所に出かけて、決まった時刻に帰ってきたら仕事が終わりと思うらしい。
それは、おそらくうちの両親にも言える。
だから、遊んでるんじゃないんだって。
泊まりに行くと、どうしても祖母が寝るまで気になるので、二階に籠もって仕事することができないのである。
別に、寝たきりで介護が必要なわけでもないのだから、籠もって仕事をしても構わない。
その通りであるが、私の性格上、結局祖母の家にいると集中できないのである。
つらいところである。
6月18日
はああ。
泣きっ面に蜂。
完全なる悪循環。
はきそうである。
私は、どうも自分で勘違いしていた。
しかも、書くことでリハビリしているのに、その機能を忘れてもいた。
ほんまにあほである。
打ち上げでまわりには慰めてもらったが、昨日の発表はこれまで、大学院に進んで以来、最も出来の悪いものだった。
精神的にまいっていたのは事実であるが、まさかこんなところでこけるなんて。
決して手を抜いていたわけではない。
確かに、着物を着て発表するなど、ちょっとパフォーマンスをしたのが罰当たりだったのかも知れないが、演劇学会の前夜フォーラムなので、私はむしろ「武装」して臨んだつもりだった。
ぎりぎりまで準備をしていたので、余裕のある発表ではないことは認める。
けれども、プライベートを持ちこまずに、ちゃんと準備はできる限りしたつもりである。
昨夜は、領域横断フォーラムという名で、5名の若手(と私もいうてもらっている)研究者による、明治・大正期の芸能に焦点化して、それぞれの分野から演劇と絡めて発表するという企画だった。
お題に「メディア・観客・パフォーマンス」といただいていた。
事前に、2回ほど打ち合わせをして、司会者も立てて、一人15~20分、司会からのコメントと質問を挟んで、順番に発表し、最後フロアから質疑応答というかたちで行った。
17時半から19時45分、2時間以上だが、5名が話すだけでも100分はかかる。
ちなみに、私は「映画学」という領域から演劇との関連を話すことでよんでいただいた。
他のメンツは、音楽学、文化人類学、国文学、そして一人本当に若手のD1の演劇学である。
私も、はっきり言って「映画学」代表とは言い難い。
自称、日本映画研究といっているが、正確に言うと、映画を題材に日本文化研究をしているといった方が、よりそぐわしいと思われるからだ。
他の研究者もおそらく、代表といわれることには、少し戸惑っていた。
いわゆる、○○学を王道として、深く掘り下げているというには、○○学の定義というものがあるのなら、それが大きすぎて引き受けられないからかも知れない。
それはいい。
私はフォーラム直前の打ち合わせで、話の流れからいきなりトップ・バッターとなった。
明治・大正に限定すると、映画は明治後期にフランスで作られ、日本にやってきたメディアである。(私はいろいろ説があるが、リュミエールのシネマトグラフを前提にしている)
映画が演劇という先行ジャンルにどのようにアクセスして、どのように距離を測り、単なる演劇を映すだけのメディアではなくなっていったのかという話を中心にした。
大正時代だと、映画はまだ無声映画で終わってしまう。
新国劇の澤田正二郎が映画出演したのは、大正末である。
映画が音声を得て、20世紀最大のメディアとよばれるようになるのは昭和からであるので、かなり考えた。
その当時で「演劇」(もちろん私が前提にしているのは舞台で演じられるものということは述べている)と決定的に別のメディアとして機能を果たす視点として、「尾上松之助」という日本全国に知れ渡るスターを生み出したことにふれた。
また、舞台を見る観客の視点が席によって左右されるという視線を変えたという、限定された観客の共有する空間的・時間的制限を解放したと、やや大胆というか危険な観客論まで展開してしまった。(正確に言うと、そう簡単に言い切れないし、やはり上映条件によって、共有するものはかなり違うとわかっているからである。)
実は、それは演劇の人に「違う」と突っ込まれることで「演劇」とは何か知りたかったために仕込んだものだった。
他のメンバーは、「井上正夫とアバンギャルド」(ちなみにトップになったので、映画にも出演・監督した「井上正夫」のこともちらっと触れておいた)
無声映画に伴って、和洋合奏というかたちで西洋音楽を普及させようとした試み。
学芸会における「学校劇」における大正期の批判の問題。
ある浄瑠璃のテキスト解読が明治後期に「貞節」から「恋愛」とコードが変わった問題。
という発表の流れで、全員話し終わり、会場に質疑応答を募った。
20時前まで、質問が飛び交った中、私への質問は一つもなかった。
全く無視されてしまった。
私は、大学院に進んだとき、内田先生より教え込まれたことが、「誰も質問しない発表は最低だ」ということであった。
誰も質問しないのは、「誰も理解していない」か「質問するにも値しない」かどっちかだと、初めて連れて行ってもらった阪大(昨日も阪大だった)での学会の時に言われた。
このときは、仏文学会で、興味のある発表があったので聞きに行きたいのと学会発表とはいかなるものかを見に行くために連れて行ってもらった。(自分の発表ではない)。
それを最初にたたき込まれていたので、たとえどんな批判であろうと、自分が話した内容について聞いていた人が反応してくれる事がとりあえず、最低の合格ラインとしてはかってきた。
なので、誰にもいじられなかった昨日は、決定的だった。
大失敗だ。
ここまで書いて、少し落ち着いたが、実は、他にもまた傷つけられる事件が起こっていた。
私の本当に学習しない事の一つに、すぐに人を信じるということがある。
昨日、またもや信頼している人に裏切り行為をされたのである。
その上、極悪非道な娘と言われても仕方がない。
母が「月曜日稽古に行くんだったら、日曜日祖母の家に泊まれるでしょう」と、悪意なく娘のスケジュールを決めてしまったことに、拒否反応が出てしまったのである。
実は、書かずにいて発表の準備のために、抑圧していたのが親子関係だったのだ。
日曜日に、久し振りに用事があって(夏物の着物と扇風機を取りに)実家で夕食を取ったのが、間違いだった。
あの場では、どうしても私の身体が拒否するらしい。
あの時点から私が安定してきたと勘違いしていたバランスがどんどん不安定になっていった。
とはいえ、祖母をないがしろにするつもりは毛頭ない。
日曜日の夕飯は祖母が一人っきりだと聞いて、「父の日」だし両親と祖母と一緒に食事して、そのまま祖母の家に泊まるという案を受け入れた。
とにかく破綻を来さないように、調子を整えなくては。
6月16日
今週に入って、完全に精神的にまいっている。
最近、忙しさとその勢いで主治医のところにいっていないが、かなりやばい。
自分でも、かなり回復したなと思うのが、とにかく倒れないことである。
精神的にまいっている事で、自分の研究を妨げられている状態を、研究することでなんとか克服しようとあがくことがなんとかできることである。
とにかく、明日の発表だけ考えよう。
6月13日
痛い。
私もあまり学習しない方だが、それにしても、どうして同じ方法で、また傷つける人がいるのだろう。
ここのところ、良いことが続いたから、悪いことが起きるのも当然である。
甲野先生がたとえてはった「税金」だと思う。
が、傷が深すぎて、眠れない。
6月11日
今日は、上田能楽堂で下川先生が「天鼓」の能を舞わはるので、見に行く。
さすがプロ。
ひたすら「お見事」と絶賛。
自分の師匠を、絶賛して感動して帰るなんて、おめでたい奴と思われるかも知れないが、本当に感動するのだから仕方がない。
その後、一路京都へ。
個人的に学術指導してもらったわけではないが、たびたびお話しをして頂き、絶妙なたとえ話で、アドバイスをして下さった先生の送別会である。
少しだけだが、お話しをする時間があり、ステキなたとえ話をまたプレゼントして頂いた。
先生の笑顔と一緒に、いただいたたとえ話を忘れずに、心にとめておきます。
6月10日
今日は、祖母の誕生日である。
満で91才である。
ちなみに、来週は母の誕生日である。
もう、祖母にはプレゼントするものを思いつかないので、今晩母が祖母の家に泊まるのと、父が出張ということで、二人と外食して、その飲食代を微々たるものだがプレゼントとして、私が払うことにした。
といっても、家の近所にはそんないいお店がない。
誠に申し訳ないのだが、祖母が行ったことがないというので「居酒屋」ですませてしまった。
「なおちゃんにご馳走してもらった」と祖母に言われると、恐縮してしまった。
どうせなら、本当に「ご馳走」をすべきなのだが、まあ、気持ちの問題ですので、また今度で許して下さい。
泊まってあげたいが、忙しいのでちょっと勘弁して下さい。
6月9日
今日は日文研恒例の「草刈り」と、法人化で名称が変更した「ガーデン・パーティー」である。
これまでは、所属が総研大だったので、草刈りも関係なく、パーディーだけ、気まぐれに出たりして、先生方や職員の方々と交流を図っていた。
今回は、日文研所属になったので、積極的に参加する意志を事前に伝えていた。
とはいえ、連日の貧血や体調の悪さから、同僚に心配してもらい、プロジェクト室の電話番という役目で、草刈り免除してもらった。
申し訳ない。
寒いぐらい冷房をがんがん効かせて、草刈りから戻ってくる同僚に「お疲れ様です」ということしかできなかった。
ガーデン・パーティーでは、普段お話ししたくても、なかなか話す機会を得られない先生方とじっくりお話しをさせて頂いた。
おまけに、発表のためにアドバイスまで頂いた。
失ったと思っていた「特権」はまだまだ有効な環境にいることを実感。
ありがたい。
本当に、ありがたいと思い、今、少し興奮気味で眠れない。
6月8日
しまった。
貧血がひどくなり、とうとう「変体仮名講座」をさぼってしまった。
10時半からなのだが、朝動けずに、家を出るのが遅くなってしまった。
11時半頃に漸く、日文研にたどり着いたが、12時までなので、結果的にさぼったかたちとなった。
ふと気がついたのだが、今年度にはいって、新たな予定がいろいろ立っていく中、「せめて5月29日の初能が終わるまでは、大目に見て下さい」と言い訳しながら、6月以降のお話しであれば、「はいはい、何でも致します」と手帳に書き付けて、過ごしてきた。
「お声をかけて頂くうちが花」と、ほいほいと発表を引き受けていたのが、6月中に2つある。
来週と再来週だ。
確かに、自称専門である「映画」関係で話をするのだが、同じ話ではない。
それは最初から、すなわち4月にお声がかかったときからわかっていたのだが、うかつにもお稽古に専念しすぎて、全然準備ができていないことに気がついた。
仕事も溜まっている。
おまけに、今頃になって、疲れがどっと出ることも考慮に入れていなかった。
どうして、学習しないのだろう。
発表は、漸く研究者を目指してスタートラインに立った私にとって、大事な業績でもあるが、ある意味、それがまずいものであれば、自分で未来への道を閉ざすことにもなりかねない危険をはらんだものでもある。
「学生」という「特権」のあるうちは、「まだ学生だから」ですまされるという「特権性」をあまり感じていなかったが、いまは痛感する。
しかし、ちゃんと生きていくには、「特権」に囲われたままぬくぬくしているわけにはいかない。
自分で引き受けたものは、自分で責任を取らねば。