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2005年06月 アーカイブ

2005年06月07日

携帯水没事件

6月6日
相変わらず、私が悲しんで、私が感傷的になっても、なにもならない。
けれども、午後に帰宅した私は、誰にも会いたくない、けれども何とも表現しがたい感情にとらわれていた。
本当は、祖母の家に泊まりに行く予定にしていたが、そんな気分になれず、おみやげに買うた「ままかり」を届けて、今晩泊まりに来る事に振りかえてもらい、家に戻る。

呆然。
親友が社員旅行から帰ってくるので、気遣っておみやげを持ってうちに来てくれるという。
私は、信頼のある親友に、今日の事の一部を語り、わがままに振る舞った。
だって、うちの家やさかい。

夜中に何度も起きて、寝付けず、朝は言われた時間に起こしたものの、そこから半分気を失って床に転がっていて、朝ご飯もしてあげなかった。
気配で、顔を洗って着替え始めているのを感じ、漸く起きあがって、「堪忍な」と謝りつつ、せめて駐車場まで一緒に降りて、送り出した。
すまない。

朝一で稽古に行くことも断って、だらだらと午前中を過ごす。
よくよく考えると、先週の日曜日に「能楽・船弁慶」の「シテ」という大役をすませた後、私は一度もゆっくりと休んでいないのだ。
疲れが溜まった、今頃疲れが出た、という言い訳を使ってもいいではないか。
とりあえず、夕方の非常勤に障害が出てはどないしようもないので、梅雨入り前の洗濯をすまして、軽く昼食を取り、発表の準備など、己の仕事に取りかかる。

非常勤は、相変わらず面白い。
楽しい。
自分では目をつけていなかった映画に解釈が与えられ、それを聞いて私は別の方法論を思い出す。
これは、本当に楽しい瞬間であり、質疑応答で出る言葉に対して、別の文脈を思い起こす。
たしかに、今日もかろうじて私がカバーできる題材であったため、救われたが、この不安感よりも、発表を聞いて、こちらが想起する新たな物語(発想や方法論)を思いつくドキドキ感の方が勝る。
生意気だが、本当に楽しい体験をさせてもらっている。

6月5日
朝から、倉敷に向かう。
こういうときに限って、なぜか新幹線が遅れる。
どうも、東京・名古屋間で不審者が線路内に立ち入ったらしい。

なんのために、ネットで検索していったん?
改札の駅員と、ホームの駅員で言う事が違う。
自分の都合を言ってはあかんけれど、脱線事故がなければ、私はJRで新大阪まで行く事が出来た。
だが、不通であるから、阪急で梅田に出て、JR大阪から新大阪に行って、やっとというところで事態が把握できないときた。
ちょっと、ムッとしたが、とりあえず、一番確実な「新大阪発」に乗ってなんとか岡山にたどり着いて、乗り継いで倉敷に到着。
実は、倉敷に行くのは初めてである。

目的は、「赤澤清和」展に行くためである。
どうも日本では、勘の鈍い私は、ギャラリーまでちょっと迷ってしまった。
漸く到着すると、ちゃんとお悔やみの「決まり文句」を用意していたにもかかわらず、後輩の顔を見るなり、名前を呼んで、抱きかかえるようにしてしまった。

今から考えると、それは「可愛い」女の人に襲いかかるようなレズ系のおばちゃんのようでもあり、メディア的には「悲劇のヒロイン」として扱われる彼女に、同情したお節介の厚かましいおばちゃんのようである。
それは違う。
たしかにマスコミが作り出した大阪のおばちゃん像にかなり近づいている事は否定しないが、大体「大阪のおばちゃん」自体が幻想だ。(Cf.「関西人の正体」井上章一)

それは、さておき・・・
とてもステキな作品と、8年前に会ってからずいぶんと貫禄(大人っぽく)が出て、格
好良くなった赤澤氏の写真に飾られた会場をゆっくり拝見する。
後輩には、「完売したんです」と言われる。
内田先生が「会期最後までもたないかも」なんて言葉を発するから、本当になくなってしまったではないですか。なんて事を口にするんです。
購入を楽しみにしていたのに、残念。
欲張りなので、デキャンタが第一希望、ランプが第二希望、花差しが第三希望であったが、完売ならどうしようもないなあ。

昼過ぎに到着したので、ひっきりなしに人が来る中、彼女は時間を作ってくれ、一緒に小一時間ほど、お茶を飲みに、軽食を取りに行った。

私が勝手に、「今は連絡すら取っていないがいつでも同じように話が出来る存在」、と位置づけていたのは、間違っていない。
8年ぶりに再会し、話をするのに、まるでこの前まで話していたような感覚が戻る。
相変わらずぬけている私の、計画性のない行動に静かに付き合い、倉敷が初めての私にとって、初夏を思わせる真っ青な空と白い雲、ちょっと暑いぐらいの温度、それはかつて知らないブザンソンの町で、きゃあきゃあ騒いで勝手気ままな行動で町を歩いていた感覚を想起させる。

8年か。
彼女に対する感じはあまり変わってはいないが、内田先生に会いに来て、偶然その場に居合わせただけの私にとって、赤澤氏のイメージは、この前書いた「やんちゃ」な小僧みたいなイメージしかなかった。
とりわけ何かについて会話をしたわけでもなかったし。

ギャラリーに飾られた写真や、知人・友人などから寄せられたメッセージを読んで、8年という時間の長さに驚いた。
結局、一瞬しか会っていない彼の印象が、目まぐるしく変わり、おばちゃん臭い表現だが、「とても成長し、これからもしていく」姿に見えた。
勝手な記憶操作だが、私の中であんがい口べたなイメージがあったのだが、それはどうも違うらしい。
けれども、写真に現れている姿を見ると、彼は言葉も雄弁であったみたいだが、それ以上にファッション(それは時により、戦闘服にでもなる)自体、彼の表現したい事を表す一つの道具として操っているかっこいい人であるように思えた。

後輩とは、いろいろな話ができた。
私にとって、それは得難い時間であり、本当に会期に間に合って、しかも彼女に会い、話をする時間が出来て良かった。
彼女は・・・
やめておこう。
私たちが何を話したかは秘密。

彼女と別れた後、私は「言葉」のもつ暴力よりも、この度は「無力」さをより感じつつ、定型句は、それ以外の言葉に置き換えても同じだから、「定型句」として求められ、そこに何もないからこそ、意味があるのかも知れないと感じた。
とても大事な友達(後輩・妹)であるから、私は直接的にこの度の事は書きたくはない。
ただ、結局私は違う文脈で、あるいは、違う物語にして、今日の体験、感じた、これからも私に残り、感じて考える事を語り続けるであろう。

言いそびれた言葉(定型句)をこの場を借りて述べます。
故人のご冥福をお祈り致します。合掌。

6月4日
今朝は、よく知っている後輩の発表だったので、午前中は研究会に参加、午後はその足で稽古に行き、装束をつけるのを手伝う予定だった。

だが、昨日の携帯水没事件がある。
夜中に何度起きても、反応しない。
明け方、ようやく2時間ほど眠り、再度チャレンジ。
おおお、接触が悪いが、なんとか反応する。

迷惑ではない時間になってから、母とそして、現場にいた父に連絡。
うちは、家族で入っているので、おおもとの契約者である父が必要である。
ちょうど、母はポイントが溜まっているのだが、6月で期限切れになるので、新しい機種に変更すると言っていた。

二人の承諾を得て、お昼前にショップで落ち合う。
それまで、家で、どれほど携帯の復帰を願い、もしものためにデータを書き出す努力をしたか。
11時に、ショップに行き事情を話し、とにかくデータを取り出してもらう事に。
だが、データを取り出す時間ほど、接触が持たないらしい。
何度も、チャレンジしてもらったが、結局「無理です」と宣言される。
絶望の中、「もしかして、この機種に変更する前の携帯のアドレスだけでもうつせますか?」と聞いてみると、「やってみないとわかりませんが、お持ちですか?」と言われる。
「後で取ってきます」と言い、先に母の機種変更に付き合う。
お腹を空かし、機嫌の悪くなっている父をなだめて、冷麺・餃子を食べに行き、もう了承を得ているので、そこで母のチャリを借りて、家に戻る。
買い取りの携帯を持って、ショップに戻り、再度チャレンジ。
「メール・アドレスは無理ですが、電話番号だけなら大丈夫です」
はあ、それでも神の救い。
メールは迷惑メールのため結構変えている人がいるが、電話番号はあまり変更がないはず。
あとは、追加した分だけだ。

お礼を言って(といってもお金を払っているのだが)、前の携帯と同機種(だが色がもう一色しかなくてかなしい)の新しい携帯を持って、祖母宅にチャリを返しに行く。

一休みして、お稽古場に。
なんとか、装束付けに間に合う。
昨年、さんざんみなさんに手伝ってもらい、装束もつけて頂いたのだから、お手伝いしてお返ししなくては。

今日は、基本形と、次回にやる仕舞の謡をお稽古。
はあ、また新たな1年がやってくる。

6月3日
大会の反省会である。
日程的に、今回は参加者がほとんど身内だけになってしまった。
いつもは、先生の好みもあって、和食である。
今回は、身内が多いという事で、勝手にフランス料理「ラ・ベ」に勝手に決めた。

何度も書いているが、「ラ・ベ」は私が惚れ込んでいる、だが、いまだに自腹ではなかなか行けないフレンチである。
その思い出もあるが、もう一つの理由は、私が能楽を見せるまでに至らなかった祖父の事である。
だんだん、杖をついても歩くのが負担になり、あれだけの読書家の祖父が、すでに読書も放棄し、好きな書道も止めてしまい、家で寝てばかりの割合が徐々に増えていった頃、祖父は「美味しいモノがあるなら、何処へでも連れて行ってやるから、案内せえ」とよく言っていた。
外に出たい気持ちが強いのだが、結局大好きなゴルフも出来ず、「食」だけが唯一の楽しみであり、「外」に出る意欲のもとでもあった。
そこで、「口に合うかわからないけれど、暑くなる前にフレンチはどうだろう?」と私が提案した。
もちろん、祖父が感情を持ってくれるという甘えも入っていた事は事実である。
ただ、祖母の誕生日だとか、親戚一同関わるような行事であると、それはそれで事が大きくなり、調整も大変である。
大会も終わって落ち着いた頃(そういえば、昨年の大会が唯一祖父が会場に来る事が出来なかった。暗示だったのかも知れない)、おそれおおくも、私の「博士」学位祝いという名目で、平日のランチに、ごく一部の身内で食べにいったのである。
平日のランチ・タイムというだけで、参加できる人は絞り込まれる。
それから、個室があまりたくさんの人数が入れないという事もあったので、8名ぐらいでこっそり敢行したのである。
祖父母とも、一品も残さず、「美味しい美味しい」と言って、きれいに平らげて、満足げであった。
よかった。あれだけ食べられるのも良かったし、お口にあって何より。
けれども、暑さに弱い祖父は、その後、体調が崩れていき、近所のところに出る以外、出かけるのも無理になったし、食欲も落ちていった。
このような「レストラン」で、自分も少しおしゃれをして、「ご馳走」を「外食」したのが、結果的に、この「ラ・ベ」が最後になってしまった。

だから、個人的な思い入れも深く、「能楽」という最高の道楽をさせてくれた祖父の思い出がつまった同じ個室で、ほぼ1年経った本日、食事をしたのである。
メニューは全く変わっているが、やはり感慨深い。

帰りに母と、お祝いを頂いた人への返礼を見繕って帰宅。
だんだん、疲れが溜まってきたようで、家でビデオを見ていたが、頭が回らなく、足がだるく、気がつけば、電気をつけていない部屋は真っ暗になっていた。
珍しく、父から電話が鳴る。
毎週金曜日は母が祖母の家に泊まるので、祖母の家で御飯を食べる事にしているらしいのだが、中途半端な時間になったのか、妻の実家が窮屈なのか、「夕飯食べた?」と聞いてくる。
「まだやけど」
「もうすぐしたら、○○を出るから、一緒に食べないか?」
はあ、昼間ご馳走やったし、しんどいんやけど、ここでお相手するのは、父・母・祖母皆にとって、孝行に値する。
さすがに、父も考えたらしく、塚口で私のお気に入りのインド料理店を指定してくる。
最近、行ってへんかったし、重い身体を起こして、下駄をならして外食。
けれど、疲労によるうっかりで、ジーンズの後ろポケットに入れていた携帯を、水中に落とした。
ぎえー!!!
すぐに拾い上げたが、遅い。
データが・・・
とにかく、一晩乾かして、データが生きていれば、すぐに新しい機種に移動させないと、今日もいろいろ連絡を取り合っていたから困る。
あああ、最悪。

ともあれ、好物のお店に昼・夜と行けて、幸せ者である。
贅沢を言えば、日にちを分散して食べに行きたいけれど。
ご馳走様でした。

6月2日
大会に見に来て下さった中で、挨拶できなかった先生に、遅ればせながらお礼を申し上げに行く。
デジカメでたくさん写真を撮っていただいたらしく、CDに焼き付けて、頂いた。
嬉しい。
早速、見せてもらうとワキ所の一番目付柱に近いところにいはったらしい。
(写真の構図からわかる)
どれくらい見えるのかと聞かれ、「全然見えないです。たとえ見えるときでも客席は見ません」と返答。
ついでに、仕事の状態と、今後の方針をご相談。

さあて、大会のために無理を聞いてもらい続けた5月は終わったのだ。
しっかり働いて、しっかり研究に邁進せねば。

6月1日
混乱。
なんだか、昨日の夜からよくわからない事が連発。
眠れず、何度も夜中にベッドからはい出して、リヴィングのソファに転がり込んだり、貧血起こして、座り込んだり、トイレに行ったり、水を飲んだり・・・
朝になって、一応ちゃんと起きたとして、身体が動かない。
もう、休もうか。
一瞬そんな考えがよぎったが、考えてみれば、今日は朝から「変体仮名講座」である。
毎年、先生のご厚意でこの講座は開かれているが、毎年メンバーが変更になったりするため、この講座のとりまとめ役も何らかの形で、誰かが受け持っている。
昨年は、とりまとめ役の人がめでたき事情により、1ヶ月で私といつも一緒に働いている職員さんの二人にバトン・タッチされた。
二人で、しかも基本的には同じ場所で仕事をしているので、どちらかが席を外したり、休んでいても、お互い補いながら、つとめさせていただいた。
しかし、今年はちょっと事情が変わり、私が結局その役を一人で引き継ぐ形になっていた。
部屋の管理とか、毎回の出席確認とか、事務上のちょっとした手続がある。
だから、「すみません、やっぱり今日止めます」とは言えないのだ。
事前なら、やむを得ず、誰かにお願いするのだが、ドタキャンは・・・
そりゃ、インフルエンザや原因不明の40度の高熱、事故などは仕方ないけれど、なんだか体調悪いからぐらいでは、やはり出来ない。
気を入れて、いつも通り出勤。

バス車内で、もうすぐ日文研というところで、携帯が鳴る。
「朝から誰?」と思って、着信を見ると祖母からである。
なにかあったのかと驚いて、慌てて車中で気遣いながら出ると、
「もう、坊さん帰ったよ。待っていたけれど」
と言う。
そう、1日は月参りの日なのだ。
出来る限り、午後の出勤にしていたが、今年度に入って、事情により行けなかった。
今月も水曜日なので、「今度も無理です。すみません」と言うてあったはずだが、祖母の大会の疲れか、忘れていたようだ。
でも、「あれ?私が間違うてたっけ?」と動揺。

とりあえず、出勤。
そういえば、今日は総研大の講義もあるのだ。
朝から、「変体仮名」の勉強をして、お昼は素麺を軽くみんなで頂き、午後から、終了しても講義におじゃまする。
おおお、久し振りに「講義」を受けて、1日本当にお勉強した。
研究会で、発表したりまたは聞いたりして、自らそこの場から何かを吸収するのももちろん楽しい事であるが、こういう一方的にこちらが学ぶ態勢になる「講義」もいいものだ。
まだまだ、知らない事だらけなのだから、甘えているのは重々承知で、もう少し学生気分を味あわせていただく。

なんだか、とても充実した気分。
とまれ、本当は優先順位的にしなければならない事があるのだが・・・
帰ったら、呆然。

5月31日
大会までは、周りの皆様にご迷惑をおかけして、稽古優先の日々を送ってしまった。
そのため、いろいろ仕事や準備など滞ってしまっている。
朝から日文研に出勤。
日曜日に、わざわざ来てくれはった人々にお礼のご挨拶。

夕方、17時前に失礼して、一路女学院へ。
もう2年ほどご無沙汰している「ジャン研」に参加。
今度の発表で、ジェンダーにからめた話をするため、お勉強。
今回の発表内容は、今私が調べている事項とはあまり関係ないが、とにかく知らない話だったので、非常に興味深く教えていただいた。

本当にモノを知らんな。
久し振りだったので、当然のようにそのままメンバー一部と飲みに行き、またもや深夜に帰宅。
しんど。

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