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Junio 2008 アーカイブ

Junio 2, 2008

ゴヤについて


 醜怪な男である。闘牛の牛のように分厚い身体。そこに癖の強い毛髪を頂く巨きな頭が載る。鼻梁は低く、半ばから急に盛り上がって小鼻が左右に張り出す。頬や顎が分厚い肉に覆われるなかで赤い唇と黒い瞳だけが爛々と、動物的な、生々しい光を宿す。
 その生き様もまた、喜劇または思いっきり悲劇として描かれたのでもなければ、目を背けたくなるくらいのものだ。2世紀以上前のこととて年表程度の資料、それも不正確なものしか私たちには残されていないが、無機質な記述の行間からですら、隠しようのない上昇志向や権力志向、平たく言って「成り上がり」への欲望が溢れ出してくる。
 では画家としての作品はというと、これまた決して美しくはない。時は18世紀、ポンペイ遺跡の発掘をきっかけに、ギリシャやローマの古代美術を模範とする新古典主義が主流となり、また芸術史上初めて「美学」という概念が登場した時代である。手の届かない理想へ向けて世の中が右へ倣えをしているときに、この男はひとり「リアル」を描き続ける。それは当然、多細胞生物である我々人間のひとつひとつの細胞膜の内側にも似て、「美」と呼ぶには憚られる、雑多な存在のざわめきに満ちている。
 頼まれてもいないのに、あるいは頼まれたとしてもそうすべきではないのに、王の肖像にその愚鈍さまで克明に描き出す。繰り返すが18世紀である。画家が貴族のちにブルジョワなどのパトロンなしには生きていけなかった時代であり、芸術作品に表現者の内面や想像力を反映させることを是とするロマン主義の到来には、まだ百年も早い。
 しかしこの「美しくない画家」に、スペインの多くの美術史の書籍がかなりの――明らかに他とバランスを失するほどの――頁数を割く。プラド美術館のガイドブックでさえ、「当美術館を代表する画家」という賛辞を、正面玄関に座するベラスケスではなくゴヤに捧げ、ベラスケスの2倍近い作品の解説を献じている。決して「巨匠」と呼ばれることない、この異色の画家に。

 スペイン美術史上の「巨匠」といえば、ベラスケスである。16世紀末に生まれたこの画家は幼少時から絵に非凡な才能を見せ、11歳で、宮廷にパイプを持ちエル・グレコの良き理解者でもあった画家の工房に入る。やがてその娘と結婚し、順調にキャリアを積み、若干24歳で宮廷画家となる。『ラス・メニーナス』など中世的美の極致といえる作品を残し、マネによって「画家の中の画家」と讃えられる。ゴヤもまた、この男の例によってやや不遜な言い草ではあるが、「我が師」と評価している。
 そのゴヤは「師」の約150年後、岩砂漠が広がるアラゴン地方に生まれた。父は鍍金師であり、ゴヤは11歳で、こちらは生計を助けるため父の仕事を手伝ったとされる。14歳で画家に弟子入りするが、とくに才能が認められたということもなかったらしい。王立サン・フェルナンド美術アカデミーのコンクールや、イタリア派遣奨学生の選考に応募しては、落選を続ける。やがて宮廷に出入りしていた同郷の画家バイユーと知り合い、まさか「師」の真似ではなかろうが、その妹と結婚する。
 30歳を目前に、義兄の後押しで、マドリードの王立タペストリー工場のカルトン(下絵)描きという仕事に就く。タペストリーは壁の装飾用であり、テーマはすでに決められているのだから、今日的な意味での「芸術」というより職人の仕事、たとえば銭湯の富士山のペンキ絵に近い。これはゴヤを貶めているのではなく、18世紀という時代の話である。ベラスケスもまた、「職人」として発注されたテーマを描き、かつは画家としてではなく、宮廷の宿泊手配係という「公務」による疲労が原因で命を落としている。芸術に「自由」が入り込む余地などない時代だった。
 晴れてマドリードへ出たゴヤは、上流階級の門をこじ開けんと、闘牛場に放たれた牛のごとく砂を蹴散らし猛突進を開始する。まず、スペイン美術界の権威として君臨していた新古典主義の代表的画家メングスの作風を忠実に模倣した作品で、王立サン・フェルナンド美術アカデミー会員の座を獲得。美学もポリシーもあるものか、欲望だけが彼を動かしている。貴族の肖像画を描きまくり、次第に王室に近づき、ついに43歳で宮廷画家の仲間入りを果たす。
 「牛」はまた種牛でもあった。いや率直に、オスであった。妻に20回(スペインの資料では控えめに12回)妊娠させている。絵のモデルとの噂は枚挙に暇がない。しかしこれもまた時代が、そうなのである。ゴヤが仕えるカルロス4世は愚鈍な人物であり、実際にこの国を支配するのは王妃とその若き愛人宰相であることは、王ひとりを除き巷でも誰もが知っていたという。
 ともかく、ようやく念願の地位に立ったゴヤの絶頂は、しかしほんの3年後に、絶望へと暗転する。大病の後遺症で、聴覚を失うのだ。
 人間は言語のみでコミュニケーションをするわけではない。むしろ言語外のメッセージからこそ、より重要な意味を読みとる。そしてもっとも深い無意識は、もっとも表層にこそ現れるという。いかに美辞麗句を並べてみても、表情が一瞬にして、生理的嫌悪を含むすべてを明かしてしまう。
 聴覚を失ったゴヤに、世界はどう映ったのか。修辞なしでは、拒絶は拒絶であり、蔑視は蔑視である。現在もなお続く貴族制度の下に生きるスペインの某研究者は、「成り上がりのゴヤは所詮、彼がその一員になったと思い込んでいた貴族たちからは、人間扱いすらされていなかったのである」と説明する。失意のどん底のゴヤに、人間たちの剥き出しのエゴが襲いかかる。しかしそれまで誰よりも欲望に忠実だったのは、他ならぬゴヤ自身だったはずだ。とすると、目に映るのは醜い自分自身の姿か……。

 ここからゴヤは、「ゴヤ」になる。
 誰に依頼されたわけでもなく、自分と、「いつか芸術という、かほどに困難な道を選ぶ若者たち」のための版画集『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』を刊行。気まぐれとはすなわち「自由」である。自由! ゴヤは代表作の43番「理性の眠りは妖怪を生む」のデッサンに、こう書きつけていた。「理性に見放された想像力は、ありうべからぬ妖怪を生む。理性と結び付けられてこそ想像力は、あらゆる芸術の母となり、あらゆる驚嘆の源となる」。その言葉どおり、当時絶大な権力を有していた教会や宮廷を、想像力を駆使して痛烈に批判したこの版画集は、異端審問所の動きもあってか発売後すぐに回収される。
 53歳、主席宮廷画家に任命され華々しく依頼された『カルロス4世の家族』では、画面の中心に呆れるほど人相の卑しい王妃が、宰相の子とされる王女・王子を庇うように立つ、その脇に意思というものをまるで感じさせない王が所在無げに佇む、というすごい絵を仕上げる。皇太子は事実そうであったように王妃から遠ざけられ不服そうに立ち、王弟は目の前の王の後姿を、いまにも食いつかんばかりに睨みつける。これで不評を買ったと言われ、爾後この王家からの依頼は一枚もない。が、この唯一の作品は、人間の内面を恐ろしいほどに描き出した、空前絶後の傑作となった。
 ある時は、王妃の愛人でありながら公然と愛妾をもち、加えて浮気も日常茶飯事という、こちらも過剰にオスな宰相の依頼で、彼の私室用に、ヴィーナスならぬ生身の女性の匂い立つような裸体を、絵画史上初めて、異端審問所も恐れず描き上げる。
 あるいはスペイン随一の大貴族であるアルバ女公爵に胸を焦がし、外国の資料では短期間ながら熱烈な恋愛関係を、スペインの資料では画家とモデルとしてのごく良好な関係を結んで、その肖像画に相々傘よろしく自分の名前を書き入れる……。
 ゴヤは止まらない。
 1808年、ナポレオン軍の侵攻により、スペイン独立戦争が始まる。腐りきったスペイン王制の下でフランス革命に代表される啓蒙思想に救いを求めていたゴヤは、人間への希望が裏切られたと感じた、のだろう。版画集『戦争の惨禍』にフランス軍とスペイン人ゲリラとの双方による残虐な行為を、冷徹な目で描き出す。あたかも、「理性に見放された人間は、ありうべからぬ妖怪になる」とでも言うがごとく。
 なおスペイン語で「小さい戦争」を意味する「ゲリラ」という言葉は、正規軍の壊滅をうけ、組織されぬ個々人がそれぞれ武器を手に立ち上がったこのとき、誕生したとされる。時代の趨勢という圧倒的なものに流されず、あるいはうまく合わせられずに、気づけば絵筆だけを手に孤独な戦いをしている巨人ゴヤに、実にふさわしい言葉ではないだろうか。
 やがてナポレオンが撤退すると、ゴヤは自ら戦勝記念画に取り掛かる。先には、ベラスケスの『プレダの開城』という名作がある。しかし彼はまたもやそんな歴史を無視し、王でも貴族でもない、巷の名もなき市民を主役に据える。ゲリラが生まれた『5月2日』、そして勇気ある彼らがはかなくも処刑される『5月3日』。いままさに処刑されようとする白いシャツの、薄汚れた蓬髪の男はしかし、ひとり光を放っている。まるで贖罪のための死を死ぬために人間として生まれた、キリストのように。

 そして『黒い絵』シリーズが来る。70代になり、マドリード郊外の邸宅に隠棲するゴヤ。彼はその自宅の、あろうことかサロンやダイニングルームの壁一面に、人知れずこの一連の恐ろしい絵を描いていた。魔女が跋扈し、愚かな人間は終わりなき殴り合いに明け暮れ、哀しい表情の犬は静かに砂に埋もれゆく。これらこそ、老境に達したゴヤが描く、おそらく描かざるにいられない、ビジョンであった。
 日本の鬼婆にでも喩えたいような男が、自分のしていることへの恐怖にか嫌悪にか大きく目を見開いたまま、すでに頭部のない幼児の腕を齧る『我が子を喰らうサトゥルヌス』。ある研究者は、自身の梅毒ため妻の20回の妊娠のうちたったひとりの子どもしか無事に成長させえなった、父としてのゴヤの姿だという。また別の者は、当初この絵に勃起した性器が描かれていたことに着目し、カニバリズムがテーマだと断言する。ゴヤの、おそらく意識的ではなかっただろう近代性、『カルロス4世の家族』にも存分に発揮された予言性に着目すると、ここに「子孫を自らの手で殺すような生き方を、わけのわからない恐怖に駆られてせざるを得ない」現代の私たちの姿を見い出すこともできよう。
 やがて王政復古による弾圧から逃れるため、ゴヤは78歳でフランスのボルドーに移住する。最晩年の作品『ボルドーのミルク売り娘』は、人間かくあるべしとでもいうように、柔らかく温もりのある色彩に溢れている。そして82歳の春、故郷に思いを馳せつつ客死。
 欲望に生きた男は、音なき絶望の深淵でひとり無意識や人間の愚かさに直面し、しかしそれを突き抜けて歴史の奔流を生き延び、やがて人間という存在への祈りを、おそらく彼にしかできない力強さと優しさで、行った。
 1919年に帰国した遺体は、かつて彼自身が天井画を描いた礼拝堂に安置される。柔らかな色で彩られたフレスコ画の女の天使たちが、床に置かれた鏡の効果で地下から天空まで自由に遊ぶかに見える空間に彼が眠るという事実は、ひとり壮絶な戦いに生きて死んだ巨人ゴヤの足跡を震えるような思いでたどる私たちに、幾許かの安らぎを与えてくれる。

初々さんの長屋又貸し日記

ずいぶんとお返事を書けずにいる間、京都は新緑の美しい季節になりました。
こ初々さんも毎日元気に外遊び。
たった1年前はベビーカーの上で寝たきりだったことがうまく思い出せないほどに成長しています。
「ひとんちの子の成長は早いのよねぇ。」とよく言われますが、自分ちの子の成長も早い!
たまーに日々同じことの繰り返しに果てしなさを感じてグッタリ疲れたりもしますが、ちょっとそこからユータイ離脱!?して眺めてみると、その時間のあっという間なこと!
そんな意味でも「目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです」とのカナさんの言葉、うんうん!と頷けます。

さて前回は、私が全く知らなかった「スペインジェンダー事情」の詳細を知ることができてとても興味深かったです。
スペインと比較したら、ほんの少し日本は「すすんでいる」と言えるかもしれませんが、どちらも「まだまだ女性がおかれている状況は厳しいものがあるのだな」というふうにも思いました。
それは社会的な立場という面からでも、固定化された性役割という面からでもなく、「女性運動で達成された『女性の生き方の多様化』によって、異なる生き方をする者同士の価値観が衝突し、それは時として熾烈なものとなる」という状況を「厳しいな」と思うのです。
カナさんが「そんな犠牲、私はできない」と言われた、「犠牲」という強い表現にも、その熾烈さをかいま見ました。
仕事をしながら出産・育児をするという選択肢ができたことによって、どちらを選ぶかはその人が(ある程度)自分で決めることができます。
その時その選択肢に対して100%納得ができていれば、他の選択肢を選んでいる人を羨んだり、妬んだり、あるいは攻撃したりせずにすみます。
しかし、その選択肢に100%納得できるということが少ない。
仕事をしないと決めれば「社会的な立場」やら「今よりもうちょっと多い収入」やら「経済的な生産性があるという自負」やらは諦めなくてはいけないという状況がある。
反対に仕事をすると決めれば、「家族(こども)と過ごす時間」やら「家事を完璧にこなすだけの時間」に足りなさを感じる。
そうすると時として自分の選択肢を正当化するために、他者を批判してしまうということが出てくるんですね。
「子どもの世話を人に任せて自分は好きなことしてるんだからいいわよね」とか。
「稼がないで家にいるのは気楽でいいわよね」とか。
それは個人的な資質に責任があるのではなく、その人に「そう言わせてしまう状況」が問題なのだというふうに私は思っています。
家庭内の労働(家事や育児)が経済的な生産性より低くみられる現実。
子どもがいても男性と同等に働くことが求められる社会。
もし家庭内の労働(家事や育児)に敬意が払われていれば、あるいは子どもをもつ女性がもっと働きやすい環境であれば、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持たずにすむはずなのです。
しかし、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持ちながら妊娠・出産をしなければならないというのが、まだまだ多くの女性が置かれている現実なのではないでしょうか。

その「何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚」は、どう考えても人をハッピーにするものではないですよね。
でもやっぱりお母さんには、ハッピーで機嫌よういてもらいたい。
私はそう強く思うんです。
お母さんがハッピーでなかったら、子どもだってハッピーじゃないですもの。
だから働いていないお母さんたちが、「今経済的な生産性がなくても、素晴らしくて楽しいことをしているんだ!」と思えるように。
一方働いているお母さんたちが、安心して働けて、より子どもと過ごす時間が充実したものになるように。
そう願ってやみません。
社会システムを変えていくことは時間がかかるかもしれませんが、いちハハとしてそのために出来ることはしたい。
育児って面白いよね、価値あることだよね、と言い続けることもそうですし、働くお母さんたちと交流を持ち続け、「何かあったら助けに駆けつけよう」という気持ちでいることもそうです。
「私は私、これでいいんだ」と閉じずに、異なった状況にいる者同士が助け合える関係を作っていきたいなぁというふうに思っています。


Junio 19, 2008

Tokioのマタンサ

マタンサ、という言葉がある。matanza。
この単語を冬のはじめに耳にするのは、そう悪い気分ではない。
生ハムや腸詰などの保存食作りのため、一家隣人総出で豚を屠り青空の下で賑やかに作業を進める、農村らしい光景を思い浮かべるから。
それ以外の時期に聞くと、あまりいいことがない。
最近では2001年9月、アメリカ同時多発テロ。
2004年3月、マドリード列車爆破テロ。
そして先日(6月9日)、一週間の初めの月曜朝のニュースでこの単語が聞こえてきて、んだよ、と嫌な気分で画面を見たら、「Tokioのマタンサ(=大量虐殺)」だった。
日本でどういう報道がされているかぜんぜん知らないのだけど、そういう言葉遣いだったので、咄嗟に「テロ」だと思ってしまった。

アメリカでのテロは、聞くところによると「グローバリゼーションあるいは現代型経済帝国主義において、圧倒的弱者であり被収奪者たることを余儀なくされ、かつ抗議の手段をもたないイスラムの最貧国の若者たちによる、顔の見えぬ強者への、自らの生命を武器とした無差別型の暴力」だったという。
そしてアメリカは「報復」として、アフガニスタンを石器時代に戻すまで攻撃した。
とはいえよく知らないので、解説じみたことはやめておきます。

マドリードの列車爆破テロは、当初はETA(バスク地方の独立を求める過激派)の仕業だと報道された。
少なくとも政府は繰り返しそう発表したが、かなりのひとが違和感を抱いた。
彼らの従来のやり方は「予告なしで行う政治家など要人の暗殺」か、「予告を伴うデモンストレーション的爆破」かのどちらかで、無差別殺人は、約20年前のスーパーの地下駐車場での自動車爆弾テロほぼ1件と言われる。(だから褒められるというわけではないが)
これまで数百人を暗殺してきた非道なETAではあるが、しかし被害者の顔に意味を持たせないようなタイプの殺人は、どうもしっくりこなかったのだ。
結局、外国では当初からそうだと伝えられていたように、「犯人」は、アメリカでのテロと同じアルカイダだった。
この事件で、極端なアメリカ追従主義をとっていた国民党アスナル政権は支持を失い、数日後の総選挙で社労党政権が発足した。
新たに首相となったサパテロはすぐ、日本を含むアメリカ寄りの諸国から「テロに屈するのか」と責められつつも、公約どおりイラクから撤兵した。
もともと開戦当時9割以上がイラク攻撃反対だった市民は、それを英断だと歓迎した。
もう充分な犠牲は払った。これ以上、「人殺し」の片棒を担ぎたくはない、と。
(当時、世論に反してイラク攻撃を支持した国民党は「人殺し」と呼ばれ、前回の政権担当時に汚職の蔓延で信用を失った社労党は「泥棒」と呼ばれていた。そうして、「人殺しよりは泥棒がまだまし」、と。)

爆破された列車は移民が多く住む郊外の街を通り、マドリード最大のターミナル駅に向かう。
それゆえ被害者には移民も多かった。
そして実行犯の大半もまたモロッコからの、同じような移民だった。
彼らは自分たちにもっとも近い人々を殺したことになる。
なぜ犯人は、より「効果的」と思われる国会議事堂などではなく、「隣人」をターゲットに選んだのだろう。
(秋葉原をマタンサの舞台に選んだ若者も、また。)
「無差別」殺人とはいえ、ここでは少なくとも政府要人など「顔のある」=「その被害者の生命が社会的に意味を持つ」人間を含ませない、という選択がすでになされている。
被害者として選ばれたのは、顔の見えない「無名の」人々だ。
それはつまり、「彼ら」が報復をしたかった者たちもまた「無名」である、ということなのだろう。
俺(たち)は損なわれた。
誰によってかはわからない、が、少なくとも「政府」とか「親」とか「先生」とかいうわかりやすいものによってではない。
ただし損なわれたのは事実なので、その被害の「埋め合わせ」として、そいつら=顔の見えない/他の誰でもいい者たち複数を損なってやる。
「彼ら」によって、もともと加害者とみなされ、それゆえ被害者に転じた「無名の」人々には、当然、同じ社会を構成する私たちも含まれるだろう。
あるいは「社会」こそが、「無名の人々」をターゲットとすることによって告発されているのかもしれない。

マドリード。
あの通勤列車内で爆殺された二百名弱の死の原因を作った「加害者」は、利権欲しさに英米に尻尾を振る「人殺し」政府を、その経済優先政策の下で数年続く好景気に浮かれて黙認してきた自分たちでもある。
高い投票率を記録した総選挙を挟み、そういう張りつめた、厳粛な雰囲気が満ちていたことを覚えている。
そのせいか、事件後に心配されていたイスラム教徒への嫌がらせや排斥運動は、ほとんどなかった。
だって、犯人とて私たちの「外部」ではないのだから。
(もちろん、そういうのとは無関係に、これで株価が下がるとおろおろしていたひともけっこういたけれど)
Tokio。
たまたま日本旅行中だったスペイン人の知人が事件に遭遇した、その話を奥さんから又聞きした。
OTAKUの彼は日曜、なにかイベントでもないかと迷わず聖地アキハバラに出かけた。
一斉にひとが走り出すのを見て、すわイベントだと思い、同じ方向に走ったという。
救急車やパトカーが到着してもしばらく、なにかのロケだと思っていたらしい。
なぜなら、地面に倒れているひとなどがいる「現場」を遠巻きにする「みんな」が、携帯を出してその光景を写真に撮っていたから。
彼にとってはそこまで含むすぺてが、「Tokioのマタンサ」だった。
(もちろん、咄嗟に助けようとしたひともいたのだろうけど)
犯人が狙ったはずの「隣人」さえ、実は日本にはもういなかったのだろうか?
資本主義の極北に生まれた、最小の消費単位である個人で構成される、あるいはそれら個人が「構成しない」社会では、従来型のテロはもはや何にも届かないのかもしれない。
あるいは、何か届きましたか?
そしてこれからは、どうなるのだろう。
やはり犯人は「外部」のものとして、自分の実感の伴わない場所(裁判とか軍による空爆とか)で裁かれ、そしてそれを生み出した罪をひとり背負わされる「家」(家族とかアフガニスタンとか)が「報復」されるのだろうか?
それとも事件は「内部」のこととして捉えられて、外国にいる私にはわからないけれど、実際にはなにか変わりつつあるのだろうか。
スペインのニュースは、やはり他人事なので、「その後」を伝えない。
仕事や電話のついでに少し話を聞こうと思った日本の知人たちも「その気持ち悪い話はしたくないんだけど」「日本の恥よねえ」ということで、語ってくれないのです。

Junio 25, 2008

ゴヤ、ロルカ、ブニュエル、ダリ

私の名前は湯川カナ、イニシャルで表すとKYだから空気読めねえ、ってわけでもないのだろうが、編集者を困らせる文章を書くことが少なくない(らしい)。
いま店頭に並んでいる(はず。スペインではわからないけど)「エスクァイア・マガジン・ジャパン」という雑誌の8月号「天才とスペイン-魂を揺さぶるスペイン紀行」にいくつか文章を書いたが、案の定、大きな3つの原稿のうち2つは書き直しとなった。
アホな子を諭すように改めてていねいに企画意図を教えてもらって、新たに書いたものが、活字となっている。
ひとつは、ゴヤ。以前この欄に掲載していただいた「ゴヤについて」は、実はボツとなった初稿。
今回はもうひとつのボツ原稿「ロルカ、ブニュエル、ダリ」で書いたこと、書けなかったことを。

雑誌ではこの3人が青春の日々をわかちあったマドリードの学生寮での逸話を中心に、その蜜月がブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』の発表により終わりを告げる、という展開になっている(はず)。
ボツとなった原稿で、私はこう書いていた。

> 「アンダルシア」の「犬」とは、いったいなにを意味するのか。この(カナ註:『アンダルシアの犬』発表)直後に陥った「精神的な危機」から脱するためニューヨークに渡ったロルカは、友人への手紙に、「ブニュエルは、ちょっとひどいことをした。アンダルシアの犬は、僕だ」と苦々しく書いている。
> 一説によると、マッチョなブニュエルとそれに感化されたダリが、ロルカのホモセクシュアル的傾向を嫌ったのだ、とされる。しかしブニュエル自身は後年、「僕は、ロルカの影響から逃れたかった」と友人に告白したとも伝えられる。とするとこれは最年長のロルカへに対する、エディプス・コンプレックスの子どもたちのような反抗だったのかもしれない。

……「エディプス」云々を持ち出すところが、青いね。臭いね。てんでイカ臭い、中学生の作文だよ、湯川クン! というのはともかく、ボツ原稿は少しの「糊」を挟んでから、続けて3人の「その後」を紹介する。

> 帰国したロルカを待ち受けていたのは、無血革命による王制廃止、共和政の成立であった。彼は政府に任命されて劇団を創設し、同時に代表作を次々と発表するが、6年後、スペイン内戦が始まるとファシストにより射殺され、38年の短い生涯を閉じる。
> 自らの生命の危険を省みずフランコ側の友人を助けたブニュエルはしかし、一貫して共和国政府に協力して、国外での活動を続ける。後に拠点をハリウッドからメキシコに移し、この地で没する。
> 戦火を避けヨーロッパを転々としたダリは、第二次大戦を機にアメリカに移住するが、8年後、フランコの支持を表明して帰国。生地フィゲラスの、自身の美術館に眠る。

その後に、再びイカ臭い「天才たちの、輝かしく、儚い前夜。まだ見ぬ未来に胸を弾ませ夢を語り合ったあの日々は、二度と戻らない。歴史の濁流に呑まれアディオスを言うことすらできなかった友に、あるいは苦い思いが残ったかもしれない。それでもやはり、それは彼らだけが共有する、かけがえのない記憶である。晩年のダリが好んで聴いたという『ノチェ・デ・ロンダ』は、3人が通ったオテル・パラセのクラブを強く思い出させる曲だった。」という「まとめ」が来るのだが、それもともかく。

20世紀に生きたスペイン人に、内戦はかくも暴力的にかかわってくる。
ということをたぶん、私は書きたかった(そしてそれは、『スペインの天才』をテーマにしたこの特集号にはまったくふさわしくない、たしかに)。
彼らだって平時だったら、ブニュエルが若くて内気なダリを巻き込んで、先輩の、そして本来ブニュエルがその道を志していた詩作に加えて共通の趣味であった音楽でまで圧倒的な才能を見せつけるロルカに嫉妬し、恐れて、そこから逃れようとわざわざひどい仕打ちとなる作品を共同制作したからといって、それで一生お別れということもないだろう。
しかし彼らのごく個人的な、イカ臭い「訣別」の後に、内戦という歴史の大波が襲いかかった。そして内戦は、「内」戦であるがゆえそれに関わらざるを得ず、自分の立場をはっきりとさせることを強要される。
50年来の付き合いの肉屋と、近所の気の良い仕立て屋のおばさんと、あるいは父と子でさえ、立場を異にするからと銃を取り殺しあわなければならないのだ。

一足先にこの世からいなくなったロルカは、共和国政府の任を受け、スペインの古典を演じる移動劇団を主宰して民衆を啓蒙するという仕事を積極的に果たしていた。だいたい彼の名を高めた代表作も、それまでスペインの「表」の歴史が黙殺してきたロマ(ジプシー)の文化を取り上げたものである。
内戦開始早々、ファシストに銃殺される。その死の理由を、固陋なアンダルシアの名家に生まれた「鬼っ子」のゲイだというところに求めることも多いが(私を含めて)、しかし共和国政府のシンパであったという点をもっと単純に考えに入れてもいいのではないか。たったいま、そんな気がしてきた。
ブニュエルはもともと、『パンなき土地(邦題:糧なき大地)』という、スペイン社会がひた隠しにする貧困をあぶりだすドキュメンタリーを、誰に頼まれたわけでもないのに手がけるような要素をもっていた。ピカソが『ゲルニカ』を展示したパリ万博のスペイン(共和国政府)・パビリオンでは、内戦の(むごさを描く、とされる)ドキュメンタリーを上映しており、また、政府広報アドバイザーかなんかも務めていたはずだ。
内戦後の長いフランコ時代に、カンヌ受賞作による帰国禁止処分後も、何度かスペインから招かれて戻っているが、結局は客死を選んでいる。たしか彼の一時帰国は、ピカソなど「フランコの目の黒いうちは断固として故国の地を踏まない」派の人々にひどく非難されたはずだ。
彼だって充分に苦しんできたんだろうに、ね。
そして、超おぼっちゃん育ちで、考えるより先にその超絶な技巧によってつい作品を生み出してしまうタイプ(たぶん)のダリは、ファシストの格好良さに素直に靡いた、らしい。たしかかなり早い時期に、フランコを讃える作品をものしてもいる。
振り返れば私は中学時代(まさにイカ臭い時期!)に、ただ単にその格好良さから、ダリを偏愛し、部屋にヒットラーの肖像(をコンビニでコピーしたもの)を飾り、インチキなドイツ軍服を作って特急かもめに乗って長崎から福岡まで行ったこともあったような気がするが、なんかたぶんそういうことだったのだろう(勝手に)。
そして、「皇帝」の曲を帝位簒奪者に捧げたことを悔いたベートーヴェンと異なり、ダリはあっさりフランコに恭順してその治下のスペインに戻る。生地のフィゲラスの市役所の改装を頼まれたのをすっかり自分の美術館にしてしまい、そこで眠る。
同時代のミロ、ピカソ、かつての朋友ブニュエルが次々と客死する中で。彼もまた、苦しんだのだろうか。あるいは、社会を描かず、ミューズたるガラから湧き出ずる世界のみを描き続けた(だっけ?)ことがすでに、「苦しみ」のひとつのかたちだったのだろうか。どうかな。
ちなみに、ダリがブニュエルに『アンダルシアの犬』の続編制作をもちかけ、ブニュエルが「勘弁してくれ」(意訳)と断った、という話も伝わっている。

ゴヤについての原稿で私は、スペイン人にとってのアイデンティティ・デーが、対ナポレオンのスペイン独立戦争記念日である5月2日だと書いた。ゴヤ伝で堀田善衛もそう書いていた。
しかしこの日が祝日なのは、実はマドリード州だけである。
では他の地域のひとびとは無関心かというと、いや、やはりゴヤ『1808年5月2日』『5月3日』の主役である「名もなき市民」へのシンパシーはかなり強いようだ。
ゴヤと、ロルカ・ブニュエル・ダリのふたつの原稿を書いていて思ったことがある。
いまのスペイン市民の、200年前の対ナポレオン戦争における名もなき、しかし勇敢な、それゆえ無残な死を死ななければならなくなったひとびとへの強いシンパシーは、つまり、スペイン内戦で破れた「名もなき市民」への、かたちを変えた追悼ではないだろうか。
フランコはまだ生きている。
その娘の子どもたちはたしかいまも貴族として存命だし、だいたい現国王がフランコから後継者として指名された、いわば「フランコの子」である。王冠はブルボン家の先王からではなくフランコから渡されたのだ! またマドリード列車爆破テロまで8年間政権の座にあった、現在でも最大野党で、かつマドリード州やバレンシア州などでは与党の国民党は、思いっきりフランコの流れを汲む右派だ。
街でだって、広島・長崎で反アメリカを叫ぶのとは異なり、誰もが反フランコで『ゲルニカ』バンザイだと思ったら大間違いで、本気で治安の良かったフランコ時代を懐かしむひとは少なくない。そこらのバルでおじいさんたちが「お前はあの時、」と内戦時の態度をめぐって血相変えて言い争いをはじめる光景にも何度か遭遇した。
スペインでは21世紀になったいまでも、内戦での「名もなき死者」を悼むことを、政治的態度表明と切り離して行うことができない。
だから、ゴヤなのではないか。200年前のことだし、「敵」はフランス軍、しかも歴史上の「悪人」で疑いないナポレオン、というわかりやすい構図だ。
そして、だから、マドリード列車爆破テロほんの数時間後には「名もなき死者」たち被害者への献血に長蛇の列ができ、むしろ余るくらいの血液が集まったのではないか(4時間後にのこのこ行ったら、もう要らないと言われた)。
そう考えると日本の秋葉原無差別殺人事件や、靖国問題における「うまく言えないかんじ」がなんとなく、先の大戦でのものすごい数の「名もなき死者」を、納得できるやりかたで悼んでこれなかったことに通じるように思われる。
それは、スペインが長く「敵」であったはずのフランコ治下にあったのと同様に、日本がアメリカの実質的な支配下にあったからだろうか。(もちろんどちらの国についても、現在形にするのも可です。スペインの経済を牛耳るのはフランコ時代からの「200家族」だし……)
「なかったこと」にしたつもりのことこそ激しく噴き出してくる、精神分析でそういうのがなかったかしら。

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