ゴヤについて
醜怪な男である。闘牛の牛のように分厚い身体。そこに癖の強い毛髪を頂く巨きな頭が載る。鼻梁は低く、半ばから急に盛り上がって小鼻が左右に張り出す。頬や顎が分厚い肉に覆われるなかで赤い唇と黒い瞳だけが爛々と、動物的な、生々しい光を宿す。
その生き様もまた、喜劇または思いっきり悲劇として描かれたのでもなければ、目を背けたくなるくらいのものだ。2世紀以上前のこととて年表程度の資料、それも不正確なものしか私たちには残されていないが、無機質な記述の行間からですら、隠しようのない上昇志向や権力志向、平たく言って「成り上がり」への欲望が溢れ出してくる。
では画家としての作品はというと、これまた決して美しくはない。時は18世紀、ポンペイ遺跡の発掘をきっかけに、ギリシャやローマの古代美術を模範とする新古典主義が主流となり、また芸術史上初めて「美学」という概念が登場した時代である。手の届かない理想へ向けて世の中が右へ倣えをしているときに、この男はひとり「リアル」を描き続ける。それは当然、多細胞生物である我々人間のひとつひとつの細胞膜の内側にも似て、「美」と呼ぶには憚られる、雑多な存在のざわめきに満ちている。
頼まれてもいないのに、あるいは頼まれたとしてもそうすべきではないのに、王の肖像にその愚鈍さまで克明に描き出す。繰り返すが18世紀である。画家が貴族のちにブルジョワなどのパトロンなしには生きていけなかった時代であり、芸術作品に表現者の内面や想像力を反映させることを是とするロマン主義の到来には、まだ百年も早い。
しかしこの「美しくない画家」に、スペインの多くの美術史の書籍がかなりの――明らかに他とバランスを失するほどの――頁数を割く。プラド美術館のガイドブックでさえ、「当美術館を代表する画家」という賛辞を、正面玄関に座するベラスケスではなくゴヤに捧げ、ベラスケスの2倍近い作品の解説を献じている。決して「巨匠」と呼ばれることない、この異色の画家に。
スペイン美術史上の「巨匠」といえば、ベラスケスである。16世紀末に生まれたこの画家は幼少時から絵に非凡な才能を見せ、11歳で、宮廷にパイプを持ちエル・グレコの良き理解者でもあった画家の工房に入る。やがてその娘と結婚し、順調にキャリアを積み、若干24歳で宮廷画家となる。『ラス・メニーナス』など中世的美の極致といえる作品を残し、マネによって「画家の中の画家」と讃えられる。ゴヤもまた、この男の例によってやや不遜な言い草ではあるが、「我が師」と評価している。
そのゴヤは「師」の約150年後、岩砂漠が広がるアラゴン地方に生まれた。父は鍍金師であり、ゴヤは11歳で、こちらは生計を助けるため父の仕事を手伝ったとされる。14歳で画家に弟子入りするが、とくに才能が認められたということもなかったらしい。王立サン・フェルナンド美術アカデミーのコンクールや、イタリア派遣奨学生の選考に応募しては、落選を続ける。やがて宮廷に出入りしていた同郷の画家バイユーと知り合い、まさか「師」の真似ではなかろうが、その妹と結婚する。
30歳を目前に、義兄の後押しで、マドリードの王立タペストリー工場のカルトン(下絵)描きという仕事に就く。タペストリーは壁の装飾用であり、テーマはすでに決められているのだから、今日的な意味での「芸術」というより職人の仕事、たとえば銭湯の富士山のペンキ絵に近い。これはゴヤを貶めているのではなく、18世紀という時代の話である。ベラスケスもまた、「職人」として発注されたテーマを描き、かつは画家としてではなく、宮廷の宿泊手配係という「公務」による疲労が原因で命を落としている。芸術に「自由」が入り込む余地などない時代だった。
晴れてマドリードへ出たゴヤは、上流階級の門をこじ開けんと、闘牛場に放たれた牛のごとく砂を蹴散らし猛突進を開始する。まず、スペイン美術界の権威として君臨していた新古典主義の代表的画家メングスの作風を忠実に模倣した作品で、王立サン・フェルナンド美術アカデミー会員の座を獲得。美学もポリシーもあるものか、欲望だけが彼を動かしている。貴族の肖像画を描きまくり、次第に王室に近づき、ついに43歳で宮廷画家の仲間入りを果たす。
「牛」はまた種牛でもあった。いや率直に、オスであった。妻に20回(スペインの資料では控えめに12回)妊娠させている。絵のモデルとの噂は枚挙に暇がない。しかしこれもまた時代が、そうなのである。ゴヤが仕えるカルロス4世は愚鈍な人物であり、実際にこの国を支配するのは王妃とその若き愛人宰相であることは、王ひとりを除き巷でも誰もが知っていたという。
ともかく、ようやく念願の地位に立ったゴヤの絶頂は、しかしほんの3年後に、絶望へと暗転する。大病の後遺症で、聴覚を失うのだ。
人間は言語のみでコミュニケーションをするわけではない。むしろ言語外のメッセージからこそ、より重要な意味を読みとる。そしてもっとも深い無意識は、もっとも表層にこそ現れるという。いかに美辞麗句を並べてみても、表情が一瞬にして、生理的嫌悪を含むすべてを明かしてしまう。
聴覚を失ったゴヤに、世界はどう映ったのか。修辞なしでは、拒絶は拒絶であり、蔑視は蔑視である。現在もなお続く貴族制度の下に生きるスペインの某研究者は、「成り上がりのゴヤは所詮、彼がその一員になったと思い込んでいた貴族たちからは、人間扱いすらされていなかったのである」と説明する。失意のどん底のゴヤに、人間たちの剥き出しのエゴが襲いかかる。しかしそれまで誰よりも欲望に忠実だったのは、他ならぬゴヤ自身だったはずだ。とすると、目に映るのは醜い自分自身の姿か……。
ここからゴヤは、「ゴヤ」になる。
誰に依頼されたわけでもなく、自分と、「いつか芸術という、かほどに困難な道を選ぶ若者たち」のための版画集『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』を刊行。気まぐれとはすなわち「自由」である。自由! ゴヤは代表作の43番「理性の眠りは妖怪を生む」のデッサンに、こう書きつけていた。「理性に見放された想像力は、ありうべからぬ妖怪を生む。理性と結び付けられてこそ想像力は、あらゆる芸術の母となり、あらゆる驚嘆の源となる」。その言葉どおり、当時絶大な権力を有していた教会や宮廷を、想像力を駆使して痛烈に批判したこの版画集は、異端審問所の動きもあってか発売後すぐに回収される。
53歳、主席宮廷画家に任命され華々しく依頼された『カルロス4世の家族』では、画面の中心に呆れるほど人相の卑しい王妃が、宰相の子とされる王女・王子を庇うように立つ、その脇に意思というものをまるで感じさせない王が所在無げに佇む、というすごい絵を仕上げる。皇太子は事実そうであったように王妃から遠ざけられ不服そうに立ち、王弟は目の前の王の後姿を、いまにも食いつかんばかりに睨みつける。これで不評を買ったと言われ、爾後この王家からの依頼は一枚もない。が、この唯一の作品は、人間の内面を恐ろしいほどに描き出した、空前絶後の傑作となった。
ある時は、王妃の愛人でありながら公然と愛妾をもち、加えて浮気も日常茶飯事という、こちらも過剰にオスな宰相の依頼で、彼の私室用に、ヴィーナスならぬ生身の女性の匂い立つような裸体を、絵画史上初めて、異端審問所も恐れず描き上げる。
あるいはスペイン随一の大貴族であるアルバ女公爵に胸を焦がし、外国の資料では短期間ながら熱烈な恋愛関係を、スペインの資料では画家とモデルとしてのごく良好な関係を結んで、その肖像画に相々傘よろしく自分の名前を書き入れる……。
ゴヤは止まらない。
1808年、ナポレオン軍の侵攻により、スペイン独立戦争が始まる。腐りきったスペイン王制の下でフランス革命に代表される啓蒙思想に救いを求めていたゴヤは、人間への希望が裏切られたと感じた、のだろう。版画集『戦争の惨禍』にフランス軍とスペイン人ゲリラとの双方による残虐な行為を、冷徹な目で描き出す。あたかも、「理性に見放された人間は、ありうべからぬ妖怪になる」とでも言うがごとく。
なおスペイン語で「小さい戦争」を意味する「ゲリラ」という言葉は、正規軍の壊滅をうけ、組織されぬ個々人がそれぞれ武器を手に立ち上がったこのとき、誕生したとされる。時代の趨勢という圧倒的なものに流されず、あるいはうまく合わせられずに、気づけば絵筆だけを手に孤独な戦いをしている巨人ゴヤに、実にふさわしい言葉ではないだろうか。
やがてナポレオンが撤退すると、ゴヤは自ら戦勝記念画に取り掛かる。先には、ベラスケスの『プレダの開城』という名作がある。しかし彼はまたもやそんな歴史を無視し、王でも貴族でもない、巷の名もなき市民を主役に据える。ゲリラが生まれた『5月2日』、そして勇気ある彼らがはかなくも処刑される『5月3日』。いままさに処刑されようとする白いシャツの、薄汚れた蓬髪の男はしかし、ひとり光を放っている。まるで贖罪のための死を死ぬために人間として生まれた、キリストのように。
そして『黒い絵』シリーズが来る。70代になり、マドリード郊外の邸宅に隠棲するゴヤ。彼はその自宅の、あろうことかサロンやダイニングルームの壁一面に、人知れずこの一連の恐ろしい絵を描いていた。魔女が跋扈し、愚かな人間は終わりなき殴り合いに明け暮れ、哀しい表情の犬は静かに砂に埋もれゆく。これらこそ、老境に達したゴヤが描く、おそらく描かざるにいられない、ビジョンであった。
日本の鬼婆にでも喩えたいような男が、自分のしていることへの恐怖にか嫌悪にか大きく目を見開いたまま、すでに頭部のない幼児の腕を齧る『我が子を喰らうサトゥルヌス』。ある研究者は、自身の梅毒ため妻の20回の妊娠のうちたったひとりの子どもしか無事に成長させえなった、父としてのゴヤの姿だという。また別の者は、当初この絵に勃起した性器が描かれていたことに着目し、カニバリズムがテーマだと断言する。ゴヤの、おそらく意識的ではなかっただろう近代性、『カルロス4世の家族』にも存分に発揮された予言性に着目すると、ここに「子孫を自らの手で殺すような生き方を、わけのわからない恐怖に駆られてせざるを得ない」現代の私たちの姿を見い出すこともできよう。
やがて王政復古による弾圧から逃れるため、ゴヤは78歳でフランスのボルドーに移住する。最晩年の作品『ボルドーのミルク売り娘』は、人間かくあるべしとでもいうように、柔らかく温もりのある色彩に溢れている。そして82歳の春、故郷に思いを馳せつつ客死。
欲望に生きた男は、音なき絶望の深淵でひとり無意識や人間の愚かさに直面し、しかしそれを突き抜けて歴史の奔流を生き延び、やがて人間という存在への祈りを、おそらく彼にしかできない力強さと優しさで、行った。
1919年に帰国した遺体は、かつて彼自身が天井画を描いた礼拝堂に安置される。柔らかな色で彩られたフレスコ画の女の天使たちが、床に置かれた鏡の効果で地下から天空まで自由に遊ぶかに見える空間に彼が眠るという事実は、ひとり壮絶な戦いに生きて死んだ巨人ゴヤの足跡を震えるような思いでたどる私たちに、幾許かの安らぎを与えてくれる。