スペイン・ジェンダー事情
こ初々さん、1歳のお誕生日おめでとうございます!
地球がニューカマーな彼女を乗せてびゅーんと太陽のまわりをひとまわりして、ついに戻ってきたんですね。
ヤアめでたいなあ、パチパチパチパチ!!
返信を書きそびれているあいだに、こちら、マドリードは春たけなわ。
葉桜ならぬ葉アーモンドが優しい影を落とすニーニャの保育園では、今週、「日本旅行」があります。
みんなで他の文化について知ろうね、という、園の微笑ましい定例イベントです。
「旅行」先は園児の出身地で、先月はエクアドル、先々月はバスク地方、その前はブラジル。
なにか日本らしい遊びをひとつ、ということで、「じゃんけん」を提案します。
スペイン語では「piedra(石), papel(紙), tijera(鋏)」、かけごえも同じで「ピエドラ、パペル、ティヘラ!」。
この3者に絶対的な勝者はいません(って、わざわざ言うようなことでもないですが)。
スペインでは「石は鋏を砕くが紙に包まれ、その紙は鋏に切られ……」と説明します。(日本でもそうでしたっけ?)
それぞれが勝つ要素も負ける要素も持っていて、それは相手次第という相対的なもので、その関係をつなげてみれば「円」になっている。
なにかあいまいなものが互いに関係しあいながらゆらゆらぐるぐる終わりなくまわりつづける、というの、すごく日本的な発想だと思ったんですよね。
(考えたら日本の通貨が「円」というのも、交換を目的とする貨幣の名称としてなかなかナイスですね)
初々さんの書かれた、「ひとつの関係のなかに、贈り、贈られる関係を作ることが、自分と相手を自由にするのかもしれない」という文章、すっごーく素敵でした!
じゃんけんを繰り返すうちに勝ち負けじゃなくてそれ自体が楽しくて仕方なくなってくるのと同じ? なんて、またしてもごく手元にひきつけて思ったりしてます。
そういえば「私がそこからすべてを学ぶであろう」麻雀も、総数では常に一定の点棒を、4人で贈与しあうんですよね。行ったり来たり。
また「関わるその人の中に贈り物を見つけるのは私次第」という文にも、ハッとしました。
そういえば、作者は死んで、テクストは読者において生成的に編まれる、のではなかったかしら。そうだ、
■ マエストロ内田樹はこう書いた:
「『作者』の治世が終わるとき、テクストは読む人=書きこむ人(※カナ註:ロラン・バルトによる述語で、「集合的なテクスト生成への参加者のひとり」という含意をもつ。同書の説明より)の主体的選択にもとづいて、そのつど新たに構成されるものとなる。」(現代思想のパフォーマンス、p84)
そうであってこそ、この「かかわり」が、「一回的で創造的な行為」となる。
子どもに対しても同じですね。
「それだけパン食べたらもう炭水化物は充分だから、ビタミンも摂っときなさい、ほらお野菜あーん」とか、「やっぱり晴れた午後は公園で健康的に遊んだ方が」とか。
ついそういう考えに圧されるのですが、でも「ええーっと、この場面ではこう振る舞うのが『正解』の読みなのだろうか」ってことばっかり考えてて、楽しいわけない。
麻雀だって、うっかり「セオリー」なるものに頼ると、たいがい点箱も精神状態も惨憺たる結果になるものです。
どこかの「作者」が決めた「正解」がある、っていうのをサッパリと忘れて、あるいはそう思わせようとする社会の「罠」をエイヤッと振り切って、目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです。
ところでスペイン社会の「罠」のいくらかは、こちらに外国人として居ると、チラリ見えたりします。
たとえばママたちが出産・育児を語るときの言葉遣い。
小児科の待合室で隣り合ったママに「15ヶ月で、まだ授乳してます」と話すと、まるで墓場から出てきたゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたうえ、「いや、そんな犠牲、私はできない」と、全身でひどく拒否されました。
鼻くそほじってても勝手に湧いてくる乳を含ませるだけのことにsacrificio。
私は私で、ヒトダマ見たくらい魂消ました。
しかし考えてみると、どうもこれが出産・育児に底流するもっとも強いイメージのようなのです。
出産準備教室で「妊娠前のキャリアの中断」はまあわかるとして、「妊娠前と体型がどんどん変わる」という(私からすると)些細な理由でうえうえ泣くほどナーバスなひとが多かったこと(「いまナーバスで」というひとが15人中13人。って、ノーテンキなふたりのうちひとりは私だし)。
「痛いことはできるだけ我慢・受難せずにサッサと終わらせる」無痛分娩が9割以上なこと、産科で隣り合った女性に日本の自然分娩を話すとやはりゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたこと(「私には絶対無理、さすがサムライの国ね」なんて、ハラキリ扱い)。
1歳児健診で「まだ保育園に預けてないの? まだ母乳あげてるの? まるで第三世界のやり方ね」と言われたこと、そう言わせるくらいに「生後数ヶ月で断乳・保育園に入れてママは社会復帰」が「常識」であること。
ご存知とは思いますがスペインは1975年までフランコ治下にあり、いわゆるカトリック的家族観における「良妻賢母」が(非常な圧力とともに)女性の規範とされてきました。
当時各家庭に配布された「女子こうあるべし」のプリントには、「夫の外出時には、どこへ、また何をしに、あるいは何時までなど、はしたないことを訊いたりせず、黙って笑顔で送り出しましょう」等の「模範的」な姿が、イラストとともに説かれています。
というのは文字を読めないひとも少なくなかったからですね、簡単な計算ができれば女に学問は不要、もちろん男に伍して社会参加なんぞもってのほか、ですから。
そして道徳上ではなく法律上においてまで、妻の重要な行動(労働契約はもちろん、銀行口座開設から長期旅行まで!)には夫の許可が必要とされていました。
こうして夫や社会からの理不尽な(有形・無形の)暴力を受けつつも、「権利」のなんたるかも知らないまま、女同士でひっきりなしに「くだらないこと」を喋り、夫が友達とバルで飲みカード遊びをするあいだに子どもたちにごはんを食べさせ、畑でロバを追い汗を流して働きながらそれでも笑い声を絶やさず、夜は熱心に神に祈って寝る。それが田舎の典型的な母親の姿でした。
母親の死後に作られた『オール・アバウト・マイ・マザー』をはじめとするアルモドバル監督作品には、そんな彼自身の母、ひいては女性一般への思いが描かれている、と言われています。
フランコが死んで新憲法が制定されたのが78年、離婚が認められたのが81年、母体の生命を脅かすなど特殊な場合以外の中絶が認められたのは92年。
いかにも「民主化」は遅いですが、なんせスペインはなんでも「やりすぎ」なくらいやっちゃう国なので、現在では、30代・40代前半を中心に、(経済的な理由および)自己実現のため結婚後も女性も働くケースが圧倒的多数です。
それを象徴するかのように、2004年に成立し現在も続く労働党政権では閣僚の半数が女性。
とはいえ、離婚成立に「1年間の別居=考え直させる期間」が不必要となったのはようやく2005年。もちろん教会は現在でも離婚を認めていません。
スーパーに行けば、一見仲良く買い物をしている夫婦が、「またパセリ買うのか! まだ残ってただろ」「冗談じゃないわ、いつの話よ!」と喧嘩しているのもよくある話。
これは、財布を夫が握っているからなんですね。
共働きが圧倒的に多いとはいえ、財布は夫、一方で家事・育児のほとんどは妻の担当。
なんでもスペイン人女性の「実働時間」は世界一という調査結果が出たとかで、先日テレビで「スペイン女性は『スーパーマン』であらざるを得ない」とレポートしていました。
男と伍して働き、夫や社会からのサポートなしで育児をしなければならないスペインのママたちの、それが実状のようです。
最近では10組のうち4組が離婚するそうですが、大学の社会学教授はその理由を「独身時代には男女平等の生活を享受してきた女性が、結婚するやいなや旧態依然の『妻-母』の役割を求められ、それに幻滅するから」と分析していました。
「犠牲」というあの激しい言葉遣いは、思想上はウーマンリブ的自己実現賛美から出てきたかもしれませんが、それがいまだに特別な力を持ちつづけている背景には、このような当地の社会状況があるように思われます。
(とはいえ、「犠牲」と言い続けている限り、出産・育児はますます「犠牲」色を強めるだけなのですが)
30代・40代女性の喫煙率が異常に高いこと、若者の「初性交」平均年齢は14歳で、初煙草はそれ以前、初ドラッグはさらにそれ以前と言われること(ドラッグで性交不能となることを恐れてバイアグラを使う少年たちが社会問題に……)。
これらが長年にわたってこの社会を(カトリック的家族像における)「父」として統治してきたフランコへの反動だとしたら、おい、おっさん罪なことしたなあ、と思います。
「いい? これはね、自由の象徴なのよ」と、しゃがれ声でうまそうにヤニを食うおばさんに、へそくりが横領とみなされないような「亭主元気で留守がいい」国からきた外国人の私は、なにも言うことができません。
おっと、今回はテーマがずれました、ごめんなさい。
後日談。
じゃんけんは、鼻ピアス保育士バネッサが幼少時から(日本発祥とは知らず)親しんでいたということで、彼女が調べてきた「だるまおとし」に変更となりました。
ちなみにじゃんけんはなにかを決めるためではなく、それ自体を何度も何度も、単純にゲームとして楽しんでいた、すっごく大好きだったわ! とのことです。
日本的、というより、すぐれて「人間的」な遊びなのかもしれないですね。