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Abril 2008 アーカイブ

Abril 8, 2008

スペイン・ジェンダー事情

こ初々さん、1歳のお誕生日おめでとうございます!
地球がニューカマーな彼女を乗せてびゅーんと太陽のまわりをひとまわりして、ついに戻ってきたんですね。
ヤアめでたいなあ、パチパチパチパチ!!

返信を書きそびれているあいだに、こちら、マドリードは春たけなわ。
葉桜ならぬ葉アーモンドが優しい影を落とすニーニャの保育園では、今週、「日本旅行」があります。
みんなで他の文化について知ろうね、という、園の微笑ましい定例イベントです。
「旅行」先は園児の出身地で、先月はエクアドル、先々月はバスク地方、その前はブラジル。
なにか日本らしい遊びをひとつ、ということで、「じゃんけん」を提案します。
スペイン語では「piedra(石), papel(紙), tijera(鋏)」、かけごえも同じで「ピエドラ、パペル、ティヘラ!」。
この3者に絶対的な勝者はいません(って、わざわざ言うようなことでもないですが)。
スペインでは「石は鋏を砕くが紙に包まれ、その紙は鋏に切られ……」と説明します。(日本でもそうでしたっけ?)
それぞれが勝つ要素も負ける要素も持っていて、それは相手次第という相対的なもので、その関係をつなげてみれば「円」になっている。
なにかあいまいなものが互いに関係しあいながらゆらゆらぐるぐる終わりなくまわりつづける、というの、すごく日本的な発想だと思ったんですよね。
(考えたら日本の通貨が「円」というのも、交換を目的とする貨幣の名称としてなかなかナイスですね)

初々さんの書かれた、「ひとつの関係のなかに、贈り、贈られる関係を作ることが、自分と相手を自由にするのかもしれない」という文章、すっごーく素敵でした!
じゃんけんを繰り返すうちに勝ち負けじゃなくてそれ自体が楽しくて仕方なくなってくるのと同じ? なんて、またしてもごく手元にひきつけて思ったりしてます。
そういえば「私がそこからすべてを学ぶであろう」麻雀も、総数では常に一定の点棒を、4人で贈与しあうんですよね。行ったり来たり。
また「関わるその人の中に贈り物を見つけるのは私次第」という文にも、ハッとしました。
そういえば、作者は死んで、テクストは読者において生成的に編まれる、のではなかったかしら。そうだ、

■ マエストロ内田樹はこう書いた:
「『作者』の治世が終わるとき、テクストは読む人=書きこむ人(※カナ註:ロラン・バルトによる述語で、「集合的なテクスト生成への参加者のひとり」という含意をもつ。同書の説明より)の主体的選択にもとづいて、そのつど新たに構成されるものとなる。」(現代思想のパフォーマンス、p84)

そうであってこそ、この「かかわり」が、「一回的で創造的な行為」となる。
子どもに対しても同じですね。
「それだけパン食べたらもう炭水化物は充分だから、ビタミンも摂っときなさい、ほらお野菜あーん」とか、「やっぱり晴れた午後は公園で健康的に遊んだ方が」とか。
ついそういう考えに圧されるのですが、でも「ええーっと、この場面ではこう振る舞うのが『正解』の読みなのだろうか」ってことばっかり考えてて、楽しいわけない。
麻雀だって、うっかり「セオリー」なるものに頼ると、たいがい点箱も精神状態も惨憺たる結果になるものです。
どこかの「作者」が決めた「正解」がある、っていうのをサッパリと忘れて、あるいはそう思わせようとする社会の「罠」をエイヤッと振り切って、目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです。

ところでスペイン社会の「罠」のいくらかは、こちらに外国人として居ると、チラリ見えたりします。
たとえばママたちが出産・育児を語るときの言葉遣い。
小児科の待合室で隣り合ったママに「15ヶ月で、まだ授乳してます」と話すと、まるで墓場から出てきたゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたうえ、「いや、そんな犠牲、私はできない」と、全身でひどく拒否されました。
鼻くそほじってても勝手に湧いてくる乳を含ませるだけのことにsacrificio。
私は私で、ヒトダマ見たくらい魂消ました。
しかし考えてみると、どうもこれが出産・育児に底流するもっとも強いイメージのようなのです。
出産準備教室で「妊娠前のキャリアの中断」はまあわかるとして、「妊娠前と体型がどんどん変わる」という(私からすると)些細な理由でうえうえ泣くほどナーバスなひとが多かったこと(「いまナーバスで」というひとが15人中13人。って、ノーテンキなふたりのうちひとりは私だし)。
「痛いことはできるだけ我慢・受難せずにサッサと終わらせる」無痛分娩が9割以上なこと、産科で隣り合った女性に日本の自然分娩を話すとやはりゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたこと(「私には絶対無理、さすがサムライの国ね」なんて、ハラキリ扱い)。
1歳児健診で「まだ保育園に預けてないの? まだ母乳あげてるの? まるで第三世界のやり方ね」と言われたこと、そう言わせるくらいに「生後数ヶ月で断乳・保育園に入れてママは社会復帰」が「常識」であること。

ご存知とは思いますがスペインは1975年までフランコ治下にあり、いわゆるカトリック的家族観における「良妻賢母」が(非常な圧力とともに)女性の規範とされてきました。
当時各家庭に配布された「女子こうあるべし」のプリントには、「夫の外出時には、どこへ、また何をしに、あるいは何時までなど、はしたないことを訊いたりせず、黙って笑顔で送り出しましょう」等の「模範的」な姿が、イラストとともに説かれています。
というのは文字を読めないひとも少なくなかったからですね、簡単な計算ができれば女に学問は不要、もちろん男に伍して社会参加なんぞもってのほか、ですから。
そして道徳上ではなく法律上においてまで、妻の重要な行動(労働契約はもちろん、銀行口座開設から長期旅行まで!)には夫の許可が必要とされていました。
こうして夫や社会からの理不尽な(有形・無形の)暴力を受けつつも、「権利」のなんたるかも知らないまま、女同士でひっきりなしに「くだらないこと」を喋り、夫が友達とバルで飲みカード遊びをするあいだに子どもたちにごはんを食べさせ、畑でロバを追い汗を流して働きながらそれでも笑い声を絶やさず、夜は熱心に神に祈って寝る。それが田舎の典型的な母親の姿でした。
母親の死後に作られた『オール・アバウト・マイ・マザー』をはじめとするアルモドバル監督作品には、そんな彼自身の母、ひいては女性一般への思いが描かれている、と言われています。

フランコが死んで新憲法が制定されたのが78年、離婚が認められたのが81年、母体の生命を脅かすなど特殊な場合以外の中絶が認められたのは92年。
いかにも「民主化」は遅いですが、なんせスペインはなんでも「やりすぎ」なくらいやっちゃう国なので、現在では、30代・40代前半を中心に、(経済的な理由および)自己実現のため結婚後も女性も働くケースが圧倒的多数です。
それを象徴するかのように、2004年に成立し現在も続く労働党政権では閣僚の半数が女性。
とはいえ、離婚成立に「1年間の別居=考え直させる期間」が不必要となったのはようやく2005年。もちろん教会は現在でも離婚を認めていません。
スーパーに行けば、一見仲良く買い物をしている夫婦が、「またパセリ買うのか! まだ残ってただろ」「冗談じゃないわ、いつの話よ!」と喧嘩しているのもよくある話。
これは、財布を夫が握っているからなんですね。
共働きが圧倒的に多いとはいえ、財布は夫、一方で家事・育児のほとんどは妻の担当。
なんでもスペイン人女性の「実働時間」は世界一という調査結果が出たとかで、先日テレビで「スペイン女性は『スーパーマン』であらざるを得ない」とレポートしていました。
男と伍して働き、夫や社会からのサポートなしで育児をしなければならないスペインのママたちの、それが実状のようです。
最近では10組のうち4組が離婚するそうですが、大学の社会学教授はその理由を「独身時代には男女平等の生活を享受してきた女性が、結婚するやいなや旧態依然の『妻-母』の役割を求められ、それに幻滅するから」と分析していました。
「犠牲」というあの激しい言葉遣いは、思想上はウーマンリブ的自己実現賛美から出てきたかもしれませんが、それがいまだに特別な力を持ちつづけている背景には、このような当地の社会状況があるように思われます。
(とはいえ、「犠牲」と言い続けている限り、出産・育児はますます「犠牲」色を強めるだけなのですが)

30代・40代女性の喫煙率が異常に高いこと、若者の「初性交」平均年齢は14歳で、初煙草はそれ以前、初ドラッグはさらにそれ以前と言われること(ドラッグで性交不能となることを恐れてバイアグラを使う少年たちが社会問題に……)。
これらが長年にわたってこの社会を(カトリック的家族像における)「父」として統治してきたフランコへの反動だとしたら、おい、おっさん罪なことしたなあ、と思います。
「いい? これはね、自由の象徴なのよ」と、しゃがれ声でうまそうにヤニを食うおばさんに、へそくりが横領とみなされないような「亭主元気で留守がいい」国からきた外国人の私は、なにも言うことができません。
おっと、今回はテーマがずれました、ごめんなさい。


後日談。
じゃんけんは、鼻ピアス保育士バネッサが幼少時から(日本発祥とは知らず)親しんでいたということで、彼女が調べてきた「だるまおとし」に変更となりました。
ちなみにじゃんけんはなにかを決めるためではなく、それ自体を何度も何度も、単純にゲームとして楽しんでいた、すっごく大好きだったわ! とのことです。
日本的、というより、すぐれて「人間的」な遊びなのかもしれないですね。

Abril 15, 2008

クリエイティヴ・ライティング宿題です、先生!

 数年前その著作を読むや熱烈なファンになり、以後結婚式の車に引かれる空き缶よろしく愚にもつかないことをガチャガチャ喚きながら必死で追いかけ続け、今やその(当初読み方もわからなかった)名を耳にしただけで反射的にありがたやと東の空を拝んでしまうほど尊敬する師が、教鞭を執られる授業で、「宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します」とのたまわれたといふ。されば三十路半ば子持ちシシャモ体型の私もしてみむとて、我ながらいたいけな心持ちで縦書きエディタを立ち上げ画面に現れた原稿用紙風の桝目を眺めやり、ほなあてもパン屋にでも、いやいやここは「パン屋にもたどり着かない」場面でも書きまっかいななどと嫌らしいことを下卑た顔して考え、ほくそ笑みながら文頭に一文字アキを入れたところで、しかしなにかに引っ張られて手が止まる。東の空へと飛翔するのがエロスならば西の地底へ引き摺り込もうとするタナトスが、二着確定でその夜の帳尻が合うという最後の半荘で断トツリードの一着目に向かっていきたくなる軽忽さが、とりあえず巨人よりは阪神、ストロベリー・ショートケーキよりはフランボワーズ・ブラマンジェ、ポールよりはジョン、トシよりはマッチ(っていつだよ)、だけどひとまわりしてビートルズも百恵もフォーエバーな安っぽい反骨精神が、俺の肘を引いている。ああ止めてくれるなおっかさん。わちきも齢三十四、江戸時代なら大年増、平成の世でも高校球児ふたり分のええ歳こいたおばはん、そろそろ万年野党みたいな僻み根性は捨て去り恥ずかしながら裸で土俵に立つ覚悟、たといこの身が世間の晒し者になろうとも。かく覚悟を決めるや、足元でジタバタのたうつ棚と酢をむんずと押さえ込み、懸案の「宿題」にとりかかる。だって、そうよ、愛するひとに愛していると言っちゃいけないの? ライバルも多いあの憧れの人が、「授業中に手を挙げて俺を好きだってもし言えたら、抱いてやーるぜー」なんてシブがき隊よろしく(だからいつだよ)低いハードルを設定して待ってくれているのよ。在スペイン日本人の皆様に一服の涼を与えんがためアホの坂田歩きを本気でやれる私にとって、ひでえ駄文もち売文稼業を恥ずかしげもなく営んできた私にとって、師からの「宿題」の提示はこれを奇貨としてまた一丁グァラングァランと騒ぐべし騒ぐべし寿ぐべしな出来事でこそあれ、反骨だの豚骨だのそげなこつの出る幕ではないはず。ああ、だのに。
 そうしてしおしおとエディタを終了させる自分の姿までを思い浮かべてみて、やにわに文頭の一文字アキ以降をローマ字変換でカタカタと埋めゆく、その手つきのなんと傲慢なことよ、その文のなんと欺瞞に満ちていることよ。師よ、我が私淑するグラン・マエストロよ、んでもって大家さま。こんなことでいったい私はクリエイティブなライティングができるのでしょうか。いっそ筆で立つ夢は捨て独創的な照明術でも学んだ方がよかでしょか。と、こうして指定の下限六百字に達すべく悪あがきに悪あがきを重ねたところでようよう気づく私は天下無双の粗忽者。「宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します」って、スペインくんだりにいちゃどうせ聴講なんてできやしねえ! かくして、背後のひとへの呼びかけに間違って大声で答えてしまったような、授業中に寝惚けてこともあろうに先生に「お母さん!」と言ってしまったツレアイの同級生の何某君のような、気恥ずかしさと真っ赤な面とをそっと、百恵ちゃんのラスト・コンサートのようにステージの上に置いて、店子は失礼つかまつりまする。今回はこれにて! ニンニン。

Abril 29, 2008

ベラスケスからアルモドバルへ


デ・シルバ。
そう呼んでも良い。いや、普通ならそう呼ぶべきだった。
スペイン黄金時代の宮廷画家。
その完成された絵画技法は、後にこの国が生む巨匠ピカソをして「マエストロ」と言わしめ、幾点にも及ぶオマージュを捧げさせた。
代表作「ラス・メニーナス(女官たち)」「ブレダの開城」。
画家の名は、ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス。

アンダルシアはセビージャに生まれた「ディエゴ」君は、11歳で、地元にあったパチェコの工房に入る。
パチェコは宮廷に出入りしていた当時の有名画家で、たしかそのトレドの持ち家にエル・グレコを住まわせるほど厚い親交を結んでいたことで、現在の絵画史に名を残している。
やがてディエゴ君はその娘と結婚、「パチェコの婿」として堂々の上京を果たし、若干24歳にして、即位直後のフェリペ4世の肖像画を描くに至る。
画家としての最高位、のちにゴヤがその地位を手に入れようと四苦八苦して40代半ばでようやく手に入れた、宮廷画家の地位である。
ワオ、サクセス。
現在の私たちはそう思うが、おそらくディエゴ君は不満だったのだろう。
当時の画家は「芸術家」として崇められるなどということはなく、「庭師」や「大工」と同じ「職人」扱いである。
ディエゴ君が幾度となく描いた小人と同じ、いや、いやしくも廷臣として重用された小人よりむしろ「ラス・メニーナス」でその小人に蹴飛ばされている犬にこそ、近い立場だったかもしれない。
しかしディエゴ君は、6歳年少となる王から格別の信頼を得ることに成功する。
やがて、王の趣味であり、この無能な王がスペインになにかしら寄与したとしたらほぼその点においてのみという絵画コレクションの管理や、年間を通じて移動の多い宮廷の煩瑣な宿泊所手配などの事務職を任されるという、「栄誉」を賜る。
ディエゴ君がこの仕事をどんなに一生懸命やっていたかは、その死因が老衰でも梅毒でもなく、王女の結婚に伴う王室のフランス国境での滞在のアレンジによる疲労、ということからも推測される。
そんな、現在から見ると「涙ぐましい」ような努力の甲斐あって、ついにディエゴ君は、スペイン人にとって最も名誉なサンティアゴ騎士団に叙せられる。
これは当時の「アガリ」に等しい。
「ラス・メニーナス」の画面左に、大胆にも王の一家に交じって絵筆を手に立っているディエゴ君の、少し誇らしげに反らせた胸に大きく赤色で描かれている十字が、そのしるしである。
(もっとも十字を書き加えたのは本人ではなく、息子か弟だったはず)

そんなディエゴ君は、しかし、なぜ「デ・シルバ」ではなかったのか。

■美術史のリカルド教授は、こう云った:
「それは『デ・シルバ』という名字では、不利だったからですね」

ディエゴ君の生きた17世紀は文化面でこそ「黄金時代」と呼ばれるが、実際に生きるとして、果たしてどうだったろうか。
ディエゴ君が生まれる約半世紀前の1547年、現在もスペイン・カトリックの大司教がおわしますトレドで、「limpieza de sangre(血の純潔)」発布。
ユダヤ人やイスラム教徒の血が混ざるものは、公職に就けず、教会に入ることもできないとする法令である。
「純潔」なキリスト教徒に非ざれば人に非ず。
もし「純潔」でないと認定されれば、地位や財産を剥奪されても文句は言えない。
そのさらに70年ほど前に始まり、たしか19世紀まで続いた「異端審問」の補足版、あるいは強力改訂版というところか。
なんせ「異端である」と認定するのは手間がかかるし、さらに、拷問や火あぶりなどの手続を踏まなければならないのは作業効率の点において非常によろしくない。
一方「純潔でない」と認定する、つまり本人側が「純潔である」と立証するのはまず不可能であり、従って、それが本来の目的である地位と財産の没収を容易に完遂できる。
歴史上悪名高きスペインの「異端審問」だが、実際に処刑された人数はたしか他国と比べてそれほど多くなかったはずである。
それは「血の純潔」という補完システムが「有効に」機能していたからではないか。

異端審問が始まった1475年は、スペイン統一を目前に控えた時期。
この制度の狙いは、半島最後のイスラム教国である対グラナダ戦への戦費確保、キリスト教というイデオロギーによる国内統一、地位剥奪による強力な王権の確立、そして国民の不満のはけ口だったといわれる。
翌年、「Santa Hermandad(=聖なる兄弟愛)」という名の市民警察が発足。
市民は「異端審問=正統なキリスト教徒であること」と市民警察の「ふたつの聖なるもの」に挟まれ、息をひそめて暮らすことを強いられた。
いつまでか?
おそらく1975年、キリスト教の庇護者として強力な警察機構のうえに君臨したフランコの死までである。
そして現在もまた、この国のカトリック熱が最高潮に達する聖週間のプロセシオン(神輿行列)に感極まって涙を流す人々の姿に、ひねくれた外国人の私は、「よきキリスト教徒であることへのデモンストレーション」という要素、それをせずには生き延びることができなかったこの国の「聖なる」歴史的背景を見い出してしまう。

1492年、後に「カトリック両王」と呼ばれることになり現在もこの国で事実上禁忌となっているイサベル女王・フェルナンド王によりスペイン統一完了、同時にユダヤ人国外追放令発布。
1547年、カトリック両王の息子、「神聖ローマ帝国皇帝」の椅子を手に入れるため新大陸産の富を盛大にばら撒いたと言われるカルロス1世治下に「血の純潔」施行。
この10年後には、前年に即位したばかりの息子のフェリペ2世により、記念すべきスペイン第1回めの破産宣告が行われている。
さらにその6年後の「宗教改革」では、全国で100以上の修道院が閉鎖され、租税権を取り上げられている。
まるでゴヤの描いたサトゥルノのように金と権力とを貪り喰らう「世界帝国」のお膝元では、もはや、本来それを守るという名目であったはずのキリスト教徒であるというだけでも安心してはいられない状況になっていた。
いつ自分に向かって牙を剥くかわからない凶暴な「聖なるもの」に挟まれて生きる日々。
1588年、スペイン無敵艦隊がイギリスにまさかの敗北。
1596年、全国に疫病が蔓延。
もうこの国はダメなのかもしれない。
「聖なるもの」の間に挟まれ決して口に出せずともそういう気配が、濃厚に立ちこめてはいなかっただろうか。厚くのしかかる、閉塞感。
1599年、ディエゴ君誕生。

まずい、と思った。かもしれない。
若くしてすでに圧倒的な画才の片鱗を見せていたという少年ディエゴ君。
彼の父親はポルトガル人である。
胸を張って「古くからの正統派スペイン人」と言える北部スペイン(つまりレコンキスタの発祥地)とは、ちょっと離れすぎている。
しかもその「デ・シルバ」という名字ときたら、誰が聞いてもいかにもポルトガルだ。
(なお、レアル・マドリードに長らく所属していたブラジル人サッカー選手の「永遠のマルコメ小僧」ロベルト・カルロスの名字が「ダ・シルバ」である)
その点、母方の姓「ベラスケス」は良い。
(美術史教授リカルド曰く)北の方を髣髴させる。
しかも母はイダルゴ、(ドン・キホーテと同じで名ばかりとはいえ)れっきとした郷士である。
うん、「ベラスケス」が良い、この「聖なる」スペイン社会で栄達を望むのならば。
「聖なる」……。
スペイン社会は21世紀の現在、キリスト教の庇護者フランコの死後30年を経た今日でもなお、「聖なる」部分を少なからず残す。
私が通った、スペインでもっとも権威あるといわれるマドリード・コンプルテンセ大学。(十万を超える生徒数も世界有数だが)
かつてオルテガ・イ・ガセーも教鞭を執ったこの大学で正教授になるには、「よきキリスト教徒」でなければならない。
なんせ「正教授」とはスペイン語で「Catedora'tico」、カテドラル=大聖堂と同じ語源であることは一目瞭然。
実際に、社会からの「聖なる」圧力に屈せず教会婚ではなく市民婚を選んだ、まだ40代の歴史学教授フェルミンは、妻の実家から離縁され、大学での出世の道も断たれている。
なた数年前の、皇太子と離婚歴ある女性との結婚の際も、「でも彼女の前の結婚は市民婚だからカトリックとしては今回が初めての結婚」という「解釈」を、誰もが暗黙のうちに受け入れていた。
だからリベラルもフェミニストも、コンサバも、当初は強く反対していたというギリシャの王家出の現王妃も、この結婚を笑顔で祝福したのである。
ああ、スペイン社会は、かくも根強く「聖」である。

ディエゴ君は、かなり早い時期から「ベラスケス」とサインしていたという。
彼が、王に画才を認められ宮廷画家となるだけでは満足せず、現在から見ると涙ぐましく、その素晴らしい絵と比すると滑稽に、あるいはあさましくさえ見える努力を払い、そして神から類い稀なる才能を付与られたその命を縮めてまで、社会的な「地位」をも手に入れようとしたのはなぜか。
その弟だか息子だかが、王一家と同じ画面に収まる家長の胸に赤色のサンティアゴ騎士団の十字を、明らかにバランスを失するほど大きく描き込んだのはなぜか。
やがてベラスケスとして歴史に名を残すことになるディエゴ君が、セビージャの街を洟を垂らしながら駆けまわっていたとき、マドリードで一冊の本が出版される。
『素敵に愉快なラ・マンチャの郷士ドン・キホーテ』。
時代錯誤な夢想?
いやそれは「時代を映せない」ことできわめて雄弁に時代を映す非現実、ではなかっただろうか。
そこには「聖ならぬもの」が溢れている。
19世紀、ゴヤの「黒い絵」はどこから来たか。
20世紀、ダリはミロはピカソは、なにを描き、なにを描かなかったのか。
21世紀、アルモドバルは……。

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