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2009年11月 アーカイブ

2009年11月 2日

演武会疲れ

10月26日(月)

 演武会ツアーとでもいうべき時間は、完全な休息ができず、週末のない時間でもあった。休む時間もないまま、よろよろになりながら、講義をする。異の不調もあり、ふと気を抜けば、どこか倒れそうになる。

10月25日(日)

 合気道芦屋道場の演武会があり、招待演武に呼ばれたので出かける。司会も頼まれたので引き受ける。演武会続きである。

10月24日(土)

 学祭演武会千秋楽。現役学生の合気道部、杖道会部員に加えて、招待演武、OG演武も増えて、たいそうにぎやかしい。
 今回も師範演武の説明演武に呼んでもらえた。うれしかった。

 演武会には、全国各地から、いろいろな友人知人が見に来てくれた。それだけでもありがたいことだ。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。

 いくらかの屋台を冷やかし、うろうろと歩き、しゃべっているうちに、あっという間に撤収の時間。畳を元に戻すのである。初めにあったのとおなじようにするのだ。
ほかの団体もそれぞれの場所に戻っていく。流れが違っていた空間もまたあっという間に元の時間に戻っていく。お祭りだけが、過去の出来事のように切り取られ、断片だけがそこかしこの空間に浮かぶ。しかし、もう私たちの目には、それは見えない。まさに、祭りのあとだ。

10月23日(金)

 学祭初日。演武会も初日。お天気もよく、にぎやかに迎える。
 合気道部と杖道会の合同の演武会である。いずれにも出場させてもらう。それなりの満足のいく演武をしたということにして、心地よく終える。

 演武会の終わったころには、学内で中沢新一さんと内田先生の対談がある。それを聞きに行くために、今日は道場に残って、朝から握ったおにぎりなどを食している。すると、後方の扉から、中沢さんを大学案内されている内田先生がやあやあと入ってこられた。
初めて見る中沢さんに(おおこれが!あの中沢さんかあ~)と思い、(『僕の叔父さん 網野善彦』を書いたあのひとかあ~)と思いをさらに馳せる。気づくと記念に握手してもらっていた。
当の対談には、明日の宣伝も兼ねて道衣で出かけてみる。

10月22日(木)

 毎年のことで、学祭の前日は大学全体が準備の時間に充てられる。いつもの4限が休講になり、翌日の金曜日も学祭のため全日休講となるのだ。合気道部では、明日の演武会に向けて畳の搬出をする。これも毎年のことで、だんだんと回数を重ねるごとに、そこに何かしら経験からしか生まれ得ないであろう合理性が出現しているのがわかる。
大学中を見渡すと、ほんとうに、どこもかしこもこれから始まるお祭りのため、動き出している。コンロを運んだり、掲示板を出したり、机を移動させたり、椅子を持ち運んだり、ポスター掲示したりしている。瞬時に学内中が賑やかになる。
ふと振り返ると、いつの間にか、いつもと同じ場所のなかで、いつもと違う時間が流れ始めている。いつもと同じ場所のある空間だけが、いつもとすこしだけ違う時の流れ方をし始めているのだ。明日からの時間は、完全にいつもと違って流れるのだろう。まるで異空間に運ばれた気分になるのだろう。気づけば外はもう真っ暗だ。

10月21日(水)

 熱が下がらずにいるが、思ったよりも意識は明瞭だ。病ほど日記に書きやすいものはなし。自らの病状を記すほど、残す意味のなきものもなし。病床文学を名乗るほど、たいそうなものではないが、自らの経験している病状を記述するのは、日本特有の文化だろうか?

10月20日(火)

 今日くらいに倒れておかないことには、おそらくこの先の大切な時期にぶっ倒れるだろうと予測して、先に倒れておく。ふいに熱っぽいので測ってみると、37度近くの微熱。ぼんやりするわけだ。

2009年11月 8日

温泉の旅

11月4日(水)

 大きな問題があると小さな問題は、さして問題とも、気にもとめないものだということを実感した。大きな問題が出てくることで、それまで抱えていた小さな問題が消えたり、解決したりするわけではないが、一種の解決めいた効果はあるようだ。

 レヴィ=ストロースが亡くなった。偉大な人がまたひとりこの世から去ってゆく。ひとつの歴史が幕を閉じた。

11月3日(火・祝)

 久しぶりのまるっとオフ日。洗濯、掃除、家事、炊事、並べ替え、ゴミ出しなど積極的片づけをしているうち、だんだんと辺りが冷えてきた。寒いと言うよりも実感を込めて冷える。けれども、こたつを出すにはまだ早い。また明日から温かくなりそうな予感もあるからだ。
ということで、なかとって、すこしだけ暖房器具を出すことにする。ことしの二月ごろ、急にデロンギが送られてきたのを思い出し、押入れから引っ張り出す。出してみると、なんだか知らないけれど、正月明けのような気分になった。先日の温泉宿でもらった入浴剤を浴槽に混ぜてみると、正月明け気分が倍増する。

11月2日(月)

 稽古して、講義して、稽古して、帰宅。
 すべてが感覚も、立場も、内容も違うので、頭と身体をフル回転させなければならない。
最初の稽古はお能の稽古。この稽古をするときは、「学ぶ」ことを重点的に、自分自身のなかの動きや感覚や器官を総動員する。
次の講義は、「教える」ことが重点的になる。その段取りや時間の流れ、相手となる学生側の反応を見ながら、適宜こちらも対応していかなかなければならず、そのあたりの感触や変更が難しい。これは良くも悪くもといった意味だ。決まったことをただ闇雲にしておればそれでいいということではない。もちろん、決まったことをするのだが、決まったことを如何に教えるか、そして如何に積み重ねていくか、興味や関心を抱き続けられるようにするか、そこが難しい。
また次の稽古は、杖道の稽古。実際に頭と身体を使って「学ぶ」のは同じで、フル回転である。
これらすべでが終わったころには、自らは頭も身体もハイテンションになっている。

11月1日(日)

 朝カル対談「内田樹VS池谷裕二」を拝聴しに行く。
 既読の池谷本(『海馬』糸井重里共著、朝日出版社、2002、『進化しすぎた脳』朝日出版社、2004、『脳はなにかと言い訳をする』祥伝社、2006)を持参しようかと思ったが、すこし迷って、思いとどまる。あまりにミーハーもいけないし、サインをいただけるような時間があるとも限らない。未だ買っても、読んでもいない最新刊ならたぶん会場に売っているだろうと思い、天気も悪くなりそうなのもあって、なるべく荷物を少なくして家を出た。
 開始時間ぎりぎりに会場に着く。たまたま開いていた講師控室の扉の向こうに、内田先生の姿が見える。「こんにちは~」と挨拶すると、すかさず先生が、「いまなら池谷さんのサインがもらえるよ!」とおっしゃるのである。さあらば、慌てて受付手続きを済ませ、受付で最新刊を買い、控え室へと舞い戻る。我ながら、こういうときの動きはじつに迅速かつ巧妙である。
 買ったばかりの本と名刺を持って差し出すと、池谷さんから、とても丁寧なサインをいただけた。機会があれば、ほかの三冊にもサインをいただけますようにと小さく願う。
 サイン本を持って、ほくほくと会場に戻る。読み出すと止まらない話があるのがわかるので、対談中本のページを開いてしまいそうにならないよう、いつになく自らを律する。
しかしそんな制止は無用だった。開始時間になり、先生方が登壇されるや否や対談時間の90分はあっという間に過ぎてしまった。本なんて開いている暇はない。
え?もう終わり?というくらいあっという間だった。ブルンッッとエンジン音が聞こえたころに終わってしまった気がする。
これはほんとうに、シリーズ化すべきですねえ。

10月31日(土)

 月末ですね。『スルメを見てイカがわかるか!』(養老孟司、茂木健一郎、角川ONEテーマ21、2003)をいまごろ読了。お二人の先生方がまだ出会ったばかりの感じが出ていて、新鮮ですね。

10月30日(金)

 きれいな景色を見たあとは、身も心も安らかな気持ちになる。

10月27日(火)~29日(木)岐阜へ、長野へ、ひとっとび。

気づけば、そこは岐阜県だった。
理由のほどはよくわからぬが、人生流れに乗ることが必要なときがある。ふいに、ヒロスエ隊長から、山を見よう!温泉に行こう!と誘われて、首を縦に振ったのはいつのことか。一泊くらいなら、なんとか日も空けられようと思っているうち、気がつくと話は二泊になっていた。

朝一の電車に乗り、大阪から一路岐阜を目指す。これまで、新幹線に乗りながら岐阜県を通り過ぎたことはあるが、降り立ったことは一度もない。初岐阜である。
まずは手始めに郡上おどりで知られる郡上八幡へと向かう。清流と名水の城下町だそうだ。城というより寺町という印象を受ける。というのも、およそ2ブロックごとかと感じられるほど、寺が多いからだ。
訪れた郡上の町はみな、ほぼ同じ景観を維持するかのような建て方である。家屋は道路に面した部分はまっすぐであり、まったくでこぼこしていない。町名はそれぞれ工夫を凝らした看板や木の枠に記されている。そのひとつに「職人町」というのがあった。この文字がよくあるアルミのバケツにペンキで横書きされている。それも隷書のように書かれてある。バケツは、軒下から突き出された各家の針金に柄を引っ掛けられている。ぶらんと吊るされている。防災にも生かせるのだろうか。まことに粋な計らいであると思う。
 水が豊富なところだけに、染料や味噌の伝統もあるようだ。そのような多く店も並んでいた。

その後、飛騨の里へ。飛騨民族村に行く。ここは、岐阜県内にあった江戸時代の旧家屋が移築され、建ち並んでいるそうだ。建築の種類や建造物の保存状態の良さもあるのか、いずれも国指定重要文化財らしい。里の中は、早くも紅葉がきれいである。

 俄かに心配された天気も良好。
車窓の両脇から、これでもかというくらいたくさんの紅葉が舞い込んでくる。赤や黄色や緑と青と白が混成された、この時期だけの貴重な山のハーモニーだ。うっとり見とれているうち、ぱらりと小雨が降る。山も深くなるとだんだんと冷え込んでくる。アルプスという場所に近くなっていることが、肌をとおして実感される瞬間だ。

 どっぷりと日も暮れたころ、高山市のホテルに到着。新穂高温泉なので奥飛騨温泉のひとつとなるのだろう。
着くなり、温泉に浸かり、露天風呂に入り、一日の疲れを癒す。露天風呂に浸かりながら、『聖☆おにいさん』を思い出したが、なぜかは理由はよく知らぬ。
露天風呂からは少しだけ星が見えた。明日も天気がよさそうだ。ぼんやりしているうち、こんなに遠くまで連れて来てもらった(スケジュールをまるでよく知らないというのもある)。ありがたや~ありがたや~。
 夕食は山の幸に舌鼓を打つ。隊長と副隊長と隊員と共に静かに食事をいただく。夜は、話の流れで、隊長と歌合戦することになった。勝敗や如何に。ありがたや~ありがたや~。


朝六時に目覚める。昨日は到着が日没後だったので、外は真っ暗、部屋からは何も見えなかったのだが、一夜明けるとベランダから実にきれいな岳が見えた。日本ってこんなに大きな山があったのか!と単純に感動する。あの山は、双六岳か笹岳であろうか、いずれももう雪景色なのだ。北アルプスが目の前にあるこのあたりの気温は、軽く十度を下回っている。年中穏やかな関西とはえらい違いだ。そのような場所で呼吸法をした。
そのあとまた露天風呂。硫黄の香りにも鼻がだんだん慣れてきた。ここのお湯は風呂から上がる前に、かけ湯をしなくてもいいのが特徴だそうである。

静かに朝食をいただく。そのあとは、山頂は寒いだろうから、むくむくになるほど厚着して、いざロープウェイの駅へ!といっても、ホテルの真横。劇近である。
新穂高ロープウェイに乗り、新穂高温泉駅から第一ロープウェイで鍋平高原駅まで約4分の乗車。ほんの少し歩いて、しらかば平駅で第二ロープウェイに乗り換え、約七分乗車して、西穂高口駅で降りる。西穂高口駅には展望台がある。登山者以外は展望台から北アルプスを眺めるのがほとんどだ。この日は近年稀に見る晴天らしく、展望台からは辺り一面、まさに全方位的に、はっきりとした北アルプスが見える。これでもか!というくらい連なっている。双眼鏡やカメラを通さずともきれいな姿が見える。もう山づくしである。ああ、なんてきれいなのだ!

 美しい山々に酔いしれたあと、今度は乗鞍岳へと向かうが途中で断念。先日の台風で道が崩落したらしく、遠く乗鞍の姿こそ拝めるが、そこから前には進めなくなっていたからだ。そこで、急遽進行方向を変え、さらに車からタクシーに乗り換えて、上高地へと向かうことになった。
上高地は、現在では、付近は車両規制がしてあり、バスとタクシー、緊急車両のみ乗り入れ可能になっている。急な予定変更で上高地に行くことになったとき、そういえば昨年、下川先生が話されていたことを思い出した。
「日本人なら一度は、上高地に行かなければならない。上高地を知らんのは日本人ではない。必ず行きなさい」と言われていたのである。
偶然にも今回、上高地に訪れる機会を得たので、来訪記念に一枚ぱちりと写真を撮ってもらう。これで行ったことがお話できる。

実際、訪れた上高地は、雄大な山のかたちと川の静けさ、水の美しさ、そして山全体がみごとに調和が取れて、きれいなものを見ることの大切さを瞬時に教えてくれる場所だった。見とれてしまって、そのまま山に吸い込まれそうなくらいだった。初めて訪れて、初めて見た瞬間、これまで上高地に来る機会がなかったことを大いに残念に思った。これならもっと早く来ておくべきだった。

急なことだったので、長居する時間もあまりなく、最初の河童橋までしか行けなかったこともまた、いまでもとても残念だ。また別の年、この上高地だけを目的に訪れてみたい。いや、きっと来ることになるだろう。そう思って上高地をあとにする。

また車を乗り継ぎ、今度は長野県の宿を目指す。車窓から見える色とりどりの美しさは変わらない。どっぷり日も暮れたころ、チェックイン。気温の低さにも慣れてきた。
夕食は囲炉裏を真似た個室でいただく。山の幸はさらにおいしくなっている。おなじみの野沢菜は現地で食べるとおいしい気もする。
食後は、ゆっくりと温泉に入る。露天風呂からは星が見えた。ああ極楽極楽。先日までの疲れもどこへやら。あとは部屋に帰って眠る岳~


最終日は、朝から駒ケ岳ロープウェイに乗る。目指すは中央アルプス。山頂の千畳敷駅は2612メートルのところにあり、日本最高所駅とされる。ロープウェイに七分ほど乗ると、その駅に着く。
始点のしらび平駅から千畳敷駅まで、山のなかを潜るかのようにして、ロープウェイが動く。この日もまた天気がよく晴れ渡っている。山はもちろん、空がきれいすぎる。まさにパノラマで世界が、山が広がって見える。
千畳敷カールを歩くと、さらにその印象を強くなった。わたしは登山者の格好もしていないし、登山経験もそうそうないので、余り高くまで登れなかったが、底の分厚い靴を履いて、周遊コースを歩いてみたのである。
 展望台からは、焼岳や富士山を見えた。
思いっきりきれいな空気を吸うと、肺が浄化される気がする。

 午後は、今回のツアー最後のイベントであるりんご狩り。りんご狩りをするのも、生まれて初めての経験だ。りんごと一緒にぶどうもあったのでそれも狩る。しかしなぜ、紅葉のように食べなくても(食べられるけど)「狩り」、ぶどうやりんごのように食べられるものでも「狩り」と表現するのだろう。なぜか気になったので、帰宅後調べてみると、広義では「何か目的の物を捜し求めながら、大自然の雰囲気の中に身を置くことを指す」ようである。たしかに、言われてみれば潮干狩りもそうである。ああ、『紅葉狩』という謡曲もあるぜよ。

温泉に浸かり、山の珍味を頂き、美しい景色と自然、雄大な日本アルプスを眺め、夕日を拝み、朝日を眺め、生きていることを実感した盛りだくさんな旅であった。何より日本人であることが身に沁みる旅であった。そのようなものに巡り合わせてくださったことは、たいそうありがたいことだ。ほんとうに感謝しても、し足りないくらいだ(ありがとうございあます)。

日本アルプスはすごい。上高地もすごい。それらをいままで知らずにいたことは、なんとも恥じるべきことであり、ここに書くことは、その恥を公開するようで、さらに恥じるべきことだろう。だが、すべては自らの備忘のため、敢えてここに記すのである。

2009年11月22日

秋深し

11月19日(木)

 東京ツアー中の先生。ご不在のため、稽古を担当した。
そろそろと身体が合気道に馴染み始めてきた。二週間ほど休むと、何かが停止してしまうと感じたのは気のせいで、先週よりも随分動けるようになった。今日はOG参加率がたまたま高かったので、すっきりさわやかに稽古できた。重層的な団体になると、うまく動くなあと感じる。わが道場もがんばらねば。

11月18日(水)

 素直であることが合気道の上達の秘訣だなあと、ふと道場のなかでの出来事をとおして思う。わざわざ「素直だ」思っても、すべては後の祭り、いや、後悔先に立たず、か。真に素直であること(ひと)は、わざわざ「素直」などという言葉を出さずとも素直なのだから。それが自然であるべき状態としてあるのだから。ゆえに「素直」というのは、性質というよりも体質に近いのかもしれない。周囲のひとも見ていても、師匠と仰ぐひとの姿を拝見していても、素直であることは、己の人生をたいそう豊かにするものであるらしい。

11月17日(火)

 中沢新一さんの『アースダイバー』みたいに、TV番組の「ブラタモリ」もちゃんと周りとことばを楽しみながら歩ける番組であればなあと、見ていてときどき感じることがある。これは、歩くだけなら、さほど制作費もかからないだろうから、もう少しまともなゲストとコメンテーターを招いてほしいということでもある。CGを駆使しなくていいから、テンポのよい番組となることを期待する。
「ブラタモリ」は「タモリ倶楽部」の構成内容に似かよっているらしいというのは、往年のファンからうかがった話だ。しかし、タモリ倶楽部は深夜番組で、長年のファンでもないわたしは放送時間帯を知らないのでそうそう見ることもない。
ともあれ、せっかくの時間帯での放送なのだから、画面の中の反応がよい番組となるよう、「ブラタモリ」を見ながら、時折思うのである。

11月16日(月)

 朝から稽古。そのあと講義。そのあとまた稽古。数ヶ月に幾度か訪れるこのペースでの稽古も何とかこなせるようになってきた。

11月15日(日)

 いまごろ関東では、研修会をやっているんだろうなあと思いつつ、次回の研修会に思いを馳せる。ことしは、あまり本部の研修会に参加できなかった。遠方なので、なかなか出向くのが難しいからだ。関東圏に住んでいるのはいいなあと、こういうときは真に、強く思う。

11月14日(土)

 本日の稽古を担当。週間天気予報では雨だったので人数も手ごろになってちょうどよい。
 両手取りをやってみた。予めきちんと計画を立てて、それから実際の稽古状況を見渡し、当初の計画のうち変更すべきは変更し、調整すべきは調整した。技そのものは、何回か数をこなさなければわからないところも大いにあるだろうなあと、見ていて思うところもあった。稽古をするのに、各人各様に好き勝手にすることもできないし、そればかりをしてはなにもならない。かといって、がんじがらめに、統制するのも気持ちが悪い。限られた空間と時間のなかで、その場その場で定められた出来事をするというのは、限定付で自由にしなければならないということでもあると感じる。「自由は不自由である」といった感触はまた、こういうときにも起きるのだろうか。ともあれ、合気道の技は実にうまくできているなあと、そこかしこで感じる時間であった。

11月13日(金)

 13日の金曜日。別に何ということもなく過ぎた。

11月12日(木)

 ちょっとどきどきしながら山を登る。休みが続いてしまったので、久しぶりの感触になった。うまくなじめるかなあといつになく、稽古参加率がよくないので、心配してしまう。心配をよそにがんがん取り組んだ。受身を取ることはやはり、いつまでも必要なことだと思う。受けの感覚を養いたい。心と身体の使い方をうまくなりたい。

11月11日(水)

 近年では本日11月11日の日をポッキーの日を言うらしい。発売以来何年になるのか知らないが、ポッキーというお菓子がひとつの記念日扱いされるまでに成長しているのは、すごいことである。消え去るお菓子があるなかで大きな健闘である。「ポッキー」といえばそれが誰でもわかるようなくらいまで、知名度があるくらいなのは、ほんとうにすごい。かと言って、わたしは久しくそれを買った覚えはないのだけれど。

11月10日(火)

 低気圧のため雨が降る。それも急激な雨だ。こんなふうに雨が降るとき、急激な頭痛がわたしを襲う。それも身動きが取れないくらいに。鎮痛剤を飲めば、痛みはいくらか和らぐのだろうが、飲むその動作すら頭痛で制約されてしまう。かつて数百回いや千回に至るのかもしれないが、経験してきた偏頭痛とはどこか違う。

11月9日(月)

 少しずつだが前に進むというのはいいものである。毎週講義を行っているが、だんだんと前に進行してきた。少しずつ、形を成してきた。
新型インフルエンザはたしかに流行っているようで、前回の欠席はインフルエンザだったという理由を示した用紙を何名かの学生たちは持参する。学校全体が休講となることはないが、このような小規模の大学でさえも、各地において時間差でインフルエンザは猛威を振るっているようだなのだ。

11月8日(日)

 京都国際マンガミュージアムにて、養老孟司×内田樹対談「世界に冠する日本マンガ」が開催される。珍しく、そして久しぶりに京都まで出向いて、それを聞きにいく。マンガの話はあまり出ず、対談の内容は、ほぼ近日発売予定の内田先生の『日本辺境論』の話が主であった。
 対談後は府庁まで歩き、「府庁界隈まちかどミュージアム」なるものを観る。予測どおり、秋の京都は、どこを歩いてもやたらと人が多い。しかし、夕方の府庁近辺だけは人が少なかった。京都御所近辺ともいえる。
それにしても季節問わず、なぜかいつも京都市内で道に迷ってしまうのは、なぜだろう。

11月7日(土)

 どんよりした空気。どんよりした気持ち。よくないなあ。

11月6日(金)

ふと見えた、天王寺MIOの“MIO”って、いったいどういう意味があるのだろうと思う。

11月5日(木)

ナカノシマ大学にて「手塚治虫に学ぶ“生きること、死ぬこと”」を聞く。講師は作家で医師の久坂部羊さん。手塚治虫の同門の後輩という立場から、医療について、死について、生きることについて語られる。手塚治虫の『ブラック・ジャック』に出てくる場面のなかから推論できる話もうかがえた。今回のものは、てっきり久坂部さんがひとりで語られるのかと思っていたら、いつの間にか対談形式になっていた。それが少し残念だった。なぜなら久坂部さんひとりのほうが、さらにたくさん話を聞けたと思うからだ。久坂部さんは声も、ことばも運びがいいし。充実した時間であった。

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