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2006年12月 アーカイブ

2006年12月 4日

生まれて初めてが多い日々

12月3日(日)

 近鉄花園ラグビー場まで、ラグビーを見に行く。
 昼前に待ち合わせ場所で内田先生、Sさんと合流し、めざすは花園ラグビー場。
先週のアメフトに引き続き、これまた生まれて初めてのラグビー観戦。実は先日から「ラグビーを見たいな~」とずっと思っていた。すると、ふとしたことで見せていただく機会を得たのである。やっぱり神様っているのですね!的な悦びと、本日会った方全ての方との不思議かつさまざまなご縁に感謝して、ありがたく観戦させていただく(平尾さん、チケット頂きましてありがとうございました。涙出そうでした)。
観戦するのは、「ジャパンラグビー トップリーグ2-006-2007《第8節》」のうち、ワールドファイティングブル対神戸製鋼コベルコスティーラーズの試合。スティーラーズが、あの平尾さん所属のチームだ(もちろん応援しに来たのはこっちのチーム)。
会場入口で、まずは内田先生に伴って平尾さんにご挨拶。残念ながら、平尾さんはまだ試合には出られない状況であるらしく、今日はビデオ撮影係とか。ここで本日の観戦仲間のEさんと合流できるはずだったがうまくいかず、別の席で観戦することに。
座席に移動。前半後半ともに、スティーラーズのチーム内のパスが乗るまで、やや緊張感のようなものが見え隠れしないでもなかった。前半中盤のスティーラーズ先取点によって、グラウンドが暖まってきた。相手方のワールドによる際どいパスもいくつかあったり、冷や冷やの場面があったりしたが、結果12対29。ともあれスティーラーズの勝利であった。
 表で見る試合は実に寒い。どこかラグビーは実に面白い。また見たい。そんな印象を持った。うーん、ほんとうにおもしろい。じわ~っと今頃、なにかはわからず、そう思う。言葉にできないのだが言葉にしたいようなしたくないような。やっぱりできないような。そんな気分で歩く帰り道。


12月2日(土)

 夕刻は吉例ゴルゴンゾーラの会。
 今宵の会場は、肥後橋はピッツェリア・ラ・ポルタ。最寄駅に着くなり、どうもこの辺りの様子には見覚えがあるぞと思ったら、「デイリースポーツビル」の前でした。(大阪の地図がほとんど同じに見えて仕方ないのです。おまけに滅多に大阪に出ないので、さらによくわからない)。
 会の名称にちなんだ料理には、今回「ピッツァ」が選らばれました。えらくボリュームたっぷりで、おいしかったです。
 会員各氏からの驚き!おもしろ報告もあり、話題盛りだくさんで何よりでした。


12月1日(金)

 毎月1日は映画の日であり、今月は特にアクトアゲインストエイズの日。
 戦うわけではないが、夕刻はミュージカル「RENT」を観にいった。
 ミュージカルは英語上演で、日本語字幕スーパー付きだったが、歌を聴いている分には、字幕を追わない方が観賞しやすかった。
 さわりの音楽が実に心地いい。ミュージカルそのものもおもしろい。
 最近では映画化もされ、早くもDVDになっている。予習に見ていたそれのおかげで、随分とストーリーも追いやすかった。
アメリカという国の抱える問題の断片を見たような気がした。アメリカという社会の奥底は結構浅く広いのか。それとも深く根ざした奥底に、見えない何かがあるようで何もなかったりするのだろうか。


11月30日(木)

 念願の村上春樹訳の『グレート・ギャッツビー』を買った。まずは訳者の「あとがき」から読んでしまう。


11月29日(水)

 今日食べたらよかった。ちりとり鍋。だって今日こそ、いい肉の日。


11月28日(火)

 心斎橋に出た。またもや人生初に出会う。
今回は「ちりとり鍋」。(数日前にスーさんも召し上がったらしいからご存知の方も多いだろう)。ここのところ、初めてのものに出会うことが多い。もちろん今日一緒に行ったメンバーだって、一緒に食事したのは初めてだ。だから、取りようによっては、初めてものということにもなろう。場所は「まつりや」焼肉鉄板焼。(年中無休、午後6時~ミッドナイトまで営業)。

ちりとり鍋に使う鍋は、ほんとうにあの「ちりとり」を思わせた。掃除用に使う「ちりとり」と違うところがあるとすれば、それは塵を出し入れする出入口がないことだった。掃除に使うちりとり本来の用途は、塵を集めて多くをいっぺんに運び、捨てることである。食べ物を扱う鍋に使うものには、そのような出入口は必要ないので、出入口はなかった。だから鉄でできた薄い鉄板は、ほぼ真四角の正方形になっており、向かい合う二辺の真ん中には、細い取手が付いていた。真四角の鉄板の底板から約45度の角度をつけて、三センチほどの鉄板が囲む。そんな鍋のような鉄板のようなものだった。
食べ方は結構ざっくばらんだった。鉄板のような鍋のような容器の上で、その店自慢の甘辛ゴマダレを煮立たせる。煮立って来るか来ないか野タイミングで、牛や野菜をぶち込んで焼く。それだけだった。実際には「焼く」と「煮る」の中間といったふうで、まさに「鍋と鉄板焼きのあいのこ」のようなものらしかった。最初に頂くのはレバーと相場が決まっているらしく、「ナマでもいけます」ということだった。そのうちミノ、ウテナなどをもりもりと頂くようになった。発祥は大阪平野という辺り。おいしい食べ方は広まるそうで、いまではこれ以外の地域にもあると聞いた。初めて聞いた鍋の由来や裏ネタもなかなかおもしろかった。〆のうどんは「難波のカルボナーラ」。もちろん卵を絡めるのがお決まりとか。大阪は食べものがおいしい。そして人も熱い。


11月27日(月)

 さあてと、月曜日だね。がんばろー、一週間。


11月26日(日)

 生まれて初めて(だと思う)アメリカンフットボール観戦。
 高校生のときに一度だけ見たような気もするが、なにせ異国の地でのことだったので、遠い記憶と映像しかない。いや、試合そのものに騒ぎ捲った記憶はある。だが、それがフットボールだったのかどうか、いまとなっては、たしかな記憶はどこにもない。覚えているのは雨だったことくらいだ。鞄に詰め込んでいた文庫本(ゲーテだったと思う)が、雨に濡れてくしゃくしゃになってしまったからだ。くしゃくしゃになった文庫本は乾かすと紙が膨張して本来の厚さの倍くらいになり、とても読めたものではなかった。だから、わたしはそのときに限って、ゲーテよりも深く悩んでいたような気もする。

昼過ぎ、小雨の降るなか神戸ユニバー競技場へ。既に陣取って頂いた席には、浜松スーさん本日エスコート役のゑびす屋さんが待っておられる。カンキチくんも座っている。
試合は関西学生アメリカンフットボールリーグの決勝戦。出場校は、関西学院大学ファイターズ対立命館大学パンサーズである。どちらも実力は五分五分らしい。だが、ファイターズはここ4年間、決勝戦でいつもパンサーズから勝利を逃していた。だから最近では、「所属する学生は誰も甲子園ボウルに行ったことがない」というようなチームになっていた。それでかどうか、決勝戦まで行くものの、勝ったことがないファイターズは、勝った感触あるいは決勝戦で勝つことに慣れていないふうであった。「宿敵パンサーズに勝利する」という思いが強くなるに連れ、その思いとは裏腹に、うまくいかないファイターズだ。その点パンサーズはこなれていた。試合のみならず、審判への気配りなど、何をおいても、随分器用にこなしていたように見える。それがいいとか悪いという問題ではない。ちょっとした気配り的な行動が、ややもすると試合の進行具合に関わっているような気がした。おかげで、ちょっと不器用で気が利かないようなふうに見えるファイターズが、気が気でなかった。まるで第一子と第二子の子どもの特徴をうまく示しているような、そんな試合にも見えた(あくまで素人目だが)。
 それはさておき、実はこれまで一度もアメフトを見たことがないので、当然のようにルールもよく知らなかった。それを知ってか知らずか、キックオフ早々、ゑびす屋さんが、懇切丁寧な解説をしてくださった。それがすごくわかりやすくて、ありがたかった。やっぱり物事は何でも知っているひとに聴くのが一番だ。おかげでハーフタイムの頃には、なんとか試合の流れだけは抑えることができるようになっていた。ファイターズのスクールカラーを基調にしたブルーのハリセンを手に、やんややんやと応援した(だってお隣だし。何かとご縁があるし)。
試合は後半ややもつれたかに見えたが、なんとか5年ぶりに勝った!おめでとー。目指すは甲子園ボウルでの勝利だ。がんばれー。
 勝利の女神は「青」に微笑み、我々は祝杯のビールを手に熱く笑った。


11月25日(土)

合気道の稽古の仕方や受け方についての語りを聞く。聞いているうち、いろいろなヒントを得た。それはちょうど、木曜の多田先生のご説明にあった部分と引っかかるようなところが、いくつかあったからである。それはまた、ちょうど内田先生からお聞きしたこととも重なることがいくつもあった。どれもみな違う言い方なのだが、言っていること、つまり求めていることは同じような気がした。内田先生という先生に出会うことができて、ほんとうによかったと思う。先日の先生の祝辞ではないが、ほんとうにそう思うのだ。


11月24日(金)

 一夜明けて金曜日。夜風が急に冷たくなった。本格的な冬である。ちょっと分厚めのコートがいりそうだ。ああ、コート欲しいな。


11月23日(祝)

 自由が丘道場45周年記念稽古会と祝賀会がある。新幹線で東京へ。
 多田先生の稽古会を受けて、その後ぞろぞろと祝意会へ。合気道の仲間に会えるのは、非常に愉快である。東京での夢のようなひとときだ。
祝賀会のあとそのまま投宿して、ひとときの東京滞在を楽しむこともひとつの時間として可能だったかもしれない。だが、居座ると、もう戻れなくなりそうだったから、後ろ髪を引かれつつ、ゆりさま@自由が丘道場に見送られながら、祝賀会会場をあとにした。

2006年12月18日

ラグビー好きになりました

12月16日(土)

 「武術的立場」(であってますか?)と題された朝カル対談第三回目。
聞き手内田先生対談の最終回のゲストは、神戸製鋼コベルコスティーラーズの平尾剛さん。
 先日の試合観戦以来、「ラグビーは好きなスポーツ」と公言して憚らないことに決めたわたしは、今回の対談をとても楽しみにしていた。とはいえラグビー好きは、先日の観戦以来のこと。まだ直感的なことが多く、どこかラグビーは魅力的だとくらいしか言えないのだけれど。
さて、そもそものラグビーを教えてくださり、毎日新聞紙上で隔週「身体観測」連載中の平尾さん。日々の言葉遣いやラグビーへの言葉遣いに興味があった。身体に起こる出来事やチームとしての動き、身体に起こる感受性など、ある意味誰もが持ちうる言葉で語られる。そういう立ち位置を選ばれた平尾さんに、以前からとても興味があった。

対談会場に到着。対談前の控室には、既に先生方がみえているのでご挨拶。そのうち続々といつもの視聴メンバーのみなさんが登場される。
対談では、内田先生の「ラグビー近代帝国主義論」がピカイチにおもしろかった。なるほど、ラグビーはそういうわけだったのか。「すごい」と唸ってしまった。それに噛み合わせるかたちで、言葉と身体で語る立場を背負っている(いく)強さが見え隠れした平尾さん。実にうらやましかった。わたしもそうなりたいと思う憧れの方だ。

 ひとは言葉を使う。でも、言葉を使って何かを語るのは難しい。それは語彙という意味でも、語り口という意味でも、語る場所という意味でも。いまのわたしに何らかのもどかしさがあるとすれば、その語彙が足らないこと、もちろんそれもあるが、それよりもむしろ語るべき目的があまりにはっきりしていないことだろう。専門にする事柄が専門に達していないので、何度も暗中模索するのだ。でも何かを語りたい衝動に駆られる。気分ばかりで前に進めない。これはもどかしい。辛いし身体にも悪い。語りたいには違いない。

 思いのたけは、身体の外に出そう。だから書こう。いったいぜんたい今日の、何がわたしにそう思わせたのか、経路のほどは定かでない。定かでない経路を辿るより、わたしは、生きていくために必要な「そのとき」が来たのだと感じている。だから、わたしの顔は緩み、微笑を得たのだと思っている。それは、この前急に村上春樹の作品が読みたくなって、数年ぶりに読み返しているのと同じように。ある日突然、何でもないことが、何でもあることのように変わることがある。今日は今日で触発されてばかりだ。触発されるひとに出会うと生きていてよかったと思う。ほんとうにそういうご縁に心から感謝して。


12月15日(金)

 年末恒例夜通しパーティの日。
ことしは、Tシャツを作って指揮をした。多少オーケストラチックに厳かに。


12月14日(木)

 歳末恒例討ち入りの日。赤穂浪士を思い出した。


12月13日(水)

 喉の痛みは尋常ではないね。こりゃ。


12月12日(火)

 呑みのお誘いがあるのに、呑みに行けないのは、何とも辛い。


12月11日(月)

 またもや葛根湯と風邪薬に世話になる日。


12月10(日)

 夕べの客が帰ったので、布団を干したり、部屋を片付けたりしているうちに、一日が終わる。


12月9日(土)

 師範不在のため、代稽古をさせていただいた。
 「おもしろかったです」という声をかけていただき、うれしかった。これからも、精進して行こうと思う。
 それにしても、先生~。


12月8日(金)

 葛根湯と風邪薬に世話になる日々。

12月7日(木)

 すごーい雨です。


12月6日(水)

 特訓。もちろん中の舞のです。


12月5日(火)

 遂に12月になってきましたね。


12月4日(月)

・ 中の舞がうまくできない。覚えが悪いので仕方ないが、悪いにも限度がある(と自分を律する)。
・ どうやったらうまく覚えられるだろう。なんかぶきっちょだ。
・ というものの悩むより先に稽古。(ま、がんばろ)と自分を励ます。
・ 「特訓です」という先生の言葉をきちんとお聞きする。

2006年12月25日

春吹きし 憂し雨期は降る 穴葎

12月20日(水)

 朝は大学で礼拝に参列。この時期になると、礼拝も単なるお説教的なものだけでなく、「学科別クリスマス礼拝」という枠組で、各学科趣向を凝らすのがこの大学での慣わしとなっているようだ。われらが総文は毎年音楽隊を結成。今回もまたその一員として参加させてもらう機会を得た。とてもよい機会に恵まれている。出番はことしもオススメのアルトリコーダー。

 アルトリコーダーを初めて手にしたのは小学生のときだ。いやあ、思い出すなあ。と言っても、思い出すのはリコーダーを吹くのとほぼ同時に学んだ「リコーダーのことを笛と呼ぶな」というもの。理由は実はいまでもよく知らないし、結局誰からもきちんと聞かされた記憶がないまま小学校を卒業したのだけれど、なぜかそんなことを言われた。子どもの頃から面倒臭がり(かもしれない)わたしは、わざわざ叱られるような真似をしてまで、その理由を探求しようともしなかった。ただ単に、探求するほどの興味が湧く理由でもなかったのが、ほんとうのところかもしれないが。

 さて、総文音楽隊の礼拝は教職員学生有志で結成される。隊長のチャプレンお導き(ヘッドハンティングとも言う)の下、メンバーが集う。誰が出るとはまったく決まっていない。単なる偶然であり単なる必然である。また予め楽器が決まっていて、それを演奏できるひとが選ばれるわけでもない。何かできそうなひとが寄り集まって結果、楽隊が形成される。楽器がひとを選ぶのではなく、ひとが楽器を選ぶのである(おお、マルクス的)。
 ひとが変わるということは、その分、編成隊の音も様相もさまざまに繰り広げられる。これは実におもしろい。これまで見てきたなかには、リコーダー合奏もあれば、一台のヴァイオリンを中心にほかの楽器が盛り上げるというのもあった。クラリネット、オーボエといった木管楽器がぞろりと並ぶこともあった。ソプラノリコーダーが主流になって音を奏でる時代もあった。ことしは、かなりオーケストラチックだった。オルガンが消え、コントラバスとヴァイオリンの台数が増えた。フルートも多い。かなり管弦楽団的だとも言える。しかし、いつの時代もアルトリコーダーはひとつしかない。不思議なことに。

 この礼拝に参加するといつも思うのは、一年を振り返るよき機会を得ているということである。「またここにいられるんだなあ」といったしみじみとした感謝とともに、静かに祈りを捧げることができる。一年をとおして、自分がどのように変わり、どのように進んできたのかを感じるよきときだ。また、ここで顔をあわせられる人と出会えてよかったと思えるよき時間だ。礼拝自体は実に短い。だが、そんな一瞬を大切にしたいと思わせる時間だ。こんなふうに凝縮した時間と場所は現代ではあまり多くないのではなかろうか。いくら建物が荘厳であろうと、講堂が立派であろうと、礼拝堂が美しかろうと、クリスマス気分に浮かれようと、しみじみと祈りを捧げられる場所はあまりない。熱心なキリスト信者どころか仏教者であるにもかかわらず、生かしてくださっている神に、わたしは、感謝の祈りを御前に捧げる。
楽隊への参加は、大学生のときにふとしたご縁をいただいてから、ことしで9回目を数えた。さて、来年はどうなるだろうか。どんなふうに変わっているのか、どんなふうに感じる自分がいるのか、また楽しみである。

 午後からは甲野先生の講演会、実技講習会。わくわくしながら玄関を飛び出した今朝からそわそわしている。昼も過ぎると次第に待ちきれなくなり、こっそり到着時間に合わせて♪ま・ち・ぶ・せ♪(まちぶせ中、「チームまちぶせ隊」の先生や職員の方の、実に興味深い履歴をうかがう)。

 1時20分に講義開始。「5分遅刻ですね」と言うのが教壇に立たれた甲野先生の最初のおことば。先生の、その姿を間近で見ようと、一番前の席からすこし後ろに座り、じっくり拝聴する。座るのは最前列よりすこしだけ後ろというのがいい。だいたいのどんな講義であっても、そのくらいの場所が見やすくて聞きやすい場所なのだ。

 甲野先生のお話に出てくる身体の構想から構造、仕組み、発想についての視点に思わずうなずいてしまう。お聞きするだけで、なんとなーっく消化しきれずなので、パッキングされてしておく。いろんな話題が、おせち料理というか予測もつかないオードブルの皿に出てくる食材のように、次から次へと溢れかえっている。とりあえず消化することを目的とせず、保存しておこう。自身がうまく消化するに至らないときは、ちょっと冷凍保存もいい。
講習会での話は、聞いているだけでは勿体無くて、すぐさま身体を動かして、何かを試してみたくなる。聞いているのと、動いているのとでは、同じ話であっても印象がまるで違う。うううううー。早く実技の講習会にならんかねー。
 
 そう思った矢先「ちょっと」と甲野先生から教壇での実演に呼んでいただく。あれこれ体験させていただいて感じたのは、すごく身近なわかりやすいことばで先生が語ってくださること。重みがずしーっとやってきた。
 点を繋げると一線になるし、円にもなる。事実、点を繋げたものが我々人間の目には、線と見えているという。点を繋げた線のような重みが、ふと気づくとずっしりと身体の奥底に響いてくる。決して途切れることはないし、いつ始まるのかもわからないまま急に重みがやってくる。でも、重みというのはいやなものではなく、気づくと頭には「?」でしかない。おそらく身体は「???」くらいだろうか。
それらは、甲野先生の比喩では、「バカ社長」(頭)と「でしゃばり新入社員」(手先)で示された。身体の動きを一箇所に集めて行うのではなく、全身を使って行うことを体験させていただいた。細かく、微細に、微妙に使う。細かな仕事をするように。身体には、「有能で堅実な社員」(腰、胴、胸、腹、足などなど)もいるのだから、昨日今日入ったばかりの「新入社員」に任せておかず全部使うべし。細かく使うべしということだった(←自身のメモ書きはこの流れを記述)。

 実技講習会で甲野先生は、身体のなかのあらゆる力や部分を文字通り、「宝の持ち腐れ」とならないよう、細かく全体で動くとおっしゃった。しかしそれを、身体のなかの部分を取り上げて、誰にでもわかるかたちや仕方で見せるといった説明や具体性を示すことはできない。なぜなら、いつ、どこで、どのように、なぜ、何が、どうなって、こうなって、そうなって、あっちやこっちへ行っているのか、動いているのか、感じているのか、それはわからないからだ。気づいたらできている。「こう」と思った瞬間に終わっているというような、実に細かい事柄なのだ。(私自身のことばなので、理解し損ねている間違っているかもしれないが)おそらく見える共通項としては密度の問題なのだろうかと思う。いま、わたしが強く興味を持っている方面の出来事とちょっと繋がりそうである。

 ほんとうによい機会に恵まれた。身体をことばで考えていこうと思う。それ以外にも、 今日の出会いはまた格別だった。おもしろかった。本日のすべての出会いに感謝。感謝できる身にもまた感謝。
甲野先生、ありがとうございました。これからも楽しみです。
 内田先生、ほんとうにありがとうございます。先生の弟子でほんとうによかったです。


12月19日(火)

 久しぶりに自由な午前中。いつもなら道場に稽古に行く。ところが今年に限っては、年末に畳張替えがあり、利用施設が使えなくなった。残念である。それでも風邪ひく身体にとっては、これが随分ありがたい休養となった。


12月18日(月)

 風邪が流行っているらしい。今回の風邪の初期症状は、ここ十年くらいのうちでかなり広範囲で勢力を拡大して蔓延しているノロウィルスと、たいへんよく似ていると聞く。似ている症状のひとつに「胃腸あたりの無体な異常」があるそうだ。だが、そのようなはみられない。どうやら風邪のようだ。これで安心してよいものかどうかはわからぬ。わからぬが、先週からゆらゆらと続く喉の痛みがピークに達していく。さらに鼻水が出る。喉が痛い、鼻水が出るとくれば、おそらくこれは風邪だろう。

早速買い付けていた風邪薬を大量に胃に放り込む。買い付けている辺りが昨年の学習である。葛根湯も飲む。生姜湯も飲む。薬のせいか、気のせいか、次第に喉の痛みは和らぎ、緩やかになっていく。その次の鼻。症状は一気に鼻へと来たもんだ。

ああああ~、洟が出る出る、洟が出る(っべべっべん)。
じゅるじゅる。ずるるるるるー(きたないなあー)。【即興洟歌ソング】

しかし、よくもまあこれほどまでに生産されるものである。鼻水の成分はなんであろうか。洟をかんだときにはいつも思う。いつも思うのだが、それは大概意識が朦朧としているか、急いでいるかのどちらかのときなので、充分考えるゆとりがないまま、鼻水は世の中のごみと消えていく。
 
今日は早めに失礼させていただこうと思う。思いはしたが、そうは問屋が卸さぬもので、人生は意外なところで、意外なところで喜びと繋がっている。


12月17日(日)

 なぜ朝日新聞を購読しているのかについて、少し考えた。
こんなところに書くのもなんだが、実家はわりに節操のない家なのか勧誘を断らない主義だったのか知らないが、わりにいろんな新聞を購読していた。基本的には朝日新聞ベースだったと思うが、読売はもちろん毎日、神戸、日経を手にしたことがある。日曜版だけだが赤旗新聞まで購読していた(産経だけは読んだことがない)。数年ごとに新聞が変わり、ときには別の新聞社のものが重複していた時期もある。さらに最近知ったのだが、週に何日かだけスポーツ新聞もサービスしてもらっているらしい。さぞかし月間古新聞量の多い家だろうと想像する。

 さて、なぜに朝日新聞かその訳を考えてみる。すると、少しだけわかったことがある。
 木曜の夕刊に「三谷幸喜のありふれた生活」というエッセイが連載されているからだ。このエッセイをすぐさま読みたくて購読している。かつては金曜夕刊掲載だったが、いつからか木曜に変わった。
タイトルの示すとおり、ここには脚本家三谷さんの「ありふれた生活」がおもしろおかしく書かれている。挿絵はイラストレーターの和田誠さん。これも大好きなのだ。エッセイは、先日の12月14日の木曜日付けで314回を数えている。書き連ねられたエッセイは、もちろん単行本化され、『三谷幸喜のありふれた生活』『三谷幸喜のありふれた生活2-怒涛の厄年』『三谷幸喜のありふれた生活3-大河な日日』『三谷幸喜のありふれた生活4-冷や汗の向こう側』『三谷幸喜のありふれた生活5-有頂天時代』(いずれも朝日新聞社刊)と題されて世に出ている。だったら、その単行本を買えばいいじゃないかということになろう。だが、当たり前だが、単行本というのは、いくらかの分量にならないと出版されない。一年くらい経ってようやく読めるくらいの量になる。ファンとしては、そんなになるまで待てないのである。
また、エッセイはリアルタイムに書かれているものが多い。どういう具合に映画の段取りが進んでいるとか、誰のパーティに呼ばれたとか、舞台上でのハプニング、裏方のちょっとした出来事、飼い猫の日常などが題材になっている。だから、それが書かれた時間に近い頃に読まなくてはあまり意味がない。後から読んでもたぶん話がわかりにくい。なかにはほんとに瞬間ならぬ旬の時間に読まなければ、ちょっと笑えない話もある。というのが読む側のひとつの楽しみ方であり、読む側の言い分なのである。

 年に一度開催される手塚治虫文化賞の主催新聞社だからというのが、購読のもうひとつの大きな理由である。文化賞の経過や報告について、見開き紙面でたっぷりに書かれているのはここだけである。だから、見逃すわけにもいかない。その後どうなっていくのかもまた細かな記事とはいえ、追うことができる。でも、落ち着いて考えると、文化賞の開催発表時期は大体決まっている。エッセイの連載日時もいまでは木曜日の夕刊と知れている。
そう考えると、ほとんどどれを読んでもいいような気がしてきた。必要な時期だけ必要なものを買うのもいいし、夕刊のみ購読(夕刊購読って、そんなことできるのだろうか?)などはできないものだろうか。ちょっと考えてみようかな。


ところで話は戻るが、314回目の三谷幸喜エッセイには「アナグラム」について書かれていた。先日捻挫をした三谷氏(そう、捻挫したんですよ、この方。話せば長いので理由は割愛)は、「捻挫をしたときはできるだけじっとしていなきゃダメ」と平野レミ氏(料理研究家:和田誠の妻)に言われる。その言いつけを守り、どうしてもの予定以外はできるだけ外出せず、家で安静にしているときの話。エッセイのイラストを書いている和田誠氏(イラストレーター:平野レミの夫)の新刊『ことばの波止場』が出たので、それを読んでいたときのこと。和田氏の本に「アナグラム」について触れる箇所があった。捻挫の安静で暇を持て余していた三谷氏は、これ幸いとそこに出てくることばを使ってまた別のアナグラムを作る。例えば和田氏が使った「黒柳徹子」は「納屋ロッテ小菊」。三谷氏はこれを「つなぎ家てこ六」としたというような具合。自身の「ミタニコウキ」という名前は、子どもの頃既に「海に来た子」という具合に考えたということだから、やっぱり言葉を使う人だったんだと改めて思う。

「自分の名前でアナグラム」というのは、わたしはこれまで一度もしたことがなかった。ちょっとおもしろそうなので試しにやってみた。これが意外に難しい。というか興味深い。
本名は「フルハシウキ」。なので、まずは「着古しは鵜」という訳のわからないのができた。これは鵜(鳥の名前ですね)の羽でできた上着を大分着古してしまったという意味合い。でもちょっとセンスがない。次に浮かんだのは、「指揮はウルフ」。最近指揮することがあったので、そのせいだろう。「指揮をしたのは実は人でなく狼だった」というような、これまたとてつもなく落ちのない話し。「指揮」を「四季」としてもよい。「季節は狼なんだね」ということになる。しかしよく見ると、これらふたつは、「は」を本来の“HA”ではなく“WA”で発音してしまっている。この辺り、ちょっと正当なラインから外れているのでよくない。
その次にできたのは「春、牛寄附」。春になったので、牛をどこかに寄附してあげようというもの。牛が牧場から、新たにまたどこか別の場所に送られていくさまは、ちょっと物悲しい。でもこれまた、いまいち。それに読点を入れなければ読み辛いアナグラムというのもよろしくない。
次は「ハウル敷布」。映画『ハウルの動く城』の敷布があったんですよ。ほら、そこに。敷布には、でかでかとハウルの顔が描かれている。だからハウル敷布。でも「ハウル」という名前が、いったいどこまで世間に知れ渡っているのか、際どいところである(これをもじって、「ハウル氏、寄附」というのもある。だが、前出のものと同様の理由で却下。それにハウルというひとのヤミ献金みたいだし~)。
さらに「走る風紀」。これはまずまず。「は」を“HA”で発音し、読点もないという点はクリア。意味は、風紀を乱さない模範的な人物というようなもの。四角四面な風紀委員を思い出す。ま、「歩く辞書」とか「生き字引」みたいな感じで理解できるとよいでしょう。
そうこうするうち、とっておきのひとつが出た。「春樹諷刺」。「春樹」というのは、もちろん敬愛する村上春樹氏の「春樹」である。世界のハルキですから、ハウルよりも浸透性が高い。(ムラカミ)ハルキの諷刺するものという意味。これまでのなかでは、一番かっこよく見える。ということで、気分がいいのでこれにします。「春樹諷刺」。それも「ふうし」の「ふう」は「風」ではなく「ごんべん」つきです。かっこいいでしょ?

2006年12月31日

ウッキーからのご挨拶

12月29日(金)

 午前中、三宅先生のところで年内最後の診療受ける。なかなかに、あれこれ身体がゆがんでいるらしい。来年に持ち越しそれもよし。ことしも一年ありがとうございました。
診療所内の待合室で座っていると、内田先生が見える。「あれ?君も?」と言われたので、「えへへ」とご挨拶。先日、同じタイミングに同じ場所という話を聞いたばかりで、なにやら不思議な気分。うーむ。
 午後は三宮に出て所用。街はもう年末から年始への切り替えに精を出している。早くも見える「謹賀新年」の文字。クリスマスが終われば、すぐさま正月に切り替え。切り替えがよいのは未練がましくなくっていいけれど、なんというか節操がない。いや忙しない。いまさらだけど、日本の年始年末はまさに「宗教戦線異状なし」に見えて仕方ない(別に誰も戦ってないけど)。
 所用ののち、ようやく仕事納め。仕事と言っても本業ではなくかなりの割合で副業。
 やっと来年の買ったスケジュール帳に予定を書き込む。来年の新たなる目標を書き込んだ。いくつかの目標を達成しようと決意する。


 この拙文ブログをお読みいただきましたみなさま、ことしもお世話になりました。お読みいただきまして感謝しております。どなたさまも、どうぞよいお年をお迎えください。ではまた来年。


12月28日(木)

 気の早い友人からもう年賀状が届いた。友人は遠方に住むため、すぐに会いに行くこともできない。ゆえに、この時期に年賀状が届くのも良かろう。しかしそれにしてもちょっと早くはないか?たしかに年賀状は、年始の挨拶ができないような遠方に住んでいるものが、新年の挨拶に代わる挨拶状として送るのが始まりだと聞く。とはいうものの、それを先取りして何となろう。年賀状のペースに取って代わられた現代人の空しさよ、いや慌しさよ。
日本では奈良時代(平安時代とも言われる)から明治時代に入るまで、正月1日から15日までに年始の挨拶に行く習慣があったそうだ。旧年中にお世話になった方々に、新年を祝うことばを添えて挨拶するというものである。現代でも「年始回り」ということばが残っているように、いまでも会社や親類縁者、お世話になった方々などに、実際に新年の挨拶をして回る(このような習慣は、もしかしたら年々簡略化されているかもしれないが、失ってはいないだろう)。この年始回りが時代と共に新年の祝いの書状に代わっていく。1月2日の書き初めの日に新年のことばをしたため、それを送るようになった。明治6年に郵便葉書が発行されてからのちは、はがきで年賀状を送る習慣が急激に広まる。だとすれば元来は1月1日に年賀状を書くべきかもしれない。だが、それでは年始の挨拶が元旦にできない(届かない)。年賀状をその日に書いてその日に届くのは、無理がある。いくら近代文明が発達した今日とはいえ、それはまだ難しいことのようである。
 それにしても。
件の気の早い友人には、はがきを出すのをすっかり忘れていた。すまない。


12月27日(水)

 まだまだ暖かい冬である。気持ちも穏やかである。
ふと思う。「失恋した女性は髪を切る」と聞くが、ならば「恋をする女性は髪を伸ばす」のだろうか。ふとそんなことを思う冬の散歩道。


12月26日(火)

 年賀状を書く。こんなに早くできたのは久しぶりだ。何年ぶりだ?
今回は友人用、お世話になっている方用、そのほか用と三種類作成。作業時間はおよそ1時間(構成含む)。その後コメントと宛名書き等々で5時間。やれやれ。これでも毎年投函枚数を減らしているというのになんたることか。


12月25日(月)
 
 朝から仕舞の特訓。これで今月三回目。ようやく最後までの道順がわかったうえで、今度は「舞う」振りのようなものができるようになった中の舞。出来不出来というよりも、道順が大事。その次は即座に舞うことが大事。それも結構美しく。そして仕舞は「班女」。いわゆる女舞だ。これがかなり難しい。それも狂乱した「花子」ときたものだから、普通以上に狂わなければならない。狂いながら舞わなければならない。舞は役柄としての性別分担が実にはっきりしている。扇の扱いも丁寧に。っと。

とーっても天気がよくて気持ちのよい空。これほどまでに心地のよい空を見るのは久しぶりだ。あまりに心地がいいので、何をしてもうまく出来そうな気がする(実際いろんなことがうまくいった日だった)。やっぱりサンタクロースはいる。

現実のことじゃないと知りつつ、『のだめカンタービレ』を観てまた涙。毎回あんなに泣けるコメディも、あんなに笑えるコメディもない。もちろん泣くのはいつも感動の場面。わーん。


12月24日(日)

 クリスマスもイブだ。雅刀も伊武だ。


12月23日(土)

 朝から仕舞の特訓。これで今月二回目。もう泣きそうである。泣いても始まらないので歩く。そしてよれよれになって、うちに戻る。
 戻って昼から気を取り直して合気道の稽古。今日は稽古納め。あれよあれよという間に道場は一杯。乗車率80パーセント位の車両状態。やや酔いそうなくらい。
 さらに気を取り直して、も一度うちに戻る。夕方から合気道の納会。内田先生のご自宅へと向かう。幸いなことにほぼ一直線のルート選択させてもらえた。おかげで最初のシャンパン、三宅先生のおいしくて、高級で愉快なローストビーフをいただくことができた。美味なり。来年もいいことがありそうだ。
みなさま、本年もありがとうございました。よいお年をお迎えください。


12月22日(金)

 ちょっと疲れて、ちょっと騒いだ。


12月21日(木)

 今週は315回目の「三谷幸喜のありふれた生活」。今回は新文芸坐で観た名画の話。三谷氏が観たいと思っていて、観る機会を逸していた映画二本について。両方ともミステリーのため、ネタばれするようなことは書かれていなかった。さすがである。ただただ「(映画の)タイトルに人数が入っている映画に駄作はない」との三谷持論を展開。『三十六人の刺客』がどうやらそれに当たるのらしい。


 

池袋にある新文芸坐。いわゆる名画座だ。今から二十五年ほど前、まだ文芸坐に「新」の文字が付いていなかった頃、大学生だった僕はよくこの映画館に通った。DVDもなく、レンタルビデオ屋さんも珍しかった時代。古い映画を観るためには、こういった名画座に通うしかなかった。
 ビリー・ワイルダーの特集をオールナイトでやったときのこと。深夜だというのに満員の客席で観た「あなただけ今晩は」。ラスト近く、セーヌ川の中から死んだはずのX卿が自力で這い上がってくる爆笑シーンで、客席から拍手が起こった。ワイルダーファンの僕は自分のことのように嬉しかった(その話をワイルダー本人にしたら、「日本人は変わっている」と仏頂面で答えていたけれど)。
 新文芸坐の六周年記念イベントに参加した。「和田誠が『もう一度観たいのになかなかチャンスがない』と言っている日本映画」。
 僕がトークコーナーのゲストに呼ばれた日は、一九六五年の「死の十字路」(井上梅次監督)と五七年の「三十六人の乗客」(杉江敏男監督)の日本が上映された。
 イベントのタイトル通り、どちらの映画も、こんな機会がなければなかなか観ることの出来ない作品だ。もちろん僕も初めて。
 「死の十字路」は、コロンボや古畑のように犯人側から事件を描く、いわゆる「倒叙ミステリー」。江戸川乱歩原作の、まったく先読みが出来ないクライムストーリーだ。妻を殺害する会社社長役が三国連太郎さん。三十代の三国さんが五十代を老けメークで演じている。僕らはその後の、実際に歳をとった彼の姿を知っているから、なんだか観ていて不思議な感覚に陥った。
 「三十六人の乗客」は昔からタイトルだけは知っていて、どうしても観たかった作品。タイトルに人数が入っている映画に駄作はないというのが僕の持論である。「三人の名付け親」「七人の侍」「オーシャと11人の仲間」「十二人の怒れる男」「十三人の刺客」、どれも傑作。それが三十六人もいるんだから、面白くならないはずがない。しかも物語はほとんど深夜バスの中だという。まさに「限定された空間」好きの僕にとっては、堪えられないシチュエーションではないか。
 ようやく観ることのできた「三十六人の乗客」。こちらもミステリーなので、あまり具体的なことは書けないのだが、想像通り傑作でした。いや、想像以上。犯人捜しのサスペンスあり、コメディー風の味付けあり、そして感動の人間ドラマあり。まさに面白さてんこ盛りの、一大エンターテイメント。確かに今観ると、やや古めかしい部分もあるが、「とにかくお客さんを楽しませるんだ!」という作り手側のポリシーというか執念は、五十年経った今でもまったく古びていない。
 映画は娯楽であるということを、改めて感じさせられる作品だった。やっぱりタイトルに人数が入った作品に駄作はない。
 そんなわけで和田さん、次は「妖刀物語・花の吉原百人斬り」を是非!
2006.12.21(木)「朝日新聞」関西版夕刊

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