12月29日(金)
午前中、三宅先生のところで年内最後の診療受ける。なかなかに、あれこれ身体がゆがんでいるらしい。来年に持ち越しそれもよし。ことしも一年ありがとうございました。
診療所内の待合室で座っていると、内田先生が見える。「あれ?君も?」と言われたので、「えへへ」とご挨拶。先日、同じタイミングに同じ場所という話を聞いたばかりで、なにやら不思議な気分。うーむ。
午後は三宮に出て所用。街はもう年末から年始への切り替えに精を出している。早くも見える「謹賀新年」の文字。クリスマスが終われば、すぐさま正月に切り替え。切り替えがよいのは未練がましくなくっていいけれど、なんというか節操がない。いや忙しない。いまさらだけど、日本の年始年末はまさに「宗教戦線異状なし」に見えて仕方ない(別に誰も戦ってないけど)。
所用ののち、ようやく仕事納め。仕事と言っても本業ではなくかなりの割合で副業。
やっと来年の買ったスケジュール帳に予定を書き込む。来年の新たなる目標を書き込んだ。いくつかの目標を達成しようと決意する。
この拙文ブログをお読みいただきましたみなさま、ことしもお世話になりました。お読みいただきまして感謝しております。どなたさまも、どうぞよいお年をお迎えください。ではまた来年。
12月28日(木)
気の早い友人からもう年賀状が届いた。友人は遠方に住むため、すぐに会いに行くこともできない。ゆえに、この時期に年賀状が届くのも良かろう。しかしそれにしてもちょっと早くはないか?たしかに年賀状は、年始の挨拶ができないような遠方に住んでいるものが、新年の挨拶に代わる挨拶状として送るのが始まりだと聞く。とはいうものの、それを先取りして何となろう。年賀状のペースに取って代わられた現代人の空しさよ、いや慌しさよ。
日本では奈良時代(平安時代とも言われる)から明治時代に入るまで、正月1日から15日までに年始の挨拶に行く習慣があったそうだ。旧年中にお世話になった方々に、新年を祝うことばを添えて挨拶するというものである。現代でも「年始回り」ということばが残っているように、いまでも会社や親類縁者、お世話になった方々などに、実際に新年の挨拶をして回る(このような習慣は、もしかしたら年々簡略化されているかもしれないが、失ってはいないだろう)。この年始回りが時代と共に新年の祝いの書状に代わっていく。1月2日の書き初めの日に新年のことばをしたため、それを送るようになった。明治6年に郵便葉書が発行されてからのちは、はがきで年賀状を送る習慣が急激に広まる。だとすれば元来は1月1日に年賀状を書くべきかもしれない。だが、それでは年始の挨拶が元旦にできない(届かない)。年賀状をその日に書いてその日に届くのは、無理がある。いくら近代文明が発達した今日とはいえ、それはまだ難しいことのようである。
それにしても。
件の気の早い友人には、はがきを出すのをすっかり忘れていた。すまない。
12月27日(水)
まだまだ暖かい冬である。気持ちも穏やかである。
ふと思う。「失恋した女性は髪を切る」と聞くが、ならば「恋をする女性は髪を伸ばす」のだろうか。ふとそんなことを思う冬の散歩道。
12月26日(火)
年賀状を書く。こんなに早くできたのは久しぶりだ。何年ぶりだ?
今回は友人用、お世話になっている方用、そのほか用と三種類作成。作業時間はおよそ1時間(構成含む)。その後コメントと宛名書き等々で5時間。やれやれ。これでも毎年投函枚数を減らしているというのになんたることか。
12月25日(月)
朝から仕舞の特訓。これで今月三回目。ようやく最後までの道順がわかったうえで、今度は「舞う」振りのようなものができるようになった中の舞。出来不出来というよりも、道順が大事。その次は即座に舞うことが大事。それも結構美しく。そして仕舞は「班女」。いわゆる女舞だ。これがかなり難しい。それも狂乱した「花子」ときたものだから、普通以上に狂わなければならない。狂いながら舞わなければならない。舞は役柄としての性別分担が実にはっきりしている。扇の扱いも丁寧に。っと。
とーっても天気がよくて気持ちのよい空。これほどまでに心地のよい空を見るのは久しぶりだ。あまりに心地がいいので、何をしてもうまく出来そうな気がする(実際いろんなことがうまくいった日だった)。やっぱりサンタクロースはいる。
現実のことじゃないと知りつつ、『のだめカンタービレ』を観てまた涙。毎回あんなに泣けるコメディも、あんなに笑えるコメディもない。もちろん泣くのはいつも感動の場面。わーん。
12月24日(日)
クリスマスもイブだ。雅刀も伊武だ。
12月23日(土)
朝から仕舞の特訓。これで今月二回目。もう泣きそうである。泣いても始まらないので歩く。そしてよれよれになって、うちに戻る。
戻って昼から気を取り直して合気道の稽古。今日は稽古納め。あれよあれよという間に道場は一杯。乗車率80パーセント位の車両状態。やや酔いそうなくらい。
さらに気を取り直して、も一度うちに戻る。夕方から合気道の納会。内田先生のご自宅へと向かう。幸いなことにほぼ一直線のルート選択させてもらえた。おかげで最初のシャンパン、三宅先生のおいしくて、高級で愉快なローストビーフをいただくことができた。美味なり。来年もいいことがありそうだ。
みなさま、本年もありがとうございました。よいお年をお迎えください。
12月22日(金)
ちょっと疲れて、ちょっと騒いだ。
12月21日(木)
今週は315回目の「三谷幸喜のありふれた生活」。今回は新文芸坐で観た名画の話。三谷氏が観たいと思っていて、観る機会を逸していた映画二本について。両方ともミステリーのため、ネタばれするようなことは書かれていなかった。さすがである。ただただ「(映画の)タイトルに人数が入っている映画に駄作はない」との三谷持論を展開。『三十六人の刺客』がどうやらそれに当たるのらしい。
池袋にある新文芸坐。いわゆる名画座だ。今から二十五年ほど前、まだ文芸坐に「新」の文字が付いていなかった頃、大学生だった僕はよくこの映画館に通った。DVDもなく、レンタルビデオ屋さんも珍しかった時代。古い映画を観るためには、こういった名画座に通うしかなかった。
ビリー・ワイルダーの特集をオールナイトでやったときのこと。深夜だというのに満員の客席で観た「あなただけ今晩は」。ラスト近く、セーヌ川の中から死んだはずのX卿が自力で這い上がってくる爆笑シーンで、客席から拍手が起こった。ワイルダーファンの僕は自分のことのように嬉しかった(その話をワイルダー本人にしたら、「日本人は変わっている」と仏頂面で答えていたけれど)。
新文芸坐の六周年記念イベントに参加した。「和田誠が『もう一度観たいのになかなかチャンスがない』と言っている日本映画」。
僕がトークコーナーのゲストに呼ばれた日は、一九六五年の「死の十字路」(井上梅次監督)と五七年の「三十六人の乗客」(杉江敏男監督)の日本が上映された。
イベントのタイトル通り、どちらの映画も、こんな機会がなければなかなか観ることの出来ない作品だ。もちろん僕も初めて。
「死の十字路」は、コロンボや古畑のように犯人側から事件を描く、いわゆる「倒叙ミステリー」。江戸川乱歩原作の、まったく先読みが出来ないクライムストーリーだ。妻を殺害する会社社長役が三国連太郎さん。三十代の三国さんが五十代を老けメークで演じている。僕らはその後の、実際に歳をとった彼の姿を知っているから、なんだか観ていて不思議な感覚に陥った。
「三十六人の乗客」は昔からタイトルだけは知っていて、どうしても観たかった作品。タイトルに人数が入っている映画に駄作はないというのが僕の持論である。「三人の名付け親」「七人の侍」「オーシャと11人の仲間」「十二人の怒れる男」「十三人の刺客」、どれも傑作。それが三十六人もいるんだから、面白くならないはずがない。しかも物語はほとんど深夜バスの中だという。まさに「限定された空間」好きの僕にとっては、堪えられないシチュエーションではないか。
ようやく観ることのできた「三十六人の乗客」。こちらもミステリーなので、あまり具体的なことは書けないのだが、想像通り傑作でした。いや、想像以上。犯人捜しのサスペンスあり、コメディー風の味付けあり、そして感動の人間ドラマあり。まさに面白さてんこ盛りの、一大エンターテイメント。確かに今観ると、やや古めかしい部分もあるが、「とにかくお客さんを楽しませるんだ!」という作り手側のポリシーというか執念は、五十年経った今でもまったく古びていない。
映画は娯楽であるということを、改めて感じさせられる作品だった。やっぱりタイトルに人数が入った作品に駄作はない。
そんなわけで和田さん、次は「妖刀物語・花の吉原百人斬り」を是非!
2006.12.21(木)「朝日新聞」関西版夕刊