スーさん、俳句する

5月10日(月)

最近、俳句を作ることにハマっている。
以前にも書いた(http://nagaya.tatsuru.com/susan/2010/01/26_0830.html)が、今年の1月21日から毎日欠かさず一句は作るようにしていて、それがまだ続いている。どころか、最近では一日の生活の中での出来事や見聞きしたことを、どうやって句作につなげていくかというような視点でとらえるようになり、そのための季語(季題)を歳時記の中から探すことが、毎日の何よりの楽しみとなってしまったのである。

どうやら自分には、一度自分で「こうする(しない)」と決意したことはよほどのことがない限り続けていくという習性があるようだ。
「する」方として挙げられるものは、合気道、妻の誕生日旅行、夏休みの城崎行、秋の伊豆行、年末の大阪忘年会など。毎年恒例の行事になっているものばかりだ。部活動で言えば、春の京都遠征、初夏の滋賀遠征、県高校総体応援見学など、これまたそれぞれの時期のお決まりの遠征等である。さらに言えば、ほぼ毎週末の支部定例会。
逆に、「しない」方としては、パチンコ、タバコ、残業(どうしようもない場合を除く)など。特に、タバコはパッチも何も使わずにすっぱりと止めた。今では、タバコの匂いがひどく気になるようになってしまった。
で、「する」方に今度は俳句が加わったということなのである。

1月から作った俳句は、昨日までにちょうど130句。数にしてはたいした数ではないと思うが、自分に課したのは「毎日、違った季題で作る」ということだったから、まあこんなものなのだろう。
俳句のどんなところがおもしろいか。
まず、季題を探す楽しみがある。『歳時記』の頁を繰りながら、「へえ〜こんな季語があったんだ」と発見する楽しみ、そしてその季語を使って句作する楽しみ。
『歳時記」を見ていると、特に植物を知らないことに気付かされる。心のどこかにそんな意識が残っていると、車を運転していたり、道を歩いていたりしても草花が目に止まるようになってくる。「あれ?あの花なんていう花だろう?」と気になってくるのだ。
現在使用している『歳時記』は、角川学芸出版の『合本俳句歳時記(第四版)』である。コンパクトで持ち運びにも便利だし、例句も豊富だ。ただ、いかんせん、植物は名前だけではわからない。そこで、学校の図書館で見つけて「これ写真が豊富でいいなあ」と思っていた、『カラー図説 日本大歳時記(座右版)』(講談社)を購入しようと思い立った。が、既に絶版である。すぐに「密林」(@シャドウ・カゲウラ)で検索してみると、何とマーケットプレイスに1,501円で出品されているものがあった。出版当時(平成2年、第10刷)で12,360円である。一も二もなくポチっとした。日数経ずして件の本が到着した。外箱が多少傷んでいた程度で、中身は至極きれいであった。よい買い物をしたと大いに満足した。
この『カラー図説 日本大歳時記』には、季語となっているほとんどすべての植物の写真が載せられている。さっそく調べて句にした花もいくつかあった。そうやって調べていると、どうやら自分は園芸種の花よりも雑草の方が好みであるということもわかった。

さらには、写真と俳句をコラボする楽しみ。Tumblerを使うようになって、写真もアップできることがわかったのだけれど、写真だけではなんだかなあと思っていたところ、『写真俳句のすすめ』(森村誠一、朝日文庫)なる本を見つけた。そうか、写真に俳句を添えたり、その逆もできたりするんだということを知った。以来、デジカメのないときにはケータイのカメラで撮ったりもしながら、「写真俳句」も少しずつ増えていった。自分が撮ったしょーもない写真でも、俳句を添えるとなんとなく様になってるような気がするから不思議だ。もちろん、これは俳句に写真を添えると一端の俳句のように思えるということもある。

さらなる楽しみ。五七五という定型に、その日あったことや自分の見た光景、感じたことを流し込むという作業が持つおもしろさ。
初句ができても次がつながらないとか、第二句と三句はできてるんだけど初句が思いつかないとかいうことは多々ある。で、それをずっと考えていると、不意にぴったりあてはまる言葉を思いついたりした時の喜び。そればかりか、そうやって考えている時に、まったく違う季語を使った別の句を思いついたりすることもあるのだ。

自分では、個人的に高浜虚子と正岡子規を師と仰いでいる。高浜虚子は、『俳句の作りよう』(角川文庫)で、正岡子規は、『俳諧大要』(岩波文庫)で。
『俳句の作りよう』に、「何でもいいから十七字を並べてごらんなさい」と、「「や」「かな」「けり」のうち一つを使ってごらんなさい」(7〜8頁)といとも簡単に書かれていたことが、「んじゃ、オイラもやってみっか」という気持ちになった最大のきっかけとなった。
『俳諧大要』には、「文章を作る者、詩を作る者、小説を作る者、俄かに俳句をものせんとしてその語句の簡単に過ぐるを覚ゆ。曰く、俳句は終に何らの思想をも現はす能はずと。しかれどもこれ聯想の習慣の異なるよりして来る者にして、複雑なる者を取って尽くこれを十七字中に収めんとする故に成し得ぬなり。俳句に適したる簡単なる思想を取り来たらば何の苦もなく十七字に収め得べし。縦しまた複雑なる者なりとも、その中より最文学的俳句的な一要素を抜き来りてこれを十七字中に収めなば俳句となるべし。初学の人は議論するより作る方こそ肝心なめれ。」(23〜24頁)と書かれているのを読み、とにかく作るべしという気持ちをさらに強く持つようになったのである。
まことに、得難い師匠たちである。

その正岡子規が、『歌よみに与ふる書』(岩波文庫)の中で絶賛していた『金塊和歌集』。
これは是非とも読まずばなるまいと「密林」で検索をしてみたのだが、岩波文庫版は絶版。ネットで調べてみると、どうやら実朝の歌をほとんどすべてアップしてあるサイトもあるということを知ったが、こればっかりはどうしても書籍にて手元に置いておきたいと思った。
で、どうもこれがよろしいのではと見当をつけたのは、『新潮日本古典集成』第44回配本の『金槐和歌集』(樋口芳麻呂校註、昭和56年6月初版)。この本こそ、実朝の全集と称してよいとの評判だったのだ。しかし、新刊は3,150円。このところ、「密林」で本ばかり買っているので、カード決済の金額も嵩んで、そろそろ妻から苦言を呈されるのではと思っていたところだったので、今回は時々利用していたネットの「日本の古本屋」で検索してみた。あったあった、「初版本」でしかも「美装」とある。金額は1,400円。すぐに注文のメールを送り、郵便振替で代金を支払った。今日、その本が届いた。「これが昭和56年の本?」と言いたくなるほどに、箱ばかりでなく本を包んでいるハトロン紙までほぼ新品のままだった。感激した。
俳句とは直接関係はないけれど、正岡師匠を通して知ることができたことがうれしい。

かくして、句作の日々はこれからも続いていくのである。