スーさん、読書する

5月17日(月)

「ソシュールの言語観では、動物でも雪でも食物でも、何種類かのモノそのものが最初から存在して、コトバで名づけられるのを待っているわけではない。動物や雪や食物を記号によって区分するからこそ、それに応じて、それぞれのモノが存在しはじめるのである。それゆえ、ソシュールに言わせれば、一般にコトバと呼ばれているものは、世界を区分する記号としての語のことであり、言語とは、記号としての語の相関関係から構成される体系のことにほかならない。」(難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』光文社新書、36~37頁)

まさにそのとおりである、ということを実感したのは、俳句を作るようになって知った花々のことである。
今までは、どこにどのような花が咲いていようとも、それがひどく自分の関心を引くということはなかった。もちろん、春には桜を愛でたりしていたわけで、まったく花々に心を動かされなかったということではないのだが、積極的な関心は抱かなかったのである。
しかし、ひと度花々に関心を持ってしまうと、そこにはいかにも豊穣な世界が拡がっていた。
今までは気にも留めなかった道端の花。何と可憐な花の多いことか。いかに至る所に咲いているか。春になり、初夏を迎えるにしたがって、それこそ次々といろんな花がその美しさを競うように咲き出る。
まさに百花繚乱。
そうして、その百花のうちの一つずつの花の名前を確認していくうちに、今まで知らなかった花の世界が目の前に開けてきたのである。つまり、花の世界が存在し始めたのである。

同様のことは、ニーチェについても言える。
主著、『ツァラトゥストラはこう言った』(氷上英廣訳、岩波文庫)を読むまでは、高校の倫社の時間で学習した程度の知識でしかニーチェのことを知ることはなかった。
しかし、『ツァラトゥストラ…』を読みながら、そのアフォリズムにいちいち納得することや元気づけられること、興奮させられる経験をすると、いかにもニーチェが身近な人のように感じられるようになったのである。
つまり、花々の世界と同じように、ニーチェの世界がそのほんの入口から垣間見えたのである。

さらには、セネカのことである。
セネカの著作については、mixiのマーラー・コミュで辱知の間柄となった「まっちゃん」さんに蒙を啓かせていただいた。
昨日、「おお、そう言えばセネカ読んでなかったっけ」と、つい最近購入した『生の短さについて』(大西英文訳、岩波文庫)を読み始めて、すぐにその文章に釘付けとなった。
「生は、使い方を知れば、長い。しかし、ある者は飽くなき貪欲の虜となり、ある者はあくせく精出すむだな労役に呪縛され、ある者は酒に浸り、ある者は怠惰に惚ける。また、常に他人の判断に生殺与奪の権を握られている公職への野心で疲労困憊する者もいれば、交易で儲けをという希望を抱いて闇雲な利欲に導かれ、ありとあらゆる土地をめぐり、ありとあらゆる海を渡る者もいる。(…)自発的に奉仕しながら、感謝もされない目上の者への伺候で身をすり減らす者もいる。また、多くの者は他人へのやっかみか、己の不運への嘆きで生を終始する。移り気で、あてどなくさまよい、自己への不満のくすぶる浮薄さに弄ばれ、これと決まった目的もないまま、何かを追い求めて次から次へと新たな計画を立てる者も多く、また、ある者は、進むべき道を決める確かな方針ももたず、懶惰に萎え、欠伸をしているうちに運命の不意打ちを食らう。」(同書、12〜13頁)
これって、まさに現代の人間のことを活写した文章であると読めはしないだろうか。

でも、セネカが生きていたのは、今から2千年以上も前の時代なのである。
“ルキウス・アンナエウス・セネカ(ラテン語: Lucius Annaeus Seneca、 紀元前1年頃 - 65年4月)は、ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝期の政治家、哲学者、詩人である。第5代ローマ皇帝ネロを幼少期には家庭教師として、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の白銀期を代表する人物と位置付けられる。”(@Wikipedia)
そうなのだ。彼が生きていたのは、かの「暴君ネロ」が生きていた時代なのである。
それなのに、彼の書いた文章は(異国の言葉に翻訳され)2千年の時空を超えて私たちの心に訴えかける。「なんだ、2千年前も今も、人間っておんなじじゃん」と。
ここから、急にセネカが身近な存在になって、その世界が広がる。
ニーチェもセネカも、訴えかけてくることは、「自らの生をいきよ、全うせよ」ということである。

かように、この世にはいろんな世界が広がっている。
その全てを知ることはもちろんできないけれど、その一端を一つでも多く知ってみたい。その世界に足を踏み入れてみたい。
そうして、先人が感じた豊かな世界を、少しでも経験してみたい。
最近はこんなことばかり考えている。