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2005年05月 アーカイブ

2005年05月13日

たぶん守られない誓い

5月12日(木)

先月実施した、職員健康診断の結果が来た。

手前は、毎年この検診で「上部消化器官」(胃のことです)が「要精密」と判定され続けてきたが、数年前に「ピロリ菌退治」の治療を受けてからは、胃は頗る調子がよく、ここ2年ほどは精密検査(胃カメラでの検査)を受けずに済んできた。

その他は特に異常がなく、健康そのものの状態を保ってきたのであるが、何と今年は「中性脂肪」値が高いということで、「要精密」の判定を受けてしまった。

なにい?「中性脂肪」が高いたあどういうことだあ?

さっそく、インターネットで「中性脂肪」のことを調べてみた。

ふむふむ、なーるほど、要するに「デ○になった」ってことか。

自覚がなかったわけではない。

手前の腹部は、10年ほど前から前方への漸進を始めていた。

あららーと気づいたのは、平成5年の夏休みが終わった9月始業式のことであった。

スーツを着用しようとすると、ズボンが妙に窮屈なのである。

「しまった、夏休み中いい気になってビールを大量摂取したので、デ○になったんだあ」と思い、その翌年(だったと思うけど)から早朝のジョギングを始めることにした。このジョギングはその後5年ほど続いた。

効果は、はかばかしくはなかった。毎日のジョギングにもかかわらず、手前の腹部は漸進を止めなかった(ほんとうはもっとデ○になったのかもしれないのに、ジョギングのおかげでそうならずに済んだ、と思いたい)。

その後、保健体育のある先生から、「先生、朝のジョギングは血糖値が高くなるからあんまりよろしくないんですよ」と言われてから、ジョギングをぱったりと止めてしまった。確か4年前のことである。

それからは、特にこれといって体を動かすこともなく、テニスの大会前に多少ボール出しをする程度で、ビールは相変わらず毎日摂取し続けてきた。

自分では、「いかんいかん、何かしないとさらに腹部の膨張が続いてしまう」と思ってはいたが、特にこれという意欲をかき立てられるものなく、そのままに経過してきてしまった。

合気道を始めたのは、2年前である。週1回のペースでいい汗がかけるため、「おお!これで不肖の腹部も膨張を止めるであろう」と思っていた(確かに、漸増には歯止めがかかった)。

しかし、昨年から拝命した教務主任が致命的であった(と思う)。

授業時数が減ったのはいいのだが、その分デスクワークが飛躍的に増えた。

それまで授業で教室に行っていた時間も、職員室でポコポコとキーボードを叩いているようになったのである。

それでも、「週1回は確実に合気道のお稽古をしているので、そんなにデ○になることもなかろう」と高を括っていたのが災いした。

この4月、久しぶりに会った先生から、「太ったでしょう!」と言われてしまったのである。

そして今回の検診結果である。

医者に行っても、「あのねえ、もっと日ごろから体を動かすようにしなさい、お酒はほどほどにしなさい、タバコはやめなさい、脂っぽいものばかり食べるのはやめなさい、お肉じゃなくてお魚を食べるようにしなさい、ついでに週末の麻雀もやめなさい・・」とあらゆる「禁止条項」ばかりを並べ立てられ、「ああ、オレは今日からどうやって生きていけばいいんだろう」と途方に暮れてしまうことは必定なのである。

とりあえず、今日からは女子テニス部の練習で、できうる限りボールを打つように心掛けることとしよう。家で飲むビールは、カロリーオフの発泡酒に変えることとしよう。朝起きてからすぐにタバコを吸うのはやめよう・・。

ついでに、教務主任も辞めさせてもらおう、って無理だよね。

<追伸>
ドクター、もしこの日記を読んでいましたら、適切な処方をお教えください。どうぞよろしくお願いします。

2005年05月16日

しゃべったウチダはまだ読んでないんですけど・・

5月16日(月)

日本全国の中学校教員のみなさま。

小学館から発行されている雑誌『中学教育6月号』を購入されましたか?

手前も、そういう雑誌があることは承知していましたが、未だ嘗て購入したことは一度もありませんでした(小学館さん、ごめんなさい)。

しかし、今回の『中学教育6月号』だけは、何をさておいても購入させていただきました。

その理由は、3月25日付けの内田先生の日記を御覧になればわかります。

一部、引用させていただきます。

"まず小学館『中学教育』のインタビュー。「公立中学校のクラス担任必携マガジン」ということなので、中学校の先生用のお話をする。私の場合は「すーさん」という具体的な公立中学校の先生の読者モデルがいるので、「すーさん」を相手に話すようなつもりで話す。”

そうなんです、『中学教育6月号』には、内田先生へのインタビューが掲載されているのです。

その内容も、特に手前を「読者モデル」と想定されて語られたものであるならば、これは万難を排して購入しなければなりません。

手前の場合は、ひょっとして店頭で手に入らなかったら困ると思い、事前に書店に予約を入れておきました。

実は、合気道春合宿の際、内田先生からは「新学期になったらすぐに発売されるそうなので、4月には出るんじゃないですか」と言われていたので、先月、書店の店頭に出ていた5月号を隅から隅まで見たのです。

ところが、どこにも内田先生のインタビューは掲載されていませんでした。

あららーと思い、5月号最後の「6月号のお知らせ」を見ると、内田先生へのインタビューのことが紹介されていました。

そうかあ、6月号に載るんだあと思い、すぐに予約を入れたという次第なのです。

その6月号ですが、本日手に入れることができました。

さっそく、インタビューを拝読せていただきました。

内田先生のお話は、巻頭の8ページから11ページまで3ページにわたって、先生の写真入りで掲載されています。

全中学教師必読のインタビューであると信じます。

未購入の先生は、すぐに書店に走るか、注文されることをお薦めします。820円です。

付録として、「生徒に聞かせたいちょっといい話、ためになる話、感動する話」が付いてます。

そう言えば、苅谷剛彦氏夫人である苅谷夏子さんによる「大村はま先生追悼」記事も載っています。ご参考までに。

2005年05月27日

言葉の暴力について考える

5月27日(金)

学校には、時おり保護者等から苦情の電話がかかってくる。内容は様々である。

きちんとお名前を名乗っての電話はまだいい。苦情についての対処をまたこちらから連絡することも可能だからだ。対応に苦慮するのは匿名の電話である。

最近多いのは、「教師による『言葉の暴力』ではないか」という訴えである。

これは、特に勝ち負けのはっきりする部活動指導の場面で前景化してくることが多い。

それまで一生懸命に練習を行ってきたのだが、実際の試合では練習でできていることをミスしてしまい、そのミスが致命的となって敗退してしまったというような時には、監督から厳しい叱責の言葉が出ることもある。その言葉をとらえて、「言葉の暴力」ではないかと指摘されるようなケースである。

この「言葉の暴力」という言葉は、たいへん使い勝手がよい言葉らしい。

でも、「使い勝手がいい言葉」には陥穽がある。その言葉に括られる前の事情やら何やらが、すっぽりと抜け落ちてしまうのだ。

「言葉の暴力」は、「先生の言葉によって、ウチの子どもはたいへん傷ついている。これは明らかに『言葉の暴力』ではないか」というような語法で語られる。

この背景には、「子どもに平気で暴言を吐く教師」と「その暴言に心をいたく傷つけられている子ども」という図式が想定されていて、「教師の暴言に耐えつつ、けなげにも自らを省みてどうしたらよいのか途方に暮れて悩む子ども」という定型的な物語があるように思われる。

しかし、広く社会一般に通念として流布している言説というのは、往々にして事実が全く逆であるということもある(「あのなあ、言葉の暴力に晒されてるのは教師なんだぜ、オレなんか毎日生徒たちから「うぜ~」だの「キモ~」だの「ムカつく~」って言われてんだぜ」っておっしゃる先生もいるのではないでしょうか)。

そもそも言葉というのは、「どういう状況下で語られたか」によって、微妙にそのニュアンスを変える。

保護者からの苦情は、たいがいが「自分の子どもから聞いたこと」の中から、教師が子どもに対して発した言葉のみが「言葉の暴力」として取り上げられ、非難の対象となる。その時から、その言葉だけが「定型的な物語」の中で一人歩きを始める。

時には、その言葉が発せられた状況を詳しく説明することで保護者の了解が得られ、「なーんだ、定型的な物語じゃあなかったんだ」と納得してもらえることもある。

しかし、「言った、言わない」の水掛け論になってしまうと、いくら仔細にわたって状況説明をしてもなかなか納得してはもらえない。

これは、「歴史的事実」の当否にかかわる議論と同様である。

“ほんとうは何が起こったのか、それを究明することはとても大事だけれども「ほんとうは何が起こったか」を完全にあきらかにすることはきわめて、ほとんど絶望的に困難である。”(@『ためらいの倫理学』)

特に、「定型的な物語」のイデオロギーに侵食され、「検察官的なエートス」(@内田先生)で告発を始めた保護者には、「信の回復」(@内田先生)をしていくことが困難をきわめる。

相手が匿名だと、とりあえず電話でしか話をすることができない。相手の姿形を見ずに話をするというのは、だいたいうまく話がまとまっていかない。

話し合いが決裂すると、次はお決まりのクリシェ「教育委員会に連絡させてもらいます」である。あんまりこういうことは言いたくないが、これは体のいい恫喝であるとは言えまいか。「言葉の暴力」を告発しているはずの側が、思わず「言葉の暴力」を使用しているのではないか。

確かに、自らも含め、教師には傲慢・倨傲・不遜・権高・高飛車そして高圧的なところが多分にある。

特に、一生懸命に何かを指導していると、ついその過程できつい言葉が出てしまうこともある。

これは、教師が厳に戒めなければならないところであろう。

“私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。”(@『ためらいの倫理学』)

教師も、常に「自己批判能力」を磨いておかなければならないのである(もちろん「自戒」を込めて)。

教師と保護者とが、「悪いのは誰だ」という犯人捜しをしている限り、子どもの教育はますます隘路へと入り込んでいってしまうだろう。緊要なことは、教師と保護者とが互いに忍耐強く「信の回復」作業を進めていくことであろう。

もう一度、内田先生の『ためらいの倫理学』の中の言葉をかみしめたい。

“さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、「自分は間違っているかもしれない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。”

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