言葉の暴力について考える

5月27日(金)

学校には、時おり保護者等から苦情の電話がかかってくる。内容は様々である。

きちんとお名前を名乗っての電話はまだいい。苦情についての対処をまたこちらから連絡することも可能だからだ。対応に苦慮するのは匿名の電話である。

最近多いのは、「教師による『言葉の暴力』ではないか」という訴えである。

これは、特に勝ち負けのはっきりする部活動指導の場面で前景化してくることが多い。

それまで一生懸命に練習を行ってきたのだが、実際の試合では練習でできていることをミスしてしまい、そのミスが致命的となって敗退してしまったというような時には、監督から厳しい叱責の言葉が出ることもある。その言葉をとらえて、「言葉の暴力」ではないかと指摘されるようなケースである。

この「言葉の暴力」という言葉は、たいへん使い勝手がよい言葉らしい。

でも、「使い勝手がいい言葉」には陥穽がある。その言葉に括られる前の事情やら何やらが、すっぽりと抜け落ちてしまうのだ。

「言葉の暴力」は、「先生の言葉によって、ウチの子どもはたいへん傷ついている。これは明らかに『言葉の暴力』ではないか」というような語法で語られる。

この背景には、「子どもに平気で暴言を吐く教師」と「その暴言に心をいたく傷つけられている子ども」という図式が想定されていて、「教師の暴言に耐えつつ、けなげにも自らを省みてどうしたらよいのか途方に暮れて悩む子ども」という定型的な物語があるように思われる。

しかし、広く社会一般に通念として流布している言説というのは、往々にして事実が全く逆であるということもある(「あのなあ、言葉の暴力に晒されてるのは教師なんだぜ、オレなんか毎日生徒たちから「うぜ~」だの「キモ~」だの「ムカつく~」って言われてんだぜ」っておっしゃる先生もいるのではないでしょうか)。

そもそも言葉というのは、「どういう状況下で語られたか」によって、微妙にそのニュアンスを変える。

保護者からの苦情は、たいがいが「自分の子どもから聞いたこと」の中から、教師が子どもに対して発した言葉のみが「言葉の暴力」として取り上げられ、非難の対象となる。その時から、その言葉だけが「定型的な物語」の中で一人歩きを始める。

時には、その言葉が発せられた状況を詳しく説明することで保護者の了解が得られ、「なーんだ、定型的な物語じゃあなかったんだ」と納得してもらえることもある。

しかし、「言った、言わない」の水掛け論になってしまうと、いくら仔細にわたって状況説明をしてもなかなか納得してはもらえない。

これは、「歴史的事実」の当否にかかわる議論と同様である。

“ほんとうは何が起こったのか、それを究明することはとても大事だけれども「ほんとうは何が起こったか」を完全にあきらかにすることはきわめて、ほとんど絶望的に困難である。”(@『ためらいの倫理学』)

特に、「定型的な物語」のイデオロギーに侵食され、「検察官的なエートス」(@内田先生)で告発を始めた保護者には、「信の回復」(@内田先生)をしていくことが困難をきわめる。

相手が匿名だと、とりあえず電話でしか話をすることができない。相手の姿形を見ずに話をするというのは、だいたいうまく話がまとまっていかない。

話し合いが決裂すると、次はお決まりのクリシェ「教育委員会に連絡させてもらいます」である。あんまりこういうことは言いたくないが、これは体のいい恫喝であるとは言えまいか。「言葉の暴力」を告発しているはずの側が、思わず「言葉の暴力」を使用しているのではないか。

確かに、自らも含め、教師には傲慢・倨傲・不遜・権高・高飛車そして高圧的なところが多分にある。

特に、一生懸命に何かを指導していると、ついその過程できつい言葉が出てしまうこともある。

これは、教師が厳に戒めなければならないところであろう。

“私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。”(@『ためらいの倫理学』)

教師も、常に「自己批判能力」を磨いておかなければならないのである(もちろん「自戒」を込めて)。

教師と保護者とが、「悪いのは誰だ」という犯人捜しをしている限り、子どもの教育はますます隘路へと入り込んでいってしまうだろう。緊要なことは、教師と保護者とが互いに忍耐強く「信の回復」作業を進めていくことであろう。

もう一度、内田先生の『ためらいの倫理学』の中の言葉をかみしめたい。

“さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、「自分は間違っているかもしれない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。”