月別アーカイブ: 2016年3月

モチベーション。

 3月17日。2月の初めに、私は1月末から通い始めたマディソンのコミュニティカレッジを卒業した。卒業したというのは、払い戻しをして自ら辞めたという意味である。このカレッジで私はライティングとリーディングのクラスを受けていたが、あまりにも退屈だったために卒業を(勝手に)早め、代わりにもとの語学学校でTOEFLの勉強を始めることとなった。そんなことをばたばたしていると、日本にいる友人から「もっと楽に生きたら?」というメールが届いたりもした。まあ、確かにアメリカに留学しているのは白井君であって、私がばたばたと苦労して勉強する必要はないのだろう。実際、モチベーションという意味では、英語を学ぶ必要性を見失うこともこれまでに何度かあった。日常会話ですでに困ることはないということはつまり、日常会話というものに必要とされる語学力というのはあまりにも底が浅いからだろう。友達を作ってわいわいお喋りをするだけなら、半年もあれば十分すぎるほど十分であるのが現実だ。

 そんなモチベーションがいまいちあいまいな私は、今日、ウィスコンシン大学のカプレイ教授のオフィスを探していた。毎週火曜日と木曜日に潜り込んでいるソヴィエトフィルムの授業の先生のオフィスだ。というのも、ソヴィエトが生んだ鬼才エイゼンシュテイン監督の映画にひどく感銘を受けたからである。エイゼンシュテインはスターリン独裁政権の時代を生きたユダヤ人の映画監督で、生涯にわたり3作品が上映禁止処分を受けるという悲劇の作家であるが、彼の確立した「モンタージュ理論」は映画史に残る重大な功績の一つである。その斬新で美しいシーンの数々は今なお多くの映画監督に影響を与え、さまざまなフィルムで引用され続けている。そんなエイゼンシュテインが晩年、祖国で上映禁止処分を受けた『イワン雷帝パート2』を個人的に観た私が、授業後カプレイ教授に勇気を出して話しかけてみたのは先週のことだった。正規の学生ではない上に緊張でしどろもどろの私に、カプレイ教授は「オフィスアワーに来なさい」と言うと大きな体をゆすりながらさっそうと去っていった。そして、今朝やっと私は彼のオフィスにたどり着いたわけである。

 フロアの一番奥にある一番大きな部屋がカプレイ教授のオフィスだった。快く迎えてくれた教授に、あらかじめ用意しておいたエイゼンシュテインをはじめ大好きなソヴィエト映画の巨匠たちについて聞きたかったことをいくつか質問すると、カプレイ教授は面白そうに答えてくれた。あれもこれもと矢継ぎ早に質問をしては笑ったり驚いたりして30分ほど歓談の時間が過ぎた。何度か聞き取れない部分があったのが残念だった。だけど去り際、カプレイ教授は私を不思議そうにまじまじと見つめて「君はソヴィエト映画が本当に好きなんだね。」と言った。そして「来月に開催されるフィルムフェスティバルのパンフレットを取りに来週もおいで。」とも言ってくれたのである。「フィルムフェスティバルにぜひ行きたいです。でも、聞き取りが下手なのだけが心配です。」と私が言うと、教授はまた面白そうに「それなら私と一緒だね。」と静かに笑った。

 オフィスを出た私の心は虹色だった。マディソンはすっかり春らしく太陽が微笑んでいる。思えば私は、コミュニティカレッジはやめてもこの聴講の授業だけは欠かさず参加していた。それは、純粋に授業が面白かったからだ。のらりくらりと通っている語学学校とは違い、この授業では、私は授業中に咳払いやくしゃみをするクラスメイトが嫌いだった。聞き取りの邪魔になるからだ。この授業をさぼったり眠ったりするクラスメイトも大嫌いだった。彼らはネイティブというだけで片手間でも私以上のことを聞き取り、理解しているということが腹立たしかったからだ。いじわるそうなネイティブの学生が、訳知り顔で発言するのをみると敬意をこめて嫉妬をした。ディスカッションの時間にはもう少しで発言しようかと迷ってドキドキして諦めたこともあり、それはとても歯がゆい時間だった。もっと英語が聞き取れたら、もっと話せたら、と悔しい思いを何度もした。それは明らかに面白いとわかっているゲームが目の前で繰り広げられているのに、参加できないようなものだったからだ。だからカプレイ教授と話ができたということは私にとってはとてつもなくうれしい出来事だったのである。

 そんな私が恍惚としてオフィスを出、バスに乗り込んだときである。ふいにモチベーションという言葉が脳裏をかすめた。そして次の瞬間、大昔に神戸女学院で受けたフランス語の授業での内田先生の声が聞こえてきたのである。第一回目のその講義の日、教団から内田先生は「新しい言語を学ぶこと」について私たち生徒にこう語った。「語学を習得するということは、世界にある知的財産へアクセスできるチャンスを得るということです。その宝箱を開ける鍵を手にするということなのです。」。つまり、語学を学ぶということは、それだけで日本では得ることのできないたくさんの知的財産の扉の前に立つことが出来ることに等しいのだと内田先生は教えてくれたのである。それは若かりし日の私の胸に強く響いた言葉でもあった。そして今まさに、この遠く忘れられていた記憶がここマディソンの青空の下で目的もなく生きる私に、ふたたびこだまのように降り注いできたのだった。

とある日曜日に

3月7日。「偽中国語が流行ってるって知ってる?」日曜日の昼下がり、マディソンのとある中華レストランで上海から来たスカイラーが教えてくれた。何やら今、日本の若者の間では中国語に見せかけて中国語ではない「偽中国語」を使うのが流行っているらしい。親切にも画像まで見せてくれながら、スカイラーは「これ日本でも話題になってるから、覚えておいた方がいいわよ。」と忠告してくれた。「だけど本当に中国語じゃないから笑っちゃうわ。」とスカイラーは付け足す。うな重が好きなスカイラーの弟分であるジャクソンと三人でマディソンにある日本料理屋さんでうな重を食べようと計画をしたのは私なのだが、紆余曲折を経て二人に中華料理屋さんを紹介してもらうことになり、その上私は彼女から日本の文化について教えてもらっているのである。毎度のことながらスカイラーの凄まじい日本への愛と情報量には驚かされる。私が日本の若者文化に疎い自分に恥じ入っていると、横でホルモンをほおばっている弟のようなジャクソンが「古畑任三郎って面白いよね。」と言った。

ところで、スカイラーとジャクソンは前のセッションで語学学校を辞めた。そのままカレッジに進む予定だったのだが、アメリカのカレッジは9月と1月始業なので、彼らはそのまま9月までの時間を持て余しているのである。ひと月アメリカで羽を伸ばした後、いったん上海に戻ることも予定しているという。ジャクソンもスカイラーも大金持ちなのだ。ジャクソンは一人っ子政策がまだ実施されていた中での三人兄弟の末っ子だ。上海の実家には車が4台あると言っていた。スカイラーに至っては、日本が大好きなのでこの休み中に日本に行くことも考えているという。彼女は毎年日本に行きたいし、今回の休みでは日本の桜シーズンを楽しんでみたいと思っているそうだ。(その上スカイラーもジャクソンも来る大学進学へ向けて、車を購入予定だそうだ!)サウジアラビア人のラカンだって休みの度に、やれラスベガスだのフロリダだのに出向いてはバカンスを楽しんでいる。うすうす気づいてはいたが、二十歳そこらで一人前にアメリカのアパートをあてがわれ、稼ぎもないのに休みの度に旅行を楽しんでいる姿をみていると、アメリカのカレッジなり大学院を目指す子供たちというのは、その国の一握りの富裕層出身なのではないかと私には思えてくる。

 私がずっと仲良くしているカザフスタン人のディアとアディルという従兄弟のペアも、語学学校を卒業してコミュニティカレッジに進学した。彼らのプランでは、その後もアメリカの大学に入り、良い就職先を見つけたいという。アディルの方はアメリカにそのまま移住し続けたいとすら思っているそうだ。二人とも19歳である。彼らの友達もまたほとんどがヨーロッパやアメリカの大学へ進学しているという。「どうしてカザフスタンの大学に入らないの?」と聞くと、ディアはつまらなそうに「Government is stupid(国がバカだから。)」と言った。ディアに言わせると、国も大学もバカだそうだ。ベネズエラからの留学生のアレハンドラはベネズエラの不安定な政情に不安を抱いていて、国に帰りたくないと言っていた。アメリカの大学を出て、ゆくゆくは家族とアメリカに移り住みたいのだと彼女は言った。実際、治安が不安定な南米出身の生徒の何人かは、既にアメリカに移り住んで仕事をしている家族のだれかを頼ってホームステイしていたりする。そうやって祖国で受けられない教育や職を求めてアメリカへ新世代を送り込むお金持ちの家庭があるのを見ていると、私はつい日本はどうだろうかと考えたりする。というのも、「語学学校」で出会う日本人たちは私を含め極めて庶民的だからだ。つまり、言ってみたらびっくりするほどのお金持ちではない。そして日本人のほとんどが、学生なら休学を利用して語学留学に来ているか、企業派遣で語学向上の特訓に来ているかであり、その先に家族の夢を背負ってアメリカ移住を考えている人はそう居ない(と、思う)。
この語学学校にフルタイムで通いつつ、ホームステイをするだけでも、半年で300万円ほどかかるのだから、日本人のティーンで長く滞在する子はなかなかいない。そんな費用をかけなくても、日本は安全にそして十分に教育を受けられる場所なのだろう。

「チンジャオロースとかホイコーローって中国人にとってはそんなによく食べる料理じゃないってことは知ってる?」スカイラーがずっと言いたかったというように畳みかけてくる。「日本人はあれが中華料理だと思ってるでしょ?中国人はそんなに食べないんだから。」「天津飯も中国にはないよ。」とジャクソンはまたニコニコと付け加える。「覚えておいてね」と言わんばかりだ。そして店を出るとき、支払いのチップはたっぷりだった。

 
 

タダシテル。

3月3日。「明日漢字テストなんだ。」とジョシュが悲しそうな顔をして日本語で言う。「抜き打ちテストじゃないんでしょ?」と聞くと、彼は「ヌキウチって何?」と聞く。そう言われてみると…と思い、『抜き打ち』という言葉を調べてみると、「刀を抜くと同時に切りつけるということから、予告なしに行う」という語源があることが分かったので、私は彼に英語で教えてあげた。「面白いねー!」と、宮本武蔵が大好きなジョシュは途端に目を輝かして歓喜し、すぐに自身のスマートフォンの辞書に追加した。前回は『攻略本』という言葉に狂喜乱舞して、追加していた。彼は日本が大好きなゲームオタクなのである。

日本ではあまり馴染みはないが、こちらでは「カンバセーションパートナー」といって、外国語に興味のあるネイティブのアメリカ人と英語を学びたい外国人がパートナーを組みお互いの語学力向上を目指す様々なプログラムがある。私はこうしたプログラムを最大限に利用し、今期、三人の熱心なウィスコンシン大学の大学生をカンバセーションパートナーとして得ることに成功した。週に一度、大学のカフェテリアなどで会い、宿題を教えてもらったり他愛もない話をするのが最近の私の日課なのである。そのうちの一人がこの日本語ぺらぺらのジョシュというわけである。ジョシュは上智大学に交換留学の経験があり、日本人になりすまして日本のオンラインゲームをするのが好きなので、ちゃらちゃらした若者言葉をよく使う。

「『は』と『が』の違い、分かる?」とジョシュが聞いてきたので、うーん、難しいね、と私は英語で答えた。「でしょう?」と彼はまた日本語で畳みかけてくる。「日本人は誰に聞いても難しいって言うんだよね。だって“タダシテル”から。“タダシテル”。でしょう?」“タダシテル”が頭の中で『正している』という意味なのか、『ただ、知っている』ということなのか判断するのに時間がかかったが、どうやら後者のことのようだ。日本語で主語に『は』を使うか、『が』を使うかという判断は、強調すべき言葉が主語か目的語かという違いによってなされるのだ。と、ジョシュは私に分かりやすく教えてくれた。でも日本人は皆「これはペンです。」「これがペンです。」というこの二つの文章の意味の違いを、学ぶことなくすでに知っていて使い分けているのだとジョシュは訳知り顔で付け加えるのである。「ウラヤマシイヨ。」と、おまけに彼は一つため息をついてみせた。「追いつけないんだからね。」私のペットボトルを断りもなく手でいじりながらジョシュはまた悲しそうな顔をした。

 タダシテル。これは日本人に限ったことではないと私は反論する。アメリカ人だってそうだ。私は前のセッションでグラマーの授業を取った。現在形や未来形など義務教育で一通り習う内容をもう一度習ってみたわけだけど、授業を取る前にグラマーのクラスについて聞き込みをした際、語学学校のティーンたちは口をそろえて「グラマーはイージーだ」と答えた。グラマーの基礎は彼らも母国である程度習得しているつもりなのである。エッセイを書いたりアカデミックな記事を読まされたりするクラスの方がもっと難しい。グラマーは独学でなんとかなる、と彼らは一様に私にアドバイスしてくれたのである。
けれど、私はそうは思わなかった。グラマーを知れば知るほど、その微妙な英語のニュアンスの違いを習得することの難しさに直面したからだ。もちろん、基礎的なレベルではグラマーはある程度テストの点数が取りやすい科目かもしれなかった。だけど私はwillとbe going to の違いやwouldやused toの違い、あるいは「間違いではないけれど、聞こえのおかしいもの」の微細な違いに注目してはよく躓き、その都度使い方を習得しなければならなかった。

例えば日本語を話す外国人はよく「それは、面白いです。」と言う。彼らはIt is interesting のit isをいちいちそのまま訳す癖があるのである。そしてそれは間違いではない。意味は十分通じるもので、日本語を教える先生も彼らに注意はしない。減点対象になるものではないからだ。だけど、日本人であるならばそんな表現はまず使わないのが普通だ。ただ「面白い」と言うのみである。あるいは「冷える」と「冷める」の違いだって私にはなかなか簡単に説明できるものではないが、その用途は自然と使い分けている。同じように、英語の文法にも、間違いではないけれど少し聞こえの変なものがあるのである。「説明するのは難しいけれど、ここは現在形ではなくて現在進行形の方がよりナチュラルだよ。」と熱心なアメリカ人大学生のミカエラは教えてくれた。ジム先生も「What will you do?というのはネイティブの耳には少しおかしく聞こえるのは確かだよ。」と言った。「What are you going to do?と尋ねるのがよりナチュラルだ。」と。その上、そうやって宿題で教えてもらったネイティブの回答すらもまた、「文法的に」間違いであることもあったのである。あるいはテストで間違えた個所を見せると「どっちでもいいんじゃないの?間違いなの?」と驚かれ「来週まで考えさせて。」とネイティブから言われたこともあった。それは、私たちが『が』や『は』の違いを明確に理解していないようなもので、体に組み込まれて適当に使っているときがあるからである。だから、“タダシテル”ことは強みであるが、弱みでもあるのだろう。

「カラスの群れって、murder(殺人)を使うって知ってた?」とジョシュがにやにやしながら言う。「a group of crowsとは言わないんだよ。a murder of crowsって言うんだよ。おもしろいでしょー?」面白い!と私が食らいつくと、「a school of fish, a pride of lions….」と、ジョシュはとめどなくイレギュラーな群れの数え方を教えてくれた。「面白いけど、なぜなの?」と私が聞くと、ジョシュは嬉しそうにこう答えた。「知らないよ!タダシテル。でしょう?」