モチベーション。

 3月17日。2月の初めに、私は1月末から通い始めたマディソンのコミュニティカレッジを卒業した。卒業したというのは、払い戻しをして自ら辞めたという意味である。このカレッジで私はライティングとリーディングのクラスを受けていたが、あまりにも退屈だったために卒業を(勝手に)早め、代わりにもとの語学学校でTOEFLの勉強を始めることとなった。そんなことをばたばたしていると、日本にいる友人から「もっと楽に生きたら?」というメールが届いたりもした。まあ、確かにアメリカに留学しているのは白井君であって、私がばたばたと苦労して勉強する必要はないのだろう。実際、モチベーションという意味では、英語を学ぶ必要性を見失うこともこれまでに何度かあった。日常会話ですでに困ることはないということはつまり、日常会話というものに必要とされる語学力というのはあまりにも底が浅いからだろう。友達を作ってわいわいお喋りをするだけなら、半年もあれば十分すぎるほど十分であるのが現実だ。

 そんなモチベーションがいまいちあいまいな私は、今日、ウィスコンシン大学のカプレイ教授のオフィスを探していた。毎週火曜日と木曜日に潜り込んでいるソヴィエトフィルムの授業の先生のオフィスだ。というのも、ソヴィエトが生んだ鬼才エイゼンシュテイン監督の映画にひどく感銘を受けたからである。エイゼンシュテインはスターリン独裁政権の時代を生きたユダヤ人の映画監督で、生涯にわたり3作品が上映禁止処分を受けるという悲劇の作家であるが、彼の確立した「モンタージュ理論」は映画史に残る重大な功績の一つである。その斬新で美しいシーンの数々は今なお多くの映画監督に影響を与え、さまざまなフィルムで引用され続けている。そんなエイゼンシュテインが晩年、祖国で上映禁止処分を受けた『イワン雷帝パート2』を個人的に観た私が、授業後カプレイ教授に勇気を出して話しかけてみたのは先週のことだった。正規の学生ではない上に緊張でしどろもどろの私に、カプレイ教授は「オフィスアワーに来なさい」と言うと大きな体をゆすりながらさっそうと去っていった。そして、今朝やっと私は彼のオフィスにたどり着いたわけである。

 フロアの一番奥にある一番大きな部屋がカプレイ教授のオフィスだった。快く迎えてくれた教授に、あらかじめ用意しておいたエイゼンシュテインをはじめ大好きなソヴィエト映画の巨匠たちについて聞きたかったことをいくつか質問すると、カプレイ教授は面白そうに答えてくれた。あれもこれもと矢継ぎ早に質問をしては笑ったり驚いたりして30分ほど歓談の時間が過ぎた。何度か聞き取れない部分があったのが残念だった。だけど去り際、カプレイ教授は私を不思議そうにまじまじと見つめて「君はソヴィエト映画が本当に好きなんだね。」と言った。そして「来月に開催されるフィルムフェスティバルのパンフレットを取りに来週もおいで。」とも言ってくれたのである。「フィルムフェスティバルにぜひ行きたいです。でも、聞き取りが下手なのだけが心配です。」と私が言うと、教授はまた面白そうに「それなら私と一緒だね。」と静かに笑った。

 オフィスを出た私の心は虹色だった。マディソンはすっかり春らしく太陽が微笑んでいる。思えば私は、コミュニティカレッジはやめてもこの聴講の授業だけは欠かさず参加していた。それは、純粋に授業が面白かったからだ。のらりくらりと通っている語学学校とは違い、この授業では、私は授業中に咳払いやくしゃみをするクラスメイトが嫌いだった。聞き取りの邪魔になるからだ。この授業をさぼったり眠ったりするクラスメイトも大嫌いだった。彼らはネイティブというだけで片手間でも私以上のことを聞き取り、理解しているということが腹立たしかったからだ。いじわるそうなネイティブの学生が、訳知り顔で発言するのをみると敬意をこめて嫉妬をした。ディスカッションの時間にはもう少しで発言しようかと迷ってドキドキして諦めたこともあり、それはとても歯がゆい時間だった。もっと英語が聞き取れたら、もっと話せたら、と悔しい思いを何度もした。それは明らかに面白いとわかっているゲームが目の前で繰り広げられているのに、参加できないようなものだったからだ。だからカプレイ教授と話ができたということは私にとってはとてつもなくうれしい出来事だったのである。

 そんな私が恍惚としてオフィスを出、バスに乗り込んだときである。ふいにモチベーションという言葉が脳裏をかすめた。そして次の瞬間、大昔に神戸女学院で受けたフランス語の授業での内田先生の声が聞こえてきたのである。第一回目のその講義の日、教団から内田先生は「新しい言語を学ぶこと」について私たち生徒にこう語った。「語学を習得するということは、世界にある知的財産へアクセスできるチャンスを得るということです。その宝箱を開ける鍵を手にするということなのです。」。つまり、語学を学ぶということは、それだけで日本では得ることのできないたくさんの知的財産の扉の前に立つことが出来ることに等しいのだと内田先生は教えてくれたのである。それは若かりし日の私の胸に強く響いた言葉でもあった。そして今まさに、この遠く忘れられていた記憶がここマディソンの青空の下で目的もなく生きる私に、ふたたびこだまのように降り注いできたのだった。