月別アーカイブ: 2016年1月

サクセスってなんだろう

1月21日。ハリウッド映画がハッピーエンドを好むように、アメリカ人はとかくサクセスストーリーが好きだ。今年から私は語学学校の他に、MATCというコミュニティカレッジの学生になった。そこで週に四日、半年間英語を学ぶことになったのだが、その新入生のためのオリエンテーションに行ったときのことである。学校の偉い人の挨拶があり、軽いクイズゲームが終わったあと、カウンセラーだという黒人のおばさんが壇上にあがった。なんとなくその人が壇上にあがった瞬間に空気が変わった気がしたのだが、次の瞬間、「失敗した経験のある人はいる?」とすごい剣幕で質問を投げかけたのである。客席からは遠慮がちに「車の免許の試験に落ちた。」という声が聞こえた。すかさずおばさんは言う。「私も何べんも落ちたわよ!他には?!」「…学校のテスト」「誰が受かるの、あんなもん!他には?!」すごい勢いである。次から次へと新入生の失敗談を即座に肯定していったあと、今度はこれを見ろと大スクリーンにシリアスな音楽とともに映像が流れ始めた。ウォールト・ディズニー、エジソン、ビートルズ、ビル・ゲイツ、モハメド・アリ、キング牧師、アインシュタイン…名だたる有名人の失敗談の大放出である。笑いをかみ殺しているのは私だけだった。15分の失敗談集が終わった後、またおばさんが壇上に上がる。「このカレッジでサクセスするには何が必要なの?」失敗なんて怖くない。やめないこと、続けること、信じること。そしてその先にサクセスはあると気づいて欲しい、というわけである。
 
これだけではない。MATCで始まったリーディングの授業では、さっそく先生が「リーディングの授業でサクセスするにはどうしたらいいか?」とお題を出してきたのである。私はこれまで授業におけるサクセスなど、考えたこともなかった。あなたのサクセスは?ゴールは?と先生は生徒に投げかける。さらに、こうした出来事に呼応するかのように語学学校のグラマーの教科書でもサクセスした人々の話が扱われた。しかもガンジーである。教科書は説明する。「ガンジーやビル・ゲイツに共通することは、目的を持っていたこと。彼らは行動することやリスクを恐れなかったのである。」そしてサクセスについて自分がどのように定義しているか考えて、過去完了形を使ってノートに書きなさいとのことである。私はすっかり困惑してしまった。教科書にはサクセスに対するいくつかの定義が書かれている。「お金をたくさん稼ぐこと。」「やりたい仕事に就くこと。」「友達や家族と良好な関係を持つこと。」「ゴールを達成すること。」だけど、そこにはサクセスに向かえない人をどこかしら排除してしまう空気があるようにも私には感じたのである。
 
そういえば、以前アメリカのロックバンドのドキュメンタリーを見ていた時に彼らの一人がこう語っていた。「働かない奴は単なる怠け者だ。俺は努力したからこそサクセスしたんだ。」また、前のセッションで過激なトム先生はこう言っていたのも思い出した。「仕事をしない奴は怠け者だ。アメリカ人の多くはいろんな状況下でゼロから国を作ってきた意識を持っている。だから働かない奴はたいてい努力してない人たちなんだ。」まったく、怠け者の私には痛い言葉である。この国におけるサクセスは、必ずしもお金と結びつかなくてもいいのだろうが、英語を勉強するからには、生徒であるあなたたちにはそれなりにゴールを持ってサクセスして欲しいというわけである。そうして出された宿題は、「あなたの周りにいるあなたが魅了されたサクセスフルな人について。」である。難しいお題だった。そして、私は内田先生についてワンパラグラフ書いて提出したのである。

英語はむずかしい

  1月19日。ウィスコンシン州に引っ越して半年が経った。「半年も海外に暮らしていて日常会話は英語なんだから、ぺらぺらになったでしょ?」とたまに聞かれるけれど、そんなことは勿論なく、英語に対する難しさは日に日に増すばかりである。

最近私がてこずるのは、コロケーションという連語関係である。Mistakeという単語はmake mistakeだが、create mistake することはできない。Homeworkはdo homeworkであり、end homeworkではない。そういう法則を添削帰りの自分のエッセイで発見するようになった。このそこらかしこに張り巡らされたコロケーションの罠は、私を陰鬱にする。自由な発想で日本語の翻訳をそのまま貼り付けるだけでは、意味が通用しないからである。また、今日はin addition とbesidesも同じ意味なのに、使えるときと使えない時があると言われてエッセイがBという成績と共に戻ってきた。添削したジム先生からは、なるべく英英辞書を使うようにと言われた。

 また、発音も私の悩みの一つだ。あまりに発音が出来ないので、今月から私は新しく、20年以上アメリカで暮らす日本人の先生の「発音」の個人レッスンを受けることになった。一時間の個人レッスンで発音記号について学ぶのだが、やはりとても難しい。思えば日本の英語教育では、発音記号はそれほど重視されてこなかった。だからこそアメリカに来るまで、私も発音がそれほど大切なものだとは思ってはいなかった。けれど、読み書きが出来ても正しく発音が出来なければ、当たり前のことだがスピーキングは出来ない。人は自分が話すことのできない音を聞き取ることが出来ないという。だから、話せなければリスニングも出来ないのである。さらに、無知な私が驚愕したのは、アルファベットの並びとその単語の発音の間に、何の関係性もないという事実そのものである。Kellyは「ケリー」ではない。Womanは「ウーマン」ではない。そんなことを一から教えてもらい、私の中に義務教育時から定着してきた「英語」という概念そのものがゆっくりと姿を変え、扱いにくいものになっていくのを感じるのである。
 
 先生がアメリカのテレビを見ることはとても役に立つと言ったので、さっそく我が家のリビングにテレビが購入されることになった。32インチで200ドル、チャンネル数は50チャンネルもある。DVDも、YouTubeも観ることができる。英語向上へのマストアイテムである。わくわくしながらさっそく、YouTubeの大画面で真っ先にSMAPの謝罪会見を観てしまったのは言うまでもない。

メキシコ滞在記

1月2日。
 年末年始にメキシコに旅行に行きました。メキシコは治安が悪くドラッグと気狂いの町だと散々忠告を受けて入国した私たちを待っていたのは、メキシコのことを「メヒコ」と呼ぶずんぐりと小柄で親切なメキシコ人達と、何を食べてもはずれることのない飛び切り美味しいメキシコ料理、そしてどこまでも続く色彩豊かな美しい街並みと大量のスターバックスとコカ・コーラでした。

 12月27日。

憧れだったメキシコシティに到着する。小太りの寡黙なテンガロンハットのメキシコ人と隣り合わせに極寒のシカゴを出発し飛行機で4時間。常夏、時差なし、朝出発して昼には魅惑のメキシコシティに降り立ったのである。たった四時間で世界はこんなにも明るくなるのだろうか。さんさんと降り注ぐ太陽の歓迎を受けながら、私たちはその足ですぐ「フリーダ・カーロ博物館」へ向かった。
 
 メキシコは5月から10月までが雨季なので、12月から3月あたりまでがハイシーズンである。国民的英雄であるフリーダ・カーロ博物館はもともと彼女の生家であり晩年をフリーダが過ごした家を改装して作ったもので、ここはいわば世界中からメキシコへ訪れる観光客にとってニューヨークのダコタ・ハウス、あるいはメンフィスのグレイスランドのようなものであり、数多くの観光客が訪れる観光スポットである。例にもれず真っ先にここへ赴いた私たちは、観光客の多さに入場するまで2時間かかったが、一度入場すると家中を練り歩く長蛇の列から脱するのにも2時間近くかかった。

フリーダ・カーロはメキシコを代表する女流画家だ。ユダヤ系移民の国家的写真家であった父親と先住民の血を引く母親のもとで生まれた彼女は国民的画家ディエゴ・リベラと結婚し、離婚し、また再婚するも、数奇な運命の中で肉体的にも精神的にも過酷さを極め、その強烈な生き様もまた世界中の人を魅了する伝説的メキシコのヒロインとしての一因となっており、私もその人生にリンクした作品に強烈に興味をひかれた人間の一人だ。スターバックスの店員二人から「プリティ・イージー」と言われ、三通りの行き方を教えられて到着した博物館は、閑静な住宅街の中で真っ青な壁に囲まれた広く静かな邸宅だった。博物館では私はなぜか白人の女の子に「一緒に写真を撮らせてくれ」と言われ、ツーショットを撮った。ここで一日が終わってしまったので、メキシコという国の危険性にまだ心を許せていない私たちは滞在ホテルの近くのイタリアンをビビり気味に食べ、それはこの旅行で一番まずい食事となった。(というより、ほかのメキシコ料理そのものが美味しすぎたというのもある。)

12月28日。

滞在二日目。夜中の二時に鈍い頭痛で目が覚め、自分を騙しながら頑張って眠りにつくも朝にはすっかりひどい吐き気と頭痛に襲われ、朝から何度も餌付く。完全なる高山病である。標高2200メートルに位置するメキシコシティを訪れる邦人の多くが、よくこの高山病に悩まされるとガイドブックに書いてあったので、「これか」という感じである。スターバックスで紅茶とチーズパンを食べるとだいぶ吐き気が消えて良くなったので、テオティワカンというピラミッドの遺跡を見に行く。(信じられないことだが、メキシコのスターバックスのパンはアメリカの数倍美味しくて感動する!)
 
メキシコシティから北へ50キロほどのところにあるテオティワカンは、マヤ遺跡と思われがちだが、紀元前2世紀から6世紀ほどまで繁栄したテオティワカン人たちが作った謎の宗教都市の遺跡である。太陽のピラミッドと月のピラミッドと呼ばれる二対の巨大な神殿が有名で、ガイドブックに書いていた通りすごい日差しなので2人でテンガロンハットを着用してすっかりメキシコ人になりきって遺跡をだらだらと歩き回る。

ところで、謎多きテオティワカン文明が滅亡したのち12世紀ごろにここを発見したアステカ人たちはこの地を崇拝したという。面白いことには、このアステカ人たちが何よりも恐れたのは「太陽が昇らないこと」だったそうだ。彼らの厚い太陽信仰心により、発見されたこのテオティワカンでは来る日も来る日も生贄をささげられることになった。心臓をくり貫かれその生温かい血を神殿に投げつけることが儀式であった彼らは、時に生贄を確保するために他部族へ戦いをしかけることもあったという。(なんというすさまじい「明日」への不安感!)

全部で248段ある石階段を、高山病の私はもちろん登り切ることはできず、きっと頂上には何もないだろうと結論を出してテオティワカンを去った。(後で確認したらやっぱり頂上は何もなかったそうだ。でもパワースポットらしい。)

12月29日

滞在三日目。フリーダ・カーロがメキシコにおける太陽のような眩しさを放つとすれば、世界的建築家であるルイス・バラガンは月のような静けさをたたえた芸術家だという印象を受けるが、今日はそんなバラガンの最後の邸宅、世界遺産にも登録されているバラガン邸、そして近所のヒラルディ邸とトラルパン教会へエイチ・アイ・エスのツアーで参加することになった。この三大バラガン建築に行くにあたり、個人的に予約をすると年内は無理だと言われてしまったので、日本のエイチ・アイ・エスの半日ツアーに急きょ入れてもらうことになった。ツアーは二人で四万円、写真を撮るには五千円のオプションがかかるとんでもなく高かったが、参加して正解だったと自信を持って言える。バラガンの建築を体感せずにメキシコを去るわけにはいかないと思えるほど、彼の建築は素晴らしかったからである。

住むことには「静寂」が何よりも大切なものだというバラガンの建築は、派手な青い壁に塗られたフリーダ・カーロの生家とは違い、外観は驚くほど特徴がない。自然光を愛した彼の建築はすべて入り口が薄暗く、直接照明を嫌い、金属を嫌い、壁に人工の緑色を用いることを徹底的に避け、外の世界を嫌い、メキシコを愛し、庭には音を、壁には光を調節する素材を、家具は一ミリ単位で妥協を許すことなく配置されている。その神経質ともいえる彼の美意識の結集は、息苦しさというよりもただただ生活の中の安らぎや心地よさのために揃えられた優しさに溢れたものとなって、私たちの目を喜ばせるものとなっている。実際ツアーに参加した誰もが建物の持つ荘厳さに言葉を失って、ひたすら降り注ぐやわらかな光や空間に癒されていた。

三大バラガン建築を堪能し、エイチ・アイ・エスのアンケートに「もう少し安くして下さい」と記入した後、今度はリベラ、オロスコ、シケイロスというメキシコ三大巨匠の壁画を見て回るために、メキシコ文部省、サンイルデフォンソ学院などに向かった。特にメキシコ文部省は現役で使われている建物なので、リベラやシケイロスやあらゆる作家の壁画が保護されるわけでもなくむき出しに描かれており、それこそいたずらな旅行者がこすったり落書きが出来てしまうのではないかという危険なたやすさにさらされていた。

 リベラの有名な『革命のパラード』という絵を見ていると、メキシコ革命に対する人々の熱い思いがひしひしと伝わってきて、「勝ち取った」という形での苦しみや喜びのような強いものが溢れていることに心を動かされた。

12月30日。
 
メキシコがすっかり大好きになってしまった私たちはメキシコシティから飛行機で1時間、コズメルというカリブ海にある島へ移動した。「帰りたくない」という思いは、とにかくメキシコ人が親切で丁寧で陽気であることに起因する。さらに何よりもご飯がすべて日本にように美味しい。オレンジジュースはシカゴのヒルトンホテルで飲んだものの5倍は濃いし、スープは日本のように透明なのにしっかりと肉のうまみや海鮮のうまみが出ており、おまけに全体的に薄味だ。パンはアメリカでは食べることのできないふかふかの触り心地をしており、コンビニのクッキーさえもサクサク、チーズケーキは日本同様ほんのりと甘く、ホットケーキは生地のうまみでほっぺたが落ちそうになる。ホテルで食べたチーズはつるんと口の中で溶けたし、トウモロコシ入りのご飯はつややかで適度な塩気と美味しい出汁のようなもので味付けされた極上の一品だった。タコスやトルティージャは言うに及ばず、さらにはコーラ一つをとってもメキシコ産のコーラは甘味料がサトウキビから作られているせいで、アメリカ産のコーラよりも断然美味しいのである。(さすが肥満大国!)
 
コズメルはカンクン同様リゾート地なので、ここでは海を楽しみご飯を楽しむことがメインになる。海岸沿いにはオールインクルーシブルなホテルが軒を連ねており、さらには何隻もの豪華クルーズ船が新年をカリブ海で祝おうと停泊していた。メキシコシティとは違いコズメルは高山病に悩まされることはないけれど、むっとした熱気と陽射しですぐにじっとりとした汗が体中から噴き出してきた。海に入ったり夕日を眺めたりメキシコ料理を堪能すると、その夜はすぐに死んだように眠りこけた。

12月31日。

夜明け前、コズメルからフェリー乗り込み、神秘の泉があるセノーテへシュノーケルをしに行く。フェリーの激しい揺れに二人で吐きそうになりながら、カリブ海の上で2015年最後の夜明けを見る。セノーテはユカタン半島によくできる陥没穴に地下水がたまってできた透明度100メートルの神秘の天然井戸だ。マヤ文明時代にはまたこの美しいセノーテで、定期的に生贄が投げ込まれたというが、今はハイシーズンということもあり、たくさんの観光客がセノーテに集まりこぞって泉に身を投げている。初めてのセノーテ。興奮しながら私もその神秘的な美しい水の中に入るが、どうにもうまく泳げず、あわや溺れかける。ガイドさんがすかさず浮輪を私の方へ投げ、それにつかまって泳ぐように指示する。「落ち着いて、リラックスして。」とアドバイスを受けるが、どうも泉の深さが恐ろしくていけない。ガイドさんについて一斉にセノーテの洞窟をシュノーケルして回るが、暗い洞窟の中、底の底まで見えてしまう深いセノーテの湖、おまけに蝙蝠まで飛んでいる状況にすっかり私は怖気づいてしまった。

白井君は白井君で全く泳ぎが下手なので、二人して必死に浮輪にしがみつきガイドさんを追いかけるので必死だ。同じ参加者の二組のアメリカ人たちは皆すいすい泳いており、ロサンジェルスから来たアメリカ人の男は、浮輪を携えて溺れかかっている私を足蹴りして抜かして行ってしまった。それでもなんとかまともに浮輪を使いながら泳げるようにはなるものの、立ち泳ぎになるととたんに溺れそうになるし、水中温度が冷たくて、水の中で私は足がつる事態もあった。さらに白井君はシュノーケルなのに、なぜか水を大量に飲んでしまったと言いだして水の中で餌付く始末。

ガイドさんが「今から元の洞窟に戻りますが、もう体力の限界な人はいますか?」と聞いたので、私たち日本人二人だけがすごすごとそこから徒歩で元の洞窟に戻ることになった。震えながら歩いて元の洞窟に引き返しながら「魚、キレイだったね。」と言われたけれど、私は返事が出来なかった。なぜなら私は深いセノーテの海の底を見るのが怖くて、ガイドさんのお尻ばかり見ていたからだ。まあいいか。

帰りのフェリーでは、陽気なイタリア人のお金持ちの家族たちが卑猥な英語を叫んで酔っぱらっていた。思えばもう日本は2016年になっている時間だ。私は毎年目標を立てる。2015年の目標は「できないと思っていたことをする」というものだった。アメリカに住むことが出来るとは思っていなかった。メキシコに来ることが出来るとは思っていなかった。そういう意味では目標は達成されたのかもしれない。だけど逆に「できると思っていたことが出来ないと気付いた」こともいっぱいあった。英語なんてなんとでもなると思っていたら、そんな簡単なものではなかったし、セノーテで泳げると思っていたら泳げなかった。太陽のピラミッドも登れると思っていたのに、登れなかった。人生は思いがけないことの連続である。そんなことをぼんやり考えながら、メキシコの最終日が終わった。