« 2006年5月 | メイン | 2006年7月 »

2006年6月 アーカイブ

2006年6月 3日

こんな鎖骨でよかったら

6月3日

ゲイのためなら女房も泣けず(@岡千秋)

というわけで、みなさまお元気でいらっしゃいますでしょうか。
私はとても元気です。5月31日に無事手術を終えまして、本日めでたく退院の日を迎えることができました。お見舞いに来て下さった医局の先生方や、メールを下さった方々に、あらためてお礼申し上げます。
手術自体は本当にあっという間に終わってしまいました。切開した部分と、左肩の後ろ側にやや痛みがありますが(先生によると、手術時の出血が、肩の後ろ側に降りてきて痛むのではないかということでした)、手術前に比べると、随分楽になりました。今は、朝6時に病棟を抜け出して、研究室でこの日記を書いています。
さて、そろそろ最後の朝ご飯の時間なので、病棟に戻ることにします。それではまた近日中にお会いしましょう。


私が今日、偶然に辞書で出会ったことば

おちこち【遠近】「あちらこちら」の意の雅語的表現。(新明解国語辞典第五版より)


おちこちの夢いずくにか村上の

トブ鳥隠す梅雨空の雲

2006年6月 7日

歯医者には羊の「ふん」

6月5日

「しな」【支那】(秦−シンの変化という。もと、中国の仏教書で、自国を読んだ語①「中国」の旧称。もろこし。中華。②俗に中国を呼ぶ名。(新明解国語辞典第四版より)

新明解国語辞典の「しな」に関する記載は、第四版と第五版で異なっている。第五版では、「賤称である」ということがはっきり書いてある。


モンゴルの草原で
相撲を取って負けた
勝者には歓喜の舞
敗者には羊の糞

地球の表面に耳をあてると
地下深く流れる川音のかわりに
物言わぬ雄弁な雲の
断定的な話し声が聞こえる

6月4日

私が今日偶然に辞書で出会ったことば

“flannel” n. 1. A woven fabric with a nap, made of wool or a wool and cotton or synthetic blend. 2. flannels. Trousers or undergarments made of flannel. (WEBSTER’S II DICTIONARY NEW THIRD EDITIONより)

ネルシャツを愛する元くんの父親は鹿撃ちの名人だった

5月31日


“bibliomania” n. An exaggerated liking for acquiring books. (WEBSTER’S II DICTIONARY NEW THIRD EDITIONより)

かりてよむ本は
どこか人の家で遊んでいるようで
帰らなければならない家があるようで
本の世界につかることができない
頁をめくると
なじみのない匂いがのぼり
どきどきするようなやらしい場面では
かし主の顔が頭にちらついて
集中してエッチな気分になれないのだ

5月30日

・「日常生活」こそがすばらしい時間なのだろうか。
 入院患者さん(50代くらいの女性)が、うれしそうにケータイで朝ご飯の作り方について説明している。相手はたぶん娘だと思う。電話の内容からすると、彼女はもう少しで退院できるようだった。退院したら彼女は、今まで何十年もしてきたように朝ご飯を作るのだろう。彼女が今どんな病気で入院しているかは判らない。入院している病棟は婦人科だから、ひょっとしたら悪い病気かも知れない。もしそうならば、短い時間をおいてすぐ再入院という可能性もある。
 限られた時間に多くの人はそれまでと同じ過ごし方をする。それは、そういう風にしか過ごせないからかもしれない。しかし、それはすでに、無意識のうちに自らが選びとった「すばらしい過ごし方」だということではないだろうか。
 わたしはわたしが嫌だと思っていることを、本当に嫌だと思っているのだろうか。わたしはわたしが好きだと思っていることを、本当に好きなのだろうか。

・患者はヒマでありまた忙しい
 時間があるからこそゆっくりとしたいことがある。本を読む。何かを考える。心を落ち着かせる。医師として患者に接するとき、「対話が必要」「患者さんとの時間をたっぷりと取ることが大切」とだけ考えて、こちらの都合で患者の時間を奪っていなかっただろうか。「心の交流」の押しつけをしていなかっただろうか。

・患者のいる場所とはどんな場所か。
 患者は弱い立場にあり、ときに不安になる。家族や愛する人に頼りたくなることもあるだろう。すがりつくような気持ちにさえなるかもしれない。しかし患者は、それと同時に他の人にはわからない高みからそれらの人たちを見おろしている。医療従事者は、患者の病状、性格、生活環境などからその人間を評価するが、患者もまた、患者という立場でしかできないかたちで、健康な人たちを評価しているのだ。

5月27日

私が今日、偶然に辞書で出会った言葉

「みだれる」【乱れる】整った状態や有るべき秩序が失われる。「列〔=列の順序〕がー」(新明解国語辞典第4版より)
 
 乱れた記憶
 記憶の乱れには、①欠失—記憶の一部あるいは全てが損なわれること。②挿入—他の出来事(別の記憶や、でっち上げ。時に願望を含んでいることがある)が入り込んだり、すり替わったりして、元々の記憶の正確性が失われること。等がある。記憶の正確性を保証する権利は、記憶される事象が持つ場合と、記憶する人間が持つ場合、その両者が持つ場合がある。そしてそれは、真に記憶の正確さを保証することの難しさを表しているかもしれない。
正確な記憶を写真に例えるなら、わたしたちの水晶体が像を焼き付けるのはフィルムではなく、キャンバスである。キャンバスの絵画は変容する。変容は生理的だが、病的変容との間を隔てる境界に、有るべき秩序は存在しない。

2006年6月20日

結婚は人生のラス前

6月19日
昨日の日曜日に、結婚報告のパーティーをさせていただきました。
パーティーの発起人になってくださいました内田先生、釈先生、石川先生、江さん、三杉先生と、参加してくださいました皆様に心より御礼申し上げます。

五つの秘密結社の代表の方々から、温かいお言葉と記念の品を頂戴しました。そのほかにも多くの皆様からお心遣いをいただき、嬉しさと恐縮する気持ちがマーブルチョコレートのようにぐるぐると入り混じっています。

「結婚は人生の墓場」
我々ふたりが所属するもう一つのディープな秘密結社、「S川S謡会」のS川先生が、このたびの結婚にあたりまして滋味深いことばを贈ってくださいました。
お互い2度目の鬼籍入りですし、墓石に降る雨も日差しも、気負うことなく受け止めて行きたいと思っております(「君ら、ちゃんと気負えよ」というメッセージのような気もしますが)。

個人的イベントのどさくさにまぎれて甲南麻雀連盟の四半期タイトルを獲ろうとひそかに狙っていたのですが、惜しいところで2位どまりでした。残念だなあ。

2006年6月30日

亀寿司は来月もあります

6月29日

昨日、甲南麻雀連盟の新規副団体である「本マグロの会(仮称)」が、山本画伯と谷口“越後屋”タケシ氏の号令により、曾根崎の『亀すし中店』で開催されたということである(私は、仕事の都合で残念ながら欠席)。

甲南麻雀連盟には「ヒロキの字一色」「会長の高笑い」「シャドーのぼやき」「姐御の発汗」などの名物場面が存在するが、晴れてこの度「画伯のカンパチ」がそのひとつに加えられたのである。誠におめでたい。おめでとうございます。

旨い寿司への未練が残るまま翌日の木曜日を迎え、朝から堺の病院へ行く。行きがけの車の中で、病院のすぐそばに堺市の中央卸売市場があり、その敷地内に回転寿司屋があることを思い出した。ここは、回転寿司とはいえ市場内の寿司屋ということもあり、ひょっとしたら期待できるのではないかと前から気になる店だった。今まで一度も足を運んだことが無かったのだが、これがいいきっかけだと思い立ち、午前中いっぱいの仕事を終えた後でこの寿司屋に入ってみることにした。

記憶の中では、こぢんまりとした店だったと思ったのだが、久しぶりに店の前に建ってみると、かなり大きな規模の回転寿司屋である。二枚の自動ドアを開けて店内にはいると、遠くの方まで続く回転テーブルには、平日の昼前にも関わらず沢山の人が座っていた。客層は、主婦とその母親、定年退職後の夫婦、トラック運転手風の男、と言った感じである。回る寿司台の中には職人が数人いて、更にその後ろの壁に大きな水槽がある。中には、鯛が一匹泳いでいた。水槽の上に「生きアワビ 2800円」という看板が掛かっている。いかにもチェーン店風の店内に少し嫌な予感がして、一瞬食べるのを止めようかとも思ったが、体が要求する寿司への渇望には勝つことができず、結局そのままここで寿司を食べることにした。

一人客であることを案内係の女性に告げると、両脇が塞がった一人がけの席に案内された。まずはじめに、赤だしか、あさり汁などの飲物を注文するように言われる。まるで、「頼むのが当然」というような口振りである。なにも飲みたくなかったから、「とりあえず何もいりません」というと、案内係の女性は、少し驚いたような、気分を害したような顔をして、そのまま去っていった。

ペーパータオルで手を拭き、ティーバッグの抹茶入り玄米茶の用意もそこそこに早速回る寿司を食べ始める。回転寿司の良いところは、一瞬も待たずに食事をスタートできることである。

つぶ貝、中トロ、いくら、カンパチ、いか、と順番に食べていく。板前に頼んだウニを頬張ると、パリとした海苔の食感と香りがウニとともに口の中で混じり合い思わず生ビールを注文したくなるが、なんとかとどまる。ジーコが日本代表のメンバーに求めたプロ意識とは、おそらくこのような自己管理能力なのだろう。

8皿ほどを食べて、値段は2200円。食べたネタの種類から言ってバカ高い店とは言えないが、昼ご飯としてはちょっと贅沢すぎたか。肝心の味の方は、可もなく不可もなく、どれもみなそれなりに旨いというところだった。

会計を済ませて、店を出る。駐車場までの道を歩きながら、「なにかすっきりしない」と思った。空腹は収まった。中トロだって旨かった。でも私は全く満足していない。例えば、死ぬほど腹が減っているときに、とんかつ屋でロースカツ定食を食べた後に感じる幸せ。そう言うものを微塵も感じないのである。昨日から食べたくてたまらなかった待望の寿司を食したにもかかわらず、空腹を満たされた幸せは一瞬にして過ぎ去り、具だけ立派で出汁が足りない味噌汁を飲まされたような気持ちだけがいつまでも続いている。

なぜ私はそんな気持ちになったのだろうか。ありきたりの言葉になってしまうが、結局は、店と店員が「個人としての客と接していない」ということなのじゃないかと思う。人間扱いされていないといったら大げさだが、大きな回転寿司屋のカウンター席に座り、ぐるぐる回る寿司を食べていると、養鶏場のニワトリにでもなったような気がしてくる。一見丁寧そうな態度の店員達が見ているのは、私という個人ではなく、「客」という何だか訳の分からない概念的なものなのである。

私たちの住む場所から少しずつ普通のラーメンや蕎麦屋が消えて、派手な看板とインテリアのチェーン店風の飲食店が増えていく。そして、この手の店で食事をした後は、何とも言えない寂しさを感じることが多い。

別に人情じみた話をしたいわけじゃない。ただ私は、ごく普通の店で熱いものを熱く、冷たいものを冷たく食べたいだけだ。真面目に作ってもらった飯を、真面目に食べたいだけである。しかし、どういう訳かこの手の店ではそう言う感じにならない。お互い別の方向を向いて会話しているようになってしまうのである。

天気の良い日に床屋へ行き、散髪を終えて「ありがとうございました」という声とともに店を出る。外の風が頬にあたり、さっぱりとした気分になる。別に、店員の愛想が良いわけではない。話が盛り上がったわけでもない。それでもそのような幸せを感じることができるのは、「なんだかおれもいい仕事したな」と客のくせに思えるのは、店員とこちらのお互いの人生が、適切に交差しているからなんじゃないだろうか。

何を言いたいのかっていうと、とどのつまり、私は亀ずしで寿司を食いたかったのである。

About 2006年6月

2006年6月にブログ「ドクター佐藤のそこが問題では内科医?」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2006年5月です。

次のアーカイブは2006年7月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。