« 2006年3月 | メイン | 2006年5月 »

2006年4月 アーカイブ

2006年4月 6日

春なので、ちょっと脱力

4月4日(火)

朝から夕方まで守口市にある大学で、学生の健康診断。
グラウンドでは、一日中ソフトボールの練習をしていた。

夕方5時過ぎに研究室へ行き、『癌モデル』の作成について色々と画策する。こそこそとやった。

4月3日(月)

干し椎茸をコップに入れて一日おいた水を毎日飲むと、血圧が下がった。戻した椎茸は、おかずとして食べる。

プルーン(薬局で売っているらしい)を日本酒につけておき、寝る前にたべる。10個食べる。そうすると、便秘から解放される。

93歳のおばあさんに外来で聞いた話です。興味がある方は試してみて下さい。肌はつやつや、とても元気そうなおばあさんで、何が理由で外来に来たのかさえ今では忘れてしまいました。

夜は大学のキャンパス内でお花見。幹事役を務める。病棟の看護婦さんも10名以上来てくれて、総勢50名の大宴会になった。

宴会は、ケータリングの焼き肉&おでんである。4年前のお花見シーズンに、医局のS先生が『おはよう朝日』というテレビ番組でこの出張焼き肉サービス会社を発見し、それ以来ここに宴会を頼んでいる。

去年は雨で花見が中止になってしまったのだが、今年は天気に恵まれた。前日も翌日も雨だったことを考えると、誠に幸運であった。

4月2日(日)

京都市内で2泊3日の日程で開かれたセミナーから帰宅。思っていた以上に疲労した。

臨床的な内容の会だった。たぶん勉強になったのだと思う。

2006年4月12日

山田さんの憂愁

 医者は患者の話をよくきかなければならない。
 学生時代に何度も、あるいは研修医時代にもしつこいくらいにそう教わった。
 誰にいつ教わったかと言われると困るが、医学教育の世界ではだいたいそう言うことになっている。
 医療訴訟の原因は、患者と信頼関係を築けないことが原因でおこる。たとえ医者の側にミスがあったとしても、患者との間に信頼関係さえあれば、裁判沙汰にまではならないことが多いのだそうだ。

 「おはようございます。調子はいかがですか」
 
 外来に来た山田さんに僕は聞く。
 
 「はい。少しは元気になったような気がします。でも、息子との折り合いが悪くてストレスばっかりです」

 山田さんは息子と仲が悪い。
 山田さんの息子は山田さんの本当の息子ではない。
 山田さんの息子はもともと、山田さんのご主人の妹の息子だった。
 山田さんと山田さんのご主人の間には子供ができず、二人はずっと二人きりで暮らしていた。
 山田さんはいま七七歳だから、山田夫婦は恐らく五十年以上、二人きりで暮らしていた。
 そして今から三年前に、山田さんの妹の息子が養子として山田家にやって来た。
 それは山田さんの知らないところで、山田さんのご主人が山田さんの妹と相談して勝手に決めたことだった。
 養子縁組に関して山田さんにはすっきりしないところがあったが、息子と住まいは別々のままだったので、山田さん夫婦の生活はそれまでと変わらないまましばらく続いた。

 しかし、山田家に新しい家族ができてから、二年後のこと。
 今から一年前に、山田さんのご主人は自殺してしまった。
 その日、畑で農作業をしていた山田さんが家に帰ると、山田さんのご主人は、居間で首を吊っていた。  
 山田さんのご主人は、いつだって大事なことを山田さんに相談することなく決めてしまう人だった。山田さんのご主人は最後の最後までそういう人だったのだ。
 もっとも、人が自殺をするときに、周りの人間にどの位相談するのか僕はよくしらない。
 僕が大学時代にお世話になった鳴海先生も、奥さんに何の相談もなく自殺した。
 体調が悪くて病院に入院した鳴海先生は、奥さんに「ジュース買ってきて」と言った。 
 そして鳴海先生は、奥さんがジュースを買いに行っている間に病院の窓から飛び降りて死んだ。
 自殺をする人が、「おれは自殺するから、後のことはよろしくね」と断ったということはあまり聞いたことがないから(それでは何だか忠臣蔵みたいだし)、山田さんのご主人も鳴海先生も、自殺者としてはごく普通の行動だったのかもしれない。
 鳴海先生の場合は、うつ状態で薬を飲んでいたという経緯があったから、もしかしたら奥さんは、悲しみの縁のあたりで「そんなこともあるかもしらん」くらいの気持ちを持ったかもしれない。
 そういえば、鳴海先生の奥さんは内科医だった。
 
 山田さんのご主人の自殺は、本当に何の前触れもなかった。

 「突然だったんですか」

 と僕が聞くと、

 「突然だったんです」

 と山田さんは答えた。

「何の前触れもなく?」

「はい。何の前触れもなく。でも、わたし、けっこう鈍い方だから…」

 山田さんはそう言って、少し顔を俯かせた。
 俯いた山田さんの顔を向かい側から見ると、両方のほっぺたが横にはみ出している。
 山田さんは、自己免疫性溶血性貧血という病気でステロイドの錠剤を飲んでいるから、顔がまん丸に膨らんでいる。
 ムーンフェイス(満月様顔貌)といわれるステロイドの副作用だ。

 「友だちに、顔がふっくらして可愛くなったねって言われるんです」

 山田さんはそう言って、力なく微笑む。
 七七歳の満月は、重力に負けて両端が垂れさがっている。肝心の貧血の方は、ステロイドを飲んで、ほんの少しだけ良くなった。それでも、ヘモグロビンの数値はかろうじて輸血をしなくていいくらいでしかない。
 今月はステロイドを増やしも減らしもせずに処方した。

 
 「山田さん、お入り下さい」

 一月後の外来で、僕は山田さんを呼んだ。

 一月後の山田さんのほっぺたは、相変わらずふっくらして、両側が垂れ下がっている。垂れ下がりがそれ程進んでいないのを知って、僕は少し安心する。貧血のために顔色は白い。

 「先生、眼科で瞼の手術をしてもらいました」

 山田さんの顔をよく見ると、以前と比べてずいぶん目がぱっちりしている。少し不自然にもみえるが、けっこう可愛らしい。

 「瞼が垂れ下がって前が全然見えないから、手術してもらったんです」

 「そうですか。よく見えるようになりましたか」

 「はい。みえるようになりました。」

 「体は疲れ易くないですか」

 「あまり変わりません。でも、嫌なことばっかりです」

 山田さんはそう言って、顔を俯かせる。

 「息子は仕事を辞めちゃって、女房と一緒に一日中家でごろごろしているんです。農作業もできません。やったことないんです。今の若い人に、農作業なんてできません」

 山田さんは話しが上手で、こちらが飽きた頃に、新しい情報を与えてくれる。

 「先生にそんなこと言っても仕方ないのはわかっているんですが。わたし、こんなこと誰にも言えないんです。相談できる人が誰もいないの」

 山田さんは、そう言っていつもめそめそする。

 何も言わないわけにはいかないので、僕は何か言葉を口にする。

 「血液検査は、悪くはなっていないから大変だと思うけどあまり気を落とさずに、生きていって下さい」

 などと言ってみる。

 心を込めたつもりの言葉が、口から離れて耳から聞くと、冷たい言葉だったような気がしてくる。
 失敗したかなあと思いながら山田さんの顔を見ると、あまり傷ついた風にも見えない。僕の言ったことなどあまり聞いておらず、なにか他の事でも考えているみたいだ。

 血圧を測り、それから診察をする。

 カルテに、「体の調子は変わらないが、ストレスが多い」と書く。
 ステロイドの薬と、一緒に飲んでもらう胃薬をカルテと処方箋に記入する。処方箋にはサインをして、カルテには次回診察時の検査項目を記入する。

 「お大事にしてくださいね」

 僕はそう言って、やんわりと山田さんの退室を促す。
 山田さんは顔を上げて、

 「ありがとうございました」と力無く答える。

 「あの、先生」

 「なんでしょう」

 「ゲートボールしていいですか」

 山田さんは浮かない顔をしながら僕に尋ねる。

 「いいですよ。休みながらやって下さい」

 山田さんにゲートボールのことを尋ねられると、僕はいつもきまって、そう答えることにしている。

2006年4月28日

個人的な体験/夕暮れの盛岡篇

4月25日

 今年の春、私は、1年4ヶ月ぶりに本州北端、津軽半島の少し南の盛岡を一泊二日ほどかかって一回りしたのであるが、それは、私の三十幾年かの生涯に於いて、重要な事件の一つになった。私は盛岡に生まれ、そうして二十九年間盛岡に於いて育ったが、それ以外の岩手県の町についてはあまり知ることがない。研修医時代に半年間を過ごした二戸市、同じような理由でやはり半年を過ごした青森県八戸市、スキー場やゴルフ場のある、安代町や松尾村(この二つの町村は、平成の大合併により現在は「八幡平市」となっている)、それだけの町を見ただけで、その他の町村に就いてはほとんど知ることが無かったのである。もっとも、私が今回の小旅行を「重要」と言ったのは、知らなかった岩手の町について知ることができたからというわけではない。これは、それよりもやや事務的な理由で重要な旅だった。
 繰り返しになるが、盛岡は私の生まれた町である。盛岡は北上盆地の北端にあり、人口29万の、これという特徴もない町だ。都会風に気取った所があるとも思えない。善く言えば、控えめで穏やかであり、悪く言えば、保守的で面白味のない町という事になっているようである。それから130キロほど南下すると、仙台がある。こちらは盛岡と比べるとかなり大きな都会で、最近はサッカーや野球のプロスポーツチームまである。東北の中核都市だから、東日本を中心にビジネスマンや学生が日本中から集まっている。都会特有の、あの孤独の戦慄が、横溢とまでは行かないが、ごく当たり前に見受けられる町だ。仙台は古い歴史を持つ町である。しかし、その歴史と都市化の間にやや滑稽な不調和がある。この雰囲気は名古屋で感じるものと似ているところがある。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりにアメリカを例に取るならば、名古屋はシカゴ、仙台はシアトル、盛岡はポートランドである。シカゴの、「第三文明軸」的存在感は、どこか名古屋を思わせる。太平洋に面している静かな北部都市というのが、シアトルと仙台の共通点である。ポートランドは、景色が良いことで有名なアメリカ北部の小都市だが、盛岡もまた、山に囲まれ、市の中心部に川が流れる、景色の美しい町だ。緯度が高く、冬は非常に寒い。人々は控えめで、何を考えているのか簡単にはわからないところがある。全てのことに対して一歩引いた感じが、人だけではなく町全体に流れている。長く住んでいる間には気が付かなかったが、盛岡とはそういう町なのだ。そこには、「あるものはあり、無いものはない」という状況だけが、ただ静かに存在している。
4月22日は、14時50分発の飛行機で、伊丹から花巻空港へ向かった。この日は土曜日だったので、芦屋の体育館で行われている合気道の稽古に途中まで参加した。帰りがけにお菓子を二折買ってから家に戻り、車で伊丹空港へ行った。道路が空いていたので、30分ほどで空港についた。チェックインと手荷物検査を終えて搭乗口につくと、ちょうど機内への誘導が始まったところだった。 
飛行機はとても小さかった。そして、離陸直後からひどく揺れた。私は機内誌を読んでいたのだが、持続する小刻みな振動で気分が悪くなり、目を閉じて眠ることにした。しばらくして目が覚め、窓の外を見ると、雲の間に突き出た山並みが見えた。山は雪で覆われていて、よく観察しないと、それが山なのか雲なのか判らなかった。

「これって、日本アルプスでしょうかね」

僕は彼女に聞いた。

 「どうでしょう。そうかもしれないわね」

 彼女は窓際の席に座っており、大江健三郎の小説を読んでいた。横からのぞき込むと、「鳥(横に、バード、とふりがなが振ってある)」とか、「性交」といった文字が目に飛び込んできた。もう一度窓の外に目をやると、雲間の山並みはいっそう高さを増し、針葉樹に包まれた青い山肌が見え始めた。山は、手が届きそうなくらい近くに見えた。この窓から飛び出して、尾根の上を駆け渡って行けそうなくらいに山は近かった。実際にパラシュートで飛び降りたとしたら、私の姿は、瞬く間に米粒ほどの大きさになり、そして山肌の中に消えてしまうだろう。そう思うと、この山々の大きさが、自分の中で理解できなくなってきた。今、目の前にはっきりと見えるこの美しく大きな山脈が、まったく現実感のないものに思えてきた。しばらく山をみていると、それらは飛行機の腹の下に隠れはじめた。彼女は小説に飽きたのか、今度は機内誌をめくっている。窓外の景色にはあまり興味がないようだ。窓枠から山が完全に外れてしまったので、私も持ってきた本を読み始めた。ヘミングウェイの短編集だった。窓の外を見ているうちに、飛行機酔いは幾分楽になっていた。しばらくの間、本を集中して読んだ。そして、文庫本の文字を追っているうちに、ゆっくりと瞼が落ちてきた。瞼が落ちかけた場所にある暗がりは、小説の中とも現実とも違う世界だった。眠気をこらえながら小説にすがりついていると、私は頭の中で、小説に引き続いた異なるストーリーを読んでいた。会話の途中で眠りに入り込むと、暗がりの中で登場人物がそのまま会話を続ける。そして、いよいよ完全な暗闇が訪れようとするときに目が覚める。気を取り直して再び小説を読み始めるのだが、暗闇は直ぐにまた訪れる。三つの世界が入り交じり、頭の中が溶けたチョコレートのように暗くなったところで僕は読書をあきらめ、もう一度眠りについた。
 今度は客室乗務員の女性が飲み物を運んでいる気配で目が覚めた。私は、ゆずジュースをもらった。選択肢が、ゆずジュースとウーロン茶しかなかったのだ。飛行機はまだ空高いところにいた。彼女はふたたび小説を読んでいる。

「ずいぶん熱心に読んでるね」

「これをやりたいって言う学生がいるの。わたし、当然、前に読んでいると思っていたんだけど、ぱらぱら読んでいるうちに、全く読んだことが無いことに気がついて、いま慌てて読んでるの。でも、疲れた。もう止めたわ」

 間もなく飛行機は着陸態勢に入り、いわて花巻空港に到着した。16時15分だった。
 空港から盛岡駅行きのバスに乗った。花巻空港から盛岡駅までは、バスで一時間弱の距離である。バスの中は比較的混んでいた。初老の観光客のグループが7,8名、ビジネスマン風の男性が数人、スーツを着た20代前半くらいの男の集団が5人くらい、大きな旅行用カバン(最近よくある、台車付きのもの)と、おみやげの紙袋を持っている女の子が一人、そして私たちである。
 バスが走り始めるとすぐに、私たちの後方に座っていた若い男の携帯が鳴った。会話から察するに、若い男性の集団は、結婚式に出席するために秋田へ向かっているところのようだった。話をしている男の子は、電話の相手に対して、予定よりも到着が遅くなりそうだと伝えていた。話し声が大きく、電話を早く切り上げようという姿勢も感じられなかった。10分ほどして、男の子はようやく電話を切った。バスは、国道四号線から高速道路に入った。花巻インターチェンジの入り口のところに、新しいパチンコ店ができていた。
 盛岡南インターチェンジに差し掛かったあたりから、岩手山が見えてきた。山の中腹から上に、雲がかかっている。山にはうっすらと西日が当たっている。前方の観光客グループから、「あらまあ」とか「きれいねえ」という声が聞こえてきた。バスは、盛岡インターチェンジで、一般道に下りた。盛岡の西の端にあるインターチェンジから市内へ向かう途中には、大きなショッピングモールができていた。広い駐車場に沢山の車が停めてある。そのあたりで、また後ろの座席の方から電話の話し声が聞こえてきた。前と同じ男の声だった。今度は自分から電話をかけたらしい。相手は女の子のようだった。「いまな、結婚式で秋田に向かっている途中なんだけどな…」とか、「声が聞きたくなってん」などという会話の断片が、車内に響いている。バスはそれ程時間を待たずに到着するし、気にしないでおこうと思ったのだが、電話の会話は益々盛りあがり、時々大きな笑い声まで混じり始めた。そして、「あのな、今バスの中だから、あまり大きな声、出されへんねんけどな」と男の子が言ったとき、

 「もう十分声が大きいんだよ。切れよ。うるさい」

と言う声が聞こえてきた。どこから聞こえてきたのかは、直ぐ判った。なぜなら、言ったのは私だったからである。

「なによ、子供も喧嘩みたいに」彼女は直ぐに言った。

「あのな、バスの中にひとりうるさい奴がおんねんやんかあ。だからな、もう切るわ。じゃあまた後で。ほなな」

そう言って男の子は電話を切った。普段の私なら、まずそんなことは言わない。しかし、この時は、いつの間にか口からあのような言葉が出てしまった。あの男というよりも全体の状況が気に入らなかったのだと思う。バスはそれから10分ほどで盛岡駅に停車した。荷台から荷物を下ろし、降車の順番を待った。私は彼女を先に並ばせた。彼女のすぐ前は、荷物を沢山持った若い女性だった。荷物の大きさからいって、彼女も結婚式に出席するのだろう。私のすぐ後ろには、携帯で話していた男を含む若者のグループが並んだ。若者達は静かだった。彼らは何も言わず、私の後ろにぴったりとくっついて並んだ。降車口では、観光客グループのおばさんが、料金の支払いに手間取っていた。おばさんがようやく1260円のバス代を支払い終わると、行列はゆっくりと前に進み始めた。彼女の降りる順番が来て、空港で買ったバスチケットを運転士に渡す。次に私がチケットを渡す。そして、ロータリーに降りる。私はゆっくり歩き出そうとする。しかし、数歩歩いたところで、彼女が立ち止まり、何か荷物の中身を調べ始めた。私はバスに背を向けたまま、彼女の調べものが終わるのを待っている。私は、左手に一泊二日分の荷物が入ったバッグを持っている。右手には、大きなアンリ・シャルパンティエの袋を持っている。私はバスに背を向けたまま、彼女の調べものが終わるのを待つ。バスからは人が降り続けている。それ以外のことは何もわからない。彼女の調べものはまだ終わらない。
 
「何を探しているの」

 できるだけさりげなく聞いた。

「いや、ちょっと。コンタクトレンズの…」

「あ、あった。ありました。大丈夫です。お待たせしました」

彼女がそう言ったとき、丁度私の背後に停車したバスが動き始めた。

「そう。じゃあ、行こう。ホテルは、もうそこだから」

「帰りの飛行機で飲む酔い止め薬を買っていきたいんだけど…。ちょうど、あそこに薬局があるわよ」

バスロータリーの浮島から道路を挟んで向かい側にある駅ビルを見ると、北の端の方に薬局の緑の看板が見えた。

「じゃあ、そうしましょう」

私たちは、横断歩道をわたり、駅ビルに向かった。横断歩道を渡るとき、さりげなく立ち去った空港バスの方を見たが、もうそこには誰もいなかった。時刻はまだ午後5時20分だった。


 

2006年4月30日

結婚報告ならびに盛岡じゃあじゃあ麺事情

 4月29日

 神戸女学院大学の飯田祐子先生と4月27日に入籍しました。皆様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 
 合気道のお稽古と、甲南麻雀連盟で入籍の報告をさせていただきました。28日には大学でも、上司の先生方に報告いたしました。
 皆さんに祝福して頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。


 4月28日
ホテルでチェックインを済ませ、部屋に荷物を置いた。彼女は着替えをした。母との約束の時間までには一時間ほど余裕があった。そこで、私たちはじゃあじゃあ麺を食べに行くことにした。朝から研究室に行ったり、合気道に行ったりで、ご飯を食べ損ねていたのである。
 ホテルから10分ほどタクシーに乗り、県庁の前で下りる。大きな道路を渡って桜山神社の鳥居をくぐると、神社まで続く道の両脇に、小さな商店が並んでいる。酒屋、蕎麦屋、焼鳥屋、薬局、床屋などがある。じゃあじゃあ麺の店「白龍」は、神社に向かって右手、薬局のひとつ手前にある。白龍の斜め向かいには、「三平食堂」がある。ここの名物は麻婆ラーメンである。弟が好きで、よく通っていた。
 白龍に初めて来たのは中学一年の時だった。同級生の林に誘われて、確か、友だち同士3人だった。土曜の夜、英語の塾に行く前だったと思う。林は昔この辺りに住んでいて、家は神社の直ぐ向かいにある着物屋だった。今は、その着物屋はもう無くなっている。林は、東京の大学を出た後、盛岡に戻って銀行員になった。そしてこの春、10年以上勤めた銀行をやめて外資系の生命保険会社に転職した。
 白い暖簾をくぐり、茶色いアルミの引き戸を開けて店内に入る。店内は外の静けさからは想像もつかないほど多くの人でいっぱいだった。盛岡の人は静かなのだ。幸いカウンター席が二つだけ空いていたので、私たちはそこに座り、じゃあじゃあ麺の小盛を二つ頼んだ。メニューは、じゃあじゃあ麺(うどん風の麺に肉みそと胡瓜、ネギがのっている)、ろうすう麺(同様の麺の汁物)、水餃子、ビール、酒、これだけである。ほとんどの人は、じゃあじゃあ麺を食べる。混雑しているときはオーダーしづらいが、水餃子も美味しい。満席の店内は、誰一人として食べている人がいない。みんな麺が茹で上がるのを待っているのだ。太くてしっかりとした麺なので、茹で上がるのに10分以上かかる。麺の準備ができると、店の人が手早く盛りつけをして、一斉にじゃあじゃあ麺が配られる。以前は40代から60代のおばさん達数人が店を切り盛りしていたのだが、ここ数年は、若い男の子数人が、タオルを頭に巻き、ネイビーブルーのTシャツにエプロンという「現代ラーメン屋風スタイル」で、店を手伝っている。先代から店を引き継いだ娘さん(といっても、もう60代だろう)だけが、昔と変わらない姿でカウンターの中に立っている。
 この店は、戦後間もなくの頃に、中国からの帰還兵だった先代が始めたのが最初だったと聞いている。林は、物覚えがつくかつかないかの頃からこのじゃあじゃあ麺を食べていて、マダム(先代の娘のこと)とも親密な関係にある。林に聞いたところによると、先代は、店で最後の時を迎えたそうだ。頑固者として知られていた先代は、ある日厨房の中で突然倒れた。カウンター席でそれを見ていた客が、「あっ、おやじが倒れた!」と叫び、それから間もなく亡くなったという。この元祖がいたからこそ、今、隆盛を極めている白龍があるわけである。
 昔は「じゃあじゃあ麺」といえばイコールこの白龍のことを指していたのだが、最近は、「盛岡じゃあじゃあ麺」として、おそらくこの白龍とは何も関係の無いかたちで、いろいろな場所に店ができているようだ。書くときは「じゃあじゃあ麺」と書くが、盛岡の人はほとんど「じゃじゃめん」というふうにこれを呼ぶ。もっと縮めて、「じゃじゃ」という人もいる。いまでこそ盛岡名物の一つとして、地元の人はほとんど知らない人がいないまでになったこの「じゃじゃ麺」であるが、以前はそれほど有名なものではなかった。実際、盛岡生まれ盛岡育ちで、しかもこの店がある東大通り商店街からもそれ程遠くない所で育った母は、私が中学生になって初めてこの白龍に来るまで、その存在を知らなかった。土産物として「盛岡じゃあじゃあ麺」を売り出すようになってから、急激に認知度が高まったものと思われる。
 麺が茹で上がるのを待ちながら、テレビの水泳日本選手権を何となく見ていた。そういえば、湾岸戦争が開戦したニュースを初めて見たのもこの店のテレビだった。暗闇の中をパトリオットミサイルが飛び交い、父ブッシュが演説をしていた。店の壁には、「焼き餃子始めました」「お子様じゃあじゃあ麺始めました(じゃあじゃあ麺とおもちゃ付き)」という張り紙が貼ってある。入り口には、いつの間にか行列ができていた。
 マダムの息子が、大鍋から一本の麺をつまみ出して、口に入れる。カウンターに座る客全員がその姿を注視している。息子は頷きもせず、おもむろにざるを鍋につっこんで、一皿一皿に麺をのせ始めた。頭タオル巻きの若者が、複雑なオーダー順を全て憶えている。

「真ん中テーブルさん、普通2、大盛り1、小盛1。つぎ、奥テーブルさん、普通3、小盛1。こちらのカウンター普通1、小1です」

 息子はその順番通りに、皿に麺をのせていく。麺の上に、マダムが、肉みそ、胡瓜、ネギ、をのせる。その上から白い粉を小さいスプーンでごく少量振りかける(おそらく味の素だと思うが、高校生の頃、僕たちはこの粉末を「ヤク」と呼んでいた)。他のエプロン姿の若者達が、皿の脇に刻み生姜と紅生姜をのせ、店内の客達にじゃあじゃあめんが一斉に配られる。
 しばらくして、私たちのところにも小盛が二皿運ばれてきた。たっぷりの酢と少々のラー油を振りかける。彼女の皿にも同じようにかける。私の皿は、少しだけおろしニンニクを肉みその上にのせる。そして、よくかき混ぜて食べる。酢が強めに効いているのが私の好みだ。麺を食べ終えると、皿の上に生卵を割り、かき混ぜる。混ぜ終えたら、「お願いします」と言って、皿をカウンターの上にだす。すると、マダムが熱々の麺のゆで汁を皿に入れてくれる。肉みそと、ネギを入れて、さっとかき混ぜ、返してくれる。「ちーたん」という食後のスープである。少々の塩と、胡椒をふりかけて食べる。
 スープ入りの皿を返してくれるとき、マダムに
 「レンゲいりますか」と聞かれた。
 マダムは、ジーンズにジャンパー姿の客に、「レンゲいりますか」とは聞かない。少しだけ整った身なりをしていたから、マダムは私たちを観光客だと思ったようだ。
 先に、ちーたんを飲み終わった私は彼女が食べ終わるのを待ち、持ち帰りの麺と肉みそを4人前買って店を出た。二人とも額にうっすらと汗をかいている。外は薄暗いが、まだ明るさは残っていた。鳥居の方に向かって歩き、県庁の向かい側で、タクシーが来るのを待った。 
 タクシーに乗り、盛岡地裁と岩手銀行ビルの間を北に向かう。裁判所前の石割桜は、まだ咲いていない。実家はここから車で5分くらいのところにある。実家と言っても、そこは私が生まれ育った家ではない。4年前に、両親が二人の終の棲家として建てた二人だけの家だ。私が住んでいた家は、ここからもう少し北に行ったところにある。その家には、この春から弟が一人で住んでいる。弟は、一般病院での2年間の初期臨床研修を終えて、4月から大学の皮膚科に入局した。
 寺町通りといわれる道を北に向かって走り、東顕寺の向かい側で車を降りる。麺販売専門の蕎麦屋の横の路地を西に入ると、父と母が住む家がある。家の向かいにも光照寺という寺がある。インターホンを押すと母が出てきた。母は、可愛い割烹着風のエプロンをしていた。青のギンガムチェックに模様が少し入っている。私には母の着るものを恥ずかしがっている余裕はなかった。

 「こんにちは。元気ですか。こちらが飯田祐子さんです」

 「初めまして。佐藤雅子です」

 母は、おどけるように少しかしこまって言った。

 「初めまして、飯田祐子といいます」

 祐子さんがそう答えた。「いいます」のところが少し緊張ぎみだった。私はちょっとだけ恐縮した。

 「会議が思ったよりも長引いてね、さっき帰ってきたばかりなの。いま、夕ご飯の準備始めたばかりだから、少しかかるけど、いいでしょ」

 母が言った。事務的に会話をすることで、初対面の気詰まりな感じを紛らわそうとしているのだろうと思った。こういうところは親子でとても似ていると思う。

 「全く問題ないよ。いまじゃじゃ麺食べてきたの。じゃ、あがります」

 「どうぞ。ちらかってるけど」

 コートを脱いで、家に上がった。家の中には母しかいなかった。父は約束があり、少し前に出掛けたところだった。9時頃には帰って来るという。居間には電灯がついていなかった。母は台所だけに明かりをつけて、母と私たち3人の夕食の準備をしてくれていた。 居間の明かりをつけて、ソファーに座った。母は台所に戻った。私は何となく落ち着かず、直ぐに立ち上がり、ダイニングテーブルのそばにある小さい仏壇に線香をあげた。ソファーに戻ると、母がお茶を持ってきてくれた。お茶を飲みながらテレビをつけると、関西の若いお笑い芸人が、富山にホタルイカを食べに行く番組をやっていた。ホタルイカの醤油漬けに合う醤油を探すために、3人のお笑い芸人が、醤油醸造所を尋ねていた。木の樽についた蛇口をひねると、醤油が出てくる。それを聞き酒用のぐい飲みに取り、小指を醤油につけて嘗めている。「この醤油甘い」「ほんまに甘い」と、芸人達は大袈裟に感嘆している。
 
 「こちらで、関西弁をきくとちょっと不思議な感じね」

 祐子さんが言った。テレビを見たり、知り合いに電話をしているうちに、30分ほどで夕食の準備ができた。食事を運び、ワインを開けて、私たちは食事を始めた。

About 2006年4月

2006年4月にブログ「ドクター佐藤のそこが問題では内科医?」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2006年3月です。

次のアーカイブは2006年5月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。