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山田さんの憂愁

 医者は患者の話をよくきかなければならない。
 学生時代に何度も、あるいは研修医時代にもしつこいくらいにそう教わった。
 誰にいつ教わったかと言われると困るが、医学教育の世界ではだいたいそう言うことになっている。
 医療訴訟の原因は、患者と信頼関係を築けないことが原因でおこる。たとえ医者の側にミスがあったとしても、患者との間に信頼関係さえあれば、裁判沙汰にまではならないことが多いのだそうだ。

 「おはようございます。調子はいかがですか」
 
 外来に来た山田さんに僕は聞く。
 
 「はい。少しは元気になったような気がします。でも、息子との折り合いが悪くてストレスばっかりです」

 山田さんは息子と仲が悪い。
 山田さんの息子は山田さんの本当の息子ではない。
 山田さんの息子はもともと、山田さんのご主人の妹の息子だった。
 山田さんと山田さんのご主人の間には子供ができず、二人はずっと二人きりで暮らしていた。
 山田さんはいま七七歳だから、山田夫婦は恐らく五十年以上、二人きりで暮らしていた。
 そして今から三年前に、山田さんの妹の息子が養子として山田家にやって来た。
 それは山田さんの知らないところで、山田さんのご主人が山田さんの妹と相談して勝手に決めたことだった。
 養子縁組に関して山田さんにはすっきりしないところがあったが、息子と住まいは別々のままだったので、山田さん夫婦の生活はそれまでと変わらないまましばらく続いた。

 しかし、山田家に新しい家族ができてから、二年後のこと。
 今から一年前に、山田さんのご主人は自殺してしまった。
 その日、畑で農作業をしていた山田さんが家に帰ると、山田さんのご主人は、居間で首を吊っていた。  
 山田さんのご主人は、いつだって大事なことを山田さんに相談することなく決めてしまう人だった。山田さんのご主人は最後の最後までそういう人だったのだ。
 もっとも、人が自殺をするときに、周りの人間にどの位相談するのか僕はよくしらない。
 僕が大学時代にお世話になった鳴海先生も、奥さんに何の相談もなく自殺した。
 体調が悪くて病院に入院した鳴海先生は、奥さんに「ジュース買ってきて」と言った。 
 そして鳴海先生は、奥さんがジュースを買いに行っている間に病院の窓から飛び降りて死んだ。
 自殺をする人が、「おれは自殺するから、後のことはよろしくね」と断ったということはあまり聞いたことがないから(それでは何だか忠臣蔵みたいだし)、山田さんのご主人も鳴海先生も、自殺者としてはごく普通の行動だったのかもしれない。
 鳴海先生の場合は、うつ状態で薬を飲んでいたという経緯があったから、もしかしたら奥さんは、悲しみの縁のあたりで「そんなこともあるかもしらん」くらいの気持ちを持ったかもしれない。
 そういえば、鳴海先生の奥さんは内科医だった。
 
 山田さんのご主人の自殺は、本当に何の前触れもなかった。

 「突然だったんですか」

 と僕が聞くと、

 「突然だったんです」

 と山田さんは答えた。

「何の前触れもなく?」

「はい。何の前触れもなく。でも、わたし、けっこう鈍い方だから…」

 山田さんはそう言って、少し顔を俯かせた。
 俯いた山田さんの顔を向かい側から見ると、両方のほっぺたが横にはみ出している。
 山田さんは、自己免疫性溶血性貧血という病気でステロイドの錠剤を飲んでいるから、顔がまん丸に膨らんでいる。
 ムーンフェイス(満月様顔貌)といわれるステロイドの副作用だ。

 「友だちに、顔がふっくらして可愛くなったねって言われるんです」

 山田さんはそう言って、力なく微笑む。
 七七歳の満月は、重力に負けて両端が垂れさがっている。肝心の貧血の方は、ステロイドを飲んで、ほんの少しだけ良くなった。それでも、ヘモグロビンの数値はかろうじて輸血をしなくていいくらいでしかない。
 今月はステロイドを増やしも減らしもせずに処方した。

 
 「山田さん、お入り下さい」

 一月後の外来で、僕は山田さんを呼んだ。

 一月後の山田さんのほっぺたは、相変わらずふっくらして、両側が垂れ下がっている。垂れ下がりがそれ程進んでいないのを知って、僕は少し安心する。貧血のために顔色は白い。

 「先生、眼科で瞼の手術をしてもらいました」

 山田さんの顔をよく見ると、以前と比べてずいぶん目がぱっちりしている。少し不自然にもみえるが、けっこう可愛らしい。

 「瞼が垂れ下がって前が全然見えないから、手術してもらったんです」

 「そうですか。よく見えるようになりましたか」

 「はい。みえるようになりました。」

 「体は疲れ易くないですか」

 「あまり変わりません。でも、嫌なことばっかりです」

 山田さんはそう言って、顔を俯かせる。

 「息子は仕事を辞めちゃって、女房と一緒に一日中家でごろごろしているんです。農作業もできません。やったことないんです。今の若い人に、農作業なんてできません」

 山田さんは話しが上手で、こちらが飽きた頃に、新しい情報を与えてくれる。

 「先生にそんなこと言っても仕方ないのはわかっているんですが。わたし、こんなこと誰にも言えないんです。相談できる人が誰もいないの」

 山田さんは、そう言っていつもめそめそする。

 何も言わないわけにはいかないので、僕は何か言葉を口にする。

 「血液検査は、悪くはなっていないから大変だと思うけどあまり気を落とさずに、生きていって下さい」

 などと言ってみる。

 心を込めたつもりの言葉が、口から離れて耳から聞くと、冷たい言葉だったような気がしてくる。
 失敗したかなあと思いながら山田さんの顔を見ると、あまり傷ついた風にも見えない。僕の言ったことなどあまり聞いておらず、なにか他の事でも考えているみたいだ。

 血圧を測り、それから診察をする。

 カルテに、「体の調子は変わらないが、ストレスが多い」と書く。
 ステロイドの薬と、一緒に飲んでもらう胃薬をカルテと処方箋に記入する。処方箋にはサインをして、カルテには次回診察時の検査項目を記入する。

 「お大事にしてくださいね」

 僕はそう言って、やんわりと山田さんの退室を促す。
 山田さんは顔を上げて、

 「ありがとうございました」と力無く答える。

 「あの、先生」

 「なんでしょう」

 「ゲートボールしていいですか」

 山田さんは浮かない顔をしながら僕に尋ねる。

 「いいですよ。休みながらやって下さい」

 山田さんにゲートボールのことを尋ねられると、僕はいつもきまって、そう答えることにしている。

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2006年4月12日 09:41に投稿されたエントリーのページです。

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