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2005年3月 アーカイブ

2005年3月10日

ブルーノ・サンマルチノの涙

3月5日(土)

立体駐車場で非常停止ボタンを誤打。大変なことになる。

その後、合気道のお稽古へ。

3月4日(金)

鴨なんばの日

3月3日(木)

注射当番の日

3月2日(水)

バッドボーイズ(ビル・レインビア、アイザイア・トーマス、デニス・ロッドマン)がマイケル・ジョーダンをいじめている頃、ブルーノ・サンマルチノ(人間発電機)は、心で涙を流していた

今日も誰かが泣いている

3月1日(火)

ハワイとヒワイと悲哀の三種混合ワクチン

2月28日(月)

外来出張の日。風邪の人がたくさん来た。帰りに立ち寄ったうどん屋では、親父が立腹していた。なぜ立腹していたかはいまいちよくわからない。
 

2005年3月11日

三軸自在極楽スキーの会のために

3月10日(木)

日曜日から水曜日までスキー。
天候にも恵まれて、3日間たっぷりと滑ることができた。料理や温泉も十分すぎるほど堪能した。

木曜日は重たい体を引きずって大学へ。
体にはまだスキーの感覚が残っているようで、廊下を歩いていると、ついついスキーでゲレンデを滑り降りるイメージを頭に思い描いてしまう。

ねずみ色をした薄汚い廊下の床が、僕の網膜の後ろ側では、粉雪が舞い飛ぶ白銀の整地バーンに変化しているのだ。

極楽スキーの会では、向上心を持つことが厳しく禁じられているのだけれど、今のスキー界が一体どうなっているのかというのが少し気になり、全日本スキー連盟のホームページを初めて閲覧する。

すると、なんということか、そこでは「わかり易い2軸理論」というものが展開されているではないか。

ナショナルデモンストレーターの嶺村聖佳さんによると、今のスキーは「2軸自在」らしい。

その理論は、甲野先生のナンバ歩きから始まる非常に興味深いものでした。想像しただけで、スキーがびゅんびゅんと滑っていきそうです。
関心がある方はごらんになってください。
(http://www.saj-edu.ne.jp/edu2005/2jiku/2jiku-01.html)

「3軸自在極楽スキー」を開発できないでしょうか。極楽の会を除名されない程度に研究してみよっと。

ああ、楽しみ。

2005年3月19日

I don't know what love is

3月17日(木)

「スチュワーデスになるの」といって辞めてしまった研究室の秘書さんが、どうしているのか、最近ちょっと気になっている。

ひょっとしてこれは恋なのだろうか。
こ・れ・も恋、あれも恋、たぶん恋、きっと恋。

医局の事務机に座っている姿を見ているときには、別に何とも思わなかった。色が白くて、若々しくてかわいらしい人だなあ、とは思っていたが、別にそれはそれだけの話しだった。

辞めた直後も、別に何とも思わなかった。しかし、一月の末に彼女が居なくなり、二月ほどがたった今になって、彼女がどうしているのか何となく気になりだしてきた。

今日で仕事が最後という日、「これを着るのがゆめだったんですー」と言って、彼女はケーシー(着るタイプの腰丈の白衣)を着て、肩に聴診器をぶら下げ、そこら辺にいる医者を手当たり次第に捕まえて、記念写真を撮りまくっていた。みんなと撮っていたのに、僕は何となく恥ずかしくて、一緒に写真を撮れなかった。ひょっとして、あの時から僕の恋は始まっていたのかも知れない。

だってさみしいものよ、泣けないなんて。

彼女は何時だって失礼でアナーキーだった。

医局の先生をハゲネタで蔑み、通勤途中に原チャリで2回も事故を起こした。
若いくせに焼酎を愛し、月曜日の朝はいつも二日酔いで不機嫌そうだった。

がんがん有休を取って、いつも韓国や台湾へ旅行に行っていた。ハングルを習いだして、直ぐ飽きて辞めたりしていた。
そのくせ、電卓を打つのだけはやたらに早くて正確だった。

連絡先も解らないし、春からはシンガポールかどこかに移り住むと言っていたので、きっともう彼女と会うことはないだろう。

さようなら。わたしのあわい恋の水中花

2005年3月25日

静かな日々

3月24日(木)

朝8時30分から大学病院の業務。
他院からの紹介状をもたずに来院して、受診する科が決まっていない患者さんから症状を聞く。そして、どの診療科にかかってもらうか決めていく。

婦長さんがもの凄いやり手なので、私の仕事はただ静かに座ってたたずんで、「はい」とか「そうしましょう」とか「おだいじに」などとつぶやくだけだった。あとはパソコンのマウスをぱちぱちとクリックした。

患者さんが途切れると、婦長さんの「医者論」まで聞くことが出来た。とても勉強になった。

今日は「果報は寝て待っている」わが弟の誕生日だ。やつも32歳になった。
君が寝ている間にお互い少しずつ歳を取ってきたね。

3月23日(水)

江編集長からお誘いをいただき、夜に平川克美さんにお会いした。

平川さんを囲んで、江さん、中島さん、青山さん、藤田さんとともに、楽しいお食事&お酒。

「大切なときに出てきて仕事をしたり、責任をとったりするおじさん」についての話が心に残っている。

数日前に、あぼくんから旅行に行こうと誘いを受けた。

走り出したら何か答えがでるだろうなんて俺もあてにはしてないさ

学生時代のあぼくんはこの歌が好きだった。いまもきっと好きなのだろう。

3月22日(火)

骨髄移植を受ける患者さんの全身放射線照射のお手伝い。心電図モニターの前に座って、無事に照射が終わるまで待機する。

隣の照射室では、6歳の脳腫瘍の女の子が、全脳全脊髄照射を受けていた。

女の子の髪はほとんど抜け落ちている。上半身裸の体には、右の鎖骨下から中心静脈栄養カテーテルが入れられている。彼女は台の上に横たわって、点滴を受けながら静かに照射を受けていた。

3月21日(月)

実験などする。夜はお食事会へ。


3月20日(日)

素謡会で、下川先生の『景清』を拝聴する。

3月19日(土)

下川先生のところにお稽古にうかがう。

覚えなくて良いけど忘れちゃ行けないことと、きちんと覚えなきゃならないことを教えていただいた。

3月18日(金)

送別会の幹事をする。
医局長から、一年が任期である宴会係の留任を打診され、承諾。

目下の懸案事項は花見の場所である。
昨年6月の医局合併による人員増加が、大学キャンパス内での花見宴会を困難にしているのだ。

2005年3月30日

ドクター・ノープロムレム・オリエンテッド

3月28日(月)

合気道の合宿に行ってきました。

今回は、内古閑さんと浜松の鈴木先生が来て下さり、芦屋で一緒にお稽古をしている、石田さんにも久しぶりにお会いできました。

月曜日は朝から仕事だったので、朝稽古のまえに名色ホテルを出発。
「シリウスのポーズ」に参加できなかったのが無念。

3月25日(金)

朝から人間ドックの内科検診をしに行く。

去年の12月から行っていた、この病院の健康管理センターへの出張も今日が最後になってしまった。

割と気に入っていた仕事だったので、行けなくなるのは少し残念。

それ程忙しくない仕事なので、4月からは産休明けの先生が行く予定になったという。

忙しくないからこの仕事が気に入っていたわけではない(それもあるけど)。帰りに出入橋のきんつば屋できんつばを買ったり、ちく満で鴨なんばんを食べたりできるからでもない(もちろんそれもあるけれども)。色々な人からゆっくりと話を聞けるのが楽しかったのである。

人間ドックは、時間あたりに診る受診者数が完全に決まっており、しかも人数がそれほど多くないので、一人一人にたっぷりと時間をとって人の話を聞くことが可能なのである。

本来は、何らかの病気を持った人が診察を受けに来る内科外来の診療中にこそ、時間をかけて患者さんの話を聞かなければならないのだと思う。しかし、ちょっと外来が混んだりすると、なかなか十分に話しをする時間を取れないことが多い。

人間ドックにおける内科医の仕事というのは、基本的には検診をしたり、ちょっとした健康相談に答えるというものなのだが、この病院では頭部MRI検査の問診も内科の医者がとることになっている。

受診者にあらかじめ記入しておいてもらう問診用紙には「最近気になる症状」という項目がある。

本日問診を取ったある受診者の記入欄には、

・頭を叩くと、中が空のように軽く響きを感じる。

という訴えが記入されていた。

これついては、何らかの疾患というよりも、もっと本質的なことが原因になっているような気がするのだが、そのようなことは勿論言えない。


病人を診る事が医者のメインの仕事だということになっているけれど、健康な人を診るというのもまた、医者のひとつの大切な仕事ではないかと思う。

「訴訟を未然に防ぐ弁護士」なんていうのもいい仕事だと思う。

「プロブレムオリエンテッド」なだけの仕事じゃ僕にはちょっと悲しすぎるのだ。

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