飯田龍成様、詳細なコメントをありがとうございます。
http://nagaya.tatsuru.com/iida/2025/02/16_0837.html
御返事がおそくなって申し訳ありません。
クリアカット問題
記事をじっくり拝読して自分なりに考えたのですが、どうやら私は「クリアカット」という言葉を安易に「良い意味」で使ってしまった様です。そういえば、この長屋の大家さんも、たとえば関西起源の某新興政党(仮に「Iの会」としましょう)のような議論を批判するときなど、悪い意味で使われることが多いようですね。
ただ私の感覚としては、うまくできた定理の証明を見たのと同じ心地よさを、飯田さんの記事での、「写像」という概念の当てはめ方に感じたということを「クリアカット」と表現したくなります。もしかしたら、飯田さんのおっしゃる「数学の『美しさ』」と同様のものなのかも知れないと思っております。違っていたらごめんなさい。
確かに、「クリアカット」という言い方には、「ごちゃごちゃした合理性」を不当に無視したり、怠惰に回避したりするようなニュアンスがあるようにも見えます。難しいものですね。
かわいそうな象
もうひとつ、残念ながら「写像」という言葉はジャーゴンとせざるを得ないと思います。というのは、日本語話者の中で、「写像」という言葉を理解していないか、あるいはこうした表現を嫌悪する人は80%ぐらいいそうです。
残りのうち10%ぐらいは、誤解しています。特に多いのは「抽象」の対語(反対語ではない)の「捨象」との混乱です。「射象」なんてやるやつまでいます。エレファントハンティングかい。偉そうに言う私も「象」と「像」の使い分けが正確にできていたか自信はありません。
最後の10%が飯田さんのように、きちんと理解して必要に応じて使っているというのが実感です。こうなると、やはりジャーゴンという、やや有り難くない概念の範疇にはいってしまうでしょう。
ある言葉がジャーゴンであるかないかを判別するのは、得てしてその言葉を使わない人たち(多くの場合、多数派もしくは自分たちを多数派だと思っている人たち)です。
さて「もて」論の方ですが、「数学を勉強している高校生はもてない」というのは、「数学を勉強しているからもてない」のではなく、「もてる高校生はその対応で忙し過ぎて、数学の勉強にまで手が回らない」という議論です。
もちろん、そんなアホな事実はなく「数学ができない(ここでは群論を知らない)ことを、無茶な理由で正当化する」ダメ教員を演じてボケているわけです。ちなみに、私の場合、大学時代にあこがれていた女子の何人かは数学の得意な人でした(その子たちがもてていたかどうかは記憶にありません)。でも結局、彼女たちにも数学自体にも片思いで終わったというほろ苦い思い出です。
専門上の必要もあって、かなり必死に勉強したつもりなのですが、ひとなみレベルにまで到達したとは思えません。でも、出来るやつを尊敬する素直さと、分かる範囲で数学的な概念を美しいと思える感性は失いたくないと、ずっと思っています。