今回から5回にわかって、中居氏の性犯罪ないし性犯罪の可能性が高い事件(面倒臭いので『性犯罪事件』とします)から、昭和日本のメディア企業の栄光と挫折を考えていきたいと思います。
二重底の陰謀論
活字離れやら紙離れやらで、近年ベストセラーが少なくなりました。こうなると売れた本とよく似た内容の本を出す節操のない出版社や、名著とよく似た名前の本を出す節操のない著者が出てきます。たとえば......衝動的な生き方は体のためにも良くない事を説いた「ためらいの生理学」とか、脳を休める睡眠の重要性を解説した「寝なけりゃ学べぬ構造主義」とか、夏の風物詩「涼む日本は暑すぎますか」とか......長屋を追い出される前に、本題に移りましょう。
実はこの手口で陰謀論を書こうと思っています。「東京裁判の陰謀」などはいかがでしょうか。まず元本を紹介しておきましょう。多分著者はこの場で紹介されることを、嫌がると思いますが、名著なんだからしかたありません。
https://publications.asahi.com/product/9554.html
さて、便乗本の方ですがオーソドックスなネトウヨ本で行くなら、「東京裁判は日本人に『終わりなき反省』を要求して、腑抜けにするために連合国が仕組んだ陰謀である」という話で十分ですが、昨今これでは売れません。
GHQの占領政策は非常に狡猾なものでした。戦時中、江戸時代の火事の記録を調べて風の強い冬の夜に焼夷弾を落とすことを考え、占領直後から統治のために皇室の温存、良くも悪くもクレバーな米軍が、こんな見え透いたことをするでしょうか。
話は逆で、「東京裁判は、日本人に『片寄った反省』を要求して、敗戦の教訓を学ばせないための陰謀である」というのが、「本書」のキモです。
旧陸軍の占領地での人権蹂躙とか旧海軍の宣戦布告なき奇襲などへの、倫理的断罪だけが、東京裁判では強引に進められ、一億総懺悔というような、何を言っているのか分からない話になりました。
国民にしてみれば、「郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのもみんな日本人が悪いのです」と、しつこく繰り返し言わされたようなもので、反省すること自体がバカらしくなってしまいました。出来の悪い宗教学校が、校則違反の懲罰に写経をやらせて、仏教嫌いを量産するのと同じです。
それでも日本は妄想を選んだ
このため、我が国では戦時への反省というと、戦時を全否定する「自虐史観」と、反省を全否定する「自慢史観」とに国論が分裂したまま1世紀近くの年月が過ぎてしまいました。前者の典型は形骸化したN教組の平和教育で、後者の代表はY神社の秘宝館(?)遊就館です。どちらも、旧連合国側は批判的どころか冷笑的に見ているでしょう。負けたヤツが「過ちは繰り返しません」とか「大東和共栄圏の再構築」とか、いつまでも叫んでいても虚しいだけです。実現可能性のないことを、平然と繰り返し口にするのは妄想の一種です。
その一方、倫理的道徳的な判断を一旦保留して「なんで負けたのか」という即物的な視点からの歴史考察はまるで進んでいません。唯一と言って良いぐらいの例外は、軍事史では「旧日本陸軍の失敗の本質」とその系統、政治史なら「それでも日本は戦争を選んだ」ぐらいですが、後者の著者などは某NG会議に参加拒否されたぐらいで、まるで政権側は評価していません。
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%B1%E6%95%97%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%AE%E7%B5%84%E7%B9%94%E8%AB%96%E7%9A%84%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%A8-18-1/dp/4122018331
https://www.shinchosha.co.jp/book/120496/
失敗のアンコール
けれども、敗戦のような大きな失敗は、その国の国民の普遍的欠陥に基づいている可能性が高く、ここをきっちり反省する習慣をつけないと、同じ質の失敗を繰り返してしまう原因になりやすいからです。実際、同じ質の中小の失敗は戦後もあちこちで繰り返され、令和に入ってからは頻繁になってきています。
特に過去に大きな成功体験のある戦略は、時代の変化でそれがうまく行かなくなっても、それを戦略の失敗ではなく戦術や戦闘の失敗(要は現場の責任)と考え、指導者は全く反省せずに同様の戦略を繰り返して、屍の山を築きがちです。日本海海戦をミッドウェーで再現することは出来ません。203高地はインパールにはありません。この長屋で、私がしつこく批判しているのもそのタイプの話ばかりです。夢洲に太陽の塔は建てられません。京都の地下に夢の超特急は走れません。
「夢よもう一度」が必ずしも悪い訳ではありませんが、プロジェクトXのつもりがプロジェクト×(ペケ)になったときの引き際の悪さは、近現代日本人の宿痾なのでしょう。あいまいな現在の目的を、一度限りの過去の栄光に重ね合わせ、強引で不合理な戦術のもと、次々と失敗を重ねても反省するのは抽象的の事だけ(気合いが足りなかったとか)というパターンです。
次回以降、議論する中居&フジテレビによる性上納問題などにも、このパターンが見えています。だから、結局の所、フジテレビは解体的出直しではなく、只の解体にむかうと思います。