フジのヤマから昭和が見える ...... フジテレビ性上納事件で考える日本のメディア (その2)性上納を戦略で考えてみる

まず、性上納とは何か、少し煩雑ですが言葉で定義しておきましょう。企業がお得意先を接待するときに、あってはならないこと(でもよくあること)ですが、性的なサービス(ほとんどが、女性による男性接待対象者へのもの;だからこの記事ではそれに限定します)の総称です。
 宴席にコンパニオンを呼んだり、広義の風俗店に案内したり、という女性外注型がほとんどですが、特に重要な接待先などの場合、社員などその企業側の女性を利用する場合があります。現代日本人、特に女性の方はここまで読んで違和感、ないし嫌悪感を感じられたのではないでしょうか。それが平均的な感覚でしょう。性、特に女性の性に恋愛でも生殖でもないところで他人が関与すること自体、おぞましいという感覚もあり得るでしょう。 自分の意思で(意志と何かとか聞かないで下さいね......ごまかしておくつもりですから)、自分の性への他人の関与を否定しない女性(はっきりいえば堅気でない女)ならまだしも容認できるとしても、普通の一般人女性に関しては、許容する人は少数派でしょう。言い換えれば、性犯罪やセクハラに対して、世間の見る評価が厳しきなっているのです。
 そうした、一般女性による企業の性接待の中で、特におぞましいものの一つに、性上納があります。企業がたとえば社員などを特定の接待先に紹介し、普通だったら犯罪になるようなことをさせるという形式です。
 実は、「普通の性接待が観光バスなら性上納はレンタカー」というような不謹慎な比喩を思いつきました。つまり、接待される側が積極的にエンジンをかけないと、何もおこらないという意味で......したが、あまりにも被害者に失礼なので、別の比喩を併記します。
 「据えもの切り」です。普通の人間は、他人の心臓を刺したり、首を切り落としたりするのは、ところが戦場で相手を殺すことを一瞬でもためらうと、本人どころか部隊全員を危険にさらすこともあります。そこで、新人を戦場に出す前に、敵の捕虜などを縛り付けておいて、首を切り落とす練習をするというものです。どうやら古代から行われていたらしい蛮行ですが、中国戦線で旧日本軍も随分とやったようです。
 相手を動けなくし、逃亡や反撃を封じておいてから暴力をふるう。性接待にも同じ匂いの卑怯さが見えませんか。一般的な性暴力よりも、さらにおぞましいように思います。変な正義感と言われるかも知れませんが、いかがでしょうか。

言うまでもないことですが、企業による社員の性上納など、法律以前に道徳的にも倫理的にも許されることではありません。処分や再発防止は当然のことです。けれども、習慣化されている悪を無くしていくことを考えたら、会社としてあるいは社員として、その悪にどんなインセンティブがあるのかを考えなければ、有効な対策は打てません。
 今回の『性犯罪事件』をうけて、社員教育の徹底がフジのみならず、他局のコメンテーターなどからも指摘されていますが、無難ではありますが無意味な意見の典型です。
 研修を受けて「えっ、知らなかったなぁ。嫌がっている女性を押し倒すのは悪い事なんだ。勉強になったなぁ。これからは止めておこう」などと本気で思う不気味な社員が一人でもいたら......そいつきっと面白い番組が作れたでしょう。見る気はしませんが。
 性接待は局ぐるみで、悪いと知りつつやらかしていたのです。一般論での性道徳研修など、次の不祥事でのアリバイ工作以上の意味はありません。具体的に性犯罪者やルール違反者に対する制裁を示しても、手口の巧妙化に繋がるだけです。被害者がいかに傷つくかを説明しても、被害者を獲物だと思っている鬼畜なら、逆に嗜虐心をかき立てる可能性まであります。
 意味がある対策は、加害者側のインセンティブを解明し、それを丁寧に潰すことしかありません。そして、こうした立場で議論するときには、善悪の問題に踏み込まないことです。

そもそも女子アナって何

 NHKニュースでさえAIによる自動音声が多様されている時代に、アナウンサーってどれぐらい必要なのでしょうか。機械音では味気ないから声に表情をつけたい、というのなら声優さんを使った方が効果的でしょう。報道現場からの中継には、自分で取材もできる放送記者が一定のアナウンス技術を身につければ、臨場感も正確性も今よくなりそうです。スポーツの中継なんかでは、そもそもテレビで実況アナウンスが必要なのかどうか不明です。
 こういう突き詰め方をすると、たとえキー局でもラジオ要員を中心に、アナウンサーなど5~6名いれば十分でしょう。もちろん、男女で分けて採用する必要もありません。
 現代の女子アナが担当していることは、特に民放の場合、本質的に女優の仕事です。アナウンサーとは事実を客観的・機械的に言葉にして発声するのが本分ですが、現実には局が作り出したイベントに巻き込まれながら、本人のキャラクターを生かして喋るのが仕事の大部分です。
 昭和の時代には、海開きのニュースや水上運動会の司会に水着姿で出てくる女子アナなど、本人のキャラというより性(昭和の言葉で言えば「お色気」)を全面に押し出していたのですから、お茶の間性上納と言われても仕方ないでしょう。また、これだって、ある種の女優さんの方が、多分よい仕事をするでしょう。
 実際、今回の『性犯罪事件』でも、中居氏がBBQパーティーに女子アナを呼ぶようにB氏に依頼する時に「一般人はさすがに(具合が悪い)」と言っています。何がどう「さすがに」なのか、いくらでも悪く勘ぐれる発言ですが、敢えて突っ込まないでおきましょう。少なくとも、中居氏とB氏の間では女子アナは一般人ではなく、一番穏当な言い方でも「芸人」であると言うような了解があった訳です。
 この報道を知った各局現役アナの中からひとりでも、この部分に抗議はおろか違和感を表明したという話も聞きません。つまり、多かれ少なかれ女子アナは堅気の職業ではないという業界的コンセンサスがあったと考えてもいいでしょう。でもなぜテレビ局は、高給取りで終身雇用の「芸人」を、少なからず採用するのでしょうか。

 性欲をかき立てる知性

 ところで、テレビアナウンサーには「芸人」とは対照的なもうひとつの顔があります。「知識人」です。実際、引退後に評論家や大学教員、また政治家になった古今のアナウンサーは山ほどいます。弁護士や気象予報士などの専門的な資格を引退後に取った例も少なくはありません。医学部に合格した現役局アナのニュースも飛び込んできました。
 採用時にも高度な学科試験があり、多くの局が大学卒業者に限っている訳ですから、知識人予備軍、それもかなり程度の高い知性の集団であることも事実でしょう。そうなると、女子アナは才色兼備で健康的ということで、若い女性のひとつの理想像と見られている訳です。
 私には、ここに女子アナ性上納の鍵があると思われます。「べらぼう」の時代、日本女性の中で和歌・文学・歴史から囲碁・双六に至るまで、最も深く広い教養をもっていたのは吉原の最高位の太夫だったとされています。はっきり言いましょう。女性の性の値段を釣り上げる効果的なツールとして知性が選ばれている訳です。
 男性の性欲、特に恋愛から切り離された娯楽性やステータスのための性欲は攻撃性と一体になることが多く、他のオスが相手にされないようなタイプやそもそも性的でないタイプのメスを、力尽くででも征服したいという方向性があります。
 だから、局のプロデューサーが芸能人に差し出す女性は、広報部員でも受付係でもなくアナウンサーなのです。これはお茶の間上納についても同じで、泳ぎもしないのに水着姿で画面に登場させられるのは、芸人でも女優でもなく女子アナなのです。
 しかし、こういうの昭和の産物でした。水上運動会はほぼ平成の時代には姿を消しましたし、海開きの水着レポートも近年ほとんどなくなったようです。知的な女性を性的なターゲットにするという志向自体が、善悪は別としても過去の遺物なのです。一例をあげれば、姫野カオルコ氏の小説『彼女は頭が悪いから(2018)』です。この作品では加害者の視点が、女性の知性にではなく知性の欠如に向けられています。
 これがフィクションの世界だけの話だったのか、特異な事実をもとにした特異な小説だったのか、さらにこの時期に頻発した「高偏差値」学生による多大女子学生への性犯罪全体に通底する傾向なのか、さらにまた、平成末期から令和の性風俗全体の傾向なのかなどは、小論の扱う範囲をこえています。けれども昭和の一時期に女子アナに向けられていた性的な視線が大きく変化したのは、間違いのないことのように思えます。
 しかしその一方で、テレビ局を中心とする一部の芸能界には、昭和的な性志向の残り火があり、それがセクハラ体質や女子アナを接待要員として考える性上納文化を残存させていたのではないでしょうか。