硫化水素を知ってますか。アンモニアと人気を二分する悪臭業界のアイドルです。八潮市の道路陥没事故で、日常生活の場からわずか10数m下に被害者がいるのに、一向に救助が進まない最大の原因はこいつです。
この有毒ガスには硫酸という進化形もあり、八潮市の地面陥没事故の原因であるという報道をよく見かけます。現時点でそう決めつけてしまうのは危険で、他の原因も検討してみる必要があるという記事を書きはじめたところで、同じ硫化水素による痛ましい事故が福島県の温泉でおこってしまいました。硫化水素は、動物の呼吸を止めてしまう毒性のほかにも引火性があり、酸素と結合して毒性やら引火性やらを失うと、今度は腐食性の強い硫酸になるという、まことに厄介な存在です。今後の事故防止のため参考にしていただくために、少し詳しい解説をしておこうと思います。
身近な毒ガス
硫化水素の発生源は基本的に2つ。火山と生物です。福島の事故現場は温泉の泉源でした。温泉も火山の一種であると言えるということは、北陸新幹線がらみの記事で、これまでに書きました。
見えない刺客は火成岩【北陸新幹線 その10】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2024/07/12_0738.html
何が何でも硫化水素で、思い切り苦しんで死にたいというひとは、別府の坊主地獄か箱根の大涌谷の、立ち入り禁止エリアを散歩することです。観光地の数m横に悶絶死をもたらす場所があるのが、自然というものの怖さです。
もう一つは生物起源です。硫化水素の悪臭は「卵の腐った」と呼ばれるのが定番ですが、「ドブの匂い」と言った方がピッタリくる感じです。動物の排泄物や死骸に含まれるタンパク質が、腐敗により分解して発生するのからです。
今すぐ嗅いでみたいというひとは、ドブ掃除をすると良いでしょう。金魚や熱帯魚を飼っているひとは水槽の掃除をすれば、ピュアな悪臭を楽しめます。ただし、掃除が完璧にできるまでは、お魚さんたちは別の容器にでも避難させておいてください。これをおこたると簡単に水槽ぐるみで全滅します。私も、子供時代から同じパターンで何回も、いろんな水棲動物を死なせてしまいました。アホです。
微妙に重くて非常に危険
自然環境でも、排泄物や死骸は腐敗し分解されて硫化水素が発生しますが、多くの動物が生息している普通の環境では、周囲に大量にある酸素と反応して硫酸になって、水の中で拡散してしまいます。
ところが、池の底の泥や下水道の中など酸素の供給が十分でない環境では、反応しきれずに余った硫化水素は、空気中にガスとなって放出されます。そのあと、拡散するまでしばらくの間は水面の近くでウロウロしています。空気より少しだけ重いからです。
数字で比較してみましょう。1モル(22.4リットル;小さめの電子レンジぐらいの容積。化学反応の基準)の空気の重さが29gで、硫化水素は34gです。気球や風船に使われるヘリウムガスが4gということを考えれば、かなり微妙な差です。
実は、これが危険な差なのです。水面や地面から放出された硫化水素は、沈み込むでもなく飛んでいくでもなく、モアモアと立ち上がってくるからです。発生量によっては、人間の顔のあたりまで漂ってくることもあり、少量でも猛毒であるだけに危険極まりないことになります。
異常を感じてしゃがむ、横たわる、這う......倒れた仲間を助け起こそうとする......人間の自然な行動が、空気より重いガス相手では致命的な結果をもたらします。わざわざ濃いガスのおかわりを、吸いに行くようなものだからです。
福島県での事故は大雪の中でおこりました。おそらく地熱で暖められた泉源付近では雪が溶けていて、周囲の積雪のなかで窪地のような場所になっていたのではないでしょうか。そのため、普段は空気が通り抜ける安全な場所でもガスが溜まっていることがあります。旅館のスタッフが管理している泉源で遭難したのは、そのせいなのかと思います。日常的な場所が、いきなり天然のガス室になってしまうのですから、対処のしようが無かったはずです。
毒物界の二刀流
硫化水素の毒性の根本は、酸素を集めてしまう性質です。これを還元性と言います。こうして集めた酸素と反応してできあがるのが硫酸です。この硫酸には酸素を放出して周りに押しつける性質があります。これを酸化性と言います。つまり還元の反対語は酸化ということになります。ややこしいのは、同じ「酸」の文字を使っていても、「酸性とアルカリ性」とは別の話だということです。ここは押さえておいてください。
人間をはじめ多くの生物にとって、酸素を奪われる還元性とは恐ろしものです。けれども、機械や設備に与えるダメージとなると話が変わってきます。金属製品がさびるのは酸化によるもので、状況にもよりますがどちらかと言えば、還元的なガスは被害が少ないと言えます。
今回、下水管の天井のコンクリートが少しずつ溶けたのは、硫化水素が化けて出来た硫酸によるものです。硫化水素自体には下水管を壊す力はありません。つまり、硫化水素は生物に必要な酸素を爆食いし、満腹になると腐食性の強い硫酸になるという、二刀流で悪さをする物質なのです。
陥没事故のよくある説明
八潮市の現場でおこったことを見ていきましょう。下水の中で発生した硫化水素は、もともと溶けていた酸素と反応をして硫酸になります。けれどもあまり発生が大量だと、水中の酸素を全部使ってしまい、硫化水素のまま水に溶けていることになります。もちろんこんな水では、魚をはじめ普通の生物は生息できません。
さらに発生量が多いと、水に溶けきれなかった硫化水素がガスになって、下水管の空中を漂うことになり、やはり天然のガス室が出来てしまいます。八潮市の事故で被害者の場所がほぼ分かっているのに、消防署も自衛隊も手出しが出来ないのはこのせいです。
こうして放出されたガスの一部は下水管の天井まで達します。こういう場所はたいてい結露していますから、硫化水素はその水滴に吸収され、溶けている酸素と反応して硫酸になります。
こういう状況では普通、硫酸の濃さが一定になると、硫化水素と酸素の反応は止まってしまいそれ以上は濃くならないのですが、ここでは周囲に石灰分を多く含むコンクリートが豊富にあり、石灰と反応して消費されるため硫酸の濃度はあまり高くなりません。
一方、下からは新鮮な硫化水素ガスがどんどん供給されますから、コンクリートを溶かす硫酸が無くなることもありません。分厚く頑丈な下水管が老朽化するメカニズムを、八潮市をはじめ関係者はこのように説明しています。
硫化水素主犯説への3つの疑問
けれども、私はこの説明に疑問を持っています。少なくともこれだけで今回のような大規模な崩落を説明するのは無理だと思っています。
今回、道路の下に空洞ができていたわけでですが、硫酸による下水管の崩壊だけでこれを説明しようとすると、下水管に空いた穴から周囲の土砂が流入したことになります。4年前の調査では、緊急の修理の必要は無いとされていた区間に、急に大きな穴が空いたのでしょうか。
また、現場の数m上流には、大型(縦横11m×10.5m、高さは少なくとも4.75m以上)
https://mizudesignjournal.com/measure/4104.html
の人抗(マン・ホールの直訳ですね)があったようですが、こういう設備の目的には、下水中の硫化水素を大気中に逃がす「ガス抜き」もあったはずです。単なる作業坑なら、こんなにでかいものを作る必要はありません。だから、普通に考えれば最も事故がおこりにくいはずの、ガス抜き直後の下水が流れる地点で、わざわざ崩落がおきたことになります。
もうひとつ、同様の構造で経過年数も同じぐらいかそれ以上の下水管は、日本中に山ほどあるのに、明らかに硫化水素起源の硫酸による同様の崩落は、ほとんど報告されてはいません。八潮の事故後、日本中で緊急点検は行われたのに、腐食が進んで穴の空きかけていた大口径下水管の例も聞いたことがありません。なんで、他では無く八潮で事故がおこったのでしょうか。
聞こえてこない情報公開を求める声
なぜ、点検後の短期間に、事故の起きにくいはずの場所で、全国に先駆けて崩落がおこったのか。少なくとも、この3つの疑問に答えられない限り、少なくとも再発防止の指針をしめせるレベルの原因究明はできないと想われます。
2月3日の記事「地盤を甘く見てはいけない」
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/02/03_0850.html
では、地下水主犯説で事故原因を推定しましたが、道路の振動、下水量の増加による下水管事態の沈下など、いろいろな仮説を各分野の専門家が提示するべきだと思います。また、硫化水素が近年増加した可能性もあるはずです。この方向性では、人工透析廃液の流入を原因として考察する記事もあります(週刊現代ビジネス)。
https://news.yahoo.co.jp/articles/544f9a3400f8594e2b8867e525138abc34302b93
ここ4年のことと言えば、パンデミックによるホームステイの増加で、東京のベッドタウンが集まる埼玉県東部の昼間人口(つまり調理をしてゴミを出し、ウンコをする人の数)が激増したのも原因のひとつになった可能性もあります。もっとシンプルに、近年の人口増加による下水量の急増に、40年前の仕様の下水管が対応できなかったということもあるのかも知れません。
メディアには、全国の下水管の老朽化に警鐘を鳴らす記事が溢れていますが、その割には八潮での陥没の原因究明には不熱心なようです。特に、重要な情報(たとえば、下水管の現在の破損状況)を公開しない自治体に対する非難がないのは、どういうことなのでしょう。ネットメディアの方も、たいして悪くもない芸人ばかり叩いてないで、行政に対して声をあげて、情報公開とそれに基づく対策の議論を求めてほしいものです。