教育無償化が失敗しそうな理由

 教育無償化が議論されています。最大で年間40万円ですか。結構な大盤振る舞いです。自分が生徒だったら、「3年間不登校を貫徹して、自力で大検通ったら半分おれにくれ」なんて、可愛くないことを言いだしそうです。
 私のような悪ガキは、「長屋の大家さん」を始め、多くの読者の方から「高校は進学のためだけに行くところじゃないんだよ。もっと大事なことがいっぱいあるんだよ」などと優しくたしなめられそうです。
 でも、だったらなんで大検なんていうバックドアがあるのでしょうか。大検組は「もっと大事なこと」を学んでいない欠陥人間なのでしょうか。教育、特に学校制度について少し理屈っぽく掘り下げると、すぐに矛盾の岩盤に突き当たります。現代社会には、学校の「目的」に関してコンセンサスがなく、しかもコンセンサスがない事に関して問題意識がないからです。「なんのかんの言っても、みんな子供たちの幸せを願っているんだから......」で、たいていの議論は強制終了します。

理想の学校

 日本の学校制度の中で最も成功しているのは、自動車学校だと思います。揚げ足をとっているわけではありません。多くの自動車学校が学校教育法上の各種学校で、通学定期やら教育資金贈与の対象になります。そうでないところも教育内容は全く同じなので、実質的に学校と考えて良いでしょう。入学・卒業という制度まであります。
 自動車学校は中退率は低く、イジメや不登校は皆無です。一昔前までは噂があった、教員によるセクハラやパワハラも今では皆無のようです。なぜこんなにうまくいくかと言えば、理由は二つあると思います。
 第一は誰でも思いつくことですが、「目的」が単純明快で全員が共有していることです。運転免許を取得するのに必要な技能と知識を身につけることです。運転に関係ない人格や人間性には一切興味もありません。ひたすら免許に特化した教育を行う。そして、そのことについて監督官庁も経営者も教員も生徒や保護者も完全に同意しています。
 第二の理由は、教育者と審査者が分離していることです。実技試験は仮免も卒検も、教習をした教官は試験官からはずされます。学科試験も、都道府県単位で警察官が作問、採点はマークシートですから、教習所の教官には何の権限もありません。これは案外重要な事なのかも知れません。
 小学校から大学院にいたるまで、授業をする教員が定期試験の作問をしたり採点したりすることが普通に行われています。けれども、授業はより多くの学生・生徒を引っ張り上げる母性原理の働く場であり、試験は不適切な学生・生徒をふるい落とすという父性原理が働く場で、本質的に矛盾します。
 母性原理と父性原理を統合してうまく運用するには、部分的にはせよ「神」の立場に立たなければならなくなります。実際、小学校などでは教員と生徒との器に大きな差があるため、先生が神様のふりをしていればうまく行きます。けれども、生徒の側に一定の知識がつき自我に目覚め始めると、母性原理に片寄った教員は徹底的にバカにされ、父性原理に片寄った教員は徹底的に憎まれるようになり、どっちにしても教育は失敗します。本当は、神ならぬ生身の教員が母性と父性の間で葛藤する姿を見るのも、生徒の成長には欠かせないことなのでしょが、寝言を言っても仕方ありません。
 特に、機械的な平等主義でも一応は機能する母性原理と違い、父性原理には結果の不平等に関する公平性が要求されます。主観や偶然が入ってくると、多くの生徒本人や保護者が「父性」ではなく「不正」と見なし、糾弾の対象になってしまいます。
 このことが最もあらわになっているのが、高校入試の内申書制度です。中学校3年間、常に高校入試をやっているようなもので、教員というのは生徒から見て敵とまでは言いませんが油断のならない相手で、授業でも部活でも行事でも、良い生徒であることをアピールし続けなければならないのです。結果的に学校生活での教育機会を無駄遣いしています。
 そのくせ教員は「全ての生徒には無限の可能性がある」とか「みなさんよく頑張りました」などと、深い考えも無く建前で母性的なことをよく口にするので、生徒たちの只でさえ不安定な思春期の心がかき乱されます。全国の中学校の荒れが今程度で済んでいるのが不思議なぐらいです。
 幸い、大学にはこういう矛盾はあまりありませんが、母性と父性の無責任な分離という問題があります。
 たいていの学生は最終学歴で間違ったことを覚えてしまうと、修正の機会はまずありません。数学者の故森毅先生は、「期末試験の答案で全員が同じ間違いをしているというのが最大の悪夢」とおっしゃっていました。授業で教え損なったことが明白ですから。
 私にも情報系の授業の試験中に答案を覗き歩いていて、あまりにも同じ間違いが多過ぎるので急遽試験を中止して解説を始めてしまい、あとで成績付けに苦労したことがあります。父性原理の完全放棄と言えるでしょう。でもそれで良かったと思っています。

学力の成熟の分離と統合

  母性原理の「教える」と父性の「選別する」の役割分担がはっきり出来ている教育の例には、自動車学校の他に、塾・予備校の類いがあります。これらは目的が明確という点も共通しています。明確な目的のために母性と父性を分離しているとも言えます。
 現在の学校、特に公立学校の教員は無責任な教委や管理職のあおられて、全人教育の美名のもと何でもかんでも抱え込み疲弊しきっています。部活・行事・生活指導・そして大量の雑用に追われ、肝心の授業の準備が疎かになっていない先生はほぼいないでしょう。これは見かけ以上に深刻な問題です。
 私の高校時代でさえ進学校でも(というよりだからこそ)、受験塾や予備校に行くのは当り前でした。わが娘達の世代では、志望中学合格直後から大学入試に直結する塾に行くのが主流になりました。だったら中学受験などしなくてもよさそうなものですが、そうした「一流」の塾に入学できるのは難関中学の新規合格者だけです。つまり、私立中学が塾に代わって選抜試験をしているわけです。この世界では、高学力の生徒ほど、苦労して入った受験校の受験教育に期待していません。
 考えてみれば、いくら高校の音楽の授業の成績が良くても、それだけで合格できる(二流以上の)音大はありません。大谷翔平は体育の授業で精進してメジャー行きを決めた訳ではないのです。芸事やスポーツと同様に、学問の世界でも学校教育は一流を目指す場では無くなってきています。はっきり言えば、親の教育方針と財力が子供の進路を限定する世界がどんどん広がっているのです。
 多くの学校はそうした流れに、反発するどころか乗っかっています。学力については自己責任&塾責任。スポーツなど部活に関しても「ちゃんとやりたい人は学外の団体でやってね」という感じです。競技成績や安全性を考えれば、ボランティアベースの部活より断然良いというわけです。では何に力を入れているかと言えば学校行事で、灘の文化祭や開成の体育祭は関係者以外にも有名です。
 皮肉なことに、「この長屋の大家さん」のおっしゃる「成熟したコミュニティーのメンバーを育てる」という教育が、一番機能しているのはこういうタイプの進学校なのでしょう。難関中学合格者というエリート意識で学校をリスペクトするからです。

改革の前に崩壊した宗教

 以前、ある右ボケ作家の方が「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」などと言って顰蹙を買いましたが、こんなことが通用するほど今の若者は甘くはありません。
 将来の生活を良くするためのものが何もないのに、奴隷としてのマナーを叩き込もうとする学校など、破壊の対象でしかないでしょう。こういう学校では残念ながら「実直な精神」を「成熟」と言い換えても、ほぼ同じことでしょう。
 小学校時代の記憶ですが、井上ひさしという作家が、「偽原始人」という小説の後書き(だったと思います)に、「学校教育とは、それに適応すれば指導者予備軍に加えてもらえる現代の宗教である」と書いて「宗教改革の必要性」を説いていたのを覚えています。けれども、学校真理教は全く改革されることなく崩壊しつつあります。
 心理学者の岸田秀は学校制度そのものを批判して、「目的のはっきりしない集団では、破壊や攻撃が発生しやすい」としていました。確かに、同じ学校でも冒頭でふれた自動車学校では、かなりのワルが集まっても学級崩壊やいじめは皆無。みんな免許が欲しいからです。
 同じ事を10年単位でやっているのが進学校&医大のセットでしょう。運転免許と医師免許、どちらも収入に直結する資格です。交通事故が減少し、医師の不祥事がこの程度の数で済んでいるのは、こうした学校での資格に相応する「成熟」を求める教育が、ある程度は機能している証拠のように思えます。結局、学歴の価値がそれ以外の学校の機能をも担保しているわけです。

貴重な公費とエビデンスのない効果の貧乏臭いジレンマ

 教育無償化に話を戻しましょう。確認しておきたいのは、ここで議論しているのは実質的には「高校教育の無償化」だということです。
 多くの識者が既に指摘しているように「荒れた高校」と「学力格差」、そしてその結果としてのFラン大学を増産する結果を招くように思われます。おそらく「機会の平等が本人に責任のない結果の不平等を招いた典型例」にいずれなるでしょう。
 もうひとつ、学校に行かない権利が徐々に剥奪されていくことも、良いこととは思えませ。「家庭の事情」という言い訳を奪い、自分の低学歴に説明責任が発生する社会は、芸術家や職人を志望する若者や不登校経験者にとっては、決して生きやすいものではないでしょう。学校機能の強化は教育の規格化を招くのは仕方の無いことです。でも規格外の人間にはたまったものではありません。
 何回も書いていますが、私自身はかなりの期間いわゆるFラン大学で授業をやっていました。九九の怪しい学生にプログラミングを教えたこともあります。それでも、実感だけで語ることが許されるのなら、彼らも十分「成熟」して卒業していったと思います。根拠はありません。教育にエビデンスを求めても仕方がないでしょう。
 また、多くの研究者志望の若者にとってのセーフティーネットであるFラン大学の教職ポストや非常勤講師の需要が消滅するのは、確実に日本の研究開発能力を削ぐことになります。

 けれども、「費用対効果はどうなんだ」と責められると全く自信がありません。今の国会の議論を見ていても、与野党伯仲で、自分の手柄での「バラマキ」をしたくてたまらない議員さんたちをもってしても、財源論で話が止まっています。巨額の公費を防災や福祉に優先して支出するべきなのか議論のあるところです。「お前の授業に補助するよりも下水管の一本も替えた方が、まともな税金の使い方だったな」と言われたら返す言葉はありません。とても納得もできません。
 また、「研究者なんて金持ちの子供がなればいい」という暴論は昔からあります。大学の卒業式で、渋々就職していく同期の友人から投げつけられた説得力のある言葉です。確かに、自宅ガレージでパソコンの組み立てを始めたビルゲイツも、大学の同窓会名簿作成のためにフェイスブックを始めたマーク・ザッカーバーグも、大きな自宅や立派な大学に縁のある環境だった訳です。
 貧困層を教育しても、たいした人材は滅多に(絶対とは言えないが)出てこないから、費用対効果はよくないという考え方も一理あります。でも、これにはもっと、納得ができません。

 まことに困った問題ですが、まずは困った問題の所在と詳細を把握するところからしか、貧乏臭くなってきた日本に活路はないと思います。