前から気になっていました「長屋」の先輩の記事にコメントしてみようと思います。「飯田龍成のハンガリー日記 」から、 「宇宙際タイヒミュラー理論を考える」です。
http://nagaya.tatsuru.com/iida/
本題からは若干それた感想で申し訳ないのですが、強烈な印象を残す言葉がありました......「単射」です。なるほど単射ですか。見事な指摘です。「この長屋の大家さん」のおっしゃり方なら「クリアカットな説明」ということになります。少しでも言語学に関心のある、理科系の、日本人が、この記事を読めば、恐らく同じ感慨を抱くと思います。もっとも、そんな人がどれだけいるかは知りませんが。なにはともあれ、ぜひ一度、元記事を読んでみてください。
許してあげてくださいね
集合論など、シンプルで定義がはっきりしている世界の用語で何かを説明すると、ある程度の心得のある者どうしなら、一発で話が通じるというメリットがあります。ただし、授業という場でのことなら、「心得のない人」にも話を共有できるようにする責任が教員にはあると思います。
さて、飯田さんに授業をしていた先生。場所はハンガリーでアラビア系の方なのですから、「日本では高校生レベルの知識」がないことを糾弾するのはやや酷な気もしますが、状況処理の仕方は最悪だったと思います。
いやしくも大学という場なのですから、相手が学生であれ誰であれ自分の知らないことがあれば、知ろうとするのが義務のはずです。もし教壇に立っていたのが今の私だったら、「オレな、高校のときは、女の子にもててたから数学なんかする暇なかったんや。悪いけどキミ、『単射』について簡単に説明してくれんか」とでも言って、黒板の前に連れて行ったでしょう。
その際、学生がうまく説明できたら「キミよく知ってるな。オレの代わりに来週から授業したらええがな。冗談はともかく、マジでいろいろ助けてな。たのむで」と励まします。うまく行けば、言語学のファンを一人増やせるかも知れません。
逆に、学生がうまく説明できなかったら「なんやキミも、オレほどではないけど、高校でもててたんやな。一目でわかるわぁ。よっしゃ、来週までにみんなで調べておこう」とでも言って、恥をかかせないようにします。その際、ちょっとばかり自分の権威を見せたかったら、専門外の写像論をゴリゴリ勉強して渾身の説明を次回にすればいいのです。
どっちにしろ、クラス全員(教員自身も含めて)が大きな得をするでしょう。なかには、卒業後に言語学と聞いてこの話しか思い出せない学生も出てくるかもしれませんが、それでも十分です。
というような偉そうなことを書いていますが、現役のときこんなにきれいに授業を裁けていたかというと、全く自信はありません。せいぜい、あとで飯田さんをつかまえて、「写像ってどういうものか教えて」、と小さな声で聞くぐらいだったでしょう。あるいは、飯田さんの回答を無かったことにするか、ムシの居所の悪かったら、ネチネチいじめていたかも知れません。
その先生も恐らくバックに「欧米人自身の神格化・選民思想」があったのでしょうが(ムシの居所の悪い時などに黒い本音は露出します)、大学教員もただの人間(どちらかと言えば、片寄った人が多い)なのです。許してあげてくださいね。「長屋の大家さん」みたいな先生が特別なのです。
後悔していること
目上の立場で目下の人に質問する......勇気のいることです。だから、答える方も敬意を払って誠実に答えるべきなのです。でも、なかなかそうは行きません。
大学教員だったころの学外での話です。ある企業のオーナーと会食したとき、「その会社が同業他社に比べていかに配当をケチっているか」を、対数を使ったグラフを見せて説明したことがあります。「企業収益と比べて桁ちがいに配当が少ない」ということを可視化したわけです。
一通りの説明のあと、オーナーから「キミ、その対数というのは何かね」と質問をいただきました。とっさに思ったのは「こいつ、大卒のくせに対数も知らんのか」というあからさまな軽蔑でした。でも考えてみれば、高校を出て何十年もたっている法学部卒の方ですから、対数を知っている義務など、どう考えてもないのです。
逆に、プレゼンみたいなことをしているわけですから、質問があれば即応できるように、分かりやすい説明を準備していない私の方が、よっぽど不誠実なわけです。
オーナーの方はおとな中のおとなでしたから、私の「つたない説明」も「言葉の端々に出たであろう無礼な優越感」も全て理解した上で容認し、後日経営陣とかけあって、配当増額を勝ち取られました。今でも、思い出すたびに胸の痛くなる話です。
「長屋」の記事を拝読している限りの話ですが、大変失礼ながら飯田さんは私の若い頃になんだか似ているような気がします。頑張ってください。でも、私みたいには、ならないほうがいいでしょう。周囲が迷惑しますから。