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2007年08月 アーカイブ

2007年08月17日

だんじり讀本売れ行き好調

こういうことを言うと、非常にナニなのであるが、この本は岸和田の地元の人、それもだんじりに関わっている方々に読んでもらうのが、なによりもうれしいのである。
発売2日目の11日土曜日、岸和田の割烹「喜平」にて打ち上げがあった。
それは昼間からのハモ鍋である。さっと火を通したハモ・冷えたビール・ダシのしみた豆腐・焼酎・ハモ・三つ葉と白菜・ビール・ハモだしの効いたそうめん・焼酎のごきげん極まりない寄り合いだったのだが、
http://www.140b.jp/blog/2007/08/post_47.html
自宅に帰って「ああ、明日は久しぶりの休みか」と晩飯を食って、昼の酒と寝る前の酒がつながろうとしていた頃、メインの著者である泉田祐志氏から電話があった。
発売早々なので、ドキッとする。
読者からの内容についての間違い指摘、あるいは「いらんことを書きやがって」とか「誰がこんなこと言うたんや」とかのクレームだと思ったからだが、岸和田の書店であり、だんじり関連書籍や冊子、ビデオ、だんじりグッズ…で有名な「WIN」さんで100冊入れたのだが、もう無くなったとのこと。盆休みの事もあって至急追加注文したいのだが、とのことである。
これは困った。明日は12日で日曜日である。13日からは盆休みで…などと酔っぱらって話していると、「ちょっと、江くん替わるわ」と泉田くんは言って、いきなり「もしもし、本屋のWINの○×です、まいど。うちも100冊しか入れへんかったんが悪かったんですけど…」とのことであり、何とかしてくれとのことである。わざわざ、こんな夜に著者の泉田くんの家まで行き、著者献本用の数冊もかっさらっていった模様である。
こういうところが、「ターゲット層」やら「読者ニーズ」とかでは決してない、「もうないわ」「よっしゃ、なんとかする」の直裁的な岸和田気質の気持ちよいところである。

さてこの「だんじり讀本」では、岸和田二十二町のだんじりを現在曳いているものから先代、先々代に至るまでを詳細に調査した。
地元の居酒屋やお好み焼き屋などに行けば分かるのだが、岸和田の世代を越えただんじり男たちが、そこで口角泡を飛ばして年中している話は二種類ある。
一つは「あの時、あそこの角の遣り回しが…」とか「あの年の宮入は大雨で、子どもがこけて…」といった地車曳行についての話で、それはその町独自の磨き上げられた腕と度胸の遣り回しの技術であり、またいかに横転や激突の危機一髪を切り抜けたかのことであり、あるいは度胸千両系男稼業の参加者の活躍ぶりである。
もう一つは「うちのだんじりの破風の形は…」「うちの見送りの大阪夏乃陣の後藤又兵衛の顔は…」といった、それは「我が町の誇り」にほかならぬ、趣向を凝らした唯一無二の自慢の地車本体のことである。
この二つの魅力が、われわれ祭好きの心を惹きつけてやまないのである。
今回は後者に重点を置いた。
それは300年という歴史が積み上げてきた、大工や彫物師といった工匠たちの仕事の足跡をたどることでもある。
そして各町の気質や町風といった代替不可能なエートスは、その地車本体に顕著に表れている。
それは、あの時の宮入のコナカラ坂にどういう遣り回しをしたか、とか、昭和○×年の曳き出しの一発目のカンカン場で…といった、ビデオを見ながら語り得る映像的なもの、つまりその瞬間の空間的な表象ではない。
地車本体は破損して修理された箇所を除き、全く変わっていない。その町の地車がそこで新調されてこうなっているというだけである。
けれどもそこにはその町がその地車を曳いてきた時間というものがとても感じられるのである。
旧い明治や大正時代の地車の話をその流れを引く老大工やその町の長老たちに聞く話が面白くて仕方なかったのは、それが過去にそうだったから今見ているこの町の地車がこうであるということではなく、実は時間というものとその町のだんじり祭の間に何があるかに触れたような気がしたからである。
そういえばこの長屋の大家さんがちょっと暇になったら、ハモ鍋セットでも持ち込んでご一緒させていただき「時間を空間的な表象形式で語ること以外にどんな方法があるのか」をぜひ聞いてみたいものだ。

彼ら工匠たちの作品集でもある地車自体は、祭当日しか公には姿をあらわさないし、祭当日だといっても休憩時以外は走っているから近づけない。
つまり走っている地車としては撮影は出来ても、だんじり本体についての取材・撮影は現実問題として不可能なのである(もっとも私を含め今回の著者たちは祭の当日はだんじりを曳いている)。
それは取材ではなく体験していることである。
祭のその時ではなく、西に新調があればその間じゅう大工・彫物師の仕事場に通い続け、東に20年ぶりの大修理があると聞けば駆けつけ、話す方も聞く方も祭の当事者同士、だんじり談義に華が咲く。
それがすなわち取材であった。
そして気がつけば20余年、わたしは今、祭礼団体では最後の所属団体・世話人であり、子供のころから爺と呼ばれていただんじり博士の幼なじみの泉田くんは、今年か来年に若頭を上がるはずだ。

2007年08月24日

岸和田侠客伝(はじまりはじまり)

岸和田にも侠客がいた。
暴力団の構成員ばかりではないのである。
明治から大正にかけて、その侠客の一人がだんじり新調に絡んでいる。並松町の「糸ヶ濱」こと伊東由松氏である。

糸ヶ濱が居住しその賭場があった岸和田城下のちょうど北にある並松町は、江戸時代は沼領新屋敷と呼ばれ、多くの字が残っている。
並松町のその町名は、ちょうど真ん中を貫く紀州街道筋両側にあった松並木に由来する。
糸ヶ濱の太い木格子の家屋もあったその紀州街道筋の一筋浜側は「忍町」であり、ここには甲賀者の組屋敷が並んでいた。甲賀者はお庭番ともいわれ、城内側近の間者であった。さらにその浜側には、北町にかけて御船溜があり(北町だんじりの纏は、その風向きを見る吹き流しが由来との説あり)、武士たちの訓練所である藩の射撃場と馬場(同様に殿様調練日報知のための印の説もあり)があった。
「鉄砲町」と呼ばれる筋は、その名の通り鉄砲組はじめ足軽たちが多数住んでいたという。

わたしは大学時代に並松町のそんな武家屋敷然とした建物をそのまま利用している学習塾で、中学生に数学を教えていたことがある。
その家は入ると中庭を囲んで4畳半~12畳くらいの部屋が4つあり、そこを利用しておのおの習字、ピアノ、数学や英語の小さな教室をやっていた。一番狭い部屋などは、それこそ下級侍が傘張りをやってそうな板張りの和室で、一宿一飯の義理の客を泊めていたような雰囲気があった。

江戸時代の並松町つまり新屋敷に居留していた武士たちは、五十石以下の士、卒であり、同心や与力は十石程度の禄だったそうだ。
人ひとりの米の消費量が年一石というから、今の米の価格から考えると、丸ごと両替商で現金化したとしても、下級武士たちの暮らしぶりは貧しいものだったろうと推測できる。

このように並松町は武士階級の町だったので、町民漁民の祭礼であるだんじり祭は参加しなかった。
地車を曳くようになったのは明治維新のずっと後、明治三十五年(1920)であり、その際に御輿も所有していたという魚屋町の地車を借りて曳行したのが始まりである。
有史以来この地車を所有しなかった町が、初めて新調地車を曳行したのが大正十年(1921)であるが、その地車新調中の大正九年には、貝塚の沢にあった北町の先代地車を借りて曳いている。
その際、当てたのか転かせたのかはわからないが、地車をひどく傷めてしまい、借り賃五百円の上に修理代千円が嵩み「高くついた」と古老もぼやかずにはいられなかったそうだ。

そのようなことがあったものの、満を持して大正十年に登場した並松町の地車は、高さ幅とも岸和田最大で、目方が千二百貫(≒4・5トン)という地車であった。
現在も大屋根両端の大きな紅白の房がゆっくり揺らしながら疾走するその勇姿は、実際に岸和田のだんじり祭で見られるが、特有の大太鼓の重低音ともあいまって、まことに大きい。
余談であるがその並松町の地車がカンカン場で横転するのを若頭連絡協議会に出ていた時に、わたしは目の前で見たことがある。
昭和・平成になってこれより大きな地車が出現しているが、貫禄が違う。この地車にはそれらを威圧する圧倒的な存在感があるのだ。
それは姿見が実に美しいからで、とくに屋根廻りの巨大な組物は、どっしりしていてかつバランスが絶妙である。
それもそのはず並松町地車は、「明治の甚五郎」と名を馳せた「左ヱ門」櫻井義國師が大工棟梁と彫物責任者の両方をこなした地車である。
大工・彫物ともに同じ工匠の作事というのは岸和田で唯一であり、大阪湾数ある地車の中でも数台だけであり、そのすべてが義國師作である。
またこの地車の大屋根は初めて「隅をかけた」、いわゆる入母屋型の地車である。大屋根を支えそれを形づくる垂木は、義國師自慢の菱型扇垂木であり、これ以降岸和田の地車は扇垂木構造の入母屋型が多くなる。

安政二年、泉州忠岡の老舗大工棟梁家に生まれた櫻井義國師は、堂宮建築の巨匠であった。
和泉國一宮の大鳥大社、大津神社、四天王寺の鐘撞堂などが義國師の作品である。
加えて義國師のその彫刻は天才的で、十五歳の金比羅詣りの後、その境内を再現した作品を一夜にして刻んで周りを驚かしたり、大工見習いの合間に彫ったネズミが「米を食う」と評判になったりした。「義國の彫った虎に目を入れるな、目を入れると虎が動き暴れだす」といった伝説もある。

四天王寺再建を設計監督した、京都・奈良の当代ーの古社寺修理技師であり『日本建築史要』を著した天沼俊一京大教授もその腕に魅了されており、天沼博士の知遇で当時神奈川県横浜で活躍していた関東宮彫師の「一元」の名跡である一元林峰師を義國師の「助」として岸和田に呼び寄せている。
林峰師はその後、岸和田に永住し、繊維、海運と景気よろしく地車新調黄金時代だった大正期に堺町、大北町、大工町、そしてわたしの町の五軒屋町先代地車と、はぼ五分の一の岸和田地車の新調に「関東彫」の腕を振るっている。
そして、その一元林峰師を頼って京都の彫師・吉岡義峰も岸和田に来ている。義峰は京彫師の父・吉岡米次郎よりも一元林峰の下で修業し、一人前になったといわれており「峰」の一字は一元林峰師からとっている。
大正期~昭和初期に活躍した開正藤師そしていまなお地車関係者は「舜さん」と親しみを込めて呼んでいる木下舜次郎師以降、岸和田地車彫刻は淡路彫一門の系譜をひく工匠たちの全盛だが、それも櫻井義國師の元に行けば「仕事がある」と淡路対岸の岸和田へ渡ってきたことが要因だ。
義國師は「泉州忠岡に左エ門あり」そして「明治の甚五郎」と、摂河泉及び京・大和・紀州はおろか四国まで名を馳せたばかりではなく、岸和田だんじり中興の祖と呼ぶに相応しい足跡を残し内外に影響をおよぼした。
しかし、その生活は「職人は金を貯めるとろくなことはない」とばかりに、飲む打つ買うの大道楽により、最後は実の娘からも勘当される。また先祖代々の土地や屋敷を失ったと語られている。
浪曲・講談等で語られる「左甚五郎」を実際に地で行った生涯を送ったのであった。

その櫻井義國に「一世一代の大仕事」として、大工作事も彫物も天才ひとりでこなすべしと、武士ゆかりの町、並松町の初めての新調地車に駆り出したのが誰あろう、当時町筆頭評議員に名を連ねていた角界出身の侠客「糸ヶ濱」であった。

2007年08月25日

岸和田侠客伝(第二話)

こと岸和田のだんじり関連の話については、ほとんど口伝である。
大工や彫物師といった職人筋の話、町会の長老筋の話、そして「その筋」の話…といろいろあるが、筋によっては話のスケールが倍になったり、100年前の逸話をさも自分が目撃したかのように語られるのが常である。
だからその話は講釈師の講談を聴いているようであって、思わず体が乗り出すほどホンマにおもろいのであるが、誇張はもちろん単純な勘違いや思いこみもある。
だからそれらを「聞き書き」としてそのまま書き物にすることは、後でいろんなヤヤこしいことになるから「岸和田だんじり讀本」については、そこのところがデリケートになった。

さて糸ヶ濱の話であるが、内田幸彦さんという方が「ふるさと岸和田」というコラム集を大阪府阪南市の中井書店から出している。
丁度「土呂幕十本勝負」の並松町地車の校正時に、その糸ヶ濱のことをどこまでどのように書くかでそのページの著者・泉田祐志氏と岸和田でやっていた。
泉田氏の祐風堂で校正の帰りに、わたしの著書「だんじり若頭日記」(晶文社)でも最多出場のM人にそのことを話すと、「おお並松の博徒の親分やな。その話やったら、この本あるで」と内田さんの著書を出してくれた。

1930年生まれの内田さんのかつて住んでいた並松町の借家の裏が、糸ヶ濱の賭場だったとのことだ。
深夜に屋根から「どすん」と家鳴りがすることがあり目を覚ますと、警察の手入れでその家の屋根伝いに博徒たちが逃げた。そういうことが数回あった。翌朝庭に出てみると「朝日」「敷島」の煙草が散乱していたとのことだ。
慌てて逃げ、落としていったのだろう。
などと文章にあるが、煙草の銘柄の記憶はとてもリアルである。

その糸ヶ濱は、地車にかけてはその精神的支柱である、岸和田浜七町の大工町の生まれである。明治十年(1877)頃、まだ東京になって間がない江戸に出て関取になったが、角界は十両であがり、明治二十年に岸和田へ帰ってくる。
ちなみに十両の正式名称は「十枚目」であって、これは幕末から明治はじめにかけて幕下上位十枚目までの力士の給金が十両だったことに由来している。そしてこの糸ヶ濱が十両だった明治時代中期には、番付表にも四股名が太く書かれるようになった。
その頃は、大坂相撲がまだ健在だったが、東京相撲との差が顕然で「江戸の土俵をつとめてこそ力士である」とのことで東京に出たのであろう。

ちなみに大坂相撲は、元禄時代(1700年初頭)に堀江新地に発祥し一時最勢を誇った。贔屓筋、後援者を指すタニマチは大坂の谷町のことであり、初代横綱谷風梶之助や雷電為右エ門と名勝負をした二代横綱小野川喜三郎は、大坂相撲の本場所力士だった。
文久三年(1863)の大坂相撲力士と新撰組(壬生浪士組)との北新地においての大喧嘩は、浪曲や上方講談で講釈口伝されるよく知られた事件である。この手打ちで京都での角力興行に大坂相撲が協力し、新撰組が関わることとなる。

さて糸ヶ濱であるが、彼は喧嘩では一対一で必ず相手を伸ばしたという。喧嘩も強かったがとりわけ喧嘩の仲裁が得意だったらしい。
どういう縁があったかは知らないが、岸和田で侠客として一家を構えた糸ヶ濱は、同じ力士出身の「砂小川」こと西村伊三郎氏と五分の盃を交わせている。
この砂小川は、京都博徒の大親分砂小川一家の初代であり、幕末京都の大侠客会津小鉄こと上坂仙吉親分とも関係が深かったという。

さらに内田さんの著書によると、大正十二年(1923)関東大震災が東京を襲った時、東京相撲が焼け出され糸ヶ濱を頼ってきたことがある。早速、糸ヶ濱が興行主になり高野山で奉納相撲を催して危機を救った。
その後、恩返しにと東京相撲が大阪新世界の国技館で糸ヶ濱主催の大相撲を開いた、との美談がある。

ちなみに平成六年に百四歳で亡くなった二十二代木村庄之助も大坂相撲出身で、その自著連載である読売新聞社「大相撲」78年名古屋場所総決算号『二十二代庄之助一代記』によると、「さしも威容を誇っていた東洋一の両国国技館も焼け、鉄桟だけの無残な姿を横たえていた」とあり、そのあと巡業で、飯田、松代、上田などを回ったあと、大阪、高野山、広島から四国に渡った、と記録されている。

糸ヶ濱が尽力した並松町の地車は、大正十年の新調である。
そういう時代に、大工町生まれで侠客として全盛だった糸ヶ濱が、「我が町の地車を」とこれまた工匠として全盛だった櫻井義國師に、史上初めて誕生する並松町の新調を任せたのであった。
さらに義國師はその新調にかかる直前の大正五年頃、隣町の大町である下野町地車の新調中に彫物責任者を途中で投げ出している。
その地車は大工棟梁「大勝」あるいは「別所勝」こと別所勝之助師たっての頼みで彫刻を引き受けたのであるが、ある事情によって手を引き、ここぞとばかりに精魂込めて作事・彫刻したのがこの地車である。
義國師が大工作事・彫物も一手に引き受けたというので、当時の他の名匠たちも手弁当で地車製作に加わり手伝ったという。
その時代はまだまだ大工仕事も彫物も、いわば父子相伝であり一家秘伝であった。
名だたる工匠たちも、義國師の技をこの目で見てみたい、その仕事の何か一つでも習いたいという一心からであったという。


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