岸和田にも侠客がいた。
暴力団の構成員ばかりではないのである。
明治から大正にかけて、その侠客の一人がだんじり新調に絡んでいる。並松町の「糸ヶ濱」こと伊東由松氏である。
糸ヶ濱が居住しその賭場があった岸和田城下のちょうど北にある並松町は、江戸時代は沼領新屋敷と呼ばれ、多くの字が残っている。
並松町のその町名は、ちょうど真ん中を貫く紀州街道筋両側にあった松並木に由来する。
糸ヶ濱の太い木格子の家屋もあったその紀州街道筋の一筋浜側は「忍町」であり、ここには甲賀者の組屋敷が並んでいた。甲賀者はお庭番ともいわれ、城内側近の間者であった。さらにその浜側には、北町にかけて御船溜があり(北町だんじりの纏は、その風向きを見る吹き流しが由来との説あり)、武士たちの訓練所である藩の射撃場と馬場(同様に殿様調練日報知のための印の説もあり)があった。
「鉄砲町」と呼ばれる筋は、その名の通り鉄砲組はじめ足軽たちが多数住んでいたという。
わたしは大学時代に並松町のそんな武家屋敷然とした建物をそのまま利用している学習塾で、中学生に数学を教えていたことがある。
その家は入ると中庭を囲んで4畳半~12畳くらいの部屋が4つあり、そこを利用しておのおの習字、ピアノ、数学や英語の小さな教室をやっていた。一番狭い部屋などは、それこそ下級侍が傘張りをやってそうな板張りの和室で、一宿一飯の義理の客を泊めていたような雰囲気があった。
江戸時代の並松町つまり新屋敷に居留していた武士たちは、五十石以下の士、卒であり、同心や与力は十石程度の禄だったそうだ。
人ひとりの米の消費量が年一石というから、今の米の価格から考えると、丸ごと両替商で現金化したとしても、下級武士たちの暮らしぶりは貧しいものだったろうと推測できる。
このように並松町は武士階級の町だったので、町民漁民の祭礼であるだんじり祭は参加しなかった。
地車を曳くようになったのは明治維新のずっと後、明治三十五年(1920)であり、その際に御輿も所有していたという魚屋町の地車を借りて曳行したのが始まりである。
有史以来この地車を所有しなかった町が、初めて新調地車を曳行したのが大正十年(1921)であるが、その地車新調中の大正九年には、貝塚の沢にあった北町の先代地車を借りて曳いている。
その際、当てたのか転かせたのかはわからないが、地車をひどく傷めてしまい、借り賃五百円の上に修理代千円が嵩み「高くついた」と古老もぼやかずにはいられなかったそうだ。
そのようなことがあったものの、満を持して大正十年に登場した並松町の地車は、高さ幅とも岸和田最大で、目方が千二百貫(≒4・5トン)という地車であった。
現在も大屋根両端の大きな紅白の房がゆっくり揺らしながら疾走するその勇姿は、実際に岸和田のだんじり祭で見られるが、特有の大太鼓の重低音ともあいまって、まことに大きい。
余談であるがその並松町の地車がカンカン場で横転するのを若頭連絡協議会に出ていた時に、わたしは目の前で見たことがある。
昭和・平成になってこれより大きな地車が出現しているが、貫禄が違う。この地車にはそれらを威圧する圧倒的な存在感があるのだ。
それは姿見が実に美しいからで、とくに屋根廻りの巨大な組物は、どっしりしていてかつバランスが絶妙である。
それもそのはず並松町地車は、「明治の甚五郎」と名を馳せた「左ヱ門」櫻井義國師が大工棟梁と彫物責任者の両方をこなした地車である。
大工・彫物ともに同じ工匠の作事というのは岸和田で唯一であり、大阪湾数ある地車の中でも数台だけであり、そのすべてが義國師作である。
またこの地車の大屋根は初めて「隅をかけた」、いわゆる入母屋型の地車である。大屋根を支えそれを形づくる垂木は、義國師自慢の菱型扇垂木であり、これ以降岸和田の地車は扇垂木構造の入母屋型が多くなる。
安政二年、泉州忠岡の老舗大工棟梁家に生まれた櫻井義國師は、堂宮建築の巨匠であった。
和泉國一宮の大鳥大社、大津神社、四天王寺の鐘撞堂などが義國師の作品である。
加えて義國師のその彫刻は天才的で、十五歳の金比羅詣りの後、その境内を再現した作品を一夜にして刻んで周りを驚かしたり、大工見習いの合間に彫ったネズミが「米を食う」と評判になったりした。「義國の彫った虎に目を入れるな、目を入れると虎が動き暴れだす」といった伝説もある。
四天王寺再建を設計監督した、京都・奈良の当代ーの古社寺修理技師であり『日本建築史要』を著した天沼俊一京大教授もその腕に魅了されており、天沼博士の知遇で当時神奈川県横浜で活躍していた関東宮彫師の「一元」の名跡である一元林峰師を義國師の「助」として岸和田に呼び寄せている。
林峰師はその後、岸和田に永住し、繊維、海運と景気よろしく地車新調黄金時代だった大正期に堺町、大北町、大工町、そしてわたしの町の五軒屋町先代地車と、はぼ五分の一の岸和田地車の新調に「関東彫」の腕を振るっている。
そして、その一元林峰師を頼って京都の彫師・吉岡義峰も岸和田に来ている。義峰は京彫師の父・吉岡米次郎よりも一元林峰の下で修業し、一人前になったといわれており「峰」の一字は一元林峰師からとっている。
大正期~昭和初期に活躍した開正藤師そしていまなお地車関係者は「舜さん」と親しみを込めて呼んでいる木下舜次郎師以降、岸和田地車彫刻は淡路彫一門の系譜をひく工匠たちの全盛だが、それも櫻井義國師の元に行けば「仕事がある」と淡路対岸の岸和田へ渡ってきたことが要因だ。
義國師は「泉州忠岡に左エ門あり」そして「明治の甚五郎」と、摂河泉及び京・大和・紀州はおろか四国まで名を馳せたばかりではなく、岸和田だんじり中興の祖と呼ぶに相応しい足跡を残し内外に影響をおよぼした。
しかし、その生活は「職人は金を貯めるとろくなことはない」とばかりに、飲む打つ買うの大道楽により、最後は実の娘からも勘当される。また先祖代々の土地や屋敷を失ったと語られている。
浪曲・講談等で語られる「左甚五郎」を実際に地で行った生涯を送ったのであった。
その櫻井義國に「一世一代の大仕事」として、大工作事も彫物も天才ひとりでこなすべしと、武士ゆかりの町、並松町の初めての新調地車に駆り出したのが誰あろう、当時町筆頭評議員に名を連ねていた角界出身の侠客「糸ヶ濱」であった。