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岸和田侠客伝(第二話)

こと岸和田のだんじり関連の話については、ほとんど口伝である。
大工や彫物師といった職人筋の話、町会の長老筋の話、そして「その筋」の話…といろいろあるが、筋によっては話のスケールが倍になったり、100年前の逸話をさも自分が目撃したかのように語られるのが常である。
だからその話は講釈師の講談を聴いているようであって、思わず体が乗り出すほどホンマにおもろいのであるが、誇張はもちろん単純な勘違いや思いこみもある。
だからそれらを「聞き書き」としてそのまま書き物にすることは、後でいろんなヤヤこしいことになるから「岸和田だんじり讀本」については、そこのところがデリケートになった。

さて糸ヶ濱の話であるが、内田幸彦さんという方が「ふるさと岸和田」というコラム集を大阪府阪南市の中井書店から出している。
丁度「土呂幕十本勝負」の並松町地車の校正時に、その糸ヶ濱のことをどこまでどのように書くかでそのページの著者・泉田祐志氏と岸和田でやっていた。
泉田氏の祐風堂で校正の帰りに、わたしの著書「だんじり若頭日記」(晶文社)でも最多出場のM人にそのことを話すと、「おお並松の博徒の親分やな。その話やったら、この本あるで」と内田さんの著書を出してくれた。

1930年生まれの内田さんのかつて住んでいた並松町の借家の裏が、糸ヶ濱の賭場だったとのことだ。
深夜に屋根から「どすん」と家鳴りがすることがあり目を覚ますと、警察の手入れでその家の屋根伝いに博徒たちが逃げた。そういうことが数回あった。翌朝庭に出てみると「朝日」「敷島」の煙草が散乱していたとのことだ。
慌てて逃げ、落としていったのだろう。
などと文章にあるが、煙草の銘柄の記憶はとてもリアルである。

その糸ヶ濱は、地車にかけてはその精神的支柱である、岸和田浜七町の大工町の生まれである。明治十年(1877)頃、まだ東京になって間がない江戸に出て関取になったが、角界は十両であがり、明治二十年に岸和田へ帰ってくる。
ちなみに十両の正式名称は「十枚目」であって、これは幕末から明治はじめにかけて幕下上位十枚目までの力士の給金が十両だったことに由来している。そしてこの糸ヶ濱が十両だった明治時代中期には、番付表にも四股名が太く書かれるようになった。
その頃は、大坂相撲がまだ健在だったが、東京相撲との差が顕然で「江戸の土俵をつとめてこそ力士である」とのことで東京に出たのであろう。

ちなみに大坂相撲は、元禄時代(1700年初頭)に堀江新地に発祥し一時最勢を誇った。贔屓筋、後援者を指すタニマチは大坂の谷町のことであり、初代横綱谷風梶之助や雷電為右エ門と名勝負をした二代横綱小野川喜三郎は、大坂相撲の本場所力士だった。
文久三年(1863)の大坂相撲力士と新撰組(壬生浪士組)との北新地においての大喧嘩は、浪曲や上方講談で講釈口伝されるよく知られた事件である。この手打ちで京都での角力興行に大坂相撲が協力し、新撰組が関わることとなる。

さて糸ヶ濱であるが、彼は喧嘩では一対一で必ず相手を伸ばしたという。喧嘩も強かったがとりわけ喧嘩の仲裁が得意だったらしい。
どういう縁があったかは知らないが、岸和田で侠客として一家を構えた糸ヶ濱は、同じ力士出身の「砂小川」こと西村伊三郎氏と五分の盃を交わせている。
この砂小川は、京都博徒の大親分砂小川一家の初代であり、幕末京都の大侠客会津小鉄こと上坂仙吉親分とも関係が深かったという。

さらに内田さんの著書によると、大正十二年(1923)関東大震災が東京を襲った時、東京相撲が焼け出され糸ヶ濱を頼ってきたことがある。早速、糸ヶ濱が興行主になり高野山で奉納相撲を催して危機を救った。
その後、恩返しにと東京相撲が大阪新世界の国技館で糸ヶ濱主催の大相撲を開いた、との美談がある。

ちなみに平成六年に百四歳で亡くなった二十二代木村庄之助も大坂相撲出身で、その自著連載である読売新聞社「大相撲」78年名古屋場所総決算号『二十二代庄之助一代記』によると、「さしも威容を誇っていた東洋一の両国国技館も焼け、鉄桟だけの無残な姿を横たえていた」とあり、そのあと巡業で、飯田、松代、上田などを回ったあと、大阪、高野山、広島から四国に渡った、と記録されている。

糸ヶ濱が尽力した並松町の地車は、大正十年の新調である。
そういう時代に、大工町生まれで侠客として全盛だった糸ヶ濱が、「我が町の地車を」とこれまた工匠として全盛だった櫻井義國師に、史上初めて誕生する並松町の新調を任せたのであった。
さらに義國師はその新調にかかる直前の大正五年頃、隣町の大町である下野町地車の新調中に彫物責任者を途中で投げ出している。
その地車は大工棟梁「大勝」あるいは「別所勝」こと別所勝之助師たっての頼みで彫刻を引き受けたのであるが、ある事情によって手を引き、ここぞとばかりに精魂込めて作事・彫刻したのがこの地車である。
義國師が大工作事・彫物も一手に引き受けたというので、当時の他の名匠たちも手弁当で地車製作に加わり手伝ったという。
その時代はまだまだ大工仕事も彫物も、いわば父子相伝であり一家秘伝であった。
名だたる工匠たちも、義國師の技をこの目で見てみたい、その仕事の何か一つでも習いたいという一心からであったという。


コメント (1)

だんじり讀本楽しく読みました。
嫁は若頭日記より難しいと申してました。
いろんな伝説を持った人が居たんですね。
石炭の上林さんは赤フンじいさんでおもしろい人やったとうちのおやじが言ってました。

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2007年08月25日 10:58に投稿されたエントリーのページです。

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