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2005年03月 アーカイブ

2005年03月10日

街的雑誌派宣言

3月5日(土)

『日帰り名人』というわたしが発行人をしている季刊ムックがある。

『遠足リバイバル。』『おいしく休日。』『日帰り名人 海・山に行く。』『京阪神わがココロの秋カントリー。』『買い出し隊!!』と昨年は5冊発行している。

この季刊はもともと『大阪本』や『うまい本』『会社帰り本』といった『ミーツ』別冊シリーズのひとつで、『日帰り名人』というタイトルを付けた特集ムックだったのだが、 03年春に出したこの「一発もの」の別冊は、4刷30万部突破。エルマガ社創業からの記録を塗り替えた。

「今からちょっと、でスグ行ける、1時間以内の遊び場250。」という表紙コピーがその内容そのものだが、感覚的には「ヤンキー的」な特集である。

といっても実際バリバリ現役のヤンキーやヤンママや元ヤン家族にターゲットをしぼ
って、彼らを徹底的にマーケティングしてつくる、なんてことはしなかったし、事実書店や取り次ぎのPOSデータを見ても、年齢層・性別問わず売れに売れた。

ターゲットをしぼるということは、雑誌をつくる際にはよくやる手段だが、たかだか京阪神中心のリージョナル誌、「25歳のOLがターゲット」といった電博代理店的ナマ
っちょろい考え方では、30万部という数字は獲得出来ない。
販売部長のN島によると「キャンペーンやってても、リュック背負ったキッズからヴィトンOL、ハイキング行くような格好をした50代のご夫婦、とほとんどバラバラですよ、この本の強さは」とのことだ。

ところで『ミーツ』はよく「タウン情報誌」という言い方で呼ばれたりする。
そんな時オレはじめ編集部員はムッとする。あまりいい気がしないのである。

ヒラカワさんのブログ2005.03.01の「逃れの街、逃れの場所。」http://tb.plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200503010000/でも、コメントされている方が「東京ウォーカーのような内容の雑誌ですね。」と書き込みされていて、編集部員と半泣きになった。

うちのミーツはええカッコを言わせていただくなら『街的雑誌』であって、あらゆる事象を「主流化させない」し、どんなカテゴライズ化ジャンル化も拒絶したい。

なぜならオレたち街の雑誌や情報誌の編集者が80年代~90年代を通じてやってきたことは、ひとことでいえば「消費にアクセスする情報」ばかりを誌面に編集してき
たからだ。
そして今それを反省し、ブレイクスルーしようとしている。

「情報誌」というひとつの出版物のジャンルが分節されてもう4半世紀になるが、その「情報」の中には、テロや戦争、オリンピックの結果といった世界で起こっている出来事や、選挙速報や明日の天気や石原慎太郎の暴言などは含まれない。

そこではコンサート、映画、イベントなどのスケジュール情報。そして、お店で売られる商品やサービス。またライブハウスやディスコといった「新しい表現の場としての店舗」が80年代以降市民権を得て、そこでの表現のみならず風俗や流行までもが商
品としてどう買えるかというふうにデータ化した。

そして読者は、その情報を身に纏い、それに見合うだけ対価(お金)を充てることでだれもがそれらを消費できる。 つまり情報誌のその正体は「消費にアクセス」するための情報だった。

パルコや西武などが80年代後半に「街は情報の発信基地だ」という物言いでやって
きたことも同様だったと思う。
以前 NHKをたまたま見ていたら、元セゾングループの堤清二さんが出ていて「失敗の原因はどこにあるのですか?」なんてキャスターにかなりきっつい質問をされていた。

結局「あなたの欲しいものはこれです」ということで、人々の欲望を図式化してストレートに消費情報として商品をメディア露出させれば、大衆に消費需要を喚起させら
れる。それがどうもやればやるほど難しくなってきた。
端的に言うと「おいしい、生活。」的なある種の消費の欲望構造で「AでなくBだ」とか、卑近な例では「グッチではなくプラダですよ」というのは、すでに90年代後半からは「もうほかのもの持ってるし、いいよなあ、今のところ」となってしまっていて、そんな時代の気分を読めなかった。どんどん欲望を刺激して、新たな商品によって需要を喚起するやり方ではダメだったんだ、とおっしゃっていた。

今週号週刊文春によると、「清二氏は経営者としての責任を取って資財百億円を提供した。西麻布の迎賓館「米荘閣」も売り払い、その隣の狭い土地で作家・辻井喬に重心を移して活動している」そうだ。

ヤンキー的感覚雑誌編集論をしようと思っていたのだが、話はちょっとムチャクチャ
になって、また大家さんの内田先生から「要点を整理して話すようにぃ」と注意され
そうだし、ヒラカワさんにも「結局、何が言いたいわけ」と言われてしまいそうだ。

それに「そしたら、今、消費以外に何か楽しいことがあるんか」と問いつめられても
困るので(答えは、小っさい声で言うが、だんじり祭に決まってるやんけ)、ヤンキー感覚論はまた明日にすることにする。

ほんとにかなしい「日本一だんじりなエディター」であるオレだ。

2005年03月17日

日限萬里子さんのこと

3月16日(水)

すでに新聞報道もされている通り、日限萬里子さんが14日昼前に亡くなった。

先週の確か。9日のこと。
編集部に行く途中JRの新快速に乗っていると携帯が入り、発信者を見ると「日限」と
いう表記だった。

日限さんからは2月の半ばに、引っ越しをしたい、都市機構のなんば湊町の新マンションに入居できないか、という相談があり、以前、都市機構の「湊町・ミナミ・大阪へ
の想いbyミナミスタイル研究会」
http://www.osaka-sumou.net/town/minami/373style/vol04.htmlというシンポジウムを構成したモナト久美子さんにそれを伝え、とりあえず日限さんが住んでいる北堀江の家の近くのロイヤルホストで待ち合わせした。

日限さんは約束の4時きっかりに杖をついて来られて、「江くん、ここのなあクラブ
サンドはおいしいねん、注文しいな」といったので、それを頼んだが、日限さんはアッ
プルジュースしか飲まなかった。ものを食べられないらしい。
彼女は「あんたも隣に住みいな」「ほな隣と違て、一緒に住みますか。どちらも独り
もんやし」とか冗談をかましてたが、ちょっとこれはしんどいな、と正直思った。

けれども明くる日の16日NHKの生放送の「上方クラブ」に生放送で出られていた。
声はいつもと違って弱々しかったが、「何でアメリカ村という名前なんですか」との
キャスターの質問には「村って、わたしは街の子やからそんなん絶対付けません、誰
かが付けたんでしょ」と答えていて、オレは販売部長の中島と会議室でそれを観てい
たのだが「日限さんは、やっぱり最高やなあ」と笑っていた。

番組が終わって数分後に「お疲れさんです。ようがんばりましたな。あれ、おもろかっ
たです」と携帯を入れると「そやろ、江くん。あほでもぶっさいくな顔でもええけど、
いなかもんだけはあかんねん」と大笑いしていた。
その笑い声だけが、以前の日限萬里子さんの声だった。

午前11時前の新快速のなかで、その湊町の件かなあ、まあ車内はガラガラだしええか、と思って携帯に出ると、彼女の携帯から聞こえる声は、弟さんの満彦さんだった。
内容はもうちょっと2~3日かもしれない、ということで、しきりに「江くん、江く
んと言うてる」オレを呼んでほしいということだったので、 編集部にそれを伝えて、
大阪駅から中之島の住友病院に直行した。

9階に上がり相部屋の病室に行くと、日限さんはモルヒネが効いているのか寝ていたが、「日限さん、どないしたん」といったら目を覚まして「江くん、ちょっと起こし
てくれるか」といったので、そばで看病していた年老いたお母さんと一緒に背中を抱
えて上半身を起こした。

「ちょっとなあ、痛いねん。もうちょっと生きなあかんねんけどなあ」と訴える。
「なにを眠たいこというてますねん、日限さん。癌のデパートみたいに今までいろい
ろやってきましたやん、またすぐようなりますわ」とオレは言ったが、満彦さんに廊
下に呼び出されて、これはやっぱりしんどいなと思った。

満彦さんは泣きながら「あんたやから言うけどなあ、ほんまにちゃんと葬式あげられ
るかの金もおまへんねん」とか言うから、オレは号泣してしまって、ちょっと病室に
戻れない状態で「なにゆうてますねん、後のことはそうなってからですやん。しょう
もないこと言うたらあきませんやん」といって、便所で顔を洗って鏡で確認して病室
に戻った。

日限さんは穏やかな顔で「的場ちゃんはどうしてるねん」と訊く。
「的場ちゃん」というのは街の大先輩の的場光雄さんである。ミーツで90年代はじ
めに「ラストオーダーが微笑むように」というコラムを連載していて、それが「アホ
の求道」http://www.matbux.com/という単行本になっている。

「先月家におじゃまして、昼から終電まで飲んでましたんや。なんかサンボアの70
周年、一緒に行けへんかぁ?言うてましたし、どうしょうと思てますねん」
「バーもなあ、70年やったら店の通り道みたいなのがしゅっーとできてるから、やっ
ぱり気持ちええわなあ」

そんな彼女らしいといえば彼女らしい訳のわからない会話が、日限萬里子さんとの最後の会話になってしまった。

満彦さんが丁寧に病院の出口まで送ってくれて、外に出て的場さんに電話する。

的場さんもすぐ駆けつけるとのことで、その後電話がある。
「足、さすってやったらようやく気が付く状態で、いてられへん。スイトピーおいて、
5分で帰ってきた」と涙声で彼は言った。

亡くなった当日14日、9時半に満彦さんから携帯がはいった。
「もうあきませんねん。何とかがんばってるんやけど」とのことだったが、神戸にい
たオレはどうすることもできなかった。

通夜も密葬も終わってようやく帰ってきたオレは今、松澤壱子さんの「日限萬里子さ
んのこと」http://blog.kansai.com/ichiko/137を読んで、何とかキーボードを叩いている状態だ。

2005年03月20日

街の先遣兵

3月17日(木)

幸運にも、『ミーツ』を中心に20年近く街の雑誌を編集してきたので、大阪のミナミ
という街が、どのように動いてきたかを現在進行形で見つめてきた。

とくに「アメリカ村」および「南船場」「堀江」については 97年~00年にかけて弊誌に連載された、日限萬里子さんのコラム「ママいるぅ?」と、03年1月増刊号『日限萬里子と大阪ミナミの30年』の取材・編集を通じて深く知ることになった。

70年代初頭から80年代にかけて新しい街として「分節され」、もはや中高の修学
旅行生でも賑わう街になった大阪ミナミの「アメリカ村」。
かつてのミナミと完全に一線を画す、若者風俗~文化軸を持つこの新しい街は、地元・三津寺出身の日限萬里子さんが、1969年それまでほとんど「何もなかった」三
角公園前に、「自分たちが行きたい店がないからつくった」。
それが『ループ』という小さなカフェで「何でこんなところに」と皆は驚いたそうだ
が、アメリカ村の全てはこの店から始まった。

アメリカ村は、ミナミの中心部として一番賑わっていた心斎橋筋から、大阪の中心地
を南北に貫く道幅40メートルという広い御堂筋を西に越えた「近くて遠い」エリアである。
この昭和12年に完成した御堂筋は、江戸時代からの東西軸が中心の町割である大阪を完全に分断し、新たな南北軸を造り上げるようになった。
けれどもアメリカ村が出来て、心斎橋周辺のミナミは初めて御堂筋を超えた。それは
アメリカ村誕生でミナミそれ自体が増殖するように、ミナミ自体を広げたといえるだろう。

現在も「2週間経つと街が変わっている」状態で、依然として「ネクストな街」なポテンシャルをもつ堀江は、アメリカ村からさらに四つ橋筋を西に渡ったところに位置する。
住所表記では中央区ではなく、もう西区である。

堀江はここ数年、東京資本のブティックが並ぶようになった立花通り(元々旧い家具
屋が並ぶ専門商店街だった)を除いて、今も公園が点在する住宅地であり、デザインや設計関係のオフィスが多い。
そんな「人の住む街」としての気配がこの界隈の魅力でもある。

そしてこの街も、もう50代半ばを超えた日限萬里子さんが98年、空間デザイナー・間宮吉彦の設計による『ミュゼ大阪』をオープンさせたことで、新しい街としての形成を決定づけた。

オレは企業家とか都市プロデューサーとかではない彼ら「ミナミの街人」の足跡をさ
ぐり直すことで「街とは何か」を考え続けてきた。

その際に日限萬里子さんが店を出し、それが新しい街としての種子となり、事後的に
新たな街として分節されたアメリカ村、堀江という街において、次の点がとても街的
に大切な観点だと思う。

それは行政による再開発や鉄道会社の駅ターミナル造成、はたまたショッピングモールやファッションビルなどが建って、それが引き金となって出来た類の街とは全く違った「仕方」で出来てきた、という点だ。
つまり「資本による街づくり」とは全くといっていいほど無縁である、ということでもあり、デベロッパーだとか、都市計画を仕事にしている人や街づくりのプロデューサのような人が、導線計画をしランドマークをつくり…で「こしらえた街」では決してないのである。

新しい「街ができる」直接のきっかけとなるそのパターンはいつもそうだが、とてもシンプルである。

それはワンフレーズで言える。
「何かやろう」という人が何の前触れもなく突然出てきて、「自分でつくった店」を出し、そこで「自分の好きなもの」をつくったり見つけてきたりして、「自分で流行らせる」。
 
その場合、ロケーションはこれもだいたいそうだが、街の中心部ではないマージナル
(周縁的)なところ。比較的家賃が安くてかつ「近い」ところが選ばれる。

その「何かやろう」の人は、あらかじめ人の集まるところに店を出し、売れる(そうな)ものを置くのではない。
だから流行中のアイテムやブランドのタグがある前に、まず「何かやる」人がいる。
店に並んでいる服やグッズなどいろんなものの前に、必ずそれをつくったり打ち出し
たり選んだりする人の顔が見えるのである。
とくに日限さんがやってきた飲食店やクラブの場合、一杯のコーヒーや一皿の料理に乗っかる値打ちや愉しさみたいなもの、つまり付加価値や象徴価値は、その店のオーナーやマスターの顔そのものだといえる。

それは「技術」とか「こだわり」という簡単な言葉ではくくれないものだ。
それは「感性でやってしまう」みたいな強度の次元であり、個性やオリジナリティといった要素に、感覚的な「ハヤさ」、つまり時代感覚の時間軸がプラスされている。
それら一連の--資金とか計画とかマーケティングとか企画書ではない何か--が、店舗デザインや商品、スタッフ、接客…その他もろもろにダイレクトに表れ、それがオー
ナーやご主人、クリエーターといった、ナマ身の人を通じて、われわれにコミュニケ
ーションの水準で入ってくる。

来店数がどれだけで、客単価がいくらで、坪当たり何円の売り上げで、という経済軸
の要素と対極にある現象。
つまりやりたい人が、やりたい時、つまり現時点で、何をやらかそうとしているのか。

それを目の当たりにして、取材し考え書いていくのがわれわれの仕事にとっての一番魅力であるが、その際の最も重要なところであるいい店かそうでないかの「店のリアリティ」というものは、その「人レベル」の人柄やセンス、熱い思いや泣き笑い、愛、ノリ…といったもの、つまり表現が積分されて店が成り立っているということだ。
そういう意味で街の店づくりというのは、 資本、労働、土地といった審級ではなく、むしろ文学やアートに近いのかもしれない。

時代感覚というのは面白いもので、誰かが今までとは違う何かを表現すると、必ず同じ時に同じ言語のようなものを持った人がそのコンテクスト(文脈)をとらえる。

彼らはその店の客になったり、あるいはカンパニー(仲間)の一員になったり、「そ
れならオレも」ということで、すぐ隣に店を出したりする。
またそれはその店と違うジャンルの店舗(つまりその店がブティックならカフェといったように)であったりすることが多く、こうなるとストリートつまり界隈の体をなしてくる。

ひとつの店の点から、向こう三軒両隣つまり線=通りへ。
それがそのコアを中心とする同心円の周囲で同時多発になるとエリア(面)になる。
またストリートがたてよこ重層的に交差し、この面が一層稠密になってくると、もは
や街だ。

「街にはあらかじめ名前があり、そこにその街がある」、というのはほとんどの場合
逆で、新しい街としての動きがあるエリアは必ず新たな名前が命名されるのであるが、その名前が固定化されて初めてその街が分節され、その街の性格的な輪郭がはっきりしてくる。

つまり新しく命名され固定化された「アメリカ村」が実際に「どこ」であるか、「どんな街」であるかなどが、手に取れるかたち目に見える色で立ち上がってくる。

点である一つの店がきっかけで、ストリートになり、街になるということは、ファッションやインテリアのショップに始まる物販から、カフェやレストランといった飲食といったように多種目にわたる店舗が、次々にブレンドされるということであるが、その街のテイストのようなものが、流行軸で差異化され続ける限り、まだまだ発展~増殖する。

当たり前のことだが、新しい街が分節され、メディアなどで流通し、流行軸で広く知られてくると(=街のブランド化)、商品を街の記号で売ろう、場所で数字をたたいてやろう、という常套手段の商売人がやってくる。
そして「企業レベル」でその街で「何かやる」ことが商売になることが認識されると、マーケティングを駆使して、大資本(中もあり?)が最後にやってきて臨界点を越える。

最も分かりやすい例でいえば、アメリカ村の南中学跡地を再開発した大規模商業施設のビッグステップ。
さらに、南船場でいえばルイ・ヴィトンやジョルジオ・アルマーニといった大ブランドのブティック。
堀江なら一連の東京ハイファッション系ブティック。

ことミナミの街場の場合、オレは例外を知らないのだが、大は小のいつも後をついて
くる。
そこのところが、最も大阪的な街といわれるミナミの、最も痛快なところだ。

日限萬里子さんについて、もう10年くらい前のミーツのインタビューを読み直していると、
「『パイオニアっていい言葉じゃないのよ。歩兵と一緒で、荒れ地の真ん中を進んで
真っ先に撃たれる役目』と笑うが、百戦錬磨という印象は全くない」

というのがあった。ほんとうにその通りだと彼女は身を以て証明してくれた。

2005年03月21日

葬儀の告知

日限萬里子さんの本葬「日限萬里子葬送会」について、お問い合わせが多いので、こ
の場をお借りして告知いたします。

4月3日(日)午後5時~7時(開場午後4時) 
大阪国際交流センター・大会議室さくらの間
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20001005-2/kaijyou.html

葬儀委員長 大日本除虫菊株式会社 代表取締役会長 上山英介さま
喪主 日限満彦さま(弟)

実行委員会事務局は、ビリーフ06-6244-1051(寺村さま)です。

2005年03月23日

五軒屋町の夜は更けて

3月19日(土)

M人から「Kちゃん(彼の叔父さん)が鹿、撃ってきたんや。どっさりあるから、ひろきも食いに来い」というから岸和田に帰る。

テーラタカクラに行くと、同い年の若頭が揃っていてすでに鍋をつついている。
昨年の筆頭M雄、JRの車掌のS本、Kバは岡山の単身赴任先から連休で帰岸している。ハンコ屋のYっちゃんはささっと食べて店を閉めに帰ったとこらしい。

鹿はフランス料理では食べたことあるが、鍋は初めてだ。
水菜と薄揚げ、だしはうまいし山椒と柚コショウをいっぱい放り込んで鹿肉を食う。
わりとアッサリ目の肉だ。 ビール、焼酎と進む。

9月に祭が終わると、だいたい毎年冬に数回はこういう形で同じ年がわいわいと集ま
り酒を飲むが、鹿鍋というのは珍しい。

料理にうるさいM人は「鹿はあんまりうまいもんやないけど、まあこんなもんか。今度はイノシシでも撃ってきてくれるように言うとくわ」といいながら「やっぱり燗やで」、ということで自ら追加の日本酒を買いに行く。
オレも例のように実家に走って帰って、家の四合瓶とついでに白菜の漬け物とイカナ
ゴの釘煮をかっさらってテーラータカクラに戻ってくる。白菜には黒七味をかけるのも忘れなかった。

戻る途中にたばこ屋の前で、だんじり大先輩のKっくんを見つける。
M人M雄の前梃子の大先輩、もう60歳前のミスター五軒屋町である。

「Kっくん、いまM人とこで皆で飲んでますねん。ちょっとのぞいてよ」
というと「おお、ひろきか。はよ帰ろと思てたけど、ちょっとよせてもらうわ」
というわけでKっくんを連れて戻る。

彼を囲んで昔の話を40代半ばのだんじり男が聞く。
ほとんどが祭の際や旅行時の旅館で大暴れしたとかのケンカの話で、そのたびに「えぐいなあ」「わっしゃ~」とかの感激の間投詞が連発する。

Kっくんは小1時間ほど、焼酎を数杯飲んで「すまなんだのお、ごっつおさん」と帰る。

「ひろき、お前よう連れてきたのお。晩にKっくんにつかまったら、昔は帰してくれへんかったんや。そやけどKっくんも年いった」とM人。
「ひとりでやなあ、タバコの自動販売機で買うてる姿見たら、やっぱり声かけなまず
いやろ」

次は3年前の拾五人組の組長で、今年の新若頭N出と前梃子の若い衆のK戸が来た。
オレらより7~8歳下で彼らも同い年のチームでどこかで飲んできた帰りだ。

話の内容は祭礼用の鉢巻にする手ぬぐいのデザインとか、岸カジと呼ばれる岸和田の若い者の独特のセンスの話、ジーパンの話とかで、全然違うがそれはそれでおもろい。

日が変わりみんなそろそろ帰ろか、という時に今年若頭を出られた割烹の板前「喜平」のNちゃんが「これ、生やぞ」と店であまったマグロの造りを持ってくる。

ジャンパーを着て居眠りしていたM雄も起きてきて、また飲んでわいわいと話し笑う。
岸和田の連休初めの夜の日常は今もこんな具合だが、なんだか懐かしい気もする。

生まれ育った岸和田の五軒屋町は、今のおのおのの社会的属性や仕事や家族からみんなを疎開させる。

2005年03月25日

アンティパストは箸で

3月21日(祝)

今日も岸和田。
宮本町に4月1日オープンのイタリア料理店『チャムーラ』のレセプション会に招か
れているからだ。

ここのオーナーシェフは、五軒屋町出身の30代半ば。日本を代表する大阪の『ポン
テベッキオ』で働いていたが、だんじりの青年団長をやることになって、その年に「
祭に休まれへんから、仕事やめました」の例の口である。

天才料理人・山根大助氏による『ポンテベッキオ』は2002年、イタリアのベネト州で
開かれたイタリア最大のワインイベントの正式晩餐会において、イタリア国外のイタ
リアンレストランBEST5に選出されたほか、イタリアの権威あるレストランガイドブ
ック『ガンベロロッソ』誌において2回連続で日本のイタリアンレストランの1位に輝
いた実績を持つ。

彼がその『ポンテベッキオ』を辞めたのは、まことにもったいない話だが、それを彼
に話すと「その後、魚屋で5年ほど働きましたんで、かえって素材覚えられてよかっ
たです」とにっこり。

店はウッディな内装に白いペンキを塗った小さなリストランテだが、「CIAMURA」と
大書された2メートルほどの大きな木彫のディスプレイがポイントになっていて素晴
らしい。

「これ、ええなぁ」と言うと、「片山に彫ってもろたんですわ、上から色塗ったこと
不満みたいでしたけど」と言う。オレが彫ちゃったんやから、だんじりの彫り物のよ
うに余計な着色するな、とということらしい。
片山という男子は、だんじりの彫り物彫刻師だ。最近最も名作を出している「筒井一
門」の「木彫 岸田」の棟梁右腕である職人で、祭礼では五軒屋町の大工方現役ばりばりで屋根に乗っている。

同席者は本町のワイン商にして平成16年度若頭筆頭のH出夫妻、そしてイタリア製
エスプレッソマシーンの輸入商を20年やっている藤井町のT本くんが同席だ。4歳年
長のT本くんは前梃子責任者と若頭筆頭、そして来年には単町ではだんじりの最高責任者である曳行責任者をする。
それに加えてイタリアに6年住んでいた40過ぎの女性で、彼女は岸和田が初めてだ。

T本くんが一番最後で、自転車に乗ってやってきたのが店内から見える。
「幸せそうな顔してはる、ほんまに」と彼女は言う。
H出は「いっつもうれしそうやねん。あのおっさんは」と言って笑わせる。

「まいど」「おお、元気か」とかのあと、彼女が紹介されて、「にこにこ、楽しそうな方ですね」と言うと、仕事柄イタリア通のT本くんが「オレはアタマの中がナポリターノや。岸和田はそんなんばっかり」と笑いを取る。

ここはどんな街かを4人が話す。
イタリアで言うとどこそこの街とよく似ていて、店がどうで食べ物がどうで、男と女の話やケンカの仕方がどうで…ということで、彼女は「まるでイタリアみたいですね」という。

すかさず「それはイタリア人が真似してるんや」「堺に来たマルコポーロが見て帰っ
たんや、ここを」とかムチャクチャである。

ちなみにこの店は4月1日にオープンであるが、1週間以上も前から毎日、地元やゆ
かりのお客を招いて「どうぞよろしく」と大判振る舞いしているらしい。

先週はうちの兄(56歳)が町会のオッサン連中と一緒に招待されて「おお、この店
は焼酎置いてないんか」といったら、「麦ですか、芋ですか」と訊かれて、彼らはそ
れを飲みまくって帰ったらしい。

もちろん前菜のアンティパストは箸で食べてそうだ。というより、あらかじめ箸が用
意してあった。

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