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街の先遣兵

3月17日(木)

幸運にも、『ミーツ』を中心に20年近く街の雑誌を編集してきたので、大阪のミナミ
という街が、どのように動いてきたかを現在進行形で見つめてきた。

とくに「アメリカ村」および「南船場」「堀江」については 97年~00年にかけて弊誌に連載された、日限萬里子さんのコラム「ママいるぅ?」と、03年1月増刊号『日限萬里子と大阪ミナミの30年』の取材・編集を通じて深く知ることになった。

70年代初頭から80年代にかけて新しい街として「分節され」、もはや中高の修学
旅行生でも賑わう街になった大阪ミナミの「アメリカ村」。
かつてのミナミと完全に一線を画す、若者風俗~文化軸を持つこの新しい街は、地元・三津寺出身の日限萬里子さんが、1969年それまでほとんど「何もなかった」三
角公園前に、「自分たちが行きたい店がないからつくった」。
それが『ループ』という小さなカフェで「何でこんなところに」と皆は驚いたそうだ
が、アメリカ村の全てはこの店から始まった。

アメリカ村は、ミナミの中心部として一番賑わっていた心斎橋筋から、大阪の中心地
を南北に貫く道幅40メートルという広い御堂筋を西に越えた「近くて遠い」エリアである。
この昭和12年に完成した御堂筋は、江戸時代からの東西軸が中心の町割である大阪を完全に分断し、新たな南北軸を造り上げるようになった。
けれどもアメリカ村が出来て、心斎橋周辺のミナミは初めて御堂筋を超えた。それは
アメリカ村誕生でミナミそれ自体が増殖するように、ミナミ自体を広げたといえるだろう。

現在も「2週間経つと街が変わっている」状態で、依然として「ネクストな街」なポテンシャルをもつ堀江は、アメリカ村からさらに四つ橋筋を西に渡ったところに位置する。
住所表記では中央区ではなく、もう西区である。

堀江はここ数年、東京資本のブティックが並ぶようになった立花通り(元々旧い家具
屋が並ぶ専門商店街だった)を除いて、今も公園が点在する住宅地であり、デザインや設計関係のオフィスが多い。
そんな「人の住む街」としての気配がこの界隈の魅力でもある。

そしてこの街も、もう50代半ばを超えた日限萬里子さんが98年、空間デザイナー・間宮吉彦の設計による『ミュゼ大阪』をオープンさせたことで、新しい街としての形成を決定づけた。

オレは企業家とか都市プロデューサーとかではない彼ら「ミナミの街人」の足跡をさ
ぐり直すことで「街とは何か」を考え続けてきた。

その際に日限萬里子さんが店を出し、それが新しい街としての種子となり、事後的に
新たな街として分節されたアメリカ村、堀江という街において、次の点がとても街的
に大切な観点だと思う。

それは行政による再開発や鉄道会社の駅ターミナル造成、はたまたショッピングモールやファッションビルなどが建って、それが引き金となって出来た類の街とは全く違った「仕方」で出来てきた、という点だ。
つまり「資本による街づくり」とは全くといっていいほど無縁である、ということでもあり、デベロッパーだとか、都市計画を仕事にしている人や街づくりのプロデューサのような人が、導線計画をしランドマークをつくり…で「こしらえた街」では決してないのである。

新しい「街ができる」直接のきっかけとなるそのパターンはいつもそうだが、とてもシンプルである。

それはワンフレーズで言える。
「何かやろう」という人が何の前触れもなく突然出てきて、「自分でつくった店」を出し、そこで「自分の好きなもの」をつくったり見つけてきたりして、「自分で流行らせる」。
 
その場合、ロケーションはこれもだいたいそうだが、街の中心部ではないマージナル
(周縁的)なところ。比較的家賃が安くてかつ「近い」ところが選ばれる。

その「何かやろう」の人は、あらかじめ人の集まるところに店を出し、売れる(そうな)ものを置くのではない。
だから流行中のアイテムやブランドのタグがある前に、まず「何かやる」人がいる。
店に並んでいる服やグッズなどいろんなものの前に、必ずそれをつくったり打ち出し
たり選んだりする人の顔が見えるのである。
とくに日限さんがやってきた飲食店やクラブの場合、一杯のコーヒーや一皿の料理に乗っかる値打ちや愉しさみたいなもの、つまり付加価値や象徴価値は、その店のオーナーやマスターの顔そのものだといえる。

それは「技術」とか「こだわり」という簡単な言葉ではくくれないものだ。
それは「感性でやってしまう」みたいな強度の次元であり、個性やオリジナリティといった要素に、感覚的な「ハヤさ」、つまり時代感覚の時間軸がプラスされている。
それら一連の--資金とか計画とかマーケティングとか企画書ではない何か--が、店舗デザインや商品、スタッフ、接客…その他もろもろにダイレクトに表れ、それがオー
ナーやご主人、クリエーターといった、ナマ身の人を通じて、われわれにコミュニケ
ーションの水準で入ってくる。

来店数がどれだけで、客単価がいくらで、坪当たり何円の売り上げで、という経済軸
の要素と対極にある現象。
つまりやりたい人が、やりたい時、つまり現時点で、何をやらかそうとしているのか。

それを目の当たりにして、取材し考え書いていくのがわれわれの仕事にとっての一番魅力であるが、その際の最も重要なところであるいい店かそうでないかの「店のリアリティ」というものは、その「人レベル」の人柄やセンス、熱い思いや泣き笑い、愛、ノリ…といったもの、つまり表現が積分されて店が成り立っているということだ。
そういう意味で街の店づくりというのは、 資本、労働、土地といった審級ではなく、むしろ文学やアートに近いのかもしれない。

時代感覚というのは面白いもので、誰かが今までとは違う何かを表現すると、必ず同じ時に同じ言語のようなものを持った人がそのコンテクスト(文脈)をとらえる。

彼らはその店の客になったり、あるいはカンパニー(仲間)の一員になったり、「そ
れならオレも」ということで、すぐ隣に店を出したりする。
またそれはその店と違うジャンルの店舗(つまりその店がブティックならカフェといったように)であったりすることが多く、こうなるとストリートつまり界隈の体をなしてくる。

ひとつの店の点から、向こう三軒両隣つまり線=通りへ。
それがそのコアを中心とする同心円の周囲で同時多発になるとエリア(面)になる。
またストリートがたてよこ重層的に交差し、この面が一層稠密になってくると、もは
や街だ。

「街にはあらかじめ名前があり、そこにその街がある」、というのはほとんどの場合
逆で、新しい街としての動きがあるエリアは必ず新たな名前が命名されるのであるが、その名前が固定化されて初めてその街が分節され、その街の性格的な輪郭がはっきりしてくる。

つまり新しく命名され固定化された「アメリカ村」が実際に「どこ」であるか、「どんな街」であるかなどが、手に取れるかたち目に見える色で立ち上がってくる。

点である一つの店がきっかけで、ストリートになり、街になるということは、ファッションやインテリアのショップに始まる物販から、カフェやレストランといった飲食といったように多種目にわたる店舗が、次々にブレンドされるということであるが、その街のテイストのようなものが、流行軸で差異化され続ける限り、まだまだ発展~増殖する。

当たり前のことだが、新しい街が分節され、メディアなどで流通し、流行軸で広く知られてくると(=街のブランド化)、商品を街の記号で売ろう、場所で数字をたたいてやろう、という常套手段の商売人がやってくる。
そして「企業レベル」でその街で「何かやる」ことが商売になることが認識されると、マーケティングを駆使して、大資本(中もあり?)が最後にやってきて臨界点を越える。

最も分かりやすい例でいえば、アメリカ村の南中学跡地を再開発した大規模商業施設のビッグステップ。
さらに、南船場でいえばルイ・ヴィトンやジョルジオ・アルマーニといった大ブランドのブティック。
堀江なら一連の東京ハイファッション系ブティック。

ことミナミの街場の場合、オレは例外を知らないのだが、大は小のいつも後をついて
くる。
そこのところが、最も大阪的な街といわれるミナミの、最も痛快なところだ。

日限萬里子さんについて、もう10年くらい前のミーツのインタビューを読み直していると、
「『パイオニアっていい言葉じゃないのよ。歩兵と一緒で、荒れ地の真ん中を進んで
真っ先に撃たれる役目』と笑うが、百戦錬磨という印象は全くない」

というのがあった。ほんとうにその通りだと彼女は身を以て証明してくれた。

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2005年03月20日 11:36に投稿されたエントリーのページです。

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