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今日からニーニャは保育園

あけましたね、おめでとうございます。
今年も「うろうろママ交換ブログ」、よろしくお願いいたします。

今月からニーニャは、保育園に通いはじめました。
初日の朝、保母さんの腕に抱きとられたニーニャは、泣いて泣いて泣いて、げえげえ吐きました。
その午後、やはりごんごん泣きながら先生に抱えられて出てきたニーニャを見たとき、すごく感動したんです。
「あっ、生きてたーっ!」って。
ひとしきりムフフフフとよろこんでから、ハッとしました。
いえ、慌てていた私が下着を前後ろ逆につけていたことに気づいたからではありません(それは帰宅後に気づきました)。
ハッとしたのは、ということはつまり、私はちっともニーニャの生命力を信じていなかったんだ、ということに気づいたからです。
正直、彼女にはまだ保育園なんて無理だろうと思い、いつ「迎えに来てください」の連絡が入るかとずっと携帯電話をチラ見してました。
ぶじに帰ってくることはまずあるまい、とすら、振り返れば思っていたようです。
なんせ家では2時間おきにおっぱいを欲しがり、離乳食も小鳥のようにしか食べないんですから。
それが、初めて放り込まれた「親なし・赤ちゃんいっぱい・スペイン語のみ・保母さん鼻ピアス(まあいいんだけど)」な環境で、泣きに泣いたとはいえ、手元の献立表によると「野菜のポタージュ、牛肉のソース煮、ヨーグルト」をもりもり食べ、長時間おっぱいなしで、元気いっぱい、お迎えの時間まで過ごしていた。
ああ、私が知っている(と思っている)のは、常に「昨日までの彼女」なのだなあ、と、つくづく思いました。
しかもその夜、はじめて歩いたんですよ!
そのときの顔の、まあ誇らしげに輝いていたこと。
もう、完敗です。

さて、初々さんからのお手紙、またまたとても楽しく、へええと拝読しました。
「拒否」に傷つくのは、それだけ愛情があるからかも、なんですね。
あの、特に名前を伏しますがごく近しいひとが悲しいほどの阪神ファンで、かのタテジマが試合に負けるたび、「俺が中継聴いたからアカンかったんや」とか「ああ今日せっかく中継あれへんかったのについ気になってネットで途中経過見てもうたからや」などと、どう考えてもありえないことをわりと真剣にブツブツ唱えたりするんです。
同居人として、ちょっと迷惑です。
そっか、ここには、「理解不能な事実になんとか理由付けをしたいが、よくわからないので、とりあえずいちばん簡単な『自分のせい』にしてしまう」という、まるでDVな家庭に育つ子どものような考え方に加えて(おそらく阪神最弱時代に長らく「報われない」ファンだったからでしょう。近年の優勝はスペインに来てからだし)、タテジマへの強い愛情、その返す刀で「阪神ファンとしてのspecial one」でありたいという願いもあるのかもしれないんですね。
まあ、ことがタテジマに関してなら笑って済ませられますが。
(ツレアイだってそう本気じゃないハズだし。いやどうかな……)
私もまた、保育園から元気に帰ってきた娘を迎えて、ちょっと寂しくなったりもしていました。
そっかそっか、お前はもうカアチャンなしでも生きていけるか(←極論。明らかにスネてますね)。
こうやってゆるやかに「拒否」されても、傷つかないありかた。
「相手が私に依存しないでも、(できれば「依存しない『からこそ』」)、満ち足りていられる」、そういう人間関係のありかたをこれからは子育てをつうじて学ぶのかなあと、いま思いました。
まあそうそう急に「できた人間」にはなれないでしょうから、ひとまずは初々さん方式で、「いやあ、けっこ寂しかったりしちゃってね」とか「阪神また負けよったわ」と、朗らかにことばに出すことで、ていねいに葬ることにします。
半端者のためのとりあえずの処方箋、すごく助かります。


では、バルセロナ近郊の、リゾート地としても名高い地中海沿いの町にお住まい(いいなあ)のカルロス先生の、今日のおことばを。

> お母さんの側には常に、逃げ場や慰め、希望といったものが用意されています。

場面は変わらず、食卓での攻防です。
子どもが、お母さんの愛情たっぷりの料理を、ときによっては泣き叫んで「拒否」する。
こころあるお母さんは「かわいそうに、私のせいよね、きっとこの子にひどいことしてるのよね」と胸をいためるでしょう。
それに理解と同情を示しつつ、カルロス先生は「でも、」と続けます。

> あなたには過去があり、未来があって、趣味なんかもあり、そして仕事もあるかもしれません。さらに、それが本当かどうかは別として、ともかくあなたには、いま起こっていることを説明するための『考え』がある。加えて、どんなに絶望でどん底の気分のときだって、『だって、みんなあの子のためなんだから』と自分に繰り返し言い聞かせることができるのです。
> そのうえあなたには、『希望』がある。なぜなら、あなたは知っているのだから。子どもたちは大きくなったら必ずひとりで食べることを、だからこういう時期はほんの数年しか続かないことを。

母は強し。
って、使い方間違ってますね。

一方で子どもは、と、カルロス先生は思いをめぐらせます。
過去の思い出も、そこから生まれる未来像も、自分の行動を正当化する合理的説明もない。
「そう、お子さんには、あなたしか『ない』のです。」
ああ、今日も泣かすぜカルゴン(カルロス先生の苗字はゴンサレス)。
親の頭の中にある「栄養のバランス」「顎の発達」「規則正しい生活習慣」、そういう「正しい」理由はあくまで自分自身のためのものであり、間違っても「子どものため」ではない。
だから、子どもにたいして、なにもしてはならない。
というわけではまったくないのですが、この「親の強さ」を常に意識しておくことは、子育てにおける大切な節度かもしれないですね。
愛情もある。
「正しい」理由もある。
でも、あなたには「自由」がある、ということ。

って、あっこれ、インターネット持仏堂での質問、そのままかも!
ヒモ志向のアンポンタンセニョーラへの釈住職と大家さんの滋味あふれるおことば、ぜひご一読をおすすめします(質問68・施しって何?)が、ポイントは、「贈り物というのは、贈り手の心構えが問われるものである」というところ(たぶん)。
受け取った相手を「自由」にする贈り物ができるような「大人」に、私もなりたいです。

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Enero 18, 2008 7:53 PMに投稿されたエントリーのページです。

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