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居候日記その3

カナさん、みなさん、こんにちは!
私のほうもすっかりとご無沙汰しているうちに、なんとニーニャちゃんは1歳のお誕生を迎えましたね。おめでとうございます!!
こどもを産んでから、自分のこどももよそのこどもも関係なく、その成長を心から楽しみ、喜ぶようになりました。
今までは想像力が足りなかったのかなぁ、なんとなく「こども?自分とは関係ないや。(というより、関わり合いがなさすぎるよね)」と思っていた節がありましたが、いまやどの子をみても「自分とは関係ない、とはとても思えない」。
どうも赤ちゃんを授かって、「(余計な)お節介」度がアップしたというか、よく言えば人間力をアップさせることが出来たように思います。

さて、「この『余計なもの』、いったいどこからやってくるのでしょうね」というカナさんの疑問について、私も少し考えてみました。
離乳食を「食べない」が「食べてくれない」と言葉を変え、最終的には子どもから拒否されたように感じて「この子は私が嫌い」と受け取ってしまうという落とし穴、実は臨床において看護師がよくはまってしまう落とし穴でもあります。
例えば患者さんに、怒鳴られたり、誹謗中傷されたり、あるいは暴力をふるわれたとき。
明確な理由があるときは別ですが、たいていの場合は「たまたまそのときムシの居所の悪かった人のそばに、たまたま居合わせてしまった」だけにすぎない。
つまり天災のようなもので、「運が悪かったんだよね」と思うのがまっとう。
「私のどこがいけなかったんだろう」とか「私のことが気に入らなかったんだろうか」などと考えて、事実を「個人的に受け取らない」ことがベストです。
ということが頭では分かっていても、いざ自分がその立場になると、個人的に受け取ってしまって、うじうじするもの・・・
何ででしょうね、個人的に受け取っていいことはなにもない(ように見える)のに。
自分で自分を責め続けて、いいことはなにもありませんよね。

しかしよく考えてみると根の深い問題なのですが、事実を個人的に受け取ってしまうことの背景には、おそらく「私は、彼(彼女)の、special oneである(ありたい)」という思い込み(願望)があるのではないでしょうか。
なぜならもし事実を個人的に受け止めず、「誰がその場に立ち会っていても、同じ結果だったよね。」と思ってしまったら、「彼(彼女)にとって、私はspecial oneではなく、その他大勢」であることを認めてしまうことになる。
それを認めたくないがために、「いや、私だったから、こうなったんだ」と個人的に受けとめてしまう、そういう「からくり」があるかもしれません。

でもそれが全面的に悪いことだとは、私は思いません。
もちろんそれが行き過ぎてしまうと病的ですし、看護に関して言えばチームで関わっている以上、「私が」とばかり言っているわけにいきません。
またそれは「バーンアウト」にゆくゆくつながっていくことになってしまいます。
しかしながら要は程度問題、ということになるとは思いますが、「それ」(=special oneである、ありたいという思いこみや願望)がなければ、とたんにケアや育児が困難になるのではないでしょうか。
だって、「誰が関わっても一緒だよね」という人にお世話されたいと思いますか?
あるいは「別に私じゃなくてもいいんだよね」と思いながら、他者に手をさしのべられますか?
看護や介護の援助関係においても、親子の関係においても、匿名の関係などあり得ないのだと思います。

ただ、どうしたって個人的に受け取ってしまうことから逃れられなくとも、そこからどうまた関係を立ち上げていくか、というところにその人の知性が深く問われるように思います。
自分を責め続けて関係を閉じるのか。
新しい物語を作って、未来へと関係をつなげていくのか。
「離乳食を食べてくれない。私のことが嫌いなのだろうか。」という思いがふと頭をよぎっても、「いいやそんなわけはあるまい。きっとお腹がすいていなかったんだろう。今度はおっぱいの前に離乳食をあげてみるか。」と思い直すことができれば、それでいい。
そのように試行錯誤できるのは、人間の持つ知性のなせる技なのだというふうに私は感じています。

それから。
患者さんに怒鳴られるにしても、赤ちゃんが離乳食を食べないにしても、形としては「拒否」なんですね。
この「拒否」というもの、人間には相当こたえるものなんだと思うのです。
「個人的に受け取るな」という理性が働く前に、ダイレクトに体へくいこんでくる、そういう「傷つく」体験なのではないでしょうか。
ですから私は、「そんなことくらいで傷つかない自分をつくる」という方向へ努力するよりは、「そういうものだ。(傷つくものなんだ)」と思うようにしています。
なぜなら傷ついた自分を、「それは自分がなってないからだ」といってまた責めてしまう、そんな自罰の輪をぐるぐるとまわりたくないからです。
できれば、「いや~不覚にも傷ついちゃったな。まぁ仕方ない、そういうものだ。」と思ってやり過ごしたい。
そんなふうに今は考えています。

だなんて、頭の中でごちゃごちゃ考えすぎちゃいますけれども。
「しんどい」日々を通り過ぎ、今や人目もはばからずにメロメロチュウチュウですとのカナさんの言葉、同感です。
目の前のいのちの愛おしさが、なによりもまさる。
それは本当に幸せなことだなぁと思います。
でも、時にはどうしようもなく自分の感情が巻き込まれ、イライラしたり、悲しくなったり、嫌になったり、そういうネガティブな感情も抱くものです。
(看護は感情労働だと言われていますが、育児も同じ側面があると思います。)
そんなときに現象やら自分の感情を相対化して言語化できるというのは、ひとつの能力だというふうに私は思います。
ときには言葉もなくメロメロになり、そしてときには目の前でおこっていることを言葉にして自分を支えたり、他者と共有する。
そんなことをよいバランスでできたらいいなぁと、心から思うのです。


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Diciembre 7, 2007 3:51 PMに投稿されたエントリーのページです。

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