大家さん、ご登場ありがとうございます!
居候ちゃんとふたり、手を取り合い(ほんとは会ったことないのだけど)、小皿叩いてチャンチキよろこんでます。
その脇でつかまり立ちし、(歩くこともまだ知らないのに)身体を揺らして踊るニーニャ(10ヶ月)と、こ初々さん(8ヶ月に、なった?)。
このふたり、写真で見ると、どうやらそっくりです。あいにく「美人姉妹」とかじゃなく、「掛布顔兄弟」なのですが。
初々さん、5年生存率の話、おもしろかったです。
この「私」にとって「生きるか死ぬか」は常に0%か100%、そうですね。
私はなんでも麻雀にしか喩えられないのですが、「ワンチャンス!(たとえば自分の手牌に三萬が3枚あったときの二萬。両面で待たれている確率は同じ牌全4枚中の1枚=25%)」とあえて自分を鼓舞しながら叩き切る牌は、だいだいアタリ牌となっている(=100%)ものです。
50%降っている雨、というのも、そういえば見たことありません。
自分の問題として引き受けるときは、雨が降ることに賭けて傘をもっていくか、きっと降らないさと決めてもっていかないかの、どちらかだけ。
確率(や「科学的」データ)は、自分が覚悟をきめる材料に過ぎないんですね。
手のなかで浮いている二萬を抱えて死ぬか、勝負に出るか。
1/607(0.0016%)のダウン症の可能性がある胎児を出産するか、しないか。(これは私の場合。スペインでは勝手に血液検査されちゃいました)
おっとこれからは、予防接種で重篤な副反応が出る確率なんかも、他人事じゃなくなるんですね。
ご存知のように、私はニーニャが10ヶ月になるまで(って、今月のことです)、離乳食を始めませんでした。
ちなみに離乳食の一般的なスケジュールは、果汁を4ヶ月から、穀物を6ヶ月から。
10ヶ月ではふつう、肉や魚も加えて1日3回食だそうです。
なのに半年過ぎてものらりくらりと母乳だけで続けていたことで、スペインの小児科医からは「母親失格!」って勢いで、ひどく怒られました。
(あと、6ヶ月から9ヶ月の健診まで一度も体重を量らなかったことでも)
日本の近しいひとにもけっこう心配をかけちゃったと思います。
というか、こうやって常識外れのことをしている私自身が、実はかなりドキドキしていました。
ひとに問われれば、「べつに私は、ニーニャに大きくなってほしいとか、すごく健康であってほしいとか、滑舌よろしくなってほしいとか、そういうのを望まない(ようにしている)し、いま見てて元気そうだから、いいんだ」と飄然としたかんじで答えていましたが、そのあとでひとり悄然としたりして。
初々さんが、乳児期の食事摂取基準は「6ヶ月頃より離乳食を開始するため」逆算してはじきだした数値に過ぎないと教えてくれて、ようやく気が楽になりました。
どちらにしろ傘をもって出ない覚悟だったけど、降水確率が80%から40%になった、そんな気分です。
■カルロス・ゴンサレスはこう云った:
「『(子どもの)食欲のなさ』とはつまり、子どもが食べるのと、家族がその子に食べてほしいと期待するのとの、バランスの問題なのです」
いま『うちの子、食べてくれないの。』というスペインの育児本を訳していると書きましたが、その本の最初の章で、カルロス先生はこう言います。
先日、はじめて離乳食(十倍粥を裏ごししたもの)をあげたとき、あまりに食べないのでびっくりしました。
まったく、ひと匙も。笑顔で断固拒否。(自分の意思で拒否できる月齢まで待った結果、とはいえ……)
そして、やってみて初めてわかったんですが、十倍粥の裏ごしって、作るのにえんらい時間がかかるんですね。
なのに、ちっとも食べない。翌日も食べない。そりゃもう笑っちゃうくらい。
「おいおい、ここまで手をかけたんだから、ちったあ食べてくれよー」と思うに至って、ハッとしました。
私の「食べてほしい」期待は、育児本などで否応なく目にしていた「目安」に、「自分の労働への見返り」まで加わって、かなり大きくなってた!
上の文章に、カルロス先生はこう続けます。
> だからこの問題は、子どもの食欲が増大するか、まわりの大人の期待が減少するかすると、消えてなくなります。とはいえ、子どもがもっとたくさん食べられるようになるというのは、ふつうは(幸いなことに、なぜならおそらく危険だから)不可能です。なので、私たち大人の側の期待を、現実に近づけるかたちで小さくしよう(というのが、この本の狙いです)。
そりゃそうだ。
言われてみればもっともな話だし、子どもとの接し方として、悪くないスタンスだと思いませんか?
ところで初々さん、看護のお仕事って、「そのひとのためにえらく時間をかけてお粥を作って裏ごしして、でもちっとも食べない」ようなことの連続なのかなあと想像します。
しかも相手は乳児じゃなくて大人だから、「あなた、食べる気になれば食べれるでしょう?」ってケースまであるんだと思いますし。
そういうとき、いったいどうするんでしょうか。
ああ、こうやってちょっと想像しただけでも、私には到底我慢できない、忍耐力(あるいは人間力)勝負な職場に思えます……。
それと、お粥の裏ごしのような地味な作業をしていると、私はつい、それを必要以上に「尊いもの」と思ってしまう癖があるようです。
食器洗いでも洗濯物畳みでも、とくに主婦の仕事に多いと思うのですが、「誰も評価してくれない『労働』」→だから/だけど→「私の無償の愛により」やっているのよっ! って。
「フッフーン、私はこれがしたくてやってるんだー」と、いつも朗らかに鼻歌交じりでアイロンかけれればいいのですが、あいにく、アイロンがけとお米研ぎは、なにかの呪いかと思うくらいにすごく苦手なんです。
うん、たぶん、なにかの呪いがかかってるんだと思います。
等価交換の呪い、かなあ。
だいたい、「無償の愛」の意味が、考えるとわかんないですよね。
「有償の愛」なら、いったいどうだというのだろう?
月末にツレアイから「お手当て」を渡されたら、アム・アイ・ハッピー? そんなバカな。
家庭には資本主義と民主主義を持ち込まない、という初々さんの「やり方」、よろしければ、ぜひ教えていただきたいです。
しかしまあ、ほんと、赤ちゃんに振り回される日々ってのは、なんて自由で爽快なんでしょうね!
かしこ