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長屋の一間に居候が・・・

さま

先日はさっそくのアップ、ありがとうございました。
今回は、噂のニューカマー・初々さんからの文章です。
「手をつなぐと、自分にある中心軸がつないでいる手の上にずれる感じ」がする。
そういうビビッドな肉体をもつ彼女、きっとあちこちにつながる素敵な文を届けてくれると思います。
どうぞ、よろしくお願いします。
(って、大家さんに事後報告でごめんなさい)

先月、2年ぶり(夫は4年ぶり)に帰国したのですが、短い日程で互いの実家をまわる「孫見せ興行」に終始してしまいました。
(実家では海外在住の親不孝な子どもの家族のため、畳を総入れ替えして歓待。ヨヨヨ)
次回、少し余裕ができたら、生ハムとチーズをかついで、神戸にお届けに伺いたいです。
といっても、内田さんがリタイア後の方が、お時間あるかもしれないですね。

ちなみに往復エールフランス便で、ギャレーで「ここのお水いただいていいですか」と形式的に訊いたら「ノン」と笑顔で答える(そしてお水を注いでくれる)ようなフライトアテンダントさんたちから、至極人間的なサービスを受けてきました。
(機内食は、あまり「人間向け」とは思えませんでしたが)
日本人クルーが「フランス人はフランス語しか喋らない」とこぼす一方、フランス人クルーが「スペイン人はスペイン語しか話さないので困る」とこぼしていて、なんだかおかしかったです。
ところで隣国ポルトガルは、道路標識も英語併記で、街でもけっこう英語が通じるんですよ。
辺境ではかえって標準語になる、と、たしか対馬を例にとって宮本常一が述べていたことを思い出しました。
(元の「本家」スペインの言語を使うことへの嫌悪感も、たしかにあるんですが)

デハデハ。

(大家より:はい、以上が長屋の住人カナさんからのご紹介でした。以下、このたび長屋の一隅の「スペインの間」に居候されたういういさんです。こんにちは。どうぞよろしく。大家のうちだです。長屋の連中は気楽な人ばっかりですから、どうぞのんびりしてってくださいね。長屋の奥には持仏堂もありまので、一度お参りにもいっておいてください。ときどき老師が来て、お掃除なんかしてますから。そのときには法話も聞けますし。では~)


みなさま、はじめまして。

カナさんの長屋にしばらく居候させて頂くことになった初々(ういうい)です。

カナさんのご紹介にありましたように、現在7ヶ月になる娘のいる、一応職業ナースになります。

しかしナースであるとはいえ、これまで主に「人生の本質的な大問題を抱えちゃったぞ」という大人たち、あるいはちょっぴり人間関係が苦手で生きづらさを感じているような大人たちを相手に仕事をしてきていたので、「24時間、赤ちゃんのお世話」なんて生まれて初めて。「

看護師さんなら、赤ちゃんのことはだいたい分かるでしょう。」と周囲の人には思われているようですが、そーんなことはちっともなく、赤ちゃんのちょっとしたことで「これは一体どういうことだ!?」とオロオロするあたりは、ほかの新米お母さんたちと何も変わりがありません。

ただ「ひとの、お世話をする」という点においては、大人も赤ちゃんもそう変わらないことも多く、これまでの経験や看護の知識、技術といったものに私自身が助けられ、「赤ちゃんのいる暮らしはいいなぁ!」と思える日々を下支えしてくれているような気がします。

「エビデンス(科学的根拠)に基づいた」正しい知見を提示する自信はありませんが、日々赤ちゃんと向き合っているお母さん、お父さんたちが「赤ちゃんのいる暮らしはいいなぁ!」とよりいっそう思えるように、あるいはこれから赤ちゃんを授かり育んでいかれる方々が、「赤ちゃんのいる暮らしって、何だかいいものみたいだぞ」とわずかでも感じ取ってもらえるように、何かしらお役に立つことができれば・・・そんなことを願いながら、カナさんのお引っ越しにちゃっかりついてきてしまった次第であります。

今後ともどうぞよろしくお願いしますね。


さてさてご挨拶はほどほどにして、本題へ・・・


「赤ちゃんは文明化の埒外にいる」

それはまさに、私の友人の言葉をかりると「赤ちゃんは、大自然」。

大人の社会の都合とは関係のないところで生を営み、大人はその営みをコントロールすることなど出来ず、ただただ合わせるしかない、という意味において「大自然」。

これまで高度に文明化された社会で、生活から仕事からあらゆる事柄を自らマネージしてきた(つもり)の「自立した(健康な)大人」がおそらく初めて触れる「どうにもマネージできない、大自然」です。

当然文明化された社会のルールは通用しませんから、大自然のリズムに合わせた新しい暮らし方にシフトしていかなければなりません。

つまり、昼夜問わず泣いておっぱい飲んで、おしっこしてうんちして眠る、その(赤ちゃんという)大自然のリズムに合わせて、大人の生活を再構築し直さなければやっていけないということです。

そのためには、大人の社会の都合をいっさいがっさい忘れて、赤ちゃんという大自然とともに生きる。

しかしながらそれが一番楽であり正解であるということは頭では分かっていても、実際にはなかなかムズカシイ。

なぜならこれまで文明化された社会で、自分の都合に合わせて周囲をマネージしてきた癖が抜けないからです。

赤ちゃんのリズムに合わせるのではなく、自分の都合で赤ちゃんのリズムを変えたがってしまうんですよね。

例えば夜にたっぷり眠っておくれよ、と願ってみたり、用事をしている間は寝ていておくれよと思ってみたり。

そう思ったり願ったりしてみたところで叶うことではないですから、「思い通りにならない!」とイライラはつのるばかり・・・それではお互いにしんどい。

そこはやはりムズカシイとはいえ、自分の都合、大人の社会の都合を、いったん「えいやっ」と別の場所に置いて、自由になってみる。

そうしてみると、ことのほかハッピーな自分がいることに気づくんですね。

自分の都合をいったんうっちゃって自由になり、自分以外のリズムで生きてみると、今までのように「わたしが、わたしが」と言って自分のまわりをぐるぐるとまわる必要がなくなる。

結婚をした時にも同じように思って、「あぁ心地いいなぁ」と感じたものですが、子育てをしてみると余計にその心地よさを実感することになったのです。

これが「本物の自由」かどうかは私には分かりません。

しかし一般的には結婚や育児が「不自由」と捉えられる風潮がある中、私はむしろ「それは、自由への入り口だよー」と声を大にして言いたいなと思っています。


ところで話は全く変わりまして、カナさんが言及されていた「専門家」への信仰に関して。


これは日本に特有なことなのかどうかは分かりませんが、何か重大な(致死的な)病気が見つかった時によく患者さんが口にする言葉で「あとどれくらい生きられますか?」というものがあります。

実際ただの人間である医師に、「目の前にいるこの人が、いつ死ぬか」という答えを出せるはずがないにも関わらず、です。

おそらくそのような問いが出てきてしまう背景には、科学への過信があるのでしょう。

今のこの病状でどのくらいの勝算があるのか、科学がそろばんをはじいて答えを出してくれる。

意識はされていなくても、そのような思い込みがあるのかもしれません。

しかし、がんの治療成績などで使われる「5年生存率」というものひとつとってみても、「私が生き残る可能性」を示すわけではないことが分かります。

「5年生存率」というのは、「私が5年後に生き残っている可能性が何%か」というものを示すのではなく、「同じ病気の人100人が5年後にも生き残っている割合」を示すにすぎないのです。

ですから5年生存率60%といわれても、「私が生き残る可能性は60%」では決してない。

ほかの誰でもない「この私」にとっては、生きるか死ぬか、100%か0かしかないのです。

当然生身の人間が「60%生きている」なんていうことは起こりえません。

科学は、唯一無二の私が生き残る可能性について答えを出すことは出来ない。

「科学とは、そういうものだ」と思っていたほうがいいように思います。

そしてそれは、子育てに関しても言えることです。

授乳や離乳、赤ちゃんの発育に関して様々な言説がありますが、それらが依拠しているであろう科学的根拠は果たして「目の前にいる、私のこの赤ちゃん」に関して答えを出してくれているのだろうかと考えてみる必要がありそうです。

例えば離乳に関して。

「母乳では栄養が不足してくるから、6ヶ月頃より離乳を開始する」というようなことが言われているようですが、果たしてその根拠は何なのか?

蓋をあけてみるとびっくり。

乳児に必要な栄養(食事摂取基準)というのは直接計測できないため、「健康な赤ちゃんが飲んだ量」で数字をはじき出しているのです。

そして乳児期の食事摂取基準は0〜5ヶ月と6ヶ月以降とに分かれているのですが、それは「6ヶ月頃より離乳食を開始するため」。

つまり赤ちゃんに必要な栄養を運動量や代謝量から科学的に算出し、それが母乳だけではどれだけ不足するのかを計算したうえで「6ヶ月から離乳開始」と言っているのではない。

ましてや「目の前にいる、私のこの赤ちゃん」が必要とする栄養を科学的に明らかにして、離乳の開始時期を提示することなど出来ないのです。

結局これらのことから導き出される結論としてまっとうなのは、「赤ちゃんが飲んだり食べたりした量が必要量なのね」ということです。

とどのつまり、極端なことを言ってしまえば、「赤ちゃんにとって必要な栄養は、赤ちゃん自身が知っている」。

しかしながら赤ちゃんは自分だけで必要な栄養を取り込む(おっぱいを飲んだり、離乳を始めたりする)ことはできませんから、赤ちゃんが必要なものを赤ちゃんが取り入れられるように環境を整えてあげなくてはなりません。

その環境を整えて、様々な工夫をしてもなお「赤ちゃんが食べない」のであれば、きっとそれは今の赤ちゃんにとって必要がないのでしょう。

そうやって赤ちゃんと、自分自身のことをちょっぴり信じることが出来ると、ずいぶんと気持ちが楽になれるような気がします。

なんて偉そうに言っている私も、「お友達の赤ちゃんはあんなにたくさん食べているのに、なんでうちの子は・・・栄養たりているのかしら!?」なんて慌てたりします。

そうやって気持ちがゆらゆらと揺れながらも、最終的に「まぁ私もやれるだけのことはやってるし。あとは赤ちゃんの言うことを信じてみよう!」というところに落ち着ければいいな、というくらいに思っているのです。

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Octubre 15, 2007 9:22 AMに投稿されたエントリーのページです。

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