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Octubre 2007 アーカイブ

Octubre 12, 2007

赤ちゃんは野生のかたまり


前回の話、アンダルシアの中心地セビージャを拠点に約20年間フラメンコを見続けている志風恭子さんに訊いてみた。
ホアキン・コルテスからジャパン・ツアーのアテンドに指名されるなど数多のアーティストから絶大な信頼を受け、また現在は同地の大学院でフラメンコ博士号取得を目指す彼女の意見は、「まちがってると思う」。ありゃ。
ソレアの12コンパスはアクセントの位置なのだが、「あんたがたどこさ」はそもそもリズムがスルー、もしくはジャナ、つまりアクセントがないのだそう。
今度詳しく話を聞くことにしたので、続きはまたその後で。
ちなみにフラメンコ人からのみならず、在スペイン日本人からも絶大な信頼を寄せられる、グレイト姐御肌な別嬪さんです。
(以前彼女に取材したコラムhttp://www.norari.net/spain/072502.php

というわけで、今回はガラリ変わって育児編を。
あっ、ニーニャ(娘、10ヶ月)は、アホみたいに元気です。
最近は物を落としてはニヤリと悪い顔してこちらを見るなど、いよいよ人間みたいになってきました。
かわいいです。

本家ブログで育児のことを書いている。
と、思いがけず、たくさんコメントをいただくようになった。
経験者の金言、いままさに経験中のひとの共感、そして隣を歩くひとからの激励。
それぞれが「ああもう、こういうことばを聞きたかったのよっ!」なもので、それをとっ散らかった本家で埋もれさせるのはどうにももったいないので、こちらの長屋に引っ越すことにしました。
どうぞみなさん、どんどん書き込んでくださいね。
「そんなことばを聞きたかった!」ひとがいます、きっと。

さて引っ越しにあたって、ママ友を長屋に引っ張り込んだ。
京都でいま7ヶ月の赤ちゃんと暮らす初々さんで、現役のナース。
英語のnurseには「看護師」と「育児・授乳」という意味があるらしいけど、彼女はその両方に当てはまる。
精神科の看護師しての経験と知識、そして初めての赤ちゃんとの生活を丸ごと楽しもうとする姿勢から出てくることばは、「わっお、そんなことばを聞きたかった!」の宝箱。
これからどうぞよろしくお願いしますね。
たぶん、交互にアップする(正確には、大家さんにしてもらう)かんじになると思います。
なお、初々さんのブログの「慌てていても、なんとかできちゃう乳児の一次救命処置」<http://pub.ne.jp/macchapudding/?entry_id=822555>、ご一読(と練習)を、強くおすすめします。

というわけで育児編の新企画、「ママ友と秋の夜長にぽつぽつ話す、トム&ジェリーな育児生活」、はじまりはじまり。
テーマ曲は、「♪赤子だって生き物さ/ママだって生き物さ」で。
マクラはそおねえ、本家で反響の大きかったカルロス先生の本(いま翻訳中)なんてどうでしょう?


■カルロス・ゴンサレスはこう云った:
「私たちの『文明化』は、本物の自由にたいして恐怖心を抱く、といいます」

カルロス先生は小児科医で、『Mi niño no me come(うちの子、食べてくれないの。)』と『Bésame mucho(もっとチュウしてね)』というベストセラー育児本の著者(私は前者を翻訳中)。
子どもが「食べてくれない」という悩みなんて実はウソっぱちで、子どもは単に「食べない」だけだし、その「食べない」だって周囲の大人の期待に比べるとそうだというだけで、ほんとはちゃんと自分に必要なだけ食べてるんだよ。
まあ栄養価とか成長曲線とかせせこましいこと考えないで、子どもの生き物としての本能を信じて、好きなようにさせときんしゃい。
そう喝破し、情報の洪水のなかで自信を失ってついついちっちゃくなりがちな今日びの母たち(私のことだ!)を、でーんと勇気づけてくれる。
「おっぱいは、オン・デマンドで」と題されたこの項で、カルロス先生は上の文章に続けて「おそらくそのために、多くのひとがどうしても自律授乳を受け容れられず、そこに制限を加えようとするのでしょう」ととき、世に跋扈する「授乳は1日に7回、間隔は3時間、各授乳時間は左右のおっぱいを交互に10分以内」などという「謎の指示」の出所を明らかにしようとする。

先日書いた新大陸でのエンコミエンダ制の導入方法をみても、あるいは宮本常一の描く「失われた」農村の暮らしをみても、「文明化」とは、「時計にあわせて生活すること」を大きな内容のひとつとするらしい。
たしかに「腹が減ったらそのつど森に入って必要なだけとって食う」や、「おてんとさまのご機嫌にあわせて一日を過ごす」は、あまり「文明的」とはいわれなさそうだ。
誰もが8時台に朝食を終えないと、9時に授業が始まる学校や、9時始業の工場は困ってしまう。
誰もが12時から昼食を摂らないと、給食や社員食堂のおばちゃんや、5時間目の古文の先生や、工場の午後1時始動のラインの責任者は困ってしまう。
人間が社会生活を営む生き物である以上、時計にあわせて生活することは、大切なことだし、他人を思いやる良いことでもあります。マル。

いやちょっと待て。
でもこれらの「困る」は、「効率といった面から考えると不都合だ」という程度であって、食堂のおばちゃんや工場長が「うおーっ、そうじゃなきゃ俺死んじゃう!」と頭を抱えるほど重大なものでは、本来ないはずだ。
「時計にあわせた生活」が、生死にかかわるマターではなく、(社会生活運営上の)効率にかかわるマターであることは、ところ変わればルールが変わってしまうことからも充分に明らか。
たとえばご存知のようにスペインでは、昼食は午後2時からだ。
それでいて世界第二位の観光大国なので、街には、昼の12時に開いているレストランを求めてさまよう(そしてマクドナルドに入る)外国人観光客があふれることになる。
それでも、そのために死んだひとがいるとは、いまのところ聞いたことがない。
まあ「今日び、世界的な趨勢に反する」という批判はよく耳にするけどね。

赤ちゃんもまた、そんな「文明化」の埒外にいる。
時計なんて関係なしに、眠たきゃ寝るし、腹減りゃおっぱいを求めて泣く。
草木も眠る丑三つ時だって、赤子だけは元気いっぱい「腹が減った」と泣き叫ぶ。
こりゃもう彼らにとっては生死にかかわるマターなので、「お隣の受験生」や「残業でお疲れのパパ」などへの気遣いなどちっともなしに、ガンガン泣きまくる。
それで、昼に泣く分とは別に「夜泣き」なんて名前をつけられ、ママがげっそりやつれることになったりする。
赤ちゃんのちびっこい胃の容量からすると、夜中にも腹が減るのは仕方ないのにね、たぶん。(別の理由があるのかもしれないけど)

振り返れば赤ちゃんはそのはじまり、妊娠のときから、だいたい文明人の思惑を外しまくる。
出産だって、基本的には赤ちゃん自身が出てこようとしない限り、こちらがどうこうできるものではまったくない。
そんな「野生」のかたまり(それが「本物の自由」なのかな)に、こちらが文明的な計画表をつきつけても、そいつぁ徒労ってものだ。
たぶん正解は、赤ちゃんという目の前の生き物そのものと向かい合い、その全身から発するメッセージを聞き取ること。
でも、生身の唯一の生き物を相手に行なうその場限り一度だけの、だから定量化とか一般化とかにまったくそぐわないこの作業は、けっこう大変だ(恋愛と同じで)。
時間割やライフ・プランやらを人生に導き入れながらもそういう習慣をすっかりなくしていた私は、この聞き取り作業を間違えてばかりだし、きっとこれからも間違い続けるんだろう(恋愛と同じで)。

もちろん子の幸せを願う親としては、できれば一度だって間違いたくない、なんてやっぱり思ったりもする。
だから「専門家によるマニュアル」に、身もこころも委ねてしまいたーい! と叫びたいときもある。
でもそういうとき、私はつとめて思い返す。
麻雀で負けたとき、セオリー本を書いたどこかの専門家は、けっして負け分を払ってはくれない。
支払うのは、常に自分だ。
誰が賭けの当事者なのかは、いつも肝に銘じておかなきゃね。

ところでスペイン人は、あまり「専門家」の権威に弱くない。
家屋の修復も壁をメタクソに壊しながらでもなんとか自分でやるし、カーナビにすら、あまり従わなかったりする。
これはスペインにおける「専門家」への信頼度の低さ(素人の自分がやっても結局たいして変わらない……たしかに。)もあるけど、日本人のあまりな「専門家」信仰には、別のなにかがあるように思える。
分単位の時刻表にあわせてきっちり電車が運行される、世界でも稀に見るほど高度に文明化された国・日本だからこその信仰、って気がするのだけど、どうかちら?

ちなみにマドリードの地下鉄の運行表は、「この時間帯は、6-12分間隔」って按配。
駅の電光掲示板に表示されるのは、「前の電車が出てから、○分経過」(別タイプもあり)。
それが7分とかだと、「おおもうそろそろ来るか」など、個々人が勝手に判断するだけ。
まあそれで不便だなあと思うひとは(日本人観光客など)少しいるけど、「うおーっ、それじゃ俺死んじゃう!」と頭を抱えているひとは、いまのところ見たことがない。
次、いつ腹が減るのか、ウン○が出るのか予想もつかない赤ちゃんに振りまわされる生活は、「文明化」を忘れる、めったにないチャンスかもしれないですね。

Octubre 15, 2007

長屋の一間に居候が・・・

さま

先日はさっそくのアップ、ありがとうございました。
今回は、噂のニューカマー・初々さんからの文章です。
「手をつなぐと、自分にある中心軸がつないでいる手の上にずれる感じ」がする。
そういうビビッドな肉体をもつ彼女、きっとあちこちにつながる素敵な文を届けてくれると思います。
どうぞ、よろしくお願いします。
(って、大家さんに事後報告でごめんなさい)

先月、2年ぶり(夫は4年ぶり)に帰国したのですが、短い日程で互いの実家をまわる「孫見せ興行」に終始してしまいました。
(実家では海外在住の親不孝な子どもの家族のため、畳を総入れ替えして歓待。ヨヨヨ)
次回、少し余裕ができたら、生ハムとチーズをかついで、神戸にお届けに伺いたいです。
といっても、内田さんがリタイア後の方が、お時間あるかもしれないですね。

ちなみに往復エールフランス便で、ギャレーで「ここのお水いただいていいですか」と形式的に訊いたら「ノン」と笑顔で答える(そしてお水を注いでくれる)ようなフライトアテンダントさんたちから、至極人間的なサービスを受けてきました。
(機内食は、あまり「人間向け」とは思えませんでしたが)
日本人クルーが「フランス人はフランス語しか喋らない」とこぼす一方、フランス人クルーが「スペイン人はスペイン語しか話さないので困る」とこぼしていて、なんだかおかしかったです。
ところで隣国ポルトガルは、道路標識も英語併記で、街でもけっこう英語が通じるんですよ。
辺境ではかえって標準語になる、と、たしか対馬を例にとって宮本常一が述べていたことを思い出しました。
(元の「本家」スペインの言語を使うことへの嫌悪感も、たしかにあるんですが)

デハデハ。

(大家より:はい、以上が長屋の住人カナさんからのご紹介でした。以下、このたび長屋の一隅の「スペインの間」に居候されたういういさんです。こんにちは。どうぞよろしく。大家のうちだです。長屋の連中は気楽な人ばっかりですから、どうぞのんびりしてってくださいね。長屋の奥には持仏堂もありまので、一度お参りにもいっておいてください。ときどき老師が来て、お掃除なんかしてますから。そのときには法話も聞けますし。では~)


みなさま、はじめまして。

カナさんの長屋にしばらく居候させて頂くことになった初々(ういうい)です。

カナさんのご紹介にありましたように、現在7ヶ月になる娘のいる、一応職業ナースになります。

しかしナースであるとはいえ、これまで主に「人生の本質的な大問題を抱えちゃったぞ」という大人たち、あるいはちょっぴり人間関係が苦手で生きづらさを感じているような大人たちを相手に仕事をしてきていたので、「24時間、赤ちゃんのお世話」なんて生まれて初めて。「

看護師さんなら、赤ちゃんのことはだいたい分かるでしょう。」と周囲の人には思われているようですが、そーんなことはちっともなく、赤ちゃんのちょっとしたことで「これは一体どういうことだ!?」とオロオロするあたりは、ほかの新米お母さんたちと何も変わりがありません。

ただ「ひとの、お世話をする」という点においては、大人も赤ちゃんもそう変わらないことも多く、これまでの経験や看護の知識、技術といったものに私自身が助けられ、「赤ちゃんのいる暮らしはいいなぁ!」と思える日々を下支えしてくれているような気がします。

「エビデンス(科学的根拠)に基づいた」正しい知見を提示する自信はありませんが、日々赤ちゃんと向き合っているお母さん、お父さんたちが「赤ちゃんのいる暮らしはいいなぁ!」とよりいっそう思えるように、あるいはこれから赤ちゃんを授かり育んでいかれる方々が、「赤ちゃんのいる暮らしって、何だかいいものみたいだぞ」とわずかでも感じ取ってもらえるように、何かしらお役に立つことができれば・・・そんなことを願いながら、カナさんのお引っ越しにちゃっかりついてきてしまった次第であります。

今後ともどうぞよろしくお願いしますね。


さてさてご挨拶はほどほどにして、本題へ・・・


「赤ちゃんは文明化の埒外にいる」

それはまさに、私の友人の言葉をかりると「赤ちゃんは、大自然」。

大人の社会の都合とは関係のないところで生を営み、大人はその営みをコントロールすることなど出来ず、ただただ合わせるしかない、という意味において「大自然」。

これまで高度に文明化された社会で、生活から仕事からあらゆる事柄を自らマネージしてきた(つもり)の「自立した(健康な)大人」がおそらく初めて触れる「どうにもマネージできない、大自然」です。

当然文明化された社会のルールは通用しませんから、大自然のリズムに合わせた新しい暮らし方にシフトしていかなければなりません。

つまり、昼夜問わず泣いておっぱい飲んで、おしっこしてうんちして眠る、その(赤ちゃんという)大自然のリズムに合わせて、大人の生活を再構築し直さなければやっていけないということです。

そのためには、大人の社会の都合をいっさいがっさい忘れて、赤ちゃんという大自然とともに生きる。

しかしながらそれが一番楽であり正解であるということは頭では分かっていても、実際にはなかなかムズカシイ。

なぜならこれまで文明化された社会で、自分の都合に合わせて周囲をマネージしてきた癖が抜けないからです。

赤ちゃんのリズムに合わせるのではなく、自分の都合で赤ちゃんのリズムを変えたがってしまうんですよね。

例えば夜にたっぷり眠っておくれよ、と願ってみたり、用事をしている間は寝ていておくれよと思ってみたり。

そう思ったり願ったりしてみたところで叶うことではないですから、「思い通りにならない!」とイライラはつのるばかり・・・それではお互いにしんどい。

そこはやはりムズカシイとはいえ、自分の都合、大人の社会の都合を、いったん「えいやっ」と別の場所に置いて、自由になってみる。

そうしてみると、ことのほかハッピーな自分がいることに気づくんですね。

自分の都合をいったんうっちゃって自由になり、自分以外のリズムで生きてみると、今までのように「わたしが、わたしが」と言って自分のまわりをぐるぐるとまわる必要がなくなる。

結婚をした時にも同じように思って、「あぁ心地いいなぁ」と感じたものですが、子育てをしてみると余計にその心地よさを実感することになったのです。

これが「本物の自由」かどうかは私には分かりません。

しかし一般的には結婚や育児が「不自由」と捉えられる風潮がある中、私はむしろ「それは、自由への入り口だよー」と声を大にして言いたいなと思っています。


ところで話は全く変わりまして、カナさんが言及されていた「専門家」への信仰に関して。


これは日本に特有なことなのかどうかは分かりませんが、何か重大な(致死的な)病気が見つかった時によく患者さんが口にする言葉で「あとどれくらい生きられますか?」というものがあります。

実際ただの人間である医師に、「目の前にいるこの人が、いつ死ぬか」という答えを出せるはずがないにも関わらず、です。

おそらくそのような問いが出てきてしまう背景には、科学への過信があるのでしょう。

今のこの病状でどのくらいの勝算があるのか、科学がそろばんをはじいて答えを出してくれる。

意識はされていなくても、そのような思い込みがあるのかもしれません。

しかし、がんの治療成績などで使われる「5年生存率」というものひとつとってみても、「私が生き残る可能性」を示すわけではないことが分かります。

「5年生存率」というのは、「私が5年後に生き残っている可能性が何%か」というものを示すのではなく、「同じ病気の人100人が5年後にも生き残っている割合」を示すにすぎないのです。

ですから5年生存率60%といわれても、「私が生き残る可能性は60%」では決してない。

ほかの誰でもない「この私」にとっては、生きるか死ぬか、100%か0かしかないのです。

当然生身の人間が「60%生きている」なんていうことは起こりえません。

科学は、唯一無二の私が生き残る可能性について答えを出すことは出来ない。

「科学とは、そういうものだ」と思っていたほうがいいように思います。

そしてそれは、子育てに関しても言えることです。

授乳や離乳、赤ちゃんの発育に関して様々な言説がありますが、それらが依拠しているであろう科学的根拠は果たして「目の前にいる、私のこの赤ちゃん」に関して答えを出してくれているのだろうかと考えてみる必要がありそうです。

例えば離乳に関して。

「母乳では栄養が不足してくるから、6ヶ月頃より離乳を開始する」というようなことが言われているようですが、果たしてその根拠は何なのか?

蓋をあけてみるとびっくり。

乳児に必要な栄養(食事摂取基準)というのは直接計測できないため、「健康な赤ちゃんが飲んだ量」で数字をはじき出しているのです。

そして乳児期の食事摂取基準は0〜5ヶ月と6ヶ月以降とに分かれているのですが、それは「6ヶ月頃より離乳食を開始するため」。

つまり赤ちゃんに必要な栄養を運動量や代謝量から科学的に算出し、それが母乳だけではどれだけ不足するのかを計算したうえで「6ヶ月から離乳開始」と言っているのではない。

ましてや「目の前にいる、私のこの赤ちゃん」が必要とする栄養を科学的に明らかにして、離乳の開始時期を提示することなど出来ないのです。

結局これらのことから導き出される結論としてまっとうなのは、「赤ちゃんが飲んだり食べたりした量が必要量なのね」ということです。

とどのつまり、極端なことを言ってしまえば、「赤ちゃんにとって必要な栄養は、赤ちゃん自身が知っている」。

しかしながら赤ちゃんは自分だけで必要な栄養を取り込む(おっぱいを飲んだり、離乳を始めたりする)ことはできませんから、赤ちゃんが必要なものを赤ちゃんが取り入れられるように環境を整えてあげなくてはなりません。

その環境を整えて、様々な工夫をしてもなお「赤ちゃんが食べない」のであれば、きっとそれは今の赤ちゃんにとって必要がないのでしょう。

そうやって赤ちゃんと、自分自身のことをちょっぴり信じることが出来ると、ずいぶんと気持ちが楽になれるような気がします。

なんて偉そうに言っている私も、「お友達の赤ちゃんはあんなにたくさん食べているのに、なんでうちの子は・・・栄養たりているのかしら!?」なんて慌てたりします。

そうやって気持ちがゆらゆらと揺れながらも、最終的に「まぁ私もやれるだけのことはやってるし。あとは赤ちゃんの言うことを信じてみよう!」というところに落ち着ければいいな、というくらいに思っているのです。

Octubre 30, 2007

赤ちゃんに振り回される日々のしあわせ

大家さん、ご登場ありがとうございます!
居候ちゃんとふたり、手を取り合い(ほんとは会ったことないのだけど)、小皿叩いてチャンチキよろこんでます。
その脇でつかまり立ちし、(歩くこともまだ知らないのに)身体を揺らして踊るニーニャ(10ヶ月)と、こ初々さん(8ヶ月に、なった?)。
このふたり、写真で見ると、どうやらそっくりです。あいにく「美人姉妹」とかじゃなく、「掛布顔兄弟」なのですが。

初々さん、5年生存率の話、おもしろかったです。
この「私」にとって「生きるか死ぬか」は常に0%か100%、そうですね。
私はなんでも麻雀にしか喩えられないのですが、「ワンチャンス!(たとえば自分の手牌に三萬が3枚あったときの二萬。両面で待たれている確率は同じ牌全4枚中の1枚=25%)」とあえて自分を鼓舞しながら叩き切る牌は、だいだいアタリ牌となっている(=100%)ものです。
50%降っている雨、というのも、そういえば見たことありません。
自分の問題として引き受けるときは、雨が降ることに賭けて傘をもっていくか、きっと降らないさと決めてもっていかないかの、どちらかだけ。
確率(や「科学的」データ)は、自分が覚悟をきめる材料に過ぎないんですね。
手のなかで浮いている二萬を抱えて死ぬか、勝負に出るか。
1/607(0.0016%)のダウン症の可能性がある胎児を出産するか、しないか。(これは私の場合。スペインでは勝手に血液検査されちゃいました)
おっとこれからは、予防接種で重篤な副反応が出る確率なんかも、他人事じゃなくなるんですね。

ご存知のように、私はニーニャが10ヶ月になるまで(って、今月のことです)、離乳食を始めませんでした。
ちなみに離乳食の一般的なスケジュールは、果汁を4ヶ月から、穀物を6ヶ月から。
10ヶ月ではふつう、肉や魚も加えて1日3回食だそうです。
なのに半年過ぎてものらりくらりと母乳だけで続けていたことで、スペインの小児科医からは「母親失格!」って勢いで、ひどく怒られました。
(あと、6ヶ月から9ヶ月の健診まで一度も体重を量らなかったことでも)
日本の近しいひとにもけっこう心配をかけちゃったと思います。
というか、こうやって常識外れのことをしている私自身が、実はかなりドキドキしていました。
ひとに問われれば、「べつに私は、ニーニャに大きくなってほしいとか、すごく健康であってほしいとか、滑舌よろしくなってほしいとか、そういうのを望まない(ようにしている)し、いま見てて元気そうだから、いいんだ」と飄然としたかんじで答えていましたが、そのあとでひとり悄然としたりして。
初々さんが、乳児期の食事摂取基準は「6ヶ月頃より離乳食を開始するため」逆算してはじきだした数値に過ぎないと教えてくれて、ようやく気が楽になりました。
どちらにしろ傘をもって出ない覚悟だったけど、降水確率が80%から40%になった、そんな気分です。

■カルロス・ゴンサレスはこう云った:
「『(子どもの)食欲のなさ』とはつまり、子どもが食べるのと、家族がその子に食べてほしいと期待するのとの、バランスの問題なのです」

いま『うちの子、食べてくれないの。』というスペインの育児本を訳していると書きましたが、その本の最初の章で、カルロス先生はこう言います。
先日、はじめて離乳食(十倍粥を裏ごししたもの)をあげたとき、あまりに食べないのでびっくりしました。
まったく、ひと匙も。笑顔で断固拒否。(自分の意思で拒否できる月齢まで待った結果、とはいえ……)
そして、やってみて初めてわかったんですが、十倍粥の裏ごしって、作るのにえんらい時間がかかるんですね。
なのに、ちっとも食べない。翌日も食べない。そりゃもう笑っちゃうくらい。
「おいおい、ここまで手をかけたんだから、ちったあ食べてくれよー」と思うに至って、ハッとしました。
私の「食べてほしい」期待は、育児本などで否応なく目にしていた「目安」に、「自分の労働への見返り」まで加わって、かなり大きくなってた!
上の文章に、カルロス先生はこう続けます。

> だからこの問題は、子どもの食欲が増大するか、まわりの大人の期待が減少するかすると、消えてなくなります。とはいえ、子どもがもっとたくさん食べられるようになるというのは、ふつうは(幸いなことに、なぜならおそらく危険だから)不可能です。なので、私たち大人の側の期待を、現実に近づけるかたちで小さくしよう(というのが、この本の狙いです)。

そりゃそうだ。
言われてみればもっともな話だし、子どもとの接し方として、悪くないスタンスだと思いませんか?

ところで初々さん、看護のお仕事って、「そのひとのためにえらく時間をかけてお粥を作って裏ごしして、でもちっとも食べない」ようなことの連続なのかなあと想像します。
しかも相手は乳児じゃなくて大人だから、「あなた、食べる気になれば食べれるでしょう?」ってケースまであるんだと思いますし。
そういうとき、いったいどうするんでしょうか。
ああ、こうやってちょっと想像しただけでも、私には到底我慢できない、忍耐力(あるいは人間力)勝負な職場に思えます……。

それと、お粥の裏ごしのような地味な作業をしていると、私はつい、それを必要以上に「尊いもの」と思ってしまう癖があるようです。
食器洗いでも洗濯物畳みでも、とくに主婦の仕事に多いと思うのですが、「誰も評価してくれない『労働』」→だから/だけど→「私の無償の愛により」やっているのよっ! って。
「フッフーン、私はこれがしたくてやってるんだー」と、いつも朗らかに鼻歌交じりでアイロンかけれればいいのですが、あいにく、アイロンがけとお米研ぎは、なにかの呪いかと思うくらいにすごく苦手なんです。
うん、たぶん、なにかの呪いがかかってるんだと思います。
等価交換の呪い、かなあ。
だいたい、「無償の愛」の意味が、考えるとわかんないですよね。
「有償の愛」なら、いったいどうだというのだろう?
月末にツレアイから「お手当て」を渡されたら、アム・アイ・ハッピー? そんなバカな。
家庭には資本主義と民主主義を持ち込まない、という初々さんの「やり方」、よろしければ、ぜひ教えていただきたいです。

しかしまあ、ほんと、赤ちゃんに振り回される日々ってのは、なんて自由で爽快なんでしょうね!

かしこ


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