赤ちゃんは野生のかたまり
前回の話、アンダルシアの中心地セビージャを拠点に約20年間フラメンコを見続けている志風恭子さんに訊いてみた。
ホアキン・コルテスからジャパン・ツアーのアテンドに指名されるなど数多のアーティストから絶大な信頼を受け、また現在は同地の大学院でフラメンコ博士号取得を目指す彼女の意見は、「まちがってると思う」。ありゃ。
ソレアの12コンパスはアクセントの位置なのだが、「あんたがたどこさ」はそもそもリズムがスルー、もしくはジャナ、つまりアクセントがないのだそう。
今度詳しく話を聞くことにしたので、続きはまたその後で。
ちなみにフラメンコ人からのみならず、在スペイン日本人からも絶大な信頼を寄せられる、グレイト姐御肌な別嬪さんです。
(以前彼女に取材したコラムhttp://www.norari.net/spain/072502.php)
というわけで、今回はガラリ変わって育児編を。
あっ、ニーニャ(娘、10ヶ月)は、アホみたいに元気です。
最近は物を落としてはニヤリと悪い顔してこちらを見るなど、いよいよ人間みたいになってきました。
かわいいです。
本家ブログで育児のことを書いている。
と、思いがけず、たくさんコメントをいただくようになった。
経験者の金言、いままさに経験中のひとの共感、そして隣を歩くひとからの激励。
それぞれが「ああもう、こういうことばを聞きたかったのよっ!」なもので、それをとっ散らかった本家で埋もれさせるのはどうにももったいないので、こちらの長屋に引っ越すことにしました。
どうぞみなさん、どんどん書き込んでくださいね。
「そんなことばを聞きたかった!」ひとがいます、きっと。
さて引っ越しにあたって、ママ友を長屋に引っ張り込んだ。
京都でいま7ヶ月の赤ちゃんと暮らす初々さんで、現役のナース。
英語のnurseには「看護師」と「育児・授乳」という意味があるらしいけど、彼女はその両方に当てはまる。
精神科の看護師しての経験と知識、そして初めての赤ちゃんとの生活を丸ごと楽しもうとする姿勢から出てくることばは、「わっお、そんなことばを聞きたかった!」の宝箱。
これからどうぞよろしくお願いしますね。
たぶん、交互にアップする(正確には、大家さんにしてもらう)かんじになると思います。
なお、初々さんのブログの「慌てていても、なんとかできちゃう乳児の一次救命処置」<http://pub.ne.jp/macchapudding/?entry_id=822555>、ご一読(と練習)を、強くおすすめします。
というわけで育児編の新企画、「ママ友と秋の夜長にぽつぽつ話す、トム&ジェリーな育児生活」、はじまりはじまり。
テーマ曲は、「♪赤子だって生き物さ/ママだって生き物さ」で。
マクラはそおねえ、本家で反響の大きかったカルロス先生の本(いま翻訳中)なんてどうでしょう?
■カルロス・ゴンサレスはこう云った:
「私たちの『文明化』は、本物の自由にたいして恐怖心を抱く、といいます」
カルロス先生は小児科医で、『Mi niño no me come(うちの子、食べてくれないの。)』と『Bésame mucho(もっとチュウしてね)』というベストセラー育児本の著者(私は前者を翻訳中)。
子どもが「食べてくれない」という悩みなんて実はウソっぱちで、子どもは単に「食べない」だけだし、その「食べない」だって周囲の大人の期待に比べるとそうだというだけで、ほんとはちゃんと自分に必要なだけ食べてるんだよ。
まあ栄養価とか成長曲線とかせせこましいこと考えないで、子どもの生き物としての本能を信じて、好きなようにさせときんしゃい。
そう喝破し、情報の洪水のなかで自信を失ってついついちっちゃくなりがちな今日びの母たち(私のことだ!)を、でーんと勇気づけてくれる。
「おっぱいは、オン・デマンドで」と題されたこの項で、カルロス先生は上の文章に続けて「おそらくそのために、多くのひとがどうしても自律授乳を受け容れられず、そこに制限を加えようとするのでしょう」ととき、世に跋扈する「授乳は1日に7回、間隔は3時間、各授乳時間は左右のおっぱいを交互に10分以内」などという「謎の指示」の出所を明らかにしようとする。
先日書いた新大陸でのエンコミエンダ制の導入方法をみても、あるいは宮本常一の描く「失われた」農村の暮らしをみても、「文明化」とは、「時計にあわせて生活すること」を大きな内容のひとつとするらしい。
たしかに「腹が減ったらそのつど森に入って必要なだけとって食う」や、「おてんとさまのご機嫌にあわせて一日を過ごす」は、あまり「文明的」とはいわれなさそうだ。
誰もが8時台に朝食を終えないと、9時に授業が始まる学校や、9時始業の工場は困ってしまう。
誰もが12時から昼食を摂らないと、給食や社員食堂のおばちゃんや、5時間目の古文の先生や、工場の午後1時始動のラインの責任者は困ってしまう。
人間が社会生活を営む生き物である以上、時計にあわせて生活することは、大切なことだし、他人を思いやる良いことでもあります。マル。
いやちょっと待て。
でもこれらの「困る」は、「効率といった面から考えると不都合だ」という程度であって、食堂のおばちゃんや工場長が「うおーっ、そうじゃなきゃ俺死んじゃう!」と頭を抱えるほど重大なものでは、本来ないはずだ。
「時計にあわせた生活」が、生死にかかわるマターではなく、(社会生活運営上の)効率にかかわるマターであることは、ところ変わればルールが変わってしまうことからも充分に明らか。
たとえばご存知のようにスペインでは、昼食は午後2時からだ。
それでいて世界第二位の観光大国なので、街には、昼の12時に開いているレストランを求めてさまよう(そしてマクドナルドに入る)外国人観光客があふれることになる。
それでも、そのために死んだひとがいるとは、いまのところ聞いたことがない。
まあ「今日び、世界的な趨勢に反する」という批判はよく耳にするけどね。
赤ちゃんもまた、そんな「文明化」の埒外にいる。
時計なんて関係なしに、眠たきゃ寝るし、腹減りゃおっぱいを求めて泣く。
草木も眠る丑三つ時だって、赤子だけは元気いっぱい「腹が減った」と泣き叫ぶ。
こりゃもう彼らにとっては生死にかかわるマターなので、「お隣の受験生」や「残業でお疲れのパパ」などへの気遣いなどちっともなしに、ガンガン泣きまくる。
それで、昼に泣く分とは別に「夜泣き」なんて名前をつけられ、ママがげっそりやつれることになったりする。
赤ちゃんのちびっこい胃の容量からすると、夜中にも腹が減るのは仕方ないのにね、たぶん。(別の理由があるのかもしれないけど)
振り返れば赤ちゃんはそのはじまり、妊娠のときから、だいたい文明人の思惑を外しまくる。
出産だって、基本的には赤ちゃん自身が出てこようとしない限り、こちらがどうこうできるものではまったくない。
そんな「野生」のかたまり(それが「本物の自由」なのかな)に、こちらが文明的な計画表をつきつけても、そいつぁ徒労ってものだ。
たぶん正解は、赤ちゃんという目の前の生き物そのものと向かい合い、その全身から発するメッセージを聞き取ること。
でも、生身の唯一の生き物を相手に行なうその場限り一度だけの、だから定量化とか一般化とかにまったくそぐわないこの作業は、けっこう大変だ(恋愛と同じで)。
時間割やライフ・プランやらを人生に導き入れながらもそういう習慣をすっかりなくしていた私は、この聞き取り作業を間違えてばかりだし、きっとこれからも間違い続けるんだろう(恋愛と同じで)。
もちろん子の幸せを願う親としては、できれば一度だって間違いたくない、なんてやっぱり思ったりもする。
だから「専門家によるマニュアル」に、身もこころも委ねてしまいたーい! と叫びたいときもある。
でもそういうとき、私はつとめて思い返す。
麻雀で負けたとき、セオリー本を書いたどこかの専門家は、けっして負け分を払ってはくれない。
支払うのは、常に自分だ。
誰が賭けの当事者なのかは、いつも肝に銘じておかなきゃね。
ところでスペイン人は、あまり「専門家」の権威に弱くない。
家屋の修復も壁をメタクソに壊しながらでもなんとか自分でやるし、カーナビにすら、あまり従わなかったりする。
これはスペインにおける「専門家」への信頼度の低さ(素人の自分がやっても結局たいして変わらない……たしかに。)もあるけど、日本人のあまりな「専門家」信仰には、別のなにかがあるように思える。
分単位の時刻表にあわせてきっちり電車が運行される、世界でも稀に見るほど高度に文明化された国・日本だからこその信仰、って気がするのだけど、どうかちら?
ちなみにマドリードの地下鉄の運行表は、「この時間帯は、6-12分間隔」って按配。
駅の電光掲示板に表示されるのは、「前の電車が出てから、○分経過」(別タイプもあり)。
それが7分とかだと、「おおもうそろそろ来るか」など、個々人が勝手に判断するだけ。
まあそれで不便だなあと思うひとは(日本人観光客など)少しいるけど、「うおーっ、それじゃ俺死んじゃう!」と頭を抱えているひとは、いまのところ見たことがない。
次、いつ腹が減るのか、ウン○が出るのか予想もつかない赤ちゃんに振りまわされる生活は、「文明化」を忘れる、めったにないチャンスかもしれないですね。