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備前より西はスペイン領

 あらやだ、どこから再開しましょ。
 遡って7世紀あたりから。あのころ、世界史の主役はイスラムだった。
7世紀にアラビア半島で誕生したイスラム教勢力は、西進してはジブラルタル海峡に至り、さらに北上してスペインを丸ごと呑み込んで、一時は北フランスに達する(732年)。
また東進してはササン朝ペルシャを蹴散らし、さらに楊貴妃にメロメロだった玄宗の唐に大勝して、中央アジアを勢力下に置く(751年)。

 すわヨーロッパ(ピレネー山脈以北)も、風前の灯か!
しかし、急激な領土拡張が必然的に生む内政不安のため、イスラム勢力は「鶏の尻尾のような」(byフェルミン教授)うまみのないヨーロッパを残して、版図拡張をストップ。
なんせヨーロッパっつっても、当時はうっそうとした森の中。遠いし寒いし、しかもあんまり地味豊かじゃないし。
それなのに田舎者の諸侯が乱立してガチャガチャと権力争いをしてて、どうも食指が動くかんじじゃなかったらしい。

 13世紀になると、世界史の主役はモンゴルに移る。
草原に起こった旋風はロシアを制圧し、さらに西へ。ポーランドでもドイツとの連合軍を打ち破ってウィーンにまで迫るが、突然のハーンの死によりやむなく撤退(1241年)。
東進しては中国を元とし、さらに海を渡って日本(鎌倉時代)へも侵攻を試みるが、カミカゼ吹いてみな沈没(1274、1281年)。
いや、どうもついてないね。

 逆についていたのは日本とヨーロッパか。うん、とくにイタリア。
モンゴル帝国のおかげで、だだっ広いユーラシア大陸の情勢が、ひとまず落ち着いた。
とくりゃ、「遠くの珍しいものを運んできて、高くで売る」、シンプル&ベーシックな商売の大チャンス。
古くからシルクロードという交易路をもっていたイタリア商人が、どしどし商売をし、ガンガン富を蓄え、「っていうか、やっぱ、世の中を動かしてんのって、俺たち人間じゃん?」と自信をもつようになる。
そう、renacimiento(再・誕生)=ルネッサンスざんす。


■ポルトガルはこう云った:
「世界の果てより南は、俺のものね」

 そのころ、つまり14世紀のイベリア半島。
東はバルセロナを中心とするアラゴン、中央にカスティージャ、そして西の海岸部にポルトガルがあった。
アラゴンは13世紀にはシチリア、アテネ、ナポリまで支配する地中海の大帝国となったが、15世紀に失速。原因は、内戦に発展した王位継承争いと、オスマン・トルコの伸張。
 モンゴル帝国がユーラシア大陸に敷きつめた広いカーペットの端をめくるようにして生まれたオスマン・トルコは、1453年、東ローマ帝国を征服する。
これにより、アジア=ヨーロッパの交易路は断絶。打撃を受けた商人たちは、新たなルートを模索する。地中海がダメになった? じゃ、大西洋だ!

 思えばフェニキアの昔から、「遠くの土地のものを持ってきて商売する」熱意に、ひとは突き動かされてきた、らしい。
いまも、いやいまは、「遠くの土地でものを売ってくる」方が、大きいのかな?

 ともかくそれまでイタリアの港町で腕を振るってきた荒くれ男たちが、活気を失った故郷を捨て、新天地を求めて西へと向かった。
向かう先は、大西洋に出る港を持つ、ポルトガルとカスティージャ。なんせイギリスとフランスは百年戦争の真っ最中だったりして、まだ国内だけでてんやわんや。
 折良く、ルネッサンスにより自然科学が進展。
トスカネリが地球は丸いぜ大西洋からインドに行けちゃうぜと言い、そして、外洋の航海に耐えうる船や羅針盤が作られた。
あとは精子と同じだ。誰が最初に憧れの「アジア」に到達して旗を立てるかの、ヨーイ・ドン!


 まず大航海時代をリードしたのは、ポルトガルだった。
もともとカスティージャの一部だったポルトガルは、自領以外の弱体化を希求してやまないローマ教皇の祝福を受けて12世紀に「分家」し、1385年に独立を達成。
その立役者となったジョアン1世は、息子のエンリケ航海王子に指示し、アフリカ西岸に航海基地を作らせる。
先見の明があった、ってやつだろうか。その後の行動も、ソツがない。

 ローマ教皇に頼んで、そのころ世界の南端だと思われていたボハドル岬(北緯27度、現西サハラ領)より南での「発見」における、ポルトガルの領有権を認める大勅書を出してもらう。
そう、まだ「世界」は、南北軸だけでイメージされていた。
こうして足場を固めたポルトガルはずんずん南下し、ジョアン1世に航海者として仕えていた祖父と父をもつバーソロミュー・ディアスが、1488年、喜望峰を発見することになる。
同時に、もうひとつの大発見。あっ、アフリカって、東にまわれちゃうよ!
この発見を受けて、10年後、ヴァスコ・ダ・ガマが東回りでインドに到着する。

 そのころ、ライバルのカスティージャはなにをしていたか。
14世紀には天候不順があり、人口の1/3が死亡したペスト禍があり、庶子が王位を簒奪する15年の内戦があり、これらの社会不安を背景に各地で市民の暴動とユダヤ人虐殺が起きる。もう、わやくちゃだ。
15世紀後半、究めつけに王女と王妹による王位継承戦争が起こり、すでにアラゴン王子と結婚していた王妹イサベルが、荒廃した国土にぽつんと置かれた王位に就く。

 ともかくこれでイベリア半島の勢力図が、ポルトガル対カスティージャ&アラゴンに変わった。
9世紀の国家誕生以来はじめて一緒になったアラゴン&カスティージャは、大慌てで、250年余りものんびりと保護下に置いていたイスラム教国グラナダへの侵攻を開始する。
レコンキスタの完成! の呼び声も空しく、戦争に疲れ果てた貴族のやる気なさで10年もかかってしまったが、ついに1492年1月、グラナダ陥落。
これにより、ポルトガルを除くイベリア半島が、「スペイン」になった。
 って、あぁもう、そのポルトガルは、4年前に喜望峰に達しているというのに!


■オルデン・ヒメーネスはこう云った:
「コロンブスはアメリカを発見するために西へ向かって船出したわけではない。結果と目的を取り違えては、いけないよ」

 むろん「分家」ポルトガルの躍進はイサベル女王の耳に届いている。
そこに、怪しげなマドロスが登場。「まぁあっしに任せてみなせぇ。きっとインドを見つけてきまっさかい」(商人でヤクザ者の口調で)
その名はクリストファー・コロンブス。ジェノヴァ生まれということ以外、詳しいことはわかっていない。
 実は喜望峰発見の4年前、彼はポルトガルに資金援助を願い出て、断られている。
そのときポルトガルはすでにバーソロミュー=ディアスに賭けていたし、それに、コロンブスはどうにも怪しかった。

 しかし後発のスペインは、そんな怪しい男に有り金を賭ける気になった。賭けざるを得なかった。
1492年1月、グラナダまで会いに行ったものの色よい返事をもらえず失望して帰途につきかけたコロンブスを、レコンキスタを完了したばかりのイサベル女王が全速力で追いかけてきて引き止め、支援を約束する(という言い伝えになっている)。
 同年8月、コロンブスは西に向けて出航。というのも、ポルトガルにすでに南を押さえられていたため、スペインに残された活路は西しかなかったのだ。
10月、「新大陸」サン・サルバドル島を発見。やったね、とうとうインドだぜ! ……と死ぬまで勘違いしていたのは、有名な話。
しかし結果としてこの新大陸アメリカが、瀕死のスペインに巨万の富をもたらすことになる。


 ともあれ「インド」を発見して意気揚々と帰路についたコロンブス。しかし彼はこの「発見」を、イサベル女王に告げる前に、寄り道をしてポルトガル王に報告している。
なぜか? その理由は明らかにはなっていない。
だが事実として、コロンブスが発見したサン・サルバドル島は、北緯14度に位置する。これは件の大勅書で定められた「北緯27度以南はポルトガル領」に該当する。
 ポルトガルは当然のごとく、大勅書にもとづく領有権を、スペインに通知した。
その際コロンブスに、多額の褒賞を払ったかどうかは定かではないまでも。
またスペインの基礎を作る「偉業」を成し遂げたコロンブスとその子孫が、その後スペインで意外なほど冷遇されたのが、そんな彼の行動に端を発するのか否かは定かでないまでも。

 もちろん、自分の宝石を質に入れてまでコロンブスの支援金を作った(という言い伝えになっている)イサベル女王は、これを断固として拒否。すわ戦争か、という騒ぎになる。
とはいえ戦争を避けたい両国から、たっぷり見返りを得たんじゃないかというローマ教皇の介入で、主に金の力と思われる何度かの変更を経た後、世界を東西に分けるための新たな基準が定められる。
 曰く、西経46度を教皇子午線として、その西にスペイン、東にポルトガルの領有権を認める。
これにより、1500年に発見されたブラジルは、新大陸で唯一のポルトガル領となった。
(なお、本当はポルトガル人は教皇子午線以西でブラジルを発見したが、その位置をだいぶ東に移して報告した、と、スペインでは伝えられている)

 1521年には、故郷のポルトガルで冷遇されたマゼランがスペイン王の援助を受け、西回りで世界一周航海を達成。
あぁ、しまった、地球は丸かった!
これによりポルトガルとスペインの領有権争いは、東西南北という平面ではなく、球体である地球をどう分けるかというフェーズに発展する。
 例によってさまざまな取引が行われた結果、1529年、新たに条約が締結される。
これはスペインのフィリピン支配とポルトガルのモルッカ諸島支配をともに認めたうえ、西経46度に定められていた教皇子午線を、地球の反対側の東経134度にまで延長するものだった。
東経134度……。実はこの「教皇子午線」、ちょうど岡山県を通っている。


 折しも日本は室町時代末期。
戦国時代の不運児、もとい風雲児・織田信長が生まれる5年前で、当の中国地方では、毛利元就が家督を相続して間もないころ。
まさに1529年の備前では、後にその毛利家を裏切り羽柴秀吉を通じて織田信長に与した宇喜多直家が生まれたりしている。
これから、日本史がいちばんの盛り上がりを見せる、そういう時期だ。

 しかし、たまたまマゼランたちには見つけられずに済んだからよかったようなものの、理論的にはこの時点で、戦国武士たちの野望とはなんの関わりもなく、「備前より東はスペイン領・西はポルトガル領」と、世界史的には決められていた。
もしこれを知っていたら、元就も信長も、さぞかしやる気をなくしたことだろう。あるいは一致団結してもっと早く「日本」ができていたか? あるいはアルゼンチンとブラジルのように言語も異なる別の国になっていたか? くわばらくわばら。

 なおこのサラゴサ条約は現在でも有効であり、それを示すように今日でも長崎の銘菓として知られるカステラはポルトガル伝来であり、20世紀末になって志摩にスペイン村が作られている。
……ウソウソ。しかし、いつ「無効」になったのか、調べてもよくわからなかったのだ。
 でも、あぁどうか、たとえば今日の私の知らないところで、私の大切なものがどこかの机の上で誰かに勝手に奪われたりしていませんように!
カステラは好きばってんさ。

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Junio 26, 2006 11:17 AMに投稿されたエントリーのページです。

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