ある心的過程を意識することが苦痛なので、それについて考えないようにすることが、「抑圧」というメカニズムである。エヘン。
もちろんこんな流麗な文章が私から出てくるわけもなく、これは心のマエストロ兼ここの大家である内田樹さんの著作、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)内のフレーズをつなぎ合わせただけでした。
狂言『ぶす』の太郎冠者は、「ほとんど全力を尽くして」構造的無知を作り出し、その結果、タフで酷薄というキャラクターを成立させている。
私たちの意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に目を逸らし続けている」という抑圧のバイアスが、常にかかっている。
それは、「国」についても、言えるのではないか?
国民全部が、「ほとんど全力を尽くして」なにかから「目を逸らし続けている」。そんなことが、あるのではないか?
ふとそんなことを思いついたのは、現在、個人的にスペイン語版日本史作文『今夜は夜霧がハポンだもん』指導をしてくれている歴史学教授が、こんなことを言ったからだ。
■フェルミン・マリーンは、こう云った:
「イサベル女王の死後500周年となった一昨年、スペインでは、数えきれないほど多くの関連書籍が出版されました。
そのどれひとつとして、イサベル女王に否定的評価を下したものはありません。
イサベル女王を否定すること。それはスペイン歴史学における、最大のタブーなのです」
巨躯で汗っかきのフェルミンは、誰よりも熱心に授業に取り組み、また希望があれば現代社会学特別ゼミから論文個人指導まで対応してくれたりして、学生からの信頼がとても厚い。
かつ、専門研究における受賞経験もある、とても優秀な学者だということだ。
しかし彼は、決してカテドラティコ(大学正教授)にはなれない。
カテドラティコとは、辞書によると、「カテドラの資格を得た(中等教育以上の/専門的)教師」のこと。
さらに「カテドラ」の意味を引くと「(1)正教授職/(2)教壇、説教壇/(3)高位聖職者の地位」とある。
同じ語源をもつ単語に「カテドラル」(大聖堂)があることからもわかるように、公立大学でも用いられる役職名とはいえ、極めてカトリック色が強い。
フェルミン曰く、カテドラティコになるためには、教授としての専門知識だけでなく、「模範的人格の持ち主」であることが要求されるという。
たとえば日本で、横綱に対して、同じくそれが「当然」求められると言われるのと似ているかもしれない(明文規定の有無は知らないが)。
そしてスペインにおける「模範的人格の持ち主」か否かの判断は、「カテドラティコ」という単語が示すように、「カトリックにおける高位聖職者」が基準とされる。
(現実の高位聖職者の品位がどうであるかは、たぶん別として)
スペインでは未だ9割以上がカトリックであり、フランコ独裁時代に生まれたフェルミンもまた、赤子のときに洗礼を受けたカトリック信者である。
しかしフェルミンは、スペインを代表する(という)コンプルテンセ大学の教授として初めて、市民婚をした。
模範的なカトリック信者であれば必ずすべきである教会婚をしなかったという「汚点」により、フェルミンは、永遠にカテドラティコにはなれない。実際に、そう言われたらしい。
法的に認められている市民婚を選んだことで、公立大学での出世の途は絶たれ、妻の実家からは絶縁を受けた。
「そりゃ悲しいけどね。でも、妻と僕は、こういう生き方を選んだんだよね」
貧乏だった母の妊娠中の栄養の偏りに由来するという先天性の巨躯をゆすりながら、フェルミンは満身創痍で、敢然と、というよりむしろ象のように悠然と、タブーに挑む。
「誰もが信じて疑わないこと、誰もが口にしないこと。いいかい? そこに、疑いの目を向けるんだよ」
1468年、18歳のカスティージャ王妹イサベルは、スペインを二分する隣国アラゴンの王子フェルナンドと結婚する。
このときのカスティージャ王はイサベルの異母兄エンリケ4世であり、他にアルフォンソという兄弟もいたため、この縁組には、王女の結婚という以上の意味はなかった。
ただし万が一のことを考え、未来のアラゴン王フェルナンドがカスティージャ王の地位を相続することはないという契約書が、当時としては異例のことではあるが、交わされた。
カスティージャがアラゴンにより併合される危険を、回避するためであった。
翌年、思いがけず、王弟アルフォンソが死亡。
そして1474年にエンリケ4世が死亡したとき、後継者は、王のひとり娘で9歳のフアナか、妹で23歳のイサベルか、という問題が生じた。
むろん、本来なら、王の娘フアナに継承権がある。
だが彼女は、別名、「フアナ・ラ・ベルトラネハ」(ベルトラネハ家のフアナ)。
このベルトなんとかなどという、ややこしい名前の王家は、スペインにはない。
つまり、前王エンリケ4世は不能であり、彼女は王妃とベルトラネハ公との浮気によってできた子だということが、公然の事実とされていたのだ。
内戦、勃発。
王の実子ではないとされる9歳のフアナと、本来なら継承権のない妹で、かつ精神を病んだ母を抱える、やはりまだ20代と若いイサベル。
貴族は各々、くみやすしと判断した「女」の側についた。あるいは、敵対貴族の敵側についた。あるいは、家族内で反目しあった。
イサベルを婚姻関係にあるアラゴンが支援すると、フアナ側には、カスティージャ併合をもくろむポルトガルつく。
死に体のカスティージャという「美味しいパイ」を獲ろうと、誰もが一斉に襲いかかった。
ちょうど日本史における、応仁の乱(1467~1477年)に似ているかもしれない。
奇しくもこのカスティージャの内戦は、その応仁の乱たけなわの1474年に始まり、5年後、イサベルの勝利によって幕を閉じた。
同年、アラゴン王の死去により、夫も晴れてアラゴン王フェルナンド2世となった。
(婚姻時契約により、彼は、カスティージャ領内では「女王イサベル1世の配偶者」となるに留まる)
イサベル1世はすぐに、国家の施政方針を定めるための議会を召集。ここで、誰もが想像しなかった政治的手腕を、彼女は発揮する。
まず、負け組も含めた貴族の全財産を、各々の領地に帰る=中央政治からの離脱を条件に、新設する長子相続制度を通じて保護することを確約。
意外に長引いた内戦で軒並み消耗していた貴族の大多数が、これを嬉々として受諾したため、貴族は実質上、王の統制下に置かれることになった。
また、夫フェルナンド2世の従兄弟であり、イタリア半島(シチリア、数年後にはナポリもアラゴン領)におけるアラゴン王の協力を欲していたローマ教皇と交渉し、教会の主要役職の任命権を譲り受ける。こうして、聖職者も王の統制下に置いた。
あとは、民衆だ。
まず市長の任命権を王に帰属させ、さらに王室代理官という中央政府官僚を派遣して、地方政治を掌握。
同時に、「サンタ・エルマンダー(聖なる友愛団体)」という名の、民衆取り締まりを目的とした警察組織を創設。これはヨーロッパで初の「警察」だといわれる。
さらに、ローマ教皇から許可を得て、教会ではなく王の管理下に置くかたちで、世界に(悪)名高い「サンタ・インキシシオン(聖なる異端審問所)」を設置。
これらのふたつの「聖なる」システムの間で、民衆は、僅かに息ができるだけの隙間を探すだけのか弱い存在に、見事、貶められた。
ちなみに異端審問所が廃止されるのは、約350年後の、1834年のことである。
その約100年後には、「カトリックの擁護者」フランコによる内戦が始まり、ご存知のように、独裁体制が1975年まで続く。
そして現在でもスペインには、自治州(市)警察と国家警察に加え、治安警察という別系統の組織があり、大いに活動している。
■イサベル1世とフェルナンド2世のことを、スペイン人はこう呼ぶ:
「"Los Reyes Católicos"(カトリック両王)」
1492年、カスティージャは、それまで約250年にわたって庇護下に置いてきた半島最後のイスラム教国、グラナダを征服。
こうして、8世紀にわたったレコンキスタ(国土再征服運動)が、完了する。
その功を讃えて、時のローマ教皇は、ふたりに「カトリック王」の称号を与えた。
現在、スペイン人は彼女のことを、王としての一般的な呼称「イサベル1世」ではなく、神の地上の代理人であらせられるローマ教皇から贈られた(カトリック教徒にとって)最大の敬称、「カトリック女王」で呼ぶ。
私がうっかり「イサベル1世が」などというと、「えぇ? あぁ、カトリック女王イサベルのことね」と訂正される。
そしてたしかにフェルミンが指摘したように、このイサベルをけなすことは、ドイツ・ナチスの手を借りて内戦に勝利し長年にわたり独裁体制をしいた民主主義の敵フランコを褒めることよりも、実感として、大きなタブーとなっている。
イサベルの功績は、たしかに大きい。
ひとつ、戦争省や経済省の設置など、現代につながる近代的国家の基盤を作った。また子どもたちの縁組の成功が、孫の代に「太陽の沈まぬ」スペイン大帝国を築く原因となった。
ひとつ、グラナダに会いに来て帰りかけていたコロンブスを追いかけ、自分の宝飾品を質に置いてまで出資するという慧眼により、「太陽の沈まぬ」(……以下同文)。
ひとつ、数年にわたって誰もが手をつけたがらなかったイスラム王国を滅ぼしてレコンキスタを完了し、現在に続く強固なカトリック国家を作った。
おかげでスペインは、かつて世界に覇を唱えた名門国家として、かつ信心深いカトリック教国として、グローバリズム隆盛の世知辛いこのご時世にも、家族愛にあふれる豊かな人生を楽しめている。
……おそらくこれが、現代スペインの、セルフイメージに近い内容だ。
いったいここに、どんな「抑圧」が、あるのだろう?
これからこの問いを頭に置き続けて、じっくりと、スペインを考えてみるつもりだ。
ところで、日本では、どうなの?
そう考えて、聖カトリック女王に相応する存在を探すうち、同じように、個人名ではなく聖なる称号で呼ばれている、おそらく唯一の人物に思い当たった。
聖徳太子。
辞書によると、「冠位十二階・憲法十七条を制定して集権的官僚国家の基礎をつくり、遣隋使を派遣して大陸文化の導入に努めた。また(中略)仏教の興隆に尽くした」とある。
オイオイオイ、と思って、ネットで調べた。
間違いない。上記に加えて彼は、「日本史上初の女性天皇」推古天皇の摂政であり、また彼自身が「日本史上初の摂政」である。
とても重要なことだと思うのだが、なぜか、辞書にはこの部分が記載されていない。
聖徳太子が、史上初の女性天皇の下に現れた史上初の摂政であること。
それは別に、ふつうのことだ。なのに、なぜ書かない?
もし「あえて書かない」としたら、そこにはいったいなにがある?
あっ。
ひょっとしたら、聖徳太子は、自身が史上初の摂政となるため、史上初の女性天皇などというものを生み出したのだろうか?
そして現代でも「日本」は、その事実を、抑圧しているのだろうか?
もし、そうだとしたら。
日本は、その事実から目を逸らしたい。
「実は摂政(歴史を下ると院や将軍や)こそが政治の実力者であり、天皇はとりあえず『お飾り』として置いておくための装置である」というのが日本社会のキモであり、それを創始したのが厩戸皇子であるという事実から。
なので彼を「聖徳太子」としてまつりあげ、そのダークサイドを焙り出すことに、事実上、社会的圧力をかけている。
そ、そんなことが。ある、かもしれない?
天皇がタブーであることは、日本では「常識」だ。
しかし真のタブーなり抑圧なりは、「その天皇は『お飾り』である」というところにあるのではないか。
そしてこの歴史的文脈における「天皇」は、日本社会というものを考えた場合にあらゆる「長」に、置き変えることができるのではないか。たとえば社長や家長や級長や……。
そ、そういえば。
そういえば、お調子者だった私が「日本人らしくなく」立候補して生徒会長をやっていた時代。
私に向けられる周囲の視線は決して尊敬でも憧れでもなく、ごく冷ややかで、時には憐れみすらを感じさせていたような……。
そ、そうだったのか。
いや、そうだったのだろう。
うん、どうもそうだったような気がするぜ、いま考えてみると。
そそそ、そっかぁ…………しゅん。