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ヤベッチおいちゃんの失神タイ旅行記

行きタイの  行きタイの  飛んで行け~

数年前の話になりますが、かねてから「タイに絶タイ、行きタイの」と思っていた私
は、院を修了した3月、長年の夢を実現すべく、彼の地に行って参りました。

一週間の短い滞在だったにも関わらず、色々な事がありましたので、書き出すとつい長くなってしまいましたが、秋の夜長にでも読んで頂けると幸いです。

今回の旅の舞台となったのは、古い遺跡に悠久の歴史が感じられる、古都アユタヤ。
続いて、クゥエー川にかかる鉄橋が有名な、映画の舞台となったカンチャナブリ。そ
して、言わずと知れたタイの首都、バンコクの三都市です。

道連れとなったのは、友人M嬢。全く、持つべきものは友達で、社会人だった彼女
は、わざわざ有給休暇をとって、ハードな貧乏旅行についてきてくれました。感謝。
以後、Mと記させていただきます。

決してハードな貧乏旅行が好きというわけではないのです。せっかく海外旅行に行く
のですから、「行って 財布の ヒモ締めよ」という姿勢ではなく、「贅沢は天敵」
くらいに思っているだけなのですが・・・この姿勢が悪いのでしょうか。

南国特有の高温多湿と、小学生があみ出した暗号のようなタイ文字、入国手続きのトラブル、右も左も分からずに飛び乗った電車、等々と続くと、最初の都市であるアユタヤに着いた時点で、暑さと疲労のせいで、ゴング前から早くも、二人とも失神寸前のボクサー・ジョーのような状態になっていました。

そして、目当ての宿は満室。

一時はどうなる事かと思いましたが、幸い、隣の建物でも宿泊可能との事。明らかに
民家の空室のような部屋ではありましたが、宿探し第2ラウンドに出る余裕は、もは
やボクサー・ジョーズにはなかったので、大人しくそこに決めました。

本当を言うと、バックパックを置いて、そのままマットに沈んでしまいたかったので
すが、ベッドが硬すぎるのが幸いして、沈まずに、沈めずに、次の行動に移りまし
た。

私にとって、海外旅行の宿というものは、日中に失われたヒットポイントを少しでも
回復させる所なのですが、本当にこのベッドの硬かった事、硬かった事。背骨のS字
曲線も、I字直線になりそうな背筋強制ベッド。敷布も掛布もシーツももちろんあり
ません。

一息休憩した後は、隣のちょっと洒落た木造コテージ風の宿 ― すなわち私達が当初目当てとしていた宿 ― に併設されていたレストランのテラスで、夕食をとりま
した。

トム・ヤムクンや、トム・カー・カイ(ココナッツミルクのスープで鶏肉を煮込んだ
もの)、海鮮の炒め物など、タイ旅行初日の夕食に相応しいメニューだったのです
が、いかんせん、何が具で、何が香辛料なのかも分からない状態。

とにかく、皿の中に入っているものは全て口に入れてみて、咀嚼可能だと思われるものには獅子頭のように噛み付き、顎関節の破壊が予想されるものについては、舐犢の愛を施していました。赤ん坊の気持ちが、よく分かります。アブブ。

食事後は、他の旅行客と何やら親しげに話していた現地のおじちゃんが、トゥクトゥ
クの運転手だったので、夜のアユタヤ遺跡ライトアップ・ツアーに連れて行ってくれ
ました。

トゥクトゥクというのは、モゥモゥと排煙を噴出しつつ、甲高い音をばらまきながら
走る、タイ名物の3輪の乗り物です。タクシーと違ってメーターがついてないので、
料金は交渉次第。私たちは、その夜と次の日の遺跡巡りの2日間、彼と契約をしました。

そして、このおじちゃんこそが、この旅のキーパーソンとも言うべき、ソン・モニカ
ンさんです。通称、ソンちゃま。

ソンちゃまは、年齢はおそらく40歳前後。陽に焼けた笑顔が素晴らしい、とても気
のいいタイ人でした。タイのツウな楽しみ方を色々知っている上に、英語も堪能だっ
たので、ガイドとして申し分のない働きをしてくれました。

夜になって昼間の猛暑も和らぎ、人も車もまばらとなったアユタヤは、地方都市とし
ての落ち着きを見せ、くすんだオレンジ色の街灯に照らし出されていました。

トゥクトゥクの座席部分は、5人は優に座れる程の広さがあり、日除けの天井はつい
ているものの、壁はありません。開放感あふれるとは正にこの事で、風に吹かれながら夜のアユタヤを存分に感じる事が出来ました。時々、車内から手を振ってみると、気分は皇族トモコ妃殿下。

ただ、肝心のツアーの方はというと、遺跡の広さのわりにはライトの光が弱くて、遺
跡・ライト・アップというよりも、遺跡・ウィズ・ライトといった印象でしたが、あ
まりよく見えなかった分、翌日のアユタヤツアーが楽しみなものとなりました。

宿に帰ってきて、期待に胸を躍らせながら、背筋I字強制ベッドの上で横になった私
達。明日もハードな一日になるであろうと、熟睡を決め込んだのでありますが、そう
は問屋が卸しません。

夜は静かだったから気付かなかったのですが、薄い壁をはさんで、私のベッドのすぐ隣に、鶏小屋があったのです。それも、ペットの鶏子ちゃんのオウチ♪といった可愛いものではなく、まさしく闘鶏選手の控所。

明朝。日の出と共に、ついに控所内の混声合唱団が沈黙を破り、活動を開始し始めたのです。

耳元のすぐ傍で、バスからソプラノまで、マライア・キャリー張りのフル音域でけた
たましく鳴かれるのですから、たまりません。しかも、この団員達は、すぐに喧嘩を
始める上に、「嫌いなヤツはムシ」という、人間だったら幼稚園児でも持ち合わせて
いる社交テクも使えないのです。

あまりの騒々しさに、それこそ背筋I字強制ベッドでも放り投げて、一投両断といき
たかったものの、団員達は、野良鶏ではないので、残念ながらそれも叶わず。

部屋の反対側のベッドで寝ているMも、このとんでもないモーニングコールを無視す
る事も出来なかったようで、朝食時、バミー・ナーム(中華麺の汁そば)を食べなが
ら、眠そうに目をこすっていました。

いよいよ、アユタヤの観光が始まるわけですが、その前に、アユタヤという都市につ
いて、少し説明させていただきます。

アユタヤは、バンコクの北約80km、川の中州にある町で、14世紀半ばから400
年もの間、5つの王朝、35人の王が君臨したタイの古都です。ただ、18世紀に
入って、ビルマ軍に侵略された際に、建造物や仏塔、仏像の多くは徹底的に破壊さ
れ、完全に廃墟と化してしまいました。

ただし、最初に訪れた史跡は、アユタヤ遺跡全体で見れば比較的保存状態も良くて、すらりと並ぶ座仏像、そしてかつては黄金に輝いていたという高くそびえる仏塔が、共に壮観でした。上から降ってくる蝙蝠の糞を、マリオ・ルイ―ジ兄弟のように
シュッシュッと避けて、クールに観光。

それにしても、恐ろしきは熱帯の猛暑。史跡を一箇所回ったというだけなのに、第一
ラウンドから早くもぐったりしてしまいました。

広々とした草原に並ぶ遺跡群の一番奥の何もない場所に、いきなりデーンと横たわる全長約30mもの寝釈迦像を見て、「仏様もダレるんだなぁ」と妙な親近感を覚えま
したが、これは釈尊入滅時の姿勢との事。心頭滅却の釈尊が、地界の暑さごときに負けられては困ります。

ソンちゃまが気の毒に思ってか、瓶コーラを奢ってくれましたが、睡眠薬投入→犯罪
という図式を恐れて、ソンちゃまが飲むのをしっかりと見届けてから、警戒しつつ飲
みました。Mが私の前に飲んだか、あるいは後に飲んだかについては、今後の人間関係を考慮して言及しないでおきましょう。

次に訪れたのは、史跡とは何も関係のない、何故か大量のナマズがひしめきあっている川岸でした。鯰に瓢箪、と言いますが、あれだけいたら、瓢箪はおろか蛸壺でも絶対に掴めたはずです。

観光客が食べ物を投げ入れる度に、飛魚と化すナマズもあれば、争う物は中から取るというナマズもあり。年甲斐もなくはしゃいでいた私たちに、ソンちゃまが餌のパン
を買ってきてくれたのですが、「別に見ているだけでも楽しかったのに」と、Mの冷
静な呟き。

また、ソンちゃまは、観光客がいかにも喜びそうな、象に乗れるという一角にも連れ
て行ってくれました。

しかし、乗象一回2000円。タイ語はろくに話せなくても、イッチョマエに金銭感
覚だけはタイ人と同じになっていた私たちは、「高い」という単純かつ明快な理由
で、これをお断り。

「本当に日本人かしら」とソンちゃまに疑われていたかもしれませんが、彼はそのよ
うな態度を噯にも出さず、それならば、と入場無料の象の保護繁殖地に連れて行ってくれました。

保護繁殖地というだけあって、前後左右、四方八方のそこら中に有象有象の集まり。
ガイドブックにも掲載されていなかったので、本来は立ち入り禁止だったのかもしれ
ません。

幸運な事に、数週間前に生まれたばかりの小象もいました。私の手を長い鼻でクルンクルンと巻いて口に持っていこうとする姿が、何とも言えず可愛い。パオパオ。実を言うと母象を刺激しないかと内心冷や冷やしていたのですが、彼女は食事に気をとられていたようで、鼻依り団子。そういえば、そろそろ私たちも、昼食の時間。よし、行くゾウ。

ガイドのプロであるソンちゃまの事ですから、今まで数多くの日本人に洒落たレスト
ランを紹介してきたのでしょうが、同時に私たちのお財布事情も既によく理解してい
た彼は、お寺の裏手にある青空食堂に連れて行ってくれました。

ソンちゃま御墨付きのカーオ・パッ・カイ(タイ風チャーハン)は、さすが現地の人
が、「美味しい」と言質を与えるだけの事はあって、山盛りだったにも関わらず、ペ
ロリと平らげてしまいました。アローイ(美味しい)。

タイ料理は、それほど日本に浸透していませんが、私たちの口にとてもよく合うと思
います。アメリカでは本場の味が安価で楽しめたので、よくタイ料理を食べに行きま
した。アメリカ人に「アメリカ料理で好きな食べ物は何?」と質問されて、「タイ料
理」と答えていた私は、日米安膳保障条約に反していたかもしれません。

昼食の後は、遺跡巡り再開です。

あるお寺に安置されていた、スリランカから渡ってきたという仏像を見た時は、その
美男子ぶりに驚かされました。グリグリしたフジツボのような髪でさえ、チャームポ
イントに見えてくるから不思議です。

しかし、このようにきちんと保存されている仏像はごく少数で、遺跡のほとんどの仏
像が、頭部だけが切り取られたまま、痛々しい姿で野ざらしにされていました。大部
分の仏塔も、苔生したレンガ積みと成果てていましたから、当時のビルマ軍の破壊行為の凄まじさは、筆舌に尽くし難いものだったと思われます。

先時、仏様に向かってイケメン発言をしていた私たちも十二分に罰当たりですが、木の根に取り込まれてしまった仏様の頭と記念写真を撮っている観光客に交じる気には、どうしてもなれませんでした。

遺跡見学の途中、熱帯地方名物のスコールにも遭いました。ただ、その時は、幸いな事に王宮跡の敷地内。ザボンという巨大なハッサクを食べながら待機していました。
ドリフのコントのように、バケツで水をかぶるような羽目にならなくて良かったで
す。ザッボーン。

王宮跡の次に訪れた所は、ガイドブックに載っていないほど、風化が進んで廃墟と化していました。ゲームの主人公の勇者を気取っていましたが、野良犬の群れに遭遇した途端に、「逃げる」のコマンドを迷わず選択した私たち。手始めに自分たちの身は救ったわけですが、世界を救えるのはいつの日か。

アユタヤに限った事ではないのですが、至る所で群れている野良犬には、本当に辟易しました。暑さのためでしょうか、皮膚病に侵されている犬達も多く、日中の暑さの
ためにグッタリしている図は、ちょっとした世紀末の様相。

夕方から翌朝にかけてが、彼等の活動時間で、基本的行動はコンビニ近くでタムロしている現代の若者の群と大差ないのですが、中には維新志士のような目をして、エドならぬヒト幕府を倒幕せんとばかりの浪犬もいました。佐幕派の私は、彼等に一吠えあびせられる度に、震度7の武者震い。命に換えても、生きるべし。

遺跡巡りの最後には、チェディという白く塗られたピラミッドのような建物の頂上に
上がりました。地平線の向こうに沈み行く真っ赤な太陽と、静かにそして厳かに、夕
陽に照らし出されたアユタヤの遺跡。

幾人の王が夢を追い、また、夢に敗れていったのかと考えると感慨深いものがありました。・・・いくら疲労が限界にきていたからといって、足裏マッサージなど言語道
断。はい。今後、道断します。

それにしても、アユタヤ観光がこんなに楽しかったのは、ひとえにソンちゃまのおか
げでした。

次々とオススメの場所に連れて行ってくれては、「シーユーアゲイン」と立ち去っ
て、私たちの観光を決して邪魔せず、そして戻るのがいくら遅くなっても、嫌な顔ひ
とつせずに待っていてくれるのです。哀れ 損ちゃま 待てど海路の日和無し。

といっても、彼は元来人好きなのでしょう。タイ語の知識はないので、詳しいやりと
りは分からなかったのですが、知り合いでもない現地の大人や子供たちとすぐ打ち解けて話したり、遊んだりしていたので、待ち時間もそこまで苦痛ではなかったのかもしれません。

悠久の歴史を感じた後は、キュウキュウの空腹を抱えて、ソンちゃま御推薦の地元のレストランへと向かいました。

英語のメニューもありませんから、彼にオーダーをおまかせしたところ、タイスキと
クン・チェー・ナンプラー(エビのサラダ)とカーオ・スアエ(ご飯)が出てきました。

タイスキとは、しゃぶしゃぶ風の鍋料理。ソンちゃま、グッドチョイス。地元の人に
も人気だそうで、ダシがしっかり効いたスープに具材の旨味も加わって、これは心に
残るほど美味でした。

しかし、実はサイドディッシュとして涼しい顔で出てきたエビのサラダの方が、本当
に心に残った・・・というより、精神的外傷を負わされました。今思い出しても、こ
のサラダに仕込まれた激辛ドレッシングは、ソンちゃまへの慰謝料請求に値するほどでした。

エビを口の中に入れた時点で、エンジン点火。一噛みで、ロケット発射。二噛みで気
圏突破。Mが先に口をつけたのか、それとも私だったのか、この時に関しては定かではありませんが、コンマ数秒で、両人ともほぼ失神状態に陥り、宇宙空間で浮遊していました。

「ひふほんははひほふはっはっは。(水飲んだらひどくなっちゃった。)」
「ほははいほうあいいひはいあお。(飲まない方がいいみたいだよ。)」
「はいふひおふうふえふひはおひふうあ。(タイスキのスープで口直しするわ。)」
「はいほうう?(大丈夫?)」
「!!!!!(あつっ)」《←閉まらない口から、こぼれおちるスープ》

お互いに必死で交信を試みるも、もう遅い。後の祭り、ピーヒャラヒャ。目、口、鼻
の穴も毛穴も、完全に開きっぱなしです。あな辛し。

ソンちゃまに聞いたところ、タイ語で、「辛い」を「ペ(ット)」と言うそうなのですが、宇宙空間に浮遊している私たちは、ペ・ヨンジュンのファンの皆様に劣らない、まさしくペペペ・コールの嵐でした。

ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ

これだけ「ペ」が並ぶと、何だかハングルのようにも見えますが、汗流どころの騒ぎ
ではありません。涙、ヨダレ、鼻水は、とどまるところを知らずに次々とあふれ出て
くるので、トイレットペーパーで体内から噴出される水分を処理しては、机の上に白
い雪山を作っていました。

自分達で、この雪山の処理をした記憶はありませんから、おそらくウェイターの人が
片付けてくれたに違いありません。気の毒ではありますが、それは苦しむ私たちを見て笑った罰です。

大人しく一口で止めておけば良かったのに、悲しきは貧乏性。このサラダが、もしも
野菜だけだったら、もうそれ以上は食べなかったと思うのですが、サラダの上に鎮座
しているエビ七福神 ― ただし、全て憤怒の毘沙門天 ― を、食べずにはいられ
なかったのです。

そうはいっても、エビを二匹食べた時点で起こったビッグバン。もしも、一皿平らげ
ていたら、レストランの隣にあった川に、間違いなく二人して入水心中していた事で
しょう。凡人ごときが、毘沙門天様に敵うわけがないのです。

宇宙から帰還した飛行士のごとく、フラフラしながらレストランを後にすると、ソン
ちゃまがにこやかにお出迎え。

人生初の宇宙遊泳の報告に、彼は大笑いしていましたが、ビールを奢ってくれたの
は、彼なりの罪滅ぼしだったのかもしれません。ひょっとしたら、食い逃げならぬ、
乗り逃げを危惧しての事だったかもしれませんが。

本当を言うと、その夜でソンちゃまとはお別れのはずだったのですが、彼のおかげで本当に楽しいアユタヤ観光が出来たという事で、アユタヤからカンチャナブリ、カン
チャナブリでの観光、カンチャナブリからバンコクまで、とさらに3日間、契約を延
長しました。

翌朝も、やはり、お隣で騒ぎ立てる闘鶏選手達に対して、M共々、コメカミ筋肉運動
を行う羽目になりました。が、朝食のカーオ・トム・カイ(鶏肉入りタイ風雑炊)
に、彼等の仲間が犠牲になっているのを見て、庭鳥の鶏も大変なのだと、ヒトツマミ
の同情。

そして、朝食後。楽しかったアユタヤに別れを告げ、第2の訪問地であるカンチャナ
ブリへと出発しました。

私たちは、てっきり先日のトゥクトゥクでカンチャナブリまで行くと思っていたので
すが、なんと大サービスで、ソンちゃまが自身の御車を出してくれました。実際、トゥクトゥクでの移動だったら、道中の排気ガスに燻されて、黒い燻製になっていた
かもしれません。

ちなみに、ソンちゃまのプライベート・カーは、イスズのトラック型。「イスズは、世界一だ」と彼が力説する通り、タイではイスズの車を頻繁に見かけました。

車といえば、日本で廃車となった車が輸出されるという話を聞いた事があるのです
が、どうやらそれは事実らしく、「JR京都駅行き」という、まさにネコバスを越えた奇跡のバスが、国境など全くお構いなしに、何くわぬ顔で走っていました。

しかし、計器がどれ一つとして機能していない、ソンちゃまのイスズ号も、ある意味、奇跡の車と言えました。

確かに、ソンちゃまの運転は、恐怖の高速スピードだったので、速度については、知
らぬが仏だったかもしれません。走行距離も、車の実年齢が知れてしまうため、これ
も知らぬが仏。しかし、ガソリンのチェックさえ出来ないと聞いた時には、さすがに
仏転びしそうになりました。

ドライブ中は、せっかく英語である程度の意思疎通は図れたのですから、国際理解につながるような話でもすれば良かったのに、熱気にやられている3人の精神年齢は幼稚園児くらいにまで低下しており、「ババボボ(馬鹿)!」「コーホー(嘘)!」と
か言い合っては笑っていました。

ソンちゃま選曲のタイ音楽を聴いたり、タイ語講座を開いてもらったりする事、約3
時間。無事に、イスズ号は、カンチャナブリに到着しました。ドリアンチップの食べ
すぎで、途中気分が悪くなったりもしましたが、それは自業自得というもの。ソンちゃまの荒い運転のせいにしてはいけません。

カンチャナブリは、映画『戦場に架ける橋』で一躍有名になった町です。第二次世界
大戦中、現地の人々や何万人もの連合軍捕虜の犠牲のうえに、日本軍は泰緬鉄道を建設したわけですが、郊外にあるクゥエー川鉄橋も、悲劇の歴史を今に伝えています。

しかし、その様な過去が信じられないほどに、峠から見下ろしたクゥエー川はとても
雄大で、「フ」「レ」とまではいかずとも、「つ」「し」の字よりも見事に蛇行していました。

川の流れは速かったですし、川幅も広い上に水深も深そうに見えたのですが、ライフジャケットを着けた子供たちが、飛び込んでは、楽しそうに流されていました。日本
だったら、絶対に「飛び込み禁止」の看板が出ていると思います。

そんな恐れ知らずな子供たちを眺めながら、ふと、中国の奥地に旅行したという、あ
る友達の話を思い出しました。

何でも、川が増水して危険だったにも関わらず乗ったという、船上での出来事。他の
客が、川でバタバタと溺れている人を発見して騒いでいたら、乗組員が「彼は、もう
死んでいる。」と言って、放置したというのです。

秘孔を突かれたわけでもあるまいし、生きていなければ、バタバタする事など出来る
はずがないのに。緊急時で、どうする事も出来なかったのかもしれませんが、今で
も、中国の奥地と聞くと、どうしても身構えてしまう私です。アチョー。

さて、肝心の鉄橋ですが、ここで私たちは、『スタンド・バイ・ミー』の名シーンを再演する羽目になりました。

本当は、まだ旧泰緬鉄道の一部を走っているという列車に乗る予定だったのですが、私達が昼過ぎに着いた鉄橋付近の駅には、列車や搭乗者の気配が全くありませんでした。

時刻表と思しき紙を解読した結果、どうやら、その日の最終便はもう出て行ってしまった模様。残念。しかし幸いな事に、ガイドブックに線路は歩行可能とあったの
で、土産物屋を覘いた後、とりあえずは鉄橋方に向かって歩き出しました。

晴天の下、右手に雄大なクゥエー川を見ながら線路を歩いていると、幼き日のリバー・フェニックスのような気分になってくるではありませんか。スタン・バーイ・ミー

リバー・フェニックスだなんて、オコガマシイのは百も承知ですが、こんな時にわざ
わざ給食費窃盗犯になりたいという人は、なかなかいないでしょう。隣で意気揚々と
歩いていたMだって、その心はきっとリバー君だったはず。

そして数十分後、自称リバー君二人は、ある事実にハタと気がつきます。

先ほどの土産物屋は、すっかり小さくなってしまっているし、線路下の敷木の隙間か
ら見える地上は、なんだかやけに遠い。

雀の額ほどの勇気しか持ち合わせていなかった二人は、海水浴でブイの方まで出てきた時のような不安感を覚え、一気に引き返しモードへとシフト・チェンジしました。


しかし!!

これぞ劇的、とでもいいましょうか。レールが小刻みに振動し始めると同時に、向こ
うからやってくる列車の姿が視界に入ったのです。

最初はダンゴムシ大でも、次の瞬間には、イモムシ大。ボヤボヤしていたら、モスラ
大の列車に轢かれてしまいます。モスラは、正義の味方なのに。

といっても、自分たちは、鉄橋の上。下に逃げるのも決して得策とは思えず、かと
いって、塩狩峠になるのは御免蒙りたい。

わりと近くに空き地があったのは、単なる偶然だったのか、それとも神様の思し召し
だったのか。とにかくそちらに飛び込んで、事無きを得ました。セーフ。

「あれが、最終列車だったんだね。」などと、命拾いした事を喜んでいると、熱さも
喉もとを過ぎてしまい・・・再びスタンド・バイ・ミー行進を始めてしまった二人。

そして数十分後、自称リバー君二人は、ある事実にハタと気がつきます。

先ほどの土産物屋は、もはや見えないし、線路下の敷木の隙間から見える地上は、文字通り、遠い。

猫の涙ほどの勇気しか持ち合わせていなかった二人は、海水浴で沖の方まで出てきた時のような不安感を覚え、一気にご帰宅モードへとシフト・チェンジしました。

しかし!!

これぞ劇的、とでもいいましょうか。レールが小刻みに振動し始めると同時に、向こ
うからやってくる列車の姿が視界に入ったのです。

最初はダンゴムシ大でも、次の瞬間には、イモムシ大。ボヤボヤしていたら、モスラ
大の列車に轢かれてしまいます。正義の味方、モスラの犠牲。

といっても、自分たちは、鉄橋の上。下に逃げるのも決して得策とは思えず、かと
いって、塩狩峠になるのは御免蒙りたい。

わりと近くに空き地があったのは、今度こそ、単なる偶然だったと思います。とにか
くそちらに飛び込んで、事無きを得ました。セーフ。

こうして、川の上での惨事だったにも関わらず、私たちは二度の危機を乗り越えて、
不死鳥のごとく、無事に土産物屋の所まで舞い戻りました。我等こそ、まさしくリ
バー・フェニックス。ビジュアル面は、どうぞ平にご容赦下さい。

さて。どうも話が長くなってしまいましたが、カンチャナブリでは、鉄橋以外にも、ソンちゃまのマル秘スポットである、滝つぼにも連れて行ってもらいました。

そこは、まさに天然の巨大プール。本当は、現地の子供たちに混じって、ビショビ
ショになって遊びたかったのですが、着替えも、タオルも、水着も、原始の姿に戻る
度胸もなかったので、惜しくも断念しました。

それでも、くつを脱いでズボンをまくり上げ、行けるところまで、いざ出陣。排水の
陣。

はしゃぐ私たちを、しばらくは傍で心配そうに見ていたソンちゃまでしたが、おそら
く内心は、「コケるなよー。コケてもいいけど、濡れたまま俺の車に乗るなよー」と
思っていたに違いありません。数日間、一緒だったというのに、信頼ゼロです。

しばらく遊んだ後は、せっかくだから、記念に写真を撮ろうという事になりました。

しかし、我等のお抱え運転手兼カメラマンは、遠くの安全地帯に避難しており、地元
の大人方とのおしゃべりに忙しいようで、何の役にも立ってくれません。かといっ
て、裸でハシャギ回っているお子様達には、どうも頼みにくい。

すると、運良くアメリカ人の白人の娘さんを発見したので、「あの・・写真・・」と
声をかけると、「ダディー!ダ・ディ!!ダーディー、ハリー!!!」。

別にダーティ・ハリーでもあるまいし、わざわざ父親を呼ばずとも、シャッターボタ
ンを数ミリ押すだけの仕事。汚い仕事でも何でもなかったのですが、頼んだ側として
は、もちろん大人しく待つより他はありません。

そして登場したダディは、我々の予想に反して、超スマイル。

「彼女のピクチャー? オゥケイ、オゥケイ。 存分に撮ってくれたまえ。」

それは、勘違いデース。確かに発育はいいかもしれませんが、別にタイにまで来て、
15歳そこそこの白人の子の水着ショットなど、要りません。しかも、ダディ、父親
としてそこでオゥケイしていいの?それとも、あなたはマネージャー?

一瞬、目がドットになりましたが、「えー、それじゃあちょっと失礼致します。」
と、控えめに一枚だけスナップを撮らせてもらいました。皆さんも、芸能人に写真を
撮ってもらう時は、お気をつけて下さい。

その夜は、カンチャナブリの川べりの、橋に灯る明かりが何ともロマンチックなレス
トランで、夕食をとりました。

ソンちゃまとも、明日でお別れです。この時ばかりは、普段はオバカな事ばかりしか
言っていない3人の間にも、ちょっとシンミリとした空気が流れました。

しかし、最後の夜という事もあって、いつにも増して熱烈なソンちゃまのラブコー
ル。

実を言うと、カンチャナブリまでのドライブの道中から、私に対して、ソンちゃまが
明らかな好意を示してくるようになっていたのです。

もちろんこちらはお客ですから、決して不快な事はしてこないのですが、明白な意思
表示は、迷惑千万というもの。警察一一〇番、迷惑一〇〇〇番。

最初のうちは、大人の礼儀だと思って、いちいち笑顔で反応を返していましたが、長
くは続きません。

最後の方は、面倒臭くなって、自分の苗字(モニカン)と、私の名字(トモコ)を勝
手にくっつけて、「トモコ・モニカン♪」と鼻歌で歌われても、流しソウメンのよう
に冷たく聞き流していました。

「チャンラッター(愛している)」と言われても、無視、虫、蟲。オバQの弟のオー
次郎でもあるまいし、何回も繰り返さないで頂きたいものです。タイ語で愛の告白を
受ける事なんて、人生でもう2度とないのでしょうが、「オジ様と私」を地で行くつ
もりもありませんでした。

そして、助けを懇願しなかった私が悪かったかもしれませんが、ライオンのタテガミ
のようになっている私の髪を指しながら、「これで、恋愛に髪は関係ないという事が
分かったね」という、冷静かつ無礼なMの助け舟は、終日、停泊中。

最後の晩餐でも、何を言われたのか詳しくは覚えていませんが、テーブル向こうの我が友人の目の奥に、助け舟の碇を引き上げて、全力逃走しているユダの姿が映っていた事だけは、今でもしっかりと覚えています。

船といえば、カンチャナブリで泊った宿は、川に浮かぶ筏のような板の上に建てられ
ていました。優雅な水上コテージをイメージしての事でしょうが、そこはやはり安宿
の話。

陰気臭いバスルームで、マックロクロスケのようにガサガサと移動する、ゴキブリや
名も知らぬ虫たち。

彼等の行く先を、サツキやメイのように好奇心いっぱいに追って行くには、残念なが
ら、私もMも年を取りすぎていました。天井で回転している巨大扇風機のトドロは聞
こえても、トトロは見えません。

だからといって、壁紙の模様の一部のように張り付いている大量のイモリ達を、笑っ
て焼いて食べるような経験値もありませんから、出来る限り余計な事は考えずに、
サッサと寝る事に専念して、カンチャナブリの夜を大人しく過ごしました。

さて、一夜明けて、最終目的地・バンコクへ向けて出発です。

イスズ号の後ろの荷台に寝そべって見た、真っ赤に燃える朝日があまりにも綺麗で、思わず涙法師になりそうでした。が、幸い、ソンちゃま必殺の恐怖の高速スピードが、涙防止に一役買ってくれました。

カンチャナブリからバンコクまで、決して短い距離ではなかったのですが、途中、凄
腕ガイドの計らいで、水上マーケットとスネークパーク、それにローズガーデンに寄
る事になったので、こちらも楽しい行程となりました。

タイ政府が、文化保存と観光客誘致のために開発したという、水上マーケット。観光
客用、あるいは商売用の小船が、縦横に張りめぐらされている水路に所狭しと浮いており、水路の両岸には土産物屋や雑貨屋が並んでいて、大変賑わっていました。

私たちも、小船をチャーターして、水上からその風情を思う存分楽しみつつ・・・豚
の串焼き、ラーメン、ココナッツパンケーキ、ココナッツ、マンゴー、ドリアンな
ど、それはもう一心不乱に食欲を満たしていました。イム(おなかがいっぱい)!

ここで売られている食べ物は、特にタイ国内でも衛生面に問題があると後で聞いたのですが、時すでに遅し。我が身が一身腐乱にならずに済んだのは、先日のエビ毘沙門天様の御加護があったからに違いありません。ありがたや、ありがたや。

スネークパークでは、巨大でヘビー級な蛇や、蛇遣いのお兄さんのテクニック・勇気
に対して、「おおっ」「そこまでするかっ」「なんとっ」と、月並みなテレビレポーターのような反応をしていました。

そしてここでは、念願の、蛇とマングースの決闘ショーを観る事も出来ました。

何故、この決闘ショーが念願だったかといいますと、以前、沖縄に旅行した時に観る
予定だったのに、動物愛護協会の要請か何かで、前年に中止されてしまっていたから
なのです。

マングースは爪を、そして蛇は頭をスウィングさせて、白熱の戦いを繰り広げてくれ
るはずが、変わりに行われたのは、スウィミング・ショー。それは、水をはった5
メートルほどのプラスチックのケースに、マングースと蛇を別々に放ち、どちらが速
く泳ぎきるかというものでした。

ここはもちろん、やはり同類、哺乳類のよしみで、マングースに肩入れ。

確か、途中までは蛇の方がウニョーッウニョーッと優勢だったのですが、ゴール間際
になって、ウニョウニョ・・ウニョ・・ウニョッ?ウニョッ?と一本道にも関らず、
摩訶不思議な迷子現象を起こしたために、マングースが勝利したと記憶しています。

しかし、スネークパークで、蛇もある程度は仕込めるという事を知りましたから、
ひょっとしたら、あのウニョッ?も実は演技で、スウィミング・ショーは八百長だっ
たかもしれません。

決闘ショーは、マングースと蛇が牽制し合うだけではありましたが、なかなか見応え
がありました。ただ、タイでも、いつ何時、生類憐みの令が発令されるか分からない
ので、まだ御覧になった事がないという方は、どうぞお早めに。

ローズガーデンは、外国人観光客向けに造成された総合観光レジャー施設。ここで
は、我々も大人しく、外国人観光客の肩書きに相応しく振舞い、伝統舞踊やムエ・タ
イの模擬試合、象の曲芸、タイ式の結婚式などを観させてもらいました。

もしも日本でも、このような外国人観光客向けの総合観光レジャー施設を造るのであれば、日本舞踊に相撲、猿の曲芸、神前結婚式という形になるのでしょうか。

しかし、ただでさえ、不景気でアミューズメントパーク業界は厳しい時代。こんなあ
りきたりなコンセプトでは、ラッセル・クロウの操縦する『ベン・ハー』の戦車のご
とく、ミスター・苦労の操縦する火の車が、園内を蹂躙する事になるでしょう。経営
者も大変です。

そして、たどり着いてしまったバンコク。とうとう、ソンちゃまとも涙のお別れです。

4月には「水かけ祭り(3日間にわたり街全体が水浸しになるほどの大騒ぎになると
いう、国をあげてのお祭り)があるから戻っておいで」という、嬉しい言葉をもらい
ました。いつか、今度は廃水の陣を敷く覚悟をして、行ってみたいなと思います。

コープクンカー(ありがとう)、ソンちゃま。トモコ・モニカンにはなれなかったけ
ど、本当に楽しかったです。ラコォーン(さようなら)、ここからは、自分たちだけ
で頑張ります。

というわけで、文字通り、自分たちの足で回ったバンコク。この街は、ちょうどその
中心を流れるチャオプラヤー川によって、東西に分断されています。行政域にとして
はかなり広いらしいのですが、我々は旅行客が集まる王宮周辺を主に徘徊していまし
た。

王宮周辺は、王宮はもちろん、寺院や大仏塔など観光名所が目白押しの、荘厳にして華麗なエリアだそうで、街中を歩いていると、天を突くように立ち並ぶ塔がよく見え
ました。

時間の許す限り、ガイドブック片手にこれらの名所を色々と回ってみたのですが、と
にかく色鮮やかで過剰なほどに装飾も派手なものばかり。ただ、それにもきちんとタ
イ仏教の宗教的意味があるという事なので、奥深い。同じアジアでありながら、日本
とは違うのだと改めて思いました。

全長49メートル、高さ12メートルという、アユタヤのそれとは比べ物にならない
ほど巨大な大寝釈迦仏にも肝を抜かれました。螺鈿細工の施された仏像の足の裏は、異常な偏平になっていて、土踏まずがありません。これは、土を踏まずに歩けるという意味で、その人が超人であることを示す身体的特徴のひとつなのだそうです。偏平足の人に、朗報。

バンコクの慢性的な渋滞緩和のために、運河を利用した公共交通機関としての運河ボートにも乗ってみたのですが、観光用ではないために、途中に大した見どころはありませんでした。さらに、市内の運河ははっきりいってドブと大差のない状態で、水はかなり汚れていたのが残念。

世界のバックパッカーが集まるカオサン通りの宿を選んだので、その周辺の大衆食堂や屋台をよく食べ歩きました。パック・ブン・ファイデーン(空心菜炒め)、プラー
・トート(魚の揚げ物)、カイ・ヤッサイ(タイ風オムレツ)、ゴイシーミー・サイ
・ムー(しょうゆ味のあんかけ麺)、トート・マン・クン(エビのすり身の薩摩揚げ
風)等々、本当に美味しかったです。

続いて、ドリアンにスイカ、ココナッツ、マンゴー、パパイヤ、ランブータン、パイ
ナップル、ランブータン、ジャックフルーツ・・・何を食べたのか、私個人の日記帳
に書いてあったものを写したのですが、それにしても食べすぎですね。

ところで、この世界のカオサン通りで、私たちに選ばれし宿は、かつては監獄だった
のかと疑ってしまうような狭さ、暗さ、味気無さでした。あんな所に閉じ込められた
ら、日付さえ分からなくなって、「ハッ、キョウは・・・」と発狂してしまうに違い
ありません。

一応、アユタヤとカンチャナブリでのお宿は、安宿とはいえ、部屋の中にシャワーと
トイレがついていました。

「シャワー・トイレ付とは、豪華な部屋じゃないか」とおっしゃる方がいるかもしれ
ませんが、もちろんそんな事はありません。カタカタと音を立てるシャワーヘッドか
らは水しか出ませんでしたし、傍にあるタイ式トイレも、これぞ魔界への入り口と
いったような不気味さ。

このタイ式トイレ。水洗といえば確かに水洗なのですが、隣に設置されてある水槽か
ら水を汲んで手動で流すという仕組み。トイレットペーパーの代わりにも、この溜め
水を使うらしいのですが・・・

結局、順応力の低い私たちは、トイレットペーパーのロールを、仲良く一人に一つず
つ持ち歩き、街中で中級ホテル(さすがに高級ホテルは不可能でした)を発見した時
は、ちょっと身なりを整えて、洋式トイレを拝借。散切頭で、西洋文化の恩恵を被っ
ていました。

水分補給についても、最初のうちはエビアンなどの西洋飲料水を飲んでいました。気付かないうちに、途中からはタイメーカーのものに変わっていましたが、たとえ汚染の可能性があると言われても、とにかく多量の汗をかくために、何度も何度も水分補給をしなければいけなかったのです。

遺跡だろうとお寺だろうと街中だろうと、とにかく歩き回る。そのうえ、私たちが利
用した宿や食堂ではエアコンなるものがなかったので、本当に日夜関係なく発汗して
いました。最近では、デトックスと呼ばれる毒素排出健康法が巷で流行しています
が、あの時の私たちは、まさにその先駆けだったと言えるでしょう。

アメリカでのプロテイン・ダイエットなど、健康維持に流行があるというのは、変な
感じもしますが、私も腹巻(発汗を促す素材の腹巻)ダイエットが流行った時に、そ
の安物の着物帯のようなものを買ってしまったクチなので、人の事は言えません。
ちょっと前までは、母のお腹に巻かれているのを見たのですが、今は何処でしょう
や。

健康維持は、日々の己の意識の持ちよう如何であるという事は重々承知しています
が、タイに来た良い機会なのだから、タイ式マッサージを受けてみようという事にな
りました。

街中にもたくさんマッサージのお店はあったのですが、せっかくだからとタイ式マッ
サージの総本山といわれるお寺に行く事に決定。

マッサージというとどうも個室のイメージが強いのですが、そのお寺では、広い会場
にマッサージをする人と受ける人が一堂に会していました。一応、背の低い仕切りが
あったので、それに従って、それぞれの組が配置されるという形。

そして、扇風機の回る入口で待つ事、30分。

巨漢(女性です)のマッサージ師が、不機嫌にも見える顔でヌッと突如現れ、Mを連
れて去って行きました。誘拐されている気にでもなったのでしょう、ワラにも縋る思
いで私の方を何度も振り返る彼女。申し訳ありませんが、ワラワだって怖いから嫌で
ございます。

と、私の前に現れたのは、小柄で優しそうなマッサージ師。席替えで好きなコの隣に
なった時のごとく、心の中でポパイのようなガッツポーズを決めて、彼女にヒョコ
ヒョコとついていきました。よろしくお願いいたします。

手渡されたブカブカのズボンに着替えて、いよいよ施術スタートです。

タイ式マッサージはアクロバティックであるという予備知識はあったのですが、体を
足で押さえられたり、引っ張られたり、全身で押さえ込まれたりする私の姿は、まさ
しく悪役のプロレスラー。

もっとも、施術をしてくれているマッサージ師が、細身の可愛らしい人だったので、
そう思ってしまったのかもしれません。巨漢のマッサージ師と、身長14○センチの
Mの場合だったら、明らかに、単独リンチの図だったはずです。

ところで、女性のお客には女性のマッサージ師が付くと思っていましたが、私の隣の
仕切りでは、男性のマッサージ師が西洋人のおばちゃんを相手にしていました。

彼が何かする度に、おばちゃんはその悦楽を大声で叫ぶのです。聞いているこちら
も、彼女のプライベートな一面を覗いているようで、すごく恥ずかしい。さらに彼女
は、マッサージのプロである彼に、施術についてあれこれと要求したりもしていまし
た。

私自身もまな板の上の鯉だったので、決して見られた状態ではありませんでしたが、マッサージの施術中、目は隣のおばちゃんに釘付けでした。他のマッサージ師の方々も、声にこそ出さないものの、苦笑い。

しかしながら、サービスを受ける際に、あのように自分の意見をしっかり言える彼女
は、ある意味で立派なのかもしれません。実は、私もちょっと痛い時が何度かあった
のですが、最後まで何も言えなかったのです。

そういえば以前、格安エステ体験なるものに行った時にも、「くすぐったい」という
一言を言えずに、心臓マッサージの要領で左脇上のリンパ腺のところを押さえられ
て、笑うせぇるすまんのような笑顔を浮かべながら、脂汗をかいていた私。

続く右脇は、目黒さんのような顔色になりつつも必死になって我慢しましたが、まる
でとどめのように両脇を一度に押さえられた時は、耐え切れずに、どーん!とエステ
ティシャンのお姉さんを突き飛ばしそうになりました。

マッサージやエステといった特別なサービスに限らず、美容院でのシャンプー時に目
隠しの布を乗せられる際でさえ、瞼を開けておくべきか閉じるべきか、いちいち考え
てしまう自分が、嗚呼、情けない。

カッと目を開けたまま布をかけられるのも、世に未練を残した遺体のような気になり
ますし、そうかと言って、目を閉じて布がかけられるのを待つのも、眠り姫を気取っ
ているようでイヤ。

サービスを楽しむためには、サービスを受ける側にもそれなりの心構えがいるので
す。それが対人であればなおさらです。

例えば、チヤホヤ度も金額次第、夜の世界のホストのお兄さん達によるサービス。連ねられた美辞麗句がお世辞だと分かっている以上、糠に釘のような反応になるのは、当然の話。それでも、先方に気を遣って、無理して喜ぶフリをしたところを、「あいつ、喜んで馬鹿じゃないの」などと陰口で言われたりしたら、それこそ、ホストの額
に五寸釘です。

そうそう。特に外国では夜は出掛けないようにしているのですが、タイ名物のニュー
ハーフショーは一度くらい観ておかなければという事でMと意見が一致したので、旅
行最後の夜、ガイドブックお勧めのお店へと向かいました。

しかし、夜の酒場のニューハーフショーには、犯罪の臭いがプンプンするという幻臭
を嗅いでしまった私たち。スリの標的にならないようにと、シンデレラ・ワードロー
ブの中でも選ばれた一張羅は、たとえガラスの靴がピッタリ履けたとしても、王子様
は去ってしまうほど、見事なまでのみすぼらしさでした。

加えて、トゥクトゥク代をけちって(約100円)、熱気と排気ガスの渦巻くバンコ
クを一時間近くも速足で歩いたために、汗と埃にまみれた二人は、まさしく貧乏神の
権化。

しかし。

たどり着いた会場は、薄汚いバーでもなければ、怪しいクラブでもない。洋式トイレ
完備のエイチオーティーイーエル、それはそれは立派なホテルだったのです。

こうなると、我々こそが、怪しいスリです。シャツをズボンの中に入れようが、ズボ
ンを靴下の中に入れようが、ダメなものはダメ。もはや我等がスリに見えないように
するためには隣の紳士のジャケットでも頂戴するより、他はありませんでした。

ただ、スリとして怪しまれんがために、上着泥棒として逮捕されるというのも、いか
がなものかという事で、窃盗未遂容疑者二名はホテルのロビーを後にして、ソソクサ
と会場へと向かいました。

しかし、実際のところ、私たちが貧乏神の権化であろうが窃盗未遂容疑者であろう
が、そんな事はどうでも良いと思えるほど、このショーは豪華絢爛で素晴らしく、原
色鮮やかな衣装や、息を呑まんばかりの激しいダンスに、文字通り圧倒されました。

幸運な事に、席も一番端ではあったものの、最前列。オネエサマになりきれていな
い、オニエサマの青髭もよく見えました。

トップに君臨する女王様の美貌にうっとりしたり、オネエサマの集団に戦時中の兵隊
さんのような歓声をあげたり、オニエサマから送られるウィンクや投げキスに「どう
も」と会釈を返したりしていると、あっという間に時間は過ぎてしまいました。

と、ショー観劇中は、無邪気に楽しんでいました。

ですが、ひとしきり騒いだ後、Mと私の脳裏に浮かんだのは、「敗北」という二文
字。

そう、オネエサマ方に完全に劣る女性美。

私たちこそが、ニョニン・オリジナルのはずなのに、此、出藍ノ誉レ。いえ、青は藍
より出でずとも藍より青し、といった方が正確でしょうか。オニエサマとは互角以上
の勝負だった、とお互いに傷を舐め合うのも、空しいだけです。

それにしても、一体、男性はどのような思いでこのショーを見ているのかと思って、
何気なく客席を見渡してみました。

すると。

なんという偶然。最前列ド真ん中の席で、ニヤケ顔の知人S君を発見したのです。異
国でのニューハーフショー中の再会など、なかなか有り得ない話です。

そして、こちらからの視線にすぐに気付いた彼。どうやら、彼の方が先に私を見つけ
ていた様でした。ニョニン・オリジナルなのに、TM(タイでミリョク的に)エボ
リューションされたオネエサマを見て、ニヤケている私の姿。見られた時の恥ずかし
さといったら、自らの羽根をむしるツウさんの比ではありませんでした。痛。

ショー後、二人で大いに盛り上がって「お互いに、かぶりつきの席で良かったね」な
どと話していましたが、被り憑きのようになっていた私のボロボロ服について、スリ
対策云々と必死で言い訳をする羽目になったのは、言うまでもありません。

ニューハーフショーの興奮も冷めやらぬまま、カオサン通りに戻ると、何やらたくさ
ん露店が出ていて賑やかだったので、それらも少しだけのぞいてみました。旅行最後の夜でしたから、何となく夜更かしするのもいいかというムードだったのです。

が、結局、その夜は、隣の建物の日差しの上に飛ばされていたMのリスちゃんTシャツの救出作戦で終わり。ちょっと残念な気もしましたが、気が緩んだところをスリちゃ
んに狙われなかっただけでも、良しとしなければいけません。

そして、ついに旅行最終日。飛行機の出発時間は、残酷にも刻一刻と近づいてきま
す。

荷物を預けて、町を歩き回ってお土産を買ったり、屋台やレストランをハシゴした
り。「贅沢は天敵」と吝嗇家だった私たちも、ここにきてやっと日本人らしく物欲の
前に膝を折り、残っていたバーツ(タイのお金)をバーッと使い切りました。

帰らないといけないけれど、帰りたくない。まだまだ、タイに いタイの。今は無理
ですが、いつか長期滞在が出来るくらいお金持ちになって、タイに戻って来たいで
す。

いタイの いタイの 富んで行け~

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2005年11月27日 09:34に投稿されたエントリーのページです。

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