ヤベッチのミネソタ無宿
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yabe//11
2007-09-05T08:02:41Z
since Jan 2004
Movable Type 3.35
ミネソタを遠く離れてもう二年・・・ひさしぶりに日記を更新してみました
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/yabe//11.1488
2007-09-05T08:02:02Z
2007-09-05T08:02:41Z
9月4日 9月に入って、少しずつではありますが暑さも和らぎ、朝晩過ごしやすくなっ...
uchida
9月4日
9月に入って、少しずつではありますが暑さも和らぎ、朝晩過ごしやすくなってまい
りました。
私の部屋にはクーラーがありません。代わりに、1990年代初頭に製造された扇風
機が1台。色は綺麗なパステルカラーのピンクなのですが、これが和室にそぐわない
こと然り。
ただ、部屋に合っていようが合ってなかろうが、夏の必需品である事には変わりあり
ません。なんといっても、私の部屋は我が家で一番熱気がこもるのです。床が畳の岩
盤浴。わざわざお金を払って岩盤浴など行かなくても、自室で十分に熱気浴が楽しめ
てしまうのです。
毎夏、この扇風機と一緒に二人二脚で難局を乗り切っているのですが、今年は記録的
な猛暑だったせいで、特に大活躍しました。愛しの扇風機が昼夜兼行であったからこ
そ、私も昼夜健康でいられたのです。
ただ、あまりにも長時間使用したせいで、モーター部分が高温になってしまった事も
何度かありました。本当は、そのモーター部分を冷却するクーラーでもあればいいの
ですが、それでは本末転倒になってしまうので、やはりそういう時は扇風機を休ませ
てやらなければなりません。
説明書はとうの昔になくなってしまっているので、可能連続使用時間が、一体何時間
なのかも、もはや分かりません。「そろそろヤバいかも・・」と管理者が直感で思っ
た時に、モーター部分の温度調査が実施されるという次第。どこかのバス会社に限ら
ず、人にも機械にも超過勤務を強いてはいけません。
しかし考えてみると、日進月歩で多機能・コンピューター制御化が進んでいる他の家
電製品に比べれば、扇風機というのは、あまり開発・進歩がみられないような気がし
ます。
今昔や値段を問わず、扇風機というものはみな、羽とカバー、モーターなどの本体部
分から成っており、多少の大きさや形は違えども、一般日本人が想像する扇風機の図
は、似たり寄ったりなものだと思います。またその性能についても、風量調節や首振
り、リズム風やタイマーといった基本的なイメージは、共通しているでしょう。
将来、便利かつ斬新奇抜な扇風機が、市場に出回ることはあり得るのでしょうか。
「極軽扇風機」「超大型扇風機」「音声反応扇風機」。ひょっとしたら、すでに店頭
に並んでいるかもしれませんが、商況はなかなか厳しいと思います。
少し話が横道にそれますが、私は、レストランに置いてあるアンケートがなぜか好き
なようで、特にその用紙に「お客様が思いつかれた、新メニュー」コーナーがある
と、お客様の分際も弁えずに、つい真剣に考えてしまいます。
これは、ある和食レストランでのアンケートの「新メニュー」コーナーに、実際に答
えたものです。
『親子丼』― 鶏肉と卵。あるいは、鮭とイクラ。
『他人丼』― 牛肉と卵。
続く新作は・・・『子供丼』!
出し汁で煮たイクラや数の子を卵でとじ、丼飯にのせた一品。
値段やコレステロールの問題はさておき、生命エネルギーあふれる逸品です。
残念ながら、この『子供丼』なるものに、その和食レストランでは今だにお目にか
かったことはありませんが、少なくともアンケートには答えたということで、200
円の御食事券をいただきました。ハレルヤ。
マイ丼を披露したついでに、ここでもうひとつ、私が長年、心密かに考えているアイ
ディア商品も披露してみたいと思います。それは。
『ラーメン風呂』入浴剤。
日本人の大好きなラーメン。
北は札幌ラーメンから、南は沖縄そばまで、全国津々浦々のラーメンを網羅。
ピンクがかった乳白色のトンコツ風呂や、鉄泉と紛う茶褐色の醤油風呂。
アロマ効果はもちろん、発汗作用を促すために、塩分濃度も高めです。
ラーメンと入浴剤のコラボレーション。「食べ物を入浴剤に使うのはルール違反だ」
と、周りからは反発されるのですが、みかん風呂やりんご風呂の例に倣って、ここは
ぜひどこかの会社に商品開発していただきたいものです。
と、この話の流れでいえば、扇風機も何かしらの家電製品とコラボレーションできそ
うな気がするのですが、発想力の乏しい私は、扇風機をどこから見ても「粉砕系」モ
ノしか連想できないのです。
たとえば、『シュレッダー扇風機』や『ミキサー扇風機』。子供が指を入れて危険な
のを逆手にとった製品で、恐怖の風で背筋が寒くなること間違いなし。あるいは、巻
き込みモードをお選びいただければ、無料でヘアーカットも可能な『ドライヤー扇風
機』。もはや熱くしたいのか、涼しくしたいのか不明ですが。
と。こんなつまらない事を考えながら、部屋でボーッとしている私に、今もこうやっ
て優しい風を送ってくれている扇風機。このピンクがかった乳白色のトンコツ扇風機
に感謝の意を表して、ポンコツになる最期の瞬間まで超過勤務願おうという次第であ
ります。
ハムスター無宿
tag:nagaya.tatsuru.com,2006:/yabe//11.340
2006-07-05T04:04:55Z
2006-11-05T14:09:14Z
7月6日 本格的な夏の到来に向けて、温度、湿度ともに日々上昇している、今日この頃...
uchida
7月6日
本格的な夏の到来に向けて、温度、湿度ともに日々上昇している、今日この頃。
店員さんの3ナンバー級の口車にのせられて、せっかく買った春物の服も、あまり登
場しないままに、タンスの中で、夏眠・秋眠・冬眠に入ってしまいました。このまま
永眠、という事だけは、御免蒙りたいものです。
店頭においても、衣替えはとうの昔に終わっており、あのパステルカラーの春服達は
どこへ行ってしまったのやら。今は、見た目にも爽やかで着心地のよさそうな夏物
が、王様顔で並んでいます。
そして、7月といえば、夏物バーゲン。街中で見られるSALEの四文字は、ビビッドな
サブリミナル効果を、遺憾なく発揮中です。
というわけで、他の女性と同じく、今は東ドイツの謀者のように締まっている私の財
布の口が、アンコウのそれのようになるのは、もはや時間の問題でしょう。ズボン2
着、既に購入済みです。
SALE。和名、特売。
思い出せば、まだSALEという英単語さえ習っていなかった、中学生の頃。この『特
売』という文字のサブリミナル効果のせいで、私は、あと少しで罪もない小動物を永
眠させてしまうところでした。
それは、期末テストの最終日、手は拍手・頭は白紙で、足取り軽やかに自宅に戻る途中の事。近所のペットショップの広告が、事件の始まりでした。
『ハムスター特売!! 2100円 → 1200円』
学食で売っている120円のソフトクリームでさえ、一ヶ月に一回と決めていた頃の
話です。そう、160円のソフトクリームサンデーを食べる友人に対して、頑なに心
の扉を閉ざしていた、若かりしあの頃。
900円の割引に、私の目は眩みました。
キュウヒャクエン・・・キュウヒャクエン・・・と、人魚の歌声のような甘い囁き声に誘われるままに、私はフラフラと頼りない足取りで店内に入り、一直線でレジへと直行。
店員さんとのやりとりを詳しくは覚えていないのですが、ハムスターの飼育に関して
給水器の有無をたずねられた際に、「水は、あります」と声高らかに断言して、中学
生ながらにお茶を濁した事は、はっきりと記憶しています。
数分後。ハムスターが入った紙箱を片手に呆然としていた私は、まさしく、初めて父
になってしまった男性の心境を味わっていました。嬉しい。けど、どうしよう?
たとえ安売りになっていたとしても、まさか哺乳類を買ったなどと両親に報告するわ
けにもいきません。そのような無責任な行動は、ムツゴロウ氏だって、お怒りになる
でしょう。
ましてや、畑家とは対極にある我が家。
「ともこさんは、ハムスターを飼おうと思っています。親が納得出来る言い訳を考え
て、答えて下さい。(句読点も含む。)」
字数制限がない自由答案にも関わらず、その日午前中に受けた期末試験よりもよほど難しい問題でした。
「友達の家で生まれた、ハムスターの子供をもらった」というのも一案ではありまし
たが、そのハムスターは、体は小さくても立派なアダルト。さらに、友達から頂戴す
るのであれば、事前に許可を取っていないのは、明らかに不自然です。
アダルトである事を逆手にとった、「友達の家族が、ペットが飼えないマンションに
引っ越す事になって、ハムスターを引き取る事になった」という案も、夜逃げでもな
い限り、やはり同様に事前に許可を取っていないのは不自然、という事で却下。
結局、他に名案も思いつかなかったので、古典的ではありましたが、野良動物道端拾得作戦を実行しました。ペットショップの店名が入った紙箱をエイヤっと公園のゴミ
箱に捨てて、いざ出陣。
中学生ながらに、「ハムスターが道端に捨てられていて・・・」というのは、あまり
にも信憑性に欠けているとは思いましたが、やはり思った通り作戦は失敗で、戦艦大和よりもあっけなく撃沈。作戦名が長ければいいというものではありません。
道端で拾ったなら拾ったで、それらしく泥でも塗っておけば良かったかもしれません
が、それこそ今度はネズミに間違われて、火あぶりの刑に処されていたかもしれません。あるいは都会的に、殺チュウ剤でしょうか。
そういった訳で、我が家で飼えない以上、哀れなハムスターを養子に出さねばならな
くなり、引き受け先を求めて、近所の家々を一軒ずつたずねて回る羽目になりまし
た。
「必ず幸せにするからね」と『小鹿物語』の主人公の少年に己を重ね合わせて、手中
のハムスターの不遇を嘆き、正義感に一人熱く燃えていましたが、種を蒔いたのは、他でもない自分なのですから、当たり前の話です。
が、そうなると今度は、そのハムスターが、いかに価値あるかを証明しなければなり
ません。野良動物道端拾得作戦は、むしろ逆効果となるわけですから、出身を示す
ペットショップの店名入りの箱を、先ほど考えなしに捨ててしまった事が、激しく悔
やまれました。
いくらハムスターが可愛いからといっても、そう簡単にもらい手が見つかるわけもな
し。それは、訪問販売のセールスマンが、百貨店等のカタログもなしに、ウン百万円
の高級着物を片手に、ゲリラ営業をするようなものなのです。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
心優しい隣人、ミセスTの配慮により、幸運なハムスターはT家に引き取られました。
人身売買をした私の徳だとは到底思えませんから、おそらくは、あのハムスター自身の徳だったのでしょう。
これは後から聞いた話ですが、そのT家ではたいそう大事にされたらしく、一度は身
売りに出された初代が天寿を全うした後も、二代、三代と続いていったそうです。
・・・と、結論から言えばメデタシメデタシだったわけですが、今にして思えば、親
の許可を得られなかった時点で、お詫びしてペットショップに戻してあげるのが最善
策だったのではないかと思われます。
中学生が小さなハムスターを片手に握り締めながら泣いて謝れば、「バーゲン品、返品お断り」社会のニッポンでも、例外が認められたに違いありません。
少なくとも、30歳を目前にした成人女性が、9号サイズのズボンを2本ぶらさげな
がら、「すいません。これ、やっぱりなんだかキツクて・・・」と返品願を届け出る
よりかは、容易く聞き入れてもらえたはずです。
恐るべし、バーゲン。
ヤベッチおいちゃんの失神タイ旅行記
tag:nagaya.tatsuru.com,2005:/yabe//11.339
2005-11-27T00:34:04Z
2006-11-05T14:09:14Z
行きタイの 行きタイの 飛んで行け† 数年前の話になりますが、かねてから「タ...
uchida
行きタイの 行きタイの 飛んで行け~
数年前の話になりますが、かねてから「タイに絶タイ、行きタイの」と思っていた私
は、院を修了した3月、長年の夢を実現すべく、彼の地に行って参りました。
一週間の短い滞在だったにも関わらず、色々な事がありましたので、書き出すとつい長くなってしまいましたが、秋の夜長にでも読んで頂けると幸いです。
今回の旅の舞台となったのは、古い遺跡に悠久の歴史が感じられる、古都アユタヤ。
続いて、クゥエー川にかかる鉄橋が有名な、映画の舞台となったカンチャナブリ。そ
して、言わずと知れたタイの首都、バンコクの三都市です。
道連れとなったのは、友人M嬢。全く、持つべきものは友達で、社会人だった彼女
は、わざわざ有給休暇をとって、ハードな貧乏旅行についてきてくれました。感謝。
以後、Mと記させていただきます。
決してハードな貧乏旅行が好きというわけではないのです。せっかく海外旅行に行く
のですから、「行って 財布の ヒモ締めよ」という姿勢ではなく、「贅沢は天敵」
くらいに思っているだけなのですが・・・この姿勢が悪いのでしょうか。
南国特有の高温多湿と、小学生があみ出した暗号のようなタイ文字、入国手続きのトラブル、右も左も分からずに飛び乗った電車、等々と続くと、最初の都市であるアユタヤに着いた時点で、暑さと疲労のせいで、ゴング前から早くも、二人とも失神寸前のボクサー・ジョーのような状態になっていました。
そして、目当ての宿は満室。
一時はどうなる事かと思いましたが、幸い、隣の建物でも宿泊可能との事。明らかに
民家の空室のような部屋ではありましたが、宿探し第2ラウンドに出る余裕は、もは
やボクサー・ジョーズにはなかったので、大人しくそこに決めました。
本当を言うと、バックパックを置いて、そのままマットに沈んでしまいたかったので
すが、ベッドが硬すぎるのが幸いして、沈まずに、沈めずに、次の行動に移りまし
た。
私にとって、海外旅行の宿というものは、日中に失われたヒットポイントを少しでも
回復させる所なのですが、本当にこのベッドの硬かった事、硬かった事。背骨のS字
曲線も、I字直線になりそうな背筋強制ベッド。敷布も掛布もシーツももちろんあり
ません。
一息休憩した後は、隣のちょっと洒落た木造コテージ風の宿 ― すなわち私達が当初目当てとしていた宿 ― に併設されていたレストランのテラスで、夕食をとりま
した。
トム・ヤムクンや、トム・カー・カイ(ココナッツミルクのスープで鶏肉を煮込んだ
もの)、海鮮の炒め物など、タイ旅行初日の夕食に相応しいメニューだったのです
が、いかんせん、何が具で、何が香辛料なのかも分からない状態。
とにかく、皿の中に入っているものは全て口に入れてみて、咀嚼可能だと思われるものには獅子頭のように噛み付き、顎関節の破壊が予想されるものについては、舐犢の愛を施していました。赤ん坊の気持ちが、よく分かります。アブブ。
食事後は、他の旅行客と何やら親しげに話していた現地のおじちゃんが、トゥクトゥ
クの運転手だったので、夜のアユタヤ遺跡ライトアップ・ツアーに連れて行ってくれ
ました。
トゥクトゥクというのは、モゥモゥと排煙を噴出しつつ、甲高い音をばらまきながら
走る、タイ名物の3輪の乗り物です。タクシーと違ってメーターがついてないので、
料金は交渉次第。私たちは、その夜と次の日の遺跡巡りの2日間、彼と契約をしました。
そして、このおじちゃんこそが、この旅のキーパーソンとも言うべき、ソン・モニカ
ンさんです。通称、ソンちゃま。
ソンちゃまは、年齢はおそらく40歳前後。陽に焼けた笑顔が素晴らしい、とても気
のいいタイ人でした。タイのツウな楽しみ方を色々知っている上に、英語も堪能だっ
たので、ガイドとして申し分のない働きをしてくれました。
夜になって昼間の猛暑も和らぎ、人も車もまばらとなったアユタヤは、地方都市とし
ての落ち着きを見せ、くすんだオレンジ色の街灯に照らし出されていました。
トゥクトゥクの座席部分は、5人は優に座れる程の広さがあり、日除けの天井はつい
ているものの、壁はありません。開放感あふれるとは正にこの事で、風に吹かれながら夜のアユタヤを存分に感じる事が出来ました。時々、車内から手を振ってみると、気分は皇族トモコ妃殿下。
ただ、肝心のツアーの方はというと、遺跡の広さのわりにはライトの光が弱くて、遺
跡・ライト・アップというよりも、遺跡・ウィズ・ライトといった印象でしたが、あ
まりよく見えなかった分、翌日のアユタヤツアーが楽しみなものとなりました。
宿に帰ってきて、期待に胸を躍らせながら、背筋I字強制ベッドの上で横になった私
達。明日もハードな一日になるであろうと、熟睡を決め込んだのでありますが、そう
は問屋が卸しません。
夜は静かだったから気付かなかったのですが、薄い壁をはさんで、私のベッドのすぐ隣に、鶏小屋があったのです。それも、ペットの鶏子ちゃんのオウチ♪といった可愛いものではなく、まさしく闘鶏選手の控所。
明朝。日の出と共に、ついに控所内の混声合唱団が沈黙を破り、活動を開始し始めたのです。
耳元のすぐ傍で、バスからソプラノまで、マライア・キャリー張りのフル音域でけた
たましく鳴かれるのですから、たまりません。しかも、この団員達は、すぐに喧嘩を
始める上に、「嫌いなヤツはムシ」という、人間だったら幼稚園児でも持ち合わせて
いる社交テクも使えないのです。
あまりの騒々しさに、それこそ背筋I字強制ベッドでも放り投げて、一投両断といき
たかったものの、団員達は、野良鶏ではないので、残念ながらそれも叶わず。
部屋の反対側のベッドで寝ているMも、このとんでもないモーニングコールを無視す
る事も出来なかったようで、朝食時、バミー・ナーム(中華麺の汁そば)を食べなが
ら、眠そうに目をこすっていました。
いよいよ、アユタヤの観光が始まるわけですが、その前に、アユタヤという都市につ
いて、少し説明させていただきます。
アユタヤは、バンコクの北約80km、川の中州にある町で、14世紀半ばから400
年もの間、5つの王朝、35人の王が君臨したタイの古都です。ただ、18世紀に
入って、ビルマ軍に侵略された際に、建造物や仏塔、仏像の多くは徹底的に破壊さ
れ、完全に廃墟と化してしまいました。
ただし、最初に訪れた史跡は、アユタヤ遺跡全体で見れば比較的保存状態も良くて、すらりと並ぶ座仏像、そしてかつては黄金に輝いていたという高くそびえる仏塔が、共に壮観でした。上から降ってくる蝙蝠の糞を、マリオ・ルイ―ジ兄弟のように
シュッシュッと避けて、クールに観光。
それにしても、恐ろしきは熱帯の猛暑。史跡を一箇所回ったというだけなのに、第一
ラウンドから早くもぐったりしてしまいました。
広々とした草原に並ぶ遺跡群の一番奥の何もない場所に、いきなりデーンと横たわる全長約30mもの寝釈迦像を見て、「仏様もダレるんだなぁ」と妙な親近感を覚えま
したが、これは釈尊入滅時の姿勢との事。心頭滅却の釈尊が、地界の暑さごときに負けられては困ります。
ソンちゃまが気の毒に思ってか、瓶コーラを奢ってくれましたが、睡眠薬投入→犯罪
という図式を恐れて、ソンちゃまが飲むのをしっかりと見届けてから、警戒しつつ飲
みました。Mが私の前に飲んだか、あるいは後に飲んだかについては、今後の人間関係を考慮して言及しないでおきましょう。
次に訪れたのは、史跡とは何も関係のない、何故か大量のナマズがひしめきあっている川岸でした。鯰に瓢箪、と言いますが、あれだけいたら、瓢箪はおろか蛸壺でも絶対に掴めたはずです。
観光客が食べ物を投げ入れる度に、飛魚と化すナマズもあれば、争う物は中から取るというナマズもあり。年甲斐もなくはしゃいでいた私たちに、ソンちゃまが餌のパン
を買ってきてくれたのですが、「別に見ているだけでも楽しかったのに」と、Mの冷
静な呟き。
また、ソンちゃまは、観光客がいかにも喜びそうな、象に乗れるという一角にも連れ
て行ってくれました。
しかし、乗象一回2000円。タイ語はろくに話せなくても、イッチョマエに金銭感
覚だけはタイ人と同じになっていた私たちは、「高い」という単純かつ明快な理由
で、これをお断り。
「本当に日本人かしら」とソンちゃまに疑われていたかもしれませんが、彼はそのよ
うな態度を噯にも出さず、それならば、と入場無料の象の保護繁殖地に連れて行ってくれました。
保護繁殖地というだけあって、前後左右、四方八方のそこら中に有象有象の集まり。
ガイドブックにも掲載されていなかったので、本来は立ち入り禁止だったのかもしれ
ません。
幸運な事に、数週間前に生まれたばかりの小象もいました。私の手を長い鼻でクルンクルンと巻いて口に持っていこうとする姿が、何とも言えず可愛い。パオパオ。実を言うと母象を刺激しないかと内心冷や冷やしていたのですが、彼女は食事に気をとられていたようで、鼻依り団子。そういえば、そろそろ私たちも、昼食の時間。よし、行くゾウ。
ガイドのプロであるソンちゃまの事ですから、今まで数多くの日本人に洒落たレスト
ランを紹介してきたのでしょうが、同時に私たちのお財布事情も既によく理解してい
た彼は、お寺の裏手にある青空食堂に連れて行ってくれました。
ソンちゃま御墨付きのカーオ・パッ・カイ(タイ風チャーハン)は、さすが現地の人
が、「美味しい」と言質を与えるだけの事はあって、山盛りだったにも関わらず、ペ
ロリと平らげてしまいました。アローイ(美味しい)。
タイ料理は、それほど日本に浸透していませんが、私たちの口にとてもよく合うと思
います。アメリカでは本場の味が安価で楽しめたので、よくタイ料理を食べに行きま
した。アメリカ人に「アメリカ料理で好きな食べ物は何?」と質問されて、「タイ料
理」と答えていた私は、日米安膳保障条約に反していたかもしれません。
昼食の後は、遺跡巡り再開です。
あるお寺に安置されていた、スリランカから渡ってきたという仏像を見た時は、その
美男子ぶりに驚かされました。グリグリしたフジツボのような髪でさえ、チャームポ
イントに見えてくるから不思議です。
しかし、このようにきちんと保存されている仏像はごく少数で、遺跡のほとんどの仏
像が、頭部だけが切り取られたまま、痛々しい姿で野ざらしにされていました。大部
分の仏塔も、苔生したレンガ積みと成果てていましたから、当時のビルマ軍の破壊行為の凄まじさは、筆舌に尽くし難いものだったと思われます。
先時、仏様に向かってイケメン発言をしていた私たちも十二分に罰当たりですが、木の根に取り込まれてしまった仏様の頭と記念写真を撮っている観光客に交じる気には、どうしてもなれませんでした。
遺跡見学の途中、熱帯地方名物のスコールにも遭いました。ただ、その時は、幸いな事に王宮跡の敷地内。ザボンという巨大なハッサクを食べながら待機していました。
ドリフのコントのように、バケツで水をかぶるような羽目にならなくて良かったで
す。ザッボーン。
王宮跡の次に訪れた所は、ガイドブックに載っていないほど、風化が進んで廃墟と化していました。ゲームの主人公の勇者を気取っていましたが、野良犬の群れに遭遇した途端に、「逃げる」のコマンドを迷わず選択した私たち。手始めに自分たちの身は救ったわけですが、世界を救えるのはいつの日か。
アユタヤに限った事ではないのですが、至る所で群れている野良犬には、本当に辟易しました。暑さのためでしょうか、皮膚病に侵されている犬達も多く、日中の暑さの
ためにグッタリしている図は、ちょっとした世紀末の様相。
夕方から翌朝にかけてが、彼等の活動時間で、基本的行動はコンビニ近くでタムロしている現代の若者の群と大差ないのですが、中には維新志士のような目をして、エドならぬヒト幕府を倒幕せんとばかりの浪犬もいました。佐幕派の私は、彼等に一吠えあびせられる度に、震度7の武者震い。命に換えても、生きるべし。
遺跡巡りの最後には、チェディという白く塗られたピラミッドのような建物の頂上に
上がりました。地平線の向こうに沈み行く真っ赤な太陽と、静かにそして厳かに、夕
陽に照らし出されたアユタヤの遺跡。
幾人の王が夢を追い、また、夢に敗れていったのかと考えると感慨深いものがありました。・・・いくら疲労が限界にきていたからといって、足裏マッサージなど言語道
断。はい。今後、道断します。
それにしても、アユタヤ観光がこんなに楽しかったのは、ひとえにソンちゃまのおか
げでした。
次々とオススメの場所に連れて行ってくれては、「シーユーアゲイン」と立ち去っ
て、私たちの観光を決して邪魔せず、そして戻るのがいくら遅くなっても、嫌な顔ひ
とつせずに待っていてくれるのです。哀れ 損ちゃま 待てど海路の日和無し。
といっても、彼は元来人好きなのでしょう。タイ語の知識はないので、詳しいやりと
りは分からなかったのですが、知り合いでもない現地の大人や子供たちとすぐ打ち解けて話したり、遊んだりしていたので、待ち時間もそこまで苦痛ではなかったのかもしれません。
悠久の歴史を感じた後は、キュウキュウの空腹を抱えて、ソンちゃま御推薦の地元のレストランへと向かいました。
英語のメニューもありませんから、彼にオーダーをおまかせしたところ、タイスキと
クン・チェー・ナンプラー(エビのサラダ)とカーオ・スアエ(ご飯)が出てきました。
タイスキとは、しゃぶしゃぶ風の鍋料理。ソンちゃま、グッドチョイス。地元の人に
も人気だそうで、ダシがしっかり効いたスープに具材の旨味も加わって、これは心に
残るほど美味でした。
しかし、実はサイドディッシュとして涼しい顔で出てきたエビのサラダの方が、本当
に心に残った・・・というより、精神的外傷を負わされました。今思い出しても、こ
のサラダに仕込まれた激辛ドレッシングは、ソンちゃまへの慰謝料請求に値するほどでした。
エビを口の中に入れた時点で、エンジン点火。一噛みで、ロケット発射。二噛みで気
圏突破。Mが先に口をつけたのか、それとも私だったのか、この時に関しては定かではありませんが、コンマ数秒で、両人ともほぼ失神状態に陥り、宇宙空間で浮遊していました。
「ひふほんははひほふはっはっは。(水飲んだらひどくなっちゃった。)」
「ほははいほうあいいひはいあお。(飲まない方がいいみたいだよ。)」
「はいふひおふうふえふひはおひふうあ。(タイスキのスープで口直しするわ。)」
「はいほうう?(大丈夫?)」
「!!!!!(あつっ)」《←閉まらない口から、こぼれおちるスープ》
お互いに必死で交信を試みるも、もう遅い。後の祭り、ピーヒャラヒャ。目、口、鼻
の穴も毛穴も、完全に開きっぱなしです。あな辛し。
ソンちゃまに聞いたところ、タイ語で、「辛い」を「ペ(ット)」と言うそうなのですが、宇宙空間に浮遊している私たちは、ペ・ヨンジュンのファンの皆様に劣らない、まさしくペペペ・コールの嵐でした。
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
ペペペペペペペペペペペペペペペペペペペペ
これだけ「ペ」が並ぶと、何だかハングルのようにも見えますが、汗流どころの騒ぎ
ではありません。涙、ヨダレ、鼻水は、とどまるところを知らずに次々とあふれ出て
くるので、トイレットペーパーで体内から噴出される水分を処理しては、机の上に白
い雪山を作っていました。
自分達で、この雪山の処理をした記憶はありませんから、おそらくウェイターの人が
片付けてくれたに違いありません。気の毒ではありますが、それは苦しむ私たちを見て笑った罰です。
大人しく一口で止めておけば良かったのに、悲しきは貧乏性。このサラダが、もしも
野菜だけだったら、もうそれ以上は食べなかったと思うのですが、サラダの上に鎮座
しているエビ七福神 ― ただし、全て憤怒の毘沙門天 ― を、食べずにはいられ
なかったのです。
そうはいっても、エビを二匹食べた時点で起こったビッグバン。もしも、一皿平らげ
ていたら、レストランの隣にあった川に、間違いなく二人して入水心中していた事で
しょう。凡人ごときが、毘沙門天様に敵うわけがないのです。
宇宙から帰還した飛行士のごとく、フラフラしながらレストランを後にすると、ソン
ちゃまがにこやかにお出迎え。
人生初の宇宙遊泳の報告に、彼は大笑いしていましたが、ビールを奢ってくれたの
は、彼なりの罪滅ぼしだったのかもしれません。ひょっとしたら、食い逃げならぬ、
乗り逃げを危惧しての事だったかもしれませんが。
本当を言うと、その夜でソンちゃまとはお別れのはずだったのですが、彼のおかげで本当に楽しいアユタヤ観光が出来たという事で、アユタヤからカンチャナブリ、カン
チャナブリでの観光、カンチャナブリからバンコクまで、とさらに3日間、契約を延
長しました。
翌朝も、やはり、お隣で騒ぎ立てる闘鶏選手達に対して、M共々、コメカミ筋肉運動
を行う羽目になりました。が、朝食のカーオ・トム・カイ(鶏肉入りタイ風雑炊)
に、彼等の仲間が犠牲になっているのを見て、庭鳥の鶏も大変なのだと、ヒトツマミ
の同情。
そして、朝食後。楽しかったアユタヤに別れを告げ、第2の訪問地であるカンチャナ
ブリへと出発しました。
私たちは、てっきり先日のトゥクトゥクでカンチャナブリまで行くと思っていたので
すが、なんと大サービスで、ソンちゃまが自身の御車を出してくれました。実際、トゥクトゥクでの移動だったら、道中の排気ガスに燻されて、黒い燻製になっていた
かもしれません。
ちなみに、ソンちゃまのプライベート・カーは、イスズのトラック型。「イスズは、世界一だ」と彼が力説する通り、タイではイスズの車を頻繁に見かけました。
車といえば、日本で廃車となった車が輸出されるという話を聞いた事があるのです
が、どうやらそれは事実らしく、「JR京都駅行き」という、まさにネコバスを越えた奇跡のバスが、国境など全くお構いなしに、何くわぬ顔で走っていました。
しかし、計器がどれ一つとして機能していない、ソンちゃまのイスズ号も、ある意味、奇跡の車と言えました。
確かに、ソンちゃまの運転は、恐怖の高速スピードだったので、速度については、知
らぬが仏だったかもしれません。走行距離も、車の実年齢が知れてしまうため、これ
も知らぬが仏。しかし、ガソリンのチェックさえ出来ないと聞いた時には、さすがに
仏転びしそうになりました。
ドライブ中は、せっかく英語である程度の意思疎通は図れたのですから、国際理解につながるような話でもすれば良かったのに、熱気にやられている3人の精神年齢は幼稚園児くらいにまで低下しており、「ババボボ(馬鹿)!」「コーホー(嘘)!」と
か言い合っては笑っていました。
ソンちゃま選曲のタイ音楽を聴いたり、タイ語講座を開いてもらったりする事、約3
時間。無事に、イスズ号は、カンチャナブリに到着しました。ドリアンチップの食べ
すぎで、途中気分が悪くなったりもしましたが、それは自業自得というもの。ソンちゃまの荒い運転のせいにしてはいけません。
カンチャナブリは、映画『戦場に架ける橋』で一躍有名になった町です。第二次世界
大戦中、現地の人々や何万人もの連合軍捕虜の犠牲のうえに、日本軍は泰緬鉄道を建設したわけですが、郊外にあるクゥエー川鉄橋も、悲劇の歴史を今に伝えています。
しかし、その様な過去が信じられないほどに、峠から見下ろしたクゥエー川はとても
雄大で、「フ」「レ」とまではいかずとも、「つ」「し」の字よりも見事に蛇行していました。
川の流れは速かったですし、川幅も広い上に水深も深そうに見えたのですが、ライフジャケットを着けた子供たちが、飛び込んでは、楽しそうに流されていました。日本
だったら、絶対に「飛び込み禁止」の看板が出ていると思います。
そんな恐れ知らずな子供たちを眺めながら、ふと、中国の奥地に旅行したという、あ
る友達の話を思い出しました。
何でも、川が増水して危険だったにも関わらず乗ったという、船上での出来事。他の
客が、川でバタバタと溺れている人を発見して騒いでいたら、乗組員が「彼は、もう
死んでいる。」と言って、放置したというのです。
秘孔を突かれたわけでもあるまいし、生きていなければ、バタバタする事など出来る
はずがないのに。緊急時で、どうする事も出来なかったのかもしれませんが、今で
も、中国の奥地と聞くと、どうしても身構えてしまう私です。アチョー。
さて、肝心の鉄橋ですが、ここで私たちは、『スタンド・バイ・ミー』の名シーンを再演する羽目になりました。
本当は、まだ旧泰緬鉄道の一部を走っているという列車に乗る予定だったのですが、私達が昼過ぎに着いた鉄橋付近の駅には、列車や搭乗者の気配が全くありませんでした。
時刻表と思しき紙を解読した結果、どうやら、その日の最終便はもう出て行ってしまった模様。残念。しかし幸いな事に、ガイドブックに線路は歩行可能とあったの
で、土産物屋を覘いた後、とりあえずは鉄橋方に向かって歩き出しました。
晴天の下、右手に雄大なクゥエー川を見ながら線路を歩いていると、幼き日のリバー・フェニックスのような気分になってくるではありませんか。スタン・バーイ・ミー
♪
リバー・フェニックスだなんて、オコガマシイのは百も承知ですが、こんな時にわざ
わざ給食費窃盗犯になりたいという人は、なかなかいないでしょう。隣で意気揚々と
歩いていたMだって、その心はきっとリバー君だったはず。
そして数十分後、自称リバー君二人は、ある事実にハタと気がつきます。
先ほどの土産物屋は、すっかり小さくなってしまっているし、線路下の敷木の隙間か
ら見える地上は、なんだかやけに遠い。
雀の額ほどの勇気しか持ち合わせていなかった二人は、海水浴でブイの方まで出てきた時のような不安感を覚え、一気に引き返しモードへとシフト・チェンジしました。
しかし!!
これぞ劇的、とでもいいましょうか。レールが小刻みに振動し始めると同時に、向こ
うからやってくる列車の姿が視界に入ったのです。
最初はダンゴムシ大でも、次の瞬間には、イモムシ大。ボヤボヤしていたら、モスラ
大の列車に轢かれてしまいます。モスラは、正義の味方なのに。
といっても、自分たちは、鉄橋の上。下に逃げるのも決して得策とは思えず、かと
いって、塩狩峠になるのは御免蒙りたい。
わりと近くに空き地があったのは、単なる偶然だったのか、それとも神様の思し召し
だったのか。とにかくそちらに飛び込んで、事無きを得ました。セーフ。
「あれが、最終列車だったんだね。」などと、命拾いした事を喜んでいると、熱さも
喉もとを過ぎてしまい・・・再びスタンド・バイ・ミー行進を始めてしまった二人。
そして数十分後、自称リバー君二人は、ある事実にハタと気がつきます。
先ほどの土産物屋は、もはや見えないし、線路下の敷木の隙間から見える地上は、文字通り、遠い。
猫の涙ほどの勇気しか持ち合わせていなかった二人は、海水浴で沖の方まで出てきた時のような不安感を覚え、一気にご帰宅モードへとシフト・チェンジしました。
しかし!!
これぞ劇的、とでもいいましょうか。レールが小刻みに振動し始めると同時に、向こ
うからやってくる列車の姿が視界に入ったのです。
最初はダンゴムシ大でも、次の瞬間には、イモムシ大。ボヤボヤしていたら、モスラ
大の列車に轢かれてしまいます。正義の味方、モスラの犠牲。
といっても、自分たちは、鉄橋の上。下に逃げるのも決して得策とは思えず、かと
いって、塩狩峠になるのは御免蒙りたい。
わりと近くに空き地があったのは、今度こそ、単なる偶然だったと思います。とにか
くそちらに飛び込んで、事無きを得ました。セーフ。
こうして、川の上での惨事だったにも関わらず、私たちは二度の危機を乗り越えて、
不死鳥のごとく、無事に土産物屋の所まで舞い戻りました。我等こそ、まさしくリ
バー・フェニックス。ビジュアル面は、どうぞ平にご容赦下さい。
さて。どうも話が長くなってしまいましたが、カンチャナブリでは、鉄橋以外にも、ソンちゃまのマル秘スポットである、滝つぼにも連れて行ってもらいました。
そこは、まさに天然の巨大プール。本当は、現地の子供たちに混じって、ビショビ
ショになって遊びたかったのですが、着替えも、タオルも、水着も、原始の姿に戻る
度胸もなかったので、惜しくも断念しました。
それでも、くつを脱いでズボンをまくり上げ、行けるところまで、いざ出陣。排水の
陣。
はしゃぐ私たちを、しばらくは傍で心配そうに見ていたソンちゃまでしたが、おそら
く内心は、「コケるなよー。コケてもいいけど、濡れたまま俺の車に乗るなよー」と
思っていたに違いありません。数日間、一緒だったというのに、信頼ゼロです。
しばらく遊んだ後は、せっかくだから、記念に写真を撮ろうという事になりました。
しかし、我等のお抱え運転手兼カメラマンは、遠くの安全地帯に避難しており、地元
の大人方とのおしゃべりに忙しいようで、何の役にも立ってくれません。かといっ
て、裸でハシャギ回っているお子様達には、どうも頼みにくい。
すると、運良くアメリカ人の白人の娘さんを発見したので、「あの・・写真・・」と
声をかけると、「ダディー!ダ・ディ!!ダーディー、ハリー!!!」。
別にダーティ・ハリーでもあるまいし、わざわざ父親を呼ばずとも、シャッターボタ
ンを数ミリ押すだけの仕事。汚い仕事でも何でもなかったのですが、頼んだ側として
は、もちろん大人しく待つより他はありません。
そして登場したダディは、我々の予想に反して、超スマイル。
「彼女のピクチャー? オゥケイ、オゥケイ。 存分に撮ってくれたまえ。」
それは、勘違いデース。確かに発育はいいかもしれませんが、別にタイにまで来て、
15歳そこそこの白人の子の水着ショットなど、要りません。しかも、ダディ、父親
としてそこでオゥケイしていいの?それとも、あなたはマネージャー?
一瞬、目がドットになりましたが、「えー、それじゃあちょっと失礼致します。」
と、控えめに一枚だけスナップを撮らせてもらいました。皆さんも、芸能人に写真を
撮ってもらう時は、お気をつけて下さい。
その夜は、カンチャナブリの川べりの、橋に灯る明かりが何ともロマンチックなレス
トランで、夕食をとりました。
ソンちゃまとも、明日でお別れです。この時ばかりは、普段はオバカな事ばかりしか
言っていない3人の間にも、ちょっとシンミリとした空気が流れました。
しかし、最後の夜という事もあって、いつにも増して熱烈なソンちゃまのラブコー
ル。
実を言うと、カンチャナブリまでのドライブの道中から、私に対して、ソンちゃまが
明らかな好意を示してくるようになっていたのです。
もちろんこちらはお客ですから、決して不快な事はしてこないのですが、明白な意思
表示は、迷惑千万というもの。警察一一〇番、迷惑一〇〇〇番。
最初のうちは、大人の礼儀だと思って、いちいち笑顔で反応を返していましたが、長
くは続きません。
最後の方は、面倒臭くなって、自分の苗字(モニカン)と、私の名字(トモコ)を勝
手にくっつけて、「トモコ・モニカン♪」と鼻歌で歌われても、流しソウメンのよう
に冷たく聞き流していました。
「チャンラッター(愛している)」と言われても、無視、虫、蟲。オバQの弟のオー
次郎でもあるまいし、何回も繰り返さないで頂きたいものです。タイ語で愛の告白を
受ける事なんて、人生でもう2度とないのでしょうが、「オジ様と私」を地で行くつ
もりもありませんでした。
そして、助けを懇願しなかった私が悪かったかもしれませんが、ライオンのタテガミ
のようになっている私の髪を指しながら、「これで、恋愛に髪は関係ないという事が
分かったね」という、冷静かつ無礼なMの助け舟は、終日、停泊中。
最後の晩餐でも、何を言われたのか詳しくは覚えていませんが、テーブル向こうの我が友人の目の奥に、助け舟の碇を引き上げて、全力逃走しているユダの姿が映っていた事だけは、今でもしっかりと覚えています。
船といえば、カンチャナブリで泊った宿は、川に浮かぶ筏のような板の上に建てられ
ていました。優雅な水上コテージをイメージしての事でしょうが、そこはやはり安宿
の話。
陰気臭いバスルームで、マックロクロスケのようにガサガサと移動する、ゴキブリや
名も知らぬ虫たち。
彼等の行く先を、サツキやメイのように好奇心いっぱいに追って行くには、残念なが
ら、私もMも年を取りすぎていました。天井で回転している巨大扇風機のトドロは聞
こえても、トトロは見えません。
だからといって、壁紙の模様の一部のように張り付いている大量のイモリ達を、笑っ
て焼いて食べるような経験値もありませんから、出来る限り余計な事は考えずに、
サッサと寝る事に専念して、カンチャナブリの夜を大人しく過ごしました。
さて、一夜明けて、最終目的地・バンコクへ向けて出発です。
イスズ号の後ろの荷台に寝そべって見た、真っ赤に燃える朝日があまりにも綺麗で、思わず涙法師になりそうでした。が、幸い、ソンちゃま必殺の恐怖の高速スピードが、涙防止に一役買ってくれました。
カンチャナブリからバンコクまで、決して短い距離ではなかったのですが、途中、凄
腕ガイドの計らいで、水上マーケットとスネークパーク、それにローズガーデンに寄
る事になったので、こちらも楽しい行程となりました。
タイ政府が、文化保存と観光客誘致のために開発したという、水上マーケット。観光
客用、あるいは商売用の小船が、縦横に張りめぐらされている水路に所狭しと浮いており、水路の両岸には土産物屋や雑貨屋が並んでいて、大変賑わっていました。
私たちも、小船をチャーターして、水上からその風情を思う存分楽しみつつ・・・豚
の串焼き、ラーメン、ココナッツパンケーキ、ココナッツ、マンゴー、ドリアンな
ど、それはもう一心不乱に食欲を満たしていました。イム(おなかがいっぱい)!
ここで売られている食べ物は、特にタイ国内でも衛生面に問題があると後で聞いたのですが、時すでに遅し。我が身が一身腐乱にならずに済んだのは、先日のエビ毘沙門天様の御加護があったからに違いありません。ありがたや、ありがたや。
スネークパークでは、巨大でヘビー級な蛇や、蛇遣いのお兄さんのテクニック・勇気
に対して、「おおっ」「そこまでするかっ」「なんとっ」と、月並みなテレビレポーターのような反応をしていました。
そしてここでは、念願の、蛇とマングースの決闘ショーを観る事も出来ました。
何故、この決闘ショーが念願だったかといいますと、以前、沖縄に旅行した時に観る
予定だったのに、動物愛護協会の要請か何かで、前年に中止されてしまっていたから
なのです。
マングースは爪を、そして蛇は頭をスウィングさせて、白熱の戦いを繰り広げてくれ
るはずが、変わりに行われたのは、スウィミング・ショー。それは、水をはった5
メートルほどのプラスチックのケースに、マングースと蛇を別々に放ち、どちらが速
く泳ぎきるかというものでした。
ここはもちろん、やはり同類、哺乳類のよしみで、マングースに肩入れ。
確か、途中までは蛇の方がウニョーッウニョーッと優勢だったのですが、ゴール間際
になって、ウニョウニョ・・ウニョ・・ウニョッ?ウニョッ?と一本道にも関らず、
摩訶不思議な迷子現象を起こしたために、マングースが勝利したと記憶しています。
しかし、スネークパークで、蛇もある程度は仕込めるという事を知りましたから、
ひょっとしたら、あのウニョッ?も実は演技で、スウィミング・ショーは八百長だっ
たかもしれません。
決闘ショーは、マングースと蛇が牽制し合うだけではありましたが、なかなか見応え
がありました。ただ、タイでも、いつ何時、生類憐みの令が発令されるか分からない
ので、まだ御覧になった事がないという方は、どうぞお早めに。
ローズガーデンは、外国人観光客向けに造成された総合観光レジャー施設。ここで
は、我々も大人しく、外国人観光客の肩書きに相応しく振舞い、伝統舞踊やムエ・タ
イの模擬試合、象の曲芸、タイ式の結婚式などを観させてもらいました。
もしも日本でも、このような外国人観光客向けの総合観光レジャー施設を造るのであれば、日本舞踊に相撲、猿の曲芸、神前結婚式という形になるのでしょうか。
しかし、ただでさえ、不景気でアミューズメントパーク業界は厳しい時代。こんなあ
りきたりなコンセプトでは、ラッセル・クロウの操縦する『ベン・ハー』の戦車のご
とく、ミスター・苦労の操縦する火の車が、園内を蹂躙する事になるでしょう。経営
者も大変です。
そして、たどり着いてしまったバンコク。とうとう、ソンちゃまとも涙のお別れです。
4月には「水かけ祭り(3日間にわたり街全体が水浸しになるほどの大騒ぎになると
いう、国をあげてのお祭り)があるから戻っておいで」という、嬉しい言葉をもらい
ました。いつか、今度は廃水の陣を敷く覚悟をして、行ってみたいなと思います。
コープクンカー(ありがとう)、ソンちゃま。トモコ・モニカンにはなれなかったけ
ど、本当に楽しかったです。ラコォーン(さようなら)、ここからは、自分たちだけ
で頑張ります。
というわけで、文字通り、自分たちの足で回ったバンコク。この街は、ちょうどその
中心を流れるチャオプラヤー川によって、東西に分断されています。行政域にとして
はかなり広いらしいのですが、我々は旅行客が集まる王宮周辺を主に徘徊していまし
た。
王宮周辺は、王宮はもちろん、寺院や大仏塔など観光名所が目白押しの、荘厳にして華麗なエリアだそうで、街中を歩いていると、天を突くように立ち並ぶ塔がよく見え
ました。
時間の許す限り、ガイドブック片手にこれらの名所を色々と回ってみたのですが、と
にかく色鮮やかで過剰なほどに装飾も派手なものばかり。ただ、それにもきちんとタ
イ仏教の宗教的意味があるという事なので、奥深い。同じアジアでありながら、日本
とは違うのだと改めて思いました。
全長49メートル、高さ12メートルという、アユタヤのそれとは比べ物にならない
ほど巨大な大寝釈迦仏にも肝を抜かれました。螺鈿細工の施された仏像の足の裏は、異常な偏平になっていて、土踏まずがありません。これは、土を踏まずに歩けるという意味で、その人が超人であることを示す身体的特徴のひとつなのだそうです。偏平足の人に、朗報。
バンコクの慢性的な渋滞緩和のために、運河を利用した公共交通機関としての運河ボートにも乗ってみたのですが、観光用ではないために、途中に大した見どころはありませんでした。さらに、市内の運河ははっきりいってドブと大差のない状態で、水はかなり汚れていたのが残念。
世界のバックパッカーが集まるカオサン通りの宿を選んだので、その周辺の大衆食堂や屋台をよく食べ歩きました。パック・ブン・ファイデーン(空心菜炒め)、プラー
・トート(魚の揚げ物)、カイ・ヤッサイ(タイ風オムレツ)、ゴイシーミー・サイ
・ムー(しょうゆ味のあんかけ麺)、トート・マン・クン(エビのすり身の薩摩揚げ
風)等々、本当に美味しかったです。
続いて、ドリアンにスイカ、ココナッツ、マンゴー、パパイヤ、ランブータン、パイ
ナップル、ランブータン、ジャックフルーツ・・・何を食べたのか、私個人の日記帳
に書いてあったものを写したのですが、それにしても食べすぎですね。
ところで、この世界のカオサン通りで、私たちに選ばれし宿は、かつては監獄だった
のかと疑ってしまうような狭さ、暗さ、味気無さでした。あんな所に閉じ込められた
ら、日付さえ分からなくなって、「ハッ、キョウは・・・」と発狂してしまうに違い
ありません。
一応、アユタヤとカンチャナブリでのお宿は、安宿とはいえ、部屋の中にシャワーと
トイレがついていました。
「シャワー・トイレ付とは、豪華な部屋じゃないか」とおっしゃる方がいるかもしれ
ませんが、もちろんそんな事はありません。カタカタと音を立てるシャワーヘッドか
らは水しか出ませんでしたし、傍にあるタイ式トイレも、これぞ魔界への入り口と
いったような不気味さ。
このタイ式トイレ。水洗といえば確かに水洗なのですが、隣に設置されてある水槽か
ら水を汲んで手動で流すという仕組み。トイレットペーパーの代わりにも、この溜め
水を使うらしいのですが・・・
結局、順応力の低い私たちは、トイレットペーパーのロールを、仲良く一人に一つず
つ持ち歩き、街中で中級ホテル(さすがに高級ホテルは不可能でした)を発見した時
は、ちょっと身なりを整えて、洋式トイレを拝借。散切頭で、西洋文化の恩恵を被っ
ていました。
水分補給についても、最初のうちはエビアンなどの西洋飲料水を飲んでいました。気付かないうちに、途中からはタイメーカーのものに変わっていましたが、たとえ汚染の可能性があると言われても、とにかく多量の汗をかくために、何度も何度も水分補給をしなければいけなかったのです。
遺跡だろうとお寺だろうと街中だろうと、とにかく歩き回る。そのうえ、私たちが利
用した宿や食堂ではエアコンなるものがなかったので、本当に日夜関係なく発汗して
いました。最近では、デトックスと呼ばれる毒素排出健康法が巷で流行しています
が、あの時の私たちは、まさにその先駆けだったと言えるでしょう。
アメリカでのプロテイン・ダイエットなど、健康維持に流行があるというのは、変な
感じもしますが、私も腹巻(発汗を促す素材の腹巻)ダイエットが流行った時に、そ
の安物の着物帯のようなものを買ってしまったクチなので、人の事は言えません。
ちょっと前までは、母のお腹に巻かれているのを見たのですが、今は何処でしょう
や。
健康維持は、日々の己の意識の持ちよう如何であるという事は重々承知しています
が、タイに来た良い機会なのだから、タイ式マッサージを受けてみようという事にな
りました。
街中にもたくさんマッサージのお店はあったのですが、せっかくだからとタイ式マッ
サージの総本山といわれるお寺に行く事に決定。
マッサージというとどうも個室のイメージが強いのですが、そのお寺では、広い会場
にマッサージをする人と受ける人が一堂に会していました。一応、背の低い仕切りが
あったので、それに従って、それぞれの組が配置されるという形。
そして、扇風機の回る入口で待つ事、30分。
巨漢(女性です)のマッサージ師が、不機嫌にも見える顔でヌッと突如現れ、Mを連
れて去って行きました。誘拐されている気にでもなったのでしょう、ワラにも縋る思
いで私の方を何度も振り返る彼女。申し訳ありませんが、ワラワだって怖いから嫌で
ございます。
と、私の前に現れたのは、小柄で優しそうなマッサージ師。席替えで好きなコの隣に
なった時のごとく、心の中でポパイのようなガッツポーズを決めて、彼女にヒョコ
ヒョコとついていきました。よろしくお願いいたします。
手渡されたブカブカのズボンに着替えて、いよいよ施術スタートです。
タイ式マッサージはアクロバティックであるという予備知識はあったのですが、体を
足で押さえられたり、引っ張られたり、全身で押さえ込まれたりする私の姿は、まさ
しく悪役のプロレスラー。
もっとも、施術をしてくれているマッサージ師が、細身の可愛らしい人だったので、
そう思ってしまったのかもしれません。巨漢のマッサージ師と、身長14○センチの
Mの場合だったら、明らかに、単独リンチの図だったはずです。
ところで、女性のお客には女性のマッサージ師が付くと思っていましたが、私の隣の
仕切りでは、男性のマッサージ師が西洋人のおばちゃんを相手にしていました。
彼が何かする度に、おばちゃんはその悦楽を大声で叫ぶのです。聞いているこちら
も、彼女のプライベートな一面を覗いているようで、すごく恥ずかしい。さらに彼女
は、マッサージのプロである彼に、施術についてあれこれと要求したりもしていまし
た。
私自身もまな板の上の鯉だったので、決して見られた状態ではありませんでしたが、マッサージの施術中、目は隣のおばちゃんに釘付けでした。他のマッサージ師の方々も、声にこそ出さないものの、苦笑い。
しかしながら、サービスを受ける際に、あのように自分の意見をしっかり言える彼女
は、ある意味で立派なのかもしれません。実は、私もちょっと痛い時が何度かあった
のですが、最後まで何も言えなかったのです。
そういえば以前、格安エステ体験なるものに行った時にも、「くすぐったい」という
一言を言えずに、心臓マッサージの要領で左脇上のリンパ腺のところを押さえられ
て、笑うせぇるすまんのような笑顔を浮かべながら、脂汗をかいていた私。
続く右脇は、目黒さんのような顔色になりつつも必死になって我慢しましたが、まる
でとどめのように両脇を一度に押さえられた時は、耐え切れずに、どーん!とエステ
ティシャンのお姉さんを突き飛ばしそうになりました。
マッサージやエステといった特別なサービスに限らず、美容院でのシャンプー時に目
隠しの布を乗せられる際でさえ、瞼を開けておくべきか閉じるべきか、いちいち考え
てしまう自分が、嗚呼、情けない。
カッと目を開けたまま布をかけられるのも、世に未練を残した遺体のような気になり
ますし、そうかと言って、目を閉じて布がかけられるのを待つのも、眠り姫を気取っ
ているようでイヤ。
サービスを楽しむためには、サービスを受ける側にもそれなりの心構えがいるので
す。それが対人であればなおさらです。
例えば、チヤホヤ度も金額次第、夜の世界のホストのお兄さん達によるサービス。連ねられた美辞麗句がお世辞だと分かっている以上、糠に釘のような反応になるのは、当然の話。それでも、先方に気を遣って、無理して喜ぶフリをしたところを、「あいつ、喜んで馬鹿じゃないの」などと陰口で言われたりしたら、それこそ、ホストの額
に五寸釘です。
そうそう。特に外国では夜は出掛けないようにしているのですが、タイ名物のニュー
ハーフショーは一度くらい観ておかなければという事でMと意見が一致したので、旅
行最後の夜、ガイドブックお勧めのお店へと向かいました。
しかし、夜の酒場のニューハーフショーには、犯罪の臭いがプンプンするという幻臭
を嗅いでしまった私たち。スリの標的にならないようにと、シンデレラ・ワードロー
ブの中でも選ばれた一張羅は、たとえガラスの靴がピッタリ履けたとしても、王子様
は去ってしまうほど、見事なまでのみすぼらしさでした。
加えて、トゥクトゥク代をけちって(約100円)、熱気と排気ガスの渦巻くバンコ
クを一時間近くも速足で歩いたために、汗と埃にまみれた二人は、まさしく貧乏神の
権化。
しかし。
たどり着いた会場は、薄汚いバーでもなければ、怪しいクラブでもない。洋式トイレ
完備のエイチオーティーイーエル、それはそれは立派なホテルだったのです。
こうなると、我々こそが、怪しいスリです。シャツをズボンの中に入れようが、ズボ
ンを靴下の中に入れようが、ダメなものはダメ。もはや我等がスリに見えないように
するためには隣の紳士のジャケットでも頂戴するより、他はありませんでした。
ただ、スリとして怪しまれんがために、上着泥棒として逮捕されるというのも、いか
がなものかという事で、窃盗未遂容疑者二名はホテルのロビーを後にして、ソソクサ
と会場へと向かいました。
しかし、実際のところ、私たちが貧乏神の権化であろうが窃盗未遂容疑者であろう
が、そんな事はどうでも良いと思えるほど、このショーは豪華絢爛で素晴らしく、原
色鮮やかな衣装や、息を呑まんばかりの激しいダンスに、文字通り圧倒されました。
幸運な事に、席も一番端ではあったものの、最前列。オネエサマになりきれていな
い、オニエサマの青髭もよく見えました。
トップに君臨する女王様の美貌にうっとりしたり、オネエサマの集団に戦時中の兵隊
さんのような歓声をあげたり、オニエサマから送られるウィンクや投げキスに「どう
も」と会釈を返したりしていると、あっという間に時間は過ぎてしまいました。
と、ショー観劇中は、無邪気に楽しんでいました。
ですが、ひとしきり騒いだ後、Mと私の脳裏に浮かんだのは、「敗北」という二文
字。
そう、オネエサマ方に完全に劣る女性美。
私たちこそが、ニョニン・オリジナルのはずなのに、此、出藍ノ誉レ。いえ、青は藍
より出でずとも藍より青し、といった方が正確でしょうか。オニエサマとは互角以上
の勝負だった、とお互いに傷を舐め合うのも、空しいだけです。
それにしても、一体、男性はどのような思いでこのショーを見ているのかと思って、
何気なく客席を見渡してみました。
すると。
なんという偶然。最前列ド真ん中の席で、ニヤケ顔の知人S君を発見したのです。異
国でのニューハーフショー中の再会など、なかなか有り得ない話です。
そして、こちらからの視線にすぐに気付いた彼。どうやら、彼の方が先に私を見つけ
ていた様でした。ニョニン・オリジナルなのに、TM(タイでミリョク的に)エボ
リューションされたオネエサマを見て、ニヤケている私の姿。見られた時の恥ずかし
さといったら、自らの羽根をむしるツウさんの比ではありませんでした。痛。
ショー後、二人で大いに盛り上がって「お互いに、かぶりつきの席で良かったね」な
どと話していましたが、被り憑きのようになっていた私のボロボロ服について、スリ
対策云々と必死で言い訳をする羽目になったのは、言うまでもありません。
ニューハーフショーの興奮も冷めやらぬまま、カオサン通りに戻ると、何やらたくさ
ん露店が出ていて賑やかだったので、それらも少しだけのぞいてみました。旅行最後の夜でしたから、何となく夜更かしするのもいいかというムードだったのです。
が、結局、その夜は、隣の建物の日差しの上に飛ばされていたMのリスちゃんTシャツの救出作戦で終わり。ちょっと残念な気もしましたが、気が緩んだところをスリちゃ
んに狙われなかっただけでも、良しとしなければいけません。
そして、ついに旅行最終日。飛行機の出発時間は、残酷にも刻一刻と近づいてきま
す。
荷物を預けて、町を歩き回ってお土産を買ったり、屋台やレストランをハシゴした
り。「贅沢は天敵」と吝嗇家だった私たちも、ここにきてやっと日本人らしく物欲の
前に膝を折り、残っていたバーツ(タイのお金)をバーッと使い切りました。
帰らないといけないけれど、帰りたくない。まだまだ、タイに いタイの。今は無理
ですが、いつか長期滞在が出来るくらいお金持ちになって、タイに戻って来たいで
す。
いタイの いタイの 富んで行け~
さらばプリズム、ミネソタ哀車
tag:nagaya.tatsuru.com,2005:/yabe//11.338
2005-09-15T03:18:46Z
2006-11-05T14:09:14Z
9月13日 9月も中旬。6月下旬に日本に帰って来てから、もう早、三ヶ月が経とうと...
uchida
9月13日
9月も中旬。6月下旬に日本に帰って来てから、もう早、三ヶ月が経とうとしていま
す。
幸か不幸か、アメリカに行っていた2年の間、1度も日本に帰国しなかったため、い
わゆるカウンター・カルチャーショックと呼ばれるものも、経験する事が出来まし
た。
今まで長い間住んできて、知っているはずの自分の国に驚かされるというのは、小さい頃の愛読書を読み直す時の感覚に似ていると思いました。何故かリスと信じて疑わなかった、グリとグラ(絵本の登場動物)が、ネズミだと知らされた時のショックにも似ているかもしれません・・ネズミだったとは、ネミミにミズ!
アメリカでは、聞き耳を垂直90度にでも立てていないと、ただのBGMのラップと化
してしまっていた、周囲の人々の会話。これが日本語となると、不思議なもので、た
とえ聞く気がなくても、自然に耳に入ってくるのです。当たり前と言えば、当たり前
の話なのですが。
以前ならば、不必要な情報をシャットダウンするために、耳を餃子のようにパタンと
閉じていたと思うのですが、久しぶりに乗った電車では、御局様の生態や、試験の私見範囲、晩御飯の薄切り肉の割引率など、岩石混淆の情報を入手しては、聖徳太子様の気分を味わっていました。
そして、日本の狭い道路を、これまた所狭しと走る、自動車の美しい事、美しい事。
凹凹車もなければ、凸凸車もなし。どの車も、全て□□車の完全体。お手入れが行き
届いた車体も、ラックス・スーパーリッチ並みの輝きです。
アメリカ生活、最後の半年間は、私も一応、新車には乗っていたのですが、あくまで
この場合の「新車」とは、「新しく購入した車」という意味であって、広辞苑が示す
ような、「真新しい車」ではありません。
先任の方から購入した、フォード社のエスコート(Escort)が、今年の1月に衝突事故で廃車になってしまったため、エンジニアの知人から、やむを得ず購入したのは、
1990年製造の、GEO社のプリズム(Prizm)。1990年というと、運転手は、まだ
中学生。プリズムと言われても、光の屈折・分散を起こすガラスの三角柱ぐらいし
か、分からなかった頃です。
このプリズム氏。不満点を挙げていけば本当にキリがないのですが、まず、鍵がかかりませんでした。いえ、正確に言えば、ロックは出来るのですが、窓を叩き割ることでしか、ロックを解除出来なかったのです。
開閉が出来ない以上、閉閉か、あるいは開開かを選ばなければなりません。王手飛車取り。窓の保険はかけてはいたものの、豚の貯金箱でもあるまいし、いちいち窓を割るわけにもいきませんから、結局、私の車はいつでも開けっ放しでした。これぞ、真のオープン・カー。
逆に、トランクルームは、鍵による開閉が、ある意味、超可能だったと言えました。
すなわち、車の鍵でなくても、どの鍵でも開ける事が出来、全ての鍵が、合鍵となり
得たのです。
以前、鍵をトランクルームの中に置き忘れたまま、閉めてしまった時などは、通りす
がりの人に、不審がられながらも鍵を借りて、その場をしのぎました。訛偽の可能性
もあったというのに、よくも貸してくれたものです。知らない人に、鍵を貸してはいけませんね。
天井のシートは、わずかに垂れ下がっていたために、ちょっと体の大きい人が、私の車に乗ると、天井のシートと髪の毛の摩擦によって起こった静電気のせいで、スーパーサイヤ人と化していました。
以前、どんな方が持ち主だったかは分からないのですが、椅子には、胸が痛くなるような、タバコを焼き付けた跡も、点々と残っていました。窓も、何がおかしいのか、
質の悪いパズルのように、ガラスと枠がピッタリとは合っていないのです。高速道路
を走ると、窓の隙間に風が入って、ヒョオヒョオと音楽を奏でていました。
といっても、別に長い間乗る車でもありませんから、エンジンやブレーキに問題がな
くて、運転さえ出来ればいいと、見栄えなど、気にもしていませんでした。
日本人としては、もう少し車にこだわりを持った方がよかったのかもしれませんが、
たとえ、学校の広い駐車場にとまっている車の中で、私の車が一番ボロボロだったとしても、誰に迷惑をかけているつもりもなかったのです。
しかし、4月初めの、ある日の事です。
私の家の近くに、商店やスーパー、喫茶店や郵便局などが集まった、小さなショッピ
ング・ゾーンがあるのですが、その日も、いつも通り、そのショッピング・ゾーン前
の広場に駐車して、買い物などの雑用をすませていました。
そして、3時間ほど経ってからでしょうか、先ほどの広場に戻ってくると、何やら広
場は一面、車で埋っているではありませんか。しかも、単なる一般車ではなく、昔の
映画からとびだしてきたような、個性的な車ばかり。
狐につままれたように、あたりを見渡していると、目に飛び込んできた、金ピカの看
板。
「クラシック・カーの展示即売会!!
― 貴方のお気に入りの車、見つけて下さい ―」
嘘のような、本当の話です。
私は、車のことは全然分かりませんが、それでも、私のプリズム氏が、会場のどこか
で、自分の正体がバレないように、冷や汗をかいているに違いない、という事だけは
分かりました。その心境、まさしく、汽車で国境を越えんとする、指名手配人。
いやいやいや、待て待て待て。ひょっとしたら、展示車の雰囲気まで悪化させてしま
うという事で、早々に、どこかにレッカーされているのかもしれない・・
焦る気持ちを抑えながら、心なしかお金持ちに見える、他のお客さんに混じって、会
場を歩き回る事、数十分。ついに発見しました、私の哀車。
いつ建てられたのか、会場のメイン・ステージの近くには、中からマリリン・モン
ローが手でも振っていそうな御車ばかりだったのですが、その中に、明らかに場違いな車が一台。
どこか疲れたようにも見えるプリズム氏は、隠れ処を発見された時のサダム・フセイ
ンを想わせるものがありました。
しかし、単に、己の車を発見すればいいというわけではありません。今度は、私がそ
の中に乗り込んで、運転をして、プリズム氏諸共、排他的な上流階級の世界からの脱出を果たさねばならぬのです。ミッション・インポッシブル。トモコ・ルーズ、必至
です。
警備員やら係員やらと、「ディス・イズ・マイ・カー。ソー・ギブ・ミー・バック・プリーズ」というやり取りをするのも、決して賢明とは思われなかったので、強行突破に出ました。
さらに、コソコソと裏手を回ると、いかにも怪しくなってしまうので、まずは、「試乗しますね」という涼しい顔で乗車。
そして、「試乗しているんですよ。ああ、なんていい車♪」と、周囲の人々に愛想笑いを振りまき続け、心臓が破裂しそうになりながらも、会場のド真ん中を堂々と突っ
切って、ついに不可能なミッションの成功をおさめました。
帰宅途中、醜いアヒルの子が、白鳥に変身するという奇跡は、もちろん起きませんでした。が、この一件を通じて、共にブルジョアジーと戦った戦友として、プリズム氏
に対する愛着がわいたのも確かです。
深夜にステレオが盗まれたり、シフト・ギアが壊されたりと、この車には散々苦しめ
られましたが、それも、今となっては昔の話。あとは、後任の方の交通安全を切に願
うのみです。プリズム氏と一緒に、ミネソタの車社会を生き抜いて下さい!
今回は、始終、車の話になってしまいましたが、とにもかくにも帰国いたしました。
次回からは、アメリカやミネソタとは何も関係ない話にもなってしまうかもしれませ
んが、ひき続き、私のツブヤキにお付き合い頂ければ、幸いです。ブツブツ。
ではウチダも一句「行く春の峰に粗朶採るこもと熊」
tag:nagaya.tatsuru.com,2005:/yabe//11.337
2005-03-30T00:45:46Z
2006-11-05T14:09:14Z
3月28日 「せんせーえ」 ドラエモンに泣きすがるのび太ではありませんが、先...
uchida
3月28日
「せんせーえ」
ドラエモンに泣きすがるのび太ではありませんが、先日、英語(日本でいうところ
の、国語)の授業で「レッツ・メイク、Haikuの名句」という宿題が出たそうで、数
人の生徒が私の所に質問に来ました。
が。
英単語で、ファイブ・セブン・ファイブ?
さらには、季語入り?
Ah! Uh! Oh! Yah! ・・・これ、切字ですか?
ドン=キホーテではありませんが、なんという無謀な宿題。これで、風情のある俳句
を作れたら、それこそ無帽脱帽です。惨著になる事など、初めから分かりきっている
事。ヨシナッテ。
とは思ったものの、我にもすがる、可愛い生徒を無視するわけにもいきませんから、
『ミネソゥタ ベリベリコールド オーマイガッ』
などと、その場の思いつきで、風情もヘチマもないような案を出してみたりもしまし
た。日本人としては、思わず耳を覆う様な出来の悪さですし、おそらく、アメリカン
にとっても、耳にオォウだったに違いありません。
根っから葉っから俗人の私には、どうも川柳の方が身近に感じられるのであります。
日本でも、私には、俳句を吟ずるような高尚な趣味はありませんでしたが、それでも
新聞や雑誌などの川柳コーナーは、興味本位で読んでは、アハハと笑っていました。
日本語の総本山、広辞苑によると、川柳とは、
「・・・多く口語を用い、人情・風俗、人生の弱点、世態の欠陥等をうがち、簡潔・
滑稽・機知・諷刺・奇警が特色・・・」
となっています。
上記の定義に当てはまるかどうかは、全くの疑問ではありますが、今回は、私が手当
たり次第、こちらの生活で気付いた事を、無主題で詠んでみました。
『ミネソタ川柳』。高尚とはほど遠いかと思われますが、皆様が哄笑されますよう、
心密かに願っております。
<生活編>
・『グッドバイ 切り捨てゴメン 名残ゼロ』
「(前略)じゃ、またね。」
「うん。電話してくれて、ありがとう。そういえば、この前も・・・(中略)・・・
あ、もうこんな時間?切らなくちゃね。」
「わあ、本当だ。いつもこうやってダラダラ話しちゃうから・・・(後略)」
電話の最後。日本人によく見られる、果てしなく続く、別れ言の応酬。別れの袖の長
い事、源氏物語の婦人方に御登場願うほどです。ヨヨヨヨ。
それにしても、「袖を濡らす」という表現は、艶っぽくていいなと思いますが、これ
が「袖を絞る」となってくると、スーッと興醒めしてしまうのは、私だけでしょう
か。
いいえ、絞って出てくるのが、涙だけなら美しいかもしれませんが、鼻腔と涙腺は、
決して無関係ではないのです。せっかく他人様の目につかないように処理したもの
を、ゴマ油でもあるまいに、わざわざ搾り出すとは、いかなる了見か。
いきなり脱線してしまったので、別れの袖について、話を戻しますが、アメリカ人の
お袖は、いと短し。
「じゃあね」と口にした瞬間、プープープー。別れの袖など、欠片もありはしませ
ん。マリリン・モンローが着用していそうな、お見事なノースリーブ。アメリカ人
は、名残がお長いのがお好きではないのです。
電話に限らず、別れ際の潔い事といったら、壇ノ浦の二位尼。あるいは、斬り捨て御
免のオサムライ。いったん「グッドバイ」と言ったら、後は一度も振り返らずに、ス
タスタスタ。ずっと姿が見えなくなるまで見送っている、日本人サイドの心は、ズタ
ズタズタです。
「別れ際、ちょっぴり後ろを振り返って手を振れば、ポイント・アッ・プ、間違いな
し★」
少女雑誌の恋愛コーナーにでも載っていそうな、安っぽいアドバイスですが、異文化
理解のためにも、アメリカ人の友人・知人・生徒に、一度言ってみる価値はあるかも
しれません。
もっとも、こんな事を書いている私自身、別れ際の往生際が、これまた非常に悪い。
[{(少し歩く+振り返る)×2 + 手を振る}×2 + 「バイバイ」と言う]
×2
西部劇であれば、八百長だらけの決闘シーンになる事、間違いなしでしょう。過ぎた
るは、猶及ばざるが如し。美しい別れ、とは難しいものです。
・『ゴーダイバ エクスペンシブ チョコレート』
ゴーダイバ。初めて聞いた時は、「御(お)台場のチョコレート?」と思ってしまい
ました。実際、お土産コーナーに並んでいそうな名前ですが、これは、チョコレート
の王者ブランド、『ゴディバ』の事です。
ちなみに、こちらのご主人方は、奥様のご機嫌をとる時は、チョコレートやバラをプ
レゼントするそうで、酔った亭主が、千鳥足で寿司詰やたこ焼きを買って帰るという
のは、日本独特の文化のようです。
未来の旦那様。ワタクシは、日本の文化をこよなく愛しております。じゅる。
・『通り抜け トイレの花子 敗れたり』
幸いな事に、霊感ゼロの私は、生まれてこの方、幽霊や妖怪といった類のものに御対
面した事がありません。と言って、超自然の存在を否定する気も毛頭ないので、ホ
ラー映画や怪談などを観たり聞いたりしては、制作者側の壷にマンマと嵌まってしま
います。
『あなたの知らない世界』は、『あなたの知らなくていい世界』。特に夜など、いざ
一人になった時には、シュワルツネッガーのようにムキムキ逞しく想像してしまうの
で、先時の己の怖いもの見たさを、本気で呪う羽目になります。
怖い話の元祖は、何と言ってもトイレの花子さんでしょう。
詳しくは忘れましたし、おそらく時代ごと、地方ごとに違う花子さんがいると思いま
す。昭和花子さんと平成花子さんは違うと思いますし、青森花子さんと、長崎花子さ
んにも、やはりまた相違点があるはずです。
ちなみに私の小学校では、お手洗いに入っている時、花子さんが扉をノックし、それ
に対して、「入っています」と応えた瞬間、扉が開かなくなり、トイレの中から伸び
てきた手に足を掴まれて、そのまま中に引きずり込まれるというものでした。
しかし、日本では怖れられている花子さんも、アメリカ・デビューするには、大きな
壁が立ち塞がっています。
いえ、大きな壁が立ち塞がっていないので、アメリカ進出は不可能だと言った方が正
確でしょうか。アメリカのお手洗い(個室)の壁は、壁というよりは単なる仕切りで
あって、下が30センチ以上も開いているのです。隙間風が吹くこと、梅宮アンナと
羽賀研二の如し。
これならば、扉が開かなくなってハナコに捕まりそうになった時(洋式トイレに吸い
込まれるというのは、想像しにくいのですが)、たとえ猿飛佐助やピーターラビット
でなくても、下をすり抜ければ、苦もなく隣に移れるはずです。ハナコ、無念の敗
北。
しかし、ハナコがいないのはいいけれど、やはりどうも両側の壁の下から見える隣人
の足の動きが気になってしょうがありません。欧米文化を取り入れてきた日本です
が、和式のトイレにアメリカ式の仕切り壁、などという事態にならない事を切に願い
ます。
幸いな事に、壁の下から覗き込んでくる、礼感ゼロの小さなお子様とは、今のところ
御対面した事はありませんが、いつでも気は抜けません。
・『竜巻や 踊らにゃソンソン 地下籠り』
1「昨日の雷、すごかったね。避雷針に雷が落ちて、大変だったよ。」
2「え、本当?!今日は、ニュースを見てないから、知らなかったよ。」
1「ニュースになるほどの事じゃないと思うんだけど・・・」
数秒後、友人2は、「ひらいしん」が平井シンという男性ではなく、避雷針である事
に気付き、シンさんは、一命を取りとめます。「平井シンの生還」。ホッ。
空を縦横無尽に駆け巡る稲妻は、ミネソタの春の風物詩で、4月、5月頃になると、
落雷による火事のニュースが、テレビでもよく流れるようになります。
しかし、こちらの人がもっとも気にかけている天災は、なんといっても竜巻でしょ
う。積乱雲の底から漏斗状の雲が下垂して地上に達すると、風速は毎秒100メート
ルを超えることもあり、通り道の建物、道路や木々に、甚大な被害を与えます。竜が
飛来する、とはよく言ったものです。
もっとも、この竜巻。十年に一度、あるかないかの頻度だそうで、私からすれば、道
路も車も凍りつく真冬の寒さの方が、よほど深刻だと思うのですが、天災も、毎日の
事となると、もはや天災ではなくなるようです。
竜巻に備えて、ミネソタの家は、地下室を設ける事が義務付けられています。
家の地上部だけでも、リビング、ダイニングやバスルームが二つずつ以上あるのは当
たり前という広さなので、この地下室は、明らかに蛇足なのですが、備えあれば患え
なし。蛇に足が生えれば、竜に見えない事もない。「竜足」の避難所、頼もしいでは
ありませんか。
普段の地下室の使用目的は、家によって様々です。地下室というと、陰気なイメージ
がありますが、決してそうではありません。
小さい子供がいる家は御子様の遊び場に、来客が多い家ならば来客用の部屋になりま
す。巨大なスクリーンとオーディオセットを揃えて、映画館にする家もあれば、ビリ
ヤードやバー・カウンターを取り付けて、マイ・バーにしてしまう家もあり。ミラー
ボールとステレオで、あら、ここはオシャレなダンスホール?
竜巻来襲の緊急時、ミラーボールがクルクル回るダンスホールで、踊りながら避難と
いうのは、どうも緊張感に欠けますが、「竜足」の避難所で、飛来してくる辰(竜)
をやり過ごすというのも、それはそれでミネソタの風物詩なのでしょう。「飛来辰の
静観」。ホッ。
・『超危険 コーヒーシェイク 廃棄せよ』
嗜好の域を通り越して、コーヒーを常飲するアメリカ人。缶コーヒーというものが存
在しないので、仕方がないかもしれませんが、1ℓのペットボトル容器にコー
ヒーを入れて持ち歩く、という筋豆煎りの珈琲族を見ると、ペットボトルの中に正露
丸をガンガン盛りたくなります。
しのぎを削る、お馴染み「スターバックス」と、ミネソタを本拠地とする「カリブ
(北アメリカのトナカイ)・コーヒー」。私は特にこだわりはありませんから、その
時々の気分次第で色々なコーヒーショップを利用しています。ガソリンスタンドの、
超巨大80円コーヒーを買った事もあります。
しかし、このコーヒー。一度に飲みきれずに、一時間ほど放置していました。する
と、薬剤を流し込んで固めた油のように凝固してしまったのです。
残ったコーヒーを「流す」のではなく、「捨てた」私。ポイッ。
<社会編>
・『お留守番 オイテケボリは 一一0番』
昔々、ロッキー山脈のある山間部に、母さんヤギと7匹の子ヤギが仲良く住んでいま
した。ある朝、母さんヤギは、子ヤギ達に言いました。
「母さんは、ちょっとラスベガスまで買い物に行ってくるからね。いい子でお留守番
をしているんだよ。知らない人が来ても、絶対にドアを開けてはいけないよ。」
7匹の子ヤギ達は答えました。
「はーい。」「はーい。」「はーい。」「はーい。」「はーい。」「はーい。」
「母さん、僕達だけを家に置いていくと、違法だよ。」
母さんヤギと7匹の子ヤギは、仲良く一緒にラスベガスまで買い物に行きましたと
さ。
ロッキー山脈育ちのヤギが、ラスベガスに現れようものなら、即座に高級レストラン
のメニューにワイン煮にでもなって登場しそうですが、7番目の子ヤギの言う通り、
アメリカでは、子供だけでお留守番というのは違法です。14歳未満の子供には、必
ずベビーシッターをつけなければいけません。
昔の話ですが、ある日本人の夫婦は、気の毒にも隣人に通報されて、逮捕された事が
あるだとか。(ちなみに、アメリカの緊急時の電話番号は、110番ではなく、
911番なので、ご注意下さい。)
いきなり話はとぶようですが、私の宝物の1つに、古いテープがあります。私がまだ
まだ幼い頃、絵本を朗読してくれた母の声が収録されているのです。無邪気な私の声
も所々に入っていて、微笑ましいのですが・・・
「どうして?」「これは?」という私の質問を、ひたすら黙殺する母。
しかしまた一方で、ひらがながうまく読めないと、読めるようになるまで、徹底的指
導が入ります。
『雀の御宿』などの童謡も、私が歌った後に、即座に母御前が歌い直し。
客観的に聞いたとしても、私でさえ己に同情しそうになるのですが、これも母の愛の
形なのだろうと、このテープを、それは大事にしていたのでした。
しかし、私は、まだまだ甘かった。ここに、思いもよらなかった母の思惑が隠されて
いたのです。
数年前、台所で忙しなく夕食の準備をしている母に、テープの事を覚えているか、尋
ねてみました。
「テープ?・・・ああ、はいはい。留守番用に絵本を朗読しといた、あのテープ
ね。」
なんと!あのテープは、留守番用だったと?
アパートの片隅で、絵本を開けながら、テープを聴きつつ、母親の帰りを待っている
幼い子。健気にお留守番をしている姿を思うと、ちょっと泣けてくるではありません
か。
確かに、賢い手だとは思いますが、子供の情操教育に与える影響は、如何に。母よ。
・『選挙戦 プリーズ・ノーモア ポリティクス』
前回の大統領選挙。政治に関心が高いのは大変に結構なのですが、ブッシュ派とケ
リー派に分かれて、ご近所同士が大衝突。となりのトトロも、のんびり寝ている場合
ではありません。
宣戦布告のような広告も、至る所に見られました。家の前の看板や、車に張られたス
テッカーは、ブッシュ・ケリー・ケリー・ブッシュ・ケリー・ブッシュ・ブッシュ・
・・。テレビのCMも、立候補者達の支持や批判ばかり。
そのような社会情勢に、高校生が影響されないわけがなく、学校でも、バンドのチー
ムが解散したり、仲間グループが崩壊したりと、大騒ぎでした。一度議論が始まる
と、どこであろうと、あまりにも白熱するので、何度も「政治話は、もうナシ!」
と、止めにかからなければなりませんでした。
そんな私も、いつだったか、何かの縁で、ある市長選のウグイス嬢を務める事になり
ました。
プロの御姉様方の声にウットリするのも束の間、すぐに私の番がやって来ました。白
い手袋をはめて、「オハヨウゴザイマス・・・」。首を絞められたニワトリのような
声でのアナウンス。あれのせいで、候補者は落選してしまったのでしょうか。転け
コッコー♪
いつかは、鶯鳴かせてみたいものです。・・・ん、意味が違う?はい。ごめんなさ
い。
・『救急車 18万円 窮泣車』
初めての救急車の思い出は、小学校の低学年まで遡ります。
夏休みの早朝、地元の広場で行われていた、ラジオ体操。録音したテープを使ってい
るのですから、テープ体操と呼んだ方が正確なのですが、とにかく、出席スタンプを
集めればマクドナルドのSサイズのフライドポテトをもらえるという事で、ほぼ毎
朝、律儀に出席していました。
それにしても、健康のためのラジオ体操なのに、なぜ、その御褒美がマクドナルドの
フライドポテトだったのか。我が母校は、マクドナルドから賄賂でも受け取っていた
のでしょうか。小学校時代、やや肥満気味だっただけに、気になるところです。
しかし、コナン君でも何でもない、一介の小学生が、マクドナルドと手を組んだ学校
の陰謀に気付く由もありません。ある朝、いつものごとく、ラジオ体操の後、「ポテ
トに一歩近づいた」と、喜びを噛みしめていました。
すると、何やら横断歩道の脇に出来ている人だかり。野次馬根性丸出しで近づいてみ
ると、何と、人込みの主人公は、我が兄貴ではありませんか。しかも、主人公にふさ
わしく、額からは那智の滝のような出血。
数分後にやってきた救急車に、ただひたすら乗りたいという一心で、「私、妹なんで
す!」と何度も叫べども、人込みの中に、声はかき消されてしまい、担架に乗せられ
た兄と、駆けつけてきた母だけが救急車の中に消えていきました。
おそらく、救急隊員の耳に、私の声は届いていたと思うのですが、妹という肩書きは
イマイチ弱かったのでしょう。悲哀を味わいながら、シスター・トモコは、トボトボ
と帰宅する事になりました。
結局、兄様の額の出血の原因は、自分で投げたブーメランだったそうで、正午には、
鼠の額のようなバンドエードを額に貼って、帰宅して来ました。「救急車に乗ったの
に、そんな傷・・・?」
少々腹も立ちましたが、そういえば、ドラマや漫画の主人公だって、どれだけ戦闘中
にナイアガラのような流血をしようが、次の日には、カスリ傷。頭がアガラナイ、治
癒能力の高さです。
私の人生に、再び救急車が登場したのは、それから20年ほど時を経た、2004年
の夏、ローマでの轢き逃げの時です。先回書いた通り、今度は妹が主人公。鼠根性を
出さずとも、救急車に乗る事が出来ました。ハレルヤ。
そして、三回目は、星回りがよほど悪いのか、今年に入ってからすぐ。再び交通事故
に巻き込まれてしまい、救急車で運ばれる羽目になりました。
ですが、今回は、軽いショック症状はあったものの、別に体にこれといった異変もあ
りませんでしたから、「はあ」という感じでした。運ばれた病院でも、ちょっとした
診断を受けただけで、事は済みました。むしろ、3度も点滴のための注射を失敗され
た方が辛かったです。仏の顔は、1回きり、ワン・チャンスです。
しかし、一週間後。7万円の請求書を見てコンマ5秒後、「はあ」は、「は
あっ?!」に転換。アメリカの救急車は高額だと聞いてはいたのですが、さすがに7
万円は高い。そして、驚くべき事に、さらに翌日、11万円の請求書が送られてきた
のです。すなわち、合計18万円。1万円の福袋、18年分です。これには、肝も魂
も抜かれました。
費用は、全て事故を起こした先方の保険で支払われたのですが、抜かれた肝に、この
事件をしっかりと銘じ、さらに抜かれた魂は入れ替えて、今日の平和と健康に、心か
ら感謝する日々です。フライドポテトも要りません。
・『口惜しや いい者同士で ひっつくな』
一般的に、アメリカの中でも、東海岸や西海岸と比較すると、中西部(ミネソタ含
む)は保守的だと言われていますが、それでも同性愛に対しては、幾分オープン。
看板に虹マークが掲げられている店は、同性愛者歓迎のお店です。注意して見ると、
実に分かりやすいのですが、無知とは恐ろしいもの。何気なく店に入り、10秒後、
カウンターに置かれた雑誌を見て、矢の如く店を飛び出た馬鹿者が、ここにいます。
アメリカに旅行で来られた際の参考にして下さい。
ちなみに、こちらの男性同性愛者のステレオ・タイプは、「知的・上品・お金持ち・
ハイセンス・優雅」。あくまでステレオ・タイプなのですが、私の友達の友達である
男性同性愛者の方々は、まさしくその典型例で、ミネアポリス都心の40階にある彼
等の部屋は、雑誌の写真そのものでした。
優しく食卓を照らす、燭台に立てられた、美しいキャンドルの灯り。スプーンや
フォーク、ナプキンフォルダーまでが、インテリアに合わせられており、二段重ねに
なっているお皿は、超高級ブランド。窓から見えるミネアポリスの夜景も手伝って、
まさしく生活感ゼロの空間でした。住めば都と言いますが、出来る事ならば、ああい
うところに、遷都したいものです。
そんな事を考えながら、仲睦まじくお互いの膝に手を置き、熱く見つめ合う恋人達
を、私も負けずに、熱く盗み見していました。
61億人÷2=20億カップル余り21億人、という赤点の算数にならぬためにも、
あまりいいカードでひっつかずに、ぜひ女子にも少々回して頂きたいものです。え
え。
<学校編>
・『先輩風 風速ゼロの 凪状態』
中学生時代、私はテニス部に属していました。私の学校の中では、先輩後輩の上下関
係が最も厳しいクラブのひとつで、「先輩でさえあれば、多少横暴に振舞ってヨシ」
という、ニッポン裏社会の基礎を、ここで学んだような気がします。
それにしても、大体、3歳年上の兄にさえ、敬語など使っていないのに、たかだか1
歳、2歳年上の先輩に対して、なぜオキアガリコボシのように頭を下げなくてはなら
なかったのでしょうか。
今考えても、疑問は尽きません。
夏期の練習中、なぜ、先輩は日陰で柔軟体操をしてもいいのに、後輩は、わざわざ日
向に出なくてはならなかったのか。
ウォータークーラーは、なぜ、早く並んだ者から飲んではいけなかったのか。
クラブ帰りに禁止されている買い食い・・・先輩、その手に持っているアイスクリー
ムは、家から持って来られたんですか?!
しかも、腹立たしい事に、自分達がいざ先輩になってみても、かつての先輩から受け
た苦しみを思うと、後輩に対して横暴に振舞う事など、出来るはずもなし。損な役回
りです。
とは言っても、臆病者の私は、スナフキンのように、「俺は俺のやりたいように、や
らせてもらうさ」という態度をとる度胸もなく、やっぱり友達と一緒にオキアガリコ
ボっていました。(もっとも、高校以降に属したクラブやサークルの上下関係は、い
たって良好でした。)
そう考えると、アメリカでは、Senpai という言葉を面白がって使う生徒はいるもの
の、こういった先輩後輩の上下関係は、ほぼ無きに等しいと言えます。クラブ活動も
季節ごとの選択ですし、ホームルームがないうえに、授業も全学年入り交じっての受
講ですから、当然といえば当然の事です。
ベビーキョンシーにも似た小学生が、張飛のような高校生を相手に、ヘイ、ヨゥ、ス
ティーブ、調子はどうだい?
万事が万事その調子ですから、たとえ大人になったとしても、宴席で酒の酌をすると
いう習慣も、もちろんありません。自分のお酒は、自分で注ぐもの。セルフサービ
ス。お酌をしなかったからといって、癪に障られる事もありません。
極端な年功序列に陥りやすい日本式と、年長者に対する尊敬に欠けるアメリカ式。ど
ちらがいいかは判りませんが、仮に今、中学2、3年生の先輩方にバッタリ遭遇して
しまったとしたら、フォレスト・ガンプのように走り去るであろう、20代後半に
入った私です。
・『モヒカンは 根性入れて 立てましょう』
まるで、ネイティブ・アメリカンのモヒカン族の掟のようですが、手間のかかるこの
髪型を自ら選んだからには、怠惰は許されません。
ほら、今日、朝寝坊したあなた。自慢の髪が、台風後の稲田のようになっています
よ。
・『廊下にて 男と女の ラブゲーム』
女子生徒 「ああ、始業の鐘が鳴ったわ。時間よ。行かなくちゃ。」
男子生徒 「鐘なんかに、俺達の仲は裂けないさ。」
誰がために鐘は鳴る?生徒の皆さんのために鐘は鳴るのです。ヘィ、ミンナ、ゴゥ
・ァウェイ。遅刻したくないのなら、一刻も早く、次の教室に向かいましょう。
女子生徒 「あなたと別れたくないわ。いつまでもこうしていたいのに。」
男子生徒 「すぐに会えるさ。それまで、泣いたりするなよ。」
あなたのおっしゃる通り。50分の授業が終われば、すぐにまた会えます。ウロウロ
していると、セキュリティーのスタッフに捕獲されますよ。
このように、ホームルームがないため、毎日、男女の熱いドラマは、廊下で繰り広げ
られる事になります。『ゴースト』のラストシーンのような、糖分過多カップルもあ
れば、戦地に送られる夫とその妻という、『防人歌』のカップルもあり。別れる別れ
ないだと揉めている、『あすなろ白書』カップルは、どうも涙の遅刻になりがちで
す。
彼等には彼等の事情があるでしょうし、他人の恋路に口を挟む気はありませんが、移
動時間は、明らかに、他の生徒の通行の邪魔。廊下は、サタデーナイトの渋谷のよう
に、生徒であふれかえるのです。
こんな人混みで許されるのは、せいぜい「そ」を聞く程度。本人達の意見はどうであ
れ、この時間のハーレクインシリーズのような熱いロマンスは、磔撲に値するので
す。
・『文房具 ペンシル一本 貧乏具』
何が面倒くさいのか、こちらの生徒は、筆箱を持たずに、鉛筆やシャーペンを直接ズ
ボンのポケットに入れます。お札も小銭もオヤツもポイポイポイ。いざ取り出す際
に、鉛筆やシャーペンの先が指先に刺さって痛いと思うのですが、三次元ポケットの
合理性の前には、聞く耳もないようです。
痛いといえば、中学生の頃。ELLE(エル)というフランス・ブランドのシャーペ
ンを購入しました。ペンの持ち手の先についた銀製のエッフェル塔が、私のオシャレ
心をそそり、一目で気に入ったのです。
が、このエッフェル塔が大問題。肝心のシャーペンを親指で押すところについていた
ので、芯を出す度に、塔の頂点を押さなければならなかったのです。右手の親指に出
来た血斑は、まるで聖痕でした。イエス、切捨て。シャーペンの恨み声を無視して、
泣く泣く、100円前後の庶民シャーペンに切り替えました。アデュー・フランス。
ところで、消しゴムはといいますと、鉛筆やシャーペンの上の先についている消しゴ
ムで間に合わせている生徒が、ほとんどのようです。
しかし、私に言わせれば、これはただの乾燥して収縮したマシュマロ。消す力など、
無きに等しいですから、紙には痛々しい皺が寄り、黒く汚れた訂正箇所は、呪いでも
かかったような心霊現象を起こしています。ウラメシヤ。
ちなみに英語には、「ウラメシヤ」に該当する表現は、ありません。アメリカの幽霊
は、「ユーがミーにした事を、忘れちゃいないですよ。(”I have not forgotten
the wrong you did me.”)」と、自分の登場理由を明確に述べなくてはならないよ
うです。
私を恨んでいるであろう、悲運のELLE(エル)のシャーペンは、フランス御出身
ですから、「ウラメシヤ」でもなければ、英語でもなく、やはりフランス語で登場す
るのでしょう。
「ボンジュール、トモコ。何故、マドモアゼルは、ノンノン・コマン・タレ・
ヴッ?!」
・『バラモンの さらなる高位 留学生』
インドのカースト制度のごとく、日本語選択の生徒は、自分の属しているレベルに非
常にこだわります。上位レベルを敬うのはいいのですが、一方で、下位レベルに対し
ては、どうも尊大になる傾向があるようです。
レベル1のシュードラ(隷属民)階級は、ようやくカタカナを学習し終えたところ。
それにも関わらず、「あなたは、バカです」などと、日本語を全く知らない生徒 -
不可触民とでも呼びましょうか - に対して、意地悪を言ったりもします。です
が、次の瞬間、上位レベルの生徒が漢字を練習しているのを見て、愕然。ムンクの叫
び。
レベル2のヴァイシャ(平民)階級になると、レベル1の易しい学習内容を見ては、
溜息をついて、「自分にも、こんなにいい時代があったのか」と、一年前を大昔のよ
うに懐かしがっています。が、菅原道真を気取るのは、まだまだ早い。学問の神様な
らば、1つ1つの宿題や試験に、愕悶なさらない事です。そうは言っても、祟られる
のは怖いのですが。
レベル3のクシャトリヤ(武士階級・王族)階級の皆様も、同じでございます。「あ
なたは、馬鹿です」と漢字で書いて満足なさらず、春夏秋冬、東西南北、曜日も漢字
で書けるようにおなり下さい。
そして、バラモン(祭官・僧侶)階級のレベル4。「我々が、日本語クラスにおける
トップである」という誇りを持っているだけあって、ハイ・レベルな授業内容にも関
わらず、よくついてきていると思います。
しかし、これまた井の中の蛙とはよく言ったもの。先月、日本から帰国して、蛙から
兜虫と成った留学生の前に、バラモンの選民思想も、バラバラと崩れ去ってしまいま
した。ただし、留学生のいない所では、バラモン様の権力は健在。蛙の面に水です。
語学勉強は、他人と比べても意味がありません。・・・いつの日か、ミネソタ在住の
ガンディー・ジャパンの思いは、届くのでしょうか。
<完結編>
・『三流と 思えど言うな 我が川柳』
おつきあいくだすって、ありがとうございました。
ミネソタ乙女の四季(というタイトルから想像されるものと以下の文は関係ありません)
tag:nagaya.tatsuru.com,2005:/yabe//11.336
2005-01-29T06:03:36Z
2006-11-05T14:09:13Z
1月27日 「えへへ。先生、日本語、忘れちゃった!!」 9月第1週目。長い夏休み...
uchida
1月27日
「えへへ。先生、日本語、忘れちゃった!!」
9月第1週目。長い夏休みが明けて、少し見ない間に、背がグンと伸びて、髪型も幾
分変わった生徒たちと、再会を喜びます。久々に可愛い生徒に会えた嬉しさに、日本
語を忘れられてしまったガックリも、一瞬忘れてしまいます。一瞬。
2年目の学年も残すところ半年となりましたから、今回は、9月から6月まで、学年
の大体の流れや、各種行事について書こうと思います。
教職員は、8月の最終週から仕事が始まります。教室の引っ越しや模様替えをした
り、教案を作成したりして、新学年のために準備をします。
教室の管理は、とにかく教師に一任されるので、もらった教室に、ペンキで巨大な絵
が描かれていたりする場合もあります。
今年度、学校に懇願して大きい教室をもらったわけですが、頂戴した教室が、壁一面
に闘牛の絵が描かれた教室(スペイン語)でなくて、本当に良かったと思います。危
うく、願いから鼻を通す牛になるところでした。モー。
初年度は、ミネソタに着いたばかり、生活に慣れるどころか、時差ボケも治りきらな
いままだったので、本当に大変でした。片付かない混沌とした教室で、推理小説の一
場面のように、一人倒れてしまった事もあります。今、解き明かされる、明らかな謎
・・・疲労です。
車も自由に使えない時期でしたから、夏だというのに寒さに震えながら、片道徒歩1
時間半をかけて登下校していた事も、今となっては懐かしい思い出です。もっとも、
極寒の冬でも、徒歩になってしまう事も何度かありましたが。ほとほと、徒歩、とほ
ほ。
学年は、2学期制(セメスター制)になっており、9月から1月までが1学期
(ファースト・セメスター)、2月から6月までが2学期(セカンド・セメスター)
となっています。そして、さらに各学期が半期(クォーター)に分かれており、成績
は、このクォーターごとにつけられます。
授業が始まっても、最初の2週間は、大学と同じく、いわゆるお試し期間で、授業の
変更が利きます。レベル2以上の生徒が、変更する事はまずありませんが、レベル1
の生徒は、ちょこちょこと移動があります。学年を通して、落伍者が一番多いのも、
レベル1です。
これはもっともな話で、レベル1の生徒は、「日本=アニメ」という理由だけで日本
語を選択する生徒が多いので、最初の関所、ひらがな46字にでさえ音をあげてしま
うのです。日本語学習において、ひらがなは基本の基本ですから、ここばかりは、関
所破りというわけにはいきません。
ひらがなでつまずく生徒は、言ってみれば、ファミコンの『スーパーマリオ』で、最
初のクリボウにやられてしまうようなものです。タラッタッタラッタッタ タラッタ
タラッタタタタ♪↓
もう少し進んだとしても、「おねがいします。」「いってきます。」「いってらっ
しゃい」「ただいま」「おかえりなさい」「いただきます。」「ごちそうさまでし
た。」など、私たちにとっては、日常の挨拶言葉も、英語にはない表現なので、日本
文化に興味ある生徒でなければ、覚える気にもならないでしょう。
日本語は、スペイン語のように、日常生活にあふれている言語では決してありません
から、ある程度モチベーションが高くなければ、確かに、大変なはずです。私だっ
て、もしもアメリカに生まれて、英語が母国語だとしたら、間違いなく、有用性の高
いスペイン語を選んでいたに違いありません。
教える方も、少しでもモチベーションをあげるために、特にレベル1は、非常にエネ
ルギーを要します。貴重なエネルギー資源、大切に使いましょう、と言っているわけ
にもいきません。エネルギー放出しっぱなし。地球環境に悪い事、この上なしです。
私の脳みそは、完全に温暖化現象を起こしています。
ただ、逆に、日本語に興味ある生徒は、たとえレベル1の生徒でも、日常生活の中で
も、間違いを恐れずに、積極的に日本語を使ってくれます。
昼食時、目の前のハンバーガーに対して、神妙に合掌し、「いってきます」と食前の
挨拶をする生徒。確かに発音は似ていますが、もちろん、被食者であるハンバーガー
は、「いってらっしゃい」とは応えてくれません。
レベル2以上の生徒になると、嬉しいことに、どの生徒も日本語や日本文化に対して
興味を持ってくれています。
それに、「日本語を勉強している」という誇りさえあるようで、ホームルームのよう
に、日本語の教室に入り浸る生徒の中には、授業後、「さようなら」の代わりに、
ちょっと得意気に、「いってきます」を使う生徒もいます。
実際、日本語を母国語としている私でも、日本語は難しいと思うのに、皆、さじを投
げる事なく、よく頑張っていると思います。テストや宿題は、些事だと投げている生
徒はいますが、大目にみましょう。
基礎の数字くらいは、どの生徒も喜んで覚えます。そんなに大変な事ではありませ
ん。「いち、に、さん、よん・・・・」と、嬉しそうに数える生徒の口は、真夜中の
上弦の月。しかし、ここで、序数詞が登場します。「ひとつ、ふたつ、みっつ・・
・」と数える生徒の口が、正午の上弦の月となってしまうのも、仕方のない話。
それでも、たとえその時その場限りでも、一生懸・・・一所懸命覚えようとしてくれ
るのです。
余談ですが、日本人にとって、”a”や”the”などの冠詞がややこしいのと同様、日
本語学習者にとっては、この序数詞が、本当に苦しいようです。
例えば、人数についての序数詞。「ひとり、ふたり」とあっても、でも「みり、よ
り、いつり・・・」とは続かない。では、一人と二人は例外だと割り切って、せっか
く、「さんにん」と変えても、次の四人は、「よんにん」ではなく、「よにん」。
「ついたち、ふつか、みっか、よっか、いつか、むいか、なのか、ようか、ここの
か、とおか、じゅういちにち・・・」「ひゃく、にひゃく、さんびゃく、よんひゃ
く、ごひゃく、ろっぴゃく、ななひゃく、はっぴゃく、きゅうひゃく」。普段は漢字
を敬遠する生徒も、この時ばかりは、漢字サマサマです。中国の方々に、謝謝。
さて。9月は、レベル1については、生徒に慣れる事(もちろん、初年度は全レベ
ル)、そしてレベル2以上については、夏休みの間に、成層圏の彼方に飛んでいった
過去の学習事項を、オーイと呼び戻す事から始めなければなりませんでした。
そんな9月の3週目には、オープンハウスといって、生徒の保護者に対して、授業の
説明をする機会があります。各クラス、わずか10分間の説明会なのですが、初年度
は、少なからず緊張していたのを覚えています。
「日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字という、3つの文字体系(アルファベッ
ト)があり、例えば、”air plane”は、『ひこうき』『ヒコウキ』『飛行機(フラ
イング・ゴーイング・マシーン)』」
と、ややハイ・テンションで、日本語について導入すると、「ワーォ。うちの子は、
そんなに難しい事を勉強しているのか」と、感心されていました。
「子は、親の鏡」とはよく言ったもので、外見はもとより、中身も面白いほど両者似
ているので、オープンハウスから後々、カンファレンスとよばれる親子面談(1年に
6日間)や各種の行事で、保護者に会う機会も幾度かあるのですが、それほど苦もな
く、誰がどの生徒の親かを覚える事が出来ました。ブッシュの子は、ブッシュ。
ところで、アメリカのカンファレンスが、どのようか言いますと、懇談ならぬ、混
談。生徒用の広々とした食堂(カフェテリア)に、全教師が2メートル間隔に座り、
自分の名前の入った札を立てて、保護者が来るのを待ちます。
部屋には教師と親子の当人だけ、という日本と違い、他人に聞かれることなど、こち
らの人は誰も気にしません。
授業を受講している生徒の数が多ければ多いほど、当然、保護者の数も増えるわけ
で、英語や数学、科学やスペイン語の先生の前には、長蛇の列が出来ているのです
が、日本語教師の前に列が出来るということは、まず、ありません。
保護者が来ない時は、自分の仕事が出来て都合いいのですが、芸能人のサイン会のよ
うで、隣のスペイン語の先生の前に出来ている列が、私の前までのびてきていると、
飛鳥さんの隣のチャゲさんのような気分にさせられます。
それにしても、朝7時半から、午後2時半まで授業があって、その後、3時から8時
まで親子面談ですから、さすがにグッタリです。ここはひとつ、チャゲさんのように
サングラスをかけて、一眠りZZZ、といきたいところですが、保護者の手前、そうは
いきません。
ただ、こちらの保護者の方は、とてもフレンドリーで、日本ほど構える必要がないの
で、気分的に楽です。
特に、私は外国人ということもあってか、色々助けてもらいますし、面談の度に
ティッシュペーパー(学校からの許可有り)を下さる方もいます。それにしても、な
ぜにティッシュペーパー?日本に帰国する前に、理由を聞いておかなければなりませ
ん。
生徒の保護者にも対面し、新年度に少しずつ慣れてきた10月の初め、ホームカミン
グという、愛校週間が始まります。
この週は、各種イベントがあるのですが、中でも目玉行事は、フットボール(金曜日
の夜)と、ダンス(土曜日の夜)でしょうか。
昔から、スポーツ観戦には興味はないのですが、さてフットボールとなると、ルール
さえ全く分かりません。
しかし、いくら分からないとはいえ、0対40の試合ともなると、どちらが優勢か劣
勢かぐらいは分かります。ホームカミングなのだから、ちょっとぐらい、相手高校も
八百長してくれたらいいのに。毛布をかぶりながら、日本人は、そんな事を考えてい
ました。
そして、ダンス。といっても、社交ダンスではありません。クラブ系のダンスです。
ミラーボールこそありませんが、大掛かりな照明もセットされて、学校の体育館が、
ダンスホールに早変わりします。
大音量の音楽と照明の中で、踊食いの海老のように暴れる生徒から、利尻島の昆布の
ように揺れている生徒まで、楽しみ方は様々です。アフリカン・アメリカンの生徒
は、血のなせる業でしょう、プロ顔負けのダンスのセンスです。
ちなみに、日本語の生徒の多くは、昆布にさえなれずに、ただの群れる棍棒と化して
いました。
ホームカミングのメインイベントは、上記の2つなのですが、他にもコーヒーハウス
という募金活動(ファンド・レイズ)もあります。
コーヒーハウスでは、有志による軽音楽部や寸劇が上演されます。講堂ではなく、照
明を落とした狭い教室で行われ、観客は地べたに座るなど、なかなか雰囲気がありま
した。
今年度は、このコーヒーハウスで、ちょっとしたハプニングがありました。
寸劇で、「昔々、来る日も来る日も米ばかりを食べる民族がありました。猿と一緒に
住み、変わった服を着て、理解不可能な言葉を喋り・・・」と、いかにもアジア文化
を小馬鹿にしたものがあったのです。ストーリーも、稚拙極まりない。
有色人種に対する人種差別は、未だにアメリカの根強い問題ですし、それを高校生が
考えなしに取り上げたに過ぎません。それでもここまで表面化されると、さすがに相
手が高校生とはいえ、私も腹が立ちました。
こちらのアジア人の生徒は、中国人や韓国人を抜いて、圧倒的に多いのが、モンとい
う東南アジアの民族です。カンボジアでの大虐殺やタイの難民キャンプに関係してい
たりする上に、英語にも不自由し、大抵の家は低所得のために、苦労をしているとい
う生徒が多いのも事実です。
ESL(第二言語としての英語)のクラスを人種別で見ると、モンの生徒より多いの
が、メキシコ系移民の生徒で、家族を故郷メキシコに残して、渡米している生徒もい
ます。
そして、数はそこまで多くはないものの、アフリカから移住してきた生徒の中には、
家族を守るための銃の構え方は分かっても、勉強するという概念さえ分からないとい
う生徒までいます。
英語を喋り、アメリカ人としての生活を送ってはいても、韓国や中国から養子縁組で
来たために、両親はおろか、自分の出生した国さえ見た事がないという生徒も。
職種、社会を見れば、アフリカン・アメリカンと白人の間には、やはり差があります
し、危険と言われる地域の住民は、悲しいことに十中八九アフリカン・アメリカン。
お金持ちの学校に行けるのは、ほんの一握りだけの生徒だけ。
貧富の差が激しいアメリカですから、生活に追われて、遊ぶ事を知らない生徒も数多
くいます。そういった生徒を対象に、ポットラックという、持ち寄りのパーティを学
校側が開いたりもするのですが、それにさえ参加出来ない生徒がいるというのも現状
です。
人知れず苦労をしている友達の事を思いやるどころか、小馬鹿にするとは、何という
ことか。高校生のうちからこんなでは、アメリカが、本当の意味で、「人種の坩堝」
と成り得る日など来るわけがありません。
腹が立つと同時に、何ともいえない悲しい気持ちで、では一体、観ている生徒はどう
思っているかと観客席を見渡すと、目を疑うような光景が飛び込んできました。
ちょうど教室の反対側に座っている生徒達が、頭を真下に下げて、観劇拒否の姿勢を
示していたのです。その数、2、3人ではありません。誰が先導したかは分かりませ
んが、10人以上。さらに驚いたのは、全員、私の生徒、あるいはその友達だったの
です。
頭を下げて観劇拒否をするなど、いかにも子供っぽい反抗なのですが、少なくとも、
他国の民族・文化を尊重しようとする姿勢に、胸が熱くなりました。
いつの日か、習った日本語は忘れてしまうかもしれませんが、その姿勢だけは忘れな
いでほしいと、心の底から願います。それだけでも、私がここに来た意味があるはず
ですから。
ところで、コーヒーハウスは、ファンド・レイズの小さい活動の1つですが、こちら
の学校では、年間を通して、各種のアクティビティーやコミュニティーによる、様々
なファンド・レイズが行われています。
例えば、バンドやオーケストラ、聖歌隊(クワイアー)のコンサートがそうですし、
上記したフットボールやダンスはもとより、水泳や野球、バスケットボールやバレー
ボールの試合、それにミュージカルや劇など、ほぼ全てのものに入場料が要ります。
日本では、学芸会や体育祭にまで入場料が要るという事はあり得ませんが、総じて寄
付が好きなアメリカ人からすれば、「入場料が募金になるんでしょう?面白いものが
観られる上に、寄付も出来るなんて、素晴らしいじゃない」ということになるようで
す。さすが、太っ腹。お腹のお肉も寄付可能なアメリカならでは。
幸い、教職員は、入場料免除の顔パスですし、生徒も熱心に誘ってくれますから、そ
ういったイベントや、放課後の活動にも、出来る限り顔を出して、生徒の活躍を観る
ようにしています。もちろん滑厄の時もありますが、猿だって木から滑るくらいです
から、気にしない気にしない。
2月には、GOFA(ゴーファ)という募金強化週間があり、ダンスやタレント
ショー、手品、アカペラや催眠術ショーなど、様々なイベントや催されます。プロ
フェショナルの人も招かれ、アメリカのショービジネスのレベルの高さを、垣間見る
事が出来ました。
聴力のないダンサー達が、スピーカーの音の振動だけを感じとって、全員一糸乱れ
ず、激しいアップビートの曲を踊っていたのを観た時は、言葉が出ないほど、感動し
ました。
そして、正式な顧問というわけではないのですが、国際交流クラブ(グローバルコネ
クション)というアクティビティーには、わりと頻繁に参加しています。色々な国の
料理を調理実習したり、劇やダンスなどのパフォーマンスを観に行ったり。これもま
た、移民の国、アメリカならではのアクティビティーでしょう。
日本人、ということで、和食の指導を頼まれた事もあります。肉じゃがの味がアメリ
カ人に分かってもらえるだろうか、とか、焼き魚をしようにも魚がないではないか、
などとしばらくは頭を悩ませていました。
が、いざその日になると、指導したのは、おにぎりとお味噌汁。まるで、『料理の鉄
人』に使われそうな御題です。ちなみに、この番組は、『アイロン・シェフ』といっ
て、アメリカでも大流行です。
「一口におにぎりといっても、具は発想次第、お味噌汁にしたって、だしや味噌な
ど、こだわればキリがないはずだ。これぞ芸術。」
鉄人なら、そのようなコメントをするに違いありません。
が、指導したのは、いかにも凡人メニュー。おにぎりの隠し味は、「大人のふりか
け」ですし、お味噌汁も即席インスタント。飯盒炊爨でもあるまいし、お米さえ炊き
上がっていれば、5分もあれば十分な献立です。何故、1時間もかかるのか、諸君。
それにしても、見た事がないというものは恐ろしいもの。
米を洗えと言った瞬間に、洗剤を手に取る生徒。ふりかけを混ぜ合わせる際、餅でも
作るかのごとく、ご飯をかきまわすミキサー・スチューデント。
フルパワーでもって握り締めたために、出来上がったおにぎりは、指紋の跡まで見て
取れそうな、ピカソなおにぎり。個性的という点では、手の平でバシンバシンと叩い
た、ザブトンおにぎりも負けてはいません。
インスタントのお味噌汁も、せっかく小分けにされているというのに、わざわざ1つ
の鍋に入れ、超強火で加熱。ゴボゴボゴボと湧き上がる、灼熱地獄のお味噌汁。風味
や香りは、私達の嗅覚には届かない、遥か天高い所に舞い上がっていました。
それでも、「おいしいね」と、満面の笑顔で、それらを完食する生徒。あなた達こ
そ、グルメ・リポーターの素質があります。
和食に限らず、このアクティビティーでは、アジア、ヨーロッパ、中東、アフリカ料
理など、色々な地方の、珍しい物を食べる事が出来ます。春巻きとザッハ・トルテ
(濃厚なチョコレート・ケーキ)が、同じ1つのお皿にのっていようが、異文化交流
万歳です。
平日は、朝から昼まで授業があって、そこから夕方までは仕事をしつつ、放課後組の
生徒に付き合い、時には夕方からアクティビティーに顔を出したりすると、遊ぶ時間
などないも同然ですが、そのかわりに、こちらの学校は休日が多いので、仕事のホル
マリン漬けという感覚はありません。せいぜいピクルス程度です。
初年度、10月の3週目には、ダルースという北方の町に行ってみました。ここは、
世界最大の淡水湖、スペリオール湖(五大湖の1つ)の近くにある、丘の町です。地
平線の見える大地が、紅葉で真っ赤に染まっているのを見た時は、卒業式の金八先生
にも負けないほど、感動しました。
本格的な冬が到来し始める11月には、4日間、あるいは5日間にもなる黄金週間
が、なんと2回もあります。
そのうちの1回に、サンクスギビングという収穫感謝の日(4週目の木曜日)があり
ます。御存知の方も多いと思われますが、これは、1620年、メイフラワー号でア
メリカにやってきた初期の移住者が、過酷な環境の中、ネイティブ・アメリカンの助
けを借り、作物を収穫出来た事を神に感謝したことから始まったとされています。
日本の正月料理と同じく、各家庭のアレンジはあるものの、基本的に、ターキー(七
面鳥)、スクワッシュ(裏ごししたカボチャ)、グレイビーソース、クランベリー
ソース、マッシュポテト、スタッフィング(料理の鳥などの詰め物料理)、キャセ
ロール(厚手鍋を使った、シチュー料理)、パンプキン・パイが食卓に並ぶようで
す。
12月の3週目から冬休み休暇が始まり、25日にはクリスマスがあります。クリス
マス料理のメニューは、クリスマス・クッキーが加わるものの、サンクスギビングと
ほぼ一緒です。一体、何羽の七面鳥が、このホリデー・シーズンに、店に召された事
でしょう。
個人的には、キャセロール料理の1つ、ミネソタ特産のワイルド・ライス(黒い米)
を使った、マッシュルームシチューが、美味しかったです。寒い冬に食べるシチュー
は、また格別です。
「寒い」というよりは「痛い」ミネソタの冬については、先回触れましたので、ここ
では、この時期の娯楽・イベントについて、述べましょう。
まずは何といっても、ウィンター・カーニバルです。セントポールの街に、巨大な美
しい氷の彫刻が並び、広場には、アイスパレスという、文字通り、氷のお城が建造さ
れます。ミネソタに1万以上ある湖が氷るのですから、資材は無限なはずです。夜、
ライトアップされた氷の城は、何とも言えず、神秘的でした。
あまりにも寒かったので、長い間見物するというのは、物理的に不可能だったのです
が、現地の人に倣って、10セント硬貨を、氷の壁にはりつけてみました。
ピタッと氷にはりつく硬貨を見ながら、小学4年生の頃、真夜中にコッソリと、冷凍
庫のアイスキャンディー(牛乳に砂糖を入れたもの)を、製氷器ごと舐めようとした
私の姿が思い出されました。
愚かとはまさにあの事で、製氷器が舌にはりついたのです。冷静になって、水をかけ
れば、何ということもなくとれるのですが、当時の私は、そんな事を思いつきもせ
ず、舌を血まみれにしながら、製氷器から無理矢理はがしました。ベロデロデロ。
愚かな事と言えば、もう1つ。中学1年生の時、宿題をしながら、ジュースを飲んで
いた時の事です。
飲み終わったグラスを口にあてて、グラス内の空気を吸うと、それは見事にピタッと
密着するのが面白くて、宿題もそっちのけで遊び始めました。
やがて、グラス内の空気を吸い続けて、真空状態にすれば、手でコップを持つ必要も
なくなるという事に気付き、コップを口にはりつけたまま、私は宿題に戻りました。
半時間ほど経った後、だったでしょうか。そろそろコップを口にはりつけているのに
も飽きて、息をコップ内に吐き出して、ソロソロとはずしてみました。
すると。
口の周りには、直径10cmの丸いコップの跡が、クッキリハッキリ。さらに、円の
内部は、真空状態による鬱血により、暗紫色になって腫れ上がっていました。もちろ
ん、唇だけ無事というわけにはいかず、賞味期限の切れた、博多の辛子明太子。
翌日も翌々日も翌々々日も、マスクをして登校した私を、風邪だと心配してくれた友
達、ありがとう。でも、良い子も悪い子も、マネしないで下さいね。
そう、マスクと言えば、さすがにスケートをする際には、顔マスクをするミネソタ人
もチラホラいるようです。
痛みを覚えるような寒さの中、何を好き好んで、屋外のスポーツ、しかも、わざわざ
寒風をきって、氷の上を滑走しなければいけないのか理解不能ですが、「天然のス
ケートリンク(湖)」という言葉の響きに負けて、私も中古のスケート靴を買ってし
まいました。
アイスホッケーをする友人(プロ級に上手)が、恐れ知らずにもホッケーを教えてく
れるのですが、そもそも後方に滑るのもやっとの私に、スティックやパックを操るな
ど、到底無理な話。「アイツボッケー」、そんな事を思われていない事を祈ります。
寒いのならば、大人しく屋内にいればいいのですが、人間、やはりたまには外の空気
を吸いたくなるのです。
というわけで、年末には、知人宅で、屋外のジャグジー風呂を楽しみました。ミネソ
タで露天風呂。これは何とも言えない贅沢だったのですが、ミネソタだけに、湿気を
帯びた髪は凍りつき、暴走族も泣いて黙る程のバリバリ・リーゼント。
お湯の温度も、どう頑張っても35度以上にはなりません。35度というと、半身浴
には適温ですが、外気がマイナス20度ともなると、明らかに、ぬるすぎ。半身浴な
どしようものなら、半死浴になる事、確実です。
それに、バスタブから出ると、セブンセンシズに目覚めたかのように、全身から舞い
上がる、真っ白の蒸気。怒れる孫悟空。ハーッ!
大晦日は、衛星放送で朝7時から紅白歌合戦を観て、日本気分を味わいましたが、紅
白の後で昼食を食べるというのは、何とも奇妙でした。
年越しは、モール・オブ・アメリカという全米一大きいモールで花火(ミネソタで
は、花火は違法なので、備え付けの花火のセット)を観たり、友人とささやかなパー
ティを開いたりしました。
テレビで、ニューヨークのタイムズ・スクウェアのカウントダウンを観て、大いに盛
り上がったのですが、「ハッピーニューイヤー!!」と、大地を蹴って叫んだ瞬間、
「でも、ニューヨークは東部時間だから、私達(ミネソタは中部時間)のカウントダ
ウンは、1時間後だよ。」
と、友人の冷たい一言。・・・つまり、アメリカは、4回、カウントダウンがあるわ
けなのです。
日本と違い、こちらでは、お正月は大した行事ではないので、1月2日、あるいは3
日から学校が始まります。一般の会社などは、大晦日もお正月も、全く関係ありませ
ん。
そして、1月の3週目。極寒の中、1学期(ファースト・セメスター)が終わりま
す。私は決して獄官ではありませんが、ここで、単位を落としてしまう生徒も、何人
かいます。
2月の最終土曜日には、ジャパン・ボウルという、日本語を学習している高校生の大
会があるので、この頃から、参加者は、放課後に残って準備を始めます。これは、全
米規模の大会なので、優勝したチームは、ワシントンDCの本戦に出場する事が出来
ます。日本の高校野球と同じ、といったら分かりやすいでしょうか。
出題項目はというと、作文と文法、漢字、カタカナ、ことわざ、擬態語(擬音語)、
文化に関する問題、です。準備は、全て各高校の教師に一任されていますので、頑張
ろうという生徒のためにも、私としても、資料や教材作りに力を注ぎはしたのです
が、この「文化に関する問題」というのが、曲者。
一応、「有名人」とか「政治」、「経済」や「祭り」など、特定された題はあるので
すが、それにしても、あまりに範囲が広すぎるのです。「有名人」と言われても、モ
ン娘からサブちゃんまで。「政治」と言われても、小泉首相から三権分立まで。何が
出題されるのか、皆目見当がつきません。
それでも、私なりに考えて、去年は資料を作ったのですが、いざ、大会で出された質
問はというと、
「ピカチュウは、何色でしょう?」
これは、おそらく、「アニメ」という項目からの出題でしょう。インターネットを
使って、ドラエモンや鉄腕アトム、ちびまるこちゃん、サザエさんやトトロなどの情
報を集めた記憶があります。
しかし、日本語を選択している、していないに関わらず、アメリカの高校生で、この
質問に答えられない生徒は、いないはずです。
私の教室にも、ピカチュウ人形が、デーンと居座っています。取り外し可能な頭部
が、本棚の上にのっていたり、水性ペンでモミアゲやヒゲを書かれたりもしますが、
とにかく、皆のアイドルです。私の苦心も、水の泡でした。
もっとも、一人でバブル崩壊している私をよそに、生徒達は生徒達なりに楽しんでい
たようです。和太鼓や空手、合気道などのワークショップもありますし、何より、日
本語を習っている、他の学校の高校生に会えた事が、いい刺激だったようです。
当たり前ですが、他の学校にも、もちろん日本語の授業はあり、時々、コーヒー
ショップやレストランに集まって、日本語教師同士、情報を交換し合います。
会議というほどかしこまったものではありませんが、明らかに私が一番の若輩者なの
で、教育に熱き情熱を傾ける、先輩方の熱き討論に、耳を傾けるばかりです。首を傾
げるなんて、恐れ多くて出来ません。
私の高校でも、1ヵ月に1度、水曜日に職員会議がありますが、会議時間は、たった
の1時間。会議を進める校長もノンストップですし、1つ1つの議題についても、会
議参加教員の意見や案を聞くというよりは、決定事項を伝えるという感じなので、進
行速度が、とても速く感じられます。閉店間際の回転寿司。カラカラカラ。
しかし、この1ヵ月に1度、たったの1時間の会議にさえ、「時間の無駄だ」と文句
を言う教員もいますから、つくづく国の差異を感じます。
ジャパンボウルが終わると、3月に入ります。最高気温が氷点を上回る日もあって、
心はすっかり春気分です。真冬の神戸よりもよほど寒いというのに、慣れとは、本当
に恐ろしいものです。
そんな、気分だけは春を先取りしている3月の3週目、約1週間の春休みがありま
す。
去年は、この春休みを利用して、ニューオリンズに行きました。昔から、アメリカに
旅行するとすれば、絶対に、ニューオリンズかニューヨークと決めていました。ラジ
オ英会話で、ニューオリンズを舞台にしたお話があり、大好きだったのです。
そんなわけで、ミネソタ在住のこけし娘。南アフリカ共和国出身の友達と一緒に、い
ざ、ディープサウスへ。
ニューオリンズは、フランス・スペインの支配による100年あまりの植民地時代の
歴史があるので、どこかヨーロッパを思わせる街並みでした。そして、奴隷制度の悲
しい過去があるものの、アフリカン・アメリカンのパワーも加わって、独特の雰囲気
がありました。
それに、なんといっても、ジャズの本場。スペイン風の鉄レース細工が美しいバルコ
ニーが並ぶ、フレンチ・クォーターのバーボンストリートには、ジャズの店が軒を並
べていました。さらに、店はもちろんのこと、ストリートのジャズマンの質も高く
て、ついつい聞き入ってしまいました。
電化製品店の店頭、サンプルのテレビなどで、面白そうな映画を上映していると、つ
いつい立見してしまう私。「ライオンキング」や「ターザン」などは最初から最後ま
で観てしまいましたし、長編「タイタニック」も完全制覇。足、イタイタ肉。
そんな私ですから、ニューオリンズの大道芸人に、目を奪われないわけがありませ
ん。くいだおれ人形のような顔の手品師も、一輪車のお兄さんも、赤パンツを穿いた
ダンサー達も、体を銀ピカに塗ったロボットおじいちゃんも、ほぼ毎日見ていたため
に、今でもしっかりと顔を覚えています。
普段は、あまりお酒は飲まないのですが、せっかくのニューオリンズに来たのだから
と、皆の真似をして、ハリケーンというお酒を片手に、街をブラブラと散歩していま
した。
何ということもない光景かもしれませんですが、ミネソタは、戸外の飲酒は禁止され
ているので、これはちょっとした経験でした。ミネソタで、日本式の花見でもしよう
ものなら、宴もタケナワ、全員が、オナワを頂戴するでしょう。
ジャンバラヤやガンボスープなど、世界的に有名な、ニューオリンズのクレオール料
理やケイジャン料理も、しっかりと堪能してきました。ナマズやザリガニ、カキと
いった名物も、もちろん忘れたりはしません。
中でも、私は「ポー・ボーイ(“Po Boy”)」という、カキフライのフランスパンのサ
ンドイッチが、特に気に入りました。
しかし、この美食談を生徒に報告した時の事です。私の英語の発音が悪かったせい
で、とんでもない話になってしまいました。
私 「ニューオリンズは、とても良かったですよ。・・・(中略)・・・
『ポー・ボーイ(“Po Boy”)』 が、忘れられないほど、美味しかったです。」
生徒「・・・貧しい少年 『プアー・ボーイ(“Poor boy”) 』が、美味しかった?
先生?」
誤解です。プアーではなく、ポーです。はい、はい。ポー。ポー。ポー。ポー。
ニューオリンズからミネソタに戻ってきた時は、あまりの寒さに、開いた口が塞がり
ませんでした。そして、開けている口も、寒いのですぐに閉じられました。
ただ、4月になると、さすがにもう雪が降るということはありません。激しい寒暖の
差に、体調が崩れる事もありましたが、惨寒刺怨の冬に比べれば、何のその。
カミナリ様が逆上したような稲妻が、雷雨を伴って、暗雲立ちこめる広大な空を、縦
横無尽に駆け抜ける様は、確かに恐ろしいです。が、それでも、カミソリ様のような
痛い寒さの方が、よほど辛ひ辛ひ。
冬季には不可能だった、ファイアー・ドリルという避難訓練も、行われるようになり
ます。日本の避難訓練も緊張感があるとは言ませんが、こちらのそれは、紅白歌合戦
のキムタク級に、さらに緊張感に欠けます。
授業中、ブザーが鳴って、ダラダラと校舎の外に出て、数分後、再びダラダラと教室
に戻るだけ、というもの。消防署の方々が見られたら、小林サッカーのようなキック
が炸裂する事でしょう。
腰をかがめて、とか、ハンカチを口にあてて、とか、そういった事をしている生徒な
ど、一人もいませんし、そもそも、ハンカチという習慣が、こちらにはありません。
ハンカチのない、長身のアメリカ人。有毒ガスを深呼吸です。スー。
しかし、たかが避難訓練と侮ることなかれ。火事は、もちろん大願ではありません
が、と同時に、決して対岸でもないのです。
ある日の早朝、4時。アパートの防音効果が高いのか、耳をつんざくような音ではな
かったのですが、けたたましい火災報知機のサイレン音に飛び起きました。
しかも、ちょうどその時は、日本から友人が来ていました。普段は、あまり肝が大き
い彼女ではないのですが、その時に限って、「大丈夫。きっと誤報だよ。」と、やけ
に肝が据わっていました。サイレン音を無視して、再び寝ようとする友人。逞しい限
りです。
しかし、そうはいっても、住人の私としてはやはり気になったので、偵察に行くこと
に。そして、廊下を出て、階段を下りていくと、「火事だー!逃げろー!」という叫
び声。買い物袋の底の生卵のように、グシャっと肝が潰れました。
アクション映画のように、2段とばしで階段を駆け上がり、部屋に戻ると、友人が、
「けむりクサイ」という、何ともまあ状況に適した意見を述べてくれました。窓の外
には、煙がモクモク。
色々大事なものを持って行きたい、という誘惑を蹴飛ばして、パスポートと鍵だけ
持って、外に飛び出しました。もちろん、タクマシイ友人も一緒。命あっての物種で
す。
これは11月の話で、もうすでに寒かったので、他室の住人は、車に乗って暖を取り
つつ避難していたようですが、私達は、寒さにブルブル震えながら、建物の前で、ボ
ケーと火の元を見上げていました。
驚いたのは、出火した部屋の番号が、404だったのです。そして、私の部屋番号
は、504。
アパートには、200以上も部屋があるというのに、なぜ、よりにもよって、私の階
下の部屋から出火?!小学生でも知っている通り、炎は上に上って行きますから、私
の部屋だけが、◎コゲになってもおかしくありません。そう考えると、肝がキンキン
に冷えました。
消防士の方に許可をもらって部屋に戻りましたが、ベランダは、ガンガンすさまじい
ハンマーの音がしていますし、寝耳に水をかけられて、すぐに眠りにつくという事も
出来ません。
ハリウッドスターならぬ、ミネソタスターのように、消防車からの強烈な照明を当て
られ、二人して某然としながら、リビングの窓から、しばらく消防活動を見ていまし
た。
決して、好んで災厄を招いているわけではないのですが、人生、明日には何が起こる
か分かりません。君子、危うきに近寄らずといっても、危うきが君子に近づいてくる
場合は、どうしようもないのです。しかも、私は、ただのトモコ。キミコではありま
せん。
この日記とは別に、私は、阪神大震災の一週間前から、個人的な日記をつけているの
ですが、これも、「明日の事は、誰にも分からない。だから、今日一日を大切に過ご
そう。」といった思いからです。
震災の1週間前の日記には、「今日、ファッション雑誌を2冊も買ってしまった」
「とうとう、雲のジュ-ザがやられた(アニメ『北斗の拳』の再放送)」などと、自
分でも泣きたくなるほど、つまらない事が書かれているのですが、日記の内容も、震
災を機に、一転。高校生の私には、ショックだったに違いありません。
滅多に日記を読み返す事などありませんが、それでも、一日の終わりに、その日を振
り返って自分の行動や気持ちを書く、というのは、決して悪い事ではないと思いま
す。
「日記は、文句や不満が呪詛のように続いて、根暗な気分になるので、つけたくな
い」という方もおられるようですが、私の日記は、正反対の正反対の正反対、540
度違います。
もちろん、たまには怒りのコメカミマークも登場していますが、基本は、いたって
ハッピーライフ。辛くたって、メゲナイわ。だって、辛デレラですもの。
例えば、お金がなかったせいで、歩きに歩いた、去年の夏のヨーロッパ貧乏旅行。記
憶では、あの時、「もう、足を前に出すのも辛デレラ」などと思っていたと思うので
すが、日記には、
「今日は、街への往復20キロ歩いた後、登山をする羽目になった。てくてくてくて
く。暑かったし、しんどかったけど、街がゆっくり見えてよかった。それに、自分で
登ったおかげで、山頂からの眺めは、本当に感動した。ラッキー。(出典:『私の日
記』第13巻)」
と、書かれていました。・・・ラッキー?ノンノン、決してラッキーなどではありま
せん。使用法を間違えています。
誕生日など、嬉しいことでもあろうものなら、自分が幸せの★のもとに生まれたかの
ように、ペンを躍らせます。タラララ。辛デレラ、ラララ舞踏会デビュー。
宣伝するわけではないですが、ちなみに、私の誕生日は5月です。ようやく本物の春
の到来です。春の麗のミシシッピ河も、陽光を受けて、キラキラ輝きます。
放課後には、生徒達が、誕生日パーティーを開いてくれました。しかも、セントポー
ルにある、有名カフェのチーズケーキを、わざわざ買いに行ってくれたのだとか。
神々しいまでに純白なケーキ。アメリカ人が大好きな、赤や青、緑や黄色の原色万歳
・虹色ケーキとは比べようもないほど、美味しかったです。
そして、生徒全員からの色紙。誰かが、「おたんじょび、おめでと」と書けば、後の
全員が、「おたんじょび、おめでと」。普段だったら、うううと唸りながら、赤ペン
で「う」「う」「う」「う」と書き込むところでしょうが、この日ばかりは、素直に
感動しました。ううう。
さて。5月の3週目には、プロム・ダンスが開催されます。これは、卒業生(シニ
ア)のパーティで、参加者は目いっぱいに着飾って、友人たちと長い一日を楽しみま
す。高校生活で、最も大きな行事の1つと言えるでしょう。
この日は、朝からドレス・アップで大忙し。午後、正装した卒業生は、学校の講堂に
設置されたランウェイで、御披露目をします。そこからプロム・ダンスまでの間、各
自、洒落たレストランで食事をし、夜になって、プロム・ダンスへと出かけます。
ダンスの会場は、学校の体育館などではなく、ホテルやイベント・ホールが貸し切ら
れます。タクシーを使う生徒もいれば、リムジンをチャーターする生徒もあり。気合
十分です。
参加条件というわけではありませんが、このプロムには、男女のカップルで、という
のが通例のようです。ちなみに、流言蜚語を避けるためにも、同性同士というのは、
禁止されています。
ロマンチックな習慣だとは思いますが、パートナーを見つける事が出来なかったり、
たとえ見つけたとしても申し込んで断られたり、あるいはプロム直前に交際破棄とい
うカップルもいたりしますから、苦い思いをしている生徒も少なからずいるはずで
す。
悲しい事に、私の学校は女子校だったので、そういったほろ苦い思い出とは全く無縁
でした。
ここで、ちょっと私の青春日記におつきあい下さい。
「7時38分の電車の5つ目の車両に、カッコイイ人がいる」だとか、
「あそこのマクドナルドでは、○○高校の人に声をかけられる事がある」だとか、誰
が流したかは分かりませんが、とにかくそういう噂は、よく耳に入ってきました。残
念ながら、実際、そういう人は、目には入っては来ませんでしたが。
そのような環境でしたから、あれは本当の恋とは呼べないかもしれません。ですが、
高校一年生の夏、16歳の私は、一人の男性に、確かに心を奪われていました。
それは、「暇」「お金が欲しい」ということで、親には一ヶ月の約束で、アルバイト
をした時の事です。
学校にバレないように(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい)、内緒で働ける所
を探したのですが、見つけられたのは、唯一、マクドナルド。しかも、神戸のメイン
・ストリートの入り口に、デデ-ンと構えているその店舗は、秘密どころか、まるで
ランドマーク。
学校にバレない事をひたすら祈りながら、「いらっしゃいませー、ご注文お決まりの
お方は、こちらのレジへどうぞー」と、マニュアル通り、オウムのように同じ言葉を
繰り返し、文字通り、機械と化して働いていました。
ほぼ3分ごとに、同じ事の繰り返しだったので、飽き飽きする事も時にはありました
が、まだまだ初々しかった私。たとえ、お客様に「スマイル2つ下さい」と言われて
も、「はいっ」と応えて、<笑顔一発目>→<能面>→<笑顔二発目>と応えていま
した。
そんな私の5メートル後方で、ポテトを揚げていたお兄さん。制服の紙帽子のせいで
顔もよく見えない上に、性格はおろか、名前さえ知りませんでした。が、当時の私に
は、このポテトマンが、とても格好よく見えたのです。
SサイズやMサイズのフライドポテトでは、「ポテトS、2つです」などと、私の一
方的な発話で終わってしまうのですが、Lサイズを頼むと、なんと、「ポテトL、揚
がります」という返事が、彼から返ってくるのです。マニュアルだから、当たり前な
のですが、私にとってはこの10文字が、コミュニケーション成立の証でした。
というわけで、お客様がLサイズを注文して下さると、レジの下でタップ・ダンスを
踊るほど喜んでいました。エル、エル、エルは何の?エル、エル、エルエルエルエル
この注文に 燃える愛をのせて~♪
・・・いざ書いてみると、驚くほどつまらない話。恋に恋する、というよりは、故意
に恋する、と言った方が正確かもしれません。しかし、今日もどこかのマクドナルド
で、あなたのLサイズのフライドポテトの注文を待っている、という女の子ならば、
きっと共感してもらえるでしょう。
そして、6月に入ると、卒業生のために、それぞれの家でオープンハウス(もしく
は、シニア・パーティ)というホーム・パーティが開かれ、友達の他にも、親戚や近
所の人、教師までもが招かれます。
卒業生本人がそれを望むかどうかは別として、家中、「エリザベス(仮名)、卒業お
めでとう!」とデコレーションされたり、壁中一面にエリザベスさんの生まれた時か
らの写真が貼られたりします。
エリザベスさんには悪いですが、こんな恥ずかしい習慣が日本になくて、本当に良
かったと感謝しています。
私だって、写真から判断するに、幼い頃はそれなりに可愛かったし、小学校四年生く
らいまでは、まあまあイケてると思える容姿をキープしていたのですが、小学校高学
年から思春期に入り、サラサラだった髪も、いつの頃からか水爆のように変異し、肉
もつくつく・つくつくぼーし。
そして、まさしく暗黒時代の、中学校、高校時代。
「人は、外見でなく、中身で勝負」といいますが、いえいえ、外見だってけっこう大
事です。しかも、私の学校は、私服登校だっただけにタチが悪い。
高校を卒業してからしばらく後、写真を見た時のこと。大きなフリルのついた丸襟
や、レースいっぱいの靴下を履いた友人を見て笑うのも束の間、その隣の己自身を見
て、唖然。
変なワッペンのついた、淡い黄色のトレーナーを、わざわざ、ズボン(黄土色)の中
に入れ、ウエストを細く見せたかったのか、ベルトで、ギュギュギュと縛り上げてい
るのです。
しかも、そのズボンは、おそらくリバーシブルだったのでしょう。深く折り返した裾
から見えるのは、赤と緑のクリスマスカラーのギンガムチェック。もうこれ以上の色
を足すのは許されないというのに、足元は、ピンクのラインが入ったテニスシュー
ズ。
卒業という人生の晴れ舞台で、こんな私を、わざわざ白日のもとにさらすだなんて、
とんでもない話です。
もっとも、幸い日本に生まれましたし、既に高校も卒業しましたから、こんな事は心
配しなくてもいいのですが。
きっと、友達や親戚、近所の皆様に囲まれて、一見幸せそうに笑っているエリザベス
さんも、内心は複雑だったに違いありません。
もしも将来、結婚式の時など、過去の写真を提出しなければならない時が来たら、直
木賞選出のごとく、少しでも写りの良いものを厳選するつもりです。
傍から見れば、つまらない見栄かもしれませんが、これもイジラシイ乙女心。
そういえば、水泳の息継ぎの時に、鼻と口をフンガーと目一杯大きく開けた顔を、
プールサイドの友達に見られたくなくて、努めてオスマシ顔で息継ぎをしていまし
た。タイムや肉体的苦痛の犠牲なんて、乙女心の前には、関係ありません。ただし、
その分、水中の顔については・・・見ない方が良いでしょう。お止め心。
シニア・パーティと並行して、6月の2週目に、セントポールのコンベンションセン
ターで、卒業式がありました。
よく映画で見るような、帽子とガウンを身に着けた卒業生が、次々と入場する様は、
なかなか壮観でした。が、おそらく予算の関係なのでしょう、帽子もガウンも、ハ
リーポッターのようなビロード素材というわけにはいかず、汗吸収力抜群、皺残存度
抜群の綿100%。
何だか幼稚園のお遊戯会の大臣役のような衣装で、どうも安っぽい印象を受けたので
すが、それでも、卒業生は皆とてもいい顔をしていました。
「諸君は、今、ここで、ヘンリーシブリー高校を卒業した」という司会者の挨拶と同
時に、帽子を高々と投げるというパフォーマンスも、感動的でした。フライングで、
ヒョイヒョイ帽子が飛んでいたのは、ご愛嬌。
卒業式の後は、今度は学校でのシニア・パーティが、夜通しであります。
このパーティは、式後でお祭り気分の卒業生が、ドラッグやお酒の入ったパーティを
するくらいなら、学校に集めてしまって、徹夜でパーティをしようという発想から始
まったそうです。
私は、次の日に授業がありましたから、徹夜でパーティに参加するつもりではなかっ
たのですが、どんなものかと、ちょっと覗いてみました。
大人が本気を出した文化祭、とでもいったらいいでしょうか。とにかく、すごい。親
や地域のボランティアの方々の協力で、学校が文字通りアミューズメント・パークと
化していました。
壁という壁にペイントがなされ、普段の学校からは想像もつかないような華々しさ
で、ピザやシチュー、ファーストフード、ジュースやアイスクリームなど、食べ放
題、飲み放題。
体育館には、ゴーカートや、エアーの入った巨大遊具やレスリング・スタンド、ダン
スダンスレボリューションなどが入っていて、これらも遊び放題。ネイル・サロンや
タトゥー・コーナーは、女の子たちで賑わっていました。カラオケが入ったカフェが
あったり、本格的なカジノ(お金は偽物)まであったりしました。
日本のちょっとしんみりとした卒業もいいけれど、こういう底抜けに明るい卒業もい
いなぁと思います。
ところで、こちらの公立高校は私服なので、「せ・・・先輩、制服の第二ボタンを下
さい・・・」という、青春の1ページはもちろんありません。
以前、授業中にこの事について説明した時、「僕等は、ボタン・コレクターじゃない
よ」と、一笑に付されてしまいました。イジラシイ恋心と、ボタン・コレクターを同
じにしてほしくないものです。それに一言付け加えておくと、ボタンをもらうのは、
女の子です。少年、君達ではありません。
次の日には、パーティの跡形もなくなっていたので、下級生にとっては、この徹夜の
シニア・パーティというのは、ちょっとしたミステリーのようです。
シニアがいなくなって、学校は何となく寂しくなってしまいますが、残された下級生
は、そんな教師の感傷をよそに、期末テストにむけて、準備を始める・・と思うので
すが、日本と違って、期末テストといってもそれほど深刻なものでもありませんか
ら、これは疑問です。
6月の2週目、期末テストが終わると、9月からの学年は終わり、2ヶ月半の長い夏
休みに入ります。家族と旅行に出かけたり、各種のキャンプに参加したり、アルバイ
トに勤しんだり、各人各様の夏休みを過ごします。
宿題もありませんし、塾もありませんから、文字通り、勉強からの解放です。と同時
に、せっかく一年かけて学んだ事も、夏休みの間に潰崩してしまいます。夏休みが明
けて、「夏休み、日本語の勉強を頑張ったよ」と、快報が聞けることは、まずあり得
ません。
開口一番、彼等が言うことは・・・↑<ハジメニ モドル>
ナイキのロゴ眼
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.335
2004-12-09T00:33:06Z
2006-11-05T14:09:13Z
12月8日 「え、もう授業、終わっちゃったの?」 授業の終わり。毎回というわけ...
uchida
12月8日
「え、もう授業、終わっちゃったの?」
授業の終わり。毎回というわけにはいきませんが、生徒の口からこの言葉が発される
と、雨傘をさしたトトロのように嬉しくなります。
たとえ他の生徒にとっては、私の授業が、田舎駅での汽車の待ち時間のごとく長く感
じられたとしても、少なくともある生徒は、都心の地下鉄のそれのように短く感じて
くれているわけです。
恥ずかしい話ですが、私自身の中高生時代は、時計とニラメッコしながら、
「授業よぉぉぉぉ、はーやーくーおわれぇぇ」
などとばかり考えていました。私のニラミにも関わらず、時計氏は全く動揺の色を見
せませんでしたが。
小心者ゆえ、中間や期末テストなどは、私なりに頑張りましたが、授業中の態度は、
決して決してお手本になるようなものではありませんでした。
2時間目には1時間目の授業の宿題を、3時間目には2時間目の授業の宿題を・・・
というように内職に勤しんで、江戸時代末期の侍と化すこともあれば、一分間息をと
めて、二分間休憩して、また一分息をとめて・・・という潜水ならぬ潜気をすること
もあり。ミネソタの高速道路ほどツマラナイ、友達との筆談も、中高生の私にとって
は必談。
「なぜ、学校へ行くのか。」
「そこに、友達がいるからさ。」
まったく、とんでもない生徒でした。それでも、クラブと休み時間と美術と体育は、
好きだったのですが。
こんな高校生が、一時間の授業が90分という大学に進学するのですから、恐ろしい
話です。
はじめの30分は、ヘビー級の睡魔との格闘。はたから見たら、ジャブ、アッパー、
ジャブ、と一人ボクシングをしているも、次の30分は、ノックダウン。そして、顔
中に、時計や服や本などの傷跡を残して、再びマウンドにのぼってからも、まだ30
分残っているのです。ううう。
と、こんな事を書くと、両親や先生方の目が、ナイキのロゴのようになっていると思
われますので、ここでちょっと自己弁護をしておきますと、もちろん毎回ではありま
せん。時効と思って、許して下さい。
それに、多少大人になって、講義中に寝るのは、先生方に対して失礼だということも
十三分に分かっていましたので、机に突っ伏して寝ることだけはないように、気があ
るうちは、気をつけていました。
「眠い」と思ったら、分厚い英和辞典や、めがねケースをゴソゴソと取り出して、机
の上に立てて、その上にアゴを装着。これで、少なくとも机に突っ伏す事は防げます
し、「私、とっても眠いんですけど、本当は寝たくないんですぅ」と、先生にアピー
ルも出来ます。
少なくとも、私は、そう思っていました。
しかし、忘れもしない、ある冬の日の7時間目。いつも私の悪癖を見ている、隣の席
の友人が言いました。
「あのさー。いっつも思ってたんだけど、どうして、先生にわざわざ寝顔をアピール
するの?」
ガーン。
でも、確かに、教壇から見れば、、立てた辞書の上にアゴをのせている私の寝顔は、
いやがらせ以外の何物でもありません。その後、友人と大笑いしていましたが、内心
は、穴熊にでもなりたい気分でした。
穴熊といえば、日本語の授業中も、机の下に潜り込み、冬眠ごっこに興じる穴熊が、
たまに発生したりもします。しばらく放っておくと、相手にされないのが寂しいので
しょう、見つけてくれと言わんばかりに顔を覗かせて、声をかけてもらえるのを待っ
ています。
かくれんぼうの達人が、上手に隠れ過ぎてしまった時の心境なのでしょうが、少なく
とも、あなたは○ミエです。
さらに、放課後ともなると、私の机の下を狙って、暗闇を満喫する生徒まで出てきま
す。
何が楽しいのかとも思うのですが、私自身も、幼い頃、部屋の隅で仰向けの姿勢で手
足をバタバタさせて、瀕死のゴキブリと化しては喜んでいたそうですから、それを見
ていた母も、きっと同じ気持ちだったに違いありません。
「この子、大丈夫かしら。」
大丈夫かどうかは分かりませんが、そんな娘も、二十ウン年を経て、イッチョマエに
授業をする側にいるわけです。
私が教師に向いているかいないかは別にして、こちらに来てから最初の一ヶ月、生活
面がまだまだ不安定な頃は、授業だけが唯一心の落ち着く場でした。もちろん、生徒
も私もお互いにまだ遠慮がありましたが、今思えば、あの頃のやりとりも新鮮でし
た。
と、何やら倦怠期の夫婦のようなコメントですが、本当にあの頃は、課題のワーク
シートを渡しても、「どうもありがとうございます」。テストで「頑張って下さい
ね」と言えば、「はい、頑張ります」という返事が返ってきていたのです。
それに、私も、必死で全身から善人エキスを絞りだしていましたから、なんと「神
様」とまで言ってくれる生徒までいました。瀕死のゴキブリが、大出世です。
しかし、ものの一ヶ月で、なけなしの善人エキスも枯渇してしまうと、悲しいかな、
おのずと生徒と私の関係も変わってきました。
宿題を渡せば、「ワークシートはダメです(日本語1)」から始まって、「宿題は、
欲しくないです(日本語2)」「いいえ、宿題は、結構です(日本語3)」「手が痛
くて、もう宿題は出来ません。残念ですねえ・・(日本語4)」などと、己の持てる
日本語テクニックを駆使して、対抗してくる生徒。
しかし、私も負けてはいられません。ゲームをした後に、御褒美(or罰ゲーム)とし
て配ったり、「いらっしゃいませ。今日は、白い紙が安いですよ。」と、紙屋の怪し
い店員になったり、あるいは「ジングルベール ジングルベール・・♪」とサンタク
ロースに変身したり、あの手この手を考えながら、宿題を生徒に手渡しています。・
・・他の所に頭を使うべきですか?
おかげで、一度は神様にまで出世したゴキブリも、「先生は、イジワルです」と言わ
れ続けて、触角にタコができてしまいました。
中には、「神様」から格下げで、「トモちゃん」と呼んでくる生徒もいますが、それ
では勘違いしたアイドルです。それに、「ヤベ様」と呼ばれるのも、どうも性悪の地
主のような響きがしてなりません。
ところで、その性悪の地主様は、ワークシートや毎週のテストの他にも、章が終わる
毎にスピーキングテストを実施しています。
しかし、これがまた、妙薬は口に苦し。スピーキングテストの黄色の紙を見た瞬間
に、悲鳴をあげる生徒も少なくありません。
これは、その章で習った単語や文法を取り入れた会話文を丸暗記するというもので、
このテストがある時は、毎日、授業中の10分〜15分ほど、皆、呪文のように台詞
を唱えて練習をします。
一例をあげますと、
1「わあ、広い運動場だね。 あ、ゲームが始まったよ。」
2「ファイト! ねえねえ、どっちが勝つかな。 ワクワクするね。」
1「もちろん、Aチームだよ。 Aチームは、いつもとても強いから。」
2「そうそう、知ってた? あの五番のユニフォームの選手は、友達だよ。」
1「あの背が高い選手? 足が速そうだね。 今、スコアは?」
2「55対54で、Aチームが負けているよ。 あと一点。 あと一分だけだよ。」
1「絶対に勝てるよ。 ドキドキするね。 あ、ほらほら、見て。二点取ったよ!」
2「あ、終わった。 やったあ! 勝った勝った! 万歳! 優勝だ!」
1「すごいね。 よかったね。」
2「さあ、乾杯をしよう。 3階の喫茶店に寄らない?」
1「いいね。 そうそう、明日もバスケットの試合があるけど、見に行かない?」
2「いい考えだね。 応援に行こう行こう。 始まる時間や場所は?」
1「試合の時間は午後7時で、場所は、学校の体育館だよ。」
2「分かった。 じゃあ、6時半頃に車で迎えに行くよ。」
1「ありがとう。 じゃあ、その頃に家の外で待っているね。」
2「うちは厳しいから、夜は10時までに帰らなきゃいけないんだけど・・・」
1「じゃあ、試合の後は、ホテルに行く? 予約するよ。」
2「え、本当? でも、そんなお金を持ってないよ。」
1「ううん、 嘘だよ。 冗談、冗談。 大丈夫、9時までに試合は終わるだろ
う。」
ちなみに、これは、レベル4のスキットです。簡単そうに見えますが、口語調は、レ
ベル3になってから習うので、レベル1と2で「です・ます」調しか勉強していない
生徒には、いささか難しいようです。
生徒は、1か2のどちらかを選択し、自動的に口から台詞が出てくるようになるま
で、パートナーと一緒に練習を重ねます。(ただし、章の復習のために作られたス
キットなので、やや不自然な箇所もあります。)
最初は、たどたどしく字面を追っては、文法や英訳に頭を悩ませているのですが、二
週間も練習すると、日本人顔負けのナチュラルスピードで発話するようになります。
クラスの人数が奇数であったり、生徒が休んだりすると、私も生徒に混じって、練習
します。演技つきの大サービスで頑張っているのですが、ほとんどの生徒は、恥ずか
しそうに笑い、売れない芸人を哀れむかのような目で、私を見てきます。
どのクラスも、一年に七回ほどのスピーキングテストをするのですが、さすが若い高
校生の記憶力、ふとした時に、昔のスピーキングテストの台詞を、嬉しそうに披露し
てくれたりもします。
ただ、自分で作ったものとはいえ、私は、毎回4レベル分のスキットを覚えなければ
いけないません。自業自得とは、まさにこの事でしょう。ギュウ。
ゲームや歌、それにビデオ(映画)鑑賞や折り紙など、直接には成績評価と関係のな
いものに関しては、生徒もお喜びの御様子です。
ゲームは、「単語ゲーム」「フルーツバスケット」「色おに」のような授業のアク
ティビティーの一環としてのゲームと、「ジャンケン・ゲーム」や「はんかち落と
し」、「だるまさんが転んだ」「はないちもんめ」など、遊び色の強いゲームに分か
れます。
普通の授業の方が、エネルギーもずっと少なくてすむのですが、何より生徒達が楽し
そうですし、学習的観点からしても、ゲームなどで覚えた単語やイディオムは、後々
までよく覚えているので、積極的に授業に取り入れています。
同じように、生徒達は歌も大好きなので、クラスのレベルに合わせた歌を練習してい
ます。「蛙の歌」から始まって、「大きな歌」「翼を下さい」、高レベルになると、
小泉今日子やスマップ、ゆずなどのJ-ポップにも果敢にも挑戦します。挑戦させてい
る、といった方が正確なのですが。
彼等の歌唱力について言及しますと・・・もちろん、中には並はずれて音感のいい生
徒もいます。が、残念ながら、大抵の生徒は、波はずれてアップアップとおぼれか
かっているというのが現状です。
クラス別に見ても、フゥィーンと不安定な蚊の羽音のような声で歌うクラスもあれ
ば、ジャイアン的才能を発揮して大いに陽気なクラスもあり、多様です。
歌についてふれたついでに、余談として、ちょっとカラオケについてお話します。
他の州ではどうか分かりませんが、少なくともミネソタ州には、カラオケ・ボックス
なるものは、なんと一つしかありません(カラオケ・バーは、もう少しあります)。
その名も「ド・レ・ミ」。韓国人の方が経営されている店なので、邦楽のレパート
リーは、限りなく少ないです。というわけで、こちらに長く住んでいる日本人の友達
は、わざわざカラオケ・マシーンを日本から輸入していました。
アメリカ人の友人も、いざ一緒にカラオケをしてみると大いに盛り上がるので、いつ
の日か、ミネソタにもカラオケ・ブームがやって来るのは間違いないでしょう。寒い
寒いミネソタですから、屋内の余暇は大歓迎されるはずです。
カラオケは、平仮名とカタカナさえ読めれば何とかなるので、日本語の生徒でもマニ
アともなると、宇多田ヒカルや浜崎アユミに始まって、ガクトやハイドなどのビジュ
アル系まで完璧に歌いこなす生徒までいます。
「{キミッテ コンガラガッタ パズル ミタイダ}は、どういう意味ですか?」
普段はあまり勉強の出来ない生徒に聞かれたりすると、私の方がコンラガガガッてし
まいます。
そして、テストがない金曜日や、登校日が少ない週は、テレビ番組や映画などのビデ
オ鑑賞をします。
しかし、私が面白いと感じるテレビ番組の日本語は、生徒には速すぎるうえに難し
い。かといって、生徒が分かるような子供向けの番組は、まったくこれっぽっちも面
白くない。ちょっとしたジレンマです。
生徒を集中させるのに助かるのは、何と言ってもコマーシャルです。
日本のコマーシャルは、長々と続くアメリカのコマーシャルと比べて、短いうえに格
段に面白いので、コマーシャルが始まると、生徒はいきなりハイ・テンションになり
ます。彼等にとっては、コマーシャルの時間にトイレに行くだなんて、信じられない
習慣でしょう。
ナロンエースやパブロンにはじまり、クロネコヤマトや冷蔵庫のコマーシャルでさ
え、生徒達はウキウキ・ワクワクです。そして、お茶のCMなどで温泉の入浴シーンな
どが出ると、教室はシーンと静まり返り・・・武富士のコマーシャルともなると、も
はや完全に魂を抜かれています。
そういえば、アメリカのテレビ番組は、時間を有効利用するためか、オープニングや
エンディングのテーマ曲が一切流れません。
恋愛ドラマなどで、恋人の浮気を偶然に発見した主人公が、「あ・・・」などとつぶ
やいた直後に、いきなりドリフが始まるようなもの。しかも、「ババンババンバンバ
ン」もありません。浮気の相手が、志村ケンに早代わり?ということも、普通にあり
えてしまうのです。
さて。映画は、今までに「Shall We ダンス?」や「ウォーター・ボーイズ」、それ
に宮崎駿アニメなどを観ました。
英語字幕がついていない映画がほとんどですので、不肖ながらも私が解説をしたので
すが、各クラスで上映したために、同じ映画を6回〜8回も観なくてはなりませんで
した。こうなると、一人スピーキングテスト。映画を楽しんでいる生徒達を横目に、
声憂と化す私。
せっかくの名画を、私の英訳で観なければならない生徒も気の毒ですが、こちらで市
販されている日本映画の英語字幕の訳も、なかなか100点満点というわけにはいき
ません。
例えば、「七人の侍」などのサムライ映画。
「まこと、かたじけない」→“Thank you!”
「御厚意、恩に着る」→“Thank you!”
「感謝の言葉もない」→“Thank you!”
侍だけではありません。士農工商もまったくお構いなしの、下剋上。
「ありがてえ、ありがてえ」も、やっぱりこれまた“Thank you!”
脚本家が見たら、生麦事件が再勃発するかもしれません。
次は、「たそがれ清兵衛」を授業で見せるつもりですが、ちなみにこれには、「トワ
イライト・サムライ」という英訳がついています。幕末の武士も、アメリカンの手に
かかると、もはやセーラームーンの一派です。
と、異文化を知るのに、言葉の壁というものは確かに存在するのだ、と実感している
今日この頃です。
では、日本語を必要としないものについては、何も問題がないかというと、決してそ
ういうわけではありません。
例えば、折り紙。
折り紙は、ORIGAMIとして、世界に通用する芸術ですが、これは、苦手な生徒にとっ
ては、大変苦しいようです。
確かに、折り紙は、芸術です。
そして、芸術は、爆発です。
結果、折り紙は爆発ということになり、上手く出来ない生徒の脳味噌は、富士山級の
大爆発を起こします。
指導する側は、これらの爆発が起こる度に、「せんせーえ」と呼ばれては、レス
キュー隊員として教室中を駆け回ります。シュワッチ。
話題がコロコロと変わって申し訳ないのですが、このシュワッチ。名前を呼ばれて助
けに参上するのは、アンパンマンであってウルトラマンではないのですから、決して
正しい使用法とは言えないのですが、何となくでも伝わったでしょうか。
自分の意見・考えを文章化しているわけですから、「何となく」というのは、書き手
の態度としては非常によろしくないのですが、私は、この「何となく」感が強い、擬
態語や擬音語が好きです。
例えば、
「彼の目が、キラリと光った。」
と聞くと、電気の発明中、竹の繊条・フィラメントを見つめるトーマス・エジソンの
知的な目が連想されます。
が、これが
「彼の目が、ギラリと光った。」
となると、崇峻天皇を暗殺した時の、野心に燃える蘇我馬子のような目に変わってし
まうような気がしませんか?
また、
「彼女が、スルスルと寄ってきた。」
などという表現を聞けば、何やら艶っぽい世界に心臓がドキドキしてしまいますが、
これも
「彼女が、ズルズルと寄ってきた。」
となると、寄ってきた彼女は、あれまあビックリ、四谷怪談・お岩さん。心臓がドキ
ドキするほどの騒ぎではありません。
日常生活でも、
「いやあ、妻がプウと膨れてしまいましてね。」
などと旦那が言えば、新婚生活で起こった、小さなイザコザに、頬を膨らまして怒
る、かわいい新妻ですみますが、
「いやあ、妻がブウと膨れてしまいましてね。」
と言えば、過剰な栄養摂取と運動不足が祟って、もはや千尋の両親と化してしまった
妻が、視界に転がり込んでくる気がします。
あくまでも主観なので、これらの分析は、必ずしも正しくはないかもしれませんが、
生徒が喜ぶので、こういったオノマトピア(擬音語、擬態語。*正確には擬態語は、
mimetic words)を授業で教えたりもしています。
私 「リピートして下さい。」
生徒「はーい。」
私 「うとうと。」 (うとうとする私)
生徒「うとうと。」 (うとうとする生徒)
私 「ぴょんぴょん。」 (ウサギになる私)
生徒「ぴょんぴょん。」 (ウサギになる生徒)
私 「プンプン。」 (美川憲一になる私)
生徒「プンプン。」 (美川憲一になる生徒)
私 「カンカン。」 (我、怒髪上衝冠)
生徒「カンカン。」 (皆、怒髪上衝冠)
傍から見ると、「宗教法人・オノマトピアの会」は、少々怪しく見えますが、当の会
員達は、童心に帰って、実に嬉しそうです。
そんなこんなで、100人近くの生徒を、授業中寝させないように、孤軍奮闘する毎
日なのであります。
と、同時に、放課後は、仕返しとばかりにやってくる生徒に、一分として寝させても
らえない、子軍分盗の毎日でもあるのでした。
生徒にとっては、日本語の勉強になるし、私にとっては英語の勉強になるので、一石
二鳥かもしれませんが、毎日毎日、そんなに鳥は要りません。
ヤベくんの日本文化論特殊講義
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.334
2004-10-29T11:00:59Z
2006-11-05T14:09:13Z
10月28日 ミネソタに来てから、あっという間に一年が過ぎ、新学期が始まってから...
uchida
10月28日
ミネソタに来てから、あっという間に一年が過ぎ、新学期が始まってから、おっとい
う間に二ヶ月が経ってしまいました。
今年度は、日本語を選択している生徒の数が倍増したので、昨年度、小さかったクラ
スは合併し、大きな教室を学校から与えられました。
「押入れ教室」のサイズに慣れていた私は、最初、野生に還された、動物園育ちのフ
クロウのごとく、戸惑っていましたが、今は、クビをキュルキュルと180度回転さ
せながら、ネズミ小僧たちを、ギョロギョロと見張っています。
ただ、昨年度は、小さいながらも自分のオフィスを持っていたのですが、新しい教室
は、学校でも辺鄙なところにあるために、教室の一角に「センセイのオフィス・コー
ナー」を設けないといけなくなりました。
成績管理など、メリットもあることにはあるのですが、生徒からの逃げ場もなくな
り、時には、やや育児ストレスに見舞われたりもしますが、適・当・に・無視するよ
うに心がけています。
生徒が、物差しで、関が原級のチャンバラをしていようが、お手玉を投げつけ合っ
て、第二次南北戦争を繰り広げていようが、炎のように暖かい目で見守っている毎日
です。
教室の引越し自体も大変でしたが、生徒がボランティアで手伝ってくれたので、とて
も助かりました。彼等的には、文化祭気分で、5分仕事をしては30分遊ぶという状
態だったのですが、何せこちらは肩を負傷していましたから、たとえその5分でも、
大きな助けになりました。猫の手というのは、どうやら5本指のようです。ニャオ。
ちなみに、今年度の私の一日のスケジュールはというと、下記のようになっていま
す。
一時間目:日本語4 (7:35~8:25)
二時間目:授業準備 (8:35~9:20)
三時間目:日本語3 (9:25~10:15)
四時間目:ISS (10:20~11:10)
昼休み
五時間目:日本語1(A) (11:45~12:35)
六時間目:日本語1(B) (12:40~1:30)
七時間目:日本語2 (1:35~2:25)
日本語1の2クラスは、非常に大きく、全席が埋るので、ちょっと息苦しいほどで
す。 それだけ、日本に興味を持ってくれている生徒がいるというのは、喜ばしい限
りですが、もしも来年も同数程度の生徒が日本語を選択したとしたら・・・後任の先
生のご健闘を、心よりお祈りします。
説明が後になってしまいましたが、4時間目のISSというのは、「イン・スクール
・サスペンション」といって、校内で問題を起こした生徒がやってくる部屋のこと
で、私はこの部屋の監視役にあたっています。
この部屋では、飲食厳禁はもとより、おしゃべりも禁止です。本音を言えば、牢獄の
看守のようなもので、あまり気はのらないのですが、一重目レベルを最高まであげ
て、完全に能面のような顔をつくって、この時間を乗り切っています。
もちろん、中にはひやかしで話しかけてくる生徒もいますが、無責任な政治家も顔負
けの無視をしています。
「アンタ、センセイなん?」
「わかりません。」
「エイゴ、しゃべれるのー?」
「わかりません。」
「アンタのナマエ、なに?」
「わかりません。」
ふう。
ISSに送られると親にも連絡がいきますから、当然、名誉なことではないのです
が、日本語の生徒の中には、何と、私が監督をしている時間を狙って、わざわざ他の
先生に頼んで、ISSにやってきた生徒もいます。
決して褒められたことではないのですが、「いえーい。びっくりした?」と得意気な
表情をして現れた彼等には、どこか「坊ちゃん」を思わせるものがありました。
今も、武勇伝のように、ISSに来た事を誇らしげに語る彼等。ただ、当の私はとい
うと、毎日毎日会っているというのに、そこまでして会ってくれなくても・・・と
思ってしまうのでした。
大きい教室にISS、などと、何かと色々な事が新しい新学期ですが、学校が始まっ
てからの3週間は、前任の先生や、インターンシップの大学生、友達に後輩、と計5
人のお客さんが、入れ替わりで授業に来てくれて、慌しくも楽しい日々でした。
お客さんが来ると、生徒も多少は猫をかぶってくれるので、私としてもやりやすいの
ですが、今は残念ながら、猫の着ぐるみは、次のお客さんの来訪まで、タンスの肥や
しになっているようです。
お客さんと言えば、去年は、中高部からの友達が二人、スーツケースの半分を占め
る、たくさんのお土産と共に、ミネソタに来てくれました。
二人とも、大学時代から、同じ合気道部に所属しているということもあったので、二
人の来訪時には、大会議室を貸しきって、合気道をしました。
今まで、正座もしたことがないという生徒達ばかりでしたので、着座を求める度に、
「アメリカ式に座りたい」と懇願してきました。ただ、最初は、日本式の所作に戸
惑っていた生徒も、回を重ねるにつれて、その戸惑いも薄れ、合気道を楽しんでいた
ようでした。
そんな生徒を見ているのは、純粋に嬉しかったのですが、指導する側は、しゃべりっ
ぱなし、動きっぱなし、時には演武もしたりしましたから、全ての授業を終える頃に
は、友人共々、文字通り、ボロ布同然、柳の下にでも立っているような有様でした。
リフレッシュするはずの、有給休暇をとっての海外旅行なのに、私と生徒につきあっ
たせいで、「離フレッシュ」になってしまった友人達。少し心苦しいですが、それで
も、「また来たい」と言ってくれた彼女達に、心から感謝しています。また来てね!
来・て・ねー!
さて、立派な日本文化である合気道も、他の先生たちからすれば、「何やら日本語の
クラスでは、妙なことをしている」ということになるのでしょう。
しかし、普段の授業は、スペイン語やドイツ語など、他の外国語の授業と比べても、
おそらく宿題は多いし、進度は速いし、テストも週に一回はあるし、となかなかハー
ドなので、せめて「日本文化に触れる時」は、できる限り、いろいろな事を体験させ
てあげようと努めています。
古典的なところでは、茶道や書道、カルタ、福笑いや紙相撲でしょうか。現代モノで
言えば、DDR(ダンスダンスレボリューション)や、浴衣や合気道胴着、それに制
服の試着などです。教室で日本食を作ったり、遠足(フィールド・トリップ)で、
「ユナイテッドヌードル」というアジアンマーケットや、和食のレストランに行った
こともあります。
せっかくですから、日本文化に触れた時の生徒達の様子について、順に書いてみま
しょう。
まずは、茶道。この時は、私ではなく、ヘンリーシブリー高校に来ていた、日本人留
学生の子に指導をしてもらいました。
彼女に失礼のないように、と言っていたのがよかったのでしょう、厳粛な雰囲気の中
で、お茶会らしい一時がもてたと思います。合気道で、前もって正座を練習していた
のも、助かりました。
お抹茶は、苦すぎて飲めないかもしれないという心配もあったのですが、これは幸い
なことに、杞憂に終わりました。好き嫌いは別としても、宿命だと受け入れて、大人
しく飲んでいました。和菓子も、意外に好評でした。
普段はヤンチャな生徒も、自分がお抹茶を飲んでいる姿を、クラスの全員が注目して
見ているので、緊張のあまり、御椀を持つ手がブルブルと震えていました。
この日の後も、コーラやペプシのペットボトルを、茶道の礼法に則って、わざわざ三
回まわして飲んだ後、「結構な御手前でした」と報告してくれる生徒もいましたが、
これは、コカ・コーラ・カンパニーやペプシの社長さんに報告するべきであって、相
手を間違えています。
合気道、茶道に続いて、書道です。
冬休み明けに、ポチ袋(袋のみ)をあげたり、おみくじ(ハンド・メイド)をして、
お正月を祝った後に、書初めをしました。
「お手本をコピーすればいいだけなんでしょ?」と、ある生徒。
そうです。ただ、お手本をコピーするだけです。
しかし、「見るは易し、行うは難し」とは、よく言ったもので、思い通りに扱えない
毛筆に、皆、四苦八苦していました。
そして、あんなことを言わなければよかったと、後で後悔したのですが、書道の紹介
をした際に、「字には、その人の人格が出ますよ。」などと言ってしまったから、さ
あ大変。
「僕の字、どう思う?」
「私の字って、ガサツかしら?」
まるで、手相の占い師です。
しかも、生徒は、一生懸命に書いているだけに、否定的なことも言えません。
切れかけの糸のように細い字を見せられても、「あなたは、モヤシのようですね。」
などと言うわけにもいかず、言えるとしたら、「繊細なところにも、よく気が利きま
すね。」
墨汁のつけすぎで、インクが垂れ、半紙がヨレた作品に対しても、「無駄が多い」と
言いたい気持ちをグっとおさえて、「物事を、貪欲に吸収するタイプですね。」と一
言。
失敗した箇所や気に入らない箇所を、後でチョコチョコと手直ししたものには、「卑
怯・・」と言いかけて、「機転が利きますね。」
そして、そもそも写す字そのものを間違えている生徒には、「不注意」の御札を額に
貼る代わりに、「独創的ですね。」
こんなコメントが、それこそ独創的です。
ここで、ちょっと「道」からはずれて、日本古来の遊びに話を移します。
まずは、カルタ。頭から突っ込んだり、宙にうくスライディングをしたりと、激戦で
す。基本的に、ひらがなやカタカナの習熟のためのカルタなので、日本語1と2のレ
ベルで行っています。
ひらがなは、初めて触れる日本語なので、わりと覚えるスピードも速いのですが、問
題は、カタカナです。そう言われないと気がつかないかもしれませんが、実は、カタ
カナはシンプルなだけに、ややこしいのです。
「ミ」「シ」「ツ」や、「ソ」「ン」という似たもの大将にはじまり、「マ」「ム」
や「イ」「ト」。それに、「チ」「テ」「ラ」「ウ」「ワ」「ク」。「ナ」「メ」
も、ちょっと似ているし、「セ」「ヤ」も、似ていなくもない。「フ」「ヘ」も、カ
ルタのように上下が入れ替わると、一瞬判断がつきません。
見ているこちらは楽しいのですが、ゲームに参加している生徒の目には、カタカナに
対する猜疑心が、溢れんばかりです。
勉強色の強いカルタと違い、紙相撲や福笑いは、子供心にかえって(?)楽しそうに
遊んでいました。
紙相撲は、クラスで総当り戦をしました。ですが、震度10を記録するほど、机をバ
ンバン叩いて虐待しても、勝負がつかない組もあれば、なかなか力士が土俵に立て
ず、立ったとしても、「はっ(けよーい・・)」と言った瞬間に、二人仲良く抱き
合って倒れてしまう組もありました。
福笑いは、クラス中のオカメさんが、要・整形手術。
現代モノについては、DDR。一時期、日本で流行したダンスダンスレボリューショ
ンです。スクリーン画面に現れる矢印の指示通りに、前後左右に足を動かして、ダン
スをするというものなのですが、これが、アメリカでも一大ブーム。
「DDRは、僕の人生を変えた。」
とまで言ってくる生徒もいるほどです。聞けば、一日数時間踊っているといる強者
も。教室では、大きなテストが終わった後に、御褒美として、年に二回しました。
そんなに熱心にならずとも、とも思うのですが、校内行事として、ダンスもあるお国
柄ですから、分からなくもありません。
余談ですが、高レベルのクラスでは、「UFO」を振り付きで練習しています。難し
い歌詞にも関わらず、頑張って歌おうとしていますし、恍惚とした顔の表情は、ピン
クレディーそのもの。
ですが、残念ながら、ダンス自体は、まだまだ幼稚園児のお遊戯の域から抜け出せ
ず、ウニョウニョと何を踊っているのか、よく分かりません。未確認舞踏物体。
そして、浴衣や合気道道着、それに制服の試着。
浴衣や合気道道着をさせてあげた時には、胴まわりの締め付けに耐えられず、悲鳴を
あげながら半泣きになる生徒もいました。
「先生、やめてー!」
着せている私は、殺人事件の犯人扱いです。
しかし、着衣後は、先ほどの悲鳴はどこへやら、下駄を履き、傘や刀(物差し)を
持って、侍や舞妓の気分に浸りつつ、カメラの前でポーズをとってくれるのでした。
衣装係兼カメラマンは、汗ダクダクです。
そして、制服。
女装は、世界共通のお約束事なのか、アメリカでも、男の子は、やっぱり喜んでセー
ラー服を着たがっていました。中には、怖いぐらいに似合っている男子生徒もいて、
「今年のハローウィーンは、セーラームーンになるぞ!」と数名で徒党を組んでいま
した。が、それでは、ただの仮装大会です。
私も対抗して、バカボンのパパにでもなりましょうか。体のラインにフィットした、
ナチュラルベージュの上下の服に、存在感のあるベルトで腰位置をマーク。そして、
足元はちょっとハズしたヌーディなサンダル。意外に悪くない感じです。
髭さえなければ、の話ですが。
さて、教室では、おにぎりやおすし、たこ焼きなどを作って、日本料理の紹介もしま
す。おにぎりは、フリカケをまぜたご飯を、サランラップの上にのせて、握るだけな
のですが・・・ピザも冷えるまで待って食べるような生徒達ですから、手の平の炊き
立てのごはんは、灼熱地獄そのものだったようです。ごめんね。
それでも、皆、おにぎりが大好きです。特にフリカケがお気に入りで、中にはフリカ
ケだけをベロベロと舐めている生徒もいました。妖怪・フリカケ。そういえば、苦い
薬を嫌がる子供のために、甘いシロップ入りの薬がありますが、粉薬にフリカケをま
ぜるのも案外、うけるかもしれません。塩分過多で、健康によくはないのですが。
ミネアポリスのアップタウンにある、「ユナイテッドヌードル」というアジアンマー
ケット(スーパー)に遠足で行った時は、皆、文字通り大はしゃぎでした。
日本人からすれば、「遠足でコープ?」となるかもしれませんが、こちらでは、日本
のものといったら、醤油や豆腐は別として、ちょっと洒落た店に、数種類のお菓子が
売っているくらいなもの。彼等にとっては、コープでも、十二分に珍しいのです。
バスから降りると、皆、デパートのセールにも負けない勢いで、一目散にお店の中に
駆け込んでいきました。
目指すは・・・お菓子コーナー。そう、日本のお菓子は、大人気なのです。中でも、
スマッシュヒットは、コアラのマーチ、コーラ・キャンディ、CCレモン。ピラニアに
襲われたかのように、これらの商品は、瞬殺で品切れとなりました。
カルピスや煎餅、スルメイカやインスタント・ラーメンなどを、ワイワイ言いながら
品定めする生徒達。そんな彼等に目を細めながら、私は、魚や薄切り肉、コロッケや
シューマイなどの冷凍食品の値札をチェックして、細めているはずの目から、目玉が
飛び出そうになっていました。
ちなみに、自分の買い物で来る時は、まず間違いなく、特大サイズの米袋とキムチを
購入しています。ちょっと余裕のある時にしか、納豆、冷凍餃子、調味料、豚マンな
どには、手が出せません。とにかく、日本の商品は、お高いのです。
小学校の遠足の時、お菓子は200円までという規則がありましたが、こちらで日本
のお菓子を買おうと思ったら、コアラのマーチどころか、缶ジュース一本買えませ
ん。
和食のレストランでは、全員がお箸を使い、「いただきます」「ごちそうさまでし
た」の挨拶も忘れずに、お行儀も百点満点でした。
しかし、なぜ?と思うのですが、ワサビが意外に人気で、あるワサビ・フリークの生
徒は、レストランのスタッフに頼んで、味噌パックいっぱいに詰まったワサビを買っ
ていました。
個人の嗜好ですから、とやかく言うつもりはありませんが、ワサビを抹茶アイスク
リームのように食べるのは、いかがなものか。オンオン泣きながら食べている生徒を
見ているだけで、涙が出そうになりました。もちろん、同情の涙ではありません。
涙。
ミネソタの生活とは、全く何の関係もありませんが、「フランダースの犬」の映画版
は、涙を誘うらしいです。
というのも、小説やテレビ版の「フランダースの犬」には、幸せな日々も描かれてい
るのですが、映画版は時間の都合のために、そういった、いわゆる事件のないシーン
を大幅カットしなければなりません。
ネロとパトラッシュの不幸をチョイチョイチョイとつまんで出来上がった、悲劇のオ
ンパレード。純真な子供の健気さに、目頭が熱くならない人はいません。悪人説を唱
える人でさえ、オーンオーン。
私も、時々、とてもとてもとてもとても元気な生徒達を目の前に、泣きたくなること
がありますが、どうやら、理由は、ちょっと違うようです。そもそも、彼等を、純真
な子供たちと呼んでいいかどうか・・・。
ミネソタを遠く離れて:天国に一番近い旅(後編)
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.333
2004-09-07T22:55:33Z
2006-11-05T14:09:13Z
9月5日 さて、次回の続きで、各町のコメントです。名所・名産・史跡の詳しい説明...
iwamoto
9月5日
さて、次回の続きで、各町のコメントです。名所・名産・史跡の詳しい説明は、書
店のガイドブックにおまかせする事にして、ここでは、印象に残った事だけを挙げま
す。
トレド:
細い路地が、蛇のようにクネクネと曲がりくねり、町全体が、迷宮のようになって
いる古都トレド。大した目印もなければ、通りの標識もありません。ヘンゼルとグ
レーテルのように、パン屑を撒き散らしながら歩きたい気分でした。もっとも、スペ
インのパンは固いですし、苦労して削りだしたパン屑が、鳩の餌になるのも悔しい話
です。
しかし、他にばら撒ける物といっても、400粒程ある、ビタミンの錠剤ぐらいし
かありません。でも、これはニンニク・高麗人参のエキス入りの高級品(もらい
物)。ばら撒くなど、とんでもありません。それならば、錠剤30粒と方位磁石を
物々交換した方が、よほど割に合うはずです。
といっても、この錠剤の価値を、スペイン語でどのように説明するかは分かりませ
ん。ニンニクと人参の絵で伝わるでしょうか?
コルドバ:
コルドバでは、アラブのメスキータを見ました。イスラム建築に、キリスト教美術
が上塗りされていて、興味深かったです。175m×135mの大モスクに、白い石
と楔型の赤レンガの柱が林立しており、「大かくれんぼ大会」あるいは、「大だるま
さんが転んだ大会」の会場のようでした。
また、ここでは、あるフラメンコスクールの発表会を観劇できました。三・三・七
拍子の国で育った私は、フラメンコの拍子に完全に遅れをとっていましたが、充分に
楽しめました。
観劇後は、熱が冷めやらぬまま、ほろ酔いのタコのように踊りながら、帰路につき
ました。
セビ—リャ:
アンダルシア地方の中心都市で、ヒラルダの塔や、宮殿、ユダヤ人街など、サラセ
ン文化の遺跡に富んでいます。
ここで、複数のジプシーの家族に遭遇し、お金をせびられました。関わり合いにな
らない方がいいと無視をすると、それ以上しつこくは言い寄ってはきませんでした。
しかし、しばらくしてお腹が空いたので、パンをかじっていると、今度はそのパンを
クレクレと言ってきます。これまた無視して、水を飲むと、さらに水をクレクレ。一
応エビアンのペットボトルには入っていますが、中の水は、ただのカルキ臭い水道水
です。
セビーリャの理髪師ではなく、セビリ屋に会った私でした。
グラナダ:
スペインにおける、アラブ世界最後の楽園、アルハンブラ宮殿。攻城の兵を悩ませ
たに違いない、堅固な城壁からは、対岸の古いイスラムの町を見渡す事ができます。
緑豊かな庭園には、可愛らしい噴水がいくつもあり、目を楽しませてくれました。豪
華な彫刻が施された、ナスル朝宮殿は石造りで、イスラムがスペインを支配していた
頃は、色とりどりの花々で埋め尽くされていたとか。王宮内に入ると、装飾はより繊
細になり、天井には歴代の王の絵画が描かれています。そして、青い池が目に涼しい
中庭。
全てが、調和のとれた、完全な美だというのに、静かな水面に映るのは・・・ア○
○人!きゃあ!
バルセロナ:
荘厳なドゥオーモや、古めかしいゴシック地区を歩いていた時のこと。
ある教会の外壁に、イエス・キリストの格好を真似した人がはり付けられて(はり
付いて?)いました。信仰深いスペインのことですから、まさか大道芸人ということ
はあるまい、などと思っていると、受難中のキリスト様が、突然、目をカット見開か
れ、自らガチャガチャと手枷・足枷をはずされ、地面に降り立たれました。何が始ま
るのかと、私もつい凝視。
彼は、道端に座り込み、お弁当をナイキの鞄から取り出し、そのまま御食事タイム
に入られました。聖書には、こんな記述はなかったはずです。よね。
ヴェネチア:
アドリア海の女王、ヴェネチア。橋の上から、運河を次々と渡っていくゴンドラを
眺めていました。日本人が乗客だったりすると、「どうも」などと、わけの分からな
い挨拶を交わしたり、三途の川の番人のように、世の中全てが面白くないというよう
な顔をしたゴンドラ漕ぎを観察したり。「(橋の上から)ゴンドラに飛び乗るか?」
と、ウィンク付きで挑戦を受けたりもしたのですが、ゴンドラ転覆 → イタリア・
アメリカ・日本の三カ国の新聞に載っては困ると思い、モナリザの笑顔で辞退しまし
た。
あと、かの有名なサン・マルコ広場は、観光客と鳩が、ヒトハトヒトハトヒトハト
ハトヒトヒトハト・・・。野鳥の会の皆さんが、大興奮すること、間違いなしです。
ヴェローナ:
紀元1世紀に造られた、巨大な野外劇場が、イタリア国内外から、大勢の人々を呼
び集めています。劇場の題目は、全てイタリアン・オペラ。ミュージカルと違い、イ
タリアン・オペラは、ひたすら「声」が重要視されるそうで、歌い手の容姿や演技力
は、それほど問われないのだとか。
そう、人間、一つ取り柄があればいいのです。学生時代、社会だけは成績がいつもよ
かった私。ザ・丸暗記。「1333年、一味散々、鎌倉幕府滅亡」。
しかし、一に声・二に声・三に声の一点「声」豪華主義のイタリアン・オペラ。舞
台上に並ぶ、風船のように膨らんだ歌い手たちに対して、観客から苦情が上がったこ
ともあるという話。
観客は、素直です。
ボローニャ:
町中の道に、幾本と並ぶ、ポルティコと呼ばれる、直径1mほどの円柱。バロック
やルネッサンスなど、時代ごとに様式も違い、興味をそそられました。
この柱廊の下、人々は、夏は日陰で涼み、冬は暖をとるのだそうです。合わせ鏡を
少しずらしてできる、鏡の中の像のように、ポルティコ、ポルティコ、ポルティコ・
・・と果てしなく続いていました。
記憶の遠い彼方にある、小学生の算数、植木算。
「ボローニャの町の歩道に、直径1mのポルティコを3mおきに建てようと思いま
す。ポルティコは、何本必要でしょうか。ただし、予算は考えないものとします。」
モデナ:
エミリア街道最後の町として知られる、モデナの町。この日は、ちょうどヨーロッ
パ各国の軍隊のバンド(楽隊)のお祭りでした。チケットが要ったので、もちろん私
は柵の外から見ようと待機していたのですが、開演10分前、目の前のアンクル・マ
リオ(仮名)が、奥さんと喧嘩でもしたのか、余ったチケットをくれたのです。
これは、本当に素晴らしいショーで、何度も「ブラボー!」と叫ばずにはいられま
せんでした。歴史の教科書に出てくるような、新旧の軍服に身を包んだ若者やおじさ
まが、美しい音楽を奏でながら、次々と隊列を変えたり、さらにはダンスまで披露し
てくれました。
そして、ショーの余興では、生まれて初めて、ウクライナのコサック・ダンスを観
ました。驚くべき跳脚力です。きっと、あちらの国の体力測定には、「コサック」と
いう項があるに違いありません。
コモ:
アルプスの南山麓に散らばる、イタリア湖水地方の一つです。ヨーロッパ最深の湖
といわれるコモ湖の周りを取り囲む、切り立った山々。そして、その間に点在する
ヴィラやクリーム色の建物など、「ビューティフル」の一言でした。また、夜は街の
光が湖面にキラキラと反射して、幻想的でした。避暑地なので、昼間でも涼しくて快
適です。
それにしても、8月のミネソタは、コモよりもよっぽど寒くて、上着が要るほどな
のに、どうしてあまり嬉しくないのでしょう。ブルブルブル。
ベルガモ:
ベルガモは、丘の上の町アルタと、麓の近代的な町バッサと、2つの顔をもってい
ます。アルタの城壁から、バッサの町を見下ろしたり、お店を見ながら、散策を楽し
んでいました。また、石畳が敷き詰められた広場では、噴水を取り囲む真っ白のライ
オン像を見ながら、ピザに舌鼓をうっていました。ポンポン。
ところで、このライオン像。ガイドブックによると、ベルガモの顔らしいのです
が、長い間に風化がすすみ、貧弱なたて髪になってしまっていました。これだった
ら、旅行中、自由奔放にのびていた、私のサイババ・ヘアーの方が、よほど雄々し
かったはず。
ガオー。
チンクエテッレ:
険しくも美しい海岸線に沿って、ほぼ等間隔に並んだ、5つの村の総称。世界遺産
にも登録された、風光明媚な景勝地です。
半分以上意地で、端の村から端の村まで歩きました。登山をしました。確かにハー
ドではありましたが、滝のように流れる汗も、海から吹き上げる風で、飛んでいきま
した。一つ一つ現れる、おとぎ話に出てくるような可愛い村々を観ると、足の疲れも
飛んでいきました。
そして、徒歩で往路7時間かかった距離も、復路の列車では、約10分。声になら
ない声と、大粒の涙が、車窓から飛んでいきました。電車って、速いですね。
ピサ:
青々とした芝生とのコントラストが素晴らしい、白大理石の洗礼堂、ドゥオーモ、
そして斜塔。陽射しが強烈だったため、洗礼堂の日陰で2時間、ドゥオーモの日陰で
2時間、斜塔の日陰で2時間、待機していました。あの広場に6時間もいたとは、張
り込み中の私服刑事のようではありませんか。
それとも・・・私が不審者?
フィレンツェ:
「15世紀、ルネッサンスの華、フィレンツェの黄金時代を築いた、豪華王ロレン
ツォ。しかし、そのロレンツォを専制君主と告発した、サン・マルコ修道院長のサ
ヴォナローラ。彼は、少年たちによる風紀取締隊を組織し、博打の道具、化粧品、華
美な洋服や卑猥な書物などの虚栄の焼却などを行い、市民に禁欲的な生活を強いた。
しかし、1498年。ついに教皇と対立したサヴォナローラは、異端の罪で、シニョ
リーア広場で火刑に処される。」
ここで、一人の日本人団体ツアーの添乗員がいます。
「えー、むかしむかし、サルボナーラというお坊さんがいました・・・」
いいえ、カルボナーラでもなければ、サルモネラでもありません。似ているようで
すが、違います。花の都フィレンツェでの出来事でした。
サンジミニャーノ:
穏やかな丘陵に広がる小麦畑や、点在する糸杉の並木が、優しく美しいトスカーナ
地方。サンジミニャーノは、そのトスカーナ地方にある、城郭都市の一つです。中世
情緒あふれる町並みに、14の塔がそびえており、これらは、かつての貴族の富と権
力のシンボルで、最盛期には80近くあったそうです。
権力誇示のために、同じ構想の建物を建てるのであれば、無用な塔ではなく、図書
館などの有用なものを建てればいいのにと思うのは、私だけでしょうか。といって
も、80も図書館は要りませんが。
もっとも、読書好きの美女ベルならば、大喜び。図書館にこもって、外に出ることも
ないでしょう。野獣に会うこともありません。「美女と八十(の図書館)」。残念な
がら、野獣は野獣のままです。
シエナ:
独創的な扇形を描き、世界一美しい広場と称されるカンポ広場。この広場は、緩や
かに傾斜しており、夕方になると、観光客も地元の人も、そこに座ったり寝転んだり
して、風にあたっていました。
広場と傾斜というのは、子供の逃走本能を刺激するようで、あちらこちらで、子供
たちが、親から離れて駆け出していました。そんな子供たちに対する親の対応も
様々。「ほーら、捕まえたぞぉ」と、小さな脱走者を笑顔で抱き上げる親もあれば、
「離れるなって言ったでしょ!」と叱咤する親もあり。
広場で風に吹かれながら、思いっきり後者の子供にシンパシーを感じていた私でし
た。
アルベロベッロ:
高い円錐形の屋根を持つ、トゥルッリの集落がある町です。真っ白に塗られた壁と
丸い屋根は、おとぎ話のようで、白雪姫と7人の小人でも登場してきそうな雰囲気で
した。
しかし、何故か、私が訪れた日に限って、雷と稲妻。同日、意地悪なお妃様が、ア
ルベロベッロにリンゴを売りにきていたのでしょう。
念のために言っておきますが、私は、油を売ってはいても、リンゴは売っていませ
ん。
マテーラ:
サッシと呼ばれる洞窟住居で有名な町です。紀元前にはギリシア人、11世紀には
迫害を受けたトルコの僧、そして戦後の農地解放前の貧しい小作農民が住んでいたそ
うで、数え切れないほどのサッシが、びっしりと丘にはりつくように残っていまし
た。ここは、見るだけで、背筋が寒くなるような怨念が伝わってきました。後から、
ここがメル・ギブソン主演の「パッション」という映画の撮影現場だと聞きました。
もしも、「リング」のように、この景色を見た者は、一週間以内に命を落としてし
まうとしたら・・・皆さん、マテーラは、オススメですよ!
アマルフィ海岸:
青い海から続く斜面には、白く輝く家々が重なり合い、連なる丘には、レモンやオ
レンジがたわわに実り、南国情緒そのままのアマルフィ海岸。
ここの4都市を訪れました。港町の賑わいあふれるサレルノ。名産のレモンチェッロ
が店の軒先を彩る、可愛らしいアマルフィ。崖にはりつくように、白い家々が並ぶ、
まるで絵葉書のようなポジターノ。海の向こうに、ヴェスービオ火山がそびえる、超
有名リゾート、ソレント。
どの町も、海岸沿いに所狭しと咲く、ビーチパラソルの華々が鮮やかでした。ちな
みに、ビーチパラソルがあるビーチは、プライベート・ビーチです。海に突き出し
た、素敵な岩場のビーチもプライベート・ビーチです。人知れず、静かな入り江にあ
るビーチも、やっぱりプライベート・ビーチ。
「ホテルのホテルによるホテルのためのビーチ」。パブリック派の私は、海水に
タッチする事さえ、かないませんでした。カンカーン。
ポンペイ:
約1900年前、ヴェスービオ火山の噴火により、3日間のうちに、死の灰に閉ざ
された、古代都市ポンペイ。水道管や轍、道路標識や落書き、民家はもちろん、居酒
屋や洗濯屋など、町そのものが当時のままに残っていて、大迫力でした。神殿群や運
動場、大邸宅や円形闘技場、劇場に浴場等々、挙げればきりがありません。壁の装飾
画も、床のモザイクも、すべてオリジナル。古代ローマにタイムスリップしたような
一日でした。
石膏型(土の下に埋まった動物や人間が、バクテリアにより分解されてできた、土
中の空洞に、石膏を流し入れて作られた像)の人々も、非常にリアルで、町を覆った
ガスによる、その死の直前の姿勢や表情までが、はっきりと見てとれました。
その夜、ヴェスービオ火山の再噴火により、私自身がユニークな寝相の石膏型にな
らにように、直立不動の姿勢でベッドに横になりました。不動なのに、なぜ朝見た
シーツがシワクチャだったかは、謎です。マンマミーヤ。
ナポリ:
“Vedi Napoli e poi muori”名言、「ナポリを見て死ね」。
狭い石畳にはためく洗濯物。ナポリ情趣の残る、古い下町、ズパッカ・ナポリを見ま
した。ナポリっ子の信仰のより所、ドゥオーモを見ました。サンタ・ルチア地区か
ら、海に張り出して建てられた古城、卵城を見ました。
でも、国立ナポリ考古学博物館は見ていません。私は、ナポリの全てを見てはいな
いのです。
私は、死にましぇん。
ローマ:
言わずと知れた、2500年の歴史の舞台である、永遠の都ローマ。今回の旅行、
ヨーロッパ最後の都市です。コロッセウムにフォロ・ロマーノ、ヴァチカン市国、ス
ペイン広場と、見所が数え切れないほどありました。
私の気分も、すっかりアン女王。ここはひとつ、ジェラートでも食べようと、街角
のジャラート屋に入りました。「どれにしよう」などと迷っていると、「3種類を選
んで下さい」と店員さん。最小サイズのカップにも関らず、3種類も選べるとは!突
然目の前に差し出された権利に、思わず慌ててしまいました。
「えーと、食べたことがないから、シナモンケーキ味と・・・」
どうやら人気のお店らしく、私の後ろに、1人、2人と列ができ始めます。
「それと・・・外は暑いから、2つ目は、オレンジ味にして・・・」
後ろの列は、どんどんのびていきます。3人、4人。
「えっと、じゃあ、ティラミス?うーん、シナモンケーキとかぶるなぁ。コーヒーは
ミスマッチだし。かといって、ヨーグルトは、今イチ面白味に欠けるし・・・」
5人、6人。もはや、一刻の猶予もなりません。
「え、え、えっと、えっと、じゃあ、少し変わったのを・・・スイカ味下さい。」
シナモンの香りいっぱいのクリームと、酸味のちょっときいたオレンジ。そして、
大した味もないのに、でも確実に味を主張している、スイカのジェラート。
食べ始めは、「この濃厚な部分は、シナモンケーキだな。んー、オレンジが爽やか
だわー。これは・・・スイカだろう」などと、きちんと識別して食べていたのです
が、途中からは、3種のジェラートが溶け合って織り成す、芸術的なハーモニーに、
舌の味蕾が完全に混乱していました。
たかだか、ジェラートひとつで、アン女王になるなど、おこがましかったのでしょ
うか。アン女王ならぬ、安女王。あまり嬉しくない肩書きです。
そして、そのアートなジェラートを食べた翌々日、女王様は、こともあろうか交通
事故に遭いました。しかも、轢き逃げ。車かバイクか、はたまた馬車だったかは分か
りません。というのも、衝突した瞬間の記憶が、全くないのです。意識が戻った時に
は、たくさんの通行人や警察官が、上から覗き込んでいました。
「私、何やら迷惑をおかけしたようで。」と立ち上がろうとすると、周りの人々
が、叫びました。イタリア語だったので、はっきりとは分かりませんでしたが、状況
から判断するに、どうやら「動くな」という意味だったのでしょう。ふと下をみる
と、私の左後頭部から流れる血が、アスファルトの上に池のように広がっていまし
た。左肩の骨も、なんだかオカシイ。
しかし、頭は妙に冷静で、担架に乗せてもらう度に「すみません」と頭を下げた
り、「私の体重も、イタリア人にとっては軽いはず」とか、「うわー、日傘が壊れ
ちゃった」とか、つまらない事を考えていました。救急車の中での質問が、全てイタ
リア語だったので、ガイドブック巻末の「病気・事故の場合」のページを、不自由な
手でめくりながら、意思伝達。そして、救急車や病院に払うお金が心配で、「ノー・
マネー。ノー・マネー。オッケー?」と繰り返していた私。哀れ。
病院では、頭部の傷口を縫われたり、レントゲンをとられたり、左肩を診てもらい
ました。そして、車輪つきの寝台に寝かされて、廊下の隅に運ばれました。清掃のお
ばちゃんが、お掃除の度に、ショッピングカートのごとく、ガラガラガラと乱暴に私
の寝台を移動。ああ、壁にぶつけないで下さい。だから、お願いですから、プリー
ズ、トイレの前に放置しないで下さい。(随分と経ってから、親切な看護婦さんが、
部屋に入れてくれました。)
結局、2日で病院を追い出され、タクシーのお金もなかった私は、病院から修道院
の宿まで、歩いて帰還です。髪の毛とシャツ全面には乾いた血がこびりつき、全身ア
ザまみれで、体中スポンジの紐で縛られたまま。ヨレヨレと歩く私の後ろには、「太
陽にほえろ」のBGMが流れていました。チャララーチャララーチャラララー。
修道院のシスターたちは、私の姿を見て、すっかり仰天してしまい、使用用途は分
かりませんが、オロナインを持ってきてくれました。そんな彼女たちの前で、「こ
れ、いつ抜くんでしょうねぇ」と、左腕に刺さったままの注射器をエイヤと抜いた
ら、思った以上に針が長くて、再び血がドドドと噴出。体が不自由なのに、口を使い
ながらゴムバンドで止血する自分がアッパレでした。シスター、見てないで、どうぞ
助けて下さい。
その後も数日間は、部屋で安静にしていなければならず、一人で鬱々と、暗い部屋
に閉じこもっていました。こうなると、アン女王などと言っている場合ではありませ
ん。もはや、暗女王。「ローマの窮日」。皆さんも、くれぐれも車にはご注意下さ
い。
これでヨーロッパ編は終わるのですが、実は、すぐにミネソタに帰っては来れませ
んでした。「航空券は、キャンセル待ちで買ったら、当日の方が、安く手に入るよ」
という、友人のありがたいご忠告に従って、ローマ → ニューヨーク間の航空券し
か買っていなかったのです。
ニューヨークに到着して、英語圏に入った喜びを感じつつ、航空会社のカウンター
に行くと、「一番安いチケットですね。5万円になります。」との事。はい。帰れま
せん。
というわけで、頭も肩も、まだ痛みは残っていたのですが、長距離バスならば安い
だろうと、マンハッタンへレッツ・ゴー。
思った通り、何と1万円で購入できました。ただし、このチケットは、一週間前購
入のチケット。つまり、一週間はニューヨークにいなければいけなかったのです。し
かしながら、英語が通じる安心感のせいか、あまり不安はなく、楽しい滞在になりま
した。
ダウンタウンの南から出ている、無料のフェリーに乗ると、自由の女神が見え、夢
と希望をもってアメリカ大陸へと渡ってきた移民のことを想い、目頭が熱くなりまし
た。たとえ彼女が、「中野の都こんぶ(スコンブ)」大であろうと、女神は女神で
す。
世界の金融界を動かすウォール街では、持参していたガイドブックのせいで、ひど
い目にあうところでした。「ニューヨーク証券取引所の見学ツアーには、建物の裏に
て、整理券を購入のこと」とあったのです。9・11事件以来、アメリカがピリピリ
しているというのに、見学などできるのだろうかと思いつつも、ひょっとしたら、厳
重な警護のもとで見学可能なのかと、ソロソロと建物の裏手にまわると・・・ライフ
ルを片手に、迷彩服の完全武装をした軍人さんが、すばやく反応。「やばい?」と、
本能的に踵を返しました。
後でガイドブックを読み直すと、観光モデルプランに、しっかりとワールド・ト
レードセンターが載っていました。
チャイナタウンでは、町をプラプラと歩くおじちゃんが、雨が降った途端に、傘売
り・アンブレラーに変身したり、冬季限定(賞味期限は限定なし)を発見したり、中
国人のたくましさを感じました。
摩天楼のそびえるマンハッタンの中央に位置し、緑豊かなスペースが広がり、オア
シスになっているセントラル・パーク。たまたま散歩道を歩いていると、夏の風物詩
と言われるシェークスピア劇が上演されていました。役者の白熱した演技に興奮して
飛びかかる犬や、視界の70%を占めていた目の前の男性同性愛者のカップルなど、
障害はあったものの、ニューヨーカーに混じって最後まで芝居を観ました。
最後の夜は、ニューヨーク在住の友達に、ダウンタウンの夜景が見えるレストラン
で、素晴らしいディナーをご馳走になりました。世界一の夜景、優雅なクラッシック
のBGM、豪華なテーブルセットに、洗練された料理。友人は、鮮やかなピンクのワ
ンピースに、真珠のネックレスを身に着けたお嬢様。そして、彼女の目の前には、血
で変色したシャツを着て、乾燥ワカメのような髪になっている私。私は、私を見ずに
すんだのが、せめてもの救いでした。
そして、次の日、ニューヨークに別れを告げ、バスで一路ミネソタへ向かいまし
た。
しかしまた、このバスが、大問題。大きな都市のバスターミナルごとに、一度下車し
て、リボーディング(再搭乗)をしなければならなかったのですが、再乗車するバス
は同じなので、荷物は車内に置いておくようにと指示がありました。
リボーディングの番号が書かれた紙を握り締めて、全身をアンテナのようにして注
意していると、小人のような、それはもう小さな小さな声で「・・・番の人、バスに
乗って下さい」と、係の人が搭乗を呼びかけました。
呼びかけの声が聞こえなかった人は?隣の人も、前のカップルも、見渡せば、車内に
ボコボコと空席が。しかも、荷物は残したまま。しかし、無情にもバスは出発しまし
た。そう。置き去りです。「まだ帰ってきていない人がいるんですが」と運転手に告
げても、「ほっとけ」の一言。
ニューヨーク出発時100%の搭乗率が、最初のリボーディングで、90%。次の
リボーディングで、80%。15分あるはずの休憩が、13分で出発。搭乗率
70%。乗客は、次々と置き去りにされていきます。バトル・ロワイヤル。
26時間のバスの旅を終え、愛しの我が家に帰ってきた時は、感無量。名犬ラッ
シーもすごいですが、よく私も生還する事ができました。
そして、すっかり汚れきったお財布の中には、700円。お見事。
ミネソタを遠く離れて:天国に一番近い旅(前編)
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.332
2004-08-31T12:53:30Z
2006-11-05T14:09:13Z
8月30日 街路の木々や家々の芝生の緑が濃くなり、湖の水面が陽光を反射してまぶし...
iwamoto
8月30日
街路の木々や家々の芝生の緑が濃くなり、湖の水面が陽光を反射してまぶしく輝く、
ミネソタの美しい夏。長い冬の間、家にこもっていた人々は、待っていたといわんば
かりに屋外に飛び出し、スポーツや日光浴、ピクニックやガーデニングなど短い夏を
存分に楽しみます。
しかし、6月17日。学校が二ヶ月の夏休みに入った私は、あえてその美しい夏のミ
ネソタをあとにして、「鉄のフライパン」とよばれる灼熱のスペインへと向かいまし
た。
というわけで、今回と次回は、番外編。少々長くなりますが、スペイン・イタリア・
(ニューヨーク)の旅におつきあい下さい。
さて、今にして思えば、飛行機で、後ろの席の子供が
「ママ!僕、今、神様が見えたよ!神様が見えた!」
などと叫んでいるのを聞いた時から、何か不吉な予感はしていました。
アメリカの某銀行のキャッシュカードを携行していた私は、スペインに着いた初日、
お金を “withdraw(①引き出す)”しようとしたのですが、暗証番号のせいか何な
のか、引き出すことが出来ませんでした。
アメリカに電話をしたり、パソコンで問い合わせてみたりと、あの手この手を試して
みましたが、うまくいきません。
予備で、多少のトラベラーズチェックは持参してはいたものの、到底、二ヶ月間の旅
費は補えません。焦りは募りました。
しかし、結果、“withdraw”に成功しました。いいえ、正しくは、「機械が」とつけ
加えるべきでしょう。
実は、“withdraw”には「②取り上げる」というイミもあり、私の目の前のキャッシ
ングマシーンは、「あなたのカードを回収します」”We withdraw your card”とい
う残酷なメッセージを残して、まるでそうめんのように、カードをチュルッと吸い込
んでしまったのです。
しばらくは、呆然と立ち尽くしたままで、開いた口からは、鳩が豆鉄砲のように、ポ
ンポンと飛び出していました。
クレジットカードではないので、再発行も無理との事。目の前が真っ白になって、あ
の瞬間、私にも神様が見えたような気がします。
結局は親に泣きすがり、一日3000円の旅費を送金してもらいました。
「一日3000円。結構な額じゃないか」と言われるかもしれませんが、一泊300
円、一食60円のアジアならばいざ知らず、ヨーロッパで、宿泊費、食費、交通費、
全て込みで一日3000円というのは、決して余裕のある額ではありません。しか
も、3000円というのは、上限であって、それ以下はあっても、それ以上はないの
です。
おおよそですが、宿泊費1800円、食費600円、交通費600円で生活していま
した。もちろん、交通費がもっとかかった場合は、食費が犠牲になります。
スペインでは、オスタルと呼ばれる一つ星のホテル、イタリアではユースホステルや
修道院を利用し、長距離を移動の際は、できる限り、夜行バスや夜行列車(もちろ
ん、寝台はありません)を利用していました。
スペインでは、英語が通じずに困ったこともありましたが、どの宿のオーナー・ス
タッフも苦笑しながらも、暖かくもてなしてくれました。
あるオスタルでは、黒柳徹子のようなヘア・スタイルのオーナー夫人のサービスが印
象的でした。彼女は、大腸菌も、ビフィズス菌も、とにかく体内の最近が全滅してし
まうような薬草茶を入れてくれたり、洗濯物も知らない間にベランダに干してくれる
といった信じられないサービスです。
私は、このオスタルを「湯屋」とよんでいました。洗濯物の神隠し。
イタリアのユースホステルも、郊外のヴィラや穀物倉庫などを改装したり、目の前が
ビーチだったりと、個性豊かでした。
年齢も関係なく、国を越えて色々な人にも出会えたのはよかったのですが、しかし、
厄介な人と同室だった事もあります。
あるホステルでは、おそらく東欧の難民かと思われる女性が居ついており、夜な夜な
騒いでは、壁をグウで殴っていたりして、怖い思いをしました。しかも、彼女のベッ
ドは私の隣。「隣の客は、夜、壁グウ客だ」などと、つまらない事を考えつつも、震
えながら寝ていました。
ヴェネチアでは、修道院を利用したのですが、ある尼さんは、たばこを吸う人を見つ
けては、度々、「こら!タバコなんぞ、海に捨てて、魚の餌にしてやりなさい!」と
お説教をしていました。
水質汚染は・・・とも思うのですが、「ヴェネチアの魚は、強いから大丈夫!」との
事です。勝手に太鼓判を押されてしまった魚達の運命や、如何に。ギョギョギョ。
また、サンジミニャーノの修道院では、「ジャポネー(日本人)は、神様を信じてい
るの?」と牧師様に問われた事もあります。私自身、大した宗教信念を持っていない
ので、右脳左脳が右往左往してしまいました。
右脳 「・・・ヤオヨロズの神?」
左脳 「そんな事、敬虔な牧師様に言っちゃダメだよ。」
私 「個人の考え方ですから、一概には言えません。」
右脳&左脳「ナイスな答え!」
牧師様「じゃあ、君は、何を信じているの?」
右脳 「・・・自分?」
左脳 「自分って、私たちほど当てにならないものは、ないよ。」
私 「生きていれば、明日は来る、でしょうか。」
右脳 「ねえ、これって、答えになってる?」
左脳 「とりあえず、嘘はついてない、けど。」
結局、「ジャポネーは強いな」みたいな事を言って、牧師様は、妙に納得されていま
したが、いいえ、違います。決して強くなどありません。
コンタクトレンズに、ミクロのゴミが入っただけでも泣きますし、第一、宿泊を断ら
れていたら、あの場で暴れていたでしょう。良いご意見があるお方は、イタリアに旅
行された際、訂正して下さい。
宿ですが、もちろん、シャワーのお湯が出なかったり、部屋が極端に不潔だった事も
ありました。たまに、「あー、いいホテルに泊まりたいな」と思う事も数知れず。
そんな時は、ガイドブックにある、高級ホテルの美しい写真や、説明文を読んでは、
宿欲(?)を満たしていました。
「木々に囲まれた、静かで気持ちのよい中庭が自慢。大理石のロビーも豪華で、ス
リッパやポットも用意された、優雅な客室に感激する事、間違いないでしょう・・
・」
傍からみると、単なる強欲でしかないのですが、本人としては、マッチ売りの少女が
降臨してくるような気分でした。ララララー。
さて、宿欲がそんな状態ですから、食欲は、推して知るべし。
レストランなどは、問題外。カフェを含む大衆食堂は、経験程度に5、6回。あと
は、町々のスーパーマーケットに駆け込んでいました。
牛乳とフルーツジュースと、ツナ缶、それにパンとビスケット。多少種類は違えど
も、いつも似たような品々を購入していました。
といっても、さすがにこれだけでは飽きるので、時々は、カウンターの安い惣菜を選
んでは買っていました。
しかし、これらの惣菜。イタリアの家庭料理の味を知るにはいいのですが、保存のた
めに、とにかく冷たいのが難点でした。
パスタもラザニャもグラタンも、キンキンに冷えています。ホワイトソース味、ある
いはトマトソース味のアイスクリームを食べているようなもの。あの場にドラエモン
がいたのならば、20世紀の道具、「電子レンジ」を間違いなく所望していたでしょ
う。
米料理も、あることにはあるのですが、全てサラダとして、です。言うまでもなく、
冷製。もちろん、レストランなどではリゾットなどとしてサーブされているとは思い
ますが、惣菜コーナーで見る米料理は、サラダ、サラダ、サラダ、サラダ。サラダ
じゃないのよ、ライスは、はっは〜ん・・・と誰かの声が、天から聞こえてきそうで
した。
と、ほぼ毎食が慎ましかったですから、イタリアの街角で売られている、モッツァ
レッラチーズが、熱々の糸をひくピザは、忘れられないほどに美味でした。あと、
肉、野菜、炭水化物がとれるということで、アラブ人と並んで、ケバブもよく食べま
した。
さて、しかし。食費は、ある程度節約できたとしても、限度があるのが交通費。特急
料金のかかる電車などはおいておくにしても、町から町への移動は、公共交通機関に
頼らざるを得ません。
ほぼ毎回、バス、列車共々遅れますし、雨が降ったというだけで、全日運休などとい
う、ハメハメハ大王様な列車もありました。バスのストライキに泣かされた事もあり
ます。しかし、どれだけ当てにならなくても、利用せざるを得ないのです。
そこで、せめて、街中の移動は、全て徒歩に決めました。今夜の宿が、町から7キロ
あると言われようと、荷物を背負って歩きましたし、「山上ケーブルからの眺めが最
高」とガイドブックにあれば、覚悟を決めて、登山を決行していました。
今回の旅で、トレド、グラナダ、ヴェローナ、ボローニャ、コモ、チンクエテッレ、
フィレンツェ、マテーラ、ナポリ、ローマと、数々の町を、上から一望しましたが、
「絶景 ←→ 高台+疲労」という、当たり前の公式を、足で実感しました。これだ
け高いところが好きだっということは、私の前世は、煙だったのでしょうか。・・・
それとも、おやおや?
それにしても、本当によく歩きました。一日に12時間も歩くと、健脚になるどころ
か、退行して二歳児、12時間以上になると、退化して、ペンギンのような足取りに
なっていました。
歩き始めは、小学生の頃の遠足やら何やらと考え事をしたり、鼻歌を歌ったりして、
自我を認識しているのですが、それも3時間もすれば、次第に自我が薄れていき、た
だ無心に「足を前に出す」ようになります。「ランナーズ・ハイ」なるものは経験し
たことありませんが、あれが「ウォーカーズ・ハイ」かもしれません。それとも、気
分は鬱々としていますから、「ウォーカーズ・ロウ」でしょうか。
このように、決して楽な道中ではありませんでしたが、私なりに、スペイン・イタリ
アという国をよく見、よく感じる事は出来たと思います。
両国とも、町の至る所、あるいは町全体に、古代・中世の面影が残っていて、石畳の
上を歩くだけでも、歴史の重みを感じずにはいれませんでした。さすがヨーロッパ。
スペインでは、質素で無骨な概観とは裏腹に、屋内にはアラブ風のモザイク・タイル
が美しい中庭があり、そこで涼がとれるようになっていました。外見ではなく、中身
で勝負、といったところでしょうか。ちなみに、建物自体が石造りなので、クーラー
はなくても、充分に涼しいです。
これが南下し、赤茶けた大地、灌木の生える丘、ひまわり畑を抜けて、アンダルシア
地方に入ると、真っ白に輝く家々が目に付くようになります。黒目も白目になる程ま
ぶしいので、サングラス必携。
別名「鉄のフライパン」のスペインが、強火でガンガン焼かれる、午後1時頃から午
後5時頃まで、人々はこの涼しい家に戻って、シエスタと呼ばれるお昼休みをとりま
す。
朝も早い5時頃から、夜の9時頃まで明るいのですから、当然といえば当然の習慣な
のですが、旅行者にとっては、このシエスタが曲者。オスタルからは追い出されてし
まいますし、お店もシエスタ中。教会までシエスタに入ってしまうので、たまりませ
ん。
もはや、観光できなくなり、「観光客」の肩書きさえ失ってしまった人々は、広場の
ベンチや階段に座り、ひたすらシエスタが終わるのを待ちます。・・・といっても、
優雅な人々は、この時がカフェ・タイムなのでしょう。
イタリアでも、お昼の休憩はありましたが、時間は短く、せいぜい3時間程度でし
た。
そして、イタリアの建物はというと、重厚感があふれており、スペインに比べると、
随分と装飾も派手になります。
色とりどりの大理石の幾何学模様で飾られた大聖堂や、何本もの尖塔が延びているゴ
シックの建物などを見ていると、感嘆のため息が出ました。
しかし、あまりにも装飾が派手になると、やりすぎの感が強くなり、壁から天使や聖
人の顔だけがニョキニョキと突き出たりしているのを見るたびに、エドガー・ラン
ポーの「黒猫」が脳裏に浮かびました。
そして、町々の、歴史ある石造りの建物に軒を連ねる、グッチ、ブルガリ、アルマー
ニ、フェンディなどの有名ブランドの数々。イタリアン・ファッションの威厳に圧倒
されてしまいました。
日本の歴史ある建物に、これらのブランドがディスプレイされたとしても、ミスマッ
チ極まりないでしょうから、これもやはりイタリアならではの光景なのでしょう。武
家屋敷とルイ・ヴィトン・・・見ようによっては合わなくもないですが、藁葺き屋根
の家屋の土間に、フェラガモの靴が並ぶのは、明らかにルール違反です。
店に並ぶ服が洒落ているならば、当然、道行く人々もオシャレです。一年間、ミネソ
タに住んで、LサイズのTシャツ、トレーナー、ジーパン、スニーカーのバリューセッ
トに目が慣れてきていた私には、新鮮に映りました。
ミネソタの悪口を言うつもりはありません。確かに、気取らない服を着ている方が気
楽ですし。
ただ、やっぱり、「ミネソタ」というロゴが入った服を、堂々と着るのはどうかなと
思います。少なくとも、地元の神戸では、「兵」「庫」「県」と、一文字一文字が拳
サイズにプリントされた服を、街中で見たことはありません。
と言っても、こんな偉そうに書いている私自身が、旅行中、360度どのアングルか
ら見ようと、ファッショナブルという言葉からは程遠かったのですが。
ウエストポーチに、ダボッと着たシャツがかぶさっていましたから、妊婦さんと間違
われて、気遣われたこともあります。向こうが勝手に勘違いをしたのですが、まさか
シャツをめくり上げて、「実はウエストポーチなんでーす」というわけにもいきませ
んから、そういう時は、怪しい薄ら笑いを浮かべながら、ソソクサと逃げていまし
た。
しかし、おかげで(?)スリにあわなかったのも、また事実。「機能性を重視した」
というのは、単なる言い逃れでしょうか。
ところで、その「機能性」ですが、今回は、本当に必要な物以外は、持っていきませ
んでした。キャッシングカードは、本当に必要だったのですが、それはさておき。
おかげで、リュックサックに全て荷物を収める事ができて、移動が大変楽でした。
バックパックだったら、あそこまで歩くのは、無理だったに違いありません。「バッ
クパッカー」ならぬ、「リュックサッカー」。個人旅行は、身軽が一番です。
2ヶ月もヨーロッパにいて、その上、身軽ときたら、さぞかし多くの都市や村を巡っ
たと思われるかもしれませんが、それとこれとは別問題。お財布の中身も、極端に実
軽でしたから、一日観光を含め、結局20前後にとどまりました。
次回は、それら各町についてコメントを書いてみたいと思います。
Kiss attain で never end
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.331
2004-06-09T00:20:15Z
2006-11-05T14:09:13Z
6月8日 「†起立」→「†礼」→「†着席」 日本語の授業は、元気な生徒の号令で始...
uchida
6月8日
「①起立」→「②礼」→「③着席」
日本語の授業は、元気な生徒の号令で始まります。
号令係は、猿山のボスのような気分を得ることができるのでしょう、小学生にとって
の花形=放送委員会のように、どのクラスの号令係も、大変、得意げです。
ちなみに、私はというと、チョークの粉にまみれながら、黒板に絵を描き、誰かがそ
の上に落書きする度に、一人で憤慨しなければならないという、広報委員会に所属し
ており、日々、地味に活動しておりました。
さて、この号令、なかなか規律正しくて良いのですが、どうも生徒には、
「①Carrots キャロッツ」→「②Rain レイン」→「③Cheese steak チーズ・ス
テイク」
と聞こえるようで、
「①にんじん」→「②雨」→「③チーズ・ステーキ」
と、彼等の頭の中では、何とも難解な暗号のような号令になっています。
いきなり余談になってしまいますが、以前、沖縄サミットのテーマ曲にもなった、安
室奈美恵の“Never End”(ネバーエンド)という曲を、生徒に聞かせた時のことで
す。
― Never End Never End 私たちの未来は
Never End Never End 私たちの明日は
ファンタジー 夢を見る 誰でも夢を見る
Never End Never End・・・(×14回)
これが原曲の一部抜粋なのですが、この“Never End”という、最も肝心な台詞が、
どうも生徒には理解できなかったようなので、尋ねてみますと、「先生、この歌は、
レモネードの歌ですか?」という質問が返ってきました。
すなわち、彼等の頭の中では、“Never End”が「レモネード」に変換されており、
― レモネード レモネード 私たちの未来は
レモネード レモネード 私たちの明日は
ファンタジー 夢を見る 誰でも夢を見る
レモネード レモネード・・・(×14回)
だったというわけです。
レモネードが別段嫌いなわけではないのですが、私の未来はレモネード、明日も明後
日もレモネード、毎晩毎晩、レモネードを夢見るというのも、悲しい話です。
さて、レモネードの世界から話しを戻して、日本語の授業ですが、私は、4レベルの
計6クラスの日本語の授業を受け持っています。
一時間目:日本語3 (7:35~8:25)
二時間目:日本語4 (8:35~9:20)
三時間目:日本語2(A) (9:25~10:15)
四時間目:日本語1(A) (10:20~11:10)
五時間目:日本語1(B) (11:15~12:35)・・35分の昼休憩のた
め、授業は、一時中断。
(六時間目:授業準備。唯一の、息抜きの時間)
七時間目:日本語2(B) (1:35~2:25)
たまにホームカミングなどの学校行事で、時間帯が変わることはあっても、上記の時
間割が変わることはありません。
朝礼もなければ、ホームルームもありません。大学の授業システムと同じで、生徒
は、始業時間にそれぞれの教室に行き、就業時間になると、蜘蛛の子のように散って
ゆくのです。
廊下の端に立つと、校内でも地平線が見えそうなほど、校舎が広いにも関わらず、教
室の移動時間は、たったの5分間しかありませんから、生徒も大変です。授業修了の
ブザーが鳴ると同時に、葱ならぬ、巨大な鞄を背負って、次から次の教室へと渡りを
開始します。
そして、そこに何の意図があるかは分からないのですが、移動時間には、BGMが流れ
ます。
選曲はというと、モーツァルトやウェスタン・ミュージックから、マドンナやブリト
ニー・スピアーズまでと、多岐にわたっています。
天気のいい日の午後に、ボサノバでもかかれば、気分がいいのでしょうが、毎日そう
うまくはいきません。
ある日、真冬の薄暗い曇天の中、一時間目が終わった直後に、チャーチャラララ
チャーララーと「瀕死の白鳥」の短調メロディーが流れた時など、それこそ変身前の
醜いアヒルの子のような気分になりました。
そして、広い校舎を西から東へ、北から南へと大移動を終えたゲルマン人ですが、時
には、お手洗いに行くのもままならなかった、といううっかり者もいます。
このように、お手洗いや保健室、図書館などに行く場合には、教師からホールパスと
いう許可証をもらわなければなりません。
ホールパスには、日付と生徒の名前、退出時間と行き先、それに教師のサインが必要
です。
というのも、廊下には、トランシーバーを手にした、数人のセキュリティーのスタッ
フが巡回しており、彼等は、廊下を蠅のようにブーンブンとさまよっている生徒を、
宮本武蔵の箸並みのスピードで捕獲するからです。
しかし、ホールパスさえ持っていれば、誰にもとがめられずに、廊下を往来できま
す。生徒にとっては、魔法のパスといえるでしょう。
さて、日本語の授業は、基本的に、どのレベルも、月・火・水曜日に新しいことを学
習し、木曜日に復習、そして金曜日にテストというスケジュールにしています。そし
て、テスト後に時間が余れば、ビデオを観たり、ゲームをしたりしています。
基本的に、日本語の生徒の学習意欲は、非常に高いので、とても助かっています。も
ちろん、テストやワークシートの宿題というと、ブーブーと文句は出ますが。サンタ
のおじいさんや、「政府から、新しい仕事が入った」とFBIのふりをするなど、ワー
クシートを配るのも、なかなか大変です。
しかし、ありがたいことに、机に伏して寝る生徒など、ただの一人もいませんし、覚
えるかどうかは別にしても、新出単語が出てくると、皆、興味津々です。
擬声語や擬態語、英語からの借用語、それに発音が英語に近い単語などが面白いらし
く、
・「おなかがペコペコです。」(日本語1)
・「コンピューター」(日本語1)
・「まいしゅう(毎週)」*マイ・シュー(=私の靴) (日本語2)
・「きっさてん(喫茶店)」*Kiss attain (=キスを獲得する) (日本語2)
・「ばたばた する」(日本語3)
・「ポテトチップス」 (日本語3)
・「パトカー」(こちらでは、ポリス・カー)(日本語3)
など、大喜びです。それは、母親に「あれ、なあに?」と尋ねて、「あれは、ワンワ
ンよ」と教えられると、「ワンワン・ワンワン!」と繰り返す幼稚園児を、どこか思
わせます。
こちらの教育制度では、長い夏休みが明けた9月に、入学・進級となっており、6月
の半ばに学年末を迎えます。
というわけで、今はちょうど期末テストの期間になるわけですが、テスト至上主義の
日本と違い、日ごろの出席状況、授業中の態度、宿題やレポートの提出回数などに、
テストの成績が加味されて、全体的な評価が下されるため、期末テストといっても、
日本ほど重要視はされていません。
逆を言えば、一夜で漬けられた、浅漬けのごときテスト勉強だけでは、よい成績をと
ることはできないということです。
ちなみに、日本語の授業の成績評価は、他の授業と比較すると、それほど厳しくはあ
りません。ワークシートを提出して、たとえ毎週のテストの点数が悪くても、追試を
受ければ、点数を稼ぐこともできます。パーセント(%)計算の、絶対評価で成績が
でますから、クラスメートと争うということもありませんし。
にも関らず、ひたすら宿題をコレクターのようにためこんで、学期末ギリギリになっ
て、大慌てでとりかかるという生徒も、大勢います。実際、今、私の目の前には、宿
題がマウント・フジになっています。
もっとも、日本でも、夏休みの宿題の日記を8月31日に書く小学生は珍しくありま
せんから、別にアメリカの生徒がどうというわけではありません。
ただ、7月中に8月中の毎日を予期して日記を書き、これまた7月のある一日のうち
にに、ヘチマまであろうが、朝顔であろうが、謎の成長を遂げさせて、「観察日記
(出典:百科事典)」を書いていた私としては、崖淵にくるまで動き出さない生徒を
みていると、どうも不安になります。
そういえば、広報委員会でも、私は、月の四週目に入ると、来月の絵を描いていまし
た。5月で外はポカポカと陽気なのに、ジメジメと梅雨の絵を描いたりしていました
から、ひょっとすると、顰蹙をかっていたかもしれませんが。
おそらく、世の中に出回っている雑誌の編集長も、私のようなタイプに違いありませ
ん。
「賭好き」ならぬ、「崖好き」の生徒のような編集長であれば、それこそ6月号の出
版月日が、6月31日になって、「あれ?そんな日あったっけ?」ということになり
かねません。
さて、ワークシートのチェックをしたり、テストの採点をしていると、それこそ山と
いうほど、思いもよらない珍解答に出くわします。
今回は一例だけあげてみますと、
「わたし の おばあさん は さしみ が すきです。」(日本語1)
これが、正解文なのですが、ある生徒の解答は、助詞の「の」と「は」が入れ替わ
り、
「わたし は おばあさん の さしみ が すきです。」となっていました。
おばあさんの調理した刺身が大好きなのか、はたまた新鮮コリコリの刺身よりは、弾
力のない刺身の方が好きなのか、そもそも刺身を食べる際に、魚の性別を考えるもの
なのか、などといろいろ考えさせられてしまいました。
きっと、マウント・フジの中からも、純度・24カラットの珍解答を、数多く産出す
ることが出来るに違いありません。
パッション見てきました(松下正己)
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.330
2004-05-13T15:11:38Z
2006-11-05T14:09:12Z
世界的に何かと話題になっている『パッション』を観てまいりました。 イエス最後...
uchida
世界的に何かと話題になっている『パッション』を観てまいりました。
イエス最後の12時間を描いたというこの作品の「見どころ」は、何といってもローマ兵によるイエスの拷問と、十字架を担いでのイエスの道行きでしょう。このシークェンスの長いこと長いこと。その後、ゴルゴタの丘に着いてから十字架にかけられるまでの手順も、執拗に描写されます。
あまりにもバランスを欠いたこの構成は、一体何なのでしょうか。大工時代のイエス、山上の垂訓、マグダラのマリアの挿話、最後の晩餐などは、イエスの回想という不自然なかたちで、ほんの僅かのショットしか出てきません。
鈎爪のついた鎖状の鞭によって、イエスの身体がぼろぼろになっていく過程を観続けることは、確かに信者にとってはショッキングな体験といえるでしょう。イエスが原罪の全てを引き受けているまさしくその場に立ち会っているようなものなのですから。そして、イエスに対するこの惨い仕打ちは、まだまだ延々と続くのです。
しかしそのイエスは「神の子」として、非キリスト教徒に対しての一切の感情移入と投射=同一化を拒否し続けます。非キリスト教徒の観客は、ただこの暴力を傍観するしかなく、同一化の対象は、ごく自然に母マリアの方に移ります。
マリアの、十字架にかけられるわが子に対する感情の激しさは、圧倒的にリアルです。地面に広がる拷問を受けたイエスの血の跡を拭く姿、十字架の道行きを必死に追いかける姿、ゴルゴタの丘でわが子の苦悶する様子を小石を両手一杯に握りしめつつ凝視する姿、そして、十字架から降ろされたイエスの傍らで私たち観客に視線を向けたまま身じろぎもしないマリアの姿に、私たちは圧倒されてしまいます。
数々の奇跡を起こし、最後には復活してしまう(常人ではない)イエスではなく、感情に満ちあふれたマリアこそが、この映画の主人公だといえるでしょう。
そしてこのマリアは、紀元431年エフェソの公会議で崇拝の対象と定められた「神の運び手」でもなければ、1854年、時の教皇ピウス九世によって原罪から解放された「聖母」でもなく、貶められ暴行された上で殺害されるわが子を、成す術もなく見守ることしかできない、ひとりの母親としてのマリアなのです。
今日に至るまで、ファティマを始め世界中で目撃されている聖母マリアは、その実在性すら疑わしいのですが、この映画のマリアは、確かに(私たち観客と共に)映画内世界を生きていたように思われます。
朝がまた来る
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.329
2004-05-12T01:39:55Z
2006-11-05T14:09:12Z
5月11日 少し前、某歌手のカバーにより、再び脚光をあびた童謡、「大きな古時計」...
uchida
5月11日
少し前、某歌手のカバーにより、再び脚光をあびた童謡、「大きな古時計」。
今はもう動かない~のフレーズあたりで、目頭が熱くなるという人も、大勢いるので
はないかと思います。私も例に洩れず、我が家では決して見たことのない、立派な木
製の時計を想像しては、切なくなっていました。
しかし、本当に哀れなのは、某翁の古時計ではなく、私達が日常で使っている、目覚
まし時計ではないでしょうか。
毎朝、健気に働き、多くの人々を助けているにも関わらず、「うるさい」と罵られ、
挙句の果てには、殴る蹴るの暴行です。もしも、この器械が口をきくことができたな
ら、「愛の目覚まし・ホットライン(フリーダイヤル)」が開設されていたことで
しょう。
日本にいた時は、かくいう私も、暴力主人だったのですが、こちらに来てからは、二
匹の目覚ましと、それは幸せに暮らしています。
もちろん、朝6時の起床なので、二度寝の誘惑がないわけではないのですが、二度寝
をしてしまうと、それが三度寝になり、三度寝が四度寝になり、五度寝、六度寝、・
・・マタネということになりかねないので、鉄腕アトムならぬ、鉄腕アラームの声に
耳を傾け、根性を入れて起きています。おはようございます!
・・などと、目覚めについて、いかにも爽やかに書いてしまいましたが、実際の私
は、爽やかさとは三千里かけはなれた姿をしています。
髪はライブ会場のごとくに盛り上がり、眉毛は平安時代の姫君、それに仏様もびっく
りの仏頂面ですから、鏡の中の私は、さながらランウェイのスーパーモデルです。
(首から上に限る)
そして、テレビのニュースや天気予報を見ながら、生徒との格闘に備えて、朝食を
しっかりと食べます。その量、モデル契約即打ち切りです。
7時、契約を打ち切られた私は、身支度を整えて、普通の人となって学校へ向かいま
す。
さて。日本語の授業をとっている生徒は、およそ60人ほどで、生徒人数が1500
人を超えるヘンリーシブリー高校全体から見ると少ないのですが、それでも、ちょく
ちょくと校内で彼等とすれ違います。
というわけで、朝、学校に着いた瞬間から、生徒に会うので、気がぬけません。
少しでも日米友好に役立とうと、「おはようございます。」と、それこそ開店直後の
百貨店の販売員のように、ペコちゃん顔負けのスマイルで挨拶をします。
すると、よくしたもので、よほどシャイな子でない限り、「おはようございます、先
生。」と、挨拶オリンピック・金メダル級の返答をしてくれます。
あまり勉強をしない生徒も、「おはようございます、先生。」と「さようなら、先
生。」だけは、きちんと習得していて、これは、RPG(テレビゲーム)でいえば、一
番最初の回復呪文のようなものです。ホイミ!
オフィスに着くと、細々とした仕事を片付けたり、その日の授業教案を、もう一度見
直したりします。
そして、オフィスのすぐ裏にある教室へ向かいます。オフィスにも教室にも窓はない
のですが、そのかわりに、廊下一面がガラス張りになっているので、オフィスと教室
を往復する度に、広々としたパノラマを楽しむことができます。
冬は、雲と雪に覆われているものの、それ以外の季節には、青々とした芝生の上に、
雁が群れていたりなどして、思わず外に飛び出したくなります。
しかし、もちろん現実には、学校から飛び出すわけにもいかないので、「軍隊行進
曲」を頭の中で歌いながら、朝から何やら騒がしい教室に入場します。タッタララー
ラー。
先回、「帰宅部」について書きましたが、朝になると今度は、宅から帰ってきた「帰
宅部」メンバーが教室に集まっているのです。
忙しい朝にわざわざ来なくても・・・とも思うのですが、もしも教室に鍵がかかって
いようものなら、雛鳥のごとくいじらしく、ドアの前で、私(=鍵)が来るのを待っ
ているので、彼等の中では、きっと大切な日課になっているのでしょう。
ちなみに、教室の広さというと、縦横に二回、そして対角線に2√2回、デングリ返
りができるぐらいの広さで、ちょうど公園の砂場を思わせます。
しかし、小学校前の幼児ならばともかく、米国のビバリーヒルズな高校生にとって
は、砂場というのは、明らかにスペース不足で、「クローゼットみたい」と愚痴をこ
ぼす生徒もたまにいます。
「押入れ教室」と聞くと、何やら虐待でも行われていそうな暗い響きがありますが、
かの有名なネコ型ロボットでさえ、押入れを愛用しているのですから、愚痴などこぼ
さないでほしいものです。
教室の壁には、日本から持参した日本の景色や浮世絵、絵葉書やポスターなどが所狭
しと貼り付けられています。
私自身は、ゴチャゴチャとした飾り付けは、あまり好きではないのですが、暇がある
と、それらに見入っている生徒もいるので、教育上、何かしら効果があると思われま
す。
といっても、教室の一角のアニメコーナーに、一番人気があるのは、間違いないので
すが。こちらでは、「ドラゴンボールZ」や「ガンダム」、「犬夜叉」や宮崎アニメ
など、とにかく日本のアニメが大流行なのです。中でも、「ポケットモンスター」の
全キャラ掲載のポスターには、強い磁力があるようで、ピカチュウやライチュウに、
皆ムチュウです。
そして、7時35分。一時間目の生徒たちが、ドアに垂れ下がっている暖簾に、顔を
真正面から衝突させながら、教室に次々と入場してきます。彼等が、ジャパニーズカ
ルチャーに馴染むのは、まだまだ先のようです。
ヤベッチの華麗な放課後
tag:nagaya.tatsuru.com,2004:/yabe//11.328
2004-04-17T11:23:44Z
2006-11-05T14:09:12Z
4月15日 午後2時25分。 サスペンス・ドラマの再放送が終了し、空になったおか...
uchida
4月15日
午後2時25分。
サスペンス・ドラマの再放送が終了し、空になったおかきの袋を手に、おば様方がヤ
レヤレと立ち上がる時間、ヘンリーシブリー高校に終業ベルが鳴り響き、一日の授業
が終わります。
学校生活については、少々長くなるので、次回以降にして、今回は、学校が終わった
後の、私の生活について書いてみましょう。
授業が終わると、ほとんどの生徒が、スクールバスに乗って家に直帰するのですが、
放課後の課外活動に参加している生徒は、それぞれのアクティビティーに向かいま
す。こちらの学校の課外活動は、季節ごと、あるいは学期ごとの登録制なので、日本
のクラブとは、多少違っています。
さて、放課後の私はというと、元気溢れんばかりの高校生たちを相手に、6時間の授
業を終えた後なので、すっかり気の抜けた炭酸ジュースのようになっています。シュ
ワワワワ。
しかし、気の抜けた炭酸ジュースにも、幾分、糖分が残っているのか、スクールバス
にも乗らず、かといって課外活動にも参加しない数名の生徒が、アリのように日本語
の教室に集まってきます。
文字通りハニワと化した教師に、何を期待するのかは分かりませんが、とにかく毎日
毎日、義務のようにやって来ます。
彼等は、ドラゴンボールZからプレジデント・ブッシュの話にいたるまで、世間話に
大輪の花を咲かせ、それらに飽きると、腕相撲やプロレスごっこなどをして、昭和時
代の小学生のようにじゃれあいます。
また、教室の前面にあるホワイトボードには、何かしら生徒を刺激するものがあるら
しく、マーカーを手にした生徒は、落書きの衝動を抑えることが出来ずに、ホワイト
ボード中毒者と成り果てます。
ちなみに、その間の私はというと、無邪気にはしゃぐ生徒に目を細めたり、邪鬼のご
とくはしゃぐ生徒に目を光らせたりしながら、テストの採点や課題のチェック、それ
に成績管理といった雑務に追われています。
日本からの留学生もいるので、立派に文化交流の場として役立っているとは思うので
すが、どうも鉤括弧つきの「帰宅部」の顧問のような気がしてなりません。
そして、5時。立派に活動を全うした「帰宅部」所属の生徒は、正規の(?)課外活
動の生徒のためのバスに乗って、それぞれの家に帰っていきます。
さて、賑やかな生徒達が帰ると、校内は静寂に包まれ、聞こえる音といえば、遠くの
掃除機の音のみになります。(こちらは、カストディアンと呼ばれる、お掃除のおじ
さん達に、学校の清掃が一任されています。)
お茶を飲んで一息つき、ようやくこの時間から、教案の用意やテスト作成を始めま
す。
ヘンリーシブリー高校の建築家は、もともと監獄の設計をしていたそうなので、窓も
ない、小さなオフィスに鬱々とこもっていると、さながらジャン・ヴァルジャンのよ
うな気分になります。
教案の用意やテスト作成も、毎日4レベル分(日本語1、2、3、4の計4レベルの
授業を受け持っています)となると、どうしても時間がかかってしまうのですが、最
近は、残りを週末にまわして、7時30分には、切り上げるようにしています。ちな
みに、冬は、駐車場で氷漬けになっている、車の解凍作業が、もれなくついてきま
す。レ・ミゼラブル。
家に帰ると、ビデオの早送りのような猛スピードで、夕飯の用意をして、テレビを見
ながら、夕飯を食べます。本来ならば、ここが一番リラックスする時間だと思うので
すが、とにかく英語を理解をしないことには、バラエティーであろうとコメディーで
あろうと、笑うことさえできないので、テレビの前で、眉をしかめつつ、古畑任三郎
と化しています。
食後、少しでも気をぬくと、古畑氏自身が、眠れる死体となって、床に横たわりそう
になるのですが、全身の細胞を奮い起こして、1時間ほど、体力づくりのための運動
にでかけます。
春と夏は、午後9時頃まで外が明るいので、ノコミス湖という湖の周りをウォーキン
グします。湖の見晴らしは素晴らしく、風もとても気持ちがいいので、ここは、本当
に絶好のウォーキングコースです。
自己陶酔しながら鼻歌を歌い、前を歩く人を追い抜かしては、勝手に勝利した気分に
なったりして、他人様に大迷惑をかけながら歩いていると、あっという間に、一時間
は過ぎてしまいます。
時には、童心に返って、何百といる巨大なリス達と、鬼ごっこをしたりもするのです
が、彼らが鬼になってくれるわけもないので、アジア人がリスを蹴散らしている、と
いった方が正しいのかもしれません。
冬の散歩は、以前、惨歩になったことがあるので、君子寒きに近寄らず、建物の中で
平和に過ごします。幸いなことに、アパートには、プールがあるので、こちらを利用
していました。
このプール、大して広さはないのですが、フランケンシュタインでも溺れる程に深い
ので、充分に体を動かすことができます。ただ、アパートから、プールまで、
200mも屋外を歩かねばならないので、冬は、せっかく水泳でほぐれた体も、一瞬
にして固まってしまいます。
短い髪がツンツンと凍り、顔は青白く、目は半眼ですから、いささかオリエンタル色
が濃いにしても、まさに、東洋のフランケンシュタインです。ああ、無情。
運動後、ようやく就寝準備に入るのですが、思考能力が低下しているので、時々、小
さな悲劇が起こります。
塩粒入りの歯磨き粉で洗顔にトライした時は、非常に辛かったです。「オオオオー」
という、日本語とも英語とも分からぬ悲鳴があがりました。あまりにも刺激が強すぎ
て、毛穴がヒキシマルどころか、ヒキガエルのような斑点が、できてしまいました。
たいていの場合は、笑い話ですむのですが、たまに笑うに笑えない失敗を犯すことが
あります。
それは、二月のある木曜日でした。
夜中、ふと喉の渇きを覚えた私は、牛乳を飲もうと、冷蔵庫へ行きました。普段か
ら、牛乳は、常に2パックをきらさずにしているのですが、しかし・・・何故か、そ
こには、3つの牛乳パックが。
「何だか、おかしい」
コンマ1秒後、何食わぬ顔をしている右端のパックが、衣服用の洗剤パックであるこ
とを発見し、命をかけた間違い探しに勝利しました。
以上、大小様々な事件をのりこえて、午後11時頃 —日本では、午後2時、ちょう
どサスペンスドラマが佳境に入り、おかきも残り三枚という頃— 、ようやく私の睡
眠権は認められ、長い一日は、静かに幕を閉じます。